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2020年11月28日 (土)

週刊大司教第四回:待降節第一主日

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待降節が始まりました。主の再臨を待ち望むわたしたちの信仰をあらためて見つめ直し、また御言葉が人となられた受肉の神秘を祝い感謝するための心の準備をする季節です。

ここ数日、東京をはじめ各地では、新型コロナウイルスの検査陽性者が増大しています。第三波が到来しているという指摘も耳にいたします。教会のさまざまな活動における感染対策を、あらためて確認いたしましょう。長期の対応ですので、慣れてしまって危機感を失っている可能性があります。まだ収束していないどころか、あらためて拡大していると思われます。週明けには多少の活動制限について注意喚起を発出する予定で調整中です。基本の手洗い・消毒、マスクの着用を忘れず、適切な距離を保ちながら、密集・密接で大きな声を出すことを避け、換気に留意する。こういった基本を忘れることのないように心掛けましょう。

本日28日には、バチカンにおいて枢機卿会が開催され、13名の新しい枢機卿が親任されます。アジアからはフィリピン中部カピス教区のホセ・アドビンクラ大司教とブルネイ使徒座代理区長のコルネリウス・シム司教が含まれています。残念ながら、アジアからのお二人は、旅行制限のためバチカンに赴くことが出来ず、後日、教皇大使からビレッタや指輪を授与される予定となっていますが、新しい枢機卿様方のためにお祈りください。

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特にブルネイのシム枢機卿は、全国で43万ほどの人口の中で信徒総数が2万人弱。教区(使徒座代理区)には司祭が3名(総数です)しかいないという厳しい状況の中で、司牧活動を続けてこられた方です。ブルネイの教会のためにもお祈りください。

なおそのほか、本日親任される枢機卿は、以下の方々です。(中央協議会のホームページより転載

〔80歳未満の9人〕

  1. マリオ・グレック司教(教皇庁シノドス事務局長、マルタ、63歳)
  2. マルチェッロ・セメラーロ司教(教皇庁列聖省長官、イタリア、72歳)
  3. アントワヌ・カンバンダ大司教(ルワンダ・キガリ教区、ルワンダ、61歳)
  4. ウィルトン・グレゴリー大司教(米国ワシントン教区、米国、72歳)
  5. ホセ・アドビンクラ大司教(フィリピン・カピス教区、フィリピン、68歳)
  6. セレスティノ・アオス・ブラコ大司教(チリ・サンティアゴ教区、カプチン・フランシスコ修道会、スペイン、75歳)
  7. コルネリウス・シム司教(ブルネイ使徒座代理区長、ブルネイ、69歳)
  8. アウグスト・パオロ・ロユディーチェ大司教(イタリア・シエナ教区、イタリア、56歳)
  9. マウロ・ガンベッティ神父(アッシジ聖フランシスコ修道院院長、コンベンツアル聖フランシスコ修道会、イタリア、54歳)

〔80歳以上の4人〕

  1. フェリペ・アリスメンディ・エスキベル名誉司教(メキシコ・サンクリストバル・デ・ラス・カサス教区、メキシコ、80歳)
  2. シルヴァーノ・トマーシ大司教(元教皇庁大使、イタリア、80歳)
  3. ラニエロ・カンタラメッサ神父(教皇付き説教司祭、カプチン・フランシスコ修道会、イタリア、86歳)
  4. エンリコ・フェローチ神父(ローマ教区司祭、元カリタスローマ責任者、イタリア、80歳)

 以下、本日の週刊大司教でのメッセージの原稿です。

待降節第一主日(週刊大司教メッセージ)
2020年11月29日

誰ひとりとして、この世界で永遠に生き続ける者はいない。それをわたしたちは知っています。さまざまな人生を、さまざまな時間のスパンの中で生きていくとしても、すべての人に必ず終わりがやってくる。ただ、その終わりのときは遙か彼方だと思い込んでいるにすぎません。

同時に、自分に与えられた時間には限りがあることを知っているからこそ、自分が生きている間には困難が起こらないようにと、問題を先送りすることもしばしばあります。とりわけ問題の解決に乗り出したときの負のインパクトが大きければ大きいほど、解決を先延ばしにしようとします。

まるで時間が困難を解決してくれるのだと言わんばかりに、問題への取り組みを先送りして、今のこの刹那を安楽に暮らそうと考える誘惑があります。確かに、以前は治療が困難であった難病にも、時間の経過と共に新しい薬品や治療法が開発され、過去には不治の病であったものが、今や治癒可能となった例も少なくありません。現在の新型コロナ感染症にしても、時間が経過すれば、何らかの解決法が見いだされると信じています、実際には何の根拠もありません。仮にそうであったとしても、それは単に無為に過ごした時間の積み重ねが問題を解決するのではなく、その間に注ぎ込まれた多くの専門家の地道な研究や努力の積み重ねの結果であります。普段からの地道な積み重ねがないところには、いくら時間を費やしたとしても、新たな変革は訪れません。未来の光のためには、困難な中にあっても常に地道な努力の積み重ねを怠ってはなりません。

教皇フランシスコは回勅「ラウダート・シ」において、「もはや、世代間の連帯から離れて持続可能な発展を語ることは出来ません」と指摘されました。(159)

教皇はより良い世界を実現するためには、刹那的な自己中心の考え方だけではなく、共通善に基づいて、将来世代への責任も視野に入れよと説いて、次のように指摘されます。

「わたしたちがいただいたこの世界は後続世代にも属するものゆえに、世代間の連帯は、任意の選択ではなく、むしろ正義の根本問題なのです。」(159)

その上で教皇は、「わたしたちは、後続する世代の人々に、いま成長しつつある子どもたちに、どのような世界を残そうとするのでしょうか。・・・どのような世界を後世に残したいかと自問するとき、わたしたちはまず、その世界がどちらに向かい、どのような意味を帯び、どんな価値があるものなのかを考え」なければならないと指摘されています。(160)

わたしたちには、どのような世界を後世に残していくのかという先送りすることの出来ない課題があります。その課題は、この世界で生きる意味をあらためて問い直す、言うならば結構しんどい挑戦、すなわち生き方の見直しという問いかけに直面することを求めています。

教皇は現在のパンデミックの状況の中で、未来を見据えて連帯するようにと、こう呼びかけられます。

「現代における連帯は、パンデミック後の世界に向けて、また、わたしたちの人間関係や社会の病のいやしに向けて、たどるべき道です。それ以外に道はありません。連帯の道をたどるか、事態を悪化させるか、どちらかです(9月2日の一般謁見)」

「目を覚ましていなさい」と言う主の呼びかけは、単に覚醒していること自体を指すのではなく、未来を見据えて、今を生きるわたしたちが、将来世代との連帯の中で、被造物の管理を任された僕としての責任ある行動をとるように求めています。現実社会において世界的な連帯は、まだ夢物語であります。地道に、連帯の必要性を呼びかけ、また自らも行動し続けたいと思います。

 

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2020年11月25日 (水)

