« 2020年12月 | トップページ | 2021年2月 »

2021年1月30日 (土)

週刊大司教第十三回:年間第四主日

G1037

本日のメッセージでも触れていますが、1月最後の主日は、「世界子ども助け合いの日」とされています。(写真は、ダンスで賛美を表現するガーナの子どもたち。2010年)

この日は、「子どもたちが使徒職に目覚め、思いやりのある人間に成長することを願って制定されました。この日はまず第一に、子どもたちが自分たちの幸せだけでなく世界中の子どもたちの幸せを願い、そのために祈り、犠牲や献金をささげます。毎日のおやつや買いたいものなどを我慢してためた子どもたち自身のお小遣いの中から献金することが勧められています。日本では、各教会だけでなく、カトリック系の幼稚園や保育園の大勢の子どもたちがこの日の献金に協力しています」と、中央協議会のホームページに説明されています。現在、日本の教会の担当責任者は教皇庁宣教事業の日本の責任者である立川教会の門間神父様です。

この日の献金は、全世界からローマの福音宣教省に集められ、世界各地の子どもたちのために活用されています。門間神父様によれば、昨年のこの献金日に、日本の教会の「皆さまから寄せられた献金総額は47,541,928円でした。今年は、ブルンジ、ガーナ、ザンビア、ナイジェリア、リベリア、タンザニア、バングラディッシュ、インドの各国に合計43,742,881円を援助」したということです。

今年のテーマは、「あかしする子どもたち」とされています。ポスターや趣旨など、詳細は、こちらの中央協議会のホームページをご覧ください。

以下、本日土曜日の夕方に公開した、週刊大司教第十三回目のメッセージ原稿です。

年間第四主日B(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第13回
2021年1月31日

インターネットが普及した現代社会で、わたしたちはあふれかえる言葉の中で生きています。感染症対策のために直接出会う機会が減少しているとは言え、インターネットが直接語り合うにしても、文字でコミュニケーションを図るにしても、多種多様な手段を提供しています。

毎日浪費されるようにあふれかえる言葉には、心の叫びの言葉もあれば、何気なく発信される薄っぺらな言葉もあります。真実を語る言葉もあれば、でたらめな言葉もあります。いのちを生かす言葉もあれば、いのちを奪う言葉もあります。希望を生み出す言葉もあれば、闇に引きずり込む言葉もあります。言葉は、それが前向きであろうと後ろ向きであろうと、ひとたび発信されてしまうと、他者に対してなんらかの影響を及ぼす力を秘めています。

2018年の世界広報の日メッセージでしたが、教皇フランシスコはフェイクニュースのもたらす影響について指摘をされました。その中で、「フェイクニュースは、不寛容で過敏な姿勢の表れであり、それによって広まるのは傲慢さと憎しみだけです。これこそが嘘が最終的に行き着く先です」と述べ、さまざまな局面で顔を覗かせるフェイクニュースの危険性に警鐘を鳴らされました。

わたしたちが社会全体に対して広く自由に発信をする手段を持たなかったかつての時代にあっても、いわゆる「うわさ話」が社会生活に大きな影響を及ぼしたり、命に関わる結果を生み出した事例がありました。今や誰でもいつでも、世界中に対して自らの言葉を発信できる時代となり、時に、何気なく発信した言葉ですら、後ろ向きな結果を生み出すこともあり得ます。

わたしたちが発する言葉には、わたしたち自身の存在がその背後に隠されています。わたしたちが発する言葉は、わたしたちの存在そのものの反映です。わたしたちの発する言葉は、わたしたちの心を写す鏡です。

教皇は同じメッセージで、フェイクニュースは、「ソーシャル・メディアの特徴である分かち合いの精神のためではなく、人間の心にいとも簡単にわき上がる、飽くことを知らない欲望に訴えかけ・・・。その渇きは結局、わたしたちを欺きという何よりも悲惨なもの、すなわち心の自由を盗み取るために嘘から嘘へと渡り歩く悪魔のわざの犠牲者にします」と述べています

イエスの言葉には力がありました。それはイエスこそが、「真理」だからであります。だから人々は「権威ある新しい教え」とイエスの言葉を評したのです。申命記は、神の命じていない言葉を語る預言者は死に値すると、モーセに語らせます。真理を身に帯びていない者の言葉だからです。

わたしたちも力ある言葉を語りたいと思います。自分勝手な思いや欲望を満たす言葉ではなく、いのちを奪う言葉ではなく、闇をもたらす言葉ではなく、裁き排除する言葉ではなく、それよりも神の真理に基づいた言葉、いのちを生かす言葉、希望を生み出す言葉、慈しみに満ちあふれた言葉、いたわり支え合う言葉、すなわち神の力に満ちた言葉を語りたいと思います。

1月の最終主日は、「世界こども助け合いの日」と定められています。「子どもたちが使徒職に目覚め、思いやりのある人間に成長することを願って制定」され、「子どもたちが自分たちの幸せだけでなく世界中の子どもたちの幸せを願い、そのために祈り、犠牲や献金を」ささげる日となっています。あふれる言葉の洪水の中で生きている子どもたちが、神の真理に裏付けされた言葉に触れ、その言葉を心に刻み、語り、実行していきますように。子どもたちを育む大人が、神の力に満ちた言葉を語り行うことが出来ますように。

 

| |

2021年1月28日 (木)

オンラインパネルディスカッション第二回開催@東京大司教区災害対応チーム

Pd0206

カトリック東京大司教区には災害対応チームが存在します。まだ出来たばかりです。もともとは東日本大震災の経験から、首都直下型地震などの災害に襲われたときどのように対応するのか、日頃から備えておくことを一番の目的として、2018年春に豊島神父様を中心に数名の方を任命いたしましたが、まだこれから内容を整えていこうとしていたところです。

そんなときに、新型コロナ感染症が襲いかかってきました。教区としては、新型コロナ感染症が地震などの大規模災害と変わらない甚大な影響を社会に及ぼしていると認識し、当初から教区としてどのような対応が出来るのか検討を始めました。チームとして直接の支援活動を実施する体力と組織がまだありませんが、検討を続ける中で、教区の教会の中には、このような状況に対応して、これまでの教会活動の前例にとらわれずに何が出来るのかを模索し、挑戦している方々が大勢おられることを知りました。

そこで、さまざまな側面から行われているそういった活動を、広く教区の皆さんにも知っていただき、さらにはご自分たちの出来ることを、考え挑戦してみるヒントとして、情報提供したいと思いました。今、すべてのいのちを守るために、教会は常識の枷を打ちやぶって挑戦しなくてはなりません。

災害対応チームでは、昨年4月末頃から、ほぼ毎週、zoomを使ったオンラインで打ち合わせ会議を継続してきました。これまで開催された毎週のすべての会議に、オンラインであったおかげで、わたしも参加してきました。その中での議論から、東京大司教区のホームページに特設サイトを設けて情報提供をしたり、Facebookページで情報提供を行ってきました。

