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2021年7月31日 (土)

週刊大司教第三十七回:年間第18主日

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もう8月です。オリンピックが開催される中、東京圏における検査陽性者数は増加を続け、政府はこの金曜日に、緊急事態宣言の8月31日までの延長と、新たな地域への発令を決められました。東京教区においては、東京都はこれまでの緊急事態宣言が8月末までの延長、千葉県がこれまでのまん延防止等重点措置から緊急事態宣言へと移行することになりました。教区としての対応は、現在の緊急事態宣言下でお願いしている感染対策をさらに徹底していただきたいと思います。今一度、教区ホームページから、現在の対応をご確認ください。

対策への「慣れ」も見られるようになりましたし、主に高齢の方々のワクチン接種率が高まるにつれて、安心してしまう傾向もあろうかと思います。慎重な対応は、まだまだ必要だと判断していますので、ご協力をお願いいたします。

土曜日7月31日の午前中に、調布にある晃華学園聖堂で、汚れなきマリア修道会のお二人のシスターの、終生誓願式が行われました。お二人はベトナム出身です。シスター・マリア・レ ティ チャウ、シスター・テレサ・ファン ティ トゥ ニュオン、おめでとうございます。

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お二人の誓願式は、感染症のために何度か延期されてきました。有期誓願を延長するにも限度があるので、本日行うことになったとうかがいました。現在の状況で、ベトナムのご家族などの参加は適いませんでしたし、多くの方に集まっていただくことも出来ませんでした。聖堂には、近隣の司祭と、マリア会の司祭、そして主に同じ修道会の姉妹たちと、一部の人だけが参加し、ベトナムにいるご家族のためには、オンラインでの配信が行われました。また誓願式後の祝賀会もキャンセルとなりました。厳しい状況での誓願式となりましたが、これからのお二人の修道会での、そして教会での活躍をお祈りしています。

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以下本日夕方六時配信の、週刊大司教第37回目のメッセージ原稿です。

年間第18主日B(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第37回
2021年8月1日

「私が命のパンである」と宣言される主イエスの言葉を、ヨハネ福音は記しています。集まっている人々は、この世のいのちを長らえるために、実際に空腹を満たしてくれるパンを求めているのですが、イエスは永遠の命を与えるパン、すなわちご自身のことを語っておられます。

出エジプト記は、荒れ野で彷徨うイスラエルの民が、空腹のあまり、モーセとアロンに不平を述べ立て、エジプトでの奴隷状態の方がまだましだったとまで言いつのる姿を描いています。ここでも人々が求めるのはこの世のいのちを長らえるために、実際に空腹を満たしてくれる食料のことですが、神の視点は救いの計画の実現という永遠を視野に入れたところにあり、全能の神は天から降らせた食物によって、選ばれた民にそれを示唆します。

パウロはエフェソの教会への手紙で、こういった事柄を念頭に、キリストに結ばれているわたしたちは、「滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たに」されるようにと呼びかけます。

どうしてもわたしたちの視点はこの世のいのちに縛られており、永遠にまで至る神の計画の中で、どのように生き、どのように行動し、どのような道を進むべきなのかという視点に欠けてしまいます。わたしたち自身の望みや欲望を優先させている限り、神の真理に近づくことは出来ません。

御聖体を、霊的にまた直接いただくわたしたちは、御聖体のうちに現存される主との一致を願いながら、主が教えてくださる道を歩むように務めることで、自分自身の救いのためだけではなく、人類全体の救い、すなわち神の救いの計画にあずかる者となります。視点を自分のうちだけに留めることなく、常に新たにされて、真理であるイエスに倣っていきたいと思います。

さて8月は、広島、長崎における原爆投下や太平洋戦争の終結という戦争の歴史をたどる月でもあり、そのため平和について考え、平和を祈り求める月でもあります。日本の教会は、広島の原爆の日である今週金曜日、8月6日から、終戦記念日、8月15日までを、平和旬間と定めています。あらためて、教皇フランシスコの広島における言葉を思い起こしたいと思います。

「確信をもって、あらためて申し上げます。戦争のために原子力を使用することは、現代において、犯罪以外の何ものでもありません。人類とその尊厳に反するだけでなく、わたしたちの共通の家の未来におけるあらゆる可能性に反します。原子力の戦争目的の使用は、倫理に反します。核兵器の保有は、それ自体が倫理に反しています」

教皇様は、真の平和は、「正義の結果であり、発展の結果、連帯の結果であり、わたしたちの共通の家の世話の結果、共通善を促進した結果生まれる」と指摘されました。

東京教区の宣教司牧方針の三本の柱の三つ目は、「すべてのいのちを大切にする共同体」です。これは単に環境問題への取り組みを促しているだけではなく、「神からいただいたいのちを大切にし、それぞれのいのちを尊重しあう共同体を」目指している柱です。

開発と発展は、社会の多様化と大きな変化をもたらし、結果として共通の家である地球を傷つけながら、いのちを危機にさらしています。神の救いの計画は、永遠の命を目指す道程にあって、この共通の家において、賜物である私たちのいのちが十全に生かされその尊厳が守られる世界の実現を求めます。世界における平和の実現はその道の一つであり、貧困や飢餓の撲滅、さまざまな疾病への公平な対策の実現など、いわゆる社会正義の実現は重要な福音的課題です。神の計画にあずかり、わたしたちの欲求ではなく、神の望みに従い、真理であるイエスに倣いましょう。

