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2020年8月29日 (土)

年間第22主日@東京カテドラル

8月もあと数日で終わりに近づき、今月最後の日曜日は年間第22主日となります。

次週、9月6日の日曜日は、被造物を大切にする世界祈願日と定められています。教皇フランシスコは、2015年に回勅「ラウダート・シ―ともに暮らす家を大切に」を発表され、全世界の人に向けて、「私たちの共通の家」という総合的な視点から、エコロジーの様々な課題に取り組むことを呼びかけられました。その上で教皇は、毎年9月1日を「被造物を大切にする世界祈願日」と定められました。日本ではこの世界祈願日を9月最初の主日と定めています。

また今年から、昨年の教皇訪日を受けて、9月1日から10月4日までを、「すべてのいのちを守るための月間」とすることも決められています。関連メッセージは教区ホームページに掲載しましたが、この月間のための祈りも用意され、カードが配布されています。なお教区本部広報担当では、アジア司教協議会連盟(FABC)の人間開発局(Office for Human Development)が用意した資料に基づいて、この月間のための毎日の「日毎の祈り」を、順次ホームページに掲載する予定です。

この数日も東京では、PCR検査の陽性者数が一定程度、継続して報告されています。今回の感染はピークを越えたと言う専門家の指摘もありますが、いましばらくは推移を見守り、慎重に判断したいと思います。従って、8月30日から9月6日までの一週間も、これまで通りの感染対策を持って教会の活動を継続していきます

以下、8月29日(土)午後6時から、東京カテドラル聖マリア大聖堂で行われた、関口教会の主日ミサ(公開・配信)の説教原稿です。

年間第22主日A(公開配信ミサ)
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2020年8月30日

 

わたしたちは、人生の道程を歩むとき、常に選択を迫られて生き続けています。人生の歩む方向を大きく変えてしまうような重大な選択もあれば、日々の生活の中で次に何をするべきなのかと言った小さな選択まで、ありとあらゆる選択に直面しながら、わたしたちは人生を歩み続けています。

新型コロナの感染症がなかなか終息する気配を見せない中、教会もこの数ヶ月間、様々な選択を迫られ続けてきました。中でも、わたしたちの信仰生活の中心であり、共同体のきずなの見える形でもある主日のミサを、続けるべきなのか中止するべきなのか。その選択は、簡単な決断ではありませんでした。教会はこれからも当分のあいだ、一番大切な聖体祭儀に関して、難しい選択を迫られることになるだろうと想定しています。

教会にとってご聖体の秘跡は「教会生活の中心に位置づけられます」と指摘されたのは、教皇ヨハネパウロ二世でした。(「教会にいのちを与える聖体」3)

単に教会に集まって祈りの時を一緒にできないということに留まらず、聖体祭儀にあってご聖体のうちに現存されている主イエスと一致するという信仰生活の根幹を、教会が自ら放棄することが許されるのだろうか。聖体の秘跡は単なる象徴ではなく、「信者の共同体に救いをもたらすキリストの現存であり、共同体の霊的な糧」であり、「もっとも貴重な宝」であります(「教会にいのちを与える聖体」9)。それを簡単に手放すことなど出来るわけがありません。わたし自身の霊名でもある聖タルチシオのように、命を賭けて御聖体を守りながら殉教していった信仰の先達も多くおられます。

教会全体において、こういった緊急事態に遭遇したときにどうするのかを定めた規則はありません。世界中の司教さんたちが、同じことを考え、悩んだことと思いますが、わたし自身もさまざまな対応を考えながら、いろいろ思いつく度に、今日のマタイ福音のことばが頭に浮かびました。

「サタン、引き下がれ、あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」

昨年の東京ドームで行われたミサで、教皇フランシスコは説教の最後にこう指摘されました。
「いのちの福音を告げるということは、共同体としてわたしたちを駆り立て、わたしたちに強く求めます。それは、傷をいやし、和解とゆるしの道をつねに差し出す準備のある、野戦病院となることです。」

教皇フランシスコは、教会はいのちの福音を告げるための野戦病院であれと言われます。そうであるならば、教会は、困難な状況にあっても、扉を閉ざすことなく祈りの共同体として続けるべきではないのか。ミサを止めようなどと言うのは、恐れをなした人間の弱さに基づく判断ではないのか。そう思い悩みました。いまでも悩み続けています。

同時に教皇フランシスコは、わたしたちには判断の基準があるともいわれます。同じ説教の中で、「キリスト者にとって、個々の人や状況を判断する唯一有効な基準は、神がご自分のすべての子どもたちに示しておられる、いつくしみという基準です」と指摘されていました。すなわちわたしたちは、神のいつくしみという視点から判断した場合に、どういう道を選択するべきなのかを考え、よりふさわしい道を識別しなくてはなりません。

教皇ヨハネパウロ二世は回勅「いつくしみ深い神」の中で、こう記しています。
「イエスはとくに生き方と行動を通して、わたしたちの住むこの世の中に愛のあること、行動となる愛、人間に声をかけ、人の人間性を作り上げているすべてを抱きしめる愛のあることを露わにされました。この愛が特に気づかれるのは、苦しみ、不正、貧困に接するときです」

その上で、教皇は、「愛が自らを表す様態とか領域が、聖書のことばでは「あわれみ」と呼ばれています(3)」と指摘します。

すなわち教会はいま、苦しみに接するときにこそ、イエスの模範に倣って、その生き方と行動を通して、愛があることをあかししなくてはなりませんし、その愛のあかしこそは、「あわれみ・いつくしみ」と呼ばれると言うことになります。

神のあふれんばかりのいつくしみは、たまものであるいのちへの愛として表されていることを考えれば、現在の混乱を極めている危機的状況の中で、神のいつくしみという基準からの判断は、いのちを最優先することに他なりません。

たまものであるいのちを守ることを最優先にして、教会は、危機に直面する中での一連の選択を行ってきましたし、その対応が大げさに過ぎるという指摘も受けることがありますが、現在の状況の中でいのちを守ることは、最優先の選択です。

