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2021年3月28日 (日)

聖週間:受難の主日ミサ

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聖週間が始まりました。本日は受難の主日または枝の主日と呼ばれます。これまでは、教皇ヨハネパウロ二世の定めにより、この日は世界青年の日とされていましたが、今年から、王であるキリストの主日が世界青年の日となります。

東京カテドラル聖マリア大聖堂で、関口教会の10時のミサを司式いたしました。今年は、感染予防策として、聖座の典礼秘跡省からも指針が出ていますが、東京教区でも典礼委員会が指針を策定しました。最終的な指針の適用は、それぞれの地域・小教区で事情が異なりますので、主任司祭の判断です。皆様には、制約がさまざまあろうかと思いますが、主任司祭の指示に従ってくださるようお願いします。

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関口教会も、そんなわけで、今朝は外からの行列は中止。本当はルルドから行列するのですが、しかたがありません。皆さんには会衆席についていただいたままで、司祭と侍者が聖堂入り口で枝の祝福をし、会衆席を聖水を撒いて祝福して回り、福音を朗読してから、入祭となりました。

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聖週間の主な典礼は、関口教会のyoutubeチャンネルから、配信されています。

以下、本日のミサの説教原稿です。

受難の主日
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2021年3月28日

一年前の聖週間、教会の扉は閉じられたままでありました。一年前、新型コロナウイルスによる感染症が拡大する中で、わたしたちは先行きの見えない不安に苛まれながら、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という受難朗読にあるイエスの言葉を、自分の言葉としていました。残念ながら状況は劇的に改善してはいないものの、ことしはそれでも、さまざまな制約を設けながらではありますが、聖週間の典礼を行うことが可能となりました。今しばらくは、状況を見極めながら、慎重な行動を選択し続けたいと思います。

この一年、世界各地で、また日本において、今回の感染症のために亡くなられた方々の永遠の安息を、そして、いま病床にある方々の回復と、医療関係者の健康のために、祈ります。

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歓声を上げてイエスをエルサレムに迎え入れた群衆は、その数日後に、「十字架につけろ」とイエスをののしり、十字架の死へと追いやります。

しかしパウロは、イエスが「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順」であったからこそ、「神はキリストを高く上げ、あらゆる名に勝る名をお与えに」なったのだと記します。

イザヤは、そういったイエスの生きる姿を、苦難のしもべの姿として預言書に書き記しています。

主なる神が「弟子としての舌」を与え、「朝ごとにわたしの耳を呼び覚まし、弟子として聞き従うようにして」くださったがために、「わたしは逆らわず、退かなかった」。苦しみに直面したイエスの従順と不退転の決意を、イザヤはそう記します。

神が与えられた「弟子としての舌」は、「疲れた人を励ますように」語るための舌であると、イザヤは記します。その舌から語られる言葉は、いのちを生かす言葉であり、生きる希望を生み出す言葉であり、励まし支える言葉であります。

加えて、その舌が語る言葉は、自分の知識に基づく言葉ではなく、「朝ごとに」呼び覚まされる主の言葉に耳を傾け、それを心に刻んで従おうと決意する、神ご自身のことばであります。

人間の知識や感情や思いに左右される言葉は、イエスを十字架の死へと追いやった群衆の熱狂の内にある言葉のように、いのちを危機に追いやり、いのちを奪う言葉となります。

神のことばに耳を傾け、それを心に刻み、不退転の思いをもってそれに従い、それを語る主イエスの言葉は、互いを支え、傷を癒やし、希望の光をともす、いのちを生かす言葉であります。

今のこの時代、わたしたちは、熱狂の言葉ではなく、希望に満ちたいのちの言葉を語る者でありたいと思います。弟子の舌をもって語る者でありたいと思います。

この一年を「聖ヨセフの年」と定められた教皇フランシスコは、使徒的書簡「父の心で」において、イエスの物語の背景であまり目立つことのない聖ヨセフの生き方について、さまざまな視点を提供しています。

その書簡の中で、自らの弱さのうちに神の力が働くことを知った聖ヨセフの「いつくしむ心の父」としての側面に触れ、こう記しています。

「救いの歴史は、わたしたちの弱さを通して、『希望するすべもなかったときに、……信じ』ることで成就します。あまりにしばしばわたしたちは、神はわたしたちの長所、優れているところだけを当てにしていると考えてしまいますが、実際には、神の計画のほとんどは、わたしたちの弱さを通して、また弱さがあるからこそ、実現されるのです」

その上で教皇は、次のように指摘します。

「ヨセフは、神への信仰をもつということは、わたしたちの恐れ、もろさ、弱さを通しても神は働かれると信じることをも含むのだと教えてくれます。また、人生の嵐の中にあっても、わたしたちの舟の舵を神にゆだねることを恐れてはならないと教えます。時にわたしたちは、すべてをコントロールしようとします。ですが、主はつねに、より広い視野をもっておられるのです」

この一年、感染症によってもたらされた混乱と不安の中で、わたしたちはさまざまな視点から語りかける言葉を耳にしてきました。特に近年は、インターネットの普及で、さまざまな情報がわたしたちを取り囲むようにして飛び交っています。かつては人の口伝えによって広まった噂も、今やインターネットを通じて瞬時に、考えられないような数の人に伝わっていきます。

飛び交う言葉には、いのちを生かす言葉もあるでしょう。希望の光をともす言葉もあるでしょう。支え合ういたわりの言葉もあるでしょう。

しかし、しばしばわたしたちが耳にしたのは、根拠の薄いうわさ話であったり、見知らぬ他者をののしる言葉であったり、弱い立場にある人や保護を必要とする人をさげすむ言葉であったり、排除する言葉であったり、そういった負の力を持つ言葉が心を傷つけ、希望を奪い、時にはいのちをも奪い去るような出来事でありました。

あの日イエスを王のように歓呼をもって迎え入れた群衆のように、あの晩イエスを十字架につけよと叫び続けた群衆のように、高揚した自分の心の動きに支配されて叫ぶ言葉は、真理からはほど遠いところにあり、だからこそ負の力に満ちあふれており、究極的にはいのちを奪います。

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わたしたちは、今のような困難なときに生きているからこそ、自分たちの弱さをしっかりと自覚しなければなりません。わたしたちは自分の力だけで生きているのではなく、互いに支えられて生きていることを自覚し、神から生かされていることを心に刻んで、弱さの内にあることを認めなくてはなりません。

神は弱さにうちひしがれるわたしたちを通じて、その力を発揮され、救いの計画を成就させようとされるでしょう。今のこの状況を通じて、神がいった何を成し遂げようとしているのかを知ることは出来ませんが、そのはからいに信頼こそすれ、わたしたちの思い上がりで神の計画を妨げてはなりません。

わたしたちは弱さの内にあると自覚するからこそ、いのちの与え主である神のことばに耳を傾け、朝毎にそのことばによって生かされて、弟子の舌をもって語り続けることが出来ます。わたしたちは、疲れた人を励ます、いのちの希望の言葉を語る者でありたいと思います。自分の激した心の赴くままに放言するものではなく、自分たちの力に過信して語るのではなく、まず弟子として神に聞き従う耳を持ちながら、主イエスご自身の生きる姿に倣い、不退転の決意をもって、いのちの言葉を語ってまいりましょう。

 

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