そして昨年11月、実際に教会で活動している人たちの声を届けようと言うことで、オンラインのパネルディスカッションを初めて開催しました。

教会は、今回の感染症に伴うさまざまな制約の中で、たくさんのものを失いました。聖堂に集まって一緒に祈ることが難しくなったことがその筆頭ですが、それ以外にも、人が集まるさまざまな活動が停止しています。いま、単にその失ったものをどう補填するのかという視点だけではなく、そもそもわたしたちに与えられている使命、すなわち福音を、「時が良くても悪くも」伝えていく使命から、逃れることが出来ないと言うことを、あらためて自覚し、そのための道を切り開く必要があります。

その道を探るために、今回は、具体的に教会から社会へ発信する活動をしている人たちの声を聞くために、二回目となるオンラインパネルディスカッションを企画しました。2月6日土曜日の午後1時半から3時半です

事前の登録は不要です。Facebookページからご覧いただけます。

リンクはこちらです。
URL: https://www.facebook.com/tokyo.diocese.saigaitaiou

スピーカー機能のあるパソコン・タブレット・スマートフォンをご利用ください。

この困難な状況を前向きに受け止め、福音宣教のために何が出来るのか、いのちの言葉を必要としている人のもとにいかにして届けるのか、一緒に考えてまいりましょう。

 

| |

2021年1月23日 (土)

週刊大司教第十二回:年間第三主日神のことばの主日

Img_0496

今日公開のメッセージの中でも触れていますが、年間第三の主日は、神のことばの主日とされています。この主日は教皇フランシスコによって制定され、昨年から始まりました。(写真は、喜びの内に福音書を迎えるガーナの子どもたち。2010年アクラで)

神のことばの主日制定の使徒的書簡「アペルイット・イリス」は、中央協議会のこちらから読むことが出来ます。

この書簡の中で教皇は、神のことばの主日を定めて、「神のことばを祝い、学び、広めることにささげることを宣言」されました。その上で教皇は、この主日がちょうどキリスト教一致祈祷週間と重なることも念頭に、次のように記しています。

「わたしたちがユダヤ教を信じる人々との絆を深め、キリスト者の一致のために祈るように励まされる、その時期にふさわしいものとなることでしょう。これは、ただ時期が偶然重なるということ以上の意味をもっています。「神のことばの主日」を祝うことには、エキュメニカルな価値があります。聖書はそれを聴く人々に向かって、真の、そして堅固な一致への道筋を指し示すからです」

聖書を通じて尊場に触れることの大切さを強調する教皇は、「主は自らの花嫁に生きたことばを絶えず語り続け、花嫁である教会は愛のうちに、また信仰のあかしのうちに成長することができます」と、この書簡の中で指摘されています。この主日が、聖書を通じてさらに神のことばに触れる契機となればと思います。

ところで、今年は2月17日が灰の水曜日となり、間もなく四旬節が始まります。昨年は灰の水曜日の翌日から、ミサの公開を中止しました。今年がどうなるのかは、今の時点では想定できませんが、現時点では、これまで同様の感染症対策を施した上で、それぞれの小教区の事情が許し、対応が充分に出来る場合には、四旬節の典礼を行う予定でおります。

なお灰の水曜日に関して、聖座から、今般の自体への対応の指示が来ていますので、それに基づいて、詳細を教区典礼担当者から神父様方にはすでに通知をいたしました。

主な注意点は、できる限り沈黙を守るため、灰をかけるときのことば、「回心して福音を信じなさい」または「あなたはちりであり、ちりに帰って行くのです」を、全員に対して一度だけ唱え、個別には唱えないこととと、灰で額に直接触れながら十字のしるしをすることはせず、かけるだけにすることなどです。

また昨年は受難の主日の典礼が出来ていませんので、祝福された枝をお持ちでない方も大勢おられることと思います。仮に小教区で昨年の枝を充分に集めることが出来ない場合には、今年に限ってそのほかの枝を利用して灰をつくることも認めています。

以下、1月23日土曜日夜公開の、週刊大司教第十二回のメッセージ原稿です。

年間第三主日B神のことばの主日(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第12回
2021年1月24日

「イエスはガリラヤへ行き、神の福音をのべ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた」
マルコ福音書はその冒頭で、洗礼者ヨハネの出現を伝え、さらにイエスの洗礼について述べた後、荒れ野における四十日の試練に簡潔に触れています。そしてその直後に「ヨハネが捕らえられた後」として、イエスが神の福音を宣べ伝えたと記します。本日の福音朗読です。すなわち、「神の言」の受肉であるイエスは、その本性からして福音そのものであり、存在すること自体が神の福音のあかしでありますから、当然、福音を宣べ伝えることがイエスの公生活を根底から支える礎であると明確に示しています。

さらにマルコ福音書は続けて、イエスがガリラヤ湖のほとりでシモンとアンデレを弟子として召し出された話を記します。すなわち、福音を宣べ伝える業を、イエスはその最初から共同体の交わりの中で行ったのだと記すことで、福音宣教は教会にとって本質的な働きであり、なおかつ共同体の業であることを明示しています。

「私についてきなさい。人間をとる漁師にしよう」と言われて弟子を召し出される主は、その「人をとる漁」なるものを、突拍子もない驚愕的な業を持ってするのではなく、地道だけれど徹底した福音のあかしによって行うのだということを、マルコ福音書は、すべてを捨てて主イエスの働きに身を投じる弟子の姿を記すことで明らかにします。わたしたちの信仰は、神の言葉の存在とその宣言抜きには考えられない信仰です。

教皇フランシスコは2019年9月に、使徒的書簡「アペルイット・イリス」を発表され、年間第三主日を、「神のことばの主日」と定められました。今年は1月24日が、「神のことばの主日」であります。

教会は、聖書と共に、使徒たちから伝えられた「信仰の遺産」である生きている聖伝も大切にしています。カテキズムは、「どちらも、『世の終わりまで、いつも』弟子たちとともにとどまることを約束されたキリストの神秘を、教会の中に現存させ、実らせるもの」だと指摘しています(80)。

それを前提として教皇は、「神の言」の重要さを指摘する聖ヒエロニムスの言葉、「聖書についての無知はキリストについての無知である」(聖ヒエロニムス『イザヤ書注解』)を引用します。

その上で教皇は、「聖書のただ一部だけではなく、その全体がキリストについて語っているのです。聖書から離れてしまうと、キリストの死と復活を正しく理解することができません」と指摘します。

第二バチカン公会議の啓示憲章も、「教会は、主の御からだそのものと同じように聖書をつねにあがめ敬ってき〔まし〕た。なぜなら、教会は何よりもまず聖なる典礼において、たえずキリストのからだと同時に神のことばの食卓からいのちのパンを受け取り、信者たちに差し出してきたからで〔す〕」(『啓示憲章』 21)と記して、神のことばに親しむことは、聖体の秘跡に与ることに匹敵するのだと指摘しています。

