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2021年8月29日 (日)

年間第二十二主日:東京カテドラル聖マリア大聖堂(配信ミサ)

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8月29日、年間第二十二主日の午前10時から、東京カテドラル聖マリア大聖堂から配信した大司教司式ミサの説教原稿です。前日土曜日午後6時配信の週刊大司教のメッセージは、この説教の短縮版ですので、多少重複するところがあるのはお許しください。

年間第22主日B(配信ミサ)
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2021年8月29日

緊急事態宣言は継続しており、社会生活にあってわたしたちには、感染対策として慎重な行動をとる必要がまだまだ求められています。すべてのいのちを守る選択として、また隣人愛にもとづく行為として、教会は現在の選択を続けていきたいと思います。同時に病床にある方々の一日も早い回復と、命を助けるために日夜努力を続けておられる医療関係者の方々のために、あらためて祈りたいと思います。

わたしたちは、実際に教会に集まってともに感謝の祭儀にあずかることの出来ない今だからこそ、主イエスのわたしたちの間での現存について考えてみたいと思います。

主は救いの業を成し遂げるために、「常にご自分の教会とともにおられ、特に典礼行為のうちにおられる」と記す第二バチカン公会議の典礼憲章は、続けて、「キリストはミサのいけにえのうちに現存しておられる」と指摘します。(7)

その上で、主ご自身はミサのいけにえをささげる奉仕者のうちに現存し、「何よりも聖体の両形態のもとに現存しておられる」と強調します。

しかし同時に典礼憲章は、「キリストはご自身のことばのうちに現存しておられる」とも記し、「聖書が教会で読まれるとき、キリスト自身が語られるからである」と指摘します。この指摘には重要な意味があります。ミサにおいて聖書が実際に声にして朗読される意味は、書かれている言葉が朗読されることによって、生きた神の言葉としてわたしたちの心に届くからです。ミサのいけにえにおいて、御聖体の秘跡を大切にするキリスト者は、同時に神の言葉の朗読をないがしろにすることは出来ません

同じ公会議の啓示憲章は、「教会は、主の御からだそのものと同じように聖書をつねにあがめ敬ってき〔まし〕た。なぜなら、教会は何よりもまず聖なる典礼において、たえずキリストのからだと同時に神のことばの食卓からいのちのパンを受け取り、信者たちに差し出してきたからで〔す〕」(『啓示憲章』 21)と記して、いのちのパンとしての主イエスの現存である神のことばに親しむことは、聖体の秘跡に与ることに匹敵するのだと指摘しています。

使徒ヤコブは、「心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなた方の魂を救うことが出来ます」と書簡に記しています。

その上で使徒は、その心に植え付けられた御言葉、すなわち主ご自身を「聞くだけで終わる」ような自分を欺いた者ではなく、「御言葉を行う人になりなさい」と呼びかけます。わたしたちは、典礼の中で語られる神の言葉に現存される主を心にいただき、常にその呼びかけに応える者でありたいと思います。朗読される御言葉を通じて、神が今日、わたしたちに何を呼びかけておられるのか、この喧噪に満ちあふれた社会のただ中で、心の耳を澄ます謙遜な者でありたいと思います。あふれんばかりに与えられわたしたちを取り囲む情報に翻弄され、時にわたしたちの心の耳は、神の御言葉を聞き逃してしまうことがあります。心の耳を研ぎ澄ます者でありたいと思います。

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さて、申命記は、イスラエルの民がモーセを通じて神の掟と法を与えられ、それに忠実に生きることで命を得るようにと命じられた話を記しています。さらに、掟と法を守るというその民の忠実さを通じて、諸国民が神の偉大さを知るようになるとも記します。すなわち、神の掟と法を守ることは、自分自身の救いのためだけなのではなく、神の栄光をすべての人に対して具体的に表すためであります。

マルコ福音は、ファリサイ派と律法学者が、定められた清めを行わないままで食事をするイエスの弟子の姿を指摘し、掟を守らない事実を批判する様が描かれています。それに対して福音は、ファリサイ派や律法学者たちを「偽善者」と呼び、掟を守ることの本質は人間の言い伝えを表面的に守ることではなく、神が求める生き方を選択するところにあると指摘したイエスの言葉を記します。

