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2020年7月25日 (土)

年間第17主日@東京カテドラル

このところ、毎日のように発表される感染の数にどうしても大きな関心が寄せられていますが、特に東京都の場合はその日に検査が陽性となった方ではなくて、当日朝までに保健所から都に報告され、内容が確認された件数と言うことのようですので、必ずしも、今日は多いとか少ないとか、数字の多寡に一喜一憂する必要はないものと考えています。とはいえ、感染が終息に向かっているようには見えませんし、日々状況が変化しますが重症者数も増減を繰り返していますので、まだまだ慎重に行動する必要があります。

これまでのところ、小教区において感染の報告はありませんが、それが現在の各小教区の感染対策の結果なのか、それとも今般の感染症がそういった程度のことなのかは、残念ながら確証を持ってどちらかだと断定することは出来ません。ですから現時点では、教区としてはより慎重な判断を優先させる必要があると考えています。

したがって、これまで同様の小教区における感染対策を、次週も継続していきたいと思います。原則として、7月26日から8月2日までの一週間は、教会活動にあってはこれまで同様、「感染しない・感染させない」ための対応を継続します。(現在の対応については、東京教区のホームページをご参照ください。また教区の大枠に基づいて、各小教区での独自の対応も定められていますので、ご不明の点は小教区の主任司祭にご確認ください)

以下、年間第17主日ミサ、土曜日午後6時の関口教会でのミサ説教の原稿です。

年間第17主日A
東京カテドラル聖マリア大聖堂 (公開配信ミサ)
2020年7月26日

 

「良き友は人生の宝だ」とか、「苦難は人生の宝だ」とか、「出会いは人生の宝だ」とか、わたしたちの人生には、さまざまな「宝」がつきものです。

人間関係だとか、社会での体験だとか、そういった多くの宝は、誰かとの出会いの中で、自分の人生を豊かにしてくれる得がたい存在であります。

もちろん、趣味で何かを集めているときなどに、そういったコレクションが「宝」となることもあるでしょうが、いずれにしろわたしたちが「宝」と言うときには、実際の貨幣的な富としてわたしたちを経済的に豊かにしてくれる「宝」のことではなくて、貨幣的な価値では計ることのできない豊かさを与えてくれるものをさして、「宝」と呼んでいます。

マタイ福音は、「持ち物をすっかり売り払って」でも、手に入れたくなるような「宝」を記しています。さらには、「持ち物をすっかり売り払い」手に入れようとするほどの、「良い真珠」の話を記しています。

すなわち、何か経済的な付加価値を与えてくれるような「宝」ではなくて、自分の人生を決定的に決めるような「宝」であります。人生のすべてを賭けてでも手に入れたくなるような「宝」であります。

この話は、ともすれば、非常に利己的な響きを持つ話でもあります。自分の人生の利益のために、隠し持っておこうとする宝の話のようにも聞こえます。

列王記には、ダビデ王を継いだソロモンが、「何事でも願うが良い」と神に言われたときに、自分のための様々な利益を求めることなく、「あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください」と願うことで、神からよしとされ、「知恵に満ちた賢明な心を」与えられたと、記されています。

神から、それこそ人生の最高の宝を与えようと言われたときに、ソロモンは自分の利益のためではなく、自分に託された神の民のための宝を求めた。ここに福音に記された、すべてをなげうってでも手に入れたくなる宝の意味が示されています。

自分の利益のためではなく、他者の利益となるために、宝を手に入れる。すなわちわたしたちは、社会の共通善に資するために、宝を求め続ける。
わたしたちの宝とは、いったい何でしょうか。

昨年東京ドームでミサを捧げられた、教皇フランシスコの説教の言葉を思い起こします。
教皇はマタイ福音の6章33節の「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」と言う言葉を引用した後に、次のように言われました。