わたしたちはシモンとアンデレのように、今日、「私についてきなさい.人間をとる漁師にしよう」と召し出されています。それぞれの生きる場で、神のことばをあかしして生きるように、招かれています。その招きに答えるために、わたしたちは、日頃から、また典礼祭儀において、神のことばに耳を傾け、慣れ親しみ、自らの心にそれを刻み込んでおきたいと思います。

 

| |

2021年1月22日 (金)

広島と長崎の司教様方による共同声明

Fb_img_1545224205004

2019年11月に日本を訪れた教皇フランシスコは、長崎と広島を訪問されました。訪日が計画されていた当初から、特に長崎を訪問して核兵器に対するメッセージを発表することは教皇様の強い意向でしたし、そのあと日程をやりくりして、同じ日に広島も訪問できることになりました。(写真は長崎でのメッセージについて語る教皇様。2018年12月)

教皇様は広島で次のように言われました。

「確信をもって、あらためて申し上げます。戦争のために原子力を使用することは、現代においては、これまで以上に犯罪とされます。人類とその尊厳に反するだけでなく、わたしたちの共通の家の未来におけるあらゆる可能性に反する犯罪です。原子力の戦争目的の使用は、倫理に反します。核兵器の保有は、それ自体が倫理に反しています」

その上で、こう指摘されました。

「紛争の正当な解決策として、核戦争の脅威による威嚇をちらつかせながら、どうして平和を提案できるでしょうか。この苦しみの深淵が、決して越えてはならない一線に気づかせてくれますように。真の平和とは、非武装の平和以外にありえません。それに、「平和は単に戦争がないことではなく、……たえず建設されるべきもの」(第二バチカン公会議『現代世界憲章』78)です。それは正義の結果であり、発展の結果、連帯の結果であり、わたしたちの共通の家の世話の結果、共通善を促進した結果生まれるものなのです。わたしたちは歴史から学ばなければなりません」

また長崎では、次のように述べておられます。

「カトリック教会としては、民族間、また国家間の平和の実現に向けて不退転の決意を固めています。それは、神に対する、そしてこの地上のあらゆる人に対する責務なのです。核兵器禁止条約を含め、核軍縮と核不拡散に関する主要な国際条約に則り、たゆむことなく、迅速に行動し、訴えていきます」

その核兵器禁止条約が、1月22日に発効しました。残念ながら核兵器を保有する国は参加していませんし、日本政府も、目指すゴールを共有していながらも、この条約ではなく他の方法をとることを強調しながら、署名批准を見送っています。

条約発効に伴って、被爆地である長崎と広島の司教様方が、以下の共同声明を発表されています。

被爆地広島と長崎のカトリック司教による共同声明
核兵器禁止条約の発効にあたって

2017年7月7日に国連本部で開かれた交渉会議において採択された「核兵器禁止条約」は、2020年10月24日、その批准国・地域が50に達し、規定により90日後の2021年1月22日に発効することになりました。

本日がその発効の日です。被爆者はもちろん、核兵器のない平和な世界を切望する数知れない多くの人が待ちに待った日、最終段階が始まる日、大変意義深い日であり、この喜びをともにしたいと思います。

本条約は核兵器廃絶のためにこれ以上ない有効なものでありますが、条約が述べるように、核兵器廃絶のためには核兵器の開発・実験・生産・取得・貯蔵・配置・移譲・使用あるいは使用するとの威嚇などの禁止のみならず、被害者への援助や環境の修復、国際的な協力が必要です。そのためにすべての国の参加が求められます。なお、発効後1年以内に、締約国が核兵器廃棄の期限や検証方法などを決めることになっています。

しかしすべての国の条約参加を実現するためには乗り越えなければならない最後の大きな壁があります。それは、核保有国と、日本を含む、いわゆる核の傘の下にある国々の根強い抑止論です。これらの国は、核兵器禁止条約の有効性を認めず、署名も批准もしていません。日本政府は、「日米同盟の下で核兵器を有する米国の抑止力を維持することが必要」であると主張していますが、唯一の戦争被爆国として、この条約の発効が実質的な結果をもたらすよう、日本が率先して署名・批准し、核兵器保有国と非保有国の対話と核軍縮とを推進する役割を担うべきです。

わたしたちは、被爆地のカトリック司教および日本国民として、教皇フランシスコとともに、「すべてのいのちを守るため」、核兵器のない世界が可能であり必要であるという確信をもって、核兵器保有国も非保有国も含めてすべての人が一致して核兵器のない世界の実現のために参加する必要がある、と訴えます。そして、核兵器禁止条約の批准国が世界の大勢を占め、核保有国も批准をし、同条約が完全に実施されるよう神に祈り、そのために働きかける決意を新たにします。

2021年1月22日

カトリック広島司教区 司教 白浜満

カトリック長崎大司教区 大司教 髙見三明

 

| |

2021年1月16日 (土)

週刊大司教第十一回:年間第二主日

Staj1705

降誕節が終わり、典礼の暦は「年間」が始まっています。今年は1月17日の日曜が、年間第二主日となります。(上の写真は、1月15日が祝日であった神言修道会の創立者聖アーノルド・ヤンセンが眠るオランダのシュタイルにある記念聖堂で捧げたミサの様子です)

緊急事態宣言が発出されていますので、健康に不安のある場合は、無理することなく行動くださるようにお願いします。また、自分が感染しないだけではなく、他者を危険にさらすようなことのないように、慎重な行動をいたしましょう。

通常の教会の活動が難しい状況にありますが、出来ないからダメだと後ろ向きになることなく、この状況の中で、どのようにしたら信仰をより良く生きることが出来るのか、霊的絆を保つために何が出来るのか、互いに知恵を絞ってみましょう。

なお1月18日から25日までは「キリスト教一致祈祷週間」とされています。今年のテーマは、「わたしの愛にとどまりなさい。そうすれば、あなたがたは豊かに実を結ぶ。」(ヨハネ15・5-9参照)とされています。歴史ある祈りの週間ですが、今年はコロナ禍のために、祈祷集会を実際に開催することが難しいと思われます。この一週間の間、異なる派に分かれているキリストの弟子たちが、思いを一つにして、神の福音を告げていくことが出来るように、お祈りください。詳しくは、中央協議会のホームページへ 

以下、土曜日夕方に公開した「週刊大司教」第十一回目のメッセージ原稿です。ご家庭でお祈りされる場合には、霊的聖体拝領の一助としてご利用ください。

年間第二主日B(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第11回
2021年1月17日

「来なさい。そうすれば分かる」

この一言を信じて、ヨハネの二人の弟子はイエスについて行きました。その晩、イエスとどのようなやりとりがあったのかは記されていませんが、少なくとも翌日、自分の兄弟の人生を変えるような決断を促すほどの、大きな出会いとなりました。

