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2020年10月31日 (土)

諸聖人の祭日@東京カテドラル

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11月1日は諸聖人の祭日で、今年は日曜日となりましたから、主日にお祝いすることになりました。

公開ミサを一時中止にした2月27日以降の主日、すなわち3月1日から、インターネットを通じて、大司教司式ミサを配信してまいりました。6月半ば、キリストの聖体の主日の次の日曜、6月21日から限定的ながらも公開ミサが再開されたこともあり、それまでの日曜午前10時の配信から、土曜日午後6時の配信へと変更して続けてきました。毎回、生中継した映像を、そのままYoutubeに残していますから、別途編集することの出来ない映像をその場で作成しなくてはなりません。関口教会の田村さんをはじめボランティアスタッフが、本当に努力してくれました。またできる限り、美しい典礼をと言うことで、聖歌隊としてイエスのカリタス会の志願者とシスター方が、交代で毎回参加してくださいました。毎回、さまざまな歌をご自分たちで選択し、週日にはよく練習してきてくださり、事前の準備も大変だったことだと思います。感謝します。

幸いカテドラル内は他の小教区聖堂にはないほどの大きな空間がありますし、内陣から会衆席までの距離も空間も大きなものがあります。それでも互いに充分な距離を開けて飛沫感染を防ぐこと、ミサの最中でも必要に応じて手指の消毒を繰り返すことなど、いろいろ注意をしてきましたし、公開ミサが再開となってからは、関口教会の定めた方法で参加人数を絞り、また座席は一列ずつ移動させて前後左右2メートルを確保、歌唱は聖歌隊のみ、また聖体拝領直前には全員の手指をあらためて消毒するなど、感染対策をとってまいりました。

小教区でのミサも徐々に再開されてきたこともあり、週末のさまざまな教会行事も再開しスケジュール調整が必要となってきたこともあり、カテドラルからの大司教司式ミサの配信は、本日をもって一時中止とします。今後は大きな儀式や祭日には中継をいたしますし、状況に応じては、あらためて再開することになるかも知れません。ミサの配信に協力してくださった多くの方に、心から感謝します。今後の配信の際には、東京教区ホームページでお知らせいたします。

なお、今回の事態の中で、ミサの配信を始めた小教区も少なくありません。そういった小教区で、情報を公開しているところに関しては、東京教区ホームページで情報を提供していますので、ご覧ください。

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以下、諸聖人の祭日ミサ、10月31日土曜日午後6時から、東京カテドラル聖マリア大聖堂で捧げたミサの説教原稿です。

諸聖人の祭日(公開配信ミサ)
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2020年10月31日

教会は、11月1日を諸聖人の祭日、そして11月2日を死者の日と定め、さらに11月全体を「死者の月」としています。11月1日には、すべての殉教者と証聖者を記念し、11月2日にはわたしたちに先立って御父のもとへと旅立ったすべての人を思い起こし、祈りをささげます。

イエスをキリストと信じる私たちは、「イエスを信じ、その御体を食べ、御血を飲む人々を世の終わりに復活させてくださる」のだと確信し、永遠のいのちに生きる大きな希望を持ちながら、この人生を歩んでいます。

同時に、「私をお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人をひとりも失わないで、終わりの日に復活させることである」と言われたイエスの言葉に信頼し、いつくしみ深い神が、その限りない愛をもって、すべての人を永遠のいのちのうちに生きるよう招かれていることも信じています。

親しい人とのこの世での別れは悲しいことではありますが、教会は同時に、永遠のいのちへの希望を高く掲げることを止めることはありません。葬儀ミサで唱えられる叙唱にも、「信じる者にとって、死は滅びではなく、新たないのちへの門であり、地上の生活を終わった後も、天に永遠のすみかが備えられています」と私たちの信仰における希望が記されています。

カトリック教会のカテキズムには、「わたしたちは生者と死者を問わず万人と連帯関係にあり、その連帯関係は聖徒の交わりを土台としているのです」と記されています。地上の旅路を歩む民と天上の栄光にあずかる人たちとには連帯関係があり、共に教会を作り上げています。それを第二バチカン公会議の教会憲章は、「目に見える集団と霊的共同体、地上の教会と天上の善に飾られた教会は、二つのものとして考えられるべきではなく、人間的要素と神的要素を併せ持つ複雑な一つの実在を形成している」と記しています。わたしたちは、信仰における先達と共に、キリストの唯一の体において一致して、連帯関係のうちに教会共同体を作り上げています。教会共同体はこの世における目に見える組織だけのことではなく、信仰の先達との霊的な絆のうちに、普遍的に存在している実体であります。

その中でも、諸聖人は、その生き方をもって、すなわちその言葉と行いを持って、信仰を力強くあかしした存在として、この世を歩む教会にとっての模範であります。

教皇ベネディクト16世は回勅「希望による救い」において、「人間は単なる経済条件の生産物では」ないからこそ、「有利な経済条件を作り出すことによって、外部から人間を救うことはできない(21)」と指摘します。その上で教皇は、「人とともに、人のために苦しむこと。真理と正義のために苦しむこと。愛ゆえに、真の意味で愛する人となるために苦しむこと。これこそが人間であることの根本的な構成要素です。このことを放棄するなら、人は自分自身を滅ぼす(39)」と述べています。

今日私たちが記念するすべての聖人や殉教者たちは、その人生における言葉と行いを通じて、また他者とのかかわりを通じて、この世の命を生き抜いた姿を通じて、まさしく「人間であることの根本的な構成要素」を明確にあかしした存在であります。

その人生において聖人や殉教者は、人とともに、人のために苦しみ抜きました。真理と正義のために苦しみ抜きました。愛ゆえに、真の意味で愛する人となるために、苦しみ抜きました。

苦しみ抜き、生き抜いたとき、その真摯な生きる姿が、多くの人から尊敬を持って評価される生き方となりました。使徒言行録に記された初代教会の姿を思い起こします。

「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである」(使徒言行録2章44節~47節)

聖徒の交わりである教会は、現代社会にあって何をあかししているのでしょうか。一致でしょうか、分裂でしょうか。愛でしょうか、憎しみでしょうか。いつくしみでしょうか、排除でしょうか。ゆるしでしょうか、裁きでしょうか。賛美でしょうか、ののしりでしょうか。

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山形県の北の外れに新庄という町があります。この郊外に今年で献堂10年を迎える小さな教会共同体が存在しています。所属している信徒の9割は、近隣の農家でお嫁さんとなったフィリピン出身の信徒の方々です。