「主は、食料や衣服といった必需品が大切でないとおっしゃっているのではありません。それよりも、わたしたちの日々の選択について振り返るよう招いておられるのです。何としてでも成功を、しかもいのちをかけてまで成功を追求することにとらわれ、孤立してしまわないようにです。この世での己の利益や利潤のみを追い求める世俗の姿勢と、個人の幸せを主張する利己主義は、実に巧妙にわたしたちを不幸にし、奴隷にします」

教皇フランシスコは、無関心のグローバル化という言葉を使って、現代社会に生きるわたしたちが、利己主義を強めながら、むなしいシャボン玉の中に閉じこもって、はかない夢を見ながら、他者への関心を示さなくなっていると、教皇就任直後から指摘を続けておられました。

ドームミサの説教で教皇は、「孤立し、閉ざされ、息ができずにいる「わたし」に抗しうるものは、分かち合い、祝い合い、交わる「わたしたち」、これしかありません」と指摘されました。

わたしたちは、社会という共同体の中で、孤立することなく、互いの交わりの中で、共同体全体の益、すなわち共通善に資するよう、持っている宝を分かち合わなくてはならない。

教皇ヨハネパウロ二世の「アジアの教会」に、次のように記されています。

「イエスに対する教会の信仰は、いただいたたまものであり、分かち合うべきたまものです。その信仰こそ、教会がアジアに差し出すことのできる最大の贈り物なのです。イエス・キリストの真理を他の人々と分かち合うことは、信仰のたまものを与えられたすべての人にとって重要な義務です(10)」

信仰は、わたしたちにとって宝であることは間違いがありません。そしてその宝は、自分の心に秘めて隠しておくためではなく、また自分だけの救いの鍵でもなく、共通善に資するように、多くの人と分かち合われなければなりません。わたしたちは、受けた信仰を分かち合うために、キリストに呼ばれています。

教皇フランシスコは、昨年この場所で青年たちと出会ったとき、こう述べられました。

「あなたが存在しているのは神のためで、それは間違いありません。ですが神はあなたに、他者のためにも存在してほしいと望んでおられます。神はあなたの中に、たくさんの資質、好み、たまもの、カリスマを置かれましたが、それらはあなたのためというよりも、他者のためのものなのです」

わたしたちの宝である信仰は、いのちは神からの贈り物であると教えます。教会は、神が愛を込めて創造されたすべてのいのちは、例外なく、その始めから終わりまで大切にされ、守られ、その人間の尊厳が保たれなくてはならないと主張します。すなわち、いのちは最高の宝物です。

その宝物であるいのちは、自分だけのものではなく、他者のために与え尽くすいのちであるようにと、教皇は強調されました。

相模原の障害のある方の施設で、19名の尊厳あるいのちが暴力的に奪われてから26日で4年となります。最高の宝物であるいのちを、互いに与え尽くし支え合うためではなく、価値がないとして暴力的に奪うことは許されることではありません。事件の衝撃が残っているにもかかわらず、いまでも、いのちの価値の差異を強調して選別することをよしとする声が聞こえるのは、大変残念です。最高の宝物であるいのちは、互いの支え合いの中で、尊厳のうちに護られなくてはなりません。

「世の終わりまでいつもあなた方と共にいる」と約束された主ご自身が、わたしたちのためにそのいのちを分かち合い共に生き、支えてくださるように、その主に従うわたしたちも、兄弟姉妹との交わりの中で、互いに支え合ういのちを生きていかなくてはなりません。

わたしたちの宝は、すべからく自分だけのものではなく、他者と分かち合うためにある。宝物である信仰を分かちう。たまものであるいのちを共に生きる。互いに助け合い、思いやり、きずなを深め、豊かないのちを生きることができるように、努めてまいりましょう。

 

 

 

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2020年7月18日 (土)

年間第16主日@東京カテドラル

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この数日間、東京では感染者数が拡大しています。このままミサを含めた小教区での活動を継続するべきなのか、それとも再び中止するべきなのか、判断に迷うところです。