 

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2021年7月24日 (土)

週刊大司教第三十六回:年間第十七主日

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7月も終わろうとしています。暑い毎日が続いています。

週刊大司教のメッセージでも触れていますが、教皇様は、今年から、7月26日の聖ヨアキムとアンナの記念日に近い主日を、「祖父母と高齢者のための世界祈願日」と定められました。今年は7月25日がこの祈願日となります。

教皇様は、今年の1月31日のお告げの祈りで、次のように述べて、この祈願日の制定を告知されました。

 「2月2日は、イエスが神殿で捧げられたことを記念する、主の奉献の祝日です。そのとき、シメオンとアンナは二人とも年老いていましたが、聖霊に導かれ、イエスがメシアであると認めました。聖霊は、知恵に満ちた考えやことばを高齢者の内にわき上がらせます。高齢者の声はかけがえのないものです。神をたたえて歌い、人々のルーツを守っているからです。年を重ねることはたまものであり、祖父母はその人生体験や信仰を若者に伝えることにより、世代を結びつける輪となっていることを、この二人は思い起こさせてくれます。祖父母は忘れられがちですし、ルーツを守り、伝えるというその宝もないがしろにされています。だからこそ、7月第四主日を「祖父母と高齢者のための世界祈願日」とし、教会全体で毎年祝うことにしたのです。この日のころには、イエスの「祖父母」にあたる聖ヨアキムと聖アンナの記念日があります」

今年は初めてのことでもあり、どのようにこの祈願日を祝うのか、定まってはいないのですが、わたしたち自身の祖父母に限らず、教会や社会に多数おられる高齢の方々に思いを馳せ、御父の祝福と守りを祈る日曜にしたいと思います。

なお今年の祈願日のテーマは、「わたしはいつもあなたとともにいる」と定められており、教皇様のメッセージの翻訳は、こちらの中央協議会のホームページへのリンク先に掲載されていますので、ご一読ください

メッセージの中で、教皇様は、特にパンデミックの状況に置かれている現在、孤独のうちに取り残されている人が多くいる中で、特に高齢者の状況には厳しいものがあるとして、次のように希望の言葉を記しておられます。

「このパンデミックの数か月のように、何もかも真っ暗に思えるときでも、主は天使を遣わし、わたしたちの孤独を慰め続け、「わたしはいつもあなたとともにいる」と繰り返しておられます。そうあなたにいっておられ、わたしに、皆にいっておられるのです。これこそが、長い間の孤独と、いまだ時間がかかっている社会生活の回復とを経て、まさに今年に、初回を迎えるこの祈願日の意義です。祖父母の皆さん、高齢者のお一人お一人が、とくに孤独に苦しむかたがたが、天使の訪問を受けられますように」


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以下、本日午後6時配信の週刊大司教第三十六回のメッセージ原稿です。

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週刊大司教第36回
2021年7月25日

列王記は、飢饉に見舞われた地にあって、預言者エリシャのもとへ持ってこられた少ないパンが、召使いの常識を越えて、百名の人の空腹を満たした奇跡的な話を記しています。

ヨハネ福音も、いわゆる「五つのパンと二匹の魚」の物語を記し、少年がささげた少ないパンと魚が、イエスのみ言葉を聞くために集まっていた五千人を超える人たちの空腹を満たした、奇跡物語を記しています。

どちらにも通じるのは、もちろん少ない食べ物が多くの人を満たしたと言う奇跡の物語であり、御父である神の、また主イエスの偉大な力を示しています。同時にそれは、自分が持つ数少ないものをまもるのではなく、他者のために惜しみなく分かち合ったときに生まれる愛の絆の物語でもあります。そしてそれは、ミサを通じて主の食卓にあずかり、主イエスご自身の現存である御聖体によって生かされることで教会共同体にもたらされる、霊的な一致の意味をあらためて考えさせるものでもあります。主の十字架上での自己犠牲は、神による最大の愛のあかしであります。

パウロはエフェソの教会への手紙で、まさしくこの霊的一致について語ります。パウロは、例えばローマ書など他の書簡で一致について、一つの体とその部分であるわたしたちのようなたとえを記しますが、一致は決して皆が全く同じように考え、同じように行動するのではないことを明確にしています。それぞれはそれぞれが与えられた使命に自らの決断を持って生きているのであって、一致は同じ霊によって生かされ、同じ主における「一つの希望にあずかるように」と招かれている生き方にあります。主イエスを中心とした愛の絆に結ばれていることこそが、わたしたちの語る一致であります。