10年前、献堂式の時に、リーダーのフィリピン出身の女性信徒が、教会誕生までの道程を話してくれました。20年以上前の来日当初、教会が近くにはなかったため、毎日曜日にご主人に頼んで遠くの町の教会まで送ってもらっていました。それが続いていたあるとき、親戚の方から、「あなたは教会がないと生きていけないのか」と問い詰められたと言います。自分の信仰について真剣に考え抜いた結論は、「もちろん教会がなければ生きてはいけない」でありました。

その日から、出会うすべての同郷の友人たちに声をかけ、日曜日に誰かの家に集まり、司祭を招いてミサを立ててもらい、共同体を育てていきました。

私が彼女たちと出会ったのは新潟の司教となった直後の2005年です。大きな農家の居間でミサを捧げた後に、彼女たちから、自分たちの教会がほしいと懇願されました。近隣に定住した信徒がどれほどいるのか数えてもらったら、フィリピン出身の信徒が90名を超えていました。一緒に歩んでいた日本人信徒は3名です。

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新しい教会を作るなど、財力もないこの小さな教区では無理だと思いましたが、その5年後には、献堂式にまでこぎ着けました。彼女たちの熱心さに感銘した多くの人が、教区内外から支援を申し出て、廃園になった幼稚園の建物を手に入れて改築したのです。

「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである」

すべてをなげうってただ神のことだけを求め生きる人たちを、イエスは幸いだと呼ばれました。「教会がなければ生きていけない」と言う一途さが、周囲の人を巻き込んで、教会共同体を生み出し、教会の献堂まで実現してしまいました。

わたしたちは、信仰に生きていると言いながら、何に全身全霊をささげているでしょうか。
わたしたちは、共同体において一致していると言いながら、何をあかししているのでしょうか。
わたしたちは、聖体の秘跡に養われていながら、何を告げしらせているのでしょうか。

聖人たちに倣って生きること、すなわち聖性への招きは、すべての人に向けられた召命であります。もちろん自力でそれを達成できるものではなく、神からの恵みが不可欠ですが、同時に招きに応えようとする決意も必要です。聖人たちの生涯に目を向ければ、聖性への招きへの答えは、日々の小さな行動の積み重ねであることが分かります。その積み重ねを支えるのは、主に対する一途な思いであります。

わたしたちの信仰の先達である諸聖人、殉教者の模範に倣い、わたしたちも苦しみを耐え忍びながら、勇気を持ってイエスの福音をあかしできるよう、聖霊の導きを祈りましょう。

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(追伸)

なお教会の伝統は、11月2日「死者の日」または11月1日から8日までの間に全免償を得、それを煉獄の魂に譲ることが出来ると定めてきました。今年はコロナ禍にありますので、教皇庁内赦院は特別の定めを行いました。詳しくはこのリンクのバチカンニュースをご覧ください。その核心部分は以下の通りです。(また免償についての簡単な解説は、例えばこのリンク先を参照ください)

 a.  11月1日から11月8日までの各日において、故人のために、たとえ精神の上だけでも、墓地を訪問し、祈る者に与えられる全免償を、11月中の他の日々に代替できる。これらの日々は、個々の信者が自由に選ぶことができ、それぞれの日が離れていても可能である。

 b. 「死者の日」を機会に、聖堂を敬虔に訪問し、「主の祈り」と「信仰宣言(クレド)」を唱えることで与えられる11月2日の全免償は、「死者の日」の前後の日曜日、あるいは「諸聖人の日」に代替できるものであるが、信者が個々に選べる11月中の別のある1日に代替することもできる。

 

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2020年10月24日 (土)

年間第30主日@東京カテドラル

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10月最後の主日となりました。年間第30主日です。次の日曜は11月1日で、今年は諸聖人の祭日が次の日曜に祝われます。そのため、前晩である10月31日土曜日18時の配信ミサも、諸聖人の祭日となります。

なお、東京カテドラルからの大司教司式配信ミサは、次の土曜日、この10月31日の配信を持って一旦区切りを付けさせていただきますが、現在ではイグナチオ教会をはじめ多くの小教区で配信ミサが行われるようになりましたので、是非そちらをご利用ください。東京カテドラルからの大司教司式ミサの次の配信予定は、主の降誕深夜ミサの予定です。カテドラルからの配信予定については、随時、東京教区ホームページでお知らせいたします。

先週10月17日土曜日午後には、受刑者・出所者の社会復帰支援などを行うNPO法人マザーハウス(代表:五十嵐弘志さん)の主催で、受刑者と共に捧げるミサがイグナチオ教会で行われ、教誨師などで関わる司祭たちと一緒に、司式をさせていただきました(上の写真)。これも配信ミサで行われました。詳しくは、マザーハウスのホームページなどをご覧ください。当日のビデオもホームページからご覧いただけます。

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また10月18日の午後には、碑文谷教会で26名の方の堅信式も行われました。当初は世田谷南宣教協力体(上野毛、田園調布、碑文谷)の合同堅信式の予定でしたが、現在の状況から、碑文谷の方だけの堅信式となりました。また宣教協力体の各教会から主任司祭と役員の方に集まっていただき、ミサ後に短い時間でしたが、現状についてのお話を聞かせていただくことも出来ました。

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先般、典礼秘跡省から送付された指示に従い、堅信を授ける際には直接指で聖香油を塗るのではなく、一人ひとり脱脂綿で塗油をいたしました。堅信を受けられた皆さん、おめでとうございます。

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以下、本日10月24日土曜日18時から行われた年間第30主日ミサの、説教原稿です。

年間第30主日A(公開配信ミサ)
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2020年10月25日

教会にはいのちの福音を告げしらせる使命があります。神のことばがひとりの人として誕生した受肉の神秘こそが、すべてのいのちの尊厳を明確に示し、すべてのいのちに比類なき価値があることを明確にしています。

「いのちを守るための行動」などという呼びかけが繰り返される中で、今年わたしたちはいのちが危機に直面する事態を実際に体験し、いのちの価値、そしていのちの意味をあらためて考えさせられています。

災害や疾病など、人間の力の及ばないいのちの危機が存在する反面、世界には人間が生み出した様々な事由から、危機に直面させられている多くのいのちがあります。

教皇フランシスコは先日の一般謁見で、「社会内の不正義、不公平に与えられる機会、貧しい人を社会の周縁に追いやること、貧しい人への保護の欠如」を、「より大きなウィルス」とまで指摘されていました(8月19日一般謁見)

また2018年の一般謁見では、「戦争、人間を搾取する組織、被造物を投機の対象とすること、使い捨て文化、さらには人間存在を都合良く支配するあらゆる構造によって、いのちは攻撃されています。そうして考えられないほど大勢の人が、人間にふさわしいとは言えない状況で生きています。これはいのちへの侮蔑であり、ある意味での殺人です」とまで述べておられます(2018年10月10日)。