わたしたちは、どちらかといえば、論理的に納得したいと思っています。子どもの頃には口論になると、負けたくない一心で『証拠を見せろ』と言ってみたり、大人になった今はSNSが発達して誰でも情報を発信する洪水の中で、『エビデンスを示せ』と迫ってみたりします。いくつになっても、信じるためには納得できるだけの証拠がほしいのです。わたしたちは本性的に疑り深いのだろうと思います。

サムエル記は、少年サムエルがたびたび神からの呼びかけを受けた話を記し、それに対して祭司エリが、「どうぞお話しください。しもべは聞いております」と答えるように勧めた話を記します。祭司エリは、決して声の主に、「お前は誰なのか、証拠を見せろ」と迫ることではなく、耳を傾けその語る言葉に心を開くようにと諭します。その時はじめて神の声が心の耳に到達します。

イエスについて行ったヨハネの二人の弟子も、納得できる証拠を求めるのではなく、イエスの存在と語る言葉を心に感じたことで、イエスがメシアであることを確信しました。福音には「どこにイエスが泊まっておられるかを見た」と記され、また「イエスのもとに泊まった」と記されていますが、イエスが何者かを知るために議論をしたとは記されていません。それは「どうぞお話しください。しもべは聞いております」と言う態度に通じるものです。

わたしたちは言葉があふれかえっている世界に生きています。インターネットの時代ですから、そのように取り囲まれざるを得ません。その中で、静かに心を開き、神の声に耳を傾ける時をもつことは、大切なひとときであると思います。

教会は、1月18日から25日までを、キリスト教一致祈祷週間と定めています。この日付となったのは、こういった一致祈祷が最初に提起された1908年に、当時ペトロの使徒座が祝われていた1月18日からパウロの回心の25日までという、キリスト教の発祥に深く関わる聖ペトロと聖パウロという二人の偉大な聖人を象徴として、キリスト者の一致を祈り求めるためであったと伝えられています。なお現在の典礼暦では、ペトロの使徒座は2月22日に移動しています。

毎年、一致祈祷週間のためのテーマが教皇庁キリスト教一致推進評議会と世界教会協議会(WCC)によって選ばれ、手引きの小冊子が発行されています。今年のテーマはヨハネ福音から「わたしの愛にとどまりなさい。そうすれば、あなた方は豊かに実を結ぶ」とされています。

今年の小冊子はテーマを解説し、「霊性と連帯は分かちがたくつながっています。キリストにつながっていれば、不正義と抑圧の構造に対抗するための、人類家族の兄弟姉妹であることを真に自覚するための、さらには、すべての被造物と敬意を持って交わるという新しい生き方を生み出すための、力と知恵を受けることが出来ます」と記しています。

わたしたちは霊的な祈りにおける連帯の内に、互いに心を静かにし、神の声に耳を傾けたいと思います。「どうぞお話しください。しもべは聞いております」という姿勢で、互いの連帯を深め、御父からの力と知恵をいただき、信仰において強められましょう。 

 

| |

2021年1月11日 (月)

週刊大司教第十回:主の洗礼の主日

Img_20191014_114807

主の洗礼の主日をもって、降誕祭は終了となります。1月11日の月曜からは、年間第一週の典礼となり、灰の水曜日まで続きます。(写真は聖地、ヨルダン川の洗礼所。ちなみにこのヨルダン川は国境で、すぐそこの対岸はヨルダン国内です)

1月8日に緊急事態宣言が政府から再度発出されました。東京大司教区としての対応は、政府の発表(総理会見)の直後に公示した通りで、その公示文書と現在の対応については、それぞれ東京大司教区のホームページに掲載してありますので、ご一読ください。なおホームページには、その時点での感染症対策についてのまとめを見ていただけるよう、上部にバナーを設けていますので、それをクリックしてご確認ください。

ぎりぎりまで政府の宣言に基づく要請内容と自治体の要請内容が把握できなかったため、いくつかのパターンを想定して対応を準備していましたが、最終的に総理の会見を受けて、文書を再度見直し公示としました。

なお11月に司教団としてのガイドラインを定めていますが、同ガイドラインとは異なる判断をいたしました。ガイドラインには、「これをもとに、教区・地区・小教区の地域性や状況を考慮し、適応させてください。その際、感染症によって医学的な対応が異なることもありえますので、専門家や医療関係者の意見を聞くことをお勧めします」と記されているとおり、そのときの状況や地域の事情に応じてそれぞれの教区が判断することになっています。今回は、政府や自治体からの要請が、夜の飲食店に重点が置かれ、集会などに関しては中止などが含まれず、人数制限と感染症対策の強化となっていましたので、現時点での教会の感染症対策をあらためて強化確認することで、ミサを続ける可能性を残しました。ただし、公示文書にも記しましたが、現時点ではカトリック教会でクラスターが発生したり、教会活動を起源として感染が拡大したという報告は届いていませんが、信徒の方が普段の生活の中で感染されたり、また亡くなられた方がいるという報告をいただいています。少しでも不安がある場合は、無理をなさいませんように。なお主日のミサに参加する信徒の義務については、引き続き、東京大司教区のすべての方を対象に免除しています。

以下、第十回目となる「週刊大司教」のメッセージ原稿です。

主の洗礼の主日(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第10回
2021年1月10日

ヨルダン川における洗礼者ヨハネによるイエスの洗礼の出来事は、「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」と言う神ご自身の言葉によって、イエスこそが聖霊の充満であり、神の御旨の実現であることを高らかに宣言しています。

使徒ヨハネは手紙の中で、「神を愛するとは、神の掟を守ることです」と記しています。すなわち、イエスがキリストであると信じるわたしたちは、神を愛する者であり、神を愛するわたしたちは、神の掟を守ります。神の掟を守ることは、すなわち、神が望んでいるように生きることであり、それはわたし個人に留まるのではなく、この世界に神の望みが実現すること、福音の教えが実現していること、つまり神の国が到来することに他なりません。

わたしたちは、個人的に信仰を深めて、自らの内へと籠もってしまうのではなく、神の国が実現するようにと、外に向かって「出向いていく」教会になろうとしています。

教皇フランシスコは、「福音の喜び」に、次のように記しています。
「福音の提言は神との個人的な関係だけで成り立つものではないということも、聖書を読めば明かです。また、わたしたちの愛の応答を、助けを必要としている人のためのささやかな個人的行為の単なる積み重ねだと理解すべきでもありません。・・・福音の提言とは、神の国、すなわち、世を治める神を愛することを示すことです。神の支配がわたしたちのもとに及んでいる限り、社会生活はすべての人にとって、兄弟愛、正義、平和、尊厳の場となるでしょう」(福音の喜び180)

