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2020年12月26日 (土)

週刊大司教第八回:聖家族の主日

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12月最後の主日、27日は聖家族の主日です。年末年始は、日頃離れて暮らす家族が集まり、あらためて家族の絆を確認する大切な時期でありますが、残念ながら、今の状況では、今年は集まることが難しいと思われます。特に関東圏では毎日報告される検査陽性者数が高止まりしていますし、行政からの呼びかけもありますので、離れて暮らす家族が集まることをあきらめざるを得ない状況かと思います。大変残念です。

神の言である幼子イエスは、家族のうちに誕生しました。幼子イエスは、聖ヨセフと聖母マリアによって大切に育てられ成長していきました。聖なる家族が救いの歴史において重要な役割を果たしたという事実が、家族という存在の持つ役割の大切さを教えています。現代ではさまざまな形態の家族が存在するとは言え、人と人との繋がりの中で、互いに支え合い助け合う連帯の心を育む場として、家族という共同体は重要な意味を持っています。

なおすでにそのように決定されている小教区も少なくないと思いますが、大晦日の公共交通機関の終夜運転自粛や、外出の自粛要請などに基づき、1月1日深夜零時のミサは中止とされるようご検討ください。東京カテドラル聖マリア大聖堂で行われる予定でした関口教会の深夜ミサも、中止となりました。大司教司式ミサは、1月1日午前10時のミサとなり、配信されます。

以下、本日夕方に配信された、週刊大司教第八回のメッセージ原稿です。なお週刊大司教などのメッセージは、東京大司教区のYoutubeアカウントから配信されますので、チャンネル登録をお願いします。聖マリア大聖堂でのミサの配信は、カトリック関口教会のYoutubeアカウントですので、こちらも併せてチャンネル登録をお願いします。Youtubeのチャンネルは、東京教区と関口教会のふたつあります。

聖家族の主日(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第8回
2020年12月27日

神のみ言葉は人となられ、わたしたちのうちに共におられます。

教皇ヨハネパウロ二世は、回勅「いのちの福音」で、「神の子が受肉することによって、ある意味で自らをすべての人間と一致させた」と述べ、さらに「この救いの出来事は、・・・神の限りない愛だけではなく、さらには、すべての人格には比類のない価値があることを人類に啓示します」(2)と記しています。受肉の神秘は、神がわたしたちのもとに来られたという事実にとどまらず、その神秘を通じて、「すべての人格には比類のない価値があることを」啓示しているというのです。

そうであるならば、「ナザレの、人間の家庭へのみことばの受肉」は、救いの神秘において、家庭には聖なる意味と価値があることを明確にします。(教皇フランシスコ「愛のよろこび」65)

創世記の2章に記されているように、主なる神は、「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」(創2:18)と言われ、二人の人を創造されました。それはすなわち、人が独りで生きることが出来ないのだから、互いに助けあって生きていくようにと運命づけられていることを意味しています。人は尊厳あるいのちを家庭の交わりの中で、互いに支え合い、助け合いながら生きていくようにと召されています。しかし現実はそう単純ではありません。昨年11月に、東京ドームでミサを捧げられた教皇フランシスコは、説教でこう指摘されています。

「家庭、学校、共同体は、一人ひとりがだれかを支え、助ける場であるべきなのに、利益と効率を追い求める過剰な競争によって、ますます損なわれています。多くの人が、当惑し不安を感じています。過剰な要求や、平和と安定を奪う数々の不安によって打ちのめされているのです」

その上で教皇は、「孤立し、閉ざされ、息ができずにいる『わたし』に抗しうるものは、分かち合い、祝い合い、交わる『わたしたち』、これしかありません』の述べて、孤独の枷を打ち破るようにと招かれました。

教皇フランシスコは、先日発表された回勅「FRATELLI TUTTI(兄弟の皆さん)」においても、兄弟愛と社会的友愛をキーワードに、同じ一つの家に共に暮らす一つの家族にあって、互いに助け合い支え合うことの重要さを強調されています。婚姻によって成立する家庭を越えて、人類すべてが共通の家でいのちを生きる家族であることを、教皇フランシスコは強調されます。とりわけ、この回勅を準備されているときに発生した感染症のパンデミックによる「世界的な危機は、『誰も一人で自分を救えない』こと、そして、『わたしたち皆が兄弟』として『ただ一つの人類として夢見る』べき時がついにやって来たことを示した」と記しています(バチカンニュースから)

その上で教皇は、「今日の世界では、『ひとつの人間家族に属している』という感覚は薄れつつあり、『正義と平和のために力を合わせる』という夢は、時代遅れのユートピアのように思われます。 代わりに君臨しているのは、欺瞞的な幻想の背後に隠された、深い幻滅から生まれた『クールで、心地よく、グローバル化された無関心』」(30、カトリックあい試訳)」だと指摘し、「希望、再生に必要なのは、親密さです。出会いの文化です」と呼びかけています。

ナザレの聖家族に祈りましょう。「イエス、マリア、ヨセフ、あなた方のうちに、まことの愛の輝きを見、信頼を込めてあなた方にゆだねます。ナザレの聖家族よ、家庭の中で決して、暴力も排除も分裂も起こることがありませんように。傷ついた人、つまづいた人が皆、直ちに慰められ、いやされますように。」(「愛のよろこび」から)

 

 

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主の降誕、日中のミサ@東京カテドラル

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12月25日午前10時に、東京カテドラル聖マリア大聖堂でささげられた主の降誕・日中のミサの説教原稿です。

主の降誕・日中のミサ(公開配信ミサ)
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2020年12月25日午前10時

お集まりの皆様、インターネット配信を通じて共に祈りをささげておられる皆様、主の降誕おめでとうございます。

多くの地域では、昨晩でクリスマスは終わり、年末年始に向けての準備が始まっているのかも知れません。しかし、教会では降誕節が始まったばかりです。神のみ言葉の受肉の神秘を、わたしたちは信仰におけるさまざまな視点から見つめ、黙想し、喜びと感謝のうちにこの時期を過ごしてまいります。

さきほどの福音は、ヨハネ福音の冒頭でありました。それはイエスの物語の冒頭であるにもかかわらず、飼い葉桶も、マリアもヨセフも登場せず、ましてや羊飼いも天使も登場しません。

ヨハネによる福音の冒頭にはただ、「はじめに言があった」とだけ記されています。その受肉され人となられた神のことばは、わたしたちが普段何気なく口にする言葉とは異なり、いままさしく生きている神の言、神の思いそのものが人となられ実在している。それこそが誕生した幼子なのだと私たちに伝えています。

誕生した幼子。言葉を知らない幼子であっても、父ヨセフと母マリアとの関係性の中で示される存在そのもの。成長した後には、その語る言葉と行い。それこそが神の思いそのものを具体的に表すのであり、そこにこそいのちがあり、人を照らす希望の光があるのだと、ヨハネは私たちに伝えます。暗闇に輝くいのちの希望の光。そのいのちの言を、ヨハネは福音書に綴っていきます。