感染症への対策を強める中で、明らかに拡大している貧富の格差。社会の不安が増大する中で頻発する、異質な存在への排除の傾向。統制を強める国家による圧政の結果としての、民族や思想に対する迫害。排除の力が強まる中で、顧みられることなく孤立するいのち。

一年前の訪日で、教皇フランシスコは日本の現状を次のように話されていました。
「ここ日本は、経済的には高度に発展した社会ですが、今朝の青年との集いで、社会的に孤立している人が少なくないこと、いのちの意味が分からず、自分の存在の意味を見いだせず、社会の隅にいる人が、決して少なくないことに気づかされました。家庭、学校、共同体は、一人ひとりがだれかを支え、助ける場であるべきなのに、利益と効率を追い求める過剰な競争によって、ますます損なわれています。(東京ドームミサの説教)」

いまや、その始まりから終わりまで、すべての段階でいのちは危機に直面しています。

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マタイによる福音は、「隣人を自分のように愛しなさい」と教えるイエスの言葉を書き記しています。

第一の最も大切な掟は、当然ですが、心と精神と思い、すなわち感情もいのちも知性も、人間の存在のすべてを尽くして、いのちの与え主である神を愛せよと教えます。

そして第二の掟として、「隣人を自分のように愛せよ」と教え、その二つを持ってすべての掟の土台となるのだとイエスは教えます。

教皇ヨハネパウロ二世は「いのちの福音」で、「『殺してはならない』というおきては、自分の隣人を愛するという積極的な命令の中に含まれ、いっそう完全な形で表現される(41)」と記し、隣人愛の教えは、そもそも「殺してはならない」という、神の十戒の第五の掟に基づいているのだと指摘されます。

しばしば繰り返してきましたが、今回の感染症に直面する中で、教会が選択した公の活動の停止という行動は、後ろ向きな逃げるための選択ではなく、いのちを守るための積極的な選択でした。それはカテキズムにも記されているとおり、まさしく「殺してはならない」という掟が、他者をいのちの危機にさらすことも禁じているからであり、それはすなわち、「隣人を自分のように愛せよ」という掟を守るためでもあります。

わたしたちはあらためてこの危機的な社会の状況の中で、いのちを守ることの大切さを強調したいと思います。

教皇ヨハネパウロ二世は「いのちの福音」の中で、いのちを守ることに対する厳格な教会の姿勢を明確にすると同時に、それは人を裁くためではないこともはっきりと言明されています。

例えば「いのちの福音」には、次のように記されています。
「『殺してはならない』というおきては断固とした否定の形式をとります。これは決して越えることのできない極限を示します。しかし、このおきては暗黙のうちに、いのちに対して絶対的な敬意を払うべき積極的な態度を助長します。いのちを守り育てる方向へ、また、与え、受け、奉仕する愛の道に沿って前進する方向へと導くのです。(54)」

すなわち、わたしたちはいのちの危機を生み出しているさまざまな社会の現実に目を向け、その社会の現実を、「いのちを守り育てる方向へ、また、与え、受け、奉仕する愛の道に沿って前進する方向へと導く」務めがあります。いのちを危機にさらしている事態そのものを指摘することも重要ですが、同時にそういった危機的状況を生み出している社会のあり方そのものを変えていこうとすることも大切です。

いのちの危機を生み出す社会の状況を、教皇ヨハネパウロ二世は、「構造的罪」とよび、それを打破するために世界的な連帯の力が必要であると指摘されています。

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出エジプト記は、「寄留者を虐待したり、圧迫したりしてはならない。あなたたちはエジプトの国で寄留者であったからである」と記していました。

イエスの言葉と行われた業は、弱い立場に置かれているいのち、すなわち危機に直面しているいのちに対して、わたしたちが積極的に関わらなければならないことを明確に示しています。わたしたちはこの世界にあって、時として、まるで自分たちがこの世の支配者であるかのように振る舞います。そのとき弱い立場にある人への配慮の心は消え失せてしまいます。

しかしわたしたち自身、この世界を自ら生み出したわけではなく、そもそもいのちすら自分で生み出したものではない。すべては神から与えられ生かされている立場であることを考えるとき、いのちの危機に直面する人へ思いを馳せるのは当然の務めであります。

パウロはテサロニケの教会に対して、その生活が周囲に対する模範となっているとの賛辞の言葉を贈ります。そして「主の言葉があなた方のところから出て、マケドニア州やアカイア州に響き渡ったばかりでなく、神に対するあなた方の信仰が至るところで伝えられて」いると記しています。

わたしたちの教会は現代社会にあってどうでしょうか。

教会が、いのちを守る場として、この不安が支配する時代に希望の光を輝かせる存在となるよう、またいのちの福音を自信を持って告げしらせる存在となるよう、聖霊の導きに身をゆだねながら、確実に歩みを進めたいと思います。

 

 

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2020年10月17日 (土)

年間第29主日:世界宣教の日@東京カテドラル

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年間第29主日です。10月の終わりから二つ目の日曜日は、世界宣教の日と定められています。説教の中で詳しく触れました。

福音を宣教することは教会の大切な使命です。カトリック教会のカテキズムには、こう記されています。

「洗礼が救いに必要なことは、主ご自身が断言しておられます。キリストは弟子たちに、すべての民に福音を告げ、洗礼を授けるようにお命じになりました。福音が伝えられてこの秘跡を願うことの出来る人々の救いのためには、洗礼が必要です」

同時にカテキズムは、「神は救いを洗礼の秘跡に結びつけられましたが、神ご自身は秘跡に拘束されることはありません」とも記され、望みの洗礼や、洗礼を受けずになくなった幼児の救いについて、神ご自身の御手の中にあるいつくしみによる救いの可能性にもふれ、詳しく解説されています。是非一度、カテキズムの1257番以降をご覧ください。

わたしたちは、すべての人が洗礼の恵みにあずかるように目指して、福音を広く伝えていく努力を続けていかなければなりません。ですから教会にとって福音宣教は、欠かすことのできない務めであります。

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さて昨日、10月16日、ベタニア修道女会の初誓願式と終生誓願式が行われました。例年であれば、修道会の本部がある徳田教会で行われますが、今年は新型コロナの感染症対策のため、広いスペースでと言うことで、東京カテドラルで行われました。

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初誓願を宣立されたシスターフランシスカ齋藤美紀さん、終生誓願を宣立されたシスターテレサ川鍋真澄さん、おめでとうございます。それぞれ派遣される現場で、福音をその言葉と行いであかしされますように、活躍を期待しています。

ベタニア修道女会は、東京教区立の修道会です。当時東京を含む日本の再宣教を福音宣教省から委託されていたパリ外国宣教会のフロジャック神父様が始めた社会福祉の事業がうみだした姉妹たちの会が発展し、1937年に教皇庁布教聖省(現在の福音宣教省)の許可のもと東京のシャンボン大司教によって認可されたものです。詳しくは、ベタニア修道女会のホームページをご覧ください。