この一年以上わたしたちは、感染対策の基本として、手を洗ったりうがいをしたり、人と交わるときにマスクをしたりすることが、ある意味で当然と考えられるような現実の中にいます。もちろんそういった選択が法で決められているわけではありませんが、繰り返すうちに当たり前の行動となり、そしてそれが長期に及ぶに至って、ルーティン化してしまうこともあり得ます。さすがに今の段階でそういった行動の持つ意味が忘れられたと言うことはないでしょうが、仮に何年も続くのあれば、なぜ手を洗うのか、なぜうがいをするのかの背後にある理由が顧みられなくなり、ただ手を洗うことやマスクをすることやうがいをすると言う行為自体が大切だと思われてしまう可能性もあります。

マタイ福音の5章17節には、「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」というイエスの言葉が記されています。

定められた掟の背後にある理由、すなわち神の望まれる生き方に近づくための道しるべとして与えられた法や掟の役割を思い起こし、人間の言い伝えではなく、神の望みに従って道を歩むことが、掟や法の「完成」であります。

使徒ヤコブが記しているように、その掟や法を定められた背景にある神の呼びかけを、馬耳東風のごとく聞き流すのではなく、神の思いに忠実である者、すなわち「御言葉を行う人」になることこそが、求められています。

あらためて言うまでもなく、わたしたちキリスト者は、すべからく福音宣教者として生きるように招かれています。教皇フランシスコは、「福音の喜び」にこう記します。

「洗礼を受けたすべての人には例外なく、福音宣教に駆り立てる聖霊の聖化する力が働いています。(119)」

その上で教皇は、「イエス・キリストにおいて神の愛に出会ったかぎり、すべてのキリスト者は宣教者です。・・・最初の弟子たちに目を向けてください。彼らはイエスのまなざしに出会った直後、喜んでそれを告げ知らせに行きます。・・・一体、わたしたちは何を待っているのでしょうか。(120)」と記し、福音宣教者としての召命に、わたしたち一人ひとりが目覚めるように促します。

福音を告げるためには、わたしたち自身がそれに生きていなくてはなりません。わたしたちは、単に知識としての信仰を語り伝えるのではなく、信仰を具体的に生きることによって、わたしたちが人生で出会う人をキリストとの個人的出会いへと招かなくてはなりません。

そのためにこそ、わたしたちは、神の言葉をただ聞いて理解する者に留まらず、具体的に行う者となる必要があるのです。

わたしたちは、聖体の秘跡を通じて、現存される主と出会いますが、同時に典礼において語られる神の言葉を通じても出会っていることを思い起こしましょう。そして、語られる御言葉に心の耳を傾け、主の語りかけを具体的に生きる者となりましょう。

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2021年8月28日 (土)

週刊大司教第四十一回:年間第22主日

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8月の最後の主日、年間第二十二主日です。土曜日夕方配信の週刊大司教も第41回目です。(上の写真は、師イエズス修道女会のシスター作品)

ご存じのように、東京教区では9月12日(日)までの小教区でのミサを、非公開としています。大変申し訳ないと思いますが、どうかご理解ください。

聖体拝領についてのご質問をいくつかいただいていますが、基本的に御聖体はミサの中でいただくのですが、病気の時など事情がある場合には、司祭に依頼して他の機会に拝領することが出来ます。現在は、ミサが非公開になっていますし、信徒の皆さんには主日のミサにあずかる義務を免除するという「通常ではない」状態であります。通常ではないのですから、信徒の皆様にあっては、ミサにあずかれない中で、聖体拝領を司祭に直接お願いすることができます。ミサ以外の時にも、司祭は個別に聖体を授けることが出来ますから、直接、小教区の司祭にご相談ください。

それから聖歌に関するお問い合わせもいただいています。通常、youtubeの関口教会アカウントから配信される主日ミサは、原則として関口教会の信徒を対象としていますので、聖歌なども関口教会で通常歌われる聖歌が関口教会の聖歌隊によって歌われます。日本の教会では、典礼聖歌集とカトリック聖歌集が主に使われていますが、教会によっては他の歌集や独自の歌集を採用しているところも少なくありません。通常の日曜日の配信に関しては、関口教会の独自の配信ですので、配信ミサにあずかる方の手元に歌集がない可能性に関しては、御寛恕ください。譜面を画面上に出すことは、さまざまな制約があるため、出来ません。

しかし、現在のようにミサの公開が中止となっている間は、関口教会のyoutubeアカウントから日曜10時のミサを配信しますが、これは大司教司式で、先唱、朗読、聖歌なども関口教会ではなくイエスのカリタス会のシスター方にお願いしています。こちらは、ミサの配信の対象をすべての方にしていますので、聖歌もできる限り、お手元に聖歌集がある歌にするよう努めます。ただ聖体拝領時には、一緒に歌うと言うよりも感謝の黙想の助けとして聞いていただきたいので、一般