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2021年4月30日 (金)

続:東京第司教区司祭叙階式

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4月29日の司祭叙階式の記事の続きです。

叙階されたお二人については、また、教区ニュースなどでプロフィールも紹介されたりすることでしょうからそちらに譲ります。

この二人に続く東京教区の神学生は、今の時点では、神学課程に2名、哲学課程に1名、予科に1名と、総勢4名です。予科から司祭叙階まで、最低でも7年半がかかります。司祭養成には時間がかかります。大切な役割なので、それだけの時間をかける必要があるからです。しかし、例えば来年2022年春に入学したとしても、実際に司祭として働けるのは2030年頃です。いまの東京教区の司祭団の年齢構成を考えるならば、やはり、あと数名は神学生がいないことには、近い将来、いくつかの小教区には、派遣できるだけの人数の司祭がいない事になるものと想定します。しかもそれは遠い将来ではなく、ごく近い将来です。

どうか召命のために祈り、また小教区に召命を感じている方がおられたら、励ましてください。ピンポイントで祈ってください。お願いします。召命は人間が勝手に作り出すことは出来ません。神からの呼びかけです。わたしたちが出来るのは、呼びかけられた人が、その呼びかけに気がつくように、さらにそれに応える勇気を持つことができるように、祈りを通じて励ますことです。

ところで、昨日の東京カテドラルでの司祭叙階式は、youtubeの関口教会のアカウントで繰り返し見ていただけますが、叙階式にはいつものミサと違って、いくつもの典礼上の「儀式行為」が行われます。司祭に叙階される人(受階者)は何度も司教の前に進み出て、なにやらしております。

叙階の儀式行為の中で、どこが一番重要だと思いますか。一番大事なところはあまり目立たないので、よく、叙階式に参加された方は写真を撮るタイミングを逃してしまったりします。(なお、カテドラルでの教区の典礼儀式では、撮影は担当の係が行います)

一番重要なのは、「按手」と「叙階(聖別)の祈り」です。特に「按手」は忘れてはいけません。

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名前を呼ばれて前に出て、司教と推薦する司祭との問答があり、司教の説教が続きます。説教に続いて、司教といくつかの問答があります。もちろんこの問答も重要で、司祭の生涯にわたる生き方を明確に約束する部分です。司祭の務めを受け入れる決意の表明です。そして受階者は床に伏して諸聖人の連願が歌われます。その後、受階者は司教の前に進み出て、ここで司教は何も言わずに按手します。司教の按手に、列席する司祭の按手が続きます。

按手が終わると、司教は叙階の祈りを唱えます。この按手と叙階の祈りを欠いてしまうと、叙階の秘跡は秘跡としてなりたちません。ですからここが一番重要です。

この後受階者は司祭の祭服を身につけ、司教の前に進み出て聖香油を塗油されます。そして最後に、カリスとパテナを授与されて、平和のあいさつで司祭叙階のための典礼の儀式は終わりです。

按手は、儀式書にもさらりと書いてあるだけなので、見落としそうになることもあります。(儀式書には、唱える部分と、ト書きのように、動作などを指示する部分が記されています。そのト書きの部分は、本来は赤字で書いてあるのでルブリカと呼ばれますが、いかんせん、唱える部分は黒でフォントが大きく、ルブリカはそれとなくしか記されません。按手は祈りをなにも唱えずに行い、その直後の叙階の祈りは黒くはっきりと印刷されているので、見落とすのです)

その昔、とある修道会で行われた助祭叙階式で、司式されていた司教様が熱を出されていてぼーっとしておられ、按手を忘れると言うことがありました。司祭叙階であれば、その後に参列している司祭団による按手に続くので、司教さんが按手を忘れることはありませんが、助祭叙階は、司教だけによる按手なので、そのまま気がつかれない可能性があります。そして見事に忘れられました。

誰も気がつかなければそのままでした。でも独りだけ、そのことに気がついた司祭がいて、ミサ後に指摘したため、もちろん叙階は無効です。そのため受階者はその週明けに司教館へ出向いて、司教さんから叙階の儀をもう一度やり直してもらったということです。

叙階式は、按手が肝心です。

 

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2021年4月29日 (木)

東京大司教区司祭叙階式@東京カテドラル

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東京大司教区の司祭叙階式が、本日4月29日午後二時から、東京カテドラル聖マリア大聖堂で行われ、二人の教区司祭が誕生しました。

ヨハネ・マリア・ミカエル 古市匡史(ふるいち ただし)神父様、フランシスコ・アシジ 小田武直(おだ たけなお)神父様、司祭叙階おめでとうございます。

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先般三度目となる緊急事態宣言が出されたこともあり、当初予定されていたような、たくさんの方に参加して頂く叙階式を行うことは不可能となりました。感染対策を徹底し、参加者を限定して、可能な限り(と言っても限度がありますが)式も簡素化して行いました。

本来であれば、新しい仲間が誕生するのですから、東京で働く司祭には教区と修道会を問わず、できる限り全員に参加して頂き、新司祭を司祭団に迎えて頂きたいのですが、そういうわけにもいきません。本来であれば200名を優に超える司祭があつまるところ、今日は、養成担当者や司牧実習先教会、出身教会などに限定して、20名ほどの司祭に全体を代表して頂きました。また一般の参加者も、出身教会や司牧実習先の代表の信徒の方に限定し、二人の新司祭のご家族など、700名は十分に入る大聖堂に、これもまた20名ほど。多くの方に、インターネットを通じて参加して頂くことになってしまいました。

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通常、司祭叙階式は、教会にとって大きな喜びですので、盛大なお祝いになりますが、この歴史に残る困難な状況の中でミサ後の祝賀会もなく、二人の新司祭には簡素な式で我慢をして頂くことになりましたが、歴史と記憶にしっかりと刻まれる叙階式であったと思います。様々な場からお祈りくださった皆様に感謝します。これからも、司祭のため、召命のために、さらなるお祈りをお願いいたします。

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二人の新司祭には、早速働いて頂くことになります。叙階式ミサの最後に発表しましたが、古市神父様を八王子教会の助任司祭、小田神父様を町田教会の助任司祭に任命いたしました。よろしくお願いいたします。

あらためて、おめでとうございます。

付記:日曜日午後のリハーサルでは、確か簡素化するために、叙唱や聖変化などの奉献文は歌わないことにしていたはずでしたが、わたしがボッとしていたためか叙唱前句を歌ってしまったので、そのまま歌いました。でも目の前には、音程の記号がついてない叙唱のプリントしかなく、今日の叙唱のメロディーは即興です。メロディーを失って、ふらついて気が遠くなりかけている様を、ビデオでご覧ください。

 

 

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2021年4月24日 (土)

週刊大司教第二十三回:復活節第四主日

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三度目となりますが、政府から緊急事態宣言が出されることになりました。期間は4月25日から5月11日までとされ、東京教区では東京都がその対象となっています。千葉県は、先に発令されているまん延防止等重点措置が、5月11日まで続くものと思われます。

さまざまな対策が行政側から発表されていますが、東京大司教区としては、これまで行ってきた感染対策を徹底して、互いのいのちをしっかりと守る行動を続けたいと思います。祈りの時を共有し、御聖体の秘跡にあずかる機会を失わないように、基本的にはミサの公開を継続しますが、小教区の状況によっては、主任司祭の判断で非公開とされる可能性もあります。教区からの公示は、こちらのリンク先をご覧ください

また、4月29日に予定されている、小田助祭と古市助祭の司祭叙階式は予定通り執り行いますが、感染対策のため、参加者の限定と式の簡素化をさせていただきます。詳細はこちらのリンク先をお読みください。困難な時期に叙階される二人の新司祭のために、お祈りくださいますと幸いです。

困難な状況が継続していますが、互いに集まりともに祈り合えないときであるからこそ、それぞれの場でのお祈りを深めてください。特に、この困難な状況から一日も早く抜け出すことが出来るように、闇に光がさすように、いのちが守られるように、医療関係者の健康が守られるように、病床にある方々の回復のために、祈りをささげましょう。これまでも、お祈りくださっていることに感謝するとともに、感染対策をあらためて引き締めるのと同様、祈りを続け深めることも、心を引き締めて継続いたしましょう。