これから先、少なくとも一年以上にわたって、感染者数が増減したりする状況は続くことでしょうし、有効な予防策や治療法が確立されるまでには、その程度か、それ以上の時間が必要なことと想定されます。従って、選択肢は二つで、安心安全が確立されるまですべてを中止するのか、または、そういった状況の変化に合わせて教会活動も強弱を付けながら行うことができる道を模索し続けるのか。

6月21日に教会の活動の再開を決めたときの選択は後者です。再開からそろそろ一ヶ月になりますから、それぞれの小教区では出来ることと出来ないことが明らかになりつつあると思います。またミサだけでなく、司牧的配慮の様々な道が模索されていることと思います。しばらくは、気を緩めることなく、常により慎重な道を選択しながら、感染しないことと感染させないことを念頭に、判断していきたいと思います。少なくとも、今週中(7月19日から25日)は、教会の活動を十分な感染対策をとりながら現状のように継続します。

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年間第16主日のミサ説教の原稿です。

年間第16主日A
東京カテドラル聖マリア大聖堂 (公開配信ミサ)
2020年7月19日

 

「すべてに心を配る神はあなた以外におられない」と、知恵の書は記していました。
わたしたちはこの世界が、創造主である神によって支配されていることを信じています。神は「正義の源」であるその力を通じて「万物を支配することによって、すべてをいとおしむ方」であると、わたしたちは信じています。

しかしながら、同時にわたしたちは、この世界が様々な矛盾に包まれていることも知っています。神が、その愛といつくしみをもって創造された世界であるにもかかわらず、そこに大きな矛盾が生じるのはなぜなのか。

それは例えば、環境破壊もその矛盾の一つであります。いったいなぜ、そのような矛盾が生じるのでしょうか。

教皇フランシスコの回勅「ラウダート・シ」には、こう記されています。
「わたしたちがずうずうしくも神に取って代わり、造られたものとしての限界を認めるのを拒むことで、創造主と人類と全被造界の間の調和が乱されました。このことによって、わたしたちに賦与された、地を『従わせ』、『そこを耕し、守る』という統治の任にゆがみが生じたのです(66)」

すなわち、人間の欲望や思い上がりが、あたかも人間が神の座を奪い取り、神の存在なしですべてをコントロールできるかのように勘違いをさせ、勝手な行動を続けてきたがために、この世界に矛盾を生じさせてしまったのだと、教皇は指摘されます。

人間の生を成り立たせているのは、「神とのかかわり、隣人とのかかわり、大地とのかかわり」であるにもかかわらず、その三つのかかわりは、外面的にも内面的にも引き裂かれてしまった。その三つのかかわりが引き裂かれた状態こそ、罪であると、教皇は述べています。

大きな災害に襲われるとき、大自然の脅威の前にたたずみ、わたしたちは人間の力や知恵がいかに小さな存在であるかを思い知らされてきました。同様に、今年の初めから続いている新型コロナウイルスによる感染症によってわたしたちは、目に見えない小さなウイルスの前で、人間の力がどれほど弱いものであるのか、人間のいのちがいかにもろい存在であるのかを、あらためて思い知らされました。

思い知らされるとき、わたしたちは一時的に、謙遜に生きる決意を心に刻みます。思い上がりを正さなければと、心に誓います。残念なことに、その決意は長続きしません。長続きするのであれば、わたしたちは真摯に神の前で謙遜に生き、「神とのかかわり、隣人とのかかわり、大地とのかかわり」を、それぞれ大切にする世界を構築してきたことでしょう。しかし現実は異なります。すぐに忘れてしまうわたしたちは、繰り返し人間の欲望に負け続け、大きな矛盾はわたしたちの共通の家の破壊につながりました。

マタイ福音には厳しい言葉が記されていました。

創造主である神は、良い麦も後で蒔かれた毒麦も、共に育つことを容認するけれども、最終的には刈り入れの時に峻別すると記されていました。一般的に、このたとえでの刈り入れの時は、世の終わりの最後の審判です。