教皇訪日一周年感謝ミサ@東京カテドラル

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教皇フランシスコの訪日から、一年となりました。ちょうど一年前のこの日、11月25日は、教皇フランシスコが東京で一日を過ごされていました。前日の日曜日、王であるキリストの主日は、長崎と広島を訪問。25日の月曜日は、朝から東北の被災者との集い、皇居で天皇陛下と会談、その後東京カテドラルを訪問し青年との集い。午後からは東京ドームでミサを捧げた後、首相官邸で首相と会談後に政府や外交団にスピーチ。内容の濃い一日でした。

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訪日から一年となったこの時期、残念ながら新型コロナウイルス感染症のため、行事を行うことが難しくなりました。司教団も来月12月の初めにシンポジウムなどを計画していましたが、コロナ禍で断念。それでも、教皇がカテドラルを訪れてくださったことを記念し感謝することは大切ですし、またそこで語られた言葉に、あらためて耳を傾け学ぶことも大切ですから、まさしく東京カテドラルを訪問くださったその日に、ミサを捧げることにしました。通常、韓人教会の週日ミサが行われる水曜の10時ですが、関口教会と韓人教会の合同行事として、韓人教会の高神父、関口教会の天本神父、ホルヘ神父が共同司式され、イエスのカリタス会のシスター方が聖歌を歌ってくださいました。ありがとうございます。また当初はスタッフの手配の関係で配信は難しいと思っておりましたが、忙しいところ駆けつけてくださったボランティア(留学先の某国の時間でオンライン授業を終えたばかりの大学生)のおかげで、配信も出来ました。感謝です。

なお司教団としては、12月9日の夕方に、イグナチオ教会で感謝ミサを捧げる予定です(入場制限あり、配信あり)。

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教皇が地方の教会を訪れると言うことは滅多にないことですから、教皇の司牧訪問を契機として新しい挑戦を始めたり、記念の何かを建設したりするものだと思います。残念ながら、訪問直後からコロナ禍に突入し、すべてが自粛ムードとなってしまったこともあり、新しく何かを始める状況ではありません。それでも教皇の言葉に刺激を受けて、東京大司教区でも前向きに進み続けたいと思います。今日のミサの説教の終わりで、少しだけそのことに触れさせていただきました。

以下、本日のミサの説教原稿です。

教皇訪日一周年記念ミサ
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2020年11月25日

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一年前の今日、教皇フランシスコをこのカテドラルにお迎えしました。

一年前のあの日、この大聖堂は興奮のるつぼと化していました。そんな中で、入堂された教皇は静かに左手へと進まれ、マリア祭壇の前で御聖体に静かに祈りをささげました。そして祭壇中央へ向かう際には、一番前に陣取った難民青年たちと親しく言葉を交わし、セルフィーで写真まで撮られました。そして待ち受けた聖堂一杯の青年たちに、力強く語りかけられました。

一年前のあの日、この聖堂で語られた教皇の言葉は、アドリブに満ちていて、滞在中一番長いスピーチとなりました。その興奮は、その後に何か新しいことが生まれるのではないかという期待を生み出すものでありました。この聖堂で、青年たちにみなぎる、エネルギーを感じました。

ところが、その後にどうなったのかは、皆さんよくご存じの通りであります。年が明けてすぐ、世界は新型コロナウィルスの感染症に襲われることになり、今に至るまで続いているいのちの危機が始まってしまいました。

人類の歴史に必ずや残るであろうこのコロナ禍は、未知の感染症であるが故に、そのはじめから今に至るまで、わたしたちを不安の暗闇の中へと引きずり込み、その出口が見えないまま、わたしたちは闇の中を光を求めて彷徨い続けています。

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教会もその荒波の中で、対応を迫られました。なんと言っても、密接・密集・密閉を避けるようにと呼びかけられているのに、教会はその三つの密のオンパレードですし、ましてや一緒になって大きな声で聖歌を歌ったりいたします。

「いのちを守るための行動を」などという呼びかけが、当たり前のように、行政のリーダーたちの口から発せられています。そういえば、一年前の教皇訪日のテーマは、「すべてのいのちを守るため」でありました。「いのちを守る」は、今や教会の専売特許ではなくなりました。違いがあるとすれば、わたしたちは「すべての」と加えることによって、教皇フランシスコが常に示してきた、誰ひとり排除されない世界、忘れられて良い人は誰ひとりいないという姿勢を明確にしているところでしょうか。

一年前のあの日、教皇はこの聖堂で、集まった青年たちにこう語りかけられました。
「夢を見ない若者がいます。夢を見ない若者は悲惨です。夢を見るための時間も、神が入る余地もなく、ワクワクする余裕もない人は、そうして、豊かな人生が味わえなくなるのです。笑うこと、楽しむことを忘れた人たちがいます。すごいと思ったり、驚いたりする感性を失った人たちがいます。ゾンビのように心の鼓動が止まってしまった人たちです」

コロナ禍の闇の中を彷徨っているわたしたちは、不安にとりつかれています。世界は、対立と分断、差別と排除、孤立と孤独を深めています。まさしく「すべてのいのちを守るため」に、わたしたちは行動しなければならないと感じさせられます。

この社会を目の当たりにして教皇は、神のいつくしみを優先させ、差別と排除に対して明確に対峙する姿勢を示してこられました。とりわけ教会が、神のいつくしみを具体的に示す場となるようにと呼びかけてこられました。

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一年前のあの日、この聖堂に集まった青年たちを前にして、「夢を見ない若者」の話をした教皇は、その理由をこう指摘されました。
「なぜでしょうか。他者との人生を喜べないからです。聞いてください。あなたたちは幸せになります。ほかの人といのちを祝う力を保ち続けるならば、あなたたちは豊かになります。世界には、物質的には豊かでありながらも、孤独に支配されて生きている人がなんと多いことでしょう。わたしは、繁栄した、しかし顔の見えないことがほとんどな社会の中で、老いも若きも、多くの人が味わっている孤独のことを思います」

同じ日の午後、東京ドームのミサの説教では、次のように述べています。
「ここ日本は、経済的には高度に発展した社会です。今朝の青年との集いで、社会的に孤立している人が少なくないこと、いのちの意味が分からず、自分の存在の意味を見いだせず、社会の隅にいる人が、決して少なくないことに気づかされました」

同じ日の朝、東北の被災者との集いでも、「一人で「復興」できる人はどこにもいません。だれも一人では再出発できません。町の復興を助ける人だけでなく、展望と希望を回復させてくれる友人や兄弟姉妹との出会いが不可欠です」と述べ、人間関係の崩壊が社会における孤立や孤独を生み出し、ひいては神からの賜物であるいのちを危機にさらしているのだと指摘されていました。

教皇フランシスコの語られる「出向いていく教会」は、神の言葉が人となられてわたしたちのうちにおいでになったという救いの業の行動原理に倣う、教会のあるべき姿を表しています。

教皇は青年たちに、こう呼びかけました。
「次の問いを問うことを習慣としてください。『何のために生きているかではなく、だれのために生きているのか。だれと、人生を共有しているのか』と。」

教皇訪問を受けて新しく出発しようとしていた日本の教会は、いまアイデンティティの危機に直面しています。なにぶんこれまでは、日曜日にできる限りたくさんの人が教会に集まってくれるようにと働きかけてきたのです。少しでもミサに参加する人が増えることが、宣教の成功の一つの指標だったのです。言うならば、わたしたちは、日曜日に教会に集まることで、教会共同体となっていたと思い込んでいたのでした。