教皇様は昨年も5月に、ロザリオの祈りをとおして、パンデミックという試練を乗り越えることが出来るように、聖母の取り次ぎを祈るように呼びかけられました。そのときの教皇の呼びかけの言葉です。

「親愛なる兄弟姉妹の皆さん、わたしたちの母マリアの心でキリストのみ顔をともに観想することは、霊的な家族としてのわたしたちの結びつきをさらに強め、この試練のときを乗り越える助けとなるでしょう。わたしは皆さんのため、とくにもっとも苦しんでいる方々のために祈ります。皆さんもわたしのために祈ってください」

今年は、教皇様の呼びかけに応え、新福音化推進評議会が、5月の間、世界中の30の聖母巡礼所と共に、「ロザリオ・マラソン」を提案しています。間もなく始まる5月は聖母月です。わたしたちも教皇様の呼びかけに応えて、この5月に、パンデミックの収束を願って、ロザリオの祈りをささげましょう。この提案のテーマは、使徒言行録12章5節の、牢に捕らわれたペトロのために教会共同体が祈ったという記述からインスピレーションを受けて、「教会では熱心な祈りが神にささげられていた」とされています。

東京教区でも、通常土曜日夕方に配信している「週刊大司教」に加えて、わたしと一緒にロザリオを唱えていただけるようなビデオを、五月中定期的にyoutubeで配信する予定で準備しています。一緒に祈りをささげてくださいますと幸いです。

祈りには力があるとわたしたちは信じています。ヤコブの手紙5章16節に「だから、主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします」と記されているとおりです

なお一番上の写真は、4月28日までの予定で、カテドラルのケルンホールで開催されている、『ミャンマーの平和願う写真展」アウンサンスーチーと家族の写真を中心に』を昨日訪れたときのものです。4月28日まで、「ビルマ応援の会」が主催して、11時から4時まで行われております。

以下、復活節第四主日の週刊大司教メッセージ原稿です。なおメッセージでも触れているように、この主日は、世界召命祈願日でもあり、司祭・修道者の召命のために、特にお祈りと献金をお願いする日でもあります。

復活節第四主日B(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第23回
2021年4月25日

「わたしは良い羊飼いである」とイエスはヨハネ福音で宣言されます。「良い羊飼い」がいるのであれば、「悪い羊飼い」もいるのでしょうが、それをイエスは「自分の羊を持たない雇い人」と述べ、羊のことを自らの一部として心にかけることのない者だと指摘します。すなわち神は、ご自分が賜物としていのちを与えられたわたしたちを、ご自分の羊、ご自分の一部として心にかけ、その羊のためならば命をかけるとまで宣言されます。その上で、イエスは、ご自分の羊となっていない羊の存在をも心にかけ、「ひとりの羊飼いに導かれ、一つの群れになる」ことが最終的な目的であることを明示します。

使徒言行録は、ペトロとヨハネが共に、足の不自由な人をいやしたことで捕らえられ、議員、長老、律法学者たちから、「お前たちは何の権威によって、誰の名によってああいうことをしたのか」と尋問を受けた時の、ペトロの答えを記しています。自らが権威をもって人々を教え導いていた議員、長老、律法学者にしてみれば、自分たちこそが民の指導者、すなわち羊飼いであるとの自負があったことでしょう。それを打ち砕くように、どこの誰とも分からないペトロたちが人々からの賞賛を浴びていたのですから、困惑や妬みから、二人をゆるすことが出来なかったのかもしれません。

それに対してペトロは、イエスこそが救いをもたらす真の羊飼いであることを、高らかに宣言します。しかもその羊飼いは、すべての人の救いのために、すでに自らの命を捨ててその愛をあかししているのです。人々から見捨てられた主は、今や復活されて、動くことのない隅の親石として世界を支配しているのだと、明確に宣言します。

イエスご自身が明示されたように、「ひとりの羊飼いに導かれ、一つの群れになる」ことが最終的な目的であるならば、ペトロがそうしたようにわたしたちも、真の羊飼いの存在を高らかに告げしらせなければなりません。使徒ヨハネも手紙に、「世がわたしたちを知らないのは、御父を知らなかったからです」と記していますが、そうであればこそわたしたちは、御父の存在を告げしらせなくてはなりません。

教会は復活節第四主日を、世界召命祈願日と定めており、司祭や修道者への召命のために特に祈りを捧げる日となっています。例年であれば、教区の一粒会が主催して、この日の午後に東京のカテドラルでは、神学生や志願者を招いて召命祈願ミサが捧げられてきました。残念ながら、昨年に続いて今年も、このミサは中止となりましたが、あらためてみなさまには、司祭・修道者への召命のために、またその道を歩んでいる多くの方のために、お祈りくださるようにお願いいたします。

もちろん召命を語ることは、ひとり司祭・修道者の召命を語ることにとどまるのではなく、すべてのキリスト者に対する召命を語ることでもあります。司祭・修道者の召命があるように、信徒の召命もあることは、幾たびも繰り返されてきたところです。わたしたち皆が、ペトロに倣って、真の羊飼いの存在を高らかに告げしらせる、言葉と行いによるあかしの業に取り組まなくてはなりません。

同時に教会共同体には、真の牧者に倣ってそれぞれの群れを導く牧者も必要です。生活のすべてを賭けて福音をあかしする修道者も必要です。世界召命祈願日にあたり、信徒一人ひとりが固有の召命に目覚め、また司祭修道者の召命に目覚める人がひとりでも多くあるように祈りましょう。

参考までに、教皇様の世界召命祈願日のメッセージは、こちらのリンクからお読みいただけます。

 

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2021年4月20日 (火)

故ペトロ岡田武夫大司教追悼ミサ@東京カテドラル

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昨年12月18日に帰天された東京大司教区の名誉大司教ペトロ岡田武夫大司教の追悼ミサが、4月19日月曜日の午後1時から、東京カテドラル聖マリア大聖堂で捧げられました。

帰天の直後の葬儀ミサは、感染症の状況もあり、ごく一部の関係者のみで捧げたこともあり、多くの方にお別れの祈りをささげていただくために、本来は1月19日に追悼ミサを予定しておりました。残念ながら、緊急事態宣言の再発出などもあったため、延期となっていたものです。

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また昨日のミサも、現在の感染状況にかんがみ、また他の地方で、キリスト教関係の教会からクラスターが出たという報道もあったっことを念頭に、ミサの参加は、一部関係者に限定させていただきました。

同時にできる限り多くの方にお祈りいただくために、ミサ終了後から午後4時まで、大聖堂でご自由に献花をしていただけるようにも致しました。献花の間、わたしも大聖堂におりましたが、多くの方に、密にならずに、献花とお祈りのために訪れていただきました。感謝いたします。

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こういった事態ですので、司教様方をお招きするのは控えましたが、説教は、補佐司教であった幸田司教様が、岡田大司教様との結びつきについて体験を交えながらお話しいただきました。なお、幸田司教様の説教メモは、東京教区のホームページにも掲載してあります。ご一読ください。

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またミサには、教皇庁臨時代理大使であるモンセニョール・トゥミルにも共同司式していただきました。

岡田大司教様の納骨は、府中墓地にて5月8日に行う予定です。府中墓地の一番手前の、教区司祭の墓所に納骨されます。当日は、岸神父様の納骨も行います。府中墓地を訪問の際は、どうぞ立ち寄ってお祈りください。

皆様のお祈りに、感謝します。

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2021年4月17日 (土)

週刊大司教第二十二回:復活節第三主日

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復活節も第三主日となりました。(写真は、先週、4月11日に行われた、お告げのフランシスコ姉妹会での、シスター堀内桐子の終生誓願式の様子です。シスター堀内、おめでとうございます)

東京教区内でも、東京都の一部の地域はこの月曜日からすでにまん延防止等重点措置の対象となっていますが、今度は千葉県の一部も、4月20日から5月11日まで、同措置の対象となることが発表されています。対象となる地域は、船橋市と市川市、松戸市、柏市、浦安市と報道されています。

先般東京が対象となったときの公示にも記しましたが、新たに対象となった地域の教会にあっては、感染対策を今一度徹底してくださるようにお願いします。現時点での東京教区の感染対策については、このリンクの東京教区ホームページをご覧ください。