いまの世界は、まさしく神が創造された良い麦と、人間の欲望が生み出した悪い麦が、混じり合って共に育っているような状況です。刈り入れの時まで待っておられる主は、決して悪の存在を容認しているのではなく、峻別できるそのときを待っておられるのだと福音は記します。

パウロはローマの教会への手紙に、「人の心を見抜く方は、霊の思いが何であるかを知っておられます」と記します。その上で、聖霊がわたしたちの祈りを執り成してくださるとも記します。

わたしたちは、「わたしたちに賦与された、地を『従わせ』、『そこを耕し、守る』という統治の任」を忠実に果たすように求められています。すなわち、この世にはびこる毒麦をしっかりと識別して、それを良い麦へと変えていくこと。そのために、良い麦と毒麦をしっかりと峻別できる識別の目を与えてくださるように、聖霊の取りなしと導きを祈ること。

わたしたちはあらためて天地の創造主である神の前で謙遜になり、いのちを与えられているものとして、人間の欲望ではなく、神の導きに従って、この共通の家を「耕し、守る」務めを果たしていかなくてはなりません。刈り入れの時までに、力の限りをつくして、悪い麦を減らし、良い麦へと変えていく努力を続けなくてはなりません。

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教皇フランシスコは、昨年11月に日本を訪れた際、首相官邸で政府や外交団の関係者に話をされました。その中で、次のように述べています。

「地球は自然災害だけでなく、人間の手によって貪欲に搾取されることによっても破壊されています。被造物を守るという責務を国際社会が果たすのは困難だとみなすとき、ますます声を上げ、勇気ある決断を迫るのは若者たちです。若者たちは、地球を搾取のための所有物としてではなく、次の世代に手渡すべき貴重な遺産として見るよう、わたしたちに迫るのです。わたしたちは彼らに対し、むなしいことばでではなく、誠実にこたえなければなりません。まやかしではなく、事実によって、こたえるのです」

その上で教皇は、世界が共通の家を守るために連帯して取り組むようにと求め、次のように述べられました。

「人間の尊厳が、社会的、経済的、政治的活動、それらすべての中心になければなりません。世代間の連帯を促進する必要があり、社会生活においてどんな立場にあっても、忘れられ、排除されている人々に思いを寄せなければなりません。・・・孤独に苦しむ高齢者や、身寄りのない人のことも考えます。結局のところ、各国、各民族の文明というものは、その経済力によってではなく、困窮する人にどれだけ心を砕いているか、そして、いのちを生み、守る力があるかによって測られるものなのです」

知恵の書に、「神に従う人は人間への愛を持つべきことを、あなたはこれらの業を通して御民に教えられた。こうして御民に希望を抱かせ、罪からの回心をお与えになった」と記されていました。

人間のわがままな心の思いを主張し続けるのではなくて、愛を込めてこの世界を、私たちのいのちを創造された神のいつくしみと愛に満ちた心に、耳を傾けるときです。すべてのいのちを守るために、排除ではなく互いに支え合いながら、「神とのかかわり、隣人とのかかわり、大地とのかかわり」を大切にするときです。人間の尊厳を掲げて、連帯のうちに互いのいのちへの思いを馳せるときです。

 

 

 

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2020年7月11日 (土)

年間第15主日@東京カテドラル

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この数日の豪雨によって、大きな被害を受けられたみなさまに、心からお見舞い申し上げます。被害の大きかった福岡教区では、すでに被災地支援のための募金が始まっています。(東京教区ホームページでのリンクはこちらです)。被災地では復旧のために人手が足りないことが報告されておりますが、このたびの感染症対策のため、ボランティアは県内の方だけに限られているようです。従って、全国に向けてのボランティア受付のようなことは難しいかと思います。まずは現地からの情報に耳を傾け、できることでの支援を、そして祈りをしていきたいと思います。

