« 2021年2月 | トップページ | 2021年4月 »

2021年3月31日 (水)

CTVCの活動に感謝

Ctvchp

3月31日、年度末です。東京の桜は散り始めており、復活祭まで持つかどうか微妙となりました。

さて、3月31日をもって、10年間活動を続けてきた東京教区のCTVC(カトリック東京ボランティアセンター)が、その活動に幕を下ろします。東日本大震災発生直後、首都圏からの支援活動を円滑に行うために発足したセンターは、日本の司教団が、震災から10年となるこの3月でいわゆる「オールジャパン」の支援体制を解除することに伴い、終了することになりました。

わたしの手元には、10年前の4月22日付けで、当時の東京教区補佐司教であった幸田司教様から送付されてきた、CTVC設立趣意書のメールが残っています。そこには次のように記されています。

「東京教区内では、これまで真生会館学生センターとJLMM-日本カトリック信徒宣教者会などが窓口になり、仙台教区サポートセンターを通して被災地にボランティアを派遣してきました。このような活動をひとつにまとめ、教区として、また、ひとつの教会として力を結集させ被災地を支援していくため、2011年4月24日の復活祭の主日に、「カトリック東京ボランティアセンター(CTVC)」を設立いたします」

それから10年。六本木のフランシスコ会聖ヨゼフ修道院に一室をお借りして続けられてきた活動は、幸田司教様が責任者を務め、その後は福島のカリタス南相馬設立につながりました。CTVCが終了しても、東北への支援が終わるわけではありません。教皇様が東京での被災者の集いで指摘されたように、「息の長い」かかわりが必要です。幸田司教様は、この数年は南相馬の住人となり、現地からの支援活動をカリタス南相馬のスタッフと共に続けておられます。東京教区としては今後、それぞれの場から、すでにある現地との繋がりや、カリタス南相馬を通じた繋がりを持って、東北とのかかわりを持ち続けたいと思います。

これまでの10年間、CTVCの活動に関わってくださった皆さん、特に事務局を担当してくださった皆さん、またその活動に加わったり支援してくださった皆さん、本当にありがとうございました。10年の活動は教区に多くの宝を生み出したと思います。その宝をさらに育てていくことが出来るように、努めたいと思います。

同様に、わたしが担当司教でもあった司教協議会の東日本大震災復興支援室も、その活動を終えます。もっぱら活動の調整作業でしたが、なかでも関係者間の情報共有のための大阪教区の支援で立ち上げたメーリングリストは、今日までに8700通ほどのメールで情報が共有されました。毎日、各地のベースからは活動報告が送付され、それは今日まで続いてきました。そのメーリングリストも、今日で閉鎖され、仙台教区が新しく立ち上げたネットワークに引き継がれていきます。

この10年、関わってくださった皆さんに、感謝します。

 

| |

2021年3月28日 (日)

聖週間:受難の主日ミサ

166401804_490926842084179_82603479027713

聖週間が始まりました。本日は受難の主日または枝の主日と呼ばれます。これまでは、教皇ヨハネパウロ二世の定めにより、この日は世界青年の日とされていましたが、今年から、王であるキリストの主日が世界青年の日となります。

東京カテドラル聖マリア大聖堂で、関口教会の10時のミサを司式いたしました。今年は、感染予防策として、聖座の典礼秘跡省からも指針が出ていますが、東京教区でも典礼委員会が指針を策定しました。最終的な指針の適用は、それぞれの地域・小教区で事情が異なりますので、主任司祭の判断です。皆様には、制約がさまざまあろうかと思いますが、主任司祭の指示に従ってくださるようお願いします。

166102180_473028670805915_64825660247839

関口教会も、そんなわけで、今朝は外からの行列は中止。本当はルルドから行列するのですが、しかたがありません。皆さんには会衆席についていただいたままで、司祭と侍者が聖堂入り口で枝の祝福をし、会衆席を聖水を撒いて祝福して回り、福音を朗読してから、入祭となりました。

165899281_1790255837809574_6290351209458

聖週間の主な典礼は、関口教会のyoutubeチャンネルから、配信されています。

以下、本日のミサの説教原稿です。

受難の主日
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2021年3月28日

一年前の聖週間、教会の扉は閉じられたままでありました。一年前、新型コロナウイルスによる感染症が拡大する中で、わたしたちは先行きの見えない不安に苛まれながら、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という受難朗読にあるイエスの言葉を、自分の言葉としていました。残念ながら状況は劇的に改善してはいないものの、ことしはそれでも、さまざまな制約を設けながらではありますが、聖週間の典礼を行うことが可能となりました。今しばらくは、状況を見極めながら、慎重な行動を選択し続けたいと思います。

この一年、世界各地で、また日本において、今回の感染症のために亡くなられた方々の永遠の安息を、そして、いま病床にある方々の回復と、医療関係者の健康のために、祈ります。

166182124_465106211207473_66755453699553

歓声を上げてイエスをエルサレムに迎え入れた群衆は、その数日後に、「十字架につけろ」とイエスをののしり、十字架の死へと追いやります。

しかしパウロは、イエスが「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順」であったからこそ、「神はキリストを高く上げ、あらゆる名に勝る名をお与えに」なったのだと記します。

イザヤは、そういったイエスの生きる姿を、苦難のしもべの姿として預言書に書き記しています。

主なる神が「弟子としての舌」を与え、「朝ごとにわたしの耳を呼び覚まし、弟子として聞き従うようにして」くださったがために、「わたしは逆らわず、退かなかった」。苦しみに直面したイエスの従順と不退転の決意を、イザヤはそう記します。

神が与えられた「弟子としての舌」は、「疲れた人を励ますように」語るための舌であると、イザヤは記します。その舌から語られる言葉は、いのちを生かす言葉であり、生きる希望を生み出す言葉であり、励まし支える言葉であります。

加えて、その舌が語る言葉は、自分の知識に基づく言葉ではなく、「朝ごとに」呼び覚まされる主の言葉に耳を傾け、それを心に刻んで従おうと決意する、神ご自身のことばであります。

人間の知識や感情や思いに左右される言葉は、イエスを十字架の死へと追いやった群衆の熱狂の内にある言葉のように、いのちを危機に追いやり、いのちを奪う言葉となります。

神のことばに耳を傾け、それを心に刻み、不退転の思いをもってそれに従い、それを語る主イエスの言葉は、互いを支え、傷を癒やし、希望の光をともす、いのちを生かす言葉であります。

今のこの時代、わたしたちは、熱狂の言葉ではなく、希望に満ちたいのちの言葉を語る者でありたいと思います。弟子の舌をもって語る者でありたいと思います。

この一年を「聖ヨセフの年」と定められた教皇フランシスコは、使徒的書簡「父の心で」において、イエスの物語の背景であまり目立つことのない聖ヨセフの生き方について、さまざまな視点を提供しています。