パウロはヘブライ人への手紙で、人となられた神のことばとは、すなわち、かつて預言者を通じて語りかけようとしてこられた神が、いまや直接語りかけている証左であると教えます。神はその思いを間接的に伝えようとするのではなく、人となってこの世に来られ、人類の歴史に介入することで、わたしたちに直接語りかけようとされています。

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今年わたしたちは、まさしく暗闇の中にあります。年の初めから今に至るまで、新型コロナ感染症は収束せず、それが未知の感染症であるが故に、なかなか確実なことを確信を持って知ることが出来ず、半ば闇の中で右往左往しています。世界の各地では、多くの方がいのちの危機に今でも直面していますし、比較的影響が軽く住んでいる日本でも、いのちの危機は終わったと断言することは出来ていません。

病床にある多くの方のためにお祈りいたします。医療関係者の方々の献身的働きに感謝します。もちろん病気はこの感染症だけではありませんから、いのちの危機に直面し、不安の中にある多くの方々のために、主の降誕の日にあたり、不安と恐れの闇を照らすキリストの光がもたらされるように心から祈ります。

1995年に教皇ヨハネパウロ二世は、回勅「いのちの福音」を発表され、「死の文化」と「いのちの文化」という対比する二つの文化の存在を指摘されました。「文化」とは社会を支配する価値観と言えるかも知れません。そして、信仰に生きるわたしたちにどちらの文化を選択するのかと問いかけました。教皇はいのちの尊厳をないがしろにする現代社会の傾向をさまざま指摘した後に、このように記しています。

「現代世界には、いのちを脅かす重大な脅威が無数にあります。これらに直面するとき、人間はまったくなすすべがないと圧倒されてしまいます。善は、悪に勝利を収めることが出来るだけの力を持たないと感じるのです(29)」

その上で教皇は、「そのようなとき、ずべての信仰者を含む神の民は、『いのちのことば』であるイエス・キリストへの信仰を、謙虚に勇気を持って表明するよう招かれるのです」と記します。(29)

教皇はさらに、「イエスのことばと行い、またイエスその人をとおして、人間には人間のいのちの価値についての完全な真理を『知る』可能性が与えられました」と指摘します。(29)

賜物であるいのちは、その始まりから終わりまで、ありとあらゆる脅威にさらされてきました。それはいのちへの直接の脅威であったり、武力や暴力による脅威であったり、人間の悪意による脅威であったり、排除や差別による攻撃であったり、政治的意図や政治的支配欲による脅威であったり、政治思想に基づく圧政であったり、貧困や疾病による脅威でありました。今年はその脅威に、未知の感染症が加わりました。いのちは常に、なにがしかの脅威にさらされています。

その中にあって、わたしたちは「いのちのことば」に耳を傾け、そのあかしに倣い、自らの言葉と行いで、「神の言」を具体的に生きるよう呼ばれています。

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この数年の間、世界では、利己的な思想や価値観が広まり、助け合うことや支え合うことが意味を失い、孤独や孤立のうちに取り残される人が多く見られるようになりました。異質な存在を排除し、自己の価値観を守ることに専念する社会は、寛容さを失います。教皇フランシスコは、しばしば誰も排除しない社会の実現を呼びかけ、隔てる壁を打ち壊し、広がる溝に橋を架けるようにと諭してきました。

心の不安を増幅するような事態の頻発は、疑心暗鬼の闇をひろげてしまいます。疑心暗鬼の相互不信には、対立を引き起こす負の力があり、寛容さを広める前向きの力はありません。

そういう中で、あたかも人間のいのちには価値の違いがあるかのような思い違いすら、簡単に生み出されてしまう可能性があります。自分たちを守るためなら、異質なものは排除しても構わないという考えは、いのちに対する尊厳の欠如です。まさしく、寛容さを失い、相互不信にあえぐ社会は、「死の文化」に彩られた社会です。闇の中を歩んでいる今だからこそ、教会はあらためてこの社会の中で、「いのちの文化」を強調していかなければなりません。善が悪に勝利を収めるだけの力を持っていることを、証明していかなくてはなりません。

イエスの誕生にこそ、また神の言の受肉にこそ、神の愛といつくしみとゆるしの深さがはっきりと表れています。自らが創造された人間を、神は愛し抜かれていたからこそ、忍耐に忍耐を重ねて、しばしば預言者を通じて道をただそうとしてきた。しかし人間はなかなかそれに従わない。そこで神はすべてを終わらせることも出来たであろうに、そうではなく、自ら人となり直接語りかけ、そして最後には人間の罪をすべて背負い十字架の上でその身をあがないの生け贄として捧げ、永遠の生命への道を開かれた。私たちの信仰の核心です。

今日、イエスの誕生を祝ってここに集う私たちは、神の尽きることのない愛といつくしみとゆるしの結果として、私たちに与えられた「神の言」にあらためて触れています。神の思いそのものである「神の言」に触れ、包まれる機会を与えられています。私たちがクリスマスに教会に集まって喜びの思いを抱くのは、単にイエスの誕生を祝っているという喜びではなく、つきることのない神の愛といつくしみとゆるしに、あらためて包み込まれているからではないでしょうか。弱い私たちは、日々、神の呼びかけに耳を傾けずに、様々な裏切りを積み重ねています。にもかかわらず、神はわたしたちを見捨てることなく、このクリスマスにあたって、あらためてヨハネ福音の呼びかけを通じて、わたしたちに、その愛といつくしみとゆるしの深さを感じさせてくださっています。感謝のうちに、降誕節を過ごしてまいりましょう。

 

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2020年12月25日 (金)

主の降誕、夜半のミサ@東京カテドラル

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主の降誕のお喜びを申し上げます。

皆様にはどのような夜をお過ごしになられたでしょうか。通常であれば、12月24日の夜は、大勢の方が教会を訪れてくださいます。関口のカテドラルも、特に夕方5時と7時のミサは、事前に列を作って並ばれる方も多数おられ、聖堂は一杯となってきました。

ところが今年はコロナ禍です.感染症対策のため、かなり前から、一般の方の参加をお断りし、信徒や求道者の事前登録となりました。なお関口教会のYoutubeチャンネルで配信しておりますので、いつでも見ていただけます。(ミサの中継は関口教会のチャンネルですが、教区からのメッセージや週刊大司教は、東京教区のチャンネルで配信します。東京教区のチャンネルも、あわせてご登録ください。)

また現時点での東京教区の感染症対策については、常にまとめて掲載していますので、ホームページのこちらをご覧ください。変更があった場合も即座に反映しています。また、現時点では、行政からの緊急事態宣言などがない限り、これまで通りの厳重な感染対策をとったまま、ミサなどの典礼は行っていきますが、現時点では典礼以外の集まりや会議は、自粛をお願いしています。

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以下、12月24日午後10時から行われた夜半のミサの説教原稿です。(なお配信映像の最初の部分に、カテドラル大聖堂内の気流のシミュレーションを見ていただけます。それによれば、参加者の大きな扉を半開することで、10分程度で聖堂内の空気が外気と入れ替わることが分かります。また三カ所の扉を全開すると、5分程度で外気と入れ替わるようです。)