昨年12月18日に帰天されたた東京教区名誉大司教ペトロ岡田武夫大司教の追悼ミサは、1月に予定されていましたが、感染対策のため延期となっていました。このたび、4月19日の月曜日に、追悼ミサを、東京カテドラル聖マリア大聖堂で執り行うことといたしました。残念ながら、感染対策のため、皆さんに自由に参列していただけません。申し訳ありませんが、ミサへの参加は、小教区などの代表者の方に限定とさせていただきます。

しかしながら、ミサ後、午後2時半頃から4時までの間は、どなたでも自由に大聖堂にお入りいただき、献花や追悼のお祈りをしていただくことができます。大聖堂内の「密」の状況によっては、入場制限を行うことになるかも知れませんが、この時間に、岡田大司教様の永遠の安息のためのお祈りをささげていただけますと幸いです。

なお、5月8日には、府中墓地に納骨いたします。5月8日以降、府中墓地を訪れる際には、教区司祭の墓所でも、お祈りいただければと思います。

以下、本日土曜日午後6時公開の、週刊大司教のメッセージ原稿です。

復活節第三主日B(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第22回
2021年4月18日

ルカ福音は、エマオへの道で復活された主と歩みをともにし、食卓を囲み、パンを割いたときにイエスだと気がついた二人の弟子について触れています。

イエスが復活された主だと悟った二人の弟子は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合い、その心の高ぶりを分かち合うためにエルサレムへととって返します。

本日のルカ福音はその二人がエルサレムに戻った様から、話を始めています。二人は、復活された主との出会いという自らの体験と心の思いを分かち合う、復活の主の証し人、証人となりました。

そこに現れた主ご自身は、さまざまな手段を講じてご自分を示され、弟子たちの理解を促します。それによってイエスは、復活が単なるこの世のいのちへの復帰の奇跡ではなく、体の復活でありながらも、同時に超越したいのち、すなわち「死の状態から時空を超えた別のいのちに」移ったことを明示します。(カテキズム646)

弟子たちに復活のいのちを解き明かしたイエスは、今日の福音の終わりに、「あなた方はこれらのことの証人となる」と告げられます。

使徒言行録は、復活の出来事を体験したペトロが、力強くイエスについてあかしする姿を記しています。ペトロは変身したのでしょうか。もちろん復活の主との出会いが彼の心に勇気を与え、揺るぎない信仰を持って語る使徒に変えたのは間違いがないでしょう。しかし、全く異なる人に変身してしまった訳ではありません。ペトロは、復活の主との出会いの体験を通じて何を語るべきなのかを悟ったのです。それが、ペトロがここで強調する、「わたしたちは、このことの証人です」と言う言葉に込められています。

使徒ヨハネは手紙で、「神の言葉を守るなら、まことにその人の内には神の愛が実現しています」と記します。

すなわち、恐れていたペトロは、自分の心のうちを語る自分の証人でした。ですから恐れをあかししていたのです。しかし復活された主との出会いによって、神のことばを心に植え付けられ、心は燃え立たせられ、その言葉を守ることで、心のうちに神の愛が実現しました。そして使徒は、自らが何を語るべきなのかを悟ったのです。神が求める証人は自分の心のうちを語るのではなく、復活された主との出会いで与えられた神のことばを語るのです。復活された主との出会いによって燃え立たせられた心のうちに実現する、神の愛をあかしするのです。

2015年12月に、教皇フランシスコは、「いつくしみの特別聖年」を始めるにあたり、大勅書「イエス・キリスト、父のいつくしみのみ顔」にこう記していました。

「教会には、神のいつくしみを告げ知らせる使命があります。いつくしみは福音の脈打つ心臓であって、教会がすべての人の心と知性に届けなければならないものです。・・・したがって教会のあるところでは、御父のいつくしみを現さなければなりません」(12)

わたしたちは、何をあかしする証人なのでしょう。わたしたちの教会共同体は、何をあかしする証人となっているのでしょう。対立やいがみ合いや差別や排除ではなく、いつくしみをもってすべてを包み込み、互いに支え合う愛をあかしする証人でありたいと思います。

 

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2021年4月10日 (土)

週刊大司教第二十一回:復活節第二主日

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復活節第二主日は、ヨハネパウロ二世によって、神のいつくしみの主日と定められています。神のいつくしみの主日について、2016年の「司教の日記」に記事がありますので、是非ご一読ください。こちらのリンクから2016年4月3日の「司教の日記」の記事に飛びます。(上の写真は、暗闇に輝く、カテドラル鐘楼の十字架)

新型コロナウイルスによる感染は終息せず、あらためて検査で陽性になる方が増えているようです。東京教区の一部では、4月12日から一ヶ月間、蔓延防止等重点措置の対象となることが発表されています。教区内の対象地域は23区、八王子市、立川市、武蔵野市、府中市、調布市及び町田市とされ、期間は4月12日(月曜日)0時から5月11日(火曜日)24時までとなっています。

東京都によれば、都民に対しては以下の要請がなされています。(事業者には別途要請があります)

  • 都県境を越えた不要不急の外出・移動の自粛。特に、変異株により感染が拡大して
    いる大都市圏との往来の自粛(新型インフルエンザ等対策特別措置法第24条第9項)
  • 日中も含めた不要不急の外出・移動の自粛(法第24条第9項)
    医療機関への通院、食料・医薬品・生活必需品の買い出し、必要な職場への
    出勤、屋外での運動や散歩など、生活や健康の維持のために必要な場合を除き、
    原則として外出しないこと等を要請
  • 混雑している場所や時間を避けて行動すること(法第24条第9項)
  • 措置区域において、営業時間の変更を要請した時間以降、飲食店にみだりに出入り
    しないこと(法第31条の6第2項)
  • 会食において会話をする際のマスク着用の徹底(法第24条第9項)

東京大司教区としては、また別途公示しますが、これまでの対応を変更はしませんが、対策がすでに長期におよび、慣れや、疲れも見られることから、今一度、感染対策を徹底するように、それぞれの小教区にお願いします。また信徒の皆さん、司祭修道者の皆さんにあっては、今一度気を引き締めて、ともにこの困難な時期を乗り越えていくことが出来るように、互いに支え合い励まし合いながら、務めて参りましょう。

以下、本日夕方6時公開の週刊大司教第21回のメッセージ原稿です。

復活節第二主日B(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第21回
2021年4月11日

使徒言行録は、互いに助け合い支え合う初代教会共同体の姿を描き、心と思いを一つにした共同体の有り様そのものが、復活の主をあかしする福音宣教となっていたと指摘します。

使徒ヨハネは、「神を愛するとは、神の掟を守ること」と記し、「わたしたちが神を愛し、その掟を守るときはいつも、神の子どもたちを愛します」と加えることで、神の望まれる生き方をする者は、互いに愛し合い、大切にしあうのだと指摘します。

ヨハネ福音は、有名な弟子トマスの不信仰の話です。結局トマスは信じたのですから、この話を「トマスの不信仰」と言われてしまうのは、トマス自身には不本意でしょうが、実際にはこの話は、愛する弟子をなんとしてでも自らの愛のうちに包み込もうとして手を尽くされる、イエスご自身のいつくしみと愛の深さを見事に表現しています。

イエスは、恐れにとらわれ、扉を閉ざしている弟子たちのもとに現れ、自らがそうされたように、勇気を持って外に出て福音をあかしせよと、弟子を派遣します。そのために弟子たちを、自らのいつくしみと愛で包み込もうとされます。勇気と希望を与えるこのイエスの言葉は、困難を抱え、不安の内にあるわたしたちにも、今日同じように告げられる言葉です。わたしたちは、扉を閉ざして逃げるのではなく、心と思いを一つにして、互いに支え合いながら、勇気を持って福音をあかしするようにと派遣されています。それは罪の枷に縛られ、暗闇の内にとらわれている世界に、解放と希望と光を伝えるためであります。イエスはわたしたちをいつくしみと愛で包み、護ってくださいます。

復活節第二主日は、教皇ヨハネパウロ二世によって、「神のいつくしみの主日」と定められました。「人類は、信頼を持ってわたしのいつくしみへ向かわない限り、平和を得ないであろう」という聖ファウスティナが受けた主イエスのいつくしみのメッセージに基づいて、神のいつくしみと愛に身をゆだね、受けたいつくしみと愛を分かちあう必要を黙想する日であります。