教会は、例えば教区などの単位に分けられ、それぞれが司教などの教区長によって司牧されています。一見、さまざまな修道会や宣教会が、それぞれの事情で勝手に活動しているように見えますが、教会法の定めに従って教区長の認可がなければ、その地域で活動することはおろか修道院を作ることも出来ません。ですから、ある意味、すべての修道会や宣教会は、教区長の招きによって教区内に存在しています。多くの修道会や宣教会は、教区長が海外から招いたものですが、中にはベタニア修道女会のように国内で創立された修道会も少なくありません。いくつご存じでしょう。東京教区にも、複数のそういった、日本国内で誕生した修道会が働いておられます。

以下、本日10月17日午後6時から、東京カテドラル聖マリア大聖堂でささげた、年間第29主日公開配信ミサの説教原稿です。

年間第29主日A(公開配信ミサ)
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2020年10月18日・世界宣教の日

教会は10月の終わりから二番目にあたるこの主日を、毎年、「世界宣教の日」と定めています。教会の最も大切な使命である福音宣教への理解を深め、その活動のために祈る日であり、また世界中の教会が、福音宣教にあって互いに助け合うための献金の日でもあります。

バチカンには福音宣教省という役所があり、日本のようにキリスト教国ではない地域の教会を管轄しています。その福音宣教省には教皇庁宣教事業と名付けられたセクションがあり、この世界宣教の日に集められた世界中の献金を集約し、宣教地における教会の活動を資金的に援助する事業を行っています。各国にはこの部門の担当者が司教団の推薦で聖座から任命されており、日本の教会では、立川教会の門間直輝神父様が、日本の代表として教皇庁宣教事業の活動をとりまとめておられます。昨年は日本の教会からの献金が、福音宣教省の指示に従い、インドの教会活動の援助などに使われたと聞いています。

さて、教会にとって福音宣教は最も大切な使命の一つであります。あらためて引用するまでもなく、例えば、マルコ福音書の終わりには「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」という、復活されたイエスによる弟子たちへの宣教命令が記されています。

第二バチカン公会議の教会憲章は、その冒頭で、「諸民族の光はキリストであり、そのため聖霊において参集したこの聖なる教会会議は、すべての被造物に福音を告げ、教会の面に輝くキリストの光をもってすべての人を照らそうと切に望む(1)」と、教会に与えられた福音宣教の使命を再確認しています。

本日の第二朗読、テサロニケの教会への手紙でパウロは、「わたしたちの福音があなた方に伝えられたのは、ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信によったからです」と記しています。同じパウロは、コリントの教会への手紙に、次のように記していました。

「キリストが私を遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの十字架が空しくならないように、言葉の知恵を用いずに告げ知らせるためだからです(1コリント1章17節)。」

もちろんわたしたちは、何かを信じようとするとき、論理的に構築された事実を理解し、十分に納得した上で、その次の決断を下します。十分に納得するために、さまざまな知識を積み重ねていきます。もちろんそういった知識の積み重ねの重要さを否定することは出来ませんが、しかし、パウロは、そういった知識の積み重ねを、「言葉の知恵」と言い表します。

テサロニケの教会への手紙では、「ただ言葉だけによらず」と記し、コリントの教会への手紙では「言葉の知恵を用いずに」と書いています。福音は積み重ねられた知識によってだけではなく、ほかの方法でこそ告げられなくてはならないと指摘しています。

それは、わたしたちの伝えようとしている福音が、イエスそのものであり、イエスはわたしたち人間の知恵と理解を遙かに超える存在であるからです。すなわち人知の積み重ね、言葉の知恵を遙かに凌駕する存在だからであります。

そのことをイエスご自身は福音の中で、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と表現します。

すなわちこの世の価値観によって構築された世界と、神の価値観によって構築される世界は、全く異なる存在であって、神の価値観に基づく言動は、この世の価値観ではその意義を計ることが出来ないからにほかなりません。その二つを無理に一緒にしようとするとき、神の価値観に基づく言動は、妥協のうちに失われてしまいます。

それでは言葉の知恵によらないイエスの存在そのものは、どこで知ることが出来るのか。

パウロは、コリントの教会への手紙でそれを、「キリストの十字架」であると言い切ります。同じことをパウロはテサロニケの教会への手紙では、「力と、聖霊と、強い確信」と言い表します。

キリストの十字架は、神ご自身が、自ら創造された人間のいのちを愛するがあまり、自らその罪科を背負い、究極の理不尽さの中で、自らをご自身への贖罪のいけにえとされた事実、すなわち神の愛の目に見える行いそのものであります。

ですからパウロは、テサロニケの教会の人々が、「信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していること」を神に感謝します。キリストの愛を、目に見える形で生き抜いている教会の姿への感謝です。

わたしたちはキリストの十字架というもっとも強烈な神の愛のあかしを目の当たりにして、神の愛の価値観に虜にされ、その神の愛の価値観に基づいて生き、語り、行動することを通じて、福音をあかししていくのであります。

教皇フランシスコは、本日の世界宣教の日にあたって、「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」(イザヤ6・8)と言うタイトルでメッセージを発表されています。

教皇は特に、感染症の非常事態に直面しているわたしたちは、「福音の中の弟子たちのように、思いもよらない激しい突風に不意を突かれたのです」と記しています。

その上で教皇は、そういった体験を通じてわたしたちは、「自分たちが同じ舟に乗っていることに気づきました。・・・皆でともに舟を漕ぐよう求められていて、だれもが互いに慰め合わなければならないのだと」と、共通の理解を持ち始めていると指摘します。世界的な規模での連帯の必要性に、わたしたちは気がつかさせられています。

こうした状況のなかにあるからこそ、教会は福音宣教の必要に目覚め、さらに取り組まなくてはならないと教皇は指摘し、次のようにメッセージで述べています。

「宣教への呼びかけと、神と隣人への愛のために自分の殻から出るようにとの招きは、分かち合い、奉仕し、執り成す機会として示されます。神から各自に託された使命は、おびえて閉じこもる者から、自分を差し出すことによって自分を取り戻し、新たにされる者へとわたしたちを変えるのです」

教会共同体は、未知の感染症の状況の中でどのような道を歩むべきなのか迷っています。すべてのいのちを守るために、これまで慎重な道を選択してきました。こうした状況にあっても、いやこうした状況だからこそ、わたしたちにはそれぞれの生きる場での福音宣教者となることが求められています。不安が渦巻く困難な状況のなかにあっても、だれひとり忘れられてはいないのだ、神から心をかけられないいのちはありえないのだ、愛されていないいのちはないのだと、声を大にしてこの社会のただ中で叫びたい思いであります。