主の降誕・夜半のミサ(公開配信ミサ)
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2020年12月24日午後10時

 

「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の影の地に住むものの上に、光が輝いた」

お集まりの皆さん、そしてインターネット配信を通じて共に祈りをささげておられる皆さん、主の降誕、おめでとうございます。

このイザヤの言葉を切実に感じた一年でありました。今年の初めから、世界各地で猛威を振るっている新型コロナウイルス感染症は、未知の感染症であるが故にその実体の解明に時間がかかり、多くの方が感染したりいのちを落とされてしまいました。日本も欧米と比較すれば人数は少ないとは言え、どのように対処したら良いのかが徐々に分かり始めてきたものの、長期間にわたっていのちの危機という暗闇の中を彷徨っているような気分であります。

現時点でも病床にある多くの方のためにお祈りいたします。また医療関係者の方々にあっては、その献身的な働きに、心から感謝申し上げます。

医療関係者や研究者の方々の努力の積み重ねによって、徐々にではありますがその事態が解明されはじめ、暗闇にも光が差してきたように思います。

わたしたちは、暗闇の中を明確な方向性を確認できないまま進まなければならないとき、どうしても疑心暗鬼になってしまいます。疑心暗鬼に包み込まれた心は、不安のあまり恐れを生み出します。恐れを振り払うかのようにしてわたしたちは、暗闇にかすかに差し込む光を求めてもがき続けてしまいます。暗闇には、さまざまな光が差し込んできます。不安と恐れに駆られるとき、じっくりとそれらの光を見極めて、正しい道を識別する作業を待っていることが出来ずに、不安な心を満たしてくれる目の前の光に飛びついてしまうことがあります。確かに今でも何が真実なのかを確実に把握している人はいないでしょうから、安心を求めて飛びついた光が、正しくなかったこともあるでしょう。偽の光に踊らされてしまったこともあるでしょう。浮き足立っているのですから、それは不思議ではありません。

自分ひとりが浮き足立っているだけならば構わないのですが、不安や恐れは安心を求めて自分の立ち位置を明確にしようとさせ、ともすれば攻撃的になってしまいます。自分を不安に陥れる存在に対して、攻撃的な姿勢を見せてしまう誘惑があります。

感染した人への過度な批判や、自分と異なる存在への過度な攻撃。その中で人間関係は崩壊し、孤立と孤独が支配するようになります。

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教皇フランシスコは、先日発表された回勅「FRATELLI TUTTI(兄弟の皆さん)」においても、兄弟愛と社会的友愛をキーワードに、わたしたち人類は、同じ一つの家に共に暮らす一つの家族であることを強調されています。誰ひとり排除されて良い人はいない、忘れられて良い人はいないと繰り返し強調されてきた教皇は、この回勅にあっても、一つの家族の一員として、互いに助け合い、支え合うことの重要さを強調されています。人類すべてが、神から与えられた共通の家でいのちを生きる家族であると強調されています。

昨年11月に東京で、東北の被災者の方々と出会った教皇の、あの言葉を思い起こします。
「一人で「復興」できる人はどこにもいません。だれも一人では再出発できません。町の復興を助ける人だけでなく、展望と希望を回復させてくれる友人や兄弟姉妹との出会いが不可欠です」

同じように教皇は、この新しい回勅を準備されているときに発生した感染症のパンデミックによる「世界的な危機は、『誰も一人で自分を救えない』こと、そして、『わたしたち皆が兄弟』として『ただ一つの人類として夢見る』べき時がついにやって来たことを示した」と、新しい回勅に記しています(バチカンニュースから)

神が天地を創造された最初の状態にこそ、神が定められた秩序が実現しており、それこそが本当の意味での正義と平和に満ちあふれた状態でありました。しかし人間は与えられた自由意志を乱用し、その世界から逃げだし神から逃れようとすることによって、闇の中をさまようことになりました。しかしそれでも自ら創造された人類を愛し続ける神は、闇の中をさまよい続ける民に、自らが道しるべの光となるために、そして神の道に立ち返るよう呼びかけるために、自ら人となって誕生し、人類の歴史に直接介入する道を選ばれました。裏切りに対する神の答えは怒りと裁きではなく、愛といつくしみでありました。死の暗闇ではなく、いのちの希望の光でありました。

いつくしみと愛そのものである神は、自ら出向いていくことで人となり、遠くから照らす光ではなく、人々の中で輝く希望の灯火となろうとされました。愛といつくしみを必要としているところへ、直接出向いていこうとする行動原理です。この神の行動原理に、わたしたちも倣って生きたいと思います。

「出向いていく教会」は、教皇フランシスコが繰り返し強調される教会の姿です。

教皇は使徒的勧告「愛のよろこび」において、「わたしたちが呼ばれているのは、良心をそだてることであり、それに取って代わろうと思い上がることではありません(37)」と指摘して、教会が裁きの場となることのないようにと呼びかけます。それは「福音の喜び」における次の言葉に繋がっています。

「教会は無償のあわれみの場でなければなりません。すべての人が受け入れられ、愛され、ゆるされ、福音に従う良い生活を送るよう励まされる感じられる場でなければならない」(114)

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この一年、感染症という見えない脅威を前にして、いのちの危機という暗闇に取り込まれてきたわたしたちには、自信を持って歩みを進めるために、光を探し求めてきました。その光は、誰かを裁いたり、排除したり、攻撃するための光ではなく、いつくしみと愛を持って支え合い、慰め合い、喜びを生み出す光です。その光はわたしたちを、「展望と希望を回復させてくれる友人や兄弟姉妹との出会い」へと導いてくれる光です。この輝く光には、いのちの希望があります。なぜならばこの輝く光は、いのちそのものであり、いのちを賜物として創造された神の愛といつくしみそのものであり、わたしたちを包み込む神のことばそのものであります。

「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の影の地に住むものの上に、光が輝いた」

飼い葉桶に寝かされた幼子の前に佇み、その小さないのちに込められた神の愛といつくしみに感謝いたしましょう。そしてそのいのちが与える希望をわたしたちも心にいただき、その希望を喜びのうちに、多くの人たちに分け与えてまいりましょう。いま、多くの人たちが不安と疑心暗鬼の暗闇の中で、喜びと希望の光を待ち望んでおられます。
 

 

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2020年12月23日 (水)

ペトロ岡田武夫大司教葬儀ミサ@東京カテドラル

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12月18日に帰天された東京教区名誉大司教ペトロ岡田武夫大司教の葬儀ミサを、本日12月23日午前11時から、東京カテドラル聖マリア大聖堂で執り行いました。

現在の感染症の状況から、葬儀には、東京教区で働く司祭団と、親族関係者の方々に参列を限定させていただきました。なおミサの模様は、以下のYoutubeでご覧いただけます。