1980年に発表された回勅「いつくしみ深い神」で、教皇はこう指摘されています。

「愛が自らを表す様態とか領域とが、聖書の言葉では「あわれみ・いつくしみ」と呼ばれています」(いつくしみ深い神3)

その上で、「この愛を信じるとは、いつくしみを信じることです。いつくしみは愛になくてはならない広がりの中にあって、いわば愛の別名です」(いつくしみ深い神7)と言われます。

すなわち、「悪と利己主義と恐れの力に負けて」いる人類に、「ゆるし、和解させ、また希望するために」心に力を与えてくれるのは、神の愛であり、その愛が目に見える形で具体化された言葉と行いが、神のいつくしみであると指摘されています。

同時に教皇は、「あわれみ深い人々は幸いである、その人たちはあわれみを受ける」という山上の垂訓の言葉を引用しながら、「人間は神のいつくしみを受け取り経験するだけでなく、他の人に向かって、『いつくしみをもつ』ように命じられている」と、神のいつくしみは一方通行ではなくて、相互に作用するものだとも語ります。(いつくしみ深い神14)

信仰における同じ確信を持って、教皇フランシスコは、「福音の喜び」にこう記していました。

「教会は無償のあわれみの場でなければなりません。」(114)

誰ひとり排除されてもいい人はいない。誰ひとり忘れ去られてもいい人はいない。神の愛を身に受けてそれに包まれ、勇気を持って希望をあかしし、告げしらせてまいりましょう。

 

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2021年4月 4日 (日)

復活の主日@東京カテドラル2021

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御復活 おめでとうございます。

東京ではすでに桜も散り、季節は足早に進んでいますが、多少すっきりとしない天気の中、復活のお祝いを迎えることが出来ました。例年であれば、ミサ後に復活の祝賀会などが催される教会も少なくないと思いますが、残念ながらそれも叶いません。ご自宅でお祈りされた皆さんにも、いのちを守るための積極的な行動に、復活されたいのちの主の豊かな祝福が注がれますように。

まず、東京教区ホームページに掲載されている、復活のメッセージビデオの原稿です。

困難な状況が続いていますが、今年はなんとか聖週間の典礼と復活の典礼を行うことが出来ました。まだまだお祝いなどのために集まることは出来ませんが、祈りの時を共にしながら、主の復活を祝うことが出来ることに感謝したいと思います。

この復活の季節に、洗礼を受け、教会共同体の一員となられる皆さんに、心からお喜び申し上げます。

現代世界のすべての人々と、喜びと希望、苦悩と不安と共にしている教会は、困難の内にある世界の人々との連帯しながら、主キリストの復活が示している新しいいのちへの希望を高く掲げ、不安と恐れの暗闇を振り払う存在として、現代世界に命を吹き込む存在でありたいと思います。闇に光を輝かせる存在でありたいと思います。

わたしたちはキリストの体の一部です。洗礼を受け、新しいいのちへと招かれ、互いに信仰のきずなに結ばれ、キリストの体を作りあげています。信仰に日々生きているわたしたちが、教会そのものです。

困難な事態は一年以上続いています。今後、いつになったら安心して集まることが出来るのか、まだ分かりません。この状況の中で、忘れ去られて孤立する人、経済的に困窮する人、病床にある人、理解の相違から排除されたり、対立の中に巻き込まれる人など、様々な形で危険にさらされるいのちへの配慮が、大切です。

死に打ち勝って復活された主イエスは、新しいいのちの希望です。わたしたち自身も、社会のただ中で希望の光となりましょう。

あらためて、御復活おめでとうございます。

 

そして、以下は本日の東京カテドラル聖マリア大聖堂での10時のミサの、説教原稿です。

復活の主日
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2021年4月4日

主の復活おめでとうございます。

昨晩の復活徹夜祭で洗礼を受けられた方々には、心からお祝い申し上げます。

昨年初め頃から今に至るまで、わたしたちは一年以上にわたって、尋常ではない状況の中で生活をしています。今はワクチンの接種も始まっているなど、暗闇の中にも多少の光が見えてきました。それでも社会全体が受けている影響には大きいものがあり、世界の状況にも目を配れば、まだまだこの共通の家に住むわたしたちは、完全な光を見いだしてはいません。いのちの危機は続いています。

教会もこの一年間、厳しい状況の中に置かれています。感染症対策のために、また互いのいのちを守るための責任ある行動として、教会活動の自粛や、一時的な公開ミサの中止など、いわば試練の時が続いています。これを「試練」と感じる一番の理由は、喜びの欠如であります。

もちろん個人的には、日曜のミサに与れないことや、予定されていたイベントが軒並みに中止になるなど、霊的に枯渇し、また楽しみを奪われたという意味で、喜びが欠如しています。しかしわたしたちから喜びを奪う一番の要因は、共同体が集うことが出来ないことにあります。

教皇フランシスコは、使徒的勧告「福音の喜び」を、こう書き始めています。

「福音の喜びは、イエスにであう人々の心と生活全体を満たします」(1)

自分の殻に閉じこもって他者への配慮を忘れる生き方ではなく、出向いていって交わりを深め、福音に生きる喜びをともにすることの重要性を説く教皇は、次のように指摘します。

「福音を宣教する共同体はうれしさに満ちていて、いつも『祝う』ことを知っています。小さな勝利を、福音宣教における一歩一歩の前進を喜び祝います。」(24)

その上で教皇は、「隣人の聖なる偉大さを眺め、あらゆる人間の中に神を見つけ、神の愛により頼むことで、共に生きることの煩わしさに耐え、よいかたである御父のように他者の幸福を望んで神の愛に心を開くことの出来る兄弟愛」こそが、真のいやしを提供すると述べ、「共同体を奪われないようにしましょう」と呼びかけられています。(92)

感染症対策のため、教会が選択した道は、残念ながら実際に集まって共に祈り、共に学び、共に活動する機会を制限することになってしまいました。具体的に肌で感じることの出来る共同体の存在が制限されたことが、信仰における喜びをも制限してしまうことを、いま肌で感じています。

その事実が逆に、意識するしないにかかわらず、キリスト者が共同体として集うこと自体が、どれほどの福音の喜びを自然に生み出していたのか、わたしたちに気づかせます。

わたしたちには、福音の喜びを生み出す共同体が必要です。共に祈る共同体が必要です。兄弟愛を見いだし、兄弟愛を実践する共同体が必要です。福音を共にあかしし、ともに出向いていく共同体が必要です。

もちろんわたしたちは、教会共同体とは、具体的な人の集まりであり現実の組織体であると同時に、霊的な共同体であることも知っています。

カトリック教会のカテキズムには、「わたしたちは生者と死者を問わず万人と連帯関係にあり、その連帯関係は聖徒の交わりを土台としているのです」と記されています。地上の旅路を歩む民と天上の栄光にあずかる人たちとには連帯関係があり、共に教会を作り上げています。

それを第二バチカン公会議の教会憲章は、「目に見える集団と霊的共同体、地上の教会と天上の善に飾られた教会は、二つのものとして考えられるべきではなく、人間的要素と神的要素を併せ持つ複雑な一つの実在を形成している」と記しています。

わたしたちは、信仰における兄弟姉妹と、そして信仰の先達と共に、キリストの唯一の体において一致して、連帯関係のうちに教会共同体を作り上げています。ですから、どこにいても、独りで祈りをささげていても、独りで愛の業に励んでいたとしても、また司祭がひとりでミサを捧げていても、わたしたちはそれを霊的な絆にあって、共同体のわざとして行うのです。一つの体であるキリストに結ばれている限り、わたしたちは霊的に孤立することはありません。

とはいえ、現実社会での生活は、そう簡単に割り切れるものでもありません。

教皇フランシスコは、今年、ヨセフの年を祝うように招かれています。使徒的書簡「父の心で」に、次のように記されています。

「人生には、意味を理解できない出来事が数多く起こります。・・・ヨセフは、起きていることに場を空けるために自分の推論を脇に置き、自分の目にどれほど不可解に映っているとしてもそれを受け入れ、その責任を引き受け、自分の過去に対するわだかまりを解くのです。過去に対するわだかまりを解かなければ、わたしたちは次の一歩を踏み出すことすらできないでしょう。期待とその結果としての失望に、とらわれたままになるからです。ヨセフの霊的生活は、明らかにする道ではなく、受け入れる道を示しています。」