それが物理的に集まることが難しくなった今、わたしたちは教会共同体というのはいったい何のことだろうかと自問させられています。集まらなくても繋がっている共同体というのは、いったい何のことなのだろうと考えさせられています。わたしたちは何のためにこの社会に存在しているのかを、あらためて見つめ直させられています。

わたしたちは昨年の教皇の呼びかけを思い起こし、「何のために生きているかではなく、誰のために生きているのか。誰と人生を共有しているのか」を、あらためて見つめ直してみたいと思います。

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ちょうど、教皇訪日の前から、東京教区の宣教司牧方針の見直しの作業を進めておりました。訪日の準備と、その後のコロナ禍で、策定作業は遅れておりましたが、まもなく文書をお示しできるところまでこぎ着けました。あまり難しいことや、事細かな指針を作成することは辞めました。大枠を示すための、短くて分かりやすいものを提示したいと思います。

その中で、昨年の訪日で残された教皇様の呼びかけを具体化するために、特に一つのことを実現したいと考えています。それは、教区の中でのさまざまな社会への奉仕活動、愛の活動がありますが、それらを一つに集約する組織を作りたいと思います。名称はどうなるか分かりませんし、まだ模索中ですが、いわゆる教区のカリタスであります。現在、社会奉仕活動においてもっとも活躍しているCTIC・カトリック東京国際センターを核にして、社会活動を集結する組織を実現することで、教皇の残された言葉に応えていきたいと思います。

 

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2020年11月21日 (土)

週刊大司教第三回:王であるキリスト

年間最後の主日となりました。王であるキリストの主日です。

この数日、東京都では新型コロナ感染症の検査陽性者が500名を超えることが続いており、週明けにはさらに増加することも懸念されています。また重症となられた方も30名を超えることが続いております。統計を見ますと、やはり高齢の方に重篤化する方が多いようです。東京大司教区にあっては、主日のミサに与る義務は引き続き免除されておりますので、健康に不安のある方はご自宅でお祈りください。

私のメッセージを提供しております「週刊大司教」はミサではありませんが、その主日の福音を朗読し、説教を聞いていただき、主の祈りを一緒に唱えます。ミサに参加することが出来ない場合には、このビデオをご利用いただいて、霊的聖体拝領の一助としていただくことも出来ます。

映像の停止などを自由に出来る方は、例えば、冒頭の集会祈願後に映像を一時停止し、第一朗読と第二朗読をご自分で聖書と典礼などから朗読され、その後映像を再開して福音朗読を聞き、私のメッセージ後の主の祈りが終わったら、再び映像を一時停止して、例えば下記のような祈りを唱えて、霊的聖体拝領とすることも出来ます。しばらくの沈黙の後に、あらためて映像を再開し、祝福とするような方法でご活用いただければと思います。

『聖なる父よ、あなたが私の心に住まわせられた聖なるみ名のゆえに、また、御子イエスによって示された知識と信仰と不滅のゆえに、あなたに感謝します。とこしえにあなたに栄光がありますように。

全能の神よ、あなたはみ名のためにすべてをつくり、また人々があなたに感謝するため、御子によって霊的な食べ物と永遠のいのちを与えられました。力あるあなたに何にもまして感謝します。

とこしえにあなたに栄光がありますように。アーメン」(カルメル会『祈りの友』より)

または、次の聖アルフォンソ・リゴリの祈り。ほかにもたくさんの祈りがあります。

わたしのイエスよ、
最も祝福された秘跡のうちに、あなたがおられることを信じています。
わたしはあなたを何よりも愛し、わたしの魂にお迎えしたいと望んでいます。
いまは秘跡によってあなたを受けることができませんから、せめて霊的にわたしの心に来て下さい。
わたしはすでにあなたがわたしの心におられるようにあなたを抱きしめ、わたしのすべてをあなたと結びつけます。
わたしがあなたから離れることを、おゆるしにならないでください。アーメン。

また聖体拝領などについて、2月27日に記した「司教の日記」(こちらのリンクです)もご一読ください。

以下、本日配信の週刊大司教第三回のメッセージ原稿です。

王であるキリスト(メッセージビデオ)
2020年11月22日

典礼の暦がまた新たな一年を始めようとしています。王であるキリストの主日は、典礼の暦では年間の最後の主日です。2020年は、時間が本当にあっという間に過ぎ去っていきました。一年前、わたしたちは教皇フランシスコが日本に滞在されているただ中で、王であるキリストの主日を祝いました。

あのとき、教皇訪日という高揚した気持ちのなかにあったわたしたちは、これから何か新しいことが始まるのではないかという、漠然としてはいたものの、前向きの興奮に捕らえられていたように思います。それが年が明けるとすぐにコロナ禍が世界を襲いました。今度は、いのちが危機にさらされるのではないかという、やはり漠然としてはいたものの、後ろ向きな興奮の中で、この一年を過ごしてきました。残念ながら、その後ろ向きの状態から抜け出す道筋は不確かです。

この一年、特に病床にあった方々のためにあらためて祈ります。また献身的にいのちを守るために取り組まれている医療関係者の皆様に、あらためて感謝申し上げます。

感染症のもたらす困難といのちの危機に直面して、わたしたちは再び、人間の知恵と知識、そして科学や技術の力は、世界の中では本当に小さく弱いものであることを思い知らされています。世界を支配するのはその創造主である全能の神であることを、あらためて心で感じ取っています。わたしたちは、創造主である神にいのちをいただき、生かされている者です。ですから、この世で賜物であるいのちを生きる上で、世界を支配する王であるキリストがわたしたちに求める生き方に、あらためて目を向け、それを自らの生き方としたいと思います。

教皇フランシスコは先週の日曜日を、貧しい人のための世界祈願日と定め、シラ書七章三十二節からとった「貧しい人に援助の手を差し伸べよ」と言う言葉をテーマにしたメッセージを発表されています。その中で教皇はこう指摘されています。

「弱い立場に置かれている人を支え、傷ついた人をいやし、苦しみを和らげ、尊厳を奪われた人にそれを取り戻す、そうした寛大さは、人間らしく充実した人生に欠かせない条件です。貧しい人とその多種多様なニーズに目を向けるという選択は、時間の有無や個人の損得、あるいは血の通わない司牧や形だけの社会的事業には左右されません。自分をいつも優先する自己陶酔的な傾きによって、神の恵みの力を抑えつけることはできないのです」

教皇フランシスコは、教会はいつくしみを提供する最前線の野戦病院であれと繰り返し述べられ、貧しい人、弱い立場に置かれた人たちへの心配りが教会にとっての重要な使命であると常日頃から指摘されています。

まさしく福音にあるとおり、「私の兄弟であるこのもっとも小さな者のひとりにしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と言う主イエスの言葉を、常に心に刻み、それに忠実に生きようとする姿勢であります。

教皇は、「自分を優先する自己陶酔的な傾き」が、神のいつくしみが豊かに働こうとするのを妨げるのだと指摘されています。その上で教皇は、「祈りに費やす時間は、困窮する隣人をなおざりにする言い訳には決してなりえません。正しくはその逆です。貧しい人への奉仕が伴って初めて、わたしたちに主の恵みが注がれ、祈りが聞き入れられるのです」とまで言われます。