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また、年が明けて来年1月19日に、これも参加者は限定となりますが、全国の司教様方もお招きして追悼ミサを行います。その後、同じ1月19日の午後1時から4時の間、聖マリア大聖堂にて献花とお別れのお祈りの時間を設けます。密を避けるため、聖堂内に皆さん留まっていただくことは出来ませんが、順番に献花とお祈りをして、岡田大司教様とのお別れをしていただければと思います。この献花とお別れの祈りの時間については、どなたでもおいでいただけます。

なお岡田大司教様のご遺体に関しては、在宅療養中の大量吐血であったため、救急搬送先の東京医科歯科大学救急救命センターで帰天されましたが、その後PCR検査が行われなかったことから、ご遺体は陽性と同じ取り扱いとなってしまいました。そのため、葬儀に先立って日曜日午後に、立ち会いなしで火葬されています。葬儀のビデオの終わりに、わたしのあいさつの中で説明しております。

以下、本日の葬儀ミサの説教原稿です。

ペトロ岡田武夫大司教葬儀ミサ
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2020年12月23日

 

人となられた神のみ言葉の神秘という、新しい命の誕生を祝う準備を進めているわたしたちは、今日、いのちが与えられることではなく、いのちが取り去られた事実を目の当たりにして、祈りの内に佇んでいます。東京教区で、そしてさいたま教区で、司教職を全うされたペトロ岡田大司教様は、クリスマスが目前に迫った12月18日昼、御父の御許にお帰りになりました。

この世のいのちには始まりがあり、そして終わりがある。しかしこの世のいのちの終わりはすべての終結ではないこともわたしたちは信じています。イエスをキリストと信じる私たちは、神は「イエスを信じ、その御体を食べ、御血を飲む人々を世の終わりに復活させてくださる」のだと確信し、永遠のいのちに生きる大きな希望を持ちながら、この人生を歩んでいます。

同時に、「私をお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人をひとりも失わないで、終わりの日に復活させることである」と言われたイエスの言葉に信頼し、いつくしみ深い神が、その限りない愛をもって、すべての人を永遠のいのちのうちに生きるよう招かれていることも信じています。

親しい人とのこの世での別れは悲しいことではありますが、教会は同時に、永遠のいのちへの希望を高く掲げることを止めることはありません。葬儀ミサで唱えられる叙唱にも、「信じる者にとって、死は滅びではなく、新たないのちへの門であり、地上の生活を終わった後も、天に永遠のすみかが備えられています」と私たちの信仰における希望が記されています。

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岡田大司教様は、1973年に司祭叙階されてから47年間、司祭としての道を歩んでこられました。1991年には当時の浦和教区、現在のさいたま教区司教に叙階され、2000年に東京大司教として任命され着座されました。その後再びさいたま教区の使徒座管理者を兼任されましたが、2017年10月に76歳を持って引退願いが受理され、教区司教の職を退かれていました。

帰天されるまでの29年間の司教としての歩みには、特に日本カトリック司教協議会会長として、日本における教会が直面するさまざまな課題に取り組まれ、また聖座との交渉にもしばしば出かけておいででした。また東京カリタスの家の理事長やロゴス点字図書館の理事長なども兼任され、社会の中で困難に直面する人たちのために力を尽くす姿勢も示してこられました。

わたしは2017年12月に東京大司教を引き継ぎましたが、その際に岡田大司教様は、引退されても小教区司牧を手伝いたいと希望されておりました。主任司祭が不在であった本郷教会の小教区管理者として、司牧のお手伝いをお願いいたしました。大司教様はそのとき、これまで忙しくて考えをまとめることも出来なかったので、本を書きたいのだといわれていました。

本郷教会では、小教区の司牧に留まらず、研究会の開催などに取り組まれ、同時にさまざまな思索の断片を、ブログやSNSなどで、積極的に発信されていました。近頃は特に善と悪についての考察を深めておられたように思います。

今年、2020年1月末に、飲み込みがうまく出来なくなっておられたようで、周囲の勧めで病院を受診したところ食道癌のステージ4と診断を受けられました。いろいろなことをお考えになったと思います。大司教様は手術を選択しないことを早い段階で決断され、本郷教会に在宅のまま、化学療法や放射線治療を受けて、病気と闘っておられました。闘病中に本郷教会の信徒の皆さんをはじめ、大司教様を支えてくださった多くの方々の献身的なお働きに、心から感謝申し上げます。

ブログの最後のエントリーは12月12日でありました。そのタイトルは「主にあっていつも喜べ」であります。待降節第三主日のホミリアでありました。

当日のテサロニケの教会への手紙の朗読を取り上げ、こう記しておられます。長くなりますが引用します。
『「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」(一テサロニケ5・16-18)これこそ究極の福音とでも言うべき言葉ではないでしょうか。

わたしたちは人生において度々喜びの体験をしますが、それは多くの場合、やがて儚く消え去る不確かな喜びにすぎません。人生にはむしろ悲しみの方が多いのではないでしょうか。「いつも喜んでいなさい。」といわれても、「冗談ではない、なかなかそうは行かないよ」という気持ちになります。

この世界は過酷であり、人生は困難であります。この世界は、生きるのが難しい「荒れ野」ではないでしょうか。この世界は大きな闇で覆われているように感じることがしばしばです。

しかし、今日聖書が告げる「喜び」は人間としての自然の喜びではなく、信仰の喜び、厳しい現実があっても与えられる喜びです。イエス・キリストにおいて示された神の愛、無限の神の愛と出会い、愛の泉から受ける信仰の喜びです。(『福音の喜び』7)

主イエスはすべての人の人生の苦悩をいわば吸い取ってくださった方であると言えましょう。キリスト教は復活の宗教です。復活とは弱い人間性が不死の喜びの状態に挙げられることです。主の降誕を準備するこの季節、主の復活にも思いを馳せることは意義深いことです』

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岡田大司教様は、新しい命の誕生を祝う準備をする今こそ、真の喜びに至る復活について思いを馳せることの大切さを最後に書き残されました。

79歳というのは、現代の平均では早い人生の終わりであります。教区大司教の職を引退されたときには、それからの長い時期を、さまざまに有効活用しようと計画されていたことと思います。しかし、命の与え主である御父は、全く異なる計画をお持ちでした。

日本の教会のために、また普遍教会のために大きく貢献された人生でした。福音をあかしし、多くの人に伝えようとした人生でした。困難に直面する人、助けを必要とする人に思いを寄せ手を差し伸べる人生でありました。牧者として先頭に立ち続ける人生でありました。「自分のことではなくキリストのことを考えて」、キリストに倣い「仕えられるためではなく仕えるため」に生きる人生でありました。そして人知を遙かに超えた神の計らいにすべてをゆだね、神の計画の実現を最優先とした人生でありました。ですから多くのことを成し遂げ、多くの功績を残しながら、それをすべてうち捨て、神の計画に従って御父のもとへと召されていきました。

ヨブ記の言葉を思い出します。
「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」(ヨブ記1章 21節)

 

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2020年12月19日 (土)

週刊大司教第七回:待降節第四主日

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待降節も終わりに近づき、主の降誕への準備が進む季節です。上の写真は、東京教区本部入り口の飾りですが、よく見ると、まだ幼子は置かれていません。まだです。