さて教皇様は、今年から、7月26日の聖ヨアキムとアンナの記念日に近い主日を、「祖父母と高齢者のための世界祈願日」と定められ、メッセージを発表されています。今年は7月25日のがこの祈願日となります。教皇様のメッセージのテーマは、「わたしはいつもあなたがたと共にいる」(参照:マタイ28,20)とされています。教皇様はメッセージの中で、今回の「パンデミックは思いがけない嵐のようにそれぞれの生活に試練を与えたが、とりわけお年寄りに与えた影響は厳しいものであった」と述べられ、亡くなられた多数の高齢者への思いを記されています。その上で、「主はわたしたち一人ひとりの苦しみを知り、痛ましい経験をした人々のそばにおられ、その孤独を心にかけておられる」と呼びかけられます。わたしたちが招かれている霊的一致は、いのちが忘れ去られ孤独のうちにあることをよしとしません。すべてのいのちに主が共にいることを、あかしするよう、わたしたちは招かれています。

教皇様の「フラテリ・トゥッティ」にもこう記されています。「わたしたちは、歴史の教訓、「人生の師である歴史」をすぐに忘れます。・・・長年の医療体制の縮小の結果の一部として、呼吸器が不足で亡くなった高齢者を、どうかわたしたちが忘れずにいられますように。・・・わたしたちには互いが必要で、互いに対し義務を負っていることを、はっきりと気づくことができますように」(35)

東京教区の宣教司牧方針も、「わたしはいつもあなた方と共にいる」という御言葉に導かれます。わたしたちは、三つの柱の一つである「すべてのいのちを大切にする共同体」も目指しています。社会の多様化の中で、より小さないのち、より弱いいのちがないがしろにされつつあります。神からいただいたいのちを大切にし、それぞれのいのちを尊重しあう共同体をめざしましょう。

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FABCの事務局長に任じられました

FABCというのはFederation of Asian Bishops' Conferences`のことで、アジア各国にある司教協議会の連盟組織のことです。

21日の水曜日の朝に突然、香港からメールが舞い込みました。香港にあるFABCの事務局の神父様からです。メールにはミャンマーのボ枢機卿の書簡がPDFで添付されていました。ボ枢機卿の手紙に曰く、「現在事務局長を務めているマカオの李司教が、多忙のため事務局長からの辞任を申し出たので、中央委員会は投票を行い、貴師を後任に選出したので、よろしく」とのこと。

突然です。というわけで、FABCの事務局長になりました。何をすればよいのか、任期はいつまでなのか、詳しいことはわかりません。

現在のFABCの会長はミャンマーのボ枢機卿、副会長はスリランカのランジット枢機卿です。つまり、会長が東南アジア、副会長が南アジアなので、事務局長は東アジアであったということで、マカオの司教様の後任には東アジアの司教から選出ということであったようです。中央委員会とは、各国の司教協議会の会長がメンバーとなっています。

確かに来年にはバンコクで総会が予定されているので、そういったことの調整もあるでしょう。実務は香港の事務局がしてくださると期待しつつ、できる限り懸命に努力をします。聖霊の導きを、みなさんお祈りくださいますと、幸いです。

この任命について報じている「Asia News」英語の記事へのリンクです。

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2021年7月17日 (土)

週刊大司教三十五回:年間第十六主日

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7月18日、年間第16主日となりました。

緊急事態宣言下で、まもなくオリンピック、続いてパラリンピックが行われます。コロナ禍の前には、数年前から、組織委員会と諸宗教団体との間で、選手村に設置される宗教センターで、選手の方々の宗教的必要に応える対応が準備されてきました。これはオリンピック憲章で定められていると聞いています。

されに、オリンピック観戦のために世界中から訪れる方々のために、小教区などでさまざまな対応をする検討を続けていました。組織委員会からの要望に応えるため、また小教区での対応を考えて、東京教区ではオリンピック対応チームを任命し、マルコ神父様を中心に、例えば五大陸のロザリオを準備したり、カテドラルでの国際ミサを企画して準備を進めていました。五大陸のロザリオは、来日する選手と関係者にギフトとして差し上げることも考えていました。

残念ながら、コロナ禍ですべてはご破算となりました。なんと言っても、選手は選手村から出ることが出来ませんし、わたしたち宗教者も選手村には入れません。そこで対応は、組織委員会の要望に応えて、オンラインとしました。教区本部でさまざまなビデオを用意し、それはすべて組織委員会に渡して、その管理下で選手村に提供されます。詳しくは、今週のカトリック新聞をご覧ください。なお五大陸のロザリオは、そのようなわけで在庫が教区本部にあります。ご希望の方は若干の実費等ご寄付頂きますが、教区本部からおわけします。申し込み方法は、今週のカトリック新聞をご覧ください。

また無観客ですので、世界から訪れる方々もおられません。そこで、小教区での特別な対応も必要ではなくなりました。

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7月12日から15日まで、司教総会が開催されました。今回はハイブリッドにして、潮見まで来られた司教さんたちと、オンラインの司教さんたちと分かれましたが、分科会を含め、なんとか議題をこなすことが出来ました。決まったことなどは、後日カトリック新聞などに掲載されると思いますので、そちらに譲ります。潮見のカトリック会館の裏手には、得意な形をした辰巳国際水泳場がありますが、その右手に新しいオリンピックプールが出来ました。そこに通うバスを駐車するためか、臨時の駐車場が、カトリック会館裏手の都有地に設けられていました。無事開催されることを祈ります。

