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2021年4月 2日 (金)

聖金曜日主の受難@東京カテドラル2021

Gf2101

本日は聖金曜日。主イエスの受難と十字架上での死を思い、沈黙の内に、神のわたしたちへの愛といつくしみに身を任せ祈る日です。本日、聖金曜日の典礼における、説教原稿です。

聖金曜日・主の受難
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2021年4月2日

主イエスが耐え忍ばれたのは、愛する弟子たちによって裏切られ、独り見捨てられたことによる心の痛みと苦しみ、そして十字架上での死に至る受難という心と体の痛みと苦しみでありました。主イエスのその苦しみを、あらためてわたしたち自身の心に刻む今日の典礼は、主の苦しみがわたしたち一人ひとりと無関係なのではなく、まさしくわたしたち一人ひとりの罪を背負ったがための苦しみであったことを思い起こすようにと、招いています。

イザヤは、「彼が担ったのはわたしたちの病。彼が負ったのはわたしたちの痛みであった・・・彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、私たちの咎のためであった」と記していました。

人類の救い主である主イエスが、わたしたちの犯した罪と苦しみを背負われて、贖いのいけにえとして、十字架の上で命をささげた事実を指摘する、預言者の言葉です。

わたしたちはミサにあずかるとき、最初に罪のゆるしを願います。それぞれの個別の罪を告白するわけではありませんが、しかしこの時わたしたちは、「兄弟の皆さんに告白します。わたしは、思い、ことば、行い、怠りによってたびたび罪を犯しました」と言葉にします。

「思い、ことば、行い、怠り」

わたしたちは心に抱えているさまざまな「思い」に基づいて生きています。自分の生きる姿勢を定めている心の思い。表に出さず心に秘めている思いで、わたしたちはしばしば神に背を向けてしまいます。

わたしたちが日々発する「言葉」は、多くの場合、他者との関係の中で口に出る言葉です。わたしたちは、心の思いに促されて発した言葉で、他者を傷つけ、神に背を向けてしまいます。

わたしたちの日々の「行い」も、また、他者との関係の中での行動であり、言葉と同じように、善に資することもありながら、やはり他者を傷つけ、神に背を向けることもしばしばです。

そして、わたしたちはなすべきことを意図的にまたは無意識的に「怠り」に任せることで、他者を傷つけ、神に背を向けてしまいます。

ミサを始めるときに、わたしたちは共同体に対して自らが抱えてきた罪の数々をこの言葉によって告げるのですが、そこで告げられたあまたの罪はどうなるのでしょう。

それはまさしく、聖体を拝領する直前に、「神の子羊、世の罪を除きたもう主よ」と唱えることで、そのわたしたちの犯したあまたの罪を、これから拝領しようとする聖体に現存される主ご自身が、いけにえの子羊として自ら背負い、取り除いてくださったことを再確認します。わたしたちがいただく聖体は、わたしたちの罪を背負われた神の子羊その方であります。

主イエスが耐え忍ばれた苦しみは、わたしたち一人ひとりと無関係ではなく、わたしたちの罪の結果であることを、あらためて心にとめましょう。わたしたちに対するあふれんばかりの愛の結果として、ご自分を献げてくださる主の愛に、あらためて感謝したいと思います。

この一年、わたしたちは新型コロナ感染症の脅威の前で、立ちすくんでいます。いのちの危機から逃れる術をまだ知らず、神に助けを求めています。苦しみに直面しているわたしたちは、主の十字架での苦しみから何を学ぶことができるのでしょうか。

教皇フランシスコは、2016年年3月19日に発表された使徒的勧告「愛のよろこび」発表から今年で5年となることを記念し、この使徒的勧告「愛のよろこび」についての考察を、特に「家庭」に焦点を当てて考え深める特別年の開催を布告されています。

教皇様は、感染症の拡大という現在の困難な時にこそ、キリスト教的家庭の姿を真の「善き知らせ」として示すべきだと強調されています。また教皇様は、現実社会にはさまざまな形態の家庭があり、困難を抱える家庭や分裂した家庭が多く存在することをよく知った上で、それでも家庭はわたしたちの最も根源的な人間関係を守る存在であり続けるのだと強調されています。

この勧告には、次のように記されています。

「キリストは、とくに、愛のおきてと他者のための自己犠牲をご自分の弟子たちの明白なしるしとし、父親や母親が自らの生活の中でつねづね示している原則を用いて、それを示しました。それは、『友のために自分のいのちを捨てること、これ以上に大きな愛はない』ということです。愛はまた、あわれみとゆるしとなって実を結びます。(27)」

家庭における互いの関係の中に、イエスのあわれみとゆるし、そして自己犠牲の生き方が明確に示されており、その姿を通じて、福音を告げしらせることが出来るのだという指摘です。

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十字架上で苦しみの中にある主イエスの傍らには、母マリアと愛する弟子が立っていたと、受難の朗読に記されていました。

苦しみの中でいのちの危機に直面していても、主イエスは、母への配慮を忘れません。神の愛そのものである主の心は、母に対するいつくしみと思いやりにあふれています。

「婦人よ、ご覧なさい。あなたの子です」と母マリアに語りかけ、愛する弟子ヨハネが代表する教会共同体を、聖母にゆだねられました。またそのヨハネに「見なさい。あなたの母です」と語りかけられて、聖母マリアを教会の母と定められました。

十字架上の苦しみの中でイエスがあかしされたのは、まさしく「愛のおきてと他者のための自己犠牲」が「ご自分の弟子たちの明白なしるし」である事実でありました。

十字架は、弟子であるわたしたちにどのような生き方をするべきなのかを、明確に示しています。わたしたちのすべての罪を背負われてあがなってくださった主イエスの愛に応えるために、わたしたちは「愛の掟と他者のための自己犠牲」をあかしする者とならなければなりません。その模範は、聖母マリアを母としていただく教会共同体という家庭の中で、わたしたちにすでに示されています。

困難な状況の中にいるから今だからこそ、愛といつくしみをわたしたち自身が身に帯びて、他者のための自己犠牲のあかし人となる道を模索しましょう。十字架上の苦しみにあってさえも、「愛のおきてと他者のための自己犠牲」をあかしされた主イエスに倣い、愛といつくしみに生きるものとなりましょう。

 

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