その書簡の中で、自らの弱さのうちに神の力が働くことを知った聖ヨセフの「いつくしむ心の父」としての側面に触れ、こう記しています。

「救いの歴史は、わたしたちの弱さを通して、『希望するすべもなかったときに、……信じ』ることで成就します。あまりにしばしばわたしたちは、神はわたしたちの長所、優れているところだけを当てにしていると考えてしまいますが、実際には、神の計画のほとんどは、わたしたちの弱さを通して、また弱さがあるからこそ、実現されるのです」

その上で教皇は、次のように指摘します。

「ヨセフは、神への信仰をもつということは、わたしたちの恐れ、もろさ、弱さを通しても神は働かれると信じることをも含むのだと教えてくれます。また、人生の嵐の中にあっても、わたしたちの舟の舵を神にゆだねることを恐れてはならないと教えます。時にわたしたちは、すべてをコントロールしようとします。ですが、主はつねに、より広い視野をもっておられるのです」

この一年、感染症によってもたらされた混乱と不安の中で、わたしたちはさまざまな視点から語りかける言葉を耳にしてきました。特に近年は、インターネットの普及で、さまざまな情報がわたしたちを取り囲むようにして飛び交っています。かつては人の口伝えによって広まった噂も、今やインターネットを通じて瞬時に、考えられないような数の人に伝わっていきます。

飛び交う言葉には、いのちを生かす言葉もあるでしょう。希望の光をともす言葉もあるでしょう。支え合ういたわりの言葉もあるでしょう。

しかし、しばしばわたしたちが耳にしたのは、根拠の薄いうわさ話であったり、見知らぬ他者をののしる言葉であったり、弱い立場にある人や保護を必要とする人をさげすむ言葉であったり、排除する言葉であったり、そういった負の力を持つ言葉が心を傷つけ、希望を奪い、時にはいのちをも奪い去るような出来事でありました。

あの日イエスを王のように歓呼をもって迎え入れた群衆のように、あの晩イエスを十字架につけよと叫び続けた群衆のように、高揚した自分の心の動きに支配されて叫ぶ言葉は、真理からはほど遠いところにあり、だからこそ負の力に満ちあふれており、究極的にはいのちを奪います。

166435594_352932079379022_85412319018756

わたしたちは、今のような困難なときに生きているからこそ、自分たちの弱さをしっかりと自覚しなければなりません。わたしたちは自分の力だけで生きているのではなく、互いに支えられて生きていることを自覚し、神から生かされていることを心に刻んで、弱さの内にあることを認めなくてはなりません。

神は弱さにうちひしがれるわたしたちを通じて、その力を発揮され、救いの計画を成就させようとされるでしょう。今のこの状況を通じて、神がいった何を成し遂げようとしているのかを知ることは出来ませんが、そのはからいに信頼こそすれ、わたしたちの思い上がりで神の計画を妨げてはなりません。

わたしたちは弱さの内にあると自覚するからこそ、いのちの与え主である神のことばに耳を傾け、朝毎にそのことばによって生かされて、弟子の舌をもって語り続けることが出来ます。わたしたちは、疲れた人を励ます、いのちの希望の言葉を語る者でありたいと思います。自分の激した心の赴くままに放言するものではなく、自分たちの力に過信して語るのではなく、まず弟子として神に聞き従う耳を持ちながら、主イエスご自身の生きる姿に倣い、不退転の決意をもって、いのちの言葉を語ってまいりましょう。

 

| |

2021年3月27日 (土)

聖週間を前にして

Sakura21a

明日の受難の主日から、聖週間となります。一週間後の4月4日は復活祭です。東京はすでに桜が満開ですが、復活の主日まではまだ十分に花が残っていることでしょう。

この御復活祭に、または復活節に、洗礼を受けるために準備をなさっている多くの洗礼志願者の皆さんが、聖週間の間、締めくくりの準備がより良く出来るようにお祈りします。洗礼はゴールではなくてキリスト者としてのスタートですから、これからも学び続け、祈り続け、そしてあかしの行動をとり続けるようになさってください。

Sakura21d

毎週土曜日の夜6時には「週刊大司教」のyoutubeチャンネルでの配信を行っていますが、今週と来週はお休みです。それぞれの日曜日に、関口教会のyoutubeチャンネルから大司教司式ミサの配信がありますので、(どちらの日曜も10時からです)ご覧ください。関口教会のyoutubeはこちらのリンクです

「週刊大司教」の次の配信は、復活祭第二主日のメッセージで、4月10日土曜日の午後6時です。(なお週刊大司教は東京教区のyoutubeチャンネルです。こちらのリンクです。「動画」のタブから、過去の配信を見ていただくことも出来ます)

また、聖週間の典礼は、聖木曜日、聖金曜日、復活徹夜祭と、すべてそれぞれの日の夕方7時から、関口教会のyoutubeチャンネルから配信される予定です。

困難な時期にあり、皆で共に集まって祈りをささげることが、まだ適いませんが、ここはその状況を逆手にとって、霊的な交わりにあることを心に刻み、いつも以上に、共同体の繋がりを意識して祈りをささげる一週間といたしましょう。良い復活祭をお迎えください。

すでに東京教区のホームページでお知らせしましたが、ミャンマーの教会からの呼びかけに答えて、ミャンマーにおける軍によるクーデター後に続く政情不安と暴力的弾圧に対して、対話による真の平和が訪れるように、ケルン教区の皆さんと共にお祈りしたいと思います。

何度も書いていることですが、東京教区はケルン教区から受けた戦後の援助に答える形で、今度はミャンマーの教会を支援してきました。この数年は、ミャンマーの神学生養成を支援しています。築地のレオ神父様と潮見・CTICの高木神父様が担当です。担当の神父様からも呼びかけがあり、聖木曜日、それが無理な場合には復活の主日などに、ミャンマーの平和のためにお祈りください。

3月19日付けで、ミャンマーの司教団宛てに、連帯とお祈りのメッセージを送付し(東京教区のホームページのこちらのリンクから全文をお読みください)、インターネットの状態が定かではなかったので届くかどうか不安でしたが、受け取ったとの返信をいただきました。

Sakura21b

なお、3月21日に緊急事態宣言が解除されていますが、現在の東京教区の対応については、いつものことですが、東京教区のホームページの一番上にあるバナーをクリックしていただけると、最新の情報が掲示されますのでご覧ください。この数ヶ月の対応を大きくは変わりませんが、時間や人数に配慮して、会議や集いを行うことも出来るようにしました。しかし、復活のお祝いが近づいているのに残念ですが、飲食を伴う集まりは、まだおやめください。

聖週間の典礼は、先に聖座(バチカン)から指示が出ていますが、教区の典礼委員会から、各主任司祭にガイドラインを配布してあります。例年と異なり、行列がなかったり洗足式がなかったりと、変則的になりますが、主任司祭の指示に従って参加くださいますようにお願いします。

Sakura21c

フィリピンのマニラ大司教区は、タグレ枢機卿様が福音宣教省の長官に転任してから一年以上空位でしたが、先日教皇様は、フィリピン中部ビサヤ地方のカピス大司教区のホセ・アドヴィンクラ枢機卿を任命されました。アドヴィンクラ枢機卿は間もなく六十九歳で、昨年11月に枢機卿に親任されていました。マニラ教区のために、あたらしい教区司教のためにお祈りください。

