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2021年2月 6日 (土)

奉献生活者の日ミサ@麹町教会

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2月2日は主の奉献の祝日でありました。教皇ヨハネパウロ2世は、1997年に、この祝日を奉献生活者のための祈りの日と定められました。日本の男女の修道会責任者たちは(男子が管区長会、女子は総長管区長会)、2011年に教皇大使故ジョゼフ・チェノットゥ大司教の呼びかけを受け、2月2日に一番近い土曜日の午後に、ともに集まってミサを捧げることをはじめ、今年の奉献生活者のためのミサは、1月30日(土)午後2時から、麹町の聖イグナチオ教会で捧げられました。

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感染症対策のため、例年のように大勢の修道者が集まることは出来ませんでしたが、聖堂には10数名の代表の修道者が集まり、ミサは麹町教会からオンライン配信されました。

今年はわたしが司式・説教を担当し、山野内司教様も司式に参加してくださいました。なおミサの終わりに、誓願10年の修道者への特別な祝福が行われました。また教皇庁大使館からはトゥミル臨時代理大使も参加してくださいました。

以下、当日の説教の原稿です

奉献生活者のミサ
2021年1月30日
麹町教会

一年前の奉献生活者のミサのことを思い起こしていました。この聖堂で行われたミサは、聖堂に一杯の男女修道者が集い、聖歌隊が高らかに歌い、男子の修道会の上長たちが大勢一緒に共同司式していました。なによりも、主司式はジョゼフ・チェノットゥ教皇大使でありました。

わたしたちは忍び寄る生命の危機に多少は気がつきながらも、しかし、いつものような日常が続いていくのだろうという根拠のない安心感に身をゆだねておりました。

わたし自身もその直後に、東京教区の司祭たちと一緒にミャンマーに出かけ、教区として援助している神学院などを訪問してきました。それ以降、今日まで、海外はおろか、飛行機にも乗ることのない一年でありました。

皆さんお一人お一人にとって、この一年は、いったいどういう時であったでしょうか。

確かに、欧米の国々に比べれば、感染した方の数や亡くなられた方の数は少ないものの、その理由は判然としません。特に欧米の国々での厳しい現実を目の当たりにするとき、被害が小さいからと言って安心できるものではないことだけは理解できます。また、手を洗ったり、うがいをしたり、マスクをしたり、対面での会話を避けたりと、いくつかの最低限守るべき基本が見えては来ました。しかし、危機が完全に去ったわけではありません。例えば、教会にとっても、当初は多くの司祭や修道者が各地で亡くなられましたが、年が明けたこのひと月の間だけでも、世界各地で10名を超える司教が新型コロナ感染症のために亡くなられました。日本でも、相対的に少ない人数ではあるものの、例えば東京教区内でも、カトリック教会を起源とする集団感染などは発生していませんが、感染した信徒の方がおられるという報告は少なからずあり、亡くなられた方もおられます。

昨年、このミサを共に捧げたときに、わたしは、東北の震災発生から9年となることに関連して説教をいたしました。本来であれば、今年は震災発生から10年となるのですから、この10年の日本の教会の復興支援活動を振り返ってお話ししたいところですが、現在の状況ではそうも行きません。

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昨年わたしは、教皇フランシスコの、被災者との集いでのこのことばを引用しました。
「地域社会で社会のつながりが再び築かれ、人々がまた安全で安定した生活ができるようにならなければ、福島の事故は完全には解決されません」

すなわち、人間がいのちをつないでいくためには、もちろん「衣食住」が充分に保障されていることが不可欠であることを、教皇様は大前提とした上で、しかし人間は、物質的充足それだけでは生きていけないことを指摘されました。そこでわたしは昨年、次のように申し上げました。

「人間が人間らしく生きていくためには、いのちを生きるための希望が不可欠です。そしていのちを生きるための希望は、誰かが外から持ってきて与えることができるものではなく、希望を必要としている人自身の心の奥底から生み出されるものです」