同時に、それでもなお教会は野戦病院であることを止めることも出来ません。わたしたちは、いまのような状況にあっても、「傷をいやし、和解とゆるしの道をつねに差し出す準備のある、野戦病院」であり続けなくてはなりません。それはすなわち、これまで存在しなかった新しい方法で、野戦病院となる道を探らなくてはならないことを意味しています。わたしたちは、知恵を絞りながら、これまでの前例に縛られることなく、神の望まれる道を実現するための道を見いだす努力を続けていかなくてはなりません。

教皇フランシスコは、「教会を老けさせ、過去に執着させ、停滞させ、動かないものにしてしまうものから、解き放たれていられるように主に願いましょう(35)」と使徒的勧告「キリストは生きている」に記しています。

いま、この困難な状況に直面する中で、教会は様々な選択を迫られています。同時にそれが、信仰をより良く生きるための振り返りの機会をも生み出しています。これまで通りにすべてをつつがなく進めようという誘惑から解き放たれ、教会が教会らしく、常に若さにあふれた教会となるための道を選択する機会を与えられています。

「あなたがたはこの世に倣ってはいけません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」とパウロがローマの教会に呼びかけたように、わたしたちもまた、この状況の中だからこそ、「何が神の御心であるか」をじっくりと時間をかけながら識別する時を与えられています。

神の道を探し求めながら、信仰をよりふさわしく生きる道を選び続けましょう。

 

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2020年8月22日 (土)

年間第21主日@東京カテドラル

暑い毎日が続いています。残暑お見舞い申し上げます。

新型コロナウイルス感染症による社会生活への影響はまだ続いており、新規陽性者の報告も続く中、今の段階の感染はそろそろピークに到達しているのではないかという専門家の指摘も聞かれるようになりました。幸い、教会においてクラスターが発生するような事態はこれまで報告されていませんが、以前にも記したように、それが教会の行う活動制限や感染症対策の効果なのか、はたまた現在の感染症の状況がそういう程度なのかは、簡単に判断出来るものではありません。もっともさまざまな体験を積み重ねる中で、解明されたことも専門家からは多く報告されていますが、未知の部分も多々あり、いのちを守るために、現時点ではやはり慎重な行動をとることが賢明だと思われます。

従って、8月23日から30日までの一週間も、これまで同様の対応を継続いたします。

以下、本日土曜日夕方6時から、東京カテドラル聖マリア大聖堂で行われた、年間第21主日ミサの説教原稿です。

年間第21主日A
東京カテドラル聖マリア大聖堂(公開配信ミサ)
2020年8月23日

わたしたちは、情報が満ちあふれている社会に生きています。ほんの十数年前と比較しても、驚くほどのスピードで、驚くほどに大量の情報を、どこにいても自由に手にする手段を、わたしたちは手に入れました。ただ、それほど大量に情報を手に入れるようになったわたしたちが、果たして十数年前より賢明な判断をするようになったのかどうかは、わかりません。なぜならば、情報は受け手であるわたしたち一人ひとりがふさわしく処理しなければ意味がなく、わたしたち自身の処理能力にはそれほど大きな変化があったとは思われないからです。もしかしたら、あまりに大量の情報を前にして、翻弄されているだけなのかも知れません。

飛び交っている情報の中には、様々な種類があることをわたしたちは知っています。信頼に足る情報もあれば、全くでたらめな情報もある。善意に満ちた情報もあれば、悪意に満ちた情報すら存在する。

押し寄せる情報の中に取り込まれながら、与えられたいのちをより良く生きようとするとき、わたしたちは、いのちを豊かに育み、心の糧となる情報を見分けなくてはなりません。

残念ながら実際には、例えばフェイクニュースと呼ばれる真実とはほど遠い情報が存在したり、悪意のある情報が、人の心を傷つけ、時には大切ないのちを奪うほどの負の力となることもあります。

今年5月の第54回「世界広報の日」にあたり教皇フランシスコはメッセージを発表され、そのなかで次のように指摘されています。
「わたしたちはどれだけおしゃべりやうわさ話に躍起になって、どれほど暴力や虚言を振るっているのか、ほとんど自覚していません。・・・裏づけのない情報を寄せ集め、ありきたりな話や一見説得力のありそうな話を繰り返し、ヘイトスピーチで人を傷つけ、人間の物語をつむぐどころか、人間から尊厳を奪っているのです」

その上で教皇は、「道具として用いられる物語や権力のための物語は長くは続きませんが、よい物語は時空を超えます。いのちをはぐくむものなので、幾世紀を経ても普遍なのです」と指摘され、主イエスご自身によって紡ぎ出されるいのちを育む物語にこそ普遍的な価値があるとして、耳を傾けるようにと呼びかけられます。

さらに教皇は、聖書に記された物語は、イエスを中心にした「神と人間との壮大なラブストーリー」だと指摘して、次のように述べています。
「イエスの物語は、神の人間への愛を完成させ、同時に、人間の神へのラブストーリーも完成させます。ですから人間は、種々の物語から成るこの物語の中の重要なエピソードの数々を、世代から世代へと語り伝え、記憶にとどめなければなりません」

情報が荒波のように押し寄せる現代社会に翻弄されながら、いのちをより良く生きようとするわたしたちは、時空を越えていのちを育む物語を選び取り、それに生き、そしてその物語を自分のものとして、さらに多くの人へと語り継いでいかなくてはなりません。

本日のマタイ福音では、主イエスが弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」と尋ねた話が記されています。

主は、「みんなはわたしのことをなんて言っているのだ」と、まるで現代を生きるわたしたち自身が、しばしば気に病んでいるようなことを尋ねられます。

それに対して弟子たちは、現代を生きるわたしたちがそうするように、「あっちではこう言っていた、こちらではこう言っていた、あの人はこう言っていた」などと、聞いてきた話をイエスに伝えます。聞いてきた話、すなわち「うわさ話」であります。