世界宣教の日に当たり、あらためて、「だれを使わすべきか」と問いかける神の声に気がつきましょう。そして自信を持って、「私がここにおります」と応えましょう。日々の生活の中で、自分が生きる姿勢、人と関わる姿勢、配慮の心、そして語り記す言葉をもって、愛といつくしみそのものであるイエスの福音をあかししてまいりましょう。

 

 

 

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2020年10月16日 (金)

日本からのパパモービル、バチカン到着

間もなく、教皇フランシスコが来日されてから一年となります。昨年11月25日は、教皇様が東京カテドラル聖マリア大聖堂を訪れ、青年たちとの集いを行った記憶に残る日でもあります。

コロナ禍で大きな記念行事は出来ませんが、せっかくの一年目ですから、教皇様のカテドラル訪問を記念して、11月25日(水)の午前10時から、わたしが司式して感謝ミサを行います。現在週日の午前10時は、韓人教会の週日ミサの時間帯ですので、その時間を貸していただく形でミサを捧げ、教皇様が残してくださったさまざまな言葉に思いを馳せたいと思います。

ところで、昨年の訪日のとき、長崎や東京ドームでのミサにあたって教皇様が乗車された白いオープンカーを記憶されていますか。写真は、東京ドームで教皇様と一緒に会場内を周回する直前に、バチカンの警備担当がとってくれたものですが、この車、一般に「パパモービル」などと呼ばれる車です。

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もちろんこんな自動車は販売されてはおらず、これはトヨタのMIRAIという水素自動車を、トヨタが改装してくれたものです。環境への配慮を優先事項の一つに掲げる教皇様に、是非ともそれにみあった車に乗ってほしいという関係者の思いが結集して、最終的にトヨタが二台用意してくれました。この日東京ドームスタンド下では、この車の改装にあたったスタッフが教皇様を待ち構え、会場内周回に出る前に、教皇様から感謝の言葉と祝福がありました。

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日本でパパモービルを運転をした担当者(バチカン職員)が、このMIRAIを非常に気に入り、ローマに持ち帰りたいと「それとなく」アピールされたのです。とはいえ、この車はかなりの改造をしてあるので公道を走行できませんし、そもそも水素がないと走りません。そしてローマに水素ステーションはなく、ミラノまで行かないといけないらしい。ちょっとローマまで運ぶのは無理かな・・・と思っていたところ、イタリアトヨタをはじめさまざまな関係者が調整を続け、長い海の旅を経て、このたびバチカンに到着しました。感染症のために日本から関係者は渡航できませんでしたが、イタリアをはじめヨーロッパののトヨタ関係者の手によって、10月初めに無事届けられたとのこと。水素の補給もトヨタがなんとかする模様。トヨタの皆さん、ありがとうございます。

あるサイトから("Najiauto"リンクはこちら、英語です)写真をまとめたビデオを見つけたので、以下に貼っておきます。

 

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2020年10月10日 (土)

年間第28主日@東京カテドラル

Seibocuria

東京は台風が近づいていることもあり、雨風の強い、寒い週末となりました。

先日相次いでいくつかの人事を公示しましたが、その中で、東京教区司祭の伊藤幸史師が、新潟教区へ移籍すると言う人事を発表しました。もともと東京教区と新潟教区は、同じ東京教会管区の仲間と言うこともあり、その中でも新潟教区が信徒数から言って一番小規模であることから、これまでも東京教区から司祭が出向の形で派遣されてきました。私が新潟の司教をしている間にも、東京教区の江部神父様が派遣され、新潟教会の主任司祭を務めてくださっておりました。伊藤幸史神父様は、やはり私がまだ新潟司教であった2013年に新潟教区へ派遣され、これまで糸魚川や新津などの教会で活躍されてきました。ご本人からはすでに数年前に教区移籍の打診がありましたが、このたび新潟に新しい司教が誕生したことから、早速両教区の司教同士で話し合い、移籍となりました。これからは伊藤幸史神父様は新潟教区司祭となります。新しく任命された成井司教様を助けて、新潟教区で活躍されることをお祈りします。

なお司祭は、教区とか属人区とか修道会や宣教会などと言った教会法上の独立した法人組織に所属していない限り、司祭としての職務を果たすことは出来ませんし、恒常的に使徒職を果たすためには、働こうとしている当該教区の司教から、司祭としての権能を文書で委任されていなければなりません。

さて、3月1日以来、コロナ禍で教会活動を制限せざるを得ない状況の中、主日ミサを日曜日または土曜日に、東京カテドラルから大司教司式ミサとしてネット配信してきました。お手伝いいただいている関口教会青年をはじめとするボランティアの皆さん、毎回聖歌隊を努めてくださっているイエスのカリタス会の志願者とシスター方には、本当に感謝しています。徐々に教会活動が再開してきており、諸行事も復活しつつありますし、またネット配信を始めている教会も増えています。そこで、カテドラルからの大司教ミサ配信は10月31日(土)をもって、いったん中断させていただきます。今後は状況を見極めて判断しますが、クリスマスなどの大きな行事や教区行事は配信をいたしますので、その際には、教区ホームページでお知らせいたします。なお、11月以降は、土曜日に大司教メッセージビデオを配信できるように、現在検討中です。

以下、土曜晩の配信ミサ説教の原稿です。

年間第28主日A(公開配信ミサ)
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2020年10月11日

「諸民族の心と精神の和解によって最後には真の平和が世界に輝くよう、幸いなるおとめマリアの助けを願うために、十月にロザリオを唱えることを強く勧めます」

教皇パウロ六世が1969年に発表された使徒的勧告「レクレンス・メンシス・オクトーベル」は、そう始まっています。

あらためて言うまでもなく、10月はロザリオの月であります。10月7日にはロザリオの聖母の祝日があり、また教会は伝統的に10月にロザリオを祈ることを勧めてきたこともあり、教皇レオ十三世によって10月が「ロザリオの月」と定められました。

ロザリオの起源には諸説ありますが、十二世紀後半の聖人である聖ドミニコが、当時の異端と闘うときに、聖母からの啓示を受けて始まったと伝えられています。10月7日のロザリオの聖母の記念日も、1571年のレパントの海戦でのオスマン・トルコ軍に対する勝利が、ロザリオの祈りによってもたらされたとされていることに因んで定められています。そういったことだけを耳にすれば、ロザリオは戦いのための武器のようにも聞こえてしまいます。もちろん、ある意味、ロザリオは信仰における戦いのための道具とも言えるのかも知れませんから、歴史的背景が変わった現代社会にあっても、信仰を守り深めるために重要な存在であると思います。

