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2021年5月16日 (日)

高幡教会50周年、そして西千葉教会の新司祭館・信徒会館

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5月15日の土曜日には、日野市にある高幡教会の創立50周年の感謝ミサが行われました。1969年に創立された教会ですから50年は2019年で、もともとは一年かけ記念の年を昨年感謝ミサで締めくくるはずでした。それが昨年の公開ミサ中止で延期に。今年は、感染対策を徹底し、参加者を限定し、さらに同じ感謝ミサを午前10時と午後1時半の二回行い、限定した参加者をさらに二つに分ける工夫をされました。加えて、聖歌の歌唱は答唱や拝領で独唱。ミサの応答も司会者のみと徹底しておりました。(写真上、高幡教会。すぐ近くには多摩動物公園がある、緑に囲まれた教会です)

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入り口で受付や消毒、検温にあたったスタッフの皆さん、典礼を準備した皆さん、ありがとうございます。主任司祭は、ミラノ宣教会のベロッティ・ジャンルーカ神父様です。(上の写真は、間隔を開け、番号指定で離れて着席をお願いする準備が整った高幡教会聖堂)

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5月9日の日曜午後には、西千葉教会で、閉園となった教会隣接の旧聖マリア幼稚園を改築した信徒ホール兼司祭館をカリタス館と命名し、その祝別式ミサを行いました。千葉県は緊急事態宣言の対象ではなく、まん延防止等重点措置の対象地域です。(上の写真は、人数制限をした西千葉教会聖堂。下の写真は、西千葉教会カリタス館一階で、祝福の祈りを唱える)

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ミサには千葉中央宣教協力体から、茂原のルイス神父様、東金の小沢神父様、そして西千葉と千葉寺の福島神父様、パル神父様が共同司式。西千葉と茂原の数名の方に堅信も授けました。このミサも、感染対策を徹底して行いました。堅信はバチカンの指示に従って、コットンパッドで一人ひとり塗油し、按手も触れないように行われました。もちろん一緒に歌うこともなく、粛々とミサを行いました。

高幡教会の皆さん、そして西千葉教会の皆さん、おめでとうございます。(下の写真は、高幡教会の聖母子像)

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以下、高幡教会でのミサの説教原稿です。

高幡教会50周年ミサ
2021年5月15日

カトリック高幡教会が誕生して50年の節目にあたり、皆様にお祝いを申し上げます。

わたしもまだ東京教区のすべての教会の歴史を把握していないので申し訳ないのですが、1969年にベリス・メルセス会の修道院が創立され、その地に司祭が派遣されたことで、教会共同体がはじまったとうかがいました。そして、ベリス・メルセス会の好意により、修道会敷地内に現在の聖堂が献堂されたのが1982年12月5日ですから、間もなく聖堂も献堂40周年となります。

新型コロナ感染症の影響で本日の記念ミサは、たびたび延期となっていましたが、高幡教会の皆さんは、この2年間、これまでの歴史を振り返り、次の節目である100年を目指して進むべき道を模索するときを、十分に過ごされてきたと思います。 

これまでこの教会において、宣教と司牧に献身的に取り組んでこられた司祭の皆様に心から感謝します。また、この50年の間、宣教師や教区の司祭とともに教会共同体を育て上げてきた高幡教会の信徒・修道者の方々にも、心から感謝申し上げます。

「この人が何か言いつけたら、その通りにしてください」
先ほど朗読されたヨハネ福音は、有名なカナの婚姻の場面でしたが、そこに記された聖母マリアの言葉であります。

教皇ヨハネパウロ二世は、使徒的書簡「おとめマリアのロザリオ」で、祈りをとおしてマリアとともにキリストを黙想することの重要性を指摘され、それを通じて、マリアとともにキリストを思い起こし、キリストを学び、キリストの姿に似たものとなり、キリストに願い、キリストを伝えていかなくてはならないと記しています。

教皇はカナの婚姻での聖母のこの言葉を取り上げ、「イエスが行った最初の「しるし」において、マリアは、召し使いにイエスのいいつけ通りにするよう促す教師の姿」を示し、わたしたちを「マリアの学びや」に招いていると指摘します(14)。

その上で、「キリストと聖霊がわたしたちの心に湧き上がらせてくださる祈りを支えるために、マリアは間に立って執り成してくださいます。・・・カナの婚礼において、福音書はマリアのこの執りなしの力をはっきりと述べています。マリアは人が必要としているものをイエスに知らせているのです」(16)と記しています。