考えてみれば、わたしたちは「うわさ話」に取り囲まれています。わたしたちを包み込んで大量に流れている情報の多くも、極端に言えば「うわさ話」に過ぎません。その内容にだれも責任を負うことなく、出所も確かではなく、それがどういう効果を社会に及ぼすのかも配慮されないまま、そして時には悪意を込めて、一人歩きをするように社会に流されていく「うわさ話」は、なぜなのかわたしたちの興味をそそります。大量に流れている情報を処理できずに困惑するとき、単純明快に結論を出してくれる「うわさ話」を、ありがたいと感じる誘惑もあります。しかし「うわさ話」は多くの場合、自分とは異なる存在との差異を強調することで、自らの立場を有利に感じさせ、自尊心をくすぐってくれる誘惑です。無責任な「うわさ話」は、差別を生み出す負の力を秘めています。いや、実際にいのちを奪ってしまうほどの、暴力的な負の力を秘めています。

だからこそ主イエスは弟子たちに、「それでは、あなた方はわたしを何者だというのか」と迫ります。「うわさ話はもう良い、あなた自身はどう考え、どう判断しているのだ。自分の決断をここで明確にしろ」と、迫力を込めてイエスは弟子たちに迫ります。

すなわち、どこかの誰かが解説してくれるわかりやすいイエスの姿ではなく、自分自身がイエスと対峙して、その物語に直接耳を傾け、具体的に出会う中で見いだした、「わたしのイエス」について語るように求めているのです。

いのちを育む真理の物語は、どこかの誰かの知恵から生み出されるのではなく、パウロが「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを極め尽くし、神の道を理解し尽くせよう」と記したように、人知を遙かに超えた神ご自身が語られる言葉、すなわち人となられた神の言葉である主イエスから生み出され、物語られます。

教皇は先ほどのメッセージの終わりにこう記します。
「そうしてわたしたちは、語り手である主──決定的な視点をもつ唯一のかた──のまなざしをもって、主要な登場人物たち、つまり今日の物語の中でわたしたちのすぐそばにいる役者である兄弟姉妹に歩み寄ります。そうです。世界という舞台では、だれも端役ではありませんし、どの人の物語も、生じうる変化に開かれているからです」

すなわち、ご自分の真理の物語を語られる主イエスは、今度はわたしたち自身が自分と主との物語を他の人に向けて物語ることを待っておられます。そしてそのすべてが、たとえどんな物語であっても、いのちの与え主である神の前では、一つ一つが大切なのだと指摘されています。

「わたしたちは、欺きはしないいのちと愛という宝と、誤らせも失望もさせないメッセージを持っています。・・・それは時代後れのものになったりはしない真理です」と、教皇フランシスコは「福音の喜び」(265)に記していました。

あふれんばかりの情報に翻弄されることなく、心静かにイエスの物語に耳を傾け、イエスと出会い、いのちを育むメッセージを、ひとりでも多くの人に伝えていく努力を続けましょう。
 

 

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2020年8月15日 (土)

聖母被昇天祭@東京カテドラル

Assump2007

8月15日は聖母被昇天祭です。

暑い毎日が続いています。どうかみなさま、感染症対策と共に熱中症にも対策をされ、健康にはくれぐれもお気をつけください。東京都と千葉県は、感染症の終息はなかなか見通すことが出来ていません。教会でのクラスターなどの発生は、いまのことろ教区内からは報告がありませんが、まだまだ慎重に対処したいと思います。幸いなことですが、みなさまにご協力いただいている感染症対策が、功を奏しているのもと思います。十分に納得いただけないような状況の中で、不便を忍び、ご自分の思いを心に治め、感染症対策にご協力いただいている多くのみなさまに、心から感謝申し上げます。ほんとうにありがとうございます。みなさまの忍耐は、いのちを守る行動です。

みなさまの健康が守られ、またわたしたちを取り巻くこの不安な状況が一日も早く解消されるように、聖母の取り次ぎの元、父である神の守りと祝福を祈りたいと思います。

8月16日から23日までの一週間も、これまでと同様の感染症対策をとりながら、気を緩めることなく慎重に、教会活動を続けます。

Assump2004

以下、本日午後6時から、東京カテドラル聖マリア大聖堂でささげられた、聖母被昇天祭ミサの説教原稿です。

聖母被昇天
東京カテドラル聖マリア大聖堂 (公開配信ミサ)
2020年8月15日

 

聖母被昇天を祝う今日8月15日は、あらためて言及するまでもなく、日本においては平和を祈念する日でもあります。

毎年、8月6日の広島原爆の日から8月9日の長崎原爆の日を経て、8月15日の終戦記念日に至るまでの10日間を、日本のカトリック教会は「平和旬間」と定めています。

1981年2月23日から26日、日本を訪問された教皇ヨハネパウロ二世は、自らを「平和の巡礼者」と呼ばれ、昨年11月の教皇フランシスコと同様に、東京だけではなく広島と長崎を訪れました。特に広島では、「戦争は人間の仕業です」という有名になった文言で始まる平和アピールを発表され、その中で繰り返し、「過去を振り返ることは、将来に対する責任を担うことである」と世界の人に向けて強調されました。

当時の司教団は、戦争を振り返り、平和を思うとき、平和は単なる願望ではなく、具体的な行動を伴わなくてはならないと考え、その翌年(1982年)から、日本にとってもっとも身近で忘れることのできない広島や長崎の事実を思い起こす8月6日から終戦の15日までの10日間を、「日本カトリック平和旬間」と定めました。日本の教会にとって聖母被昇天祭は、平和旬間を締めくくる日でもあります。神の母であり、教会の母であり、平和の女王である聖母マリアの取り次ぎによって、わたしたちが神の平和の実現に至る正しい道を見いだし、その道を勇気を持って歩み続けることが出来るように、祈り続けましょう。