わたしたちはこの世界において、神の豊かなあわれみが力強く働こうとする時に、その道具としてあわれみといつくしみを具体化する者とならなければなりません。わたしたちの世界を支配するのは、悪の力ではなく、いつくしみそのものである神の御ことば、主イエス・キリストです。

 

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2020年11月20日 (金)

吉祥寺教会で堅信式

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11月15日の日曜日に、吉祥寺教会で29名の方の堅信式と、3名の方の初聖体ミサを捧げました。

新型コロナの感染が継続する中、バチカンからは様々な指示が送付されてきておりますが、堅信の秘跡の授け方についても、過日、典礼秘跡省から指示がありました。今回のコロナ禍という緊急事態にあって、個々の堅信を授ける際に、直接頭に按手することが秘跡の要件として不可欠かどうかと言う問いに対して、典礼秘跡省は、塗油前の按手の祈り(聖霊の七つの賜物を願う祈り)において、司祭が手をさしのべることで十分であると回答。また塗油の際には、直接親指で聖香油を塗らなくても、たとえば綿棒などを用いても良いと指示がありました。(もちろん緊急事態下の特例です)

通常は按手の祈りでも手をさしのべますが(下の写真のように)、同時に、個別に塗油をする際に右手を頭に乗せて按手をするのですが、当分の間はその直接触れる按手を省略しています。また、聖香油の塗油も、さすがに綿棒というわけにも行かないので、脱脂綿に聖香油をしみこませ、一人ずつ塗油させて頂いています。

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参加者も限定され、聖歌も最小限となり、いつもとは異なる雰囲気の中でしたが、秘跡の力は変わりません。堅信を受けられた方々、初聖体を受けられた皆さん、本当におめでとうございます。

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なお当日は、神言会で先日叙階された篠崎エジルソン師が、まず堅信式ミサに共同司式され、その後に、ご自分の初ミサを捧げられました。篠崎神父様は、キューバに宣教師として派遣されることになっているそうです。(写真すぐ上)

ミサ後には、これまた先日、司祭叙階60年をお祝いされたばかりの後藤神父様を囲んで、吉祥寺教会の神言会員と昼食でお祝いして参りました。

なお堅信式のミサは、こちらのリンクからビデオを見ることができます

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以下、堅信式・初聖体ミサ説教です。当日は原稿なしでお話ししましたので、多少の繰り返しや逸脱がありますが、ご参考までに。

吉祥寺教会堅信式・初聖体ミサ

このところまた毎日のように報道されていることですが、PCR検査で陽性者の方の数が増えています。これから寒くなっていくので感染が拡大するだろうと専門家の方々は仰っていますし、クリスマスと年末年始がやってくる中で、教会の活動はどうなっていくのかという大きな不安を抱えながら、私たちは今、信仰生活を歩んでいます。

今日堅信を受けられる方々もそうでしたが、今年は聖週間、そして復活祭を祝うこともできませんでした。ご復活に洗礼を受ける為に準備されていた方々はじめ、いまだに洗礼を受けることができない方々が沢山存在しています。堅信式も、教区が聖霊降臨の日の合同堅信式を中止にせざるをえませんでしたので、多くの方が堅信の秘跡を待ち望んでいるという状況でもあると思います。

そういう中で私たちは今、「教会っていったいなんなんだろう・教会とはいったいどういう存在なんだろう」という、私たち自身のアイデンティティに関わる問題を目の前に抱えています。

感染を避ける為に自分が病気にならないだけでなくて、他の人を病気にしない・感染させないという双方向の責任があり、自分さえ良ければということではなくて、他の人の命を守るという、積極的な意味合いをもって感染対策をしていかなくてはなりません。感染対策としては真っ先に「密集、密接、密閉の三つの密を避けましょう」と言われていています。またそのために、「社会的距離を保ちましょう」というわけですけれども、教会というのは残念なことに、毎週日曜日に集まる度に、小さなこの建物の中に多くの人が集まって「密集、密接、密閉」の状況でお祈りします。しかもその中で一緒に歌を歌ったりするのですから、まさしく、「避けなければならない」といわれていることをすべて行うのが、教会の活動であるわけです。

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いつも通りの教会活動ができない。一緒にお祈りができない。一緒に歌えない。様々な活動、例えば教会の日曜学校や聖書研究会、祈りの会など、人が集まる事自体が非常に難しくなっています。

「では教会っていったい何なんだろう?」
これまでであれば、日曜日に教会に時間通りに出かけていってミサに与ることで、「ああ、私は教会の一員なんだ。普遍教会のメンバーなんだ、共同体の一員なんだ」ということを肌で感じることができたわけですけれども、それが出来ない、またはそれが難しい。行きたいけれど行けないというような状況が続いている中で、じゃあ「教会共同体」とはいったい何なんだろうと。

集まることで、たしかに安心を得ることができますよね。一緒の仲間がそこにいて、一緒に祈って、一緒に聖体拝領に与って、一緒に御言葉に耳を傾けたり。。。そうした事が、私達に教会共同体の安心感を与えてくれるわけですけれど、残念ながらそれができない中で、「じゃあ私たちの教会はいったい何なんだろう?」それを本当に考えさせられる。

「私たちの共同体っていったいどうやって存在しているのだろう?」
同じ所に住んでいるわけでもない、同じ地域に固まってみんなで住んでいるわけでもない。同じ場所で同じ仕事をしているわけでもない、全然違う所でまったく違う生活をしている人たちが、集まることすらできない中で「私たちは共同体です。教会共同体です」と言うことに、いったいどういう意味があるんだろうかと、それが出来ない状況下で、いやおうなく考えさせられています。

すぐにこれが回答ですというモデルは出てこないのですが、考えるヒントは第二バチカン公会議です。教会っていったい何なんだろうかと考えた時に、教会憲章の中には、教会というのは二つの実体があるんだと記されています。この地上における組織としての教会と、天上と繋がっている霊的な共同体、この目に見える物理的な存在と、霊的な存在という、2つの側面が教会にはある。そしてその二つはそれぞれ独立して別々に存在しているわけではなく、一緒になって、混じり合って一つの実体として存在しているのが教会なんだと、教会憲章に記されている。それを読むにつけ「教会って物理的な側面だけではなくて、霊的な側面、霊的な繋がりの側面というのがとても大切なんだ」ということを、私たちは今年、あらためて思い起こさせられているのですね。

今までは、物理的な側面が強調されてきた嫌いがある。しかし、霊的な側面、霊的な繋がりの重要さ、私たちには教会の霊的な繋がりがあるんだということを、今年思い起こさせられています。

「霊的な繋がりを充実させましょう」と簡単に言うけれど、実際に具体化させるのはとても難しいです。例えば同じ祈りをしているんだ。例えばロザリオの祈りをしているんだ。時は違えど、場所は違えど、同じ祈りで繋がれているんだ。または聖書の言葉、聖書に記された神の御言葉。日曜日の朗読の箇所は「聖書と典礼」に載っていますし、今はインターネットの時代ですから、インターネットを通じて今日の朗読をすぐに知る事ができますが、この神の御言葉を共有している。今日この神の御言葉を、時は違えど、場所は違えど共有しているんだ。同じ神の御言葉で私たちは繋がっているんだという、この思いがとても大切だと思います。