 

| |

2021年3月20日 (土)

週刊大司教第二十回:四旬節第五主日

Saigai0321seminar

四旬節も終わりに近づきました。第五主日です。

わたしの前職であった新潟教区では、マキシミリアノ・マリア・コルベ 岡秀太神学生の助祭叙階式が行われました。召命の状況が非常に厳しい新潟教区にとって、久しぶりの叙階式です。岡助祭、おめでとうございます。

東日本大震災が発生してから10年が経過し、この三月末をもって、日本の教会全体での復興支援活動は終わりを迎えます。もちろん10年だからすべてが完了したわけではなく、全国組織体としての活動は終わりますが、教会は東北各地にある教会を通じて、ともに歩む道程を続けていきます。

そういった全国からの支援の窓口として、また活動のとりまとめ役として、仙台教区本部には仙台教区サポートセンターが設置されていました。このサポートセンターも、この三月末でその活動を終了することになります。

全国の教区からの支援をとりまとめるために、司教団は復興支援室を設け、わたしがカリタスジャパンと兼任で責任者を務めてきましたが、その活動も終了です。もちろん実際に復興支援室の活動を支えてくださったのは、大阪教区の神田神父と同じ大阪教区職員の濱口さんでした。お二人の活躍には心から感謝します。カリタスジャパンは活動の資金を確保する役目を担い、復興支援室は全国の教区からの支援(実際には三管区)のとりまとめと調整を行い、どちらも中心となって動いている仙台教区の活動を側面から支えることを心掛けました。できる限りのことは側面からしたつもりですが、もしかしたら邪魔をしたところもあったかも知れません。この10年の活動を支えてくださった皆様と、実際に現場を支えてくださった多くの方に感謝します。

その仙台教区サポートセンターの10年を振り返って、オンラインイベントが、本日午後2時から4時まで行われました。五名の方々が、体験を分かち合ってくださいました。貴重なお話を伺ったと思いますし、語り尽くせぬお話もあったことでしょう。またそれぞれの物語をお持ちの方が、たくさんおいでだと思います。そのもの語りは、大切な宝です。教会のこれからの歩みの力となる、大切な宝です。このイベントは、三月末までは、仙台教区サポートセンターのfacebookページで動画を見ることが可能だということです。

また、現在のコロナ禍にあって、食に関わる活動をしている東京教区のさまざまな活動の一端を紹介するオンラインセミナーが、東京教区災害対応チームの主催で、明日午後2時に開催されます。こちらはカトリック東京大司教区facebookページから、明日日曜日の午後二時に是非ご覧ください。

以下、本日夕方6時に公開した、四旬節第五主日の週刊大司教メッセージ原稿です。

四旬節第五主日B(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第20回
2021年3月21日

「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くのみを結ぶ」

四旬節も終わりに近づき、聖週間から御復活のお祝いが視野に入る時期となりました。感染症の状況は継続していますが、充分な感染対策をした上で、復活祭を迎える最終準備を進めたいと思います。

イエスは、間もなく訪れるご自分の受難と死を念頭に置きながら、ご自分の死が多くの人の救いのために必要なのだということを、弟子たちに語ります。

この言葉は、わたしたちに、キリストの弟子としてどのような生き方を選択するべきなのかを、明確に示しています。自分の周りに壁を打ち立て、隣人の必要を顧みずに自分を守ろうとするとき、その種は、実を結ぶことなく朽ちていくことでしょう。

エレミヤは、「わたしの律法を彼らの胸に授け、彼らの心にそれを記す」と述べて、新しい契約について預言します。イエスの受難と死を通じて結ばれる新しい契約は、まさしく、自らを捨て、他者のために生きようとする心の姿勢を求めるものであり、それは知識によるのではなく、掟の強制によるのではなく、心に刻まれた神の思いに基づくことなのだと教えます。わたしたちは、イエスが弟子たちに語ったその思いを、心に刻みたいと思います。

パウロはヘブライ人への手紙で、キリストの従順について語ります。苦しみを避けるのではなく、その中に身を置きながら、神の導きに完全な信頼を寄せることによって、キリストは完全な者となり、従う者に対して永遠の救いの源となったと記します。

他者のために徹底的に自分の人生を献げ、困難に取り囲まれる中でも、神の意志に従順であった人物として、聖家族の長である聖ヨセフがあげられます。ちょうどこの3月19日は聖ヨセフの祝日でしたし、また教皇フランシスコは、福者ピオ九世が1870年12月8日に、聖ヨセフを「普遍教会の保護者」として宣言されてから150年となることを記念して、今年の12月8日までを「ヨセフ年」と定められています。

使徒的書簡「父の心で」において、教皇は、「目立たない人、普通で、物静かで、地味な姿の人」である聖ヨセフの内に、「困難なときの執り成し手、支え手、導き手を見いだすはずです」と指摘されます。

その上で教皇は、「ヨセフの喜びは、自己犠牲の論理にではなく、自分贈与の論理にあるのです。この人には、わだかまりはいっさいなく、信頼だけがあります。その徹底した口数の少なさは、不満ではなく、信頼を表す具体的な姿勢です。・・・(主は)、自分の空白を埋めるために他者の所有物を利用しようとする者を拒み、権威と横暴を、奉仕と隷属を、対峙と抑圧を、慈善と過保護主義を、力と破壊を混同する者を拒みます。真の召命はどれも、単なる犠牲ではなく、その成熟である自己贈与から生まれます」と述べています。

許嫁(いいなづけ)であったマリアに起こった出来事とそれに続く神からの呼びかけに対する、聖ヨセフの姿勢は、信仰とは教条的でもなければ、かといって自分勝手なものでもないことを教えています。信仰の本質は自分ではコントロールできないところにあること、そしてそれを受け入れるところにあることを、聖ヨセフの生き方が教えています。

聖ヨセフの模範に学びながら、御復活に向けて、四旬節を締めくくってまいりましょう。

 

| |

2021年3月19日 (金)

「多国籍の人々がつくる豊かな教会共同体を目指して(司牧指針)」公表

0089_img_1011

東京大司教区では昨年末に、教区の宣教司牧の今後10年ほどの方向性を示す文書、「宣教司牧方針」を公表しました。

この宣教司牧方針は、①「宣教する共同体をめざして」、②「交わりの共同体をめざして」、③「すべてのいのちを大切にする共同体をめざして」の三つの大切な柱から成り立っています。

この宣教司牧方針を策定するにあたって、常に念頭にあったのは、教皇ベネディクト十六世の回勅「神は愛」の次のことばです。「教会の本質は三つの務めによって表されます。神のことばを告げ知らせること、秘跡を祝うこと、愛の奉仕をおこなうこと」(回勅『神は愛』25参照)。