広島平和アピールの終わりで、教皇ヨハネパウロ二世は神を信じる人々に向けて、「愛を持ち自己を与えることは、かなたの理想ではなく、永遠の平和、神の平和への道だということに目覚めようではありませんか」と呼びかけています。「神の平和への道」とは、すなわち「愛を持ち自己を与える」行動であると教皇は指摘します。

Assump2001

あらためて言うまでもなく、教会が語る「平和」とは、単に戦争や紛争がないことを意味してはいません。教会が語る「平和」とは、神の定めた秩序が実現している世界、すなわち神が望まれる被造物の状態が達成されている世界を意味しています。残念ながら、核兵器をはじめとして人間の抱く不信や敵対心に至るまで、神の定めた秩序の実現を妨げる要因は、数多く存在しています。

その文脈で、教皇ヨハネパウロ二世は、「愛を持ち自己を与える」行動が、神の平和を実現する道の一つであることに気がつくようにと促しています。

今年も梅雨の間に各地で集中豪雨が発生し、特に九州では大きな被害が発生しました。加えて新型コロナウイルス対策のため、県外からのボランティア参加が認められず、必要な助けが集まらないのではないかとの不安の声が聞かれました。しかし実際には多くの方が県内から駆けつけ、互いを支え合いながら、復興支援のボランティア活動に取り組まれたとうかがいました。

まさしく、愛を持って自己を犠牲にしながら、助けを求めている人のところへ駆けつけるボランティアの活動は、単なる優しさの象徴ではなく、平和構築の道そのものであります。

その意味では、新型コロナウイルス感染症と闘う医療関係者の方々は、まさしく危機に直面するいのちを救うために、いのちへの愛と尊敬を持って尽力されているのですから、その活動は、平和構築の道でもあるといえます。その働きに、心から感謝したいと思います。

教皇フランシスコは、教会が新たにされて福音宣教へ取り組むようにと鼓舞する使徒的勧告「福音の喜び」の最後に、「教会の福音宣教の活動には、マリアという生き方があります(288)」と記しています。

聖母マリアの人生は、まさしく「愛を持ち自己を与える」生き方であります。聖母マリアの人生は、神の平和を構築する道として、教会に模範を示している生き方であります。

教皇フランシスコは、「正義と優しさの力、観想と他者に向けて歩む力、これこそがマリアを、福音宣教する教会の模範とするのです」と指摘します。

その上で教皇は、聖母マリアは、福音宣教の業において「私たちとともに歩み、ともに闘い、神の愛で絶え間なく私たちを包んでくださる」方だと宣言します。

教会が模範とするべき聖母マリアの根本的な生きる姿勢、とりわけ「正義と優しさの力」は、ルカ福音書に記された聖母の讃歌「マグニフィカト」にはっきりと記されています。天使のお告げを受けたマリアは、その意味を思い巡らし、その上でエリザベトのもとへと出向いていきます。「観想と他者に向けて歩む力」であります。

Assump2002

マリアは全身全霊を込めて神を賛美するその理由を、「身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです」と記します。ここに、「謙虚さと優しさは、弱い者の徳ではなく、強い者のそれであること」を見いだすことが出来ると教皇は記します。なぜならば、マリアがこのときその身をもって引き受けた主の招きとは、人類の救いの歴史にとって最も重要な役割であり、救い主の母となるという、人間にとって最大の栄誉であるにもかかわらず、マリアはそれを謙虚さのうちに受け止め、おごり高ぶることもなく、かえって弱い人たちへの優しい配慮と思いやりを「マグニフィカト」で歌っています。「強い者は、自分の重要さを実感するために他者を虐げたりはしません」と教皇は指摘されます。

そして「マグニフィカト」でマリアは、御父が成し遂げられようとしている業、すなわち神の秩序の実現とは具体的になんであるのかをはっきりと宣言しています。

「主はその腕を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き下ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良いもので満たし、富める者を空腹のまま追い返されます」

教皇フランシスコが私たちに求めている教会のあるべき姿は、「出向いていく教会」です。教会は、貧しい人、困難に直面する人、社会の主流から外された人、忘れられた人、虐げられている人のもとへ出向いていかなくてはならない。この教会の姿勢は、聖母マリアの「マグニフィカト」にしっかりと根ざしています。

わたしたちは、聖母マリアに導かれ、その生きる姿勢に学び、神の前に謙遜になりながら、自分のためではなく他者のためにそのいのちを燃やし、「愛を持ち自己を与える」ことを通じて、神の平和を確立する道を歩んでいきたいと思います。聖母のように、「正義と優しさの力、観想と他者に向けて歩む力」を具体的に生きていきたいと思います。

神の母聖マリア、あなたのご保護により頼みます。苦難のうちにあるわたしたちの願いを聞き入れてください。栄光に輝く幸いなおとめよ、あらゆる危険から、いつもわたしたちをお救いください。

 

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2020年8月 8日 (土)

2020年平和旬間「平和を願うミサ」@東京カテドラル

Heiwa2001

8月に入り、東京はやっと梅雨も明け、一気に真夏となりました。新型コロナによる感染症の状況は終息せず、今年の平和旬間は、あらゆる行事を中止としました。毎年の恒例行事となっていただけに残念である反面、平和は一年の一時期だけ考え祈れば実現するものではなく、いつでも思い祈り行動しなくてはならない課題であることを考えるとき、平和への取り組みを振り返り、今後の取り組みを考えてみる機会を与えられたようにも思います。

国際関係における政治や経済の様々な利害が複雑に絡み合い、そこに自然現象の変化も加わり、加えて歴史の歩みの中での様々な積み重ねがいまにのしかかり、簡単に世界の平和は実現しそうにありません。だからこそ、常に平和について考え祈り行動することは、ますます持って重要ですし、そもそもわたしたちは「平和」と言って何を目指しているのかを、信仰の立場からはっきりと自覚することも大切であると思います。