東京も梅雨明けしていますが、先日のスコールのような大雨の直後、夕方の空には虹が出ていました。

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以下、本日午後6時に配信した、週刊大司教第三十五回、年間第16主日のメッセージ原稿です。

年間第16主日B(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第35回
2021年7月18日

エレミヤの預言は、神が愛してやまない人間を、誰かに任せるのではなく、自ら牧者として守り養おうとするその行動を、いつくしみ深い神の「正義と恵みの業」であると記します。

パウロは、エフェソの教会への手紙で、イエスが隔ての壁を取り除き、異邦人とユダヤ人を一つの体に一致させたことを述べ、それが平和の実現であると説きます。まさしく多様性における一致こそが、平和をもたらす道である事が示唆されています。

イエスの時代、エルサレムの神殿において、ユダヤ人以外の異邦人は、「異邦人の庭」と呼ばれた神殿の外庭まで入ることがゆるされていました。そこには「隔ての壁」があったといわれます。そのことから、「隔ての壁」は、ユダヤ人が受ける神の祝福から異邦人は切り離されていることを象徴し、さらに、対立の中に生まれる「敵意」をも象徴していました。

マルコ福音は、先週の続きで、福音宣教に派遣された弟子たちが共同体に戻り、宣教活動における成果を報告すると、イエスは観想の祈りのうちに振り返るように招かれたと記します。

イエスご自身も、朝早くまだ暗いうちに、人里離れた所に出て行かれ、一人で祈られたことが他の箇所に記されています。善い牧者として、義に基づいた神の平和を実現するというご自分の使命をはたす力を、イエスはその観想の祈りから得ておられたのは、間違いありません。

教皇ベネディクト16世は、回勅「神は愛」に、「教会の本質は三つの務めによって表されます。神のことばを告げ知らせること、秘跡を祝うこと、愛の奉仕を行うこと」(回勅『神は愛』25参照)と記します。神のことばを告げ知らせる宣教の前提には、秘跡を祝う典礼や祈りを大切にする共同体がなければなりません。秘跡を祝う共同体は愛の奉仕へと突き動かされていきます。そもそも愛の奉仕とは、主イエス・キリストの生き方に倣い実践することなのですから、わたしたちは祈ることをないがしろにして、愛の奉仕に努めることは出来ません。

教皇フランシスコは、2月3日の一般謁見で、次のように述べておられます。
「祈りもまた行事であり、出来事であり、現存であり、出会いです。まさにキリストとの出会いです。・・・典礼のないキリスト教は、キリストがおられないキリスト教になってしまいます」

東京教区の宣教司牧方針の二つ目の柱は、「交わりの共同体」を育てることです。教会の本質は「交わり」です。信仰の共同体の中に生じる「交わり」は、父と子と聖霊の交わりの神の写し絵です。「交わり」を造りあげ、それを豊かにしてくれるのがわたしたちの共同体で行われる典礼であり、祈りです。多様化した社会にあって、できる限り多くの人をわたしたちの「交わり」へと招き入れるために、典礼を豊かにし、共同体の祈りを深め、そこから福音を告げしらせ、またあかしするための力をいただきましょう。

宣教司牧方針にこう記しました。「わたしたちの信仰は「賛美」と「喜び」に彩られています。そのどちらも人間の想いで始まったのではありません。天上の教会では主イエス・キリストを中心に聖母マリア、諸天使、諸聖人、そして地上のいのちを終えたすべての被造物が天の御父を「賛美」し、「喜び」に満たされています。その「賛美」と「喜び」の声に合わせて地上の教会のわたしたちも神を「賛美」し、いのちの「喜び」を共同体と共に表すのです。典礼と祈りは「賛美」と「喜び」の時であり場面です」

言葉と行いを通じたあかしを、祈りと観想からいただいた力のうちに実践いたしましょう。

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今年の平和旬間は、ミャンマーの人々のために祈ります

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明日の日付ですが、以下のような呼びかけを、本日、小教区へ送付いたしました。今年の平和旬間は、集まることが難しい状況ですが、それぞれの小教区で、東京教区の姉妹教会であるミャンマーの教会に思いを馳せ、ミャンマーの人々のことを憶えて、お祈りと特別献金をお願いします。

2021年7月18日

カトリック東京大司教区の皆様

カトリック東京大司教区 大司教
菊地功

平和旬間にあたり、ミャンマーの人々のために祈り、特別献金をお願いします

今年も8月6日から15日まで、日本の教会は平和旬間を迎えます。1981年に日本を訪問された教皇聖ヨハネ・パウロ2世は、広島での「平和アピール」で、「過去を振り返ることは、将来に対する責任を担うことである」と言われました。それ以来、日本の教会は、戦争を振り返り、平和を思うとき、平和は単なる願望ではなく具体的な行動が必要であることを心に刻み、この10日間を過ごしてきました。

東京教区ではこれまで、平和旬間委員会を設け、平和旬間の企画運営を行ってきましたが、昨年に続き今年もまた感染症の状況の中、特に今年は緊急事態宣言の下、すべての企画を中止とせざるを得ない状態になっています。

そこで2021年の平和旬間は、特に東京教区の姉妹教会であるミャンマーの教会に思いを馳せ、ミャンマーの人々のために、またその平和のために特に祈るときとしたいと思います。