教皇は、信仰が神の支配の実現へと向かっていなければ、その信仰に基づく良い行いも、「良心の平穏を守るだけの一連の行為、いわゆる「お好みの善行」になっている可能性があります」とまで指摘されています。

わたしたちが実現したいのは、わたしたちの人間としての思いや願いではなく、神の思い、神の計画、神の支配であります。

20161130_131033

神の計画の実現ということを考えるとき、教皇フランシスコがこの一年を、「聖ヨセフの特別年」と定められたことは興味深いことです。

教皇は、使徒的書簡「パトリス・コルデ」を発表され、2020年12月8日からの一年を特別年とされましたが、その書簡において、「イエスの養父、聖ヨセフの優しさ、従順、受容の心、創造性をもった勇気、労働者としての姿、目立たない生き方に触れ」、ヨセフこそは救い主に「奉仕する愛において完全に自己を捧げた」生き方を通じて、贖いの偉大な計画のための協力者となった指摘しています。(バチカンユース)

内にこもらず出向いていく教会となろうと呼びかけるとき、なにか偉大なことを成し遂げなくてはならないと意気込んでしまったり、または自分にはそんな才覚はないとあきらめてしまったりすることもあるでしょう。そんなときに、教皇は、聖ヨセフの生き方に目を向けるように呼びかけます。偉大なことではなく、神の支配の実現のために、「優しさ、従順、受容の心、創造性を持った勇気」をもって、神の望まれる社会の実現のために、言葉と行いを通じて、神の思いを具体的に示してまいりましょう。今この状況の下にあって、どういった言葉と行いが、神の思いに適っているのかを、祈りの内に識別いたしましょう。わたしたちも、ヨルダン川での洗礼の日のように、「わたしの愛する子、わたしの心に適う者」と神から呼ばれるように。

 

 

| |

2021年1月 6日 (水)

新しい年の初めに@東京教区ニュース

132827787_1044579695954628_3862593460199

政府が緊急事態宣言の発出に向けて検討中と報じられています。再度の緊急事態宣言となった場合、東京教区の管轄する東京都と千葉県はその対象地域となるようですので、教会としてどのように対応するかは、宣言発出後に教区のホームページなどで公示いたします。

東京教区ニュース、2021年1月1日発行の379号は、冒頭にわたしのメッセージを掲載してあります。各小教区で配布していますし、教区ホームページでも教区ニュースを読むことが出来ます。こちらのリンクです

以下、教区ニュースに掲載したわたしのメッセージを、こちらにも再掲します。

東京教区の皆様、主の降誕と新年のお祝いを申し上げます。

新しい年がはじまりましたが、今年はなんとなく、いつもとは様子が異なるクリスマスと年末年始になりました。昨年初めから今に至るまで続いている新型コロナ感染症は、未だにその実体についてさまざまな意見が表明されており、教会としても対応に苦慮しています。アジアの国々は欧米とは状況が異なっているのは事実ですが、その理由は判明しておらず、実際に世界では多くの方が生命の危機に直面しています。ですから、慎重な道を選択せざるを得ません。

昨年一年は、教会においての活動の自粛や、4ヶ月にわたるミサの公開停止など、特に霊的生活において、忍耐を必要とする年でした。皆様それぞれの、信仰における積み重ねがあり、ご理解いただくことが難しい制約も多々あったことを、大変申し訳なく思っています。同時に、この試練の時にあって、互いへの思いやりの心をもってご協力いただいた多くの方々の寛容と忍耐に、心から感謝申し上げます。いま、わたしたちの信仰が試されています。

新しい年の初めという新鮮な気持ちとなる時期であるにもかかわらず、はっきりしたことが分からないために、闇の中を彷徨い続けているような気持ちがいたします。いま、暗闇に輝く光が必要です。誕生した幼子のように、闇に佇む民に救いへの希望の道を示す、光が必要です。

教会は、人となられた「神の言」が暗闇に光として輝くように、その光を暗闇の中であかしする存在でありたいと思います。この光は、生命の希望をもたらす光です。互いに連帯を強め、主イエスのいつくしみの心に倣い、互いを思いやり助け合う具体的な言葉と行いが、生命を守っていきます。誕生した幼子が、一人孤立するのではなく聖家族によって守られ育まれたように、社会にあって孤独のうちに孤立し、危機に直面する生命を、わたしたちは家族として守り育まなくてはなりません。いのちを守る福音を、これまで以上にあかししていきたいと思います。

東京教区の大司教として着座して以来、昨年末12月16日で、3年が経過しました。9月には新潟教区に成井大介司教が誕生し、わたしは使徒座管理者の務めを終えました。

この3年の間、教区の多くの方々からお寄せいただいた意見をもとに検討を重ね、宣教司牧方針を定める作業を続けてきました。この作業は、一昨年の教皇訪日と、昨年のコロナ禍で、予定されていたタイムフレームより大幅に遅れてしまったのですが、このたびなんとか形にすることが出来ました。間もなく、小冊子やホームページ上で公開することになりました。ご協力いただいた多くの皆様と、作業チームの皆様に感謝いたします。

想定されていたものよりも、短く簡単なものと思われるやも知れません。皆様からいただいたご多数のご意見からも、東京教区の幅広い多様性を認識させられました。当初の段階で70通を超えるご意見をいただいています。これらについては、今回だけでなく、今後も長期にわたって、具体的な行動計画を検討するために参考にさせていただきたいと思います。

すべてのご意見を反映して事細かな指針を定めるよりも、教区全体の宣教司牧方針は大枠だけを提示して、それに基づいてそれぞれのユニークさを抱える現場で具体的な適応を話し合っていただくことがふさわしいと考えました。多くの皆様から、それぞれの信仰体験に基づくさまざまな提案があり、時に詳細かつ具体的な提案もありました。それらがすべて含まれていないのは、さまざまな可能性を排除することなく、豊かに発展させることが出来るようにするためです。大枠に基づいて今後、それぞれの小教区などの現場で皆様の話し合いが継続し、具体的な行動に繋がっていくことを期待しております。

宣教司牧方針には、次の三つの大きな柱を定めました。

①宣教する共同体
②交わりの共同体
③すべてのいのちを大切にする共同体

「わたしはいつもあなたがたと共にいる」(『マタイによる福音書』28章20節)。弟子たちを派遣なさった主イエス・キリストのこのことばに信頼をおきたいと思います。これは、主の約束のことばであり、波高く漕ぎ悩むわたしたちの教会を力づけるいのちのことばでもあります。東京大司教区の宣教司牧方針の三つの柱は、変動するこの世にあって、わたしたちがこころを合わせて向かっていく方向を示しています。そして、互いに関連しあっています。「宣教する共同体」は「義人アベルから最後に選ばれた人に至るまで」ご自分のもとへと集めようとなさる天の御父の救いの想いを反映しています(『教会憲章』 2参照)。「交わりの共同体」は神と人、人と人の和解のために十字架へとつけられた御子の生きる姿を写し出します。「すべてのいのちを大切する共同体」は「主であり、いのちの与え主」(『ニケア・コンスタンチノープル信条』参照)である聖霊の働きによって成立します。ですから、この宣教司牧方針は三位一体の神のお姿をこの世にあらわしていくものなのです。