ヨハネ福音は、復活の出来事を目の当たりにしても、いったい何が起こったのかを理解できずにいたペトロの姿を記しています。ところが使徒言行録には、復活の主に出会ったペトロが、力強く語る姿が記されています。

イエスが十字架につけられた日に恐れをなして隠れ、イエスを三度知らないと裏切ってしまったあの夜の態度とは打って変わり、また復活の出来事を目の当たりにしても理解できなかった、ヨハネ福音に記された姿とは打って変わり、力強くイエスについて、そしてイエスの死と復活を通じてもたらされる救いについて語る姿を、使徒言行録は記しています。

それは知識を教えているような姿ではなく、心からあふれてくるものを、どうしても語らずにはいられないペトロの姿です。それほど多くの人に伝えたくて仕方のない話がある。自分には分かち合いたい宝のような話がある。そういうペトロの熱意が伝わってくるような姿です。復活された主と出会ったペトロは、喜びに満ちあふれており、あふれる喜びを分かち合わずにはいられません。復活の主と出会った共同体は、あふれんばかりの福音の喜びに満たされています。

ご存じのように、長年にわたって姉妹関係にあるミャンマーの教会を、東京教区はケルン教区と共に支援してきました。2月1日の軍事クーデター後、自由と民主主義の尊重を訴え抗議する人たちや、以前からあった少数民族との対立の中で難民となった人たちへの、暴力的な対応によって、多くのいのちが奪われています。いのちを奪う現実に喜びはありません。ミャンマーの教会の呼びかけに応え、連帯の内に平和を祈りたいと思います。暴力ではなくて対話の内に、人間の尊厳が守られる社会が確立されるように呼びかけたいと思います。いのちの危機を避けるように呼びかけたいと思います。

わたしたちは、共同体の霊的な繋がりの内に、福音の喜びを共に見いだしたいと思います。不可解な現実の中で、愛を実践するように招いておられる主は、わたしたちとの出会いを待っておられます。困難な中だからこそ、ペトロのように主との出会いの喜びを、福音の喜びを、共にあかしする共同体でありましょう。

 

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2021年4月 3日 (土)

復活徹夜祭@東京カテドラル2021

Ev21a

主の復活 おめでとうございます。

困難な時期にあって、それぞれの地でどのような復活祭を迎えておられるでしょう。昨年は、典礼を公開で行うことが出来ませんでしたが、今年は、さまざまな制約を設けてではあるものの、共に祝うことが出来ました。

とはいえ、事態はまだ収束をしていませんし、今後も予測はつきませんが、多くの方が実際に教会へ足を運ぶことが出来ずに、ご自宅などでお祈りをされたかと思います。復活の主において、わたしたちは霊的な共同体に繋がれていることを心に思い起こされますように。また、いまの、「教会へ行きたい」という強い思いを、大切に心に刻んでおいてください。状況が安心できるようになったら、一緒に祈りをささげましょう。

「この夜、キリストは死の枷を打ち砕き、勝利の王として死の国から立ち上がられた」

祈り求めるお一人お一人のもとへ、復活された主の希望の光がしっかりと届きますように。

暗闇に彷徨うわたしたちに、いのちの希望の光が輝きますように。

疑いと不安に苛まれるわたしたちに、いつくしみが豊かに注がれますように。

荒れ野で渇くわたしたちに、慰めで包み込む愛が与えられますように。

復活の主から与えられる愛と希望に包まれたわたしたちが、その愛と希望を、多くの人に分かち合うことが出来ますように。

いのちを賭して、他者のいのちを守り抜こうと奮闘する方々の上に、護りと報いがありますように。

病床にある人に、癒やしの手が差し伸べられますように。

亡くなられた方々に、永遠の安息がありますように。

「わたしの希望、キリストは復活し、ガリレアに行き、待っておられる」

関口教会の今夜の復活徹夜祭では、15名の方が洗礼と堅信を受けられ、お二人の方が転会されて共同体の一員となられました。皆さんおめでとうございます。

Ev21b

以下、今夜の説教の原稿です。

復活徹夜祭
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2021年4月3日

『あなた方は十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない』

暴力的に奪われた主の死を嘆き悲しむマグダラのマリアたちに天使が告げたのは、驚きの言葉であったことだと思います。

絶望の淵にあったマグダラのマリアたちに、新たな希望の光として差し込んだ天使の言葉は、同時に新たな挑戦を突きつける言葉でもありました。

福音に記されている三人の女性の会話は、「あの石を誰が取りのけてくれるでしょうか」という、イエスの死とは全く関係のない心配事でした。すなわち、亡くなられたイエスとの出来事やその存在はすでに過去の思い出となり、彼女たちの関心は、今現在の心配事である石を取り除くことでありました。もちろん主を失った悲しみに心は満たされていたことでしょうが、イエスご自身の存在は、思い出となり、彼女たちはすでに新しい時を刻み始めていた様を、この会話が描写します。

イエスの復活を告げる天使の言葉は、「あなた方は十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが」と述べています。天使は、彼女たちにとってのイエスがすでに過去の存在となっていることを、「十字架につけられたナザレのイエス」と形容することで示唆します。しかし、復活されたイエスは、彼女たちが過去の思い出として懐かしんでいるナザレ出身の十字架につけられて殺されたあのイエスとは全く異なっているのだ。新しい生命に生きている存在であるのだということを、天使は「ここにはいない」の一言で示唆します。その上で、これまでの過去の生き方との連続を断ち切るように促し、全く新たにされた生き方へと一歩を踏み出せと言わんばかりに、エルサレムを離れガリラヤへ行くようにと、旅立ちを促します。

イエスに従う者には、過去と訣別し、新たな挑戦へと勇気を持って一歩踏み出すことが求められています。

過去の思いでは、時の流れのある時点に、いつまでも変わることなく留まり続けます。変化することがないので、安心して留まり続けることが出来ます。しかし復活の出来事は、その静止画となった過去の思い出を、動き続け前進し続ける、現在進行形へと変えていきます。信仰は思い出でなく、現実です。

そのことを、出エジプト記の物語は見事に描写しています。救いの歴史にあずかる神の民は、エジプトでの安定した生活を捨て、常に挑戦し続ける旅に駆り立てられ、40年にわたって荒れ野を彷徨います。安定した過去へ戻ろうと神に逆らう民に、神は時として罰を与えながら、それでも常に前進し、新しい挑戦へと民を導きます。

わたしたちの信仰生活は、常に前進を続ける新しい挑戦に満ちあふれた旅路であります。

洗礼を受け、救いの恵みのうちに生きる私たちキリスト者は、神の定められた秩序を確立するために、常に新たな生き方を選択し、旅を続けるよう求められています。

創世記には、「海の魚、空の鳥、地を這う生き物をすべて支配せよ」と記されていました。教皇フランシスコは回勅「ラウダート・シ」に、次のように記しています。

「わたしたちが神にかたどって創造された大地への支配権を与えられたことが他の被造物への専横な抑圧的支配を正当化するとの見解は、断固退けられなければなりません。」(67)

教皇は、天地創造の物語が、「神とのかかわり、隣人とのかかわり、大地とのかかわりによって、人間の生が成り立っていることを示唆して」いると指摘されます。その上で、「聖書によれば、いのちにかかわるこれらの三つのかかわりは、外面的にもわたしたちの内側でも、引き裂かれてしまいました。この断裂が罪」なのだと指摘します。(66)

教皇はこの回勅の冒頭で、「わたしたち皆が共に暮らす家」を護ることの責務を指摘しつつ、ヨハネ二十三世教皇の回勅「地上の平和」に触れています。

「地上の平和」の冒頭には、「すべての時代にわたり人々が絶え間なく切望してきた地上の平和は、神の定めた秩序が全面的に尊重されなければ、達成されることも保障されることもありません(「地上の平和」1)」と記されています。

すなわち、平和とは、神が与えられたこの世界の秩序を回復することであり、それは「神とのかかわり、隣人とのかかわり、大地とのかかわり」を回復し、「皆が共に暮らす家」を神が望まれるふさわしい姿に回復させることに含まれています。