これらの教会の本質的三つの務めは互いに関係しあい、また互いを前提としています。福音をより良くあかしし告げしらせる共同体であるために、わたしたちは、「宣教する共同体」、「交わりの共同体」、「すべてのいのちを大切にする共同体」を造りあげていかなければなりません。

この宣教司牧方針の二番目の柱である「交わりの共同体をめざして」に、次のように記しました。「東京大司教区内には多くの外国籍の信徒がいます。その子どもたちもいます。彼らの住む地域にある小教区共同体との交わりを豊かにするようにしましょう。」

これは、「しましょう」という言葉で終わっているので、教区全体、みなさんへの招きの言葉です。そこで、一緒になって外国籍の信徒への宣教司牧への取り組みをより具体的にしていくために、具体的な指針が必要です。

本日、聖ヨセフの祝日である3月19日付けで、「多国籍の人々がつくる豊かな教会共同体を目指して(司牧指針)」というタイトルの文書を公表しました。この文書は、先に発表した「宣教司牧方針」に付随する文書です。

全文はこちらのリンクでお読みいただけますし、さらにこちらのリンクでは、上記の「宣教司牧方針」や、その英訳、さらに今回の文書などをダウンロードできるページにつながります。

今回の文書の最後には、まとめを付けてありますので、その部分を以下に引用します。

「以上の分析と考察を踏まえて、外国籍の方々への司牧方針を次のようにまとめます。

● 東京大司教区は、人種、国籍、言語、文化の違いを乗り越えて一つの信仰の共同体を教区のレベルでも小教区共同体のレベルでも実現することを目指します。
●東京大司教区は、すべての信徒が、小教区共同体に所属し、共に責任を担いあって育て運営する信仰の共同体を目指します。
●東京大司教区は、人種、国籍、言語が異なるという多様性の中で、誰一人として孤立することのないように、信仰における固い決意と互いの尊敬のうちに支え合う信仰の共同体を目指します。
●東京大司教区は、それぞれの小教区共同体での違いを乗り越える取り組みを支援するために、CTICを核とした社会司牧の組織を創設し、支援体制を整えます。
●なお、この方針に記した内容や、それに基づいて行った取り組みについては三年後を目途にふり返りと評価を行い、必要に応じた修正をします。
●さらに、このふり返りと評価は、教区の宣教司牧評議会が中心となって実施しますが、可能な限り多くの方々の意見を伺うつもりですので、教区内の皆さまの協力をお願いします。」

すでに「宣教司牧方針」にも明記したことですが、名称は未定ですが、いわゆる「教区カリタス」を育て上げていきたいと思っています。いわゆる社会系の活動と呼ばれている使徒職を、一括するというよりも、ネットワーク化して互いに支え合いながらよりふさわしい活動を進め、さらに教区全体にその活動がフィードバックされるような組織を作り上げたいと考えています。

教皇様は、「ラウダート・シ」において、「総合的エコロジー」という言葉を使って、シングルイシューに特化するのではなく、複雑に絡み合った人類の課題という総体に一致して立ち向かうために、総合的な視点と立場が必要だと勧められています。もちろんそれぞれの課題に具体的に個別に取り組むことは必要ですが、同時に、全体を総合的に見る視点も不可欠です。東京教区でも、そういった総合的視点に立ったネットワークを確立したいと思います。

現在、東京教区のそういった活動の中で一番組織化されているのは、カトリック東京国際センター(CTIC)です。これを核にして、一年ほどをかけながら、新しいネットワークを形成していく計画です。これについては、今後、現在の社会系の委員会や活動を見直していく作業も含まれることになりますが、性急に事を進めることなく、関わっている方々とよりよく意見を交換しながら、ふさわしい道を模索したいと思います。

なおこの仮称「教区カリタス」創設の作業は、天本神父様が司教代理として担当されますが、具体的な作業のために教区職員を配置いたします。

ご存じのように、教皇様の呼びかけで、現在教会は「ヨセフ年」を過ごしています。3月19日の聖ヨセフの祝日を前にして、司教協議会会長である長崎の高見大司教様から、会長談話カテケージスが発表されています。リンクからご一読ください。

教皇様の使徒的書簡「父の心で」には、次のような指摘があります。長くなりますが引用します。

『ここ数か月にわたるパンデミックの間に、その思いが強くなりました。「わたしたちの生活(は)市井の人々―忘れられがちな人々―によって織りなされ、支えられてい(ます)……。そうした人々は、新聞や雑誌の見出しになったり、最新のランウェイに登場することはなくとも、まぎれもなく、この時代の決定的な出来事を今まさに書きつけているのです。医師、看護師、スーパーマーケットの従業員、清掃員、介護従事者、配達員、治安当局、ボランティア、司祭、修道者、そして他の多くの、自分の力だけで自分を救うことはできないと分かっている人々です。……どれほど多くの人が、毎日辛抱し、希望を奮い立たせ、パニックではなく共同責任の種を蒔くよう心掛けていることでしょう。どれほど多くの父親、母親、祖父、祖母、教師らが、習慣を変え、前向きになり、祈りを重ねるといった、何気ない日常の姿を通して、危機に向き合ってそれを乗り切る方法を子どもたちに示していることでしょう。どれほど多くの人が祈り、犠牲をささげ、すべての人のために執り成していることでしょう」。襲いかかる危機のただ中で、わたしたちはそれを実感したのです。だれもが聖ヨセフ―目立たない人、普通で、物静かで、地味な姿の人―に、困難なときの執り成し手、支え手、導き手を見いだすはずです。聖ヨセフは、一見すると地味な、あるいは「二番手」にいる人だれもに、救いの歴史の中で、比類なき主役になる資質があることを思い出させてくれます』

教皇様のこの言葉は、誰か特別な人やタレントがある人が主役なのではなく、すべての人が世界を支え、お互いを支え生かし合うための主役であることを思い起こさせます。それを教皇様は、聖書の中で目立つことのない存在である聖ヨセフになぞらえ、しかしその存在の内に「困難な時の執り成し手、支え手、導き手」を見いだすと指摘します。そして聖ヨセフは、一見すると地味な、あるいは「二番手」にいる人だれもに、救いの歴史の中で、比類なき主役になる資質があることを思い出させてくれます」と記しておられます。

まさしく、教区の宣教司牧方針を実現するためには、誰か特別なタレントがある人や才能がある人の活躍だけが必要なのではなく、共同体を構成するすべての人のポジティブな働きが必要です。これから数年間の教区全体の挑戦は、ファンファーレを鳴らして走り出すような興奮するイベントではありません。毎日の積み重ねの中で静かに静かに進んでいきます。目立たない一人ひとりの力が必要です。

皆様のご理解と、ご協力を、心からお願いいたします。(なお、司牧指針の他の言語訳は現在準備中です

 

| |

2021年3月17日 (水)