12月18日の帰天された岡田大司教様の葬儀などについては、こちらの東京教区ホームページをご覧ください。残念ながら、現在の状況のためさまざまな制約があり、いつものような葬儀ができないことが残念です。岡田大司教様の永遠の安息のために、祈りましょう。

降誕祭が近づいていますが、今一度、教区ホームページに掲載されている現時点での対応を確認ください。ミサ以外の教会の諸活動は、中断してください。状況に応じて、年明けには戻せるように願っています。ミサについては、基本的な感染対策をお願いします。なお、東京では大晦日の電車島の終夜運転は中止になっているようです。小教区でその影響がある場合、新年の深夜ミサなどは、主任司祭の判断で、中止とするようにご検討ください。

以下、待降節第四主日のメッセージ配信、週刊大司教の原稿です。

待降節第四主日(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第7回
2020年12月20日

「私は主のはしためです。お言葉通り、この身になりますように」

マリアはこの言葉を持って聖母となりました。マリアにとって天使ガブリエルからのお告げは、全く理不尽な内容であったに違いありません。「どうしてそのようなことがあり得ましょうか」と言う、強い否定の言葉に、その困惑の度合いが感じられます。しかしマリアは、聖霊の働きを通じた神の不思議な計画についての天使のお告げを受け、「神に出来ないことはなに一つない」と言う言葉に信頼を置き、神の計画にすべてをゆだねることを信仰において決意します。

教皇パウロ六世は使徒的勧告「マリアーリス・クルトゥス」において、「マリアの信仰は、彼女にとって神の母になるための手段であり、道でもあったのです」と指摘しています。その上で教皇は聖アウグスチヌスの言葉を引用して、「信仰に満たされて、胎内にキリストを宿らせるに先立って心にキリストを宿らせたとき、彼女は『私は主のはしためです。お言葉通り、この身になりますように』と答えた」として、教会がキリストと一致して生きていることへの模範を聖母マリアの信仰が示していると指摘します。

さらに教皇は、教会は聖母マリアの行動原理に倣って生きていると指摘し、特に典礼において、「神のみことばを信仰を持って聞き、引き受け、のべ伝え、尊び、生命の糧として信者に分け与え、さらにまた、みことばの光に照らされて『時のしるし』を吟味し、歴史における出来事を解釈しつつ生き続けている」と述べています。(17)

聖母マリアの信仰は、この世界を支配しているのは人間ではなくて、世界を創造された神であるという、神の前にへりくだる明確な態度と確信に基づいています。この世界は、創造主である神によって支配され、神はその計らいを持ってわたしたちを導かれる。そのように信じて生きる行動の原理を、聖母マリアの人生はわたしたちに模範として示しています。

「神に出来ないことは何一つない」という信仰における確信は、自らの人生をあきらめることではなく、神の計画を実現するために貢献するのだという前向きな希望を生み出すものです。

教皇フランシスコは11月29日のお告げの祈りで、「待降節は、絶え間なき希望への呼びかけです。・・・神は、いつも人類の歴史の中に現存されます。神は、わたしたちを支え助けるために、わたしたちの傍らを歩まれる、「わたしたちと共におられる神です」。主は、わたしたちを決して見放しません。生活の中で、わたしたちが日ごとの歩みの意味を発見できるよう、わたしたちと共に歩んでくださいます。嵐の最中には、いつもわたしたちに手を差し伸べ、危険から救ってくださいます」と励ましの言葉を述べられました。

神の計らいに信頼し、その中にこそ希望が生まれると信じているわたしたちは、この一年、神のご計画はどこにあるのだろうかと識別を重ねています。いのちの危機という困難な状況の中で、また暗闇に彷徨う旅路の中で、教会は「時のしるし」を識別しようと、努力を重ねています。聖母マリアが信仰においてその心にキリストを宿らせたように、わたしたちも信仰に生きる教会にキリストが宿られていることを信じています。また、聖母マリアがその胎にイエスを宿したように、教会も、主ご自身が「世の終わりまでいつもあなた方と共にいる」と言われた約束を信じ、教会にキリストが共におられ、歩みを共にしておられることを信じています。神の計らいは暗闇に輝く希望の光です。主は共におられます。

 

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2020年12月18日 (金)

訃報:ペトロ岡田武夫大司教様

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東京教区名誉大司教であるペトロ岡田武夫大司教様は、本日、12月18日午後1時22分、頸部食道がんにともなう出血性ショックのため、東京医科歯科大学病院で帰天されました。79歳でした。公式の訃報は東京教区ホームページをご覧ください。(写真上:2014年、新潟の新しい司教館竣工式で)

岡田大司教様は、今年の初め頃に喉に違和感を覚え、飲み込みに困難があったこともあり病院に行かれ検査したところ、食道にがんが見つかっていました。その後、基本的には住まいとする本郷教会司祭館に在宅のまま、化学療法や放射線治療を受けておられました。残念ながら、がんは進行しておりましたが、大司教様は精力的に文章を書かれ、ブログやFacebookで数日前まで発表されておりました。本日朝、体調不良を訴えられ、その後、自室で吐血されたため救急搬送され、そのまま搬送先の病院で帰天されました。

体力が衰える中でも、著作を続け、またいろいろな新しい取り組みを考えておられたと伺いました。生涯現役の司祭・司教でありました。(下の写真:東京大司教区アレルヤ会創立50周年総会、2019年)

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残念ながら、現在のコロナの状況のため、葬儀を通常通りに行うことができません。現在調整中ですが、決まり次第、教区からお知らせします。今年は岡田大司教様はじめ、多くの先輩司祭が旅立たれました。現在の状況のために、それぞれの司祭の働きに対して十分な感謝を示す形での葬儀ができていません。大変申し訳なく思っています。同時に、それぞれの福音宣教へのお働きに、御父が豊かに報いてくださることを信じています。

わたしが2004年に新潟の司教に任命されたとき、司教叙階式を司式くださったのは岡田大司教様です。その後も東京教会管区の管区大司教として、また司教協議会の会長として、様々な局面でご指導頂きました。感謝です。

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2017年12月16日にわたしが東京の大司教として着座したミサで、司教牧杖の受け渡しがありました。その場におられた方はご記憶かと思います。満面の笑みでわたしに牧杖を渡され、「菊地司教様、よろしくお願いします」と大きな声で呼びかけられた、あれは予定外でした。当初は、厳かに手渡すはずでしたが、しかしわたしは、あの笑顔と「よろしくお願いします」の声に、大きな励ましを頂きました。(上の写真)

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教区司教としての責務を離れてからも、ご自分から、司牧の手伝いをしたいと申し出られ、本郷教会の協力司祭として、司牧をお手伝いくださっておりました。同時に、これまで書けなかった本を書きたいとも言われて、取り組んでおられたのですが、残念ながら、病魔がそれを許しませんでした。もう少し時間があっても良かったのにと、心から思います。(上の写真:2014年、教皇様の韓国訪問で、ソウルのミサ会場で)

岡田大司教様の永遠の安息を祈ります。東京教区がさらに発展するように、教区のすべての人に御父の祝福と守りがあるように、またわたしが司教職を忠実に果たすことができるように、私たちの祈りを御父に取り次いでくださいますように。

R.I.P.