この数日、東京都では新型コロナ感染者が100名を超え、さらにこの三日間は200名を超えています。いまの時点では、重症者が少ないことや、亡くなられる方が6月24日から出ていないことを踏まえて、即座に教会活動を停止するようなことはしておりません。現時点での感染対策をしっかりと守りながら、慎重に教会運営を続けてまいります。

しかし今後は、仮に感染者数がこのまま増加し続け、重症者が増加した場合などには、現在の対応を一段厳しいものに戻すことも念頭に、日々刻々と変化する状況を見つめております。これからかなり長期にわたって、現在のように社会の現実として新型コロナウイルスがあるということを前提として、その中で教会活動を続けていく方策を慎重に模索して行かざるを得ないものと思われます。

あらめて申し上げますが、教区の基本方針は三つです。(詳しくは、教区ホームページに掲載しているビデオを、是非一度ごらんください)

1: 教区内地域で新規感染者がいる限り、教会活動では「密接・密集・密閉」を避ける
2: 感染しない、感染させない
3: 秘跡にあずかる機会を提供し、霊的な一致を促す

教会活動を停止するという歴史に残るような事態に、東京教区だけではなく世界中の教会が直面しているのですが、その中で東京教区は6月21日に活動を再開して、まだまだ4回目の日曜日です。教区としての大枠はありますが、それぞれの小教区では事情が異なりますので、感染対策への対応もそれぞれ異なっています。なにぶん誰ひとり経験したことのない事態なのですから、当然どの対応も完璧ではあり得ず、当分は試行錯誤の繰り返しにならざるを得ないでしょう。これからさらに何回かの日曜日の経験を通じて、徐々に改善していくしかありません。なんと言っても、感染症の事態が即座に終息するとは思われず、わたしたちは長期戦を心しなければなりません。

現時点での対応にはまだまだ不備もあることでしょう。大変申し訳ありませんが、しばらくはこの事態を一緒になって乗り越えるため、耐え忍んでくださるようにお願いいたします。教会内での意見の交換は歓迎しますが、あたかも教会がすべて変わってしまったかのように喧伝するような行為は慎まれるよう心されることを希望します。

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以下、年間第15主日、7月11日夕方6時から、東京カテドラル聖マリア大聖堂から配信された公開ミサの説教原稿です。

年間第15主日A(公開配信ミサ)
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2020年7月12日

 

神の言葉は、受肉の神秘によって人となられたそのときから、今に至るまで、わたしたちとともに現存しています。人となられた神の言葉である主イエスを通じて直接語られたその言葉は、日々の聖書の朗読を通じて、教会の教えを通じて、典礼を通じて、祈りを通じて、繰り返しわたしたちに伝えられてきました。

第二バチカン公会議の啓示憲章にこう記されています。
「教会は聖書を聖伝と共につねに自らの信仰の最高の基準としてきたのであり、またそうしている。なぜなら、神の霊感を受け一度限り永久に文字に記された聖書は、神ご自身のことばを変わらないものとして伝え、また預言者たちと使徒たちのことばのうちに聖霊の声を響かせているからである(啓示憲章21)」

すなわち、様々な出来事が時の流れの中で刻まれ歴史は形作られてきたのですが、その間常に神の言葉は時の流れの中に現存していました。しかし世界の現実は、神の言葉に耳を傾けてこようとはしませんでした。時には耳を傾けようとしたこともあったのでしょうが、それは例外です。少なくとも今に至るまで、神が望まれる世界は実現しておらず、神が愛を込めて創造されたいのちは危機にさらされ、人間の尊厳はないがしろにされ、神の似姿がその尊厳を暴力的に奪い取られる事例は、世界に数多く見られます。

わたしたちの国にあっても、近年、数多くのいのちが孤独と孤立のうちに危機に直面しており、とりわけ今般の感染症が拡大し経済が混乱する中で、雇用の不安定さが増大し、いのちをつなぐために十分な助けを得られることなく孤立している人も少なくありません。