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東京教区で3月1日の主日から10月31日までカテドラルからミサの中継をしていましたよね。
いろいろ事情があって、この間の10月31日で一旦終わりにしたわけですけれども、それ以外でもイグナチオ教会やいろいろな所でミサの中継が継続されています。実はミサの中継を観るということも一つの霊的な絆を強めていく為の手段ですよね。残念ながらカトリック教会としては、オンラインだけでは、実際に典礼に参加したことにはなりません。ご聖体拝領もできませんし、オンラインではミサに参加するという勤めを果たしたことにならないわけですが、それでもあのオンライのミサを観ることによって、霊的な繋がり、この祈りによって、この霊的聖体拝領を通じて、私たちは結びあわされているんだという思いを、強めることはとても重要だと思います。

そして、今日堅信の秘跡をを受けられる方々、初聖体を受けられる方々。
私たちは綿々とイエスキリストの時代から、この聖霊による堅信、聖霊による祝福、聖霊による導き、それによって教会がずーっと導かれている、その聖霊を受けることによって、私たちは綿々と繋がっている霊的な共同体の一員となるのだと実感します。同じ聖霊の恵を受けて、同じ聖霊の祝福を受けて、同じ聖霊の守りを頂いて、私たちは霊的な兄弟姉妹として今結び合わされている。それも今、この場所だけではなくて、世界に広がる普遍の教会、そしてそれはイエス様の時代から始まって今に至る、綿々と連なる聖なる普遍の教会の中で私たちは繋がれているんだということを、改めて感じさせられています。

ご聖体を今日初めて受ける、これによって最後の晩餐でイエスご自身が、「これを私の記念として行いなさい」と残されていったあの記念、あのイエスの御体と御血を頂くことによって私たちは、あのイエスの最後の晩餐から今に至るまで、綿々と続いているこの信仰共同体の絆の中にあって、主と繋ぎあわされている。霊的な絆の内に私たちは一つの共同体として生かされているんだということを、堅信と初聖体を通じて、改めて感じさせられます。

「私が聖霊を受けた、私ががご聖体を受けた」、そういった私だけの喜びではなく、それは世界に広がる普遍教会の絆の内に、そして天上の聖人たちとともに、天上におられる人々とともに、すべて繋がっている普遍の教会の共同体の絆のうちに私が加えられたという、堅信や聖体の秘跡に与ること、それは「私」だけの喜びではなくて、教会の喜びなんです。

洗礼を受けて、堅信の秘跡を受けて、御聖体の秘跡を受けることによって、それぞれ綿々と伝えられてきたこの信仰共同体の絆の中に、あらたに生かされる。この絆の内に繋がれる兄弟姉妹にとって、普遍教会全体にとっての大きな喜びが、今日のこの堅信の日、初聖体のミサであると思います。

秘跡を受けられるお一人お一人の上に、神様の豊かな祝福と聖霊の導きがあるよう、心からお祈り致します。

 

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2020年11月18日 (水)

教区災害対応チームによるオンラインパネルディスカッションが開催

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東京大司教区には、まだまだ始まったばかりですが、災害対応チームが存在しています。東日本大震災を教訓に、これから起きるであろう災害に備えておくためでもあり、またカリタスジャパンが作成した災害対応マニュアルを実施するためでもありますが、なにぶん初めての挑戦なので、試行錯誤が続いています。

その中で、今回の新型コロナ感染症の拡大は、自然災害にも匹敵する影響を社会に及ぼし、また教会もその影響を大きく受けていることから、災害対応チームの視点からどういった対応が可能であるのか、模索してきました。

その一つが、教区ホームページにも掲載している「コロナ対応支援プラットフォーム」と名付けたブログの開設です。詳しくはこちらのリンクからご覧いただき、その上で、このブログを参照していただければと思います(コロナ対応支援プラットフォームはこちらのアドレスです。 http://catholictad.jugem.jp/

それ以外にも、Facebookにおいて、こちらのリンクで発信をしていますので参照ください。

Webinar20b

この災害対応チームでは、教会活動がコロナ禍のために困難を極める中で、さまざまな取り組みを、特にオンラインで行っている事例を紹介しようと、去る11月14日午後1時半から、オンラインでパネルディスカッションを開催しました。

当日は、教区内で次の方々にパネラーとしてご報告をいただ来ました。

A: カトリック西千葉・千葉寺教会
「リモート聖書講座・主日の福音」 
福島 一基 神父(西千葉教会・千葉寺教会主任司祭) 田中 修さん(講座受講者 千葉寺教会信徒)

B: ドン・ボスコ オラトリオ
「日本語講座にみるベトナム人技能実習生の今」
田村 宣行 神父(サレジオ会) 春山 ミカエル ラップ 神父(サレジオ会)

C: カトリック梅田教会 教会学校 「継続が一番」
藤本 陽子さん(教会学校リーダー) ラメイ アレックさん(教会学校リーダー)

D: カトリック調布教会 教会学校
「これからの教会学校の在り方を見つめて」
荒川 讓二さん(教会学校アニメーター サレジオ会哲学生) 木下 敏孝さん(調布教会教会委員長)
古川 晴麻さん(教会学校生徒)古川 美帆子さん(教会学校保護者)

参加して報告くださった皆さんありがとうございました。このパネルディスカッションの様子は録画してありますので、東京教区のホームページから是非ともご覧ください。録画を見ることの出来るリンクはこちらです。また今後もこのようなオンラインパネルディスカッションを開催して、「困難なときにこそ新たな取り組みを」めざして、体験を共有し、教区全体で生かしていくことが出来ればと思います。

以下、当日のパネルディスカッション冒頭での、私のメッセージです。

本日は多くの方に、オンラインパネルディスカッションに参加していただき、ありがとうございます。

カトリック東京大司教区の災害対応チームとしては、新型コロナ感染症は、地震などの災害と変わらない大きな影響を社会に及ぼしていると認識し、感染症が認知された当初から、教会としてどのような対応が出来るのかを模索してきました。

感染症の拡大は社会全体に大きな影響を及ぼしていますが、教会にもおなじように大きな影響を及ぼしています。社会全体もそうですが、教会も、いのちの危機に直面して、どこに向かえば光が見えるのか分からずに、暗闇の中で彷徨っているような感覚です。

とりわけ教会は大きな影響を受けています。なんといっても、新型コロナ感染症から身を守るために、密集、密閉、密接といった三つの密を避けることが提唱されていますが、教会はまさしくミサを捧げるためにこの三つの密に満ちあふれているところだからです。たくさんの人が狭い場所に集まって、みんなで聖歌を大きな声で歌ったりするのですから、教会は三つの密と共にあると言っても過言ではありません。それが出来ないとなると、とたんに教会はアイデンティティの危機に直面しました。特にカトリック教会は、集まって聖体祭儀に与り、御聖体を拝領することが重要なのですから、それに困難を感じている今、教会は、いったい自分たちはどうあるべきか、大きな悩みを抱えてしまっています。