教皇様は、8月6日の広島の原爆忌にメッセージを寄せ、昨年広島と長崎を「平和の巡礼者」として訪問したことを思い起こしながら、「わたくしは、平和を強く希求し、平和のために自らを捧げようとする、今日の人々、特に若い人々の熱望を、今も心にとどめ続けています」と述べて、平和を祈り求め行動する人たちとの連帯を示されました。

その上で、教皇様はあらためて核兵器の廃絶を訴え、世界の人々に向かって、「原子力の戦争目的の使用は、倫理に反します。核兵器の保有は、それ自体が倫理に反しています」と、昨年広島から世界に向けて発信したメッセージを繰り返されます。

さらに、「広島と長崎の被爆者の方々の預言的な声が、わたしたちと未来の世代への警鐘であり続けますように」と述べてメッセージを締めくくることで、広島と長崎から世界に向けて発信される核兵器廃絶と平和への願いにご自分も連帯して、自らの声を加えて世界に発信されることを誓われています。

Heiwa2002

さて、感染症の状況は流動的ですが、東京教区内においては、現在の感染症対策を緩めることなく守りながら、限定した形での活動を継続します。8月9日から16日までの一週間、現在の対応をこのまま継続いたします。感染症対策だけではなく、熱中症にも十分にご配慮ください。

以下、本日8月8日夕方に行われた、今年の平和旬間の「平和を願うミサ」での、説教の原稿です。

 東京大司教区「平和を願うミサ」(公開配信)
2020年平和旬間
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2020年8月8日

「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」

主ご自身の、この言葉から励ましと勇気をいただき、わたしたちは平和の実現を目指しています。とりわけ、今年、2020年の夏は、1945年に広島と長崎で核兵器が使用され、多くの人命が奪われた悲劇と、それに続く太平洋戦争の終結をもって、第二次世界大戦が終わりを迎えてから75年という節目の年でもあります。

「過去をふり返ることは、将来に対する責任を担うことです」と、教皇ヨハネパウロ二世は、1981年に広島で述べています。

この75年の間、戦争の悲惨な現実が繰り返し多くの人によって語られてきたのは、戦争が自然災害のように避けることのできない自然現象なのではなく、まさしく教皇ヨハネパウロ二世が広島で指摘されたように、「戦争は人間のしわざ」であり、「人類は、自己破壊という運命のもとにあるものでは」ないからこそ、その悲劇を人間は自らの力で避けることが可能であるからに他なりません。

教会はこの節目の年の平和旬間にあたり、教皇フランシスコの昨年の広島における言葉を引用して、こう主張します。

「戦争のために原子力を使用することは、……これまで以上に犯罪とされます。人類とその尊厳に反するだけでなく、わたしたちの共通の家の未来におけるあらゆる可能性に反する犯罪です。原子力の戦争目的の使用は、倫理に反します。核兵器の所有は、それ自体が倫理に反しています」

教皇ヨハネ23世は、回勅「地上の平和」を、次の言葉で始め、教会が考える「平和」の意味を明らかにしています。

「すべての時代にわたり人々が絶え間なく切望してきた地上の平和は、神の定めた秩序が全面的に尊重されなければ、達成されることも保障されることもありません」

教会が語る「平和」とは、神の定めた秩序が実現している世界、すなわち神が望まれる被造物の状態が達成されている世界を意味しています。

教皇ヨハネ23世は「地上の平和」において、自然法に基づく人間の権利と義務について触れ、その権利がすべからく実現していることこそ、神の望まれる世界の実現であると説きます。

教皇が指摘する人間の権利とは、「生存と尊厳ある生活水準への権利、倫理的および文化的価値に与る権利、良心に従って神を礼拝する権利、生き方を自由に選択する権利、経済における権利、集会と結社の権利、移住および移民の権利、政治に関連する権利」であります。そして教皇は、わたしたちには、他者の権利を尊重し互いにそれを実現していく義務があるのだと説かれます。すなわち、そうした様々な権利が実現していない限り、神の定めた秩序はこの世界に実現していないのであり、「平和」はもたらされていません。

今年の初めから、わたしたちは経験したことのない事態のただ中におります。新型コロナウイルスの感染拡大のため、日常生活や仕事にも大きな影響が出る中、教会も今年の平和旬間行事を含め、その活動を中止せざるを得なくなりました。

感染症は一つの国に留まらず、いまや世界中を巻き込んで拡大し、各地に多大な影響を与えています。多くの方が大切ないのちをなくされた国も多数存在し、今この時点でも、いのちの危機に直面している人は少なくありません。いのちを守るために努力を続ける医療関係者に、敬意を表したいと思います。

世界を巻き込んで発生したいのちの危機は、その解決のためにも、世界全体の視点から連帯が必要であることを明確にしています。しかし残念なことに、世界的規模の連帯は、この事態にあっても実現せず、かえって、多くの国が自国の安全と利益だけを優先する事態にもなっています。資金的にも医療資源でも乏しい、いわゆる途上国の多くは取り残されようとしています。

教皇フランシスコの指示を受けて、この危機に総合的に対処するために、教皇庁には特別な委員会が設置されました。その責任者であるタークソン枢機卿は、7月7日に会見を開き、次のように述べておられます。

「現在の互いに関連した危機は、世界が互いに結びあわされている事実を反映して、連帯のグローバル化が緊急に必要であることを示している。わたしたちの世界には、一致のきずなを回復し、誰かをスケープゴートにせず、互いの批判合戦を止め、卑劣な国家主義を否定し、孤立化を否定し、そのほかの利己主義を否定するようなリーダーが必要だ」

その上で、枢機卿は今回の感染症といういのちの危機は、教皇フランシスコが強調する、共通の家を守る必要性にあらためて気づかせるとして、こう述べています。

「(人類は)第二次世界大戦以降最大の人道的危機に直面している。現在、これまでにないような金額が軍事目的で支出されているもかかわらず、病人、貧困者、排除された人、紛争の犠牲者が、比較にならないほど現在の危機の影響を受けている。現在、健康、社会経済、環境において互いに関連した危機が、富める者と貧しい者の間だけでなく、平和、富、環境正義を享受している地域と、紛争、貧困、環境破壊に直面している地域の格差も広げ続けている」