とりわけ今年のように、感染症拡大の事態にあって、目に見える形で教会に集まることが出来なかったり、聖体祭儀に共にあずかることが適わないという非常事態においては、まさしく信仰自体が危機にさらされていると言っても過言ではありません。そういう信仰の危機にあるからこそ、祈りによる連帯と一致は重要ですし、その意味でロザリオは信仰の危機に立ち向かう武器であるとも言えるでしょう。

これまで長いことわたしたちは、日曜に教会に集まることが、教会の一致の表現であると思っていました。だからこそ、さまざまな事情で教会に来られない人たちや、洗礼後に教会を離れていった人たちに、日曜日に教会に戻っておいでなさいと呼びかけてきました。なぜなら、集まっている教会にこそ、共同体の一致があると思っていたからです。

しかし今回の緊急事態は、その集まることを不可能にすることで、それでは教会共同体の一致とはどこにあるのだと、わたしたちに問いを投げかけてきました。まさしく、教会の一致はどこにあるのでしょう。共同体はどこにあるのでしょう。

わたしたちの信仰は、もちろん個々人の信仰、すなわち一人ひとりに固有のイエスとの出会いの体験による信仰が基礎となっていますが、だからといって教会の信仰とは個々人の信仰の単なる寄せ集めではありません。わたしたちはそれぞれが信仰を深めつつ、共同体において一致することで、共に神の民を形成し、共に信仰の旅路を歩んでまいります。わたしたちは、神の民です。

ですから、普遍教会の一員であり、教区共同体の一員であり、小教区共同体の一員であるという意識は、わたしたちの信仰にとって欠かせない共通認識です。

共同体における一致の意識は、もちろん物理的に一緒になることも含まれていますが、それだけにとどまるものではありません。そこには霊的な意味での一致が不可欠です。不可欠と言うよりも、霊的な意味での一致がなければ、神の民は存在できません。相対的な価値判断が蔓延する現代社会にあって、あれもこれもどれでもよいという単なる数だけの集まりでは、霊的な一致は成り立ちません。身勝手な自己主張は、分裂しか生み出しません。わたしたちは、唯一の神に結ばれることで、霊的に一致して神の民となり、そしてはじめて教会共同体は成立します。

霊的一致をもたらしてくれるのは、わたしたちの祈りにおけるきずなであります。その意味で、聖母マリアを通じて祈るロザリオの祈りには、重要な意味があります。

教皇パウロ六世は、使徒的勧告「マリアーリス・クルトゥス」で、「(マリアが)信仰と愛徳との両面において、さらにまた、キリストとの完全な一致を保ったという点において、教会の卓越した模範であると仰がれている」(16)と指摘します。

その上で教皇は、「アヴェ・マリアの祈りを繰り返して唱え続けてゆくことによって、ロザリオはわたしたちに今一度福音における基本的に神秘であるみことばの受肉を提示してくれる・・・福音の祈りである」(44)と述べておられます。

ロザリオの祈りを唱えることで、わたしたちを結び合わせているキリストの体における神秘的一致へと導かれ、どこにいても、いつであっても、ひとりでも、複数でも、ロザリオを唱えることで、わたしたちは聖母マリアがそうであったように、キリストの体において一致することが出来ます。

教皇ヨハネパウロ二世は「教会にいのちを与える聖体」において、「信者は洗礼によってキリストのからだと一つにされますが、この一致は、聖体のいけにえにあずかることによって常に更新され、強められます」と記します。(22)

その上で教皇は、聖体の秘跡における一致によってキリスト者は、「すべてのひとのあがないのために、キリストによってもたらされた救いのしるしと道具、世の光、地の塩となる」と指摘します。

したがってわたしたちは、御聖体の秘跡にあずかることによってキリストのからだと一致した共同体となります。その共同体の一致は、祈りによってつなぎ合わされる霊的な一致によって、さらに強められ、わたしたちはどこにいてもキリストの体の一部として互いに支え合っていることを自覚しながら、世の光、地の塩として福音をあかししながら生きてまいります。

パウロは、よいときにあっても困難なときにあっても、「いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっている」と記していました。どのような状況にあっても動じないパウロを支えていたのは、霊的にキリストの体に一致しているとの確信であり、それを支えている信仰共同体における兄弟姉妹との霊的一致の確信であったと思います。パウロの「秘訣」は、共同体の祈りの力であります。

マタイ福音に記されている婚宴を催して人々を招待する王のように、主は霊的な力に豊かに満ちた祈りを用意してわたしたちを招いてくださいます。残念ながら、往々にしてわたしたちは、婚宴の宴のように素晴らしく用意されている教会の祈りの伝統に目を向けず、畑に出かけたり商売に出かけた招待客のように、自分の現実社会での都合を優先させて、そこから逃れようとしています。わたしたちが祈りを通じて霊的に一致するように、またその一致を通じて共同体として社会のなかにあって、世の光、地の塩となるように、力ある豊かな祈りは、わたしたちのために用意されています。豊かな祈りの宝を、見失わないようにしましょう。

聖母マリアを通じて人となられた神のみ言葉である主イエスへと導かれ、キリストの体に一致し、互いに支え合い、福音をあかししていくことが出来るように、招いてくださる主に背を向けないようにいたしましょう。

 

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2020年10月 8日 (木)

教皇様の新しい回勅が公表されました

教皇様は、10月3日、訪れていたアシジの聖堂で新しい回勅に署名され、公表されました。教皇の文書は、多くの場合その冒頭の言葉をタイトルとしますが、今回の新しい回勅は「Fratelli tutti」とよばれています。どう訳すかは定まらないことでしょうが、「兄弟の皆さん」と呼びかけるアシジの聖フランシスコの言葉で始まっています。

手元に英語版がメールで送付されてきたのが前日でしたから、まだすべて読み切れてはいません。回勅について知らせるバチカンニュースによれば、新しい回勅は、いわゆる社会教説(現実世界の諸問題に対して表明される、教会の立場や教え)で、「個人の日常的関係、社会、政治、公共制度において、より正しく兄弟的な世界を築きたい人にとって、大きな理想であると共に具体的に実行可能な道とは何か?」という問いかけに答えるものであると言うことです。

特に教皇様は、この回勅を準備中に新型コロナの状況に直面したことで、兄弟愛と社会的友愛に基づいた正義と平和に満ちた世界を構築する道を考察しておられます。教皇様はコロナ禍にあって、貧富の格差が拡大していることや、利己的な保護主義的考えが蔓延し、助けを必要としている人への配慮が忘れ去られているとしばしば警告されてきました。

たとえば、教皇様は今年の世界難民移住移動者の祈願日メッセージにおいて、世界が感染症対策にばかり目を奪われている陰で、「大勢の人々を苦しめている他の多くの人道的緊急事態が過小評価され、人命救済のため緊急で欠くことのできない国際的な取り組みや援助が、国の政策課題の最下位に押しやられていることは確か」と指摘されました。