残念ながら、この危機的状況は、すぐには解決しそうにありません。それなりに感染対策には心を配るようになりましたが、それでも以前のような活動に戻ることは当分難しいと思います。

そんな中で、単に失ったものをどう補充するかという視点だけではなく、与えられている使命、すなわち福音を、「時が良くても悪くも」伝えていく使命から、わたしたちキリスト者は逃れることは出来ません。この困難な中で、どうやったら積極的に福音を伝えていくことが出来るのか。

そこに21世紀の今、わたしたちにはインターネットという道具があります。それを使って教会は何が出来るのか。それも失ったものを補填する補助的な活動ではなくて、積極的にどう打って出るのか。

その道を探るために、今回のオンラインパネルディスカッションを企画しました。東京大司教区の災害対応チームとしては初めての試みです。

「コロナ禍の今、教会(わたしたち)のミッション」。

コロナ禍の今でも、今だからこそできるミッションが、私たちにはあるのではないでしょうか。
実際の取り組みに耳を傾け、新たな道を一緒に模索していきたいと思います。

Webinar20c

報告者は、それぞれの場所からZoomを使って報告をしていただきました。教区本部の司教執務室を配信の拠点として、担当司祭の豊島神父をはじめ私を含めて5名で、役割を分担し、同時配信いたしました。途中、報告が途切れるといったトラブルもありましたが、司会を担当した教区広報の赤井さんが名司会で切り抜けました。

今後もこういった企画を続けますので、是非教区の中で挑戦していることを分かち合いたい小教区や団体は、教区本部までご連絡区ださい。

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2020年11月14日 (土)

週刊大司教第二回:年間第33主日

年間第33主日の福音に基づいた、週刊大司教の2回目をアップロードしました。Youtubeのカトリック東京大司教区のチャンネルからご覧いただくか、東京大司教区のホームページからご覧ください。(一応この記事の下にも貼っておきます)

東京都が毎日午後3時に発表する新型コロナ感染症の検査陽性者数は、このところ高い数字を示しています。本日14日には、検査陽性の方が352人、また本日現在の重症者は41名と発表されました。昨日13日は、検査陽性の方が374人、昨日現在の重症者が39人、さらに一昨日12日は検査陽性者が393人で、一昨日現在の重症者は39人です。数字に一喜一憂しないと心掛けているものの、感染が拡大傾向にあるのは間違いありません。

東京教区では6月末頃から教会活動を再開させ、ミサの公開も限定条件を付けながら進めてきました。今現在は、クリスマスから年末年始へ向けてどのような対応をするかが話題となっています。確かに、当初に比べれば感染対策になれてきた面もあり、手指の消毒、マスクの着用、充分な距離、聖歌を一緒に歌わないことなどなど、対策は定着しています。

同時に、現在の状況を見るに、安心して「普通」の方向へ大きく舵を切ることが出来るような状況では決してありません、先日もお話ししましたが、慣れてしまって危機意識を失うことは避けたいと思います。なんとなく安全だと思い込んでしまいますが、これから寒くなる時期、専門家の警告もありますから、今一度気を引き締めておきたいと思います。

なお、主任司祭には8月1日付ですでに指示をしてありますが、教区内の小教区でクラスターが発生した場合には、一旦、教区のすべての活動を停止にして、全体の感染対策を見直しを行うことになります。従って、この先でも、現在のステージ3の対応を厳しくしたり、それ以前の公開ミサの中止などを含むステージ4に戻る可能性も充分にあることを、常に心にとめていただけると幸いです。(なお東京大司教区は、カトリック医師会東京支部に所属する信徒のドクターから助言を頂いています)

また、東京教区から原案を提出して、カトリック医師会などのご意見をいただいて修正した、11月1日付の司教協議会策定の全国的な対応マニュアルは、中央協議会のホームページに掲載されています。

以下、本日公開した週刊大司教の、メッセージ原稿です。

年間第33主日Aメッセージビデオ 2020年11月15日

わたしたちは、この世界を創造主である神からお預かりしています。

教皇フランシスコの回勅「ラウダート・シ」には、次のように記されています。
「わたしたちが神にかたどって創造され大地への支配権を与えられたことが他の被造物への専横な抑圧的支配を正当化するとの見解は、断固退けられなければなりません(67)」

教皇はわたしたちが思い上がりの中で神に取って代わったかのように、この世界を自由気ままに酷使している現実を、あたかも当然の権利であるかのように振る舞っていることを批判した上で、人間は世界を「耕し守る」よう定められているとして、次のように続けます。

「耕すは培うこと、鋤くこと、働きかけることを、守るは世話し、保護し、見守り、保存することを意味します」

すなわち、与えられた賜物であるいのちを生きているわたしたちは、そのいのちが生きる場として世界を与えられているものの、それは勝手気ままに支配して良いと言うことではなく、責任を持った保護者として耕し守り保存する務めがあることを、繰り返し指摘されています。

その上で教皇は、「神とのかかわり、隣人とのかかわり、大地とのかかわりによって、人間の生が成り立っている」と指摘し、「わたしたちがずうずうしくも神に取って代わり、造られた者としての限界を認めることを拒むことで、創造主と人類と全被造界の間の調和が乱されました(66)」と指摘されます。

与えられた賜物は、自分自身が好き勝手に使って良いわけではなく、単に増やしたからそれでよしとされるわけでもなく、実は、「神とのかかわり、隣人とのかかわり、大地とのかかわり」という、この世界における人間の生を成り立たせている関係のなかで責任ある行動をとることによって、はじめて管理者としての務めを果たしたことになるというのです。

ですから福音において、五タラントン預かった者は、外へ出て行って商売をする、すなわち人間関係の中でそのたまものを活用することによって、良い管理者であることを褒められるのです。逆に、一タラントン預かった者は、それを地の中に隠しておくこと、すなわちだれとの関係をも拒否することで、管理者としての務めを果たしていないと非難されるのです。

今年の被造物を大切にする世界祈願日のメッセージに、教皇フランシスコは次のように記されていました。
「神は、大地とその住人が休息し、力を取り戻せるようにと、その英知をもって、安息日を設けてくださいました。しかし今日、わたしたちのライフスタイルは、地球に限界以上の無理をさせています。発展への飽くなき要求と、生産と消費の果てしない繰り返しが環境を疲弊させています」

その上で教皇は、「進行中のパンデミックは、何らかのかたちで、より簡素で持続可能なライフスタイルを取り戻すよう、わたしたちを促しています。この危機は、ある意味、新しい生き方を広げる機会を与えてくれました。地球を休ませると、どれだけ回復するかが分かりました。・・・余剰で破壊的な活動や意図に終止符を打ち、創造的な価値観、きずな、計画を生み出すために、この決定的な機会を有効に生かさなければなりません」

わたしたちは、まずいのちという最大のたまものを与えられました。そしてそのいのちが生きるためにこの世界を与えられ、管理するようにと託されました。わたしたちは、「神とのかかわり、隣人とのかかわり、大地とのかかわり」の中で、この預けられたたまものを充分に生かし、責任ある行動をとることで、いつの日か、「忠実な良い僕だ」と主から言っていただくように、努めたいと思います。

 

 