信仰を生きるためには、心の内側を見つめて、神との個人的な出会いの体験を深めていくことも大切ですが、同時に、社会の現実の中でイエスの思いを実現し、神が望まれる秩序を回復するために、具体的に行動することも不可欠です。神から賜物として与えられたいのちを生きることは、「神とのかかわり、隣人とのかかわり、大地とのかかわり」を、ふさわしいあり方に回復させる努力を続けることでもあります。

イスラエルの民が紅海の水の中を通って、奴隷の状態から解放され、新しい人生を歩み出したように、私たちも洗礼の水によって罪の奴隷から解放され、キリスト者としての新しい人生を歩み始めます。つまり洗礼は、私たちの信仰生活にとって、完成ではなく、旅路への出発点に過ぎません。

福音に生きるということは、簡単に手にはいる生き方ではありません。私たちは、強い意志を持ち、たゆまぬ努力を続けることを通じて、信仰を守る挑戦の旅を続けるように呼ばれています。

もちろん現実の世界に生きている私たちにとって、信仰を強固に保って行くには、いささか困難を憶える様々な障害が立ちはだかっていることでしょう。福音をのべつたえることは言うに及ばず、キリスト者であると言うことでさえ、他の人に言うことも出来ない、隠しておきたい。そんな誘惑の中にあって、洗礼を受けたことだけで充分だ、もうそれ以上は仕方がない、とあきらめてしまうこともあるやもしれません。まさしく、墓に向かう途中に、「誰があの石を取りのけてくれるか」と、目前の困難について話し合っていた三人の女性と同じです。

でも彼女たちは、目を上げることによって、そこに解決がすでに用意されていることを知りました。私たちも信仰に生きるにあたって、どんな困難にあっても、神に向かって目を上げることを忘れないようにいたしましょう。そして、よりふさわしく福音に生きるために、妥協に充ちた簡単な方法ではなくて、困難な道を選び取り、強い意志とたゆまぬ努力の内に、常に挑戦し続ける旅路を歩んでまいりましょう。

 

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2021年4月 2日 (金)

聖金曜日主の受難@東京カテドラル2021

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本日は聖金曜日。主イエスの受難と十字架上での死を思い、沈黙の内に、神のわたしたちへの愛といつくしみに身を任せ祈る日です。本日、聖金曜日の典礼における、説教原稿です。

聖金曜日・主の受難
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2021年4月2日

主イエスが耐え忍ばれたのは、愛する弟子たちによって裏切られ、独り見捨てられたことによる心の痛みと苦しみ、そして十字架上での死に至る受難という心と体の痛みと苦しみでありました。主イエスのその苦しみを、あらためてわたしたち自身の心に刻む今日の典礼は、主の苦しみがわたしたち一人ひとりと無関係なのではなく、まさしくわたしたち一人ひとりの罪を背負ったがための苦しみであったことを思い起こすようにと、招いています。

イザヤは、「彼が担ったのはわたしたちの病。彼が負ったのはわたしたちの痛みであった・・・彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、私たちの咎のためであった」と記していました。

人類の救い主である主イエスが、わたしたちの犯した罪と苦しみを背負われて、贖いのいけにえとして、十字架の上で命をささげた事実を指摘する、預言者の言葉です。

わたしたちはミサにあずかるとき、最初に罪のゆるしを願います。それぞれの個別の罪を告白するわけではありませんが、しかしこの時わたしたちは、「兄弟の皆さんに告白します。わたしは、思い、ことば、行い、怠りによってたびたび罪を犯しました」と言葉にします。

「思い、ことば、行い、怠り」

わたしたちは心に抱えているさまざまな「思い」に基づいて生きています。自分の生きる姿勢を定めている心の思い。表に出さず心に秘めている思いで、わたしたちはしばしば神に背を向けてしまいます。

わたしたちが日々発する「言葉」は、多くの場合、他者との関係の中で口に出る言葉です。わたしたちは、心の思いに促されて発した言葉で、他者を傷つけ、神に背を向けてしまいます。

わたしたちの日々の「行い」も、また、他者との関係の中での行動であり、言葉と同じように、善に資することもありながら、やはり他者を傷つけ、神に背を向けることもしばしばです。

そして、わたしたちはなすべきことを意図的にまたは無意識的に「怠り」に任せることで、他者を傷つけ、神に背を向けてしまいます。

ミサを始めるときに、わたしたちは共同体に対して自らが抱えてきた罪の数々をこの言葉によって告げるのですが、そこで告げられたあまたの罪はどうなるのでしょう。

それはまさしく、聖体を拝領する直前に、「神の子羊、世の罪を除きたもう主よ」と唱えることで、そのわたしたちの犯したあまたの罪を、これから拝領しようとする聖体に現存される主ご自身が、いけにえの子羊として自ら背負い、取り除いてくださったことを再確認します。わたしたちがいただく聖体は、わたしたちの罪を背負われた神の子羊その方であります。

主イエスが耐え忍ばれた苦しみは、わたしたち一人ひとりと無関係ではなく、わたしたちの罪の結果であることを、あらためて心にとめましょう。わたしたちに対するあふれんばかりの愛の結果として、ご自分を献げてくださる主の愛に、あらためて感謝したいと思います。

この一年、わたしたちは新型コロナ感染症の脅威の前で、立ちすくんでいます。いのちの危機から逃れる術をまだ知らず、神に助けを求めています。苦しみに直面しているわたしたちは、主の十字架での苦しみから何を学ぶことができるのでしょうか。

教皇フランシスコは、2016年年3月19日に発表された使徒的勧告「愛のよろこび」発表から今年で5年となることを記念し、この使徒的勧告「愛のよろこび」についての考察を、特に「家庭」に焦点を当てて考え深める特別年の開催を布告されています。

教皇様は、感染症の拡大という現在の困難な時にこそ、キリスト教的家庭の姿を真の「善き知らせ」として示すべきだと強調されています。また教皇様は、現実社会にはさまざまな形態の家庭があり、困難を抱える家庭や分裂した家庭が多く存在することをよく知った上で、それでも家庭はわたしたちの最も根源的な人間関係を守る存在であり続けるのだと強調されています。

この勧告には、次のように記されています。

「キリストは、とくに、愛のおきてと他者のための自己犠牲をご自分の弟子たちの明白なしるしとし、父親や母親が自らの生活の中でつねづね示している原則を用いて、それを示しました。それは、『友のために自分のいのちを捨てること、これ以上に大きな愛はない』ということです。愛はまた、あわれみとゆるしとなって実を結びます。(27)」

家庭における互いの関係の中に、イエスのあわれみとゆるし、そして自己犠牲の生き方が明確に示されており、その姿を通じて、福音を告げしらせることが出来るのだという指摘です。

Gf2102

十字架上で苦しみの中にある主イエスの傍らには、母マリアと愛する弟子が立っていたと、受難の朗読に記されていました。

苦しみの中でいのちの危機に直面していても、主イエスは、母への配慮を忘れません。神の愛そのものである主の心は、母に対するいつくしみと思いやりにあふれています。

「婦人よ、ご覧なさい。あなたの子です」と母マリアに語りかけ、愛する弟子ヨハネが代表する教会共同体を、聖母にゆだねられました。またそのヨハネに「見なさい。あなたの母です」と語りかけられて、聖母マリアを教会の母と定められました。

十字架上の苦しみの中でイエスがあかしされたのは、まさしく「愛のおきてと他者のための自己犠牲」が「ご自分の弟子たちの明白なしるし」である事実でありました。

十字架は、弟子であるわたしたちにどのような生き方をするべきなのかを、明確に示しています。わたしたちのすべての罪を背負われてあがなってくださった主イエスの愛に応えるために、わたしたちは「愛の掟と他者のための自己犠牲」をあかしする者とならなければなりません。その模範は、聖母マリアを母としていただく教会共同体という家庭の中で、わたしたちにすでに示されています。

困難な状況の中にいるから今だからこそ、愛といつくしみをわたしたち自身が身に帯びて、他者のための自己犠牲のあかし人となる道を模索しましょう。十字架上の苦しみにあってさえも、「愛のおきてと他者のための自己犠牲」をあかしされた主イエスに倣い、愛といつくしみに生きるものとなりましょう。