カナの婚姻の物語は、聖母とともにキリストを学ぶようにわたしたちを招き、同時に聖母の執りなしの力強さを教え、特に困難にあるときに、聖母に祈ることの大切さを思い起こさせます。

わたしたちは今、歴史に残る困難に直面しております。

新型コロナ感染症の蔓延は、未知の感染症であるが故に、わたしたちを不安の暗闇の中へと引きずり込みます。わたしたちはすでに1年以上にわたって、出口が見えないまま、まるで闇の中を光を求めて彷徨い続けているかのようであります。徐々に感染症の全貌が明らかになり、ワクチンの接種が始まったとは言え、確実に安心できるまではまだ時間が必要なようですし、わたしたちが直面しているいのちの危機は継続しています。

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教会も、さまざまに対応してきました。なんといっても、当初から、密接・密集・密閉を避けるようにと呼びかけられているのに、教会はその三つの密のオンパレードでありますし、ましてやミサなどになれば一緒になって大きな声で聖歌を歌ったりいたします。

大げさなようですが教会は、いまアイデンティティの危機に直面しています。なにぶんこれまでは、日曜日にできる限りたくさんの人が教会に集まってくれるようにと働きかけてきたのです。この教会という場所に集まることが、共同体なのだと思っていました。少しでもミサに参加する人が増えることが、宣教の成功だと思っていました。

それが物理的に集まることが難しくなった今、集まってもなるべく離ればなれになり言葉も交わさないようにしている今、教会共同体というのは、そもそもいったい何のことだろうかと自問させられています。

もちろんわたしたちは、以前から教会というのは単に聖堂という建物のことだけではないと学んできました。第二バチカン公会議は教会憲章において、教会はまず第一に「神の民」であると指摘し、その上で教会は、「神との親密な交わりと全人類一致のしるしであり道具」です(教会憲章一)と教えます。教会は神の民という共同体のことであり、その共同体は、「神との親密な交わりと全人類の一致のしるしであり道具」として、この地域に存在しています。

教会に集まることが難しい今だからこそ、わたしたちは自分の生活の場へと「出向いていく教会」として、「神との親密な交わりと一致」をあかしする神の民でありたいと思います。

教皇フランシスコの語られる「出向いていく教会」は、神の言葉が人となられてわたしたちのうちにおいでになったという救いの業の行動原理に倣う、教会のあるべき姿を表しています。闇雲に出向いていくのではなく、助けを必要としている人のもとへと出向いていく教会であります。孤立しいのちの危機に直面している人のもとへと、出向いていく教会であります。

コロナ禍のもたらす疑心暗鬼の暗闇の中で、対立と分断、差別と排除、孤立と孤独が深まる現代世界にあって、教皇様は、神のいつくしみを優先させ、差別と排除に対して明確に対峙する神の民であるようにと呼びかけておられます。とりわけ教会が、神のいつくしみを具体的に示す場となるようにと呼びかけ、東京ドームのミサでも、「いのちの福音を告げるということは、共同体としてわたしたちを駆り立て、わたしたちに強く求めます。それは、傷のいやしと、和解とゆるしの道を、つねに差し出す準備のある、野戦病院となることです」と力強く呼びかけられました。

疑心暗鬼の暗闇の中で不安に苛まれる心は、寛容さを失っています。助けを必要としているいのちを、特に法的に弱い立場にある人たちを、いのちの危機に追い込むほどの負の力を発揮しています。わたしたちは神からの賜物であるいのちを守る、野戦病院でありたいと思います。

教会共同体は、その体の一部である一人ひとりが、それぞれの生活の場で神のいつくしみをあかしする言葉と行いに忠実であることによって、出向いていく教会となります。わたしたちのあかしするいつくしみの言葉と行いは、個人の業ではなく、共同体の業です。わたしたちは、共同体で受けた神の愛といつくしみを心にいただき、それをそれぞれが生きる場で分かち合うのです。

聖母マリアは、 深い祈りと霊性に支えられながらも、つねに行動することをいとわず、困難に直面する人のために手を貸すためであれば待つことなく即座にそのもとへ出かけていく、まさしく出向いていく教会の母であります。対立と分断、差別と排除、孤立と孤独のうちに危機に直面する命を守るため、積極的に行動する教会の母であります。

困難な今だからこそ、教皇様がこの5月に呼びかけられているように、聖母の執りなしの力に信頼して祈り続けましょう。そしてわたしたち自身も、社会のさまざまな場にあって、対立と分断、差別と排除、孤立と孤独がいのちの危機をもたらすことのないように、言葉と行いを持って教会の信仰をあかしして参りましょう。

 

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