教皇フランシスコは、回勅「ラウダート・シ」で、「あらゆるものは密接に関係し合っており、今日の諸問題は、地球規模の危機のあらゆる側面を考慮することのできる展望を求めています」(137)と指摘し、総合的エコロジーへの取り組みを提唱します。

総合的エコロジーは、単に環境問題への配慮だけではなく、貧困の解決、健康の確保、基本的人権の確立、武器の放棄、紛争の停止を包摂した概念であり、すなわち平和構築を目指す道の、別の名前に他なりません。

すべては、わたしたちの共通の家の未来をどのように描き、それをわたしたちがどのように実現しようとするかにかかっています。平和の問題は、複雑に絡み合った人間の生の営みと、被造物との関係、そして創造主である神との関係を、一つ一つ解きほぐして、神が望まれる有り様に紡ぎ直していく、途方もない作業であります。たまものであるいのちに関わるすべての課題は、密接につながっており、複雑に絡み合っています。解決のための近道はありません。地道な取り組みが必要です。

「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」

わたしたちは、あらためて主のこの言葉に励まされ、平和を実現するために、様々な課題に地道に取り組んでいく決意を、今日、戦後75年の平和旬間にあたり、新たにしたいと思います。

 

 

 

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2020年8月 6日 (木)

2020年平和旬間

毎年、8月6日の広島原爆忌から、9日の長崎原爆忌を経て、15日の終戦記念日まで、10日間を平和旬間として、日本の教会は平和について語り、学び、祈っております。今年は広島と長崎に原爆が投下されてから75年の節目の年ですが、残念ながら現在の感染症の状況から、各地の行事は縮小され、東京教区においても、例年行われてきた様々な行事が中止となりました。教区のホームページにおいては、それでも出来ることをと、祈りの短冊を15日まで募集しています

あらためて、戦争で亡くなられた多くの方々の永遠の安息をお祈りいたします。戦争のために人生の道筋を大きく変えられた方々も多くおられるでしょうし、心身に重荷を負われた方も多くおられたことと思います。夏の暑さの中に佇むとき、多くの方の無念の思いが、天に昇る上昇気流のようにそこここに満ちあふれていることを感じます。その思いを祈りとして、いつくしみ深い御父にささげます。

歴史を振り返るまでもなく、わたしたちは常に平和を語りながら同時に戦いを続けています。いのちを守ることを語りながらいのちを奪い合っています。自分ひとりが同時にその二つの行為をしていなくとも、わたしたちは一匹狼として生きているわけではなく、世界中の人と繋がれて「共通の家」で生きている仲間です。なんともいえない矛盾の中で、わたしたちは歴史を刻んでいます。

「戦いを止めよ」と叫んだからと言って、それですべてが解決することはありませんし、複雑な国際関係がその一言で修復されるわけでもありません。そこには様々な側面からのありとあらゆる種類の努力の積み重ねが不可欠ですし、その積み重ねはあまりに膨大で、人間の手に余るものなのかも知れません。政治、経済、そして学問などの様々な分野での努力を積み重ね続けるためにも、そこには誰かが理想を語り続けなければなりません。たとえそれが夢のようであっても、目指すべき理想を語ることを続けたいと思います。「戦争は人間のしわざ」だからです。

東京大司教区「平和メッセージ」
2020年8月6日 平和旬間
大司教 菊地功

 

「過去をふり返ることは、将来に対する責任を担うことです」
教皇ヨハネパウロ二世は、1981年に広島でこう述べられました。

今年、2020年は、節目の年でもあります。75年前の1945年、広島と長崎で核兵器が使用され数多くのいのちが奪われました。また、世界が巻き込まれた第二次世界大戦が、終わりを迎えました。この75年の間、戦争の悲惨な現実が繰り返し多くの人によって語り継がれてきたのは、戦争が災害のように避けることのできない自然現象ではなく、まさしく「戦争は人間のしわざ」であって、そもそも「人類は、自己破壊という運命のもとにあるものでは」ないからこそ、その悲劇を自らの力で避けることが可能であるからに他なりません。

教皇ヨハネ23世は、回勅「地上の平和」を、次の言葉で始め、教会が考える「平和」の意味を明らかにしています。
「すべての時代にわたり人々が絶え間なく切望してきた地上の平和は、神の定めた秩序が全面的に尊重されなければ、達成されることも保障されることもありません」

教会が語る「平和」とは、神の定めた秩序が実現している世界、すなわち神が望まれる被造物の状態が達成されている世界であり、それは実現してはいません。

今年の初めから、わたしたちは経験したことのない事態のただ中におります。新型コロナウイルスの感染症は一つの国に留まらず、いまや世界中を巻き込んで拡大し、まさしくグローバル化した世界を巻き込んで各地に多大な影響を与えています。多くの方が大切ないのちをなくされた国も多数存在し、今この時点でも、いのちの危機に直面している人は少なくありません。また社会的に弱い立場にある人や貧しさのうちにある人は、より厳しい危機に直面しています。

グローバル化した世界を巻き込んで発生したいのちの危機は、その解決のためにも、世界全体の視点からの連帯と支え合いが必要であることを明確にしています。

教皇フランシスコの指示を受けて、この危機に総合的に対処するために、教皇庁にはCovid19委員会が設置されました。その責任者であるタークソン枢機卿は、7月7日に会見を開き、次のように述べておられます。

「わたしたちの世界には、一致のきずなを回復し、誰かをスケープゴートにせず、互いの批判合戦を止め、卑劣な国家主義を否定し、孤立化を否定し、そのほかの利己主義を否定するようなリーダーシップが必要だ」

不安の闇に取り残されたように感じているわたしたちは、ともすれば誰かを悪者に仕立て上げることで、自分の心の安心を得ようと誘惑されてしまいます。いのちの危機は、排除や排斥がもたらす分断によって、より深められてしまいます。いまは対立するときではなく、いのちを守るために、互いに手を差し伸べ合うときです。いのちを奪うことではなく、守るために行動するときです。

「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」

わたしたちは、あらためて主のこの言葉に励まされ、神が大切にされるたまものであるいのちが等しく大切にされ尊重される世界を実現し、平和を確立していきましょう。また、共通の家を危機に陥れる様々な課題が複雑に絡み合う現実の中で、神の平和を実現するために、幅広い連帯の中で、地道に取り組んでいく決意を、戦後75年の平和旬間にあたり、新たにしたいと思います。

Archdiocese of Tokyo “Peace Message”
Peace Week 2020

 

Pope John Paul II stated in 1981 in Hiroshima: ”To remember the past is to commit oneself to the future.”