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2020年12月12日 (土)

週刊大司教第六回:待降節第三主日

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待降節第三主日は、喜びの主日と呼ばれ、バラ色の祭服を使うことが出来ます。典礼は主の降誕への準備とシフトし、喜びのうちに主の降誕への備えを始める時期となります。

ところで教皇様は12月8日、聖ヨセフがカトリック教会の保護者として宣言されてから150年となることを記念して、来年の12月8日までを『ヨセフ年」と定めることを宣言されました。詳細については、教皇様の文書などが翻訳された後にお知らせいたしますが、まずは中央協のホームページの短い解説をご覧ください。こちらのリンクです。私を含め世界中の司教は誰も事前に知らされていなかったので、当日以降のニュースで知ることとなり(今現在も、公示の文書などは手元に届いていません)、詳細が分からずにあたふたとしておりますが、分かり次第お知らせするようにいたします。

以下、待降節第三主日の「週刊大司教」第六回の、メッセージ原稿です。なお配信ビデオでは、前回より、霊的聖体拝領の時間を設けております。ビデオを途中で止めて、お祈りをしてから続けていただくことも出来ます。それぞれのお祈りにご活用ください。

なお、「週刊大司教」をはじめとして東京教区からのメッセージは、Youtubeの「カトリック東京大司教区」というチャンネルで公開しています。ミサの配信については、カトリック関口教会のYoutubeチャンネルを利用しております。両方のチャンネルを登録していただけると幸いです。

待降節第三主日(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第6回
2020年12月13日

新型コロナウイルス感染症は、なかなか収束に向かわず、それどころか、待降節が後半に入り、主の降誕を待ち望む準備の時に入ったこの時期、さらに勢いが増しています。世界各地で多くの人が、いのちの危機に直面し、病床での日々を過ごしておられます。病床にある方々のために心からお祈り申し上げると共に、いのちを守るために日夜取り組んでおられる医療関係者の皆様に、感謝申し上げます。徐々にではあるものの、この感染症に対処する道筋が見えてきたとは言え、やはり暗闇の中に取り残され不安の中を彷徨っているといった感覚から、まだまだ抜け出すことが出来ません。今年の待降節は、そんな暗闇の中に彷徨いながら、主の降誕に向けた霊的準備を進めなければなりません。

クリスマスのお祝いと言えば、日本では12月24日の「クリスマスイヴ」にお祝いするのが定番となっています。集まることが難しい今年、例年のような盛り上がりが各地で見られるかどうかは予測が難しいのですが、教会も24日の夜のミサでは、多くの人を迎えて祈りの時を過ごしてきました。

クリスマスイブですから、そのお祝いは日が暮れてからの、夜のお祝いです。ご存じのように実際のクリスマスは12月25日ですが、24日の晩のお祝いもあながち誤りではありません。ユダヤの暦が日没を新しい一日の始まりとしていることをさておいても、そもそもクリスマスのお祝いは夜のお祝いであります。

イエスの誕生は夜の闇を背景として、聖書に描かれています。草原に野宿する羊飼いたちは、闇の中、輝いた星の光に導かれてイエスの誕生した場所へ到達します。そこでは夜の闇を打ち払うかのように、高らかに賛美を歌う天使たちの光が輝き照らします。

暗闇に輝く光。希望を失い不安の中を歩む民を照らす、命の希望の光。その暗闇に輝く光のイメージこそが、誕生した幼子の持つ意味をわたしたちに明確に示します。

神のひとり子であるイエスは、常にわたしたちと共におられる神、インマヌエルであります。その共におられるイエスは、神の「ことば」そのものであります。人となられた神のことばは、闇の中を歩む民を照らす希望の光です。生きる希望を生み出す存在です。その光は、神のいつくしみそのものでもあります。わたしたちを神のいつくしみを持って包み込み、進むべき道を明確に示し、その道を確信と希望を持って歩むことが出来るように、歩みを共にされる光。それが誕生した幼子、主イエスであります。

福音は、洗礼者ヨハネが、その光の先駆者として、光をあかしするために使わされたと記します。「主の道をまっすぐにせよ」と荒れ野で叫ぶ声であると記します。

コロナ禍にあって社会全体が闇の中に捨て置かれているように感じる今だからこそ、洗礼者ヨハネの存在が必要です。暗闇にあって輝く命の光をあかしし、進むべき道を指し示す声となる先駆者ヨハネが必要です。

現代社会にあって、わたしたちキリスト者は、命の光、希望の光であるイエスをあかしし、明確に示し、光に従って進むべき道を整える使命があります。光そのものである神のことばを、告げしらせる使命があります。わたしたちはイエスがその言葉と行いを持って示した神の愛といつくしみと命の希望を、わたしたち自身の言葉と行いであかししていきたいと思います。
 

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先輩宣教師の帰天

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昨日、12月11日金曜日午後8時9分、フランシスコ会の司祭ブルーノ・ファブリ師が、同会修道院で帰天されたとの報告を受けました。享年77才でした。(上の写真は、2009年10月の聖フランシスコのお祝いで、新潟教区の佐藤師と一緒にケーキを切るブルーノ師。後方左にマリオ・カンドゥッチ師、後方右にフーベルト・ネルスカンプ師。なお後方左の山頭師と川崎師も、帰天されています)

ブルーノ・ファブリ師は、1943年4月16日にイタリア・リミニで生まれ、1966年5月19日にフランシスコ会で荘厳誓願、その後1968年3月31日に司祭に叙階され、1969年9月8日に来日されました。数年前に引退されるまで、新潟教区の長岡地区で長年に渡って、小教区司牧、幼稚園教育、そしてボーイスカウト活動に献身された、新潟教区を支える存在でありました。ブルーノ・ファブリ師の永遠の安息を祈ります。

長年に渡って新潟教区の宣教司牧活動に貢献し、特に新潟県の長岡地区を支えてくださったフランシスコ会の宣教師が、今年は皆、帰天されました。マリオ・カンドゥッチ神父様、レオ・バッシ神父様、ブルーノ・ファブリ神父様。すでに昨年までに帰天されたそのほかのフランシスコ会員と共に、私が2004年から2017年まで新潟教区で働いていたとき、さまざまな側面から宣教司牧を支えてくださった偉大な宣教師たちが、みな御父のもとへと旅立たれました。

現場での宣教司牧を離れられてからも、例えばドイツで帰天されたフーベルト・ネルスカンプ師のように、故郷で活躍された方もおおられますし、マリオ・カンドゥッチ師のように、殉教者の列聖調査を始めるために尽くされた方もおられますし、帰天まで現役で幼稚園長を続けてきた90歳を遙かに超えるバッシ師のような方もおられます。ブルーノ師も、司牧から引退されることには体調を崩し、歩行に困難を抱えていましたが、それでも教会のミサを手伝うために、歩行器を使ってゆっくりと道を歩まれていた姿が記憶に残っています。