ご存じのように、2021年2月1日に発生したクーデター以降、ミャンマーの国情は安定せず、人々とともに平和を求めて立ち上がったカトリック教会に対して、暴力的な攻撃も行われています。ミャンマー司教協議会会長であるチャールズ・ボ枢機卿の平和への呼びかけに応え、聖霊の導きのもとに、政府や軍の関係者が平和のために賢明な判断が出来るように、弱い立場に置かれた人々、特にミャンマーでの数多の少数民族の方々のいのちが守られるように、信仰の自由が守られるように、この平和旬間にともに祈りましょう。

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また具体的な行動として、8月8日の主日のミサで「ミャンマーの人々のため」の意向で、特別献金をお願いいたします。皆様の献金は、東京教区のミャンマー委員会(責任者、レオ・シューマカ師)を通じて、ミャンマーの教会に届けられます。

なお、例年カテドラルで土曜日に行われていた「平和を願うミサ」についても、緊急事態宣言下ですので行わず、翌8月8日の主日10時に、関口教会のミサをその意向を持っての大司教司式ミサといたします。それぞれの小教区でも、この日の主日ミサで、ミャンマーの人々のためにお祈りください。

神の望まれる平和が、この世界に実現しますように。御旨が行われますように。

以上

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2021年7月10日 (土)

週刊大司教三十四回:年間第十五主日

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7月11日は、年間第15主日です。週刊大司教も34回目となりました。(上の写真は築地教会)

先週の日曜日に結腸の手術を受けられた教皇様については、毎日、聖座(バチカン)の広報官が短いステートメントを発表しています。7月9日の広報官マテオ・ブルーニ氏の発表では、多少の熱があったものの平熱に戻り、順調に回復していて、小聖堂でミサを捧げられたと言うことです。また11日の昼のお告げの祈り(アンジェルス)は、やはり病院の十階の病室窓から行われるとのことです。教皇様は寄せられているメッセージや祈りに感謝されており、引き続きお祈りを求めておられます。教皇様の健康のため、また特に今回の手術からの回復のために、お祈りいたしましょう。

昨日も記しましたが、緊急事態宣言が7月12日月曜日に発令されます。それに対する教区の対応は、まん延防止等重点措置の現在とほぼ変更しませんが、公示文書は月曜日午前中にカトリック東京大司教区ホームページに掲載し、また各小教区と主任司祭にも通知します。

現時点で東京教区がどのような感染対策をとっているのかは、教区ホーム頁の一番上に、「在の東京教区における感染症への対応」と書かれたバナー(絵)がありますから、それをクリックすると、対応一覧のページに飛びます。ご参照ください。

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以下、本日土曜日夕方六時配信の、「週刊大司教」34回目の、メッセージ原稿です。前回から数回連続で、メッセージ終わりの部分において、昨年末に発表した教区の宣教司牧方針について触れることにしました。感染症対策の活動自粛で、宣教司牧方針について広くお話しする機会がありませんので、忘れられないように、繰り返し触れさせていただきます。

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週刊大司教第34回
2021年7月11日

アモスの預言は、北イスラエル王国の滅亡を告げたアモス自身が、「わたしは預言者ではない。預言者の弟子でもない。わたしは家畜を飼い、いちじく桑を栽培するものだ」と宣言する言葉を伝えています。当時存在したと言われる専門職としての預言者団ではなく、ごく普通の人を通じて、神は運命的なことばを伝達されました。

パウロは、キリストの血によってあがなわれたものはすべて、神によって選ばれたものとしてその救いの計画に参与するものとされたことを指摘します。

マルコ福音は、イエスが十二人の弟子たちを呼び集め、二人ずつ組にして、福音宣教のために送り出したことを記しています。イエスは弟子たちを派遣するにあたって、あれこれと個人的な必要を整えることなく、まずは出かけていって、行った先の家に滞在せよと命じています。下着の枚数が何枚かの議論はさておいて、この派遣の意味は何でしょうか。

弟子が二人で派遣されたことは、宣教の業が個人プレーではなくて、共同体の業であることを明示します。また、準備万端整えられたプログラムを通じてではなく、日々の生活における他者との交わりにあって、支え合いと分かち合いを通じて福音が伝わっていくことが示されています。

すなわち、福音宣教は、特別な人だけが行う特別なことではなく、だれでも神の言葉を告げるように召されるのであり、それは個人プレーではなく共同体の業であり、なおかつ、日々の生活における他者との交わりの中で、支え合いながら、分かち合いながら具体化される神の業です。

教皇フランシスコは「福音の喜び」に、「神は人々を個々としてではなく、民として呼び集めることをお選びになりました。ひとりで救われる人はいません(113)」と記して、教会は共同体として救いの業にあずかっていることを強調されます。その上で教皇は、「洗礼を受け、神の民のすべての成員は宣教する弟子となりました。・・・救いをもたらす神の愛を経験している人ならば、それを告げに出向いていくための準備の時間を、さほど必要としないからです(120)」と、呼びかけます。

東京大司教区では、先週も触れたように、多くの方々の声を基にしながら、共同体としての宣教司牧方針を定めました。その三つの柱の一つは、「宣教する共同体」となることです。