もちろん社会には、教会の信徒をはじめとして多くの善意の方々が、積極的に助けの手を差し伸べており、そういったボランティア活動の団体も多く存在しています。東京教区の災害対応チームでも、そういった支援を提供する団体などの情報を集めて、インターネット上で提供していますが、数多くの善意の方々が存在しているという心強い現実を、そういった情報収集から垣間見ることができます。善意の多くの方の存在を知り、その心配りに感謝するとともに、それでもまだ取り残されているいのちがたくさんあることを思わざるを得ません。

また今般の事態にあって、特に医療関係者の皆さんには、常日頃心にかけておられることであろうと思いますが、たまものであるいのちを守るために、日夜尽力されておられることに、心から感謝申し上げたいと思います。

神の十戒の第五の掟は、「殺してはならない」と定めています。

この掟はすなわち、わたしたちに「人間の生命が神聖である」ことを教え、いのちを守ることの重要性を認識することも求めています。カトリック教会のカテキズムには、第五の掟の箇所に、「道徳律は、重大な理由もなく誰かを死の危険にさらさせること、さらに、危険な状態にある人を見捨てることさえも禁じています(2269)」と記されています。

今般の感染拡大の事態にあたって教会が取り入れている感染症対策は、「感染しない」ことだけではなく「感染させない」ことも重要視していると、常々申し上げてきた背景は、そこにあります。「殺してはならない」と神から命じられているわたしたちは、他者をいのちの危険にさらすことも、危険な状態にある人を見捨てることも、禁じられているからです。

神の言葉は、この世界の現実のなかにあって、様々な方法を通じて幾たびも幾たびも繰り返され響き渡っているにもかかわらず、世界全体には浸透していません。

ヨハネ福音の冒頭に、「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった(ヨハネ一章10・11節)」と記されているとおりであります。

耳を傾けようとする人の心に蒔かれた神の言葉の種は豊かに実を結び、善意の人を駆り立てて、助けを必要としているいのちへ、危険な状態にあるいのちへと、その思いを向かわせます。残念ながら、神の言葉の種は、まだ多くの人の心のうちで、豊かな実を結んではいません。

この危機的な状況の中で、これから今以上に孤立を深めながら危機に直面するいのちは増えていくことが想定されます。ですから、わたしたちは、いただいている神のいのちのことばの種を、蒔き続けなくてはなりません。さらには、蒔かれた種が豊かに実を結ぶようにと、その土壌を良いものとしておく努力も必要です。ただただひたすらに種を蒔き続けるだけではなく、まずは最初に種が蒔かれる土壌を良いものに変えて行く努力も必要です。種を蒔く前に、しなければならない準備もあります。

その準備、すなわち土壌改良を成し遂げるのは、わたしたち一人ひとりの日々の生活における、言葉と行いによる神の愛といつくしみのあかしであります。人とのかかわりの中で、わたしたちの言葉と行いは、神の言葉の種が蒔かれる土壌を良いものとしていくための、もっとも力のある道具であります。

語られる言葉は、わたしたちの口から出る実際の言葉であると共に、わたしたちが、例えばインターネットなどに残していく言葉でもあります。時にクリスチャンを標榜しながら、他者のいのちを守ることをないがしろにするような、きわめて利己的な主張や攻撃的な主張を目にするとき、いったいどのような土壌を神の言葉の種のために備えようとされているのかと思い、悲しくなることがあります。わたしたちは口から語る言葉、書き記す言葉、どちらにあっても自分の言葉が、神の言葉の種を蒔く土壌を準備するためなのだと、常に心しておきたいと思います。

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「雨も雪も、ひとたび天から降れば、むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、種蒔く人には種を与え、食べる人には糧を与える。
 そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も、むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす」