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貧しい人のための世界祈願日・そして聖書週間

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11月15日の年間第33主日は、教皇様によって、「貧しい人のための世界祈願日」と定められています。今年で第4回目となります。今晩公開する週刊大司教では触れていませんが、次週、王であるキリストの主日の週刊大司教において、教皇様のメッセージに触れることにしています。

今年の祈願日にあたり、教皇様はメッセージを発表されています。タイトルは、「貧しい人に援助の手を差し伸べよ」というシラ書7章32節の言葉です。メッセージ全文はこちらのリンクからお読みいただけます。その冒頭の部分を引用します。

「古来の知恵はこのことばを、生活の中で従うべき聖なる規範として示しました。このことばは、今日、その重い内容すべてをもってこだまし、本質を見つめ、無関心という障壁を越えられるよう、わたしたちをも助けてくれます。貧困はつねにさまざまな顔をもっており、個々の状態に目を向けなければなりません。その顔一つひとつを通してわたしたちは、兄弟姉妹の中のもっとも小さい者の中にご自分がおられることを明らかにされたかた(マタイ25・40参照)、主イエスと出会うことができます。」

教皇様は、「貧しい人に援助の手を差し伸べよ」という聖書のことばを何度も繰り返しながら、現在の世界の現実を指摘しながら、悔い改めを呼びかけておられます。そこにはこういう一節もあります。

「「貧しい人に手を差し伸べよ」。このことばは、ポケットに手を入れたまま、貧困に心を揺さぶられることのない人の姿をかえって際立たせます。彼ら自身も往々にして、貧困を生じさせることに加担しています。そうした人々は、無関心と冷笑主義を日々の糧としています。」

そして教皇様は、このメッセージを、聖母への祈りで締めくくります。メッセージの終わりにこう記されています。

「だれよりも貧しい人の母でおられる神の母が、貧しい人と日々出会いながら歩むこの旅に寄り添ってくださいますように。おとめマリアは、社会の片隅に追いやられた人の困難と苦しみをよくご存じです。ご自身も馬小屋で御子を産んだからです。そして、ヘロデ王による迫害から、夫のヨセフと幼子イエスとともに他国に逃れることになりました。聖家族は数年の間、難民として暮らしたのです。貧しい人の母であるマリアへの祈りにより、マリアの愛する子らと、キリストの名においてその子らに仕える人とが一つに結ばれますように。そして、差し伸べられる手が、分かち合いと、取り戻された兄弟愛による抱擁へと姿を変えますように。」

貧しい人のための世界祈願日は、いつくしみの特別聖年(2015年12月8日~2016年11月20日)の閉年にあたり公布された使徒的書簡「あわれみある方と、あわれな女」において定められました。使徒的書簡はこちらのリンクからご覧いただけます。

さて11月15日から一週間は、聖書週間と定められています。カトリック中央協議会のホームページには、次のように解説されています。

「聖書週間は、1976年5月の定例司教総会で、全国的に聖書に親しみ、聖書をより正しく理解するための運動として「聖書週間」設定案が当時の宣教司牧委員会から提出され、同年11月の臨時司教総会において1977年11月の第3日曜日からの1週間を「聖書週間」とすることが決定されました。さらに、聖書委員会の発足と同時に委員による活発な啓蒙活動によって、日本のカトリック教会の中でも聖書への関心が高まってきました。その後、カトリック司教協議会による諸委員会の機構改革にともない、聖書委員会は1998年2月に解消されましたが、聖書週間は常任司教委員会によって引き継がれ、リーフレット「聖書に親しむ」とポスターの制作も継続されることとなり、今日に至っています。」

今年の聖書週間のテーマは、特にラウダート・シ特別年であることから、「あなたはたたえられますように」とされています。中央協のリンクはこちらです。

第二バチカン公会議の啓示憲章は、次のように記しています。

「福音が教会の中に絶え間なく完全にかつ生き生きと保たれるように、使徒たちは後継者として司教たちを残し、彼らに「自分たちの教導職を伝えた」のである。それゆえ、この聖伝と旧新約両聖書とは、地上を旅する教会が、顔と顔を合わせてありのままの神を見るときまで、すべてを与えてくださる神を見るための鏡のようなものなのである。(7)」

さらに次のように記して、聖書がカトリック教会における信仰にどれほど重要な意味を持っているかを指摘しています。

「教会は、主の御からだそのものと同じように聖書を常にあがめ敬ってきた。なぜなら、教会は何よりもまず聖なる典礼において、たえずキリストのからだと同時に神のことばの食卓からいのちのパンを受け取り、信者たちに差し出してきたからである。教会は聖書を聖伝と共につねに自らの信仰の最高の基準としてきたのであり、またそうしている。なぜなら、神の霊感を受け一度限り永久に文字に記された聖書は、神ご自身のことばを変わらないものとして伝え、また預言者たちと使徒たちのことばのうちに聖霊の声を響かせているからである。(21)」

その上で、「教会のすべての宣教は、キリスト教そのものと同じように、聖書によって養われ導かれなければならない」と指摘します。

わたしたちの主イエスは、人となられた神のことばであります。それが「変わらないものとして伝え」られている聖書にあらためて親しむ機会、それがこの聖書週間です。カトリック教会独自の翻訳としてはフランシスコ会訳がありますし、また先日1972年から翻訳事業に携わってきた大阪教区の和田幹生神父様が、日本聖書協会から第31回聖書事業功労賞を受賞したことからも分かるように、長年にわたってカトリック教会は超教派の翻訳事業に関わってきました。現在はわたし自身が務めていますが、日本聖書協会の理事には司教が一名加わることを慣例としています。ご自身で、また研究会や祈りの集会などでは、フランシスコ会訳や聖書協会の翻訳(新共同訳や聖書協会共同訳など)を、自由に使ってくださって構いません。カトリック教会の典礼にどれを使うかは、翻訳用語の問題や、教会の祈りにも使われる詩編の翻訳など、乗り越えるべき課題がいくつもまりますが、徐々に前進するでしょう。現在は、ミサの典礼などでは、これまでの長年の経緯もあり、新共同訳を、一部許可を得て言葉を換えながら使用していることは、聖書と典礼などから明らかかと思います。

以下、今年の聖書週間にあたり、日本聖書協会がお願いしている献金の呼びかけに書かせていただいた私の文章です。

「神のことばは、信じる者すべてにとって救いのための神の力」です(啓示憲章17)。聖書に記された神からの語りかけが、わたしたちを生かす信仰の力の源となります。
30年以上前にアフリカのガーナの教会で働いていた頃、私が担当していた地域の部族の言葉による聖書は存在していませんでした。ミサの度ごとに、カテキスタが公用語である英語の聖書を手に、その場で「翻訳」をしていました。残念ながらそのすべての朗読が、ふさわしい翻訳であったとは言えず、伝わるはずの神の思いが充分に伝わらなかったこともしばしばでした。
聖書の翻訳は重要な使命です。そして数多ある言語への翻訳作業とその聖書の普及には、充分な資金が不可欠です。また異なる言語だけではなく、視覚に障害を持たれている方々にも、聖書に記された神のことばを信仰の力としていただきたい。その作業のためにも充分な資金が不可欠です。
聖書週間にあたり、ご自身がまず神のことばから信仰の力をいただくと同時に、未だ聖書を手にすることのできない多くの方々に思いを馳せ、祈りと献金をお願いいたします。