This year 2020 is another milestone year. 75 years ago in 1945, nuclear weapons were used in Hiroshima and Nagasaki, and took the lives of many. This eventually led to the end of World War II. For the past 75 years, many people have repeatedly expressed the miserable reality of war, stating the fact that war is not like a calamity such as an inevitable natural phenomenon, but “war is the work of man.” In the first place, “humanity is not destined for self-destruction.” Thus, it is not beyond human power to prevent such disaster.

Pope John XXIII started the encyclical “Pacem in Terris” with the following words, clarifying the meaning of “Peace” according to the Church.

“Peace on Earth?which man throughout the ages has so longed for and sought after?can never be established, never guaranteed, except by the diligent observance of the divinely established order.”

The “Peace” which the Church speaks of is the realization of a world in the order of God. That is, a world where all creatures has achieved the state according to God’s will, and such has not been attained.

Since the beginning of this year, we have been caught up in a situation we have never experienced before. The novel coronavirus disease is not limited to one country alone, but has now spread all over the world, having a great influence in various parts of this very globalized world. There are many countries where numerous people have lost their precious lives, and even at this point, many are still facing this threat in their lives. Moreover, vulnerable in the society and poor are much more afflicted by this crisis.

In order to solve this crisis of life for a world in a state of globalization, it has become clear that solidarity and support for each other on a worldwide scale is necessary.

Under the direction of Pope Francis, the Vatican Commission for Covid-19 was created to comprehensively address this crisis. Cardinal Turkson, the president of the commission, held a press conference on 7th July and stated that:

“We need global leadership that can re-build bonds of unity while rejecting scapegoating, mutual recrimination, chauvinistic nationalism, isolationism, and other forms of selfishness.”

Feeling left behind in the darkness of anxiety, we are tempted to make someone else the bad guy in order to gain our own peace of mind. The crisis of life is deepened by the divisions brought by exclusion and rejection. Now is not the time for conflict, but the time to reach out to each other to protect all lives. It is time to act to protect life, and not to take it.

“Blessed are the peacemakers, for they will be called children of God.”

Encouraged once again by the words of the Lord, let us build a world in which life is valued and respected, something that God Himself has always treasured, and let us strive to establish peace. In addition, as we live in a situation where various complicatedly intertwined issues put our common home in danger, let us renew our commitment during this Peace Week seventy-five years after the World War, to bring about God’s peace with the determination to work hard in solidarity with all peoples.

 

6 August 2020
+ Isao Kikuchi, SVD
Archbishop of Tokyo
 

 

 

 

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2020年8月 1日 (土)

年間第18主日@東京カテドラル

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毎年夏が始まるこの時期には、「あっという間に」月日が過ぎてしまったなどと実感させられることが多いのですが、今年はいつもと異なります。まずもって8月が始まったのに、まだ梅雨の中にいるような毎日が続いており、暦の感覚と肌感覚が調和していません。加えて、新型コロナウイルス感染症の事態はいっこうに終息せず、毎日のように両極端の様々な意見が飛び交う中で、ただただ時間だけが過ぎています。

東京都で毎日報告される新規の感染者数は増加していますが、先週も触れたように、その増減に一喜一憂することなく、わたしたちは基本の感染症対策に徹して、互いのいのちを守ることを心したいと思います。密集・密接・密閉を避け、手指を消毒し、マスクを着用しながら、信仰生活を可能な範囲で続け、深めていきたいと思います。

なお、現在のステージにおいて教会活動参加に大きな制約のある、特に高齢の信徒のみなさまへ、特別な司牧的配慮を、それぞれの小教区の事情と地域の事情に応じて考えてくださるように、小教区を担当する司祭方には依頼をしてあります。すべて一概に同じような対応をすることは難しいとは思いますが、それぞれの事情に応じて、霊的な側面での司牧的配慮を講じていくことが出来るように、それぞれの現場で取り組まれていることと思います。ただし、どうか高齢の方にあっては、これまでのインフルエンザなどと異なり、今回の新型コロナウイルスにあっては解明されていないことが今の段階では多々ありますので、「健康に問題はないから」と過信されずに、是非とも慎重に行動されますようにお願いいたします。

現時点での東京や千葉における感染の報告は日々ありますが、幸いなことに教会活動を通じた感染の報告は今のところなく、教会の感染対策にも一定の効果があるものと思われますので、次の一週間、8月2日から9日まで、現在の制約を伴った活動状況を継続いたします。

以下、本日の夕方6時から東京カテドラル聖マリア大聖堂で行われた、年間第18主日の公開配信ミサの説教原稿です。なお以下の写真は、7月25日に午後に麹町教会で行われた、五大陸ロザリオの模様です。

年間第18主日A
東京カテドラル聖マリア大聖堂 (公開配信ミサ)
2020年8月2日 前晩

 

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人間の幸せとは、いったい本当はどういうことなのでしょう。わたしたちはそれをよくわかっているようで、その実、人間を幸せにしてくれるのは何か、考えれば考えるほど様々な課題が浮かび上がってきて、明確に定義づけることができません。