 

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2021年4月 1日 (木)

聖木曜日・主の晩餐@東京カテドラル2021

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聖なる三日間が始まりました。昨年は、ミサは非公開でしたが、今年は数点の感染対策の制約の下、行うことになりました。聖座(バチカン)の典礼秘跡省からも、感染症下での聖週間の典礼について、特別な定めを設けるガイドラインが出ていますが、東京教区の典礼委員会でも、同様にガイドラインを作成して、主任司祭の皆さんに配布してあります。この聖なる三日間も、通常とは異なる点が諸々あると思いますが、どうか事情をご理解くださり御寛恕ください。特に今夜のミサでは、例年行われる洗足式や、ミサ後の聖体礼拝などが行われないことになっています。

Hth2102

なおすでに教区ホームページなどでもお知らせしていますが、ケルン教区の呼びかけで、ケルン教区、レーゲンスブルグ教区、ニューヨーク教区、そして東京教区は、連帯して、聖木曜日にミャンマーの平和と安定のため、自由が守られいのちの尊厳が守られるように、共に祈ることにしています。聖香油ミサでも触れましたが、どうかミャンマーのためにお祈りください。これはチャールズ・ボ枢機卿を始め、ミャンマーの司教団からの要請に応えるものです。今日に間に合わない場合は、明日以降でも構いません。ミャンマーのためにお祈りください

Hth2101

以下、本日のミサの説教原稿です。

聖木曜日・主の晩餐
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2021年4月1日

教会共同体は、聖体の秘跡によって霊的に養われ、キリストの体にあって一致するように招かれています。わたしたちは聖体の秘跡によって、神のあふれんばかりの愛を、心と体で、具体的に感じさせられます。聖体において現存されている主イエスは、「わたしの記念としてこれを行え」という言葉を聖体の秘跡制定に伴わせることによって、残していく弟子たちに対する切々たる思いを実感として残し、聖体祭儀が繰り返される度ごとに同じように実感させようとなさいます。

出エジプト記は、「過ぎこし」を定められた神のことばを記していますが、その終わりにはこう記されています。

「この日は、あなたたちにとって記念すべき日となる。あなたたちは、この日を主の祭りとして祝い、代々にわたって守るべき不変の定めとして祝わねばならない」

パウロはコリントの教会への手紙において、最後の晩餐における聖体の秘跡制定にあたり、「わたしの記念としてこれを行え」というイエスが残された言葉を記し、さらににこう続けます。

「だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです」

そしてヨハネ福音は、最後の晩餐の出来事として、直接に聖体の秘跡制定を伝えるのではなく、その席上、イエスご自身が弟子の足を洗ったという出来事を記します。この出来事は、弟子たちにとって常識を超えた衝撃的な体験であったことでしょう。その終わりにこうあります。

「ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである」

これら聖書に記されている残された言葉に込められた、神の思いはなんでしょうか。それは神がわたしたちに対して行ったわざを、わたしたちがいつまでも記憶にとどめ、それを決して忘れてはならない。その行いに込められた神の思いを、心に刻み込むように。刻み込むことによって、それを忘れないだけではなく、自らも同じように実践し続けよ。そのように願う神の切々たる思いが、感じられる言葉であります。

神のその思いを表現するために、旧約でも新約でも、「記念」という言葉が使われます。この「記念」は、単に「記念日」のように、暦に残しておく過去のある出来事ではなく、具体的な生き方への指示、命令を現す言葉です。忘れずに生きよという指示です。そしてその忘れてはならない記憶は、知識としての記憶ではなく、心が揺り動かされたその衝撃を、心に刻み込んでおく記憶です。わたしたちには、子々孫々まで、その記憶を具体的に生き、伝える務めがあります。

Hth2103

教皇ヨハネパウロ二世は、回勅「教会にいのちを与える聖体」に、こう記しています。

「聖体は、信者の共同体に救いをもたらすキリストの現存であり、共同体の霊的な糧です。それゆえそれは教会が歴史の中を旅する上で携えることの出来る、もっとも貴重な宝だということが出来ます。(教会にいのちを与える聖体9)」

その上で教皇は、ヨハネ福音が弟子の足を洗うという愛の奉仕の業を記していることに触れて、「『主が来られるときまで』主の死を告げしらせながら、聖体にあずかる者は誰でも、自分の生活を変え、自分の生活をある意味で完全に『聖体に生かされた』ものにしていくよう導かれます。(20)」と指摘します。すなわち、「わたしの記念としてこれを行え」というイエスの言葉は、単に聖体の秘跡を繰り返すことだけを求めているのではなく、その結果として、日々の生活が「聖体に生かされた」ものとなること、すなわち徹底した愛の奉仕に具体的に生きることが求められているのだと指摘されます。

聖体を受けるわたしたちには、イエスご自身が生きたように、愛といつくしみをもって、隣人を愛しながら、互いに支え合って生きていくことが求められています。それは聖体をいただく者の、聖なる義務であります。

主イエスの言葉を心に刻み、代々受け継ぎながら、社会の現実の直中にあって、主が語り行われたこと、その祈り、そして愛に満ちた生き方を、あかししていく務めは、わたしたち教会共同体に与えられた使命であります。

教会はこの一年間、新型コロナ感染症の危機のなかにあって、さまざまな困難に直面してきました。そもそも集まることが難しい今、さらには集まったとしても距離を保ち接触を避け、共に歌うこともない状況で、信仰共同体を存続させる危機に直面しています。

自らの存在が危機に直面するとき、どうしてもわたしたちの心は内向きになって、守りに入ってしまいます。自分たちのことばかりを心配するとき、主イエスがその言葉と行いであかしした神のいつくしみを具体的に生きる行動は、背後に追いやられてしまう危険があります。

同時にわたしたちは、今回の危機的状況が、健康だけではなく、例えば経済や雇用などの問題も惹起し、それがいのちの危機をまねいている状況も、直接にまた間接に知らされています。助けを必要とするいのちは、この危機的状況の中で、残念ながら増加しています。

幸いなことに教会には、このような状況にあっても愛の奉仕に務めようとする活動が多く見られます。東京大司教区の災害対応チームでは、そういった活動を紹介しようと、三度にわたってオンラインセミナーを開催してきました。特に先週の日曜日には、小教区を中心に、食を確保するための活動を行っているグループの話を聞くことが出来ました。

賜物であるいのちを守るためには、当然のことですが、「衣・食・住」が充分に保障されていることが不可欠です。かつては、いわゆる途上国の、とりわけ貧困地域で生きる人たちが直面する問題だと思い込み、日本のような先進国では食料は充分に行き渡り、「衣・食・住」の課題で、いのちが危機に陥ることは、それほど多くはないと思われるきらいがありました。しかし、この数年の経済格差の広がりや、この一年の感染症の状況下における経済危機、雇用危機が、「衣・食・住」を、いのちを危機に陥れる連鎖の重要な要因としつつある現実に、今わたしたちの社会は直面しています。その中で、「食」を保障する活動には、愛の奉仕として大きな意味があります。

聖体の秘跡によって生かされている教会は、主イエスの言葉と行いを心に刻み、たまものであるいのちを守るために、互いに支え合い助け合うことの大切さを、社会のただ中に出向いていって、あかししなければなりません。

教皇ヨハネパウロ二世は「聖体には、主の受難と死という出来事が永久に刻み込まれています。聖体は、単にこれらの出来事を思い出させるに留まらず、それらを秘跡によって再現します。聖体は、十字架上のいけにえを世々に永続させるのです。(11)」と述べています。

御聖体に生かされているわたしたちは、神ご自身による目に見える行いによる究極的な愛のあかしである十字架上のいけにえを、代々に渡って告げしらせる務めがあります。この困難な時期だからこそ、常識の枷を打ち破って愛の業を弟子たちの心に焼き付けたイエスに倣い、愛のあかしに生きていきましょう。

 