ミャンマーのためにお祈りください

Myanmar2017_20210317150601

ご存じのように、東京教区は長年にわたってミャンマーの教会を支援してきました。東京教区のホームページには、次のように記されています。

「東京大司教区は1964年よりドイツのケルン大司教区と姉妹関係を結び、お互いに助け合い、祈り合う関係を保っています。1979年には両大司教区の友好25周年のお祝いが行なわれました。当時の白柳誠一東京大司教(後に枢機卿)は、ケルン教区の精神を学び、ケルン教区の召命のために祈るよう教区の全信者に呼びかけました。来日していたヘフナー枢機卿(当時のケルン教区長)と白柳大司教は、ケルン教区の精神をさらに発展させようと考え、25周年以降は力をあわせてミャンマー(旧ビルマ)の教会を支援することに合意しました。こうして東京大司教区では、毎年11月の第3日曜日を「ミャンマーデー」と定め、ミャンマーの教会のための献金を呼びかけることになったのです。ミャンマーが支援先に選ばれたのは当時ミャンマーが最も貧しい国の一つであり、援助を必要としていたからです」

現在は高木健次神父様とレオ・シューマカ 神父様が中心となり、神学生養成への支援を継続しています。昨年2月には、コロナ禍が拡大する寸前でしたが、私も含めて数名の司祭団で訪問してきたところです。(上や下の写真)

Myanmar2001_20210317150601

2月に国軍のクーデターがあり、民主選挙の結果は無視され、軍政に反対する民衆のデモは武力で弾圧されていると伝わってきます。この数日には多数の死傷者が出ているとの報道もあります。

少数派ではありますが、カトリック教会は各地で、軍による力の支配に反対し、民主的な国の運営を求める民衆を支援しています。警察に立ちはだかるシスターの写真なども報道されています。

暴力をもって人々の自由意思を弾圧し、支配することは、許されることではありません。特に、たまものである人間のいのちを危機にさらす行為を、国家運営の手段として認めることはできません。ミャンマー国軍による支配が、人々の共通善に資するものとなり、いのちを守る道を選択することに目覚め、人々の幸福を実現するよりふさわしい政府の在り方へと舵を切ることを祈ります。

以下は、バンコクのカトリックニュースサイトLICAS・NEWS(LIGHT of CATHOLICS in ASIA)のYouTubeチャンネルに投稿されたヤンゴン大司教チャールズ・マウン・ボ枢機卿のメッセージ動画です。アジア司教協議会連盟から、アジアのすべての司教に送付されてきました。東京教区の広報担当が日本語字幕を付けました。一度ご覧いただいて、ボ枢機卿の呼びかけに耳を傾け、ミャンマーの平和と安定のためにお祈りくだされば幸いです。

また近隣には、同じように武力などの力をもって言論を封殺し、民衆を支配しようとする、見逃すことのできない行動をとる国家もあり、特にその中で信教の自由が著しく制限されている状況も見られます。特に東アジア地域の平和と安定のために、そして信教の自由が侵されることのないように、お祈りください。

なおメッセージの邦訳テキストは、東京教区のホームページのこちらのリンクに掲載されています

 

| |

2021年3月13日 (土)

週刊大司教第十九回:四旬節第四主日

21march11a

四旬節第四主日となりました。(写真は3月11日のミサから)

本来の行事予定では、3月14日には教区一粒会(いちりゅうかい)の総会が予定されていました。残念ながら、現在の状況の中で、大勢の方を集めての総会は難しいと判断しましたので、今年の総会は行われません。

一粒会は、召命のために祈り、献金する、神学生養成を援助する会です。教区の信者(信徒、修道者、司祭)すべてが会員です。一粒会について、教区のホームページから転載します。

「1938年に東京大司教に任命された土井辰雄師の司教叙階式に参列した信徒たちの数人が、司祭召命と養成のために「何かをしなくては」と思い立ったのが一粒会発足のきっかけとなりました。その頃、軍国主義の高まりによって外国人宣教師たちに対する迫害や追放など、教会にもさまざまな圧迫があり司祭召命に危機感を抱く信徒が少なからずいたのでした。

当時の一粒会の規則は、司祭召命のために毎日「主祷文(主の祈り)」を一回唱え、祈りのあとに1銭(1円の百分の一)を献金するというものでした。一粒会という名称は「小さな粒を毎日一粒ずつ貯えていく実行、しかも行いを長続きさせるということを考慮に入れての命名」だったそうです。

戦中・戦後、途絶えていた一粒会の活動は1955年頃に復活し、現在に至っています。東京教区の「一粒会」の会員は教区民全員です。会長は菊地功大司教です。神学生養成のために皆さまの心のこもったお祈りと献金のご協力をお願いします」

と言うわけで、献金については個人の献金も受け付けています。送金先については、教区のホームページのこちらのリンクをご覧ください。振込先口座だけではなく、毎日唱えていただける召命のための祈りも記載されています。

召命は神からの呼びかけですが、呼びかけに応えるためにきっかけと勇気が必要です。多くの方に、主は声をかけておられます。呼ばれた者が勇気を持ってそれに応え、一歩を踏み出すことが出来るように、皆様のお祈りと、声がけをお願いいたします。司祭・修道者としてふさわしいと思われる青年男女に、是非声をかけ励ましてください。

教皇様は3月11日に、駐日教皇庁大使を任命されました。前任のチェノットゥ大司教が昨年9月に帰天されてから、空位となっていました。新しい大使は、イタリア出身のレオ・ボッカルディ大司教(His Excellency Monsignor Leo Boccardi) で、現在は駐イラン大使を務めておられます。これまでの経歴の中には、イランの大使、スーダンとエリトリアの大使もありますが、3月11日という日に日本の大使に任命された方が、以前には「教皇庁国務省外務局で働き、国連の国際原子力機関(IAEA)や欧州安保協力機構(OSCE)、包括的核実験禁止条約準備委員会(CTBTO)への聖座代表」を務めていたというのは、少なからず、広島や長崎を訪れた教皇フランシスコのご意向があるように感じます。来日が待たれるところです。

教皇様は、3月13日で、教皇に選出されて8年となります。先代のベネディクト16世の退位を受け、2013年3月13日の枢機卿会にて教皇に選出されました。現在84歳の教皇フランシスコのために、お祈りください。

以下、本日公開の週刊大司教第十九回目のメッセージ原稿です。

四旬節第四主日B(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第19回
2021年3月14日

「独り子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」

ファリサイ派の議員であり、指導者でもあったニコデモとイエスとの対話を、ヨハネ福音は描いています。そこでは永遠の命を得るために必要なことはイエスを信じることであって、救いは神からの恵みとして与えられることが強調されています。

パウロはエフェソの教会への手紙で、「あなた方が救われたのは恵みによる」と記して、わたしたちの救いは、自ら創造されたいのちを愛してやまない神からの、一方的な恵みによっていることを明確にします。

ヨハネは「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」と記し、その独り子が、信じる者皆の救いのために「上げられねばならない」と語るイエスの言葉を記して、十字架上でのイエスの受難と死が、神の愛に基づく徹底的な自己譲与の業であることを明確にします。同時にそれは、十字架が神のあふれんばかりの愛の、目に見える証しであること、しかも具体的な行いによる愛のあかしであることを明らかにしています。さらに、神の愛は、裁きではなく救いをもたらすことも明示されています。