それぞれの宣教師の方々は、それぞれに与えられた豊かな才能を発揮して、任命された場で大きな働きをされ、大きな賞賛を受けてきました。しかし同時に彼らは徹底的に修道者でありました。奉献生活に生きる人たちでした。大きな働きをした人間が、齢を重ねたとき、遙かに年齢が下の上長に従って謙遜に生きることには、大きな努力が必要です.しかし修道者はその生き方を生涯の生き方として選択しました。すべてを捨てて、清貧、貞潔、従順の誓願に生きることを、若い日に誓ったのです。

これらの偉大な宣教師たちも、生涯の最後まで、修道者としての奉献生活に徹底的に生きられた方々であったと思います。謙遜に神の御旨に従う姿を持って、わたしたちにキリストに従って生きる模範を残されたと思います。残されたわたしたちは、誓願における一人ひとりの選択と決意を尊重し、その生き方に学びながら、彼らの働きと貢献に感謝し、永遠の安息を祈りたいと思います。

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2020年12月 8日 (火)

無原罪の聖母の祝日、イエスのカリタス会の初誓願式、そのほかこの数日

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12月8日は無原罪の聖マリアの祝日です。東京教区ではカテドラルである聖マリア大聖堂の献堂記念日でもあります。

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この日、イエスのカリタス会では初誓願式が行われ、5名の修練者が誓願を宣立して奉献生活者としての道を歩み始めました。4名の方がベトナム出身、お一人が日本出身と、国際色豊かなグループで、誓願式ミサには日本で働いているベトナム出身の司祭も(そのうちお一人は、初誓願を宣立したシスターのお兄さん)参加してくださいました。

ミサは杉並区井草の本部修道院聖堂で行われ、現在の状況ですから、よく消毒をし、マスクを着用し、互いの距離をとり、聖歌は聖歌隊だけのミサとなりました。わたしが司式させていただきました。誓願式は修道会にとって大きなお祝いですから、本当は多くの方に参加していただけると良いのですが、残念な反面、誓願を宣立した方々にとっては、歴史に残るような状況の中で忘れることのない特別な時となったことと思います。

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おめでとうございます。またイエスのカリタス会のシスター方には、3月から10月末まで、関口教会からの配信ミサのために毎回聖歌隊を担ってくださり、美しい典礼の配信に力を貸してくださったこと、感謝しております。

なおこの数日と言うことで、三つのことがありました。

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11月29日には、山形県の新庄教会が献堂10年を迎え、この事態ですからお祝いは出来ませんでしたが、感謝ミサを捧げてまいりました。(写真すぐ上。新庄教会でのミサ)

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また12月6日には、千葉県の銚子教会で、新しい信徒会館が完成したこともあり、主日のミサに合わせて信徒会館の祝福式を行いました。(写真すぐ上が信徒会館)また主任の森神父様との共同司式ミサの中では、お二人が堅信を受けられました。これも現在の事態のため、限定された少数の方のみミサに与っていただきましたので、聖堂には20名ほどの方の参加となりました。

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 新しくできあがった信徒会館は木造二階建てで、壁の木材の色調がやさしく、暖かな建物となりました。(写真すぐ上が、右に聖堂、左に信徒会館)銚子駅にも近くまた海にも近い場所です。夏などには合宿などに活用していただける建物かと思います。

もう一つ、明日12月9日は東京教区の澤田和夫神父様の101歳の誕生日です。無原罪の聖マリアの祝日の午後に、澤田神父様も一緒にカテドラルで感謝ミサを捧げる予定にしていましたが、この数週間の東京における感染の状況を勘案し、急遽ミサは取りやめにしていただきました。残念ですが、神父様のお年のことや集まる方々のことを考えると、しかたのない選択かと思います。神父様は101歳ですがお元気です。わたしも今日の午後、お会いしました。明日の誕生日に、皆様のお祈りをお願いいたします。

以下、本日のイエスのカリタス会初誓願式の説教の概要原稿です。

イエスのカリタス修道女会初誓願式ミサ
2020年12月8日

「私は主のはしためです。お言葉通り、この身になりますように」

マリアはこの言葉を持って聖母となりました。マリアにとって天使ガブリエルからのお告げは、全く理不尽な内容であったに違いありません。「どうしてそのようなことがあり得ましょうか」と言う、強い否定の言葉に、その困惑の度合いが感じられます。しかしマリアは、聖霊の働きを通じた神の不思議な働きについての天使のお告げを受け、「神に出来ないことはなに一つない」と言う天使の言葉に信頼を置き、神の計画にすべてをゆだねることを決意します。

創世記のアダムとエバの物語は、この世界を支配するのは創造主である神であって、人間の勝手な思いではないことが明確に記されています。

パウロはそれを「御心のままにすべてのことを行われる方のご計画によって前もって定められ」と形容し、神はご自分が成し遂げようとされたことを必ず成し遂げられることを示唆します。

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この世界は、創造主である神によって支配され、神はその計らいを持ってわたしたちを導かれる。そう信じているわたしたちは、この一年、神のご計画はどこにあるのだろうかと識別を重ねています。

新型コロナウイルスの感染症は、教会の活動にも大きな影響を与えています。

いつもであれば、日曜のミサは言うに及ばず、こういった誓願式などのお祝いにも、出来るだけたくさんの人に教会や修道院に来てほしいと案内をするのですが、今年は逆に、来ないでくださいとお願いをしなくてはならない。そのこと自体が非常に象徴的ですが、わたしたちは何か、価値観の大転換を求められているように感じます。

教会には目に見える組織としての教会と霊的交わりで結ばれる共同体の二つの側面がありますが、この事態はわたしたちに、普段は忘れがちである共同体の霊的側面に目を向けさせています。その意味で、教会の意識も転換が求められているように感じています。

実はわたしたちは10年ほど前、おなじように価値観やライフスタイルを大きく転換させる出来事に直面しました。2011年3月11日に発生した、東日本大震災の体験です。

私たちはあの大震災を通じて、人間の力がいかに小さなものなのかを、さらにはその知恵や知識には限界があることを、巨大な地震と大きな津波の前で、また原発事故の直中で思い知らされました。厳然とそびえる限界の壁を知ったとき、わたしたちは、おごりを捨て、謙遜に生きる道を選択しなければならないと悟ったのではないでしょうか。

しかしそれから10年が過ぎ、強烈であった震災体験は徐々に忘れ去られ、結局のところ、社会全体の価値観の転換は起きませんでした。そこに、この新型コロナの感染症が発生しました。あらためてわたしたちは、この世界を支配するのは人間ではない。人間の知恵と知識には限界があることを認識させられました。

暗闇の中をさまよい歩いているわたしたちには、希望の光が必要です。その希望の光は、互いに助け合い、支え合い、配慮をしながら連帯するところに生まれます。希望の光が持続し、社会全体に定着するためには、その希望を率先して生きる人が必要です。連帯を目に見える形で生きる人が必要です。互いに支え合い思いやることで、生きる希望と喜びが生まれるのだとあかしする人が必要です。