皆さん、歩みを共にしながら、「宣教する共同体」、「交わりの共同体」、「すべてのいのちを大切にする共同体」をつくり育んでまいりましょう。

教皇様は先日発表された三つ目となる回勅「Fratelli tutti」において、「個人の日常的関係、社会、政治、公共制度において、より正しく兄弟的な世界を築きたい人にとって、大きな理想であると共に具体的に実行可能な道とは何か」という問いに回答を見いだそうとしておられます(バチカンニュースより)。その中で、教皇は今回のコロナ禍に触れて、「わたしがこの文書を準備している最中に、思いがけない形で飛び込んできた」と記し、これによってもたらされたいのちの危機は、「誰も一人で自分を救えない」こと、そして、「わたしたち皆が兄弟」として「ただ一つの人類として夢見る」べき時がついにやって来たことを示した、と記されています(7-8)。

今求められているのは、兄弟姉妹としての愛のうちに互いに尊重し合い支え合う家族を生み出そうと努力することです。東京教区の教会共同体が、存在を持ってそのあかしとなることを願っています。

昨年10月のホルヘ神父様の叙階に続いて、今春も司祭叙階が見込まれています。また新たに神学院に入学する方もおられます。主のぶどう畑の働き手である司祭の召命のために、お祈りください。また教区にあって、福音を徹底的に生きる姿の模範を示し、霊的な土台を築いてくださる奉献生活者(男女修道者)の召命のためにも、お祈りをお願いいたします。

感染症の状況次第では、今年も教区関連の行事に大きな変更の可能性があります。黙想会、研修会、会議といった多数が集まる機会を制約せざるを得ないかも知れません。集まることが難しいなかにあっても、一つのキリストの体に結ばれている兄弟姉妹の共同体であることにあらためて思いを馳せ、同じ信仰において祈りをともにする中で、霊的な絆を再確認したいと思います。どのような状況にあっても、主は世の終わりまで、いつもわたしたちと共にいてくださいます。

新しい年のはじめにあたり、東京教区の皆様の上に、いつくしみ深い神の豊かな祝福があるように祈ります。

 

| |

2021年1月 5日 (火)

追悼:チャールズ・レンネル神父様

Miyakos35

2020年はコロナ禍とともに、多くの先輩司祭・宣教師が帰天された年でもありました。その中で、わたしの故郷である岩手県の宮古教会の信徒の方から連絡をいただき、子どもの頃にわたしが大変お世話になった宣教師の帰天を知りました。(写真は、昭和35年頃の、宮古教会)

ベトレヘム外国宣教会の宣教司祭であるチャールズ・レンネル神父様が、引退され過ごされていた故郷のスイスで、12月17日に89歳で帰天されました。

1931年(昭和6年)生まれのレンネル神父様は、59年にチューリヒ郊外のインメンゼーにあるベトレヘム外国宣教会で司祭として叙階。60年に来日し、日本語を学んだ後、62年(昭和37年)に岩手県の四ツ家教会の助任として赴任されました。当時、岩手県全域の宣教司牧は、ベトレヘム外国宣教会に委託されていました。そして1970年に岩手県の宮古教会に主任司祭として、また小百合幼稚園園長として赴任し、その後2001年にスイスへ帰国するまで、宮古で働かれました。

Renner01

わたしの母親とのツーショット写真で申し訳ないのですが、上の写真は、岩手で働いてくださったベトレヘム外国宣教会の宣教師の原点であり、また墓所でもあるインメンゼーの本部を、2005年に母と訪問し、その際にレンネル神父様とアルプスの山々を訪れたときのものです。わたしの母親はレンネル神父様と同い年です。

実はわたしは、生涯の中で、教会関係以外の場所に住んでいたことは2年しかありません。わたしが生まれたとき、父親は宮古教会の伝道士(カテキスタ)でしたから、教会敷地内の職員住宅で生活をしていました。その後、父親は盛岡の四ツ家教会に転任となり、そこでも四ツ家教会の信徒会館二階にあった職員住宅で生活をしていました。その後、父親の転職のため一家は静岡に越しましたが、ちょうど小学5・6年の二年間、静岡市井川で教員住宅に住んでいました。そのときだけです、自分の生涯の中で、教会関係以外で暮らしたのは。そしてわたし自身は中学一年から、神言修道会の小神学院に入ったので、それからの人生の本拠は、司教となるまで、神言会の修道院となりました。ですから人生の中で2年間しか、教会関係以外で生活したことがないのです。教会で生活するということは、そこの司祭館に住む司祭の生き様を日々目の当たりにしているということですから、さまざまな司祭からわたしは影響を受けていると思います。その中でもレンネル神父様は特別です。

その盛岡の四ツ家教会に私たち家族が越していったのが63年か64年だったと思います。ちょうどレンネル神父様が四ツ家教会の助任として働き始めた頃です。その頃から、父の転職で盛岡を離れる69年まで、同じ四ツ家教会の敷地内で生活をしていました。単に生活をしていただけでなく、小学生になってからはほとんど毎朝、すぐ隣にあった盛岡白百合学園の修道院(現在の郵便局)へ、朝ミサに行くレンネル師に引きずられてミサに与り、うろ覚えのラテン語で侍者をさせられていました(ちょうど典礼が変わる時期でしたので、変化が大きくて閉口することも多々ありましたが)。ですからわたしの信仰の基礎を「厳しく」たたき込んでくださったのは、当時まだ青年宣教師だったレンネル神父様です。

Renner02

大神学院にいた頃には、夏休みにレンネル神父様を訪ねて宮古教会のお手伝いをさせてもらったり、さまざまな機会にお世話になりました。写真は、中学生の頃の夏休みに、母や弟と一緒に宮古教会を訪ねたときだったと思います。わたしが86年3月に名古屋で司祭叙階されて、その直後の復活祭に、宮古教会で初ミサをするよう招いてくださったのもレンネル神父様でした。幼い頃に生活しただけの生まれ故郷である宮古や宮古教会とわたしを、今に至るまで続く太い絆で結んでくださったは、レンネル神父様の心配りでありました。

レンネル師を知っている人はだれでも、神父様の笑顔とジョークとフレンドリーさを体験し、記憶しています。素晴らしい宣教師でした。

レンネル神父様の宣教師としての大きな貢献に、神様が豊かに報い、永遠の安息の内に迎え入れてくださいますように。R.I.P.

| |

2021年1月 2日 (土)