この昨年の自分の言葉が、重くのしかかってきます。

この一年ほど、そして今ほど、いのちを生きるための希望が必要なときはありません。いのちの危機という漠然とした不安だけではなく、具体的な問題として、職を失ったり、人間関係を失ったり、差別や排除の犠牲となったり、孤立を深め助けを得られずにいたり、さまざまな側面からいのちの危機に直面し、いのちを生きるための希望を奪い去られた人たちがこれほど多くおられる今、希望はどこにあるのでしょうか。

教皇様は回勅「フラテリ・トゥッティ」において、こう指摘されています。
「確かに、新型コロナウイルス感染症によるパンデミックのような世界規模の悲劇は、わたしたちがグローバルな共同体であって、同じ船に乗船していて、そこでは一人の問題は皆の問題であると言う感覚を、つかの間ですが復活させた。今一度わたしたちは、一人で救われる人は誰もいないこと、わたしたちは一緒にしか救われないことに、気がつかさせられた。(32)」

しかしこの兄弟愛的な感覚は、利己主義に魅入られた世界では、長続きすることはありません。異質な存在を排除し、自分たちだけの安全を確保しようとする欲求は、ワクチン接種が始まろうとしている今、国家のエゴとして顕在化しようとしています。すでに教皇様は、国家間の貧富の格差がいのちの格差になることのないようにと、繰り返し呼びかけておられます。

そして教皇様は、「フラテリ・トゥッテイ」で、「華麗で壮大な夢を口にした」現代人は、結局のところ、孤独へと誘われ、仮想現実の中で真の「友愛」を忘れたのだと指摘して、次のように述べています。

「このパンデミックによってもたらされた、痛み、不安、恐れ、自分の限界の認識は、これまでの生活様式や人間関係、社会の仕組み、そして何よりもわたしたち自身の生存の意味を緊急に考え直す必要を明確にした。(33)」

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教会はこの10年間、東北の被災地で、いのちを生きる希望を生み出す活動を行ってきました。日本の教会の歴史に残る挑戦であったと思います。以前は考えられなかった修道会の枠を越えた活動も、各地で行われました。教区との契約の枠を越えて、会員を派遣し続けたことで、仙台教区の教会共同体と歩みをともにすること、いのちの希望を生み出すことを優先することの大切さを、具体的に示してきました。常識や慣習を打ち破る決断が、それこそいくつもあったと思います。この10年で、日本の教会は、大きく変わる機会をいただきました。

建物を建てたとか、物資を配布したとか、そういう「衣食住」に関わることも大切ですけれど、やはり、人と人との関わりの中で、そしてともに人生の道を歩むことによって、そして現場で共に生きることによって、わたしたちはいのちを生きる希望を生み出すための種まきをしてきたのだと思っています。

その種を蒔いたところに、新型コロナ感染症がやってきました。すべてのいのちを守ることを最優先とし、無自覚のうちに隣人のいのちを危機にさらすような無責任な行動をすることのないように、さまざまな制約を教会にあっても取り入れました。感染対策を徹底すればするほど、集まったり、共に歌ったり、兄弟姉妹との親交を深めることが難しくなりました。感染拡大期には、わたしたちの信仰にとって最も大切な聖体祭儀に与ることが難しくなりました。教会は、今まで当然として行ってきた活動を、一旦停止せざるを得なくなりました。多くの方が協力してくださっています。なかには、苦しい決断をもってご自分の思いを犠牲にしてまで協力してくださっている方も多くおられます。さまざまな制約が課せられている今、それぞれが信仰における優先事項をどこに定めているのかが明らかになってきています。

困難な状況による制約は、わたしたちに新たな道を模索する機会を提供しています。教会にとってのこのピンチを、前向きにとらえたいと思います。既成概念の枷から強制的に解き放たれたわたしたちは、いま、教会がどのようにあるべきか、何を優先するべきか、徹底的に見直す最高の機会を与えられています。見直しましょう。日本の教会が、主イエスの呼びかけに本当に徹底的に従って生きる共同体であるために、わたしたち自身を見つめ直すときは、いまです。

 

 

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