教皇フランシスコがしばしば繰り返されるように、だれひとりとして排除されて良い人はいない、忘れ去れて良い人はいない。すべてのいのちは神からのたまものであり、神から愛されている。それをあかしして、社会のなかにあってしるしとなる人が必要です。

教皇ベネディクト16世が回勅『神の愛』に、教会の三つの本質的務めを記しています。それは、「神の言葉を告げしらせることとあかし、秘跡を祝うこと、そして愛の奉仕を行うこと」であります。

「神に出来ないことはなに一つない」と言う天使の言葉を信じ、「私は主のはしためです。お言葉通り、この身になりますように」と応えることで神の計画に完全に身を投じて生きた聖母に倣い、この現実社会の中で、人生のすべてを賭けて、神のことばをあかしし、秘跡を祝い、愛の奉仕を率先して行う人が教会には必要です。自己実現ではなく神の計画の実現のために生きる人が必要です。

奉献生活を誠実に続けることで、どうかキリストを示してください。この世界は神の支配のもとにあるのだということを、その謙遜な生き方を持ってあかししてください。わたしたちは神の計画の実現のために生きているのだと言うことを、その従順な生き方によってあかししてください。わたしたちは、自分が褒め称えられるためではなく、神を褒め称えるためにあるのだということを示してください。わたしたちは愛されるためではなく、愛するためにあるのだということを示してください。

困難な時代にあって、奉献生活に生きる方々が、暗闇に輝く希望の光となりますように。

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2020年12月 5日 (土)

週刊大司教第五回:待降節第二主日

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待降節第二主日となりました。第五回めとなる「週刊大司教」をお届けします。

今年のクリスマスのミサについてどうなるのか心配される声が多数届いております。わたしたちの信仰にとって聖体祭儀は不可欠であり、復活祭を祝うことが出来なかったこの年にあっては、信仰生活において重要な主の降誕の聖体祭儀に共に与ることは、重要です。

ミサの公開を中止するような事態が発生しないようにできる限りの対応をしたいと思いますので、先日、東京大司教の対応を一部変更いたしました。また状況に応じて対応の細部は変更しますので、それについては現時点での対応が分かるように、東京大司教区のホームページにクリックして見ていただけるバナーを用意しました。なお現時点の対応はこちらをご覧ください

今回の変更では、「ミサ以外については、小教区運営に関する最低限不可欠な会議を除き、教会におけるすべての会議、会合、集い、勉強会などを、当面の間、中止またはオンラインとしてください」としております。

現在のところ、小教区における感染やクラスターなどの報告はありませんが、信徒の方が、教会以外の場で感染したと言う報告は、当初よりいくつか受けておりました。それがこの数日の間、これも教会を原因とする感染ではありませんが、信徒の方が社会の中で感染したという報告が増加いたしました。そのため、今回の変更の対応をさせていただきました。手指の消毒、マスクの着用、互いの距離など、基本的な感染対策をしっかりとまもっていただくことで、例えばミサにおいては、マスクを着用し聖歌を歌わずに距離を置いて着席することで、これまでも感染が防止できていると思われます。基本的な対策を守るならば、ミサに関しては不必要なまでに恐れることはありません。

ですからクリスマスのミサを行うことが出来るように、当分のあいだ、会話や密接した接触の可能性のある会議などを自粛していただくようにお願いしております。なお状況によりますが、「当面の間」は、12月中を考えております。また小教区によって地域の状況が異なりますから、現場における最終的な判断の権限は、主任司祭にあります。

皆様には、再び我慢を強いてしまう待降節となりましたが、どうかご理解の上、ご協力をお願いいたします。

以下、本日公開しました、待降節第二主日の週刊大司教メッセージ原稿です。なお今回から、主の祈りの後に霊的聖体拝領の祈りを画面に表示させています。

待降節第二主日(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第5回
2020年12月6日

わたしたちが生きている今のこの世界には、「主の道を備え、その道筋をまっすぐにせよ」と声をあげる存在が必要です。神の招きに応え、その使命に徹底的に生きる存在が必要です。

教皇フランシスコは、使徒的勧告「喜びに喜べ」の冒頭で、「(主が)わたしたちに望んでおられるのは聖なる者となることであり、平凡で風味に乏しい、曖昧なものに留まることではありません」と記して、神からの招きである聖性の道を徹底的に生き抜こうとする存在が不可欠であることを指摘しています(1)。

もちろん教皇は、聖性の道への招きは、特別な人だけへの呼びかけではなくすべてのキリスト者に向けられた呼びかけであることを強調されますが、同時に「教会が必要とするのは・・・まことのいのちを伝えることに燃えて献身する、熱い宣教者だ(138)」と記して、司祭や修道者の聖性の模範が信徒に先立つものとして重要であることも指摘されています。

教会は、聖性の道を歩む模範となる司祭や修道者を必要としています。洗礼者ヨハネのように、勇気を持って先頭に立ち、信仰における正論を声を上げてあかしする存在を必要としています。

教会は、12月の第一主日を教皇庁宣教援助事業・使徒聖ペトロ会が呼びかける「宣教地召命促進の日」と定めています。今年はこの待降節第二主日、全世界のカトリック教会は、宣教地における司祭や修道者の召命に思いを馳せ、加えてその養成者を思い起こし、ともに祈りをささげます。また宣教地における教会が豊かに成長する道に心をよせ、司祭職や奉献生活者を目指して養成を受けている神学生や修練者を支援するために献金を捧げます。

宣教地と言うことでは、日本の教会もアジアの他の多くの教会と同様、その国にあっては少数派ですから、宣教地の召命促進の祈りには、当然日本における召命促進も含まれております。

司祭は、どこからか自然に誕生して、小教区共同体に与えられる存在ではありません。教会は会社のような組織ではありませんから、毎年のように募集をして、司祭を雇用するようなところではありません。司祭は、自分たちの教会共同体から生み出され、育てられ、歩みをともにする存在です。

主イエスは、突然大人としてこの世界に出現したのではなく、聖書に記されているとおり、幼子として聖家族のうちに誕生し、その聖家族の絆のうちに育まれ成長していきました。共にいる神がそのようにしてわたしたちと関わるのですから、洗礼者ヨハネのように、勇気を持って先頭に立ち、信仰における正論を声を上げてあかしする存在、すなわち司祭も、同じように家族の絆、すなわち教会共同体のうちに誕生し、育まれ、成長する存在であります。

第二バチカン公会議の「司祭の養成に関する教令」は、「召命を育てる義務は、キリスト教共同体全体にある。この共同体はとくにキリスト教的生活を十全に生きることによってその義務を果たさなければならない(2)」と記しています

わたしたちは、日本において、そして世界各地において、「主の道を備え、その道筋をまっすぐにせよ」と勇気を持って率先しながら正しい声をあげる存在、すなわち司祭がひとりでも多く誕生するように、粘り強い祈りと犠牲をささげる心、そしてわたしたち自身の信仰の養成を深めることによって、貢献していきたいと思います。

 

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