週刊大司教第九回:主の公現の主日

Epiphany21

新しい年がはじまって3日となります。どのような新年を迎えておいででしょうか。

2017年12月16日に東京大司教として着座して以来、東京大司教区における宣教司牧方針を定めようと努めてまいりました。信徒数にしても組織にしても、また内包する修道会の数や諸施設の規模や数にしても、大変大きな教区ですので、そこにはさまざまな課題が存在いたします。東京都と千葉県では、それぞれの都県内でも、地域によって直面する課題は異なります。ましてや現在のコロナ禍です。小教区が直面する宣教の現実は異なっていますし、信徒の方々が感じておられる課題にも大きな幅があります。そういった諸点を包括しながら、宣教司牧方針を定めることは、難しい課題でありました。教区の方針が、わたし個人の考えや興味に基づいた方針では意味がありません。そこで、多くの方の意見を伺いながら識別を深め、検討を進めることにしたのはご存じの通りです。教会には聖霊が働いていることを信じていますから、ご意見は個人ではなく、教会の共同体で検討していただきました。「二人三人がわたしの名のもとに集まっているところに、わたしもいる」と言う主の言葉を信じ、共同体にこそ聖霊が豊かに働いていると信じるていますから、共同体での識別の道を歩みたいと考えました。同時に、その頃にちょうど行われた青年のためのシノドスで、教皇様が複数で分かち合いながら共に道を歩んでいくシノドス的方法を強調されたことにも示唆を受けました。

Img_20201231_134949

さまざまな意見をいただき、それに基づいて識別を深め、最終的に、このたび完成させることが出来、23ページほどの文書となりました。作業は予定よりも時間がかかってしまいました。19年の教皇訪日、さらには今年のコロナ禍で、一年ほど予定より遅れてしまいましたが、多くの方のご協力で、やっと形にすることが出来ました。宣教方針は基本的に大枠を示しているだけです。物足りなく感じられるかも知れません。大枠ですのでその中で方向性を一つにして、具体的な現場での適応は、それぞれの共同体で、これから話し合っていただきたいと思いますし、また教区のさまざまな組織や委員会で取り上げて深めていく課題も多々あります。教区のホームページに掲載してありますので、PDFファイルをダウンロードしてご一読いただけますと幸いです。これから徐々に、具体的な方策を探っていきたいと思います。どうか皆様にあっては、単に協力ではなく、一緒にこの道を歩んでいってくださるようにお願い申し上げます。

Img_20201231_135003

以下、新年最初、第九回となる週刊大司教のメッセージ原稿です。

主の公現の主日(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第9回
2021年1月3日

皆様、新しい年の初めにあたり、この一年、神様の祝福が豊かにあるようにお祈りいたします。

新年、明けましておめでとうございます。

新しい年がはじまりましたが、今年はなんとなく、いつもとは様子が異なるクリスマスと年末年始になりました。昨年初めから今に至るまで続いている新型コロナ感染症は、その実体についてさまざまな意見が表明されており、教会としても対応に苦慮しています。アジアの国々は欧米とは状況が異なっており、感染された方の規模や亡くなられた方の規模が比較的少ないのは事実ですが、その理由は判明しておらず、実際に世界では多くの方が生命の危機に直面しています。国内でも、さまざまな事例が報告され、生命の危機に直面しておられる方も少なくありません。ですから、多くの方が集う教会としては慎重な道を選択し続けざるを得ません。

昨年一年は、教会においての活動の自粛や、4ヶ月にわたるミサの公開停止など、特に霊的生活において、忍耐を必要とする年となってしまいました。信仰における積み重ねはそれぞれ異なり、今回の事態にあっても一人ひとりの考えには相違があり、ご理解いただくことが難しい制約も多々お願いしたことを大変申し訳なく思っています。同時に、この試練の時にあって、互いへの思いやりの心をもってご協力くださった多くの方々の、寛容と忍耐の心に、感謝いたします。

占星術の学者たちの言葉を耳にしたとき、ヘロデ王の心は乱れ、不安に駆られたと福音は記しています。ヘロデ王の不安はいったいどこから来るのでしょう。救い主の誕生の告知は、本来であれば喜びを持って迎えられたことでしょう。しかし現実に王として人々を支配しているヘロデは、その知らせを喜ぶことは出来なかった。自分をこの世の支配者とするものは、神の支配の実現を前にして、喜びではなく不安しか感じることができません。神の前では、自らの不遜さが暴かれてしまうからです。自分勝手な光を輝かせていることが露呈するからです。

回勅「ラウダート・シ」に、教皇フランシスコは、次のように記しています。

「わたしたちがずうずうしくも神に取って代わり、造られたものとしての限界を認めることを拒むことで、創造主と人類と全被造界の間の調和が乱されました(66)」

「いのちにかかわるこれら三つのかかわり」が、引き裂かれてしまう状態が罪だと、教皇は指摘します。人間の傲慢な支配におごり高ぶっている姿が暴かれることで、自らが罪の状態にあることが明らかになってしまいます。そこに不安が生じます。

占星術の学者たちは、旅路の困難を乗り越え、光に導かれて、救い主のもとにたどり着き、宝物をささげました。闇のなかにあって、輝く光こそが希望を示していることを確信した学者たちは、すべてを神にささげて神の支配に従うことを表明し、その後も神の導きに従って行動していきます。

わたしたちは、今、暗闇の中を彷徨いながら光を求めています。わたしたちは救い主の光に、謙遜に付き従おうとしているでしょうか。それとも自分勝手な光を輝かせようとしているのでしょうか。わたしたちが輝かせるのは、自分勝手な光ではなく、主の光です。

教会は、人となられた「神の言」が暗闇に光として輝くように、その光を暗闇の中であかしする存在でありたいと思います。この光は、生命の希望をもたらす光です。互いに連帯を強め、主イエスのいつくしみの心に倣い、互いを思いやり助け合う具体的な言葉と行いが、いのちを守っていきます。神の支配に身をゆだね、いのちを守る福音の光を、あかしする一年といたしましょう。

 

 

| |

2021年1月 1日 (金)

神の母聖マリア@東京カテドラル

Newyear21a

謹賀新年

いつもとは様相が異なる年末年始となりました。新しい年の初めにあたり、皆様の上にいのちの与え主である御父の豊かな祝福があるように、お祈りいたします。

昨年末の12月18日には東京教区の名誉大司教である岡田武夫大司教様が帰天され、さらに12月28日には大分教区の浜口末男司教様が帰天されました。司教様方の永遠の安息のためにお祈りください。

また感染症対策のため大晦日の公共交通機関終夜運転が取りやめになったこともあり、恒例の1月1日深夜ミサは、多くの教会で中止となりました。関口のカテドラルでも、例年は1月1日深夜零時から大司教司式のミサを捧げ、一年の始まりに祈りをささげましたが、今年は1日の午前10時からのみのミサとなりました。これから始まる一年が、どのように展開していくのか予想もつきませんが、少しでも明るい方向へ導かれるように、心から祈っています。2021年のうえに、いつくしみ深い神の祝福と、導きと、守りがありますように。