神は愛する民を闇の中の苦しみに放置することなく、光へと導こうとされます。それは神が自ら創造されたいのちを愛してやまないからであり、神はなんとしてでもすべてのいのちを救いへと招き入れようと、手を尽くされています。

神の豊かな愛に包まれて救いへと導かれているのですから、神を信じるわたしたちは、その愛を、ひとりでも多くの人へと伝え、ひとりでも多くの人がその愛に包まれて、光を見いだして生きることが出来るように、愛の実践を通じたあかしの業に務めなくてはなりません。

そもそもわたしたちは、自分の性格が優しいからとか、そういった個人的な理由で愛の業に励むのではありません。わたしたちは、神の愛に包まれて生かされているからこそ、その恵みとして与えられている愛を実践することで、ひとりでも多くの人にあかしをしたいのです。愛に包まれていることを感じるとき、わたしたちは理念としてではなく実感として人類愛を語ることが出来ます。教皇フランシスコは、今年の四旬節メッセージに、多様な社会の中で共通して愛を語るために、人類愛から始めることの重要性に触れ、次のように記しています。

「人類愛から始めるなら、だれもがそこに招かれていると感じられる、愛の文明に向けて進むことができます。愛は、そのすべてに及ぶダイナミズムをもって、新しい世界を築くことができます。愛とは、何も生み出さない感情ではなく、すべての人にとって有効な発展の道を得る最高の方法だからです」(『Fratelli tutti』183)。

3月11日で、東日本大震災が発生して10年となりました。あらためて亡くなられた多くの方々の永遠の安息を祈ります。日本の教会はこの10年、まさしくわたしたちを包み込む神の愛のあかしとして、東北の被災地で復興支援活動に携わってきました。10年の節目に、教会全体としての活動は終わりを迎えますが、当然、東北各地には教会共同体があり、この10年の活動の実りも残されています。これからも、仙台教区の教会共同体と共に、東北各地の皆様と歩みを共にしながら、ひとりでも多くの人が、神の愛に包まれていることを実感できるよう、努めていきたいと思います。

多くの人が、希望と愛を必要としています。闇に輝く光を必要としています。

 

| |

2021年3月11日 (木)

東日本大震災発生から10年。祈ります。

Ctvc20210311

2011年3月11日に、東日本大震災が発生して10年となりました。

大震災によって亡くなられた方々、またその後の過酷な生活の中で亡くなられた方々、あわせれば二万人近くになります。亡くなられた方々の永遠の安息をお祈りいたします。また今でも行方が分からない方や、避難生活を続けられる方も多数おられ、一日も早く、希望が回復するように、心からお祈りいたします。

命の希望を掲げる教会はこの10年間、東北の地に生きる存在として、その役割を果たそうと務めてきました。特に東北の沿岸部に9カ所設けられたボランティアの活動拠点は、その基礎となる地元の教会と共に、地域の方々と一緒に時を過ごす中で、求められている希望は具体的に何であるのかを模索しようとしてきました。そのために日本の教会は、10年間と期間を定めて、全国の教会を上げての復興支援活動を行ってきました。この3月末で、ひとまずこの全国を上げての活動は、一旦終了となります。同時に、教会はそもそも地元に根付いてある存在ですし、教会は普遍教会として一つの体ですから、これからも、東北各地の教会を通じて、教会としての支援の歩みは続けられます。

10年の節目と言うこともあり、当初は仙台に司教団も集まり、ミサを捧げる予定でおりましたが、新型コロナ感染症の影響のため、それぞれの教区で祈りをささげることに変更となりました。東京教区でも、午後2時半から、東京教区ボランティアセンター(CTVC)が中心となって、祈りのひとときを持ち、ミサを捧げました。

なお、日本の司教団からの震災10年目のメッセージは、こちらのリンクからご覧ください。

わたし自身が責任者を拝命しておりました司教団の復興支援室も、3月末で閉鎖となります。大阪教区の神田神父、濱口氏との三名で、さまざまな調整作業にあたってきましたが、これも、特別な儀式的なことは一切なく終わりを迎えることになりました。仙台教区のサポートセンターも同様です。さらには東京教区のCTVCも、同様に3月末で活動を終えます。

活動終了にあたり、まず司教団の復興支援活動に関しては、活動評価作業を実施しており、7月頃にはまとまる予定です。仙台サポートセンターからは、この10年の活動を振り返る130ページもの記録集が発行されました。CTVCも記録を発行しています。この10年間の活動は、教会の宝として残されています。宝を隠してしまうことなく、今後の教会のあり方に、行かしていきたいと思います。

東京教区のCTVCの活動は、今後計画されている社会系活動を統合した教区カリタス組織に受け継がれていきますし、同時に、この10年のかかわりを通じて育まれた東北の方々との歩みは、特にカリタス南相馬とのかかわりなどを通じて、これからも続いていきます。

これまで10年の活動に関わってくださった多くの皆様に、心から感謝申し上げます。教会が本物の希望の光となって、闇の中でも道をしっかりと照らす存在となることができるように、これからも務めたいと思います。

以下、本日、東京カテドラル聖マリア大聖堂で行われた、「「思い続ける3.11」オンライン 東日本大震災 犠牲者・被災者・避難者のために祈るつどい」のミサ説教原稿です。

東日本大震災10年
思い続ける3.11 ミサ
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2021年3月11日

あの日から10年という時間が経過しました。人生の中で、あの日あの時間にどこで何をしていたのか、明確に記憶している出来事はそう多くはありません。10年前のあの日あのとき、わたしは秋田から新潟へ帰る羽越線の電車の中にいました。山形県の鶴岡駅手前で立ち往生した電車の中で、携帯も通じなくなり、繰り返す余震に揺られながら、まだそのときは東北各地の被害の大きさは、想像も出来ていませんでした。

未曾有の大災害が、東北の太平洋沿岸部を中心に東日本を襲ってから10年です。あらためてこの10年の間に亡くなられた2万人近い方々の永遠の安息をお祈りいたします。消防庁の統計によれば、2020年3月の段階で2,500名を越える方の安否が不明であり、また復興庁によれば同年10月現在で、4万を超える方が避難生活を続けておられます。心からお見舞い申し上げます。

これまでの経験したこともない規模の災害です。わたしたちの想像を遙かに超える被害に呆然とする中、世界中の方々から支援をしていただきました。震災の翌日から、カリタスジャパンには世界中からの問い合わせと支援の申し出が相次ぎました。結果として国内は言うに及ばず、世界各地から多くの支援がよせられました。この10年間のカトリック教会の復興支援活動を支えてくださったのは、世界中の兄弟姉妹の皆様が、被災地への思いを寄せてくださるあかしとしての支援のおかげです。