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聖香油ミサ@東京カテドラル

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聖木曜日の本日、午前十時半から、東京カテドラル聖マリア大聖堂で、東京教区の聖香油ミサが行われました。新潟もそうですが、他の教区では遠隔地から司教座のある町まで出かけてくる司祭の交通の便を考えて、水曜日、または火曜日に行われることが多いのですが、東京の場合は晩に行われる主の晩餐のミサまでに小教区に戻ることが基本的に可能なことから、聖木曜日に行われています。(例えば新潟教区の場合、司教座のある新潟市から一番遠いのは秋田県の鹿角教会だと思いますが、車で移動するとなると、新潟から鹿角まで、秋田市を経由して、普通に走って7時間弱かかります。秋田市も、車では5時間弱です。)

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なお聖座(バチカン)の典礼秘跡省からは、現在の感染症の状況のため、昨年に続いて今年も、他の時期に聖香油ミサを移動する許可が届いています。東京でも昨年は6月まで移しましたが、今年は聖週間に行うことが出来ました。しかし、残念ですが、感染対策として、ミサは公開せず、司祭と関係者と聖歌を歌ってくれたシスター方だけで執り行いました。また教皇庁大使館の臨時代理大使であるモンセニョール・トゥミル参事官も参加してくださいました。

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本日のミサの中で、秘跡に使われる病者の油、志願者の油、聖香油が祝福・聖別されると共に、司祭団は叙階の誓いを新たにしました。また東京教区の神学生である熊坂直樹神学生と冨田聡神学生の、助祭・司祭候補者認定式が行われました。お二人はこの認定を受けた後から、スータン(黒の長衣・カソック)を公式の場で身につけることが出来、今後神学院で勉学を続けて、数年後の叙階を目指します。お祈りください。

なお本日のミサの模様は、youtubeの関口教会のチャンネルからご覧いただくことが出来ます。

Chrism2101

以下、聖香油ミサの説教原稿です。

聖香油ミサ
2021年4月1日
東京カテドラル聖マリア大聖堂

あらためて繰り返すまでもなく、昨年2月頃から、新型コロナ感染症に起因する状況の中で、わたしたちは、これまで経験したことのないような人生を送っております。教会においても、通常の活動を制限せざるを得なくなり、毎年恒例の行事はすべてキャンセルとなり、会議はオンライン化され、小教区の典礼も感染状況に応じて中止としました。

入院する人や重篤化する人、さらに亡くなられた方は、他の国々と比較すれば少ないとは言え、それでもいくつもの悲劇的で突然の別れを引き起こしているのは事実であり、その社会への影響には侮れないものがあります。

あらためて亡くなられた方々の永遠の安息を祈ると共に、今も病床にある方々の回復を祈り、さらにはいのちを守るために最前線で働いておられる多くの医療関係者の方々の健康が守られるように祈り続けたいと思います。

教皇フランシスコは、回勅「フラテリ・トゥッティ」において、現在の社会が直面しているさまざまな困難を指摘し、さらには今回のパンデミックの状況にも触れられた後、それでも希望について語り合おうと呼びかけ、こう記しています。

「無視することの出来ない暗雲が立ちこめているというものの、わたしはこの回勅で、希望に至るさまざまな道について取り上げ議論したいと思います。なぜなら神は、わたしたち人類家族に、善の種を豊かに蒔き続けておられるからです。今回のパンデミックは、恐怖にもかかわらず、命をかけて対応したわたしたちの周囲にいる多くの人を認識し評価することを可能にしました」

その上で教皇は、私たちのいのちは、共に生きている歴史の中でさまざまな役割を担うごく普通のありとあらゆる人とのかかわりのうちに成り立っていると指摘し、「独りで救われる人はいない」と述べて、この人と人とのかかわりの中に、今を生きる希望があるのだと諭しています。(54)

教会は、この困難のさなかにあっても、賜物であるいのちを守ることを強調しながら、希望の光を掲げる存在でありたいと思います。

いのちを守ることは、わたしたちの信仰にとって重要な視点です。いのちは、すべからく、その始まりから終わりまで、尊厳が守られなくてはならないと、教会は主張してきました。

いま、例えば東京教区が神学生養成などを支援しているミャンマーでは、軍事クーデターを経て、自由と民主主義を求める人たちが弾圧され、少なからずのいのちが暴力的に奪われる事態となっています。ミャンマーの司教団の要請に応え、ミャンマーの教会と心をあわせて、いのちの尊厳を守る平和が確立されるように祈りたいと思います。

さらに、すべてのいのちを守ろうとすることは、教皇フランシスコがしばしば繰り返されるように、誰ひとりとして排除されない世界を実現しようとすることでもあります。裁き排除する教会ではなく、社会の現実のただ中にあって、いつくしみの手を差し伸べる教会でありたいと思います。

教皇フランシスコは、すべてのいのちを守ることは、同時に神が与えられた被造物を大切に護っていくこと、また共通の家である地球を守ることにも繋がると指摘します。2020年5月24日からの一年間は、教皇によって「ラウダート・シ」に基づいて考察を深める年とされています。

いのちの危機が叫ばれる今だからこそ、わたしたちはさまざまな視点から現実をとらえ、被造物を大切に護るために優先すべき事項を見つめ直し、いのちを守ることを前面に出す教会共同体でありたいと思います。

先般、宣教司牧方針を発表させていただきました。方針なるものは具体的な行動につなげなければ、絵に描いた餅で終わります。そのためにも、司祭、修道者の皆さんのご理解と協力をお願いしたいと思います。

ただ、即座に何か大きな変化があるわけではありません。時間をかけて、方針に記しましたが、それを大枠として、「宣教する共同体」、「交わりの共同体」、「すべてのいのちを大切にする共同体」を育て上げていきたいと思います。それはベネディクト十六世が指摘された教会の本質である三つの務め、すなわち、「神のことばを告げ知らせること、秘跡を祝うこと、愛の奉仕を行うこと」(回勅『神は愛』 25 参照)を充分に実現するためです。それぞれの現場で、さまざまな具体的取り組みがこれから考えられることを期待していますが、一番の目的は、福音をあかしし、社会の中で希望の光を輝かせる教会となることであります。

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さて今日は、この聖香油ミサの中で熊坂直樹神学生と冨田聡神学生の助祭・司祭候補者認定式が行われます。

キリストは「収穫のために働き手を送ってくださるよう、収穫の主に願いなさい」とお命じになりました。この方々は、ご自分の群れに対するわたしたちの主の心遣いを思い、教会の必要を考えて、主の招きに対して、かつての預言者と同じように、「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」とすすんで答える用意が出来ています。この方々は、主に信頼し、その招きに忠実であるように主に希望をおいているのです。

主の招きの声は、さまざまなしるしによって理解され、識別されなければなりません。このようなしるしによって、主のみ旨は、日々、賢明な人々に明らかにされるのです。キリストの役務としての祭司職にあずかるよう神から選ばれる方々を、主はご自分の恵みで導き、助けてくださいます。同時に、主は、候補者たちがふさわしいかどうか確かめることをわたしたちにおゆだねになります。そして、ふさわしいと認めた後、この方々を招き、聖霊の特別の証印を押して、神と教会の奉仕のために叙階されることになります。この聖なる叙階によって、この方々はキリストが世にあって果たされた救いの業にあずかり、それを果たしてゆくのです。ですから、やがてこの方々はわたしたちの奉仕職に結ばれて教会に仕え、自分が遣わされたキリスト教共同体をことばと秘跡によってはぐくむのです。

ところで、愛する兄弟の皆さん、あなた方はすでに養成の道を歩み始めています。この養成によって、日々、福音の模範に従って生き、信仰と希望と愛のうちに確信を深めることを学んでください。そして、これらを身につけ、祈りの精神を育て、すべての人をキリストのものとする熱意を育んでください。

キリストの愛に駆り立てられ、聖霊の働きに強められて、あなたがたは、聖なる叙階を受けて神と人々への奉仕に身をささげたいという願いを、今、公に示そうとしておられます。わたしたちは、この願いを喜んで受け入れます。

あなた方は今日から、自分の召命をさらに成長させなければなりません。とくに、あなた方の召命を育てるように定められた東京教区の共同体と日本の教会が提示する手段を助けとして、また、支えとして用いてください。

わたしたちは皆、主に信頼し、愛と祈りによって、皆さんの助けとなりたいと思っています。

それでは、ひとりずつ、東京教区の共同体を代表するこの集いの前で、自分の決意を表明してください。

(これ以降、助祭・司祭候補者認定式が続く)

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