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2020年5月24日 (日)

復活節第七主日・主の昇天@東京カテドラル

復活節第七の主日は、日本を初め多くの国で、その前の木曜日の「主の昇天」を、この日曜に移動させて祝います。復活節も終わりに近づき、来週は聖霊降臨の主日となりました。

公開ミサを四旬節第一主日から非公開として、だいぶ時間が経ちました。その間には、政府による緊急事態宣言もあり、社会全体が立ち止まっているように感じます。教会も集まることができなくなり、ミサを通じて神の言葉をいただき、聖体の秘跡に共にあずかることができなくなっています。共同体としての一致を求める教会は、いま、あらためてその存在の意味を共に見つめ直し、これからの教会共同体の姿を模索する時を与えられています。よりふさわしい道を見いだすことができるように、聖霊の導きを願いましょう。

なおみなさまご承知の通り、緊急事態宣言の解除は、そのままで安全宣言ではありません。従って、東京教区を構成する東京都と千葉県を対象とした緊急事態宣言が解除されたからといって、即座に教会活動を再開させることはできません。政府は現在、明日25日の解除を検討中とうかがっていますが、その翌日に教区としての今後についてお知らせします。また東京都の「ロードマップ」の各ステップにおける集会の人数制限もありますので、教会にとっても難しい選択が待ち構えています。なお、その後の教会活動については、すでに教区としての検討は終わり、4月30日に司祭に伝達して、それぞれの小教区での具体的な対応の検討を始めていただいています。教区としての大枠であるガイドラインも、時期を見計らって公示いたしますが、それに基づいて今後示されることになるであろう、それぞれの主任司祭と小教区の役員の方々の判断に、どうかご協力くださるようにお願いいたします。

以下、本日の配信ミサの説教原稿です。

復活節第七主日・主の昇天
東京カテドラル聖マリア大聖堂(配信ミサ)
2020年5月24日

「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか」

新しいいのちへと復活された主イエスは、40日にわたって弟子たちとともにおられ、神の国について教え、地の果てに至るまで、イエスの証し人となるようにと命じられた後に、天にあげられたと、使徒言行録の冒頭に記されています。

十字架上での死によって、主が取り去られてしまった弟子たちは、大きな絶望を味わったことでしょう。神の国の実現という、将来に向けての具体的な目的が潰えてしまったからです。しかし主は復活されて現れ、あらためて弟子たちを力づけられた。弟子たちには再び希望が芽生えます。「イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」という問いかけに、あらためて将来に向けて生きる目的を見いだした弟子たちの希望が表されています。

しかし、主は再び自分たちから離れて行かれた。弟子たちは呆然として、天を見上げて立ちすくんでいたことでしょう。手にしかけた希望を、あらためて奪われてしまったのです。

その茫然自失の状態で立ち尽くす弟子たちに、天使は希望の言葉を告げます。
「天に行かれるのをあなた方が見たのと同じ有様で、またおいでになる」

困難な状況の中にあるわたしたちは、感染予防のために続けてきた活動の自粛の出口を、かろうじて見通すことができるようになってきました。感染には波があると指摘されており、まだまだ油断することはできませんが、当初の頃に較べれば、そこには光が見えつつあり、希望を感じ取ることができます。希望は人を生かします。希望は不安を打ち砕き、行動へと駆り立てる勇気を与えます。希望は、守りに入って自分だけを見つめる目を、助けを必要とする他者へと開きます。

この希望への道を切り開いてくださっている医療関係者の努力に、あらためて感謝すると共に、病床にある方々の一日も早い回復を心から祈ります。

「あなたの教区の希望は何ですか」
司教になって初めての定期訪問アド・リミナで2007年にローマを訪れたとき、当時の教皇ベネディクト十六世との個別謁見で、そう尋ねられました。「教区の将来への不安」であればいくらでも並べることができますが、希望はなかなか思いつかず、考え込んだことを記憶しています。