また多くの方がボランティアに駆けつけてくださいました。この10年の東北各地の復興に寄り添い歩みをともにするボランティアの活動は、世界に広がる連帯の絆を生み出し、その後、今に至るまで毎年頻発している各地の大規模災害にあって、その支援活動に繋がっています。わたしたちはこの10年の時の流れの中で、互いに支え合うことの大切さを、心で実感し、学びました。

日本のカトリック教会は、災害発生直後の3月16日に、仙台において復興支援のためのセンターを立ち上げました。被災地はそのほとんどが仙台教区の管轄地域と重なっていましたので、仙台教区を中心として、復興支援活動を行ってきました。その後3月の末には司教たちが集まり、全国16の教区が一丸となって力を結集し、10年間にわたり復興支援活動を行うことを決めました。わたしたちはこれを「オールジャパン」などと呼んできました。

沿岸部を中心に被災地にはボランティアベースがいくつか設けられ、この10年の間、教会内外、そして国内外から、ボランティアベースに多くの方が駆けつけ、また中にはリピーターとして何度も足を運び、復興を目指して歩み続ける被災地の方々と、その歩みをともにする活動に参加してくださいました。東京教区でも、CTVCを中心として、そのほかにも多くの信徒の方の団体が結成され、今に至るまでの息の長い支援活動を続けてきました。参加してくださった多くのボランティアの皆様に、心から感謝申し上げます。

いったいこの10年の体験は、教会にとってどういう意味を持っていたのでしょうか。

先ほど朗読されたエレミヤ書には、神が幾たびも幾たびも、さまざまな方法でご自分の民に語りかけられ、しかしながら民が耳を傾けようとしないことが記されていました。

耳を傾けようとせず、自分たちの思いのままに生きようとする民に、それでも神は辛抱強く語りかけられます。回心することなく耳を傾けない民を前にして、神が最終的に決断されたのは、罰することではなく、自ら人となり、直接語りかけ、さらにはその罪の贖いのために、十字架上で自らをいけにえとして献げることでありました。なぜなら神は、慈しみにあふれた神だからです。忍耐にあふれる神だからです。ご自分の賜物として創造し与えられたいのちを、徹底的に愛される神だからです。

災害がどうして起こるのかその理由は誰にも分かりません。しかしわたしたちは、災害そのものではなく、その後に起こったさまざまな体験を通じて、神からの語りかけを学ぶことが出来ます。

わたしはこの10年間の歩みを通じて、とりわけ「人は何のために生きるのか」という問いかけへの神からの答えを体験してきたと感じています。

それは、2019年11月に日本を訪れた教皇フランシスコの言葉からも耳にすることが出来ました。教皇は、東京での被災者との集いで、次のように述べておられます。
「食料、衣服、安全な場所といった必需品がなければ、尊厳ある生活を送ることはできません。生活再建を果たすには最低限必要なものがあり、そのために地域コミュニティの支援と援助を受ける必要があるのです。一人で「復興」できる人はどこにもいません。だれも一人では再出発できません。町の復興を助ける人だけでなく、展望と希望を回復させてくれる友人や兄弟姉妹との出会いが不可欠です」

わたしたちは、互いに助け合うために、支え合っていのちを生かすために、展望と希望を生み出すために、いのちを生きていることを、この10年間の歩みを通じて神はわたしたちに語りかけ続けています。

カトリック教会は、災害の前から地元に根付いて共に生きてきた存在であり、これからも地元と共に歩み続ける存在です。ですからわたしたちの歩みは、どこからかやってきて去って行く一時的な救援活動に留まらず、東北のそれぞれの地で、地域共同体の皆さんと将来にわたって歩みをともにする中で、命の希望の光を生み出すことを目指す活動です。仙台教区は、復興支援の先頭に立つとき、「新しい創造」をモットーとして掲げ、過去に戻る道ではなく、希望を持って前進を続ける道を選びました。ですから教会の復興支援活動は、10年という節目を持って終わってしまうわけではありません。普遍教会は、仙台教区の小教区共同体として存在を続け、わたしたちはその教会共同体を通じて、これからも展望と希望を回復する道を歩み続けます。

教皇は、東北の被災地の方々との集いにおいて、「日本だけでなく世界中の多くの人が、・・・祈りと物資や財政援助で、被災者を支えてくれました。そのような行動は、時間がたてばなくなったり、最初の衝撃が薄れれば衰えていったりするものであってはなりません。むしろ、長く継続させなければなりません」とも指摘されています。

旧約の時代にそうであったように、神は辛抱強く語りかけられます。語り続けます。わたしたちが耳を傾ける時を忍耐強く待っておられます。
 わたしたちは、互いに助け合い、支え合っていのちを生かし、展望と希望を生み出す世界を生み出しているでしょうか。誰ひとり排除することなく、すべてのいのちが守られ、人間の尊厳が尊重され、闇に取り残されることのない社会を実現しているでしょうか。教会はその中にあって、暗闇に輝く光となっているでしょうか。

この10年の歩みを振り返りながら、あらためてわたしたち自身の生きる姿勢を見直してみましょう。そしてあらためて、東北の被災地の上に、神様の豊かな祝福と守りがあるように、祈り続けましょう。

 

| |

2021年3月 6日 (土)

週刊大司教第十八回:四旬節第三主日

21lent3a

残念ながら、緊急事態宣言は二週間ほどの延長となりました。このままですと、なんとか聖週間は典礼が行えるだろうと想定しています。すでにお知らせしていますし、同様のお知らせは8日の月曜日小教区に送付しますが、現在の感染症対策をこのまま継続します。現在の対策の一覧は、教区のホームページのこちらです

また聖週間の典礼については、すでに教区の典礼担当者(4月以降の教区典礼委員会)から、主任司祭宛にガイドラインを送付しています。基本的にそれぞれの小教区における典礼の最終責任者は主任司祭ですので、主任司祭の指示に従うようにお願いしたいのですが、行列の中止や洗足式の中止、また歌唱部分の変更など、いつもとは異なる聖週間の典礼となります。ご協力をお願いいたします。

教皇様は昨日3月5日から8日まで、教皇として初めてとなるイラクの司牧訪問中です。教皇様のため、またイラクの方々のためにお祈りください。

21lent3b

以下、本日夕方公開した、週刊大司教のメッセージ原稿です。

四旬節第三主日(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第18回
2021年3月7日
性虐待被害者のための祈りと償いの主日

いのちは神の賜物であると、わたしたちは信じています。神から与えられたいのちの尊厳を守ることは、わたしたちの務めです。残念ながらその務めの模範たるべき聖職者が、とりわけ性虐待という、いのちの尊厳を辱め蹂躙する行為におよんだ事例が、世界各地で、過去長年にさかのぼって報告されています。

またわたしたち司教をはじめとした教会の責任者が、事実を隠蔽した事例も、各地で明らかになっています。日本の教会も例外ではありません。

被害者が未成年や子どもであった場合、その事実を公にできるまでには、深い苦しみと大きな葛藤があり、充分な時間が必要です。何十年も経ってから、その事実を公にされた方も少なくありません。そのような深い苦しみと大きな葛藤を長年にわたって強いたにもかかわらず、教会の対応が全く十分とは言えないことを含め、被害を受けられた多くの皆様に、心からお詫びいたします。