神は自らの言葉が、その使命を果たさないままに、むなしく戻ってくることはないと宣言されています。人となられた神の言葉である主イエスによって、神の言葉はわたしたちの間に現存されています。現存されているのですから、どのような困難にあっても、必ずその使命を果たされます。

この神の約束に信頼し勇気をいただきながら、小さな歩みではありますが、わたしたちの言葉と行いを通じて、多くの人の心の土壌を改良し、そこに蒔かれる神の言葉の種が豊かに実を結び、それを通じて神が愛されるすべてのいのちが大切にされ、守られ、その尊厳が尊重される世界が実現するように、努力を続けてまいりましょう。

 

 

 

 

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2020年7月 5日 (日)

年間第十四主日@東京カテドラル

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年間第十四主日のミサ、インターネット配信用に、前晩土曜日の18時に、カテドラルで捧げたミサの説教原稿です。

この数日、東京では100人を超える感染者が相次いで報告されています。公開ミサをこのまま続けるべきか検討しましたが、感染者が重篤化することの少ない若年層に多いことと、この数日間重症者が少なく、亡くなられる方も出ていないことから、現時点での感染症対策(社会的距離、手指消毒、マスク着用、一斉に歌わない、高齢の方にお待ちいただく)を継続することで、お一人お一人のいのちを守りながら、もっとも大切な秘跡である聖体祭儀を続けることが可能だろうと判断しています。ただ、このまま状況を見守りますが、本日の日曜日も東京都の感染者は100名を超えていますし、今後数日間の感染者、重症者、死者、実効再生産数などに注意を払いながら、判断していきたいと思います。また、現在も主日のミサにあずかる義務は東京教区のすべての方を対象に免除していますので、少しでも不安がある方には、ご自宅でお祈りを続けてくださるようにお願いいたします。

以下、説教原稿です。

年間第14主日A
東京カテドラル聖マリア大聖堂 (公開配信ミサ)
2020年7月5日前晩

 

今年の初め頃から今にいたるまで、感染症が拡大し、この数日は東京で感染者が増大傾向にあるものの、この混乱の中で、教会はどのように動いてきたのでしょうか。

もちろん、当初から感染予防を心掛け、2月末からはミサも非公開となり、緊急事態宣言が出てからは、すべての活動が停止しました。ですから、教会は今回の事態の中で、全く動いていなかったと、表面的には見えてしまいます。

今回の事態は、多くの人がいのちの危機に直面するということから、大災害の緊急事態に匹敵しています。わたし自身が担当している教会の援助団体カリタスジャパンでも、今の事態は災害の緊急事態と同等と見なして、緊急募金と支援活動を行っています。

とはいえ、まずもって密接、密集、密閉を避けなければならない状況にあって、従来の大災害への対応のように、ボランティアを集めて一緒に行動することには、制約があります。実際、2011年以来、仙台教区において日本の教会が設置しているいくつかのボランティアベースでは、一時的に人を集めることを中止にせざるを得ませんでした。その意味で、従来のような活動には、感染症の下では、限界があります。

しかし、同時に、社会全体で自粛が続く中で、雇用環境も悪化し、また病院に出かけることもままならない人が出たり、住居を失ったり、職を失ったりと、助けを必要とする人は増加しました。

教皇様は、教皇庁にCovid19委員会を設置され、今回の事態に教会がどのように対応できるのか、統合的人間開発の部署や国際カリタスが協力して取り組むようにと定められました。

その発足を報告する記者会見で、責任者のタークソン枢機卿は、「最初は単に健康問題だったが、経済、雇用、生活スタイル、食料安全保障、AIやインターネットのセキュリティ、政治、政府、政策、研究など、新型コロナ感染症が影響を与えなかった人間の生活の側面は何一つない。教皇フランシスコが教えるように、『あらゆるものはつながりあっている』を象徴している」と述べています。

わたしたちの人生のすべての側面が影響を受け、常日頃から生活に困難を抱えている人たちが、さらに大きな困難に直面し、また国によっては、感染症のためだけではなく、そのようにして生じた様々な側面の困難によって、いのちの危機に直面する人も多数おられます。