その上で教皇様は、「今は忘れる時ではありません。自分たちが直面しているこの危機を理由に、大勢の人を苦しめている他の緊急事態を忘れることがあってはなりません」と呼びかけておられました。この危機に直面することで、誰も一人で生きてはいけず、互いに支え合い連帯を強めなくてはならないとの教皇様の願いが、この新しい回勅に詳述されています。

新しい回勅の中で教皇様は、現代社会の経済システムのはらむ課題に詳しく触れ、矛盾が生み出す様々な悪を指摘した上で、「特にキリスト者に対し、あらゆる疎外された人の中にキリストの御顔を見つめるようにと招いて」います。

また教皇様は、かなりの分量をさいて、「戦争、迫害、自然災害からの避難、人身取引などによって故郷を追われた移民たちの『引き裂かれた生活』(37)を見つめ、彼らが受容、保護、支援され、統合される必要を」説いています。

そのほか教皇様はこの回勅の中で、政治のあり方や、戦争についても触れていますが、特に「正戦論」に対して、ある一定の考え方を提示している箇所が注目されます。終わりの部分で教皇様は、「人類の兄弟愛の名のもとに、対話を道として、協力を態度として、相互理解を方法・規範として選ぶよう」アピールをされています。

2020年に私たちは世界的な規模で、未知の感染症によって命の危機に直面し、また社会がこれまで当然としてきた多くのことを見直す機会をあたえられました。教会も、集まれない現実の中で、それでは教会共同体であるとはどういうことなのかをあらためて考えさせられています。

命を守るための行動は、まだまだ続くでしょう。日夜命を救うための活動に取り組まれる医療関係者に心から敬意を表すると共に、病床にある多くの方に御父のいつくしみ深い手がさしのべられ、健康を回復されるように祈ります。

この現実のただ中で、教皇様はこの回勅を通じて、世界全体の進む方向を見直すように呼びかけられています。守るべきものは賜物である命であること、それも例外なくすべての命であることを明確に示されています。まさしく時宜を得た社会への呼びかけの回勅であろうと思います。

さて、そういう重要な回勅ですが、公式の翻訳が整うまでには、今しばらく時間がかかるものと思います。バチカンのサイトにはすでに8カ国語の翻訳が掲載されていますが、もちろん日本語は含まれていません。これら8カ国語は、最初からバチカンで整えられた公式訳です。

これらの言葉を使っている国の司教団は、うらやましいものだと思います。出来上がっている翻訳を、あとは広めるだけですから、様々な方法がすぐに思い浮かびます。うらやましい。日本語訳は、もちろん日本の司教協議会で行わなくてはなりません。原文が数日前に届いたばかりですから、これからです。中央協議会には翻訳のための職員がいますが、こちらは日常の翻訳業務がありますから、これからまず、どの言語版を底本とするかを決めて、その言語の翻訳者を探さなくてはなりません。もちろん仕事としての翻訳作業と出版作業ですから、それなりの費用が発生します。よく尋ねられる、「どうして無料でネット公開しないのか」というご意見は、申し訳ないのですが、経済的に厳しいものがあります。また公式訳は、それまでの教皇回勅と翻訳の整合性をとらなくてはならないので、原語とその翻訳を、以前の同様の用語の翻訳と合わせるためのチェック作業が不可欠です。そうしないと、たとえば「「いつくしみ」と「あわれみ」のように、同じ原語に複数の翻訳があって、後々に難しいことになってしまいます。どうしても即座に翻訳発行とはなりませんので、今しばらくお待ちください。

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2020年10月 4日 (日)

司祭・助祭叙階式@東京カテドラル

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昨日10月3日(土)の午後2時から、カトリック東京大司教区の、司祭・助祭叙階式が、東京カテドラル聖マリア大聖堂で行われました。

新司祭はメキシコ出身のホルヘ・マヌエル・マシアス・ラミレス神父、新助祭はヨハネ・マリア・ミカエル 古市匡史神学生。おめでとうございます。お二人の植えに神様の豊かな祝福と聖霊の導きがあるようにお祈りします。(上の写真、左がホルヘ神父様、右端は関口の天本神父様、右から二人目が古市助祭)

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お二人への思いは、この記事の前の記事、年間第27主日ミサの説教の中で触れていますので、そちらをご覧ください。

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お二人ともさまざまな道程を経て、東京教区の聖職者となりました。ホルヘ神父は、メキシコから最初はさいたま教区の神学生として来日しましたが、数年前に東京教区に移籍され、司祭叙階への準備をしてきました。古市助祭も、もともとは福岡の出身で、福岡教区の神学生としての養成を受けていましたが、もともと就職で東京に住んでいたことや、そのときに東京で洗礼を受けたことなどから、東京教区への移籍と希望され、現在は次のステップである司祭叙階を目指して養成を受けておられます。

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なお、ホルヘ神父様については、昨日付で関口教会の助任司祭として任命いたしました。これから東京教区で頑張って一緒に働きましょう。おめでとうございます。

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2020年10月 3日 (土)

年間第27主日@東京カテドラル

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10月はロザリオの月です。

10月7日にはロザリオの聖母の祝日があり、伝統的に10月にロザリオを祈ることが勧められてきたこともあり、教皇レオ十三世によって10月が「ロザリオの月」と定められました。

ロザリオの起源には諸説ありますが、十二世紀後半の聖人である聖ドミニコが、当時の異端と闘うときに、聖母からの啓示を受けて始まったと言われています。10月7日のロザリオの聖母の記念日も、1571年のレパントの海戦でのオスマン・トルコ軍に対する勝利が、ロザリオの祈りによってもたらされたとされていることにちなむものですので、そういったことだけを耳にすれば、ロザリオは戦いのための武器のようにも聞こえてしまいます。もちろん、ある意味、ロザリオは信仰における戦いのために道具とも言えるのかも知れませんから、歴史的背景が変わった現代社会にあっても、信仰を守るために重要な存在であると思います。とりわけ、現在のように、家に留まって個人的に祈る機会がふえていますから、ロザリオの祈りを持って、霊的共同体の絆を深めることは意味があることだと思います。

先日、ご案内の通り、ミサにおける年齢制限を解除しました。まだまだ慎重な行動が必要だと思いますので、健康に不安がある方はご自宅でお祈りくださって構いませんが、状況を見ながら、少しずつ、なるべく多くの方にミサに参加していただけるように、条件を見直していきたいと思います。それでも、原則としている三つの密を避けることや、マスクの着用を含めた咳エチケット、手指の消毒に関しては、大原則としてお忘れにならないようにお願いします。またミサにあずかる際には、それぞれの小教区独自の方法で、参加者の記録を残すようにしています。これは、クラスターなどが発生したと見なされた場合、その場にいた方々への連絡などをする必要性があるためです。ご協力をお願いいたします。