一番の問題は、幸せというのが、何かを持って計ることのできる絶対的な概念ではなくて、一人ひとりでその中身が全く異なる相対的な概念であることです。

そうであったとしても、少なくともわたしたちは、決して皆が不幸になるようにではなく、皆が幸せになるようにと、歴史の中で努力を続けてきたはずであります。

第二次世界大戦の後、荒廃した世界の現実から立ち上がり、再び愚かな戦いをすることなく、幸せな世界を築き上げようとした国際社会は、世界人権宣言を採択します。

その冒頭に、「全ての人間は生まれながらにして自由であり、かつ尊厳及び権利について平等である」と力強い宣言が記され、さらに第25条には「全ての者は、自己及び家族の健康及び福祉のための相当な生活水準についての権利、並びに失業、疾病、障害、配偶者の死亡、老齢そのほか不可抗力による生活不能の場合に保障を受ける権利を有する」と記されています。

1966年に定められた社会権規約には、「自己及びその家族のための相当な食糧、衣類及び住居を内容とする相当な生活水準についての並びに生活条件の不断の改善について全ての者の権利を認める(11条)」と記されていました。

しかしながら、そういった理想と様々な努力にもかかわらず、現実の世界では貧富の格差が拡大し、世界銀行が定める一日1.9米ドル未満と言う極度の貧困ライン以下で生きる人たちは、改善されたとはいえ、いまでも世界人口の一割ほどをしめています。

教皇ヨハネパウロ二世は、1991年に発表された回勅「新しい課題」に、こう記しています。
「より良く暮らしたいと願うことは間違いではありません。間違っているのは、『あること、生き方』よりも『持つこと、所有』を目指すことが、より良い暮らしに繋がると決めてかかる生活様式であり、より良く生きるためではなく、快楽を人生の目的とし快楽のうちに人生を送るために、より多く持ちたいと願う生活様式なのです(36)」

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教皇フランシスコも、東京ドームでのミサ説教で、このように述べていました。
「子としての自由が抑え込まれ弱まるときがあることを知っています。それは、不安と競争心という悪循環に陥るときです。あるいは、息も切れるほど熱狂的に生産性と消費を追い求めることに、自分の関心や全エネルギーを注ぐときです。まるでそれが、自分の選択の評価と判断の、また自分は何者か、自分の価値はどれほどかを定めるための、唯一の基準であるかのようにです。そのような判断基準は、大切なことに対して徐々にわたしたちを無関心、無感覚にし、表面的ではかないことがらに胸がときめくように仕向けるのです」

その上で、教皇フランシスコは、「イエスにおいてわたしたちは、自分たちは神の子どもだと知って自由を味わう、新たないのちを見いだすのです」と指摘されます。

あらためて言うまでもなく、神が与えようとされているのは、この世の幸福ではなく、神の言葉に聞き従うことによって、魂がその豊かさを楽しみ、いのちを得る心の糧であります。本当の幸せは、「イエスに出会う人々の心と生活全体を満たす」福音の喜びであると、教皇フランシスコは、「福音の喜び」の冒頭で指摘します

わたしたちには、その福音の喜びこそが真の幸福の源であると主張し、それを多くの人に伝えていく義務があります。

今日の福音は、五つのパンと二匹の魚の奇跡物語でありました。その奇跡が起こる前の、弟子たちとイエスとの会話に注目したいと思います。

大勢の人がイエスの話を聞くために集まっている中で、当然、人間的な必要を満たしていくことを無視することはできません。そこで弟子たちは、それぞれが食事を求めるように人々を解散させようとします。それぞれの思いのままに人々を散らしてしまおうとする弟子たちに対して、イエスは、「あなた方が彼らに食べるものを与えなさい」と指示をします。

集まっている大勢の人にとって必要なのは、真の幸せをもたらすイエスの福音であって、イエスから離れてこの世の充足を求めることではないと指摘する、イエスの弟子たちへの指示であります。もちろん実際に空腹を満たすことの必要も否定しないイエスは、パンと魚の奇跡を起こしてそれに応えますが、しかしこの場面で重要なのは、その弟子とイエスのやりとりです。

世間の常識に従って行動しようとした弟子たちに、イエスは、真の幸福の源はどこにあるのかをもう一度見直すようにと求められました。

その同じことを、現代に生きる弟子であるわたしたちは、主イエスからおなじように問いかけられています。本当の幸福は、この世の生み出す幸福にはあり得ないことを、そして、本当の幸福は、イエスの福音にあることを、多くの人に伝えるように求められています。福音に従ってより良く生きることこそが、本当の幸福の源であることを、わたしたち自身の生き方と、語る言葉であかししながら伝える務めがあります。

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社会の現実の中で、福音を伝えようとすることには、当然さまざまな困難があります。パウロはそれを、「艱難、苦しみ、迫害、飢え、裸、危険、剣」による抵抗と記していました。形を変えて、これらの抵抗は現代社会にも存在していますし、そのためにわたしたちは福音を伝えることを躊躇してしまいます。しかしパウロは、そういった苦しみは、「キリストの愛からわたしたちを引き離すことはできない」と断言します。

教皇フランシスコは、「福音の喜び」に、「もし、イエスを伝えたいという強い思いを抱いていないなら、イエスに向かって、再びあなたに引き寄せてくださいと、もっと祈る必要があります(264)」と記しています。

人間の真の幸福の源であるイエスの福音を、勇気を持って困難を乗り越え、多くの人に伝える思いを抱くことができるように、「再びあなたに引き寄せてください」と、さらに祈り続けましょう。

わたしたちの「心と生活全体を満たし」てくれるのは、福音の喜びであって、それは「イエスに出会う人々」に与えられるからです。「罪と悲しみ、内面的なむなしさと孤独から解放」するのは、「イエスの差し出す救い」にあるからです。

だから、すべての人の幸せを願いながら、「イエスに向かって、再びあなたに引き寄せてくださいと」、何度も何度も祈り続けましょう。

 

 

 

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