そのような中で、活動に困難を抱えながらも、従来のような大きな活動としてではなく、小さな単位で、時には個人的に、時には隣近所で、助けを求めている人に手を差し伸べようとする活動が、水面下で広がっています。カリタスジャパンの緊急支援の対象も、従来のような組織的な活動もありますが、その多くは個人的な支援を中心とした小規模なものが増えています。

すなわち、わたしたちは、この困難な状況の中にあって、隣人と互いに助け合うことの大切さをあらためて認識しています。

冒頭に触れたように、教会も、確かにすべての活動が停止していたものの、信徒の皆さんの個人レベルでは、様々な活動に取り組まれる人が多くいると聞いています。教区でも、食料支援や学習支援など、地道な支援活動を支えたり、従来から行っているCTICを通じた外国籍の方々への支援を継続しています。

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わたしたち教会の役割は、人と人との出会いのなかにあって安らぎを与えることです。福音に「重荷を負う者は、誰でもわたしのもとへ来なさい。休ませてあげよう」と言う主イエスの言葉が記されています。教会は、重荷を負わせる場ではなく、安らぎを与える場です。そしてそれは、教会という建物が安らぎの場であるということに留まらず、わたしたち自身が安らぎを与える存在であるという意味でもあります。なぜならば、いつも繰り返しているように、教会とはこの建物のことではなくて、共同体を形作り主イエスの体を形作っている、わたしたち一人ひとりのことだからです。わたしたち一人ひとりが、社会にあって、安らぎを与える存在でありたいと思います。

残念ながら、教会にあっても、安らぎではなくて苦しみを生み出してしまっている事実が存在します。それは否定できない事実であります。教会に集まっているのは天使のような人ばかりではなく、わたしも含めてすべてが罪の重荷を抱え欠点を抱えた不十分な人間です。ですから、集まっているだけで、どうしてもそこには対立や争い、無理解や排除が生じてしまいます。

しばしばわたしたちの思い、すなわち人間の知恵や賢さは、自己中心の世界を生み出し、まるで自分の周りに防御壁を築き上げるようにして、そこに近づいてくる人を傷つけている。ですから、わたしたちは常に、自分たちに与えられている使命を思い起こさなくてはなりません。

教会は安らぎを与える場であり、重荷を与える場ではない。そして教会とは誰かのことではなく、自分こそがその教会である。

感謝の祭儀の中でご聖体をいただいて主と一致するとき、わたしたちの心には神の霊が宿ります。そのときわたしたちは、どのような生きる道を選ぶのでしょうか。キリストに属する者として、わたしたちに与えられている務めは、「キリストのように考え、キリストのように話し、キリストのように行い、キリストのように愛そう。力の限り(典礼聖歌390)」ではないでしょうか。

父である神が与えられた最高のたまものであるいのちを守ることは、最も大切な愛徳の業であります。残念ながら、この困難な時期にあって、教会の中でも、教会の外でも、その最も大切な愛徳の業を二の次に考えるような言動が見られました。愛徳の業のうちに、互いに支え合うことこそが、安らぎを与える教会として、今必要な態度です。

教皇フランシスコは、昨年訪日されて東北の被災者と会われたとき、次のように話されました。
「わたしたちにもっとも影響する悪の一つは、無関心の文化です。家族の一人が苦しめば家族全員がともに苦しむという自覚をもてるよう、力を合わせることが急務です。課題と解決策を総合的に引き受けることのできる唯一のものである、きずなという知恵が培われないかぎり、互いの交わりはかないません。わたしたちは、互いに互いの一部なのです。」

わたしたちはたまものであるいのちを守ることを大切にする教会でありたいと思います。教皇の呼びかけに応え、力をあわせ、互いの交わりの中で支え合い、重荷を負わせることなく、安らぎを提供する教会であることを目指しましょう。

 

 

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