本日10月3日午後、東京教区には新しい司祭が誕生しました。夕方6時から行われた主日ミサの説教でも、そのことに触れています。以下、その主日ミサの説教原稿です。

年間第27主日A(公開配信ミサ)
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2020年10月3日

先ほど、10月3日の午後、この大聖堂で新しい司祭と助祭が誕生しました。東京教区は、喜びのうちに、ホルヘ・ラミレス神父と古市助祭を迎えます。

教会において司祭になるとことは、就職とは全く違います。司祭への道は神からの呼びかけに応える道であり、その呼びかけに対して、「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」(イザヤ6・8)と応えたことに基づいて歩み続ける人生の旅路です。

さらにその召命は個人の問題ではありません。「召命を育てる義務は、キリスト教共同体全体にある」と、第二バチカン公会議の司祭の養成に関する教令は指摘しています。司祭は、自分たちと関係のないところで養成され、自動的に誕生して、小教区に与えられるような存在ではなくて、教会共同体が自ら生み出し育てていく存在です。そのために、同教令は、「共同体はとくにキリスト教的生活を十全に生きることによってその義務を果たさなければならない」と指摘しています。

ですから、今回新司祭が誕生したことも、それに続く助祭が誕生したことも、どこかで勝手に起こっている無関係な事柄なのではなく、教区共同体にとって、また小教区共同体にとって、自らの責任において関わっている大切な務めの結果であります。

もちろん教区には一粒会という存在があり、祈りと献金を通じて、神学生の養成を支えてきました。みなさまの寛大なご支援に、心から感謝いたします。同時に教区の全員が、一粒会の会員であり、神学生養成に責任を持って関わっていることも思い起こしていただければと思います。

さて、司祭への道は、冒頭で申し上げたように、会社への就職活動とは全く異なりますから、まさしく十人十色、一人ひとりに独自の物語が存在します。そして多くの場合、召命の道程は、人間が考え計画した通りには進まないことが多いのです。

もちろん神学校での養成にはカリキュラムがあり、それに従って単位を取得して行かなければならないのですが、しかしそれは、いわゆる資格取得のための勉強でもありません。神学校は、司祭になるための資格取得の学校ではありません。

自分が司祭になりたいと決意し、神学校の所定の単位を取ったからと言って、それが即座に司祭となることとは結びつかないのです。司祭は資格ではなく、生きる道であります。それも自ら切り開く道ではなく、神が用意した計画を見いだしながら、神の呼びかけに生きる道であります。

一人ひとりに司祭の召命の旅路についての話を聞く度に、今日の福音に記された詩編からの引用の言葉が思い浮かびます。
「家を建てるものの捨てた石、これが隅の親石となった。これは主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える」

ホルヘ神父も古市助祭も、いわゆる一直線に問題なく進んで、司祭や助祭になったわけではありません。東京教区の皆さんには、そういえば、数年前まで、この二人の名前は聞いたこともなかったと、いぶかしく思われた方も少なくないだろうと思います。二人とも非常にユニークな人生を歩み、紆余曲折を経て、最終的に東京教区の聖職者として、本日叙階を受けました。

まさしく、「これは主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える」出来事であります。

先ほどわたしは、「最終的に東京教区の聖職者として」と申し上げました。でも叙階を受けることが目的地ではありません。叙階式が目指すゴールではありません。司祭にとって、そこからが大切です。

第一の朗読でイザヤは、ぶどうを植えたものの、よい実を得ることが出来なかったことへの、神の憤りを記しています。
「わたしがぶどう畑のためになすべきことで、何かしなかったことがまだあるというのか。わたしはよいぶどうがなるのを待ったのに、なぜ、酸っぱいぶどうが実ったのか」

さまざまな紆余曲折を経て二人をここまで呼ばれ導かれた神は、まさしくぶどうを植えた神です。よい実がなることを待っておられる神です。神はなすべきことでしなかったことは、何一つありません。残されているのは、植えられたものが、これからどのような実りを生み出すかであります。したがって、ゴールはまだまだ先と言わなければなりません。

ですから、どうか司祭のためにお祈りください。ひとりでも多くの司祭が誕生するようにと、召命のために祈るのとおなじように、司祭のこれからの生涯のためにお祈りください。神学校の卒業は完成品の誕生ではなく、これからさらに育てていく原型の誕生です。育てるのは、教会共同体の聖なる努めであります。必要な助けを与えてくださり、土台を用意してくださった神に、自信を持ってよいぶどうを実りとして差し出すことが出来るように、司祭のためにお祈りをお願いいたします。

さて、召命なんて自分とは関係がない、と思われている方もおられるのかも知れません。そんなことは全くありません。キリストの弟子となったすべての人には、それぞれ固有の召命があります。わたしたちはすべからく、ぶどうとして神から植えられ、多くの世話を神から受けています。わたしたちにも、よい実りを生み出す務めがあります。信徒の召命であります。

第二バチカン公会議の教会憲章には、こう記されています。
「信徒に固有の召命は、現世的なことがらに従事し、それらを神に従って秩序づけながら神の国を探し求めることである。自分自身の務めを果たしながら、福音の精神に導かれて、世の聖化のために、あたかもパン種のように内部から働きかけるためである」(31)

新型コロナウイルス感染症の事態が続く中で、多くの人が当たり前のように、「いのちを守るための行動」などと口にするようになりました。いまの時点でも世界各地で、いのちを守るために尽力される医療関係者は多くおられ、その働きに心から感謝します。また病床にあって病気と闘っている多くの方に、神のいつくしみの手が差し伸べられるように祈ります。

この事態で、「いのちをまもる」は、キリスト者の専売特許ではなくなりました。政治のリーダーですら、そう口にします。でも少しだけそこには違いがあるようにも感じています。

憶えておいでですか。昨年の教皇訪日のテーマは、何でしたでしょう。「すべてのいのちを守るため」であります。

わたしたちキリスト者は、わたしの健康を守るためにいのちを守ろうと言っているのではなく、わたし外のすべてのいのちを守るために行動しようと言っています。それはわたしたちが、すべてのいのちが、神から与えられた賜物であり、等しく人間の尊厳があるからだと信じているからです。

このわたしたちの賜物であるいのちへの思いを、この事態のただ中で広く伝えていくことは、重要です。社会のただ中にあって、その言葉と行いで、いのちの福音をあかしする宣教者が必要です。そしてそれは、皆さん一人ひとりであります。「あたかもパン種のように」福音をあかしする皆さんの存在です。植えられたぶどうの木として、いのちを与えられた神に感謝しながら、自らの召命に忠実に生き、福音をパン種のように社会全体に及ぼしながら、神に喜ばれるよい実をつける者となりましょう。

 

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