以下、本日午前10時からの、神の母聖マリアの祝日ミサの説教原稿です。

神の母聖マリア(公開配信ミサ)
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2021年1月1日午前10時

お集まりの皆さん、新年、明けましておめでとうございます。

主イエスの降誕の出来事を喜びのうちに記念するわたしたちは、それから一週間がたったこの日、1月1日に、神の母である聖マリアを記念します。

闇にさまよう人間を救いの道へと連れ戻そうとされた神の計画は、聖母マリアの「お言葉通りにこの身になりますように」という、神の前でのへりくだりの言葉がなければ実現しませんでした。そしてその言葉こそは、人生をかけた決断であり、神の意志への完全な信頼の表明でもありました。

神に完全に従うことを決意した聖母マリアの人生は、救い主であるイエスとともに歩んだ人生です。その人生は、シメオンによって預言されたように、「剣で心を刺し貫かれ」た苦しみ、すなわちイエスの十字架での受難に至る、イエスとともに苦しみを耐え忍ぶ人生でもありました。しかしながら、聖母の人生とは、苦しみにだけ彩られた悲しい人生ではありません。

聖母マリアは、天使ガブリエルが、「その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない」と告げた言葉を信じることで、その子イエスが人々の希望の光となることを確信していました。ですから、天使のお告げの通りの出来事を目の当たりにして興奮する羊飼いたちの道を急ぐ姿と対照的に、聖母マリアはこれからの救いの出来事の実現という時の流れの先を見据えながら、「すべてを心に納めて、思い巡らしていた」と福音に記されているのです。聖母は「時のしるし」を識別し読み解こうと務める教会の、あるべき姿の模範であります。

2020年という年は、世界中で、希望を見失い、暗闇に彷徨う年でありました。世界で多くのいのちが感染症のために失われ、また感染症対策のために経済状況が悪化したり雇用環境が悪化したりする中で職を失う人も増え、孤立と孤独は深まり、その中でいのちの危機へと追い詰められる人も増えている事例の報道を多々耳にいたします。また多くの国では、その国の経済を支えるために招かれた他国からの方々が、雇用状況の悪化の中で職を失い、加えて感染症対策のため母国に帰ることもできずに、生活の危機に直面している事例も耳にします。教会の中にも、そのようにして危機に直面している方々と、それに手を差し伸べる活動に取り組まれている方もおられます。

教皇ヨハネ23世は、回勅「地上の平和」を、次のような言葉で始めています。
「すべての時代にわたり人々が絶え間なく切望してきた地上の平和は、神の定めた秩序が全面的に尊重されなければ、達成されることも保障されることもありません」

つまり、神の定めた秩序が実現している世界こそが、平和の実現した世界であると説いています。私たちキリスト者は、福音に忠実に生きようとする限りにおいて、「平和」の実現から目を背けて生きていくことは出来ません。なぜなら「平和」の実現とは、単に戦争がないとか武力紛争がないとか治安が良いとかの問題に留まるのではなく、まさしく神の定めた秩序が実現しているのかどうか、つまり神の望まれる世界が実現しているのかどうかの問題だからです。

そして、少なくとも今の私たちが生きる世界をみて、神は満足されていないのであれば、そこには「平和」はありません。神が賜物としてわたしたちに与えられたいのち、神が自ら人として受肉することによって高らかに宣言された人間の尊厳。そのいのちが、人間の尊厳が、ないがしろにされている社会に、神の望まれる秩序は成立せず、従って「平和」もあり得ません。

「お言葉通りにこの身になりますように」と言う聖母の言葉は、まさしく神が定められた秩序が、自らの人生をとおして実現してほしいという願いの表明であり、すなわち聖母の人生は、神の秩序の確立のための人生であり、平和を生み出そうとする人生でありました。聖母は、平和の実現のために働く教会の、あるべき姿の模範であります。

自らの胎に神を人間として生命を宿らせた聖母マリアを、神は教会の母として与えられます。それによって、神はわたしたちに、生命の尊厳を守りぬく責務の重要性を自覚させようとします。聖母は、いのちを守ろうとする教会の、あるべき姿の模範であります。

教会は年の初めのこの日を、「世界平和の日」と定め、この世界に神が望まれる秩序が確立され、平和が実現するようにと祈り求めます。

Newyear21b

54回目となる今年、教皇フランシスコはそのテーマを、「平和への道のりとしてのケアの文化」と定められました。
メッセージの中で教皇は、昨年一年の新型コロナ感染症によるいのちの危機への取り組みを振り返り、すべての人の尊厳と善を守り育てる、互いに思いやりいたわる文化、つまりケアの文化を確立することこそが、平和構築にとって最優先の課題であると指摘しています。

教皇様は、このパンデミックによって、家族や愛する人を亡くした人、さらには仕事を失った人たち、医師、看護師、薬剤師、研究者、ボランティア、チャプレン、病院や保健機関の職員など、いのちを守るために最前線で働き、時には命さえ犠牲にしている人たちへ、特別な感謝の思いを表明されています。そういった思いやりと助け合いの現実が見られるにもかかわらず、「さまざまなかたちのナショナリズム、人種差別、外国人嫌悪、さらには死と破壊をもたらす戦争や紛争が、新たに勢いを増していること」は悲しいことだったと振り返ります。

教皇様は、霊的・物的ないつくしみの業による助け合いと支え合いは、初代教会からの愛の奉仕の伝統であり、現代社会にあって教会は「ケアの文化」を確立するために、「人間の尊厳と権利の促進」「共通善」「連帯」「被造物の保護」を推進するようにと求めておられます。

その上で、教皇様は次のように記しておられます。

「連帯とは、統計上の数字や、酷使され、役立たなくなれば捨てられる道具としてではなく、わたしたち同様、神から等しくいのちの祝宴に招かれている隣人、旅の同伴者として、他の人々を見る助けとなるものです」

新しい年の初めにあたり、わたしたちはまだ困難な闇の中に取り残されています。徐々に光が見えてきているものの、闇は深く、この一年わたしたちが歩む道には、さまざまな困難が予想されます。困難のなかにあってもなお見いだされる、愛といつくしみの連帯に希望を見いだしましょう。対立や排除のなかにあっても見いだされる、いたわりの心に希望を見いだしましょう。そして見いだした希望を、聖母マリアの模範に倣って心の中で育み、自らの人生での言葉と行いで、あかしし続けてまいりましょう。

闇に彷徨う民であるわたしたちに、民数記は神からの祝福の言葉を記し、心に勇気と希望を与えてくださいます。

「主があなたを祝福し、あなたを守られるように。主が御顔を向けてあなたを照らし/あなたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたに向けて/あなたに平安を賜るように。」

 

| |

« 2020年12月 | トップページ | 2021年2月 »