わたしたち信仰の共同体は、神の国の福音をこの世に伝えるためにあります。教会共同体は、福音を告げる共同体です。現在、東京大司教区には70を超える小教区共同体が存在します。また、各修道会の共同体も多数存在します。これだけの数の信仰の共同体があるということは、地域の人々に、社会に、そしてこの世に対しての宣教の基盤がすでに十分に存在していることを意味します。福音宣教の道具として、活用していたでしょうか。わたしたち一人ひとりの責任です。今あるものを十分に生かしながら、また場合によっては宣教の拠点を新たに設けながら、主イエス・キリストの福音をさらにあかししていきましょう。

宣教司牧方針に、「宣教する共同体はキリスト者を増やすことだけが目的ではありません。すべての被造物が神の恵みの中に生きることを目指します。すべての被造物が主イエス・キリストの救いのわざにあずかり、天の御父のもとに秩序づけられ、お互いに深い関わりの中にあるようになったら神の国は完成を迎えるでしょう」と記しました。

特別な誰かではなく、わたしたち一人ひとりが、日々の生活における他者との交わりの中で、支え合いながら、分かち合いながら、信仰の共同体が行う福音宣教の業に呼ばれています。

 

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2021年7月 9日 (金)

あらためて緊急事態宣言となります

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四度目となる緊急事態宣言が、地域を限定して発出されることになりました。東京都はその対象地域の中に入っており、期限は7月12日から8月22日と報道されています。また千葉県にあっては、現在のまん延防止等重点措置が継続ということです。

ずーっと緊張を強いられているので、ちょっと疲れました。これで7月23日には東京オリンピックが、また8月24日には東京パラリンピックが、首都圏を中心に、各地で開催されるというのですから、心配にならないわけがありません。首都圏では無観客との報道もありますが、それはそれで、実際に競技をする選手の皆さんにはお気の毒としか言いようがありません。世界各地から選手や関係者が集まることから、感染の再拡大を懸念する声も聞かれます。

先日も書きましたが、東京教区では本来、この世界的行事に合わせて来日する多くの方の霊的必要に応えるために、オリンピック対応チームを結成して、各小教区でどのような準備が必要か、また教区としてどう対応するかを数年前から検討していました。またカナダのバンクーバー教区からは、そういった対応の専門家が何度も来日し、さまざまに対応を考えてきました。選手村での霊的必要に応えるために、諸宗教団体が組織委員会から要請される事もありますし、来日する多くの観客への対応も必要と言うことで、いろいろと考えてはきましたが、そういった対応はすべて中止とし、今回のオリンピックのための特別な対応は行わないことにいたします。唯一、組織委員会から諸宗教に要請が来ている、選手のためのビデオでの宗教対応に応えるために、教区広報担当者がビデオを必要数だけ準備はしています。無観客とは言え、選手以外に報道関係など、この時期に東京圏に来られる方々も少なくない模様です。そういった方々には、来週以降、現在の小教区における感染対策を提示し、教会に関連する行動の自粛をお願いする予定です。

今回の緊急事態宣言への教区としての対応は、12日の月曜に公示します。

さて、小教区などに出かけていってミサを司式すると、例えば堅信式などですが、ミサ後に説教の原稿があるかどうか尋ねられることがあります。答えは、そのときによって異なるので、どちらとも言えないのです。でも簡単に見分けることが出来ます。

この下の写真のように、朗読台から落ち着いて話しているときは、多くの場合、原稿があるときです。

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この下の写真のように、目線を上げて、手を動かしてジェスチャーがあるときは、多くの場合、原稿がないときです。

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わたしはその昔、アフリカのガーナで主任司祭をしていましたが、ガーナでは、ミサの説教を普通でも30分くらいするのです。ほとんどが原稿なしでした。どちらかというと、身振り手振りが入った、パフォーマンスみたいな説教でした。もちろん事前に何を話すか、しっかりと考えては行きます。それでもガーナの神父様たちの、熱烈な説教には、その足元にも及びませんでした。

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そんなわけで、もちろん事前によく考えてから(というか黙想してから、です)、メモを持って行くこともあれば、頭にメモをしていくこともありますが、小教区を訪問するときは、そこにあつまった皆さんを見ながら、共同体の雰囲気も勘案しつつ、原稿なしでお話しすることが多いのです。そうすると結構、お話しする時間が不正確になります

カテドラルや、大きな行事の時には、時間のこともあるので、原稿を用意することが普通です。わたしの場合、40字×40行のA4用紙で2ページ書くと、概ね10分の説教となります。毎週土曜日に配信している「週刊大司教」のメッセージは、毎回40字×40行のA4で1ページとしています。

昨年2月から、公開ミサを中止していた関係で、関口教会からミサの配信を始めました。そのときに、配信ミサには、必ず字幕を入れることを、担当者と決めました。最初は調子よかったのですが、そうなると毎回毎回、字幕入れの作業に間に合わせるため、一週間前には次の日曜の説教原稿を完成させていなくてはならなくなりました。メモを作るのは簡単ですが、完成した原稿を作るのは、結構大変です。もちろんどちらにしろ、説教準備は実際に文字にする前の準備が時間を要するものです。