教皇フランシスコは、教会全体がこの問題を直視し、その罪を認め、ゆるしを願い、また被害にあった方々の尊厳の回復のために尽くすよう求め、特別な祈りの日を設けるようにと指示されました。日本では、「性虐待被害者のための祈りと償いの日」を、四旬節・第二金曜日と定めました。今年は、去る3月5日です。東京教区では、今日の主日にも祈りをささげています。

出エジプト記はモーセに与えられた神の十戒を記していましたが、教皇ヨハネパウロ二世の回勅「いのちの福音」にはこう記されています。
「『殺してはならない』というおきては断固とした否定の形式をとります。これは決して越えることのできない極限を示します。しかし、このおきては暗黙のうちに、いのちに対して絶対的な敬意を払うべき積極的な態度を助長します。いのちを守り育てる方向へ、また、与え、受け、奉仕する愛の道に沿って前進する方向へと導くのです。(54)」

今回の感染症に直面する中で、教会が選択した公の活動の停止という行動は、後ろ向きな逃げるための選択ではなく、いのちを守るための積極的な選択でした。それはカテキズムにも記されているとおり、まさしく「殺してはならない」という掟が、他者をいのちの危機にさらすことも禁じているからであり、それはすなわち、「隣人を自分のように愛せよ」という掟を守るためでもあります。

人間の尊厳をないがしろにしたり、隣人愛に基づかない行動をとることは、神の掟に反することでもあります。いのちを賜物として大切にしなければならないと説くわたしたちは、その尊厳を、いのちの始めから終わりまで守り抜き、尊重し、育んでいく道を歩みたいと思います。

教皇フランシスコは、今年の四旬節メッセージにこう記しています。
「愛は、他の人がよい方向に向かうのを見て、喜びます。だれかが孤独、病気、住む場所のない状態、侮辱、貧困などによって苦悩していれば、愛も苦しむからです。愛は心の躍動であり、それがわたしたちを自らの外へと出向かせ、分かち合いと交わりのきずなを築くのです」

イエスは神殿が、その本来の目的と異なるあり方をしていることに怒りを表されました。神が与えてくださったいのちが、神が望まれる生き方をすることが出来るように、その尊厳が守られるように、愛に満ちあふれた存在であるように、努めていきたいと思います。

 

| |

2021年3月 5日 (金)

教皇様イラク訪問

Logoiraq2021

教皇様は本日3月5日から8日まで、イラクを訪問されます。日本時間の本日午後3時半頃(ローマの朝7時半)に出発される予定です。旅路の安全と、そして教皇様の意向に沿って、イラクの方々のために祈りをささげたいと思います。

英語ですが、教皇様のイラク訪問の予定はこちらに記されています。(バチカンホームページ)なお、教皇様の海外訪問は、2019年11月にタイと日本を訪問されて以降、新型コロナ感染症のためすべてキャンセルされていましたので、今回が再開第一回目となります。

教皇様は3月3日の一般謁見で、今回のイラク訪問に関して次のように語ったと、バチカンニュースで報じられています。

この訪問について、教皇は、「多くの苦しみを受けたイラクの人々、アブラハムの地における殉教者としての教会と出会いたい、との思いを長い間抱いていた」と述べられた。
また、教皇は、他の宗教指導者たちと一緒に、神を信ずる者たちの間に、兄弟愛の新たな一歩をしるしたいと抱負を語られた。
教皇は、この司牧訪問をより良い形で行い、実りをもたらすことができるよう、祈りをもって訪問を共にしてほしい、と信者らに願われた。

また訪問前のビデオメッセージでは、イラクの方々に次のように語りかけています。

何年もの戦争とテロリズムの後、赦しと和解を主に祈り求めるため、心のなぐさめと傷のいやしを神に願うために、わたしは悔悛の巡礼者としてまいります。平和の巡礼者として訪れ、「あなたがたは皆兄弟です」(参照マタイ23,8)と繰り返すために。
そうです、平和の巡礼者として、兄弟愛の追求のもとに、皆さんのもとを訪れたいと思います。イスラム教徒、ユダヤ教徒、キリスト教徒を、ただ一つの家族として一致させる、父祖アブラハムのしるしのうちに、共に祈り、歩みたいという望みに動かされてまいります。

教皇様のために、お祈りください。

また本日3月5日は、「性虐待被害者のための祈りと償いの日」であります。聖職者による性虐待の罪にゆるしを願い、被害を受けられた方々の心のいやしのために祈り、同じ過ちを繰り返さない決意を新たにするために、教皇フランシスコは、全世界の司教団に向けて、「性虐待被害者のための祈りと償いの日」を設けるように通達されました。日本の教会では「四旬節・第二金曜日」と定めました。東京教区では、次の日曜日、四旬節第三主日のミサで、この意向のもとにミサを捧げることにしております(教区ホームページ参照ください)。東京カテドラル聖マリア大聖堂では関口教会のミサとして、3月7日午前10時のミサを、わたしが司式してこの意向を持って共にお祈りいたします。

教皇ヨハネパウロ二世は、人間のいのちを人間自身が自由意思の赴くままに勝手にコントロールできるのだという現代社会の思い上がりを戒めながら、そういった現実を「死の文化」とよばれました。そして教会こそは、蔓延する死の文化に対抗して、すべてのいのちを守るため、「いのちの文化」を実現しなければならない。そう強調された教皇は、回勅「いのちの福音」の冒頭に、こう記されています。

「いのちの福音は、イエスのメッセ-ジの中核に位置します。教会は、いのちの福音を日ごと心を込めて受け止め、あらゆる時代、あらゆる文化の人々への『良い知らせ』として、あくまでも忠実にのべ伝えなければなりません」

危機にさらされるいのちの現状、教皇ヨハネパウロ二世が指摘する「死の文化」が支配する現実の中で、教会こそは、「いのちの福音」を高く掲げる務めがあることを自覚しなければなりません。

その教会にあって聖職者には、神の賜物である尊厳あるいのちを守るために最善を尽くす義務があり、「いのちの福音」をその言葉と行いを持って証しする義務があります。

残念ながら、その模範たるべき聖職者が、とりわけ性虐待という他者の人格を辱め人間の尊厳を蹂躙する行為におよび、いのちの尊厳をおとしめ、いのちの危機を生じさせる事例が、世界各地で過去にさかのぼって多数報告されています。また司教を始めとした教区の責任者や、修道会の責任者が、聖職者の加害行為を隠蔽したり、その被害を過小評価した事例も、多数指摘されています。日本の教会も例外ではありません。被害を受けられた多くの方々に、心からお詫び申し上げると共に、教会はいのちの光を生み出す存在となる務めがあることをあらためて心に刻みます。(なお東京教区の対応については、こちらをご覧ください

 

| |

« 2021年2月 | トップページ | 2021年4月 »