 

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2020年11月 9日 (月)

「週刊大司教」を始めました。

Shoseido

2月27日からの公開ミサ中止に合わせて、3月1日から主日ミサをインターネット配信しておりました。配信の機器をそろえ実際に毎回配信をしてくださったボランティアスタッフや、聖歌を歌ってくださったシスター方、非公開の時には、広い大聖堂でミサに参加してくださったシスター方。そのほか多くの方のかかわりと助力で成り立っていた配信でしたが、その分多くの方に負担をかけることになり、また教区の週末行事も再開されるところが出て、わたし自身のスケジュール調整が難しくなってきたこともあり、ひとたびお休みさせていただくことにいたしました。協力いただいた皆様に感謝します。

その代わりになるかどうか分かりませんが、土曜日の晩に、「週刊大司教」と題して、10分程度の短いビデオを配信することにしました。主日の福音朗読とそれに基づく短いメッセージで構成しています。感染状況の変化に応じて、配信ミサが再開される可能性もありますが、当分はこちらを継続していこうと思います。制作は教区本部広報担当です。撮影場所は、大司教館の小聖堂です。(写真)なおYoutubeのアカウントは、配信ミサは関口教会のアカウントですが、週刊大司教は東京教区のアカウントになっています。(Youtubeのカトリック東京大司教区のアカウントをチャンネル登録くださるか、東京大司教区のホームページにリンクを掲載してあります)

 

なお、主の降誕、12月24日と25日には、大司教司式ミサの配信が予定されています。詳細は追ってお知らせします。

以下、第一回目のメッセージ原稿です。

年間第32主日Aメッセージビデオ 2020年11月8日

感染症が拡大し始めた初期の頃、毎日報道される感染者数に、恐れをなしたり安心してみたりと、一喜一憂を繰り返していました。少しでも感染者数が前日を上回っていたり、亡くなられた方があったという報道に接する度に、自らのいのちの危機を肌で感じて対策に奔走したものです。

いわゆる第一波がある程度落ち着いた後、東京では再び毎日の検査での陽性者数が200人を超えることが続き、メディアでも、またその報道に接するわたしたちも、数字の発表を固唾をのんで待っているような状態でした。

現在でも、東京では毎日午後3時になると、検査で陽性となった方々の人数が公表され、同時に亡くなられた方や重症の方の人数も公表されています。残念ながら、まだまだ感染が治まったとは言い難い数字が日々報道されていますが、何か当初のような興奮は冷めやり、まるで当たり前の数字であるかのように、報道でもそれを受け取るわたしたちでも、聞き流してしまうことが増えたように感じています。

災害への備えについてもそうですが、やはりわたしたちは、時間が経過するにつれて当初の強烈な印象を忘れてしまったり、または毎日継続する数字に慣れっこになってしまうものです。

本当は、何もない普段の時にこそ、緊急時を想定して備えておかなければ、いざというときには何も役に立たないことをわたしたちは経験上よく知っています。にもかかわらず、わたしたちの危機感は、実際の危機に直面しないことにはエンジンが始動しないのです。

新型コロナ感染症にしても、すでに専門家からは、この冬に備えなくてはならないという指摘があり、わたしたちも毎年冬のインフルエンザ流行の体験から、危険が迫っていることに体験的に気がつきながら、現時点での何か一段落したような雰囲気の中で制限を解除することにばかり気をとられ、次への備えがおろそかになりつつあるようにも感じます。

今日のマタイ福音は、将来を見越してしっかりと準備をしていた五人のおとめと、今現在のことにしか関心がなく、将来への備えを怠っていた五人のおとめが登場します。

イエスは、この話の締めくくりに、「だから目を覚ましていないさい。あなた方は、その日、そのときを知らないのだから」と述べておられます。

わたしたちは、常に目覚めているでしょうか。何もない普段にこそ、心を備えておかなければ、肝心のいざというときには、何も役に立たない。わたしたちのその常日頃からの備えは、何のためのどのような備えでしょうか。わたし自身が救われるためだけの自己研鑽の備えでしょうか。何を備えるべきなのでしょうか。

教皇フランシスコは、使徒的勧告「喜びに喜べ」に次のように記しておられました。

「もっとも困窮した人が味わう困難な状況において、教会はそれを理解し、慰め、平等に全体の中に参加できるよう特別に配慮すべきであり、石のような規則を押しつけてはなりません」

さらに「福音の持ついやしの力と光を差し出すよりも、福音を無理に吹き込もうとする人は、それを他者に投げつけるための石打ちの刑に変えてしまう」とまで言われます(49)

わたしたちの備えとは、福音をあかしして語り、また行動することであります。そのあかしは、「福音の持ついやしの力と光を差し出す」ことにあり、他者を石打ちの刑に処するために正しさを押しつけ断罪しようとする行動ではありません。

目覚めているわたしたちは、常に目を他者の必要に向け、神の愛といつくしみそのものである主イエスの福音をあかしするため、言葉と行いを持って、心を常に備えておくようにいたしましょう。

 

 

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2020年11月 1日 (日)

ヨハネ会誓願式@小金井教会

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10月31日土曜日の午後2時から、小金井教会で、福音史家聖ヨハネ布教修道会の誓願式が行われました。通常は略して「ヨハネ会」と呼ばれるシスター方は、社会福祉法人を通じて、主に桜町病院を中心とした諸施設に関わってきました。同修道会の歴史は、こちらのホームページをご覧ください。

この日は、同会はじめてとなるベトナム出身のシスターが初誓願をたてることになり、東京近隣のベトナム出身の司祭たちが集まりました。感染症対策のため、一般の方を招くことができず、聖堂内は主にシスターたちが間隔を空けて座り、歌唱も最低限としました。

Yohane20d

初誓願を宣立されたのは、シスターピア・レ・ティ・トゥ・フォンさん。おめでとうございます。

そして同じミサの中で、有期誓願を更新したシスターが二人、誓願の金祝をお一人が祝い、さらに60年であるダイアモンド祝を三人のシスターがお祝いされました。金祝とダイアモンド祝のシスター方は、それぞれがあらためて誓願生活への決意の言葉を述べられました。

Yohane20b

コロナ禍にあって、命の危機に具体的に直面してきた私たちは、何かしらの不安を抱えて生きています。先行きが不透明なため、闇の中でさまよい続けているような状況です。その中で、孤独のうちに孤立する人、必要な助けが得られない人、命を生き続けることに力尽きてしまう人、様々な側面から神の賜物であるいのちは危機にさらされています。

教会はその中にあって、いのちの希望を高く掲げたいと思います。その教会で、率先して人生をかけていのちの希望をあかしする奉献生活者の存在は重要です。

教皇ヨハネパウロ二世は、使徒的勧告「奉献生活」に、「他の人々がいのちと希望を持つことができるために、自分のいのちを費やすことができる人々も必要です」と記し、奉献生活者が教会にとって重要な存在であることを指摘されました。

誓願に従い、清貧・貞潔・従順を懸命に生き、福音をあかしする存在として闇の中に輝かれますように。

Yohane20f

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