そして現在は「週刊大司教」。これは3回分をまとめて、事前に撮影しています。ですから、例えば今の段階で7月分はすべて撮影が終わっており、わたしは8月分のメッセージを書き続けています。もちろんそれが仕事ですから当然なのですが、そのまま読んでもおかしくない原稿を用意する作業は、なかなか手間がかかるものです(その原稿のまま、字幕が出ますので)。

毎回、全体のプログラムを11分程度に収めるようにしていますので、多くの方に「週刊大司教」をご活用いただけたら幸いです。周りの方にもご紹介ください。Youtubeの「カトリック東京大司教区」のチャンネルからご覧ください。このチャンネルの動画一覧からは、過去のすべての「週刊大司教」や、ロザリオの祈りのビデオをご覧いただけます。または、毎回この「司教の日記」で、メッセージ原稿とその日のビデオを貼り付けていますので、そちらもご活用ください。

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2021年7月 7日 (水)

手術を受けられた教皇様のために祈りましょう

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すでに一般の報道でもご存じのように、教皇様は先日、7月4日のアンジェルスの祈りが終わった後に入院され、手術を受けられました。アンジェルスの祈りの時には、ご自分の入院について一言も言及されなかったため、一時は緊急事態かと緊張が走りましたが、その夜になってバチカンの広報官から、「予定されていた手術であった」と発表されています。

手術は無事に成功し、順調に回復に向かっておられるとのことですが、今週一杯は入院されると伝えられています。教皇様の回復のため、またその健康のためにお祈りいたしましょう。

報道によれば、「7月4日(日)夜、教皇は、ローマ市内のサクロ・クオーレ・カトリック大学付属のアゴスティーノ・ジェメッリ総合病院で結腸の手術を受けられた」とのことです。(バチカンニュース)「担当の医師団の所見によれば、教皇の術後経過は順調で、検査の結果も良好」と伝えられています。3時間ほどの全身麻酔での手術で、バチカンの広報官の発表によれば、「diverticular stenosis」の手術をうけられたとありますから、グーグル翻訳では、「憩室狭窄」となります。そして同じ発表によれば、手術には左側の「hemicolectomy」が含まれたとありますので、またグーグル翻訳によれば、「半結腸切除術」を受けたと言うことになります。また広報官の発表には、手術には10名の大学教授や医者が立ち会ったと記されています。(英語の記者発表はこちら

教皇様は2013年の就任以来、座骨神経痛に悩まされておいででしたが、それ以外には大きな病気をされたことはなく、入院も初めてです。それ以外には白内障の手術を受けられていたと思います。また若い頃に、右肺の一部を切除されていたことも知られています。大きな病気はないものの、84歳なのですから、教皇であるということだけでも、心身に重責が重くのしかかっていると思います。また就任以来進めているバチカンの大きな改革には、教会内外から賛否のさまざまな声があり、教皇様の心的負担はいかばかりかと思います。どうか教皇様の健康のためにお祈りください。

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なお教皇様は、いまのところ7月11日の主日のアンジェルスは行うことになっており、これが10階の病室の窓からなのか、バチカンからなのかは、まだわかりません。また9月12日から15日まで、スロバキアを訪問することも発表されています。またその途中、9月12日にはハンガリーのブダペストで、国際聖体大会の閉会ミサを行うとも発表されました。ハンガリーではこれ以外の行事が予定されず、即座にスロバキアに移動される模様です、ハンガリー政府との関係にさまざまな憶測が流れているようです。

いずれにしても、教皇様が健康にペトロの後継者として、また普遍教会の牧者としての務めを果たすことが出来るように、皆の祈りで教皇様を支えましょう。

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2021年7月 3日 (土)

週刊大司教第三十三回:年間第14主日

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7月となりました。7月4日は年間第14主日です。

「大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」というパウロの言葉が、印象深く響く主日であります。わたしたちは、さまざまな困難に立ち向かって生き抜いていくために、強くありたいと思うものです。しかしパウロは、自分の力を前面に押し出していては、肝心の神の力が働かない。自ら神の働きを妨げるバリアを張り巡らしているのだと諭します。自分のバリアは、こちらからも、向こうからも、互いに働きかけようとする人間関係を断ち切ります。人と人との関係性のないところに、神の力も働きません。それは本日の福音に明らかに記されています。自分の弱さを認めるところに、バリアを取り除く秘訣があるとパウロは語ります。

7月3日は使徒聖トマの祝日でした。「わたしを見たから信じたのか。見ないで信じるものは幸い」と復活されたイエスから言われたトマです。「わたしを見たから信じたのか」は、トマの不信仰を咎め立てする言葉にも聞こえますが、それ以上に、実際に存在するイエスと相まみえることと、復活されたイエスと出会い、その主を信仰する事とは異なることを示唆しています。すなわち、イエスご自身が言われた、「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ(マタイ二十五章三十五節)」という言葉とそれに続く、「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」という言葉にあるように、わたしたちは復活された主を、さまざまな場で、さまざまな人のうちに見いだします。助けを必要とする人との出会いのうちにい、わたしたちは主と出会います。従って、「わたしを見たから信じたのか」という主のトマへの問いかけは、実はその後に、「お前が信じたのは、それだけのためではないだろう。この姿を直接見ないとしても、さまざまな出会いの中で、わたしと見いだすだろう。その個人的出会いによって信じなさい」と続いていくのではなかろうかと思います。わたしたちは、「見ないで信じる」ものですが、それは全く出会いがない中で闇雲に信じているのではなく、教皇ベネディクト十六世がしばしば指摘されたように、「主との個人的な出会い」を通じて信じます。そしてその出会いは、現実社会の中でのさまざまな出会いのうちに実存される、主イエスとの出会いです。