信仰・希望・愛の三つの徳を重要なテーマとされ深めたベネディクト十六世は、希望についてしばしば語り、わたしたちの信仰とは希望であると断言されます。

回勅「希望による救い」で、テサロニケの信徒へあてたパウロの言葉を引用した上で、教皇はこう述べています。
「(当時の)キリスト信者は、将来自分たちを待ち受けていることを正確に知っていたわけではありませんでした。けれども彼らは、いかなる人生も無で終わるのでないことを知っていたのです。未来が積極的な現実として確実に存在するとき、初めて現在を生きることも可能になります」(2)

その上で、その人生に希望をもたらす、イエスの福音とは何なのかを、次のように続けます。
「福音は、あることを伝達して、知らせるだけではありません。福音は、あることを引き起こし、生活を変えるような伝達行為なのです。時間、すなわち未来の未知の扉が開かれます。希望を持つ人は生き方が変わります。新しいいのちのたまものを与えられるからです」(2)

いま、わたしたちは、困難な状況を克服しようと努めていますが、その道程にあって、どのような希望を求めているのでしょうか。どのような未来を実現しようとしているのでしょうか。そのためにどのような生き方を選び取ろうとしているのでしょうか。

マタイ福音に記されたイエスご自身の言葉は、わたしたちの生きる希望です。
「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」

様々な困難に直面し、人間という存在の弱さと小ささを自覚させられるときに、それでもわたしたちは見捨てられることはない。いつまでも共にいてくださる主が、未来に向かって歩みを共にしてくださる。わたしたちは、この約束の言葉に、生きる希望を見いだします。

いのちの危機という困難を克服しようとしている今、世界に必要なのは希望です。希望は過去にはなく、これから進み行く未来にあります。過去に夢を見て戻ろうとするところに、真の希望はありません。苦しみのその先にある未知の扉を開き、希望を生み出すために、わたしたちはいったいどこに向かって、どう生きていけば良いのか。

その鍵は、教会がこれまでたびたび指摘してきた「連帯」にあります。

ベネディクト十六世は、「救いへの希望」で、こう述べています。
「わたしだけの希望は、真の希望ではありません。それは他の人を忘れ、ないがしろにするからです」(28)

困難な状況の中でいのちの危機に直面している世界は、この数ヶ月の間、いのちを守るためには連帯しなければならないことを心に感じ取っています。同時に、身を守ろうとするあまり利己的になり、名ばかりの連帯で、関係性にあって攻撃的な言動も見られます。攻撃性は、社会にあっては差別的言動も生み出しています。そこに希望は見いだせません。

わたしたちは真の希望を求めています。いのちの希望を求めています。救いへの希望を求めています。その希望は、「わたしだけの希望」では、「真の希望では」ない。「他の人を忘れ、ないがしろにする」希望は、真の希望ではない。真の希望は、共有する希望です。互いを思いやり支え合うきずなの中で、共にいのちを守るために連帯するとき、世界ははじめて生きる希望を生み出すことができます。

教皇ヨハネパウロ二世は、連帯の重要性も強調された教皇ですが、回勅「真の開発とは」に、連帯の意味をこう記しています。
「(連帯とは)至るところに存在する無数の人々の不幸、災いに対する曖昧な同情の念でもなければ、浅薄な形ばかりの悲痛の思いでもありません。むしろそれは、確固とした決意であり、共通善に向かって、すなわちわたしたちは、すべての人々に対して重い責任を負うがゆえに、個々の人間の善に向かい、人類全体の善に向かって自らをかけて、共通善のために働くべきであるとする堅固な決断なのです」(38)

わたしたちは、単なる優しさに基づいた行動としての連帯を目指してはいません。わたしたちの目指す連帯は、自分の利益のためではなく、すべての人の善益のためであり、互いに関心を寄せ合い、思いやり、支え合い、互いを忘れることなく、一致を目指す連帯です。わたしたちと常に共にいてくださる主イエスの存在を確信させるため、その言葉と行いを具体的にあかしする行動です。真の希望を生み出すため、共通の家を互いに守り、誰ひとりとして排除されることのない世界を生み出そうとする、明確な決断を伴う行動です。

「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と約束された主の言葉に信頼しながら、困難に直面する社会で真の希望を生み出すために、すべての人と真の連帯を強め、忍耐と謙遜の内に希望の福音をあかしする者となりましょう。

 

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