ちなみに、聖トマはその後インドへおもむき、現在のインドにおけるカトリック東方典礼であるシロ・マランカラ、シロ・マラバール教会の礎を築いたと言われます。(上の写真は、2009年のアジア司教協議会連盟総会で行われた、シロ・マランカラ(Syro-Malankara)典礼のJoshua Mar Ignathios司教のミサ)

ワクチンの接種が進んでいます。わたしも先日一回目を受けました。七月末までには二回目を受ける予定です。教皇様ご自身も接種を受けられています。もちろん、ワクチン接種は任意でありますし、体質的に避けた方が良い方もおられますので、教会においては接種を勧めるものの、義務とすることは考えていません。どうかご自分で判断なさってください。また近い将来、多くの方が接種を受けた段階になっても、例えば接種証明を持って、ミサの参加の可否を判断するなどということもいたしません。

以下、本日土曜日午後6時公開の、週刊大司教第33回目の、メッセージ原稿です。

年間第14主日B(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第33回
2021年7月4日

「わたしは弱いときにこそ強いからです」

コリントの教会の手紙でパウロは、人間の思い描く理想とは異なる、いわば逆説の中に、神の真理は存在している事を指摘します。人間の常識が優先されるとき、神の真理はその働きを妨げられる。しかしその思い上がりに気づき、人間の力の限界、つまり弱さを認めたときに初めて、それまで働きを阻んできた「キリストの力がわたしのうちに宿」り、その本来の力を発揮するのだと、パウロは指摘します。思い上がり、思い込み、常識、自己保身、虚栄、などなど、神の力が働くことを妨げるわたしたちの利己的な心の動きは、いくつでも見いだすことが出来ます。

マルコ福音に記されたイエスの物語は、この事実を明確に示します。目の前に神ご自身がいるにもかかわらず、人々の心の目は、人間の常識によって閉ざされ、神の働きを妨げます。閉ざされたこ心の目は、自分たちが見たいものしか見ようとしません。人間の思い上がりは、簡単に心の目を閉ざし、自分たちが正しいと思い込んで選択した行動が、実際には神に逆らう結果を招いていることにさえ気がつかせません。

「出向いていく教会」であれと呼びかけられる教皇フランシスコは、「福音の喜び」の中で、「宣教を中心とした司牧では、『いつもこうしてきた』という安易な司牧基準を捨てなければなりません(33)」と呼びかけます。

その上で教皇は、「わたしは、出向いていったことで事故に遭い、傷を負い、汚れた教会の方が好きです。閉じこもり、自分の安全地帯にしがみつく気楽さゆえに病んだ教会よりも好きです。中心であろうとばかりしている教会、強迫観念や手順に縛られ、閉じたまま死んでしまう教会は望みません。(49)」と指摘されます。

2023年秋に、シノドス世界代表司教会議が開催されます。教皇はそのテーマを、「ともに歩む教会のため―交わり・参加・そして宣教」と定められました。教皇は、教会の「シノドス性」、すなわち、神の民として「ともに歩む」姿勢をテーマとし、それを具体的に生きる教会であるための道を見いだそうとされています。神の民のすべてが、その識別へ参加するように招かれています。

今年の10月から、世界各地の教区において、草の根の声を吸い上げるプロセスが始まります。そのための前提となる質問書は準備が進んでいます。先日のシノドス事務局とのオンライン会議によれば、準備されている質問書は、これまでのような重厚な文書ではなく、短い、理解しやすいものとのこと。どのような方法になるかはまだ定まっていませんが、東京教区でも、また日本の教会全体でも、この秋以降、できる限り多くの方の声をうかがい、バチカンに届けたいと思います。

また東京教区では、同じように、宣教司牧方針を定めるために、多くの方からの意見聴取を時間をかけて行い、昨年末に、今後10年ほどの方向性を記した文書をお示ししたところです。残念ながら、感染症の状況の中で教会活動の自粛が続き、具体的な動きを始めようとするところで滞っていますが、徐々に方針の三つの柱である「宣教する共同体」、「交わりの共同体」、「すべてのいのちを大切にする共同体」を実現する道を歩みはじめたいと思います。

これまでこうしてきたからとか、こうして成功したとか、さまざまな人間の思いにがんじがらめになるとき、新しい挑戦へと踏み出すことを躊躇してしまい、結局、神の力が働くのを妨げることを繰り返しています。勇気を持って、傷つくのを恐れず、出向いていく教会として、福音に生き、福音をあかしして参りましょう。弱さを認めたとき、初めて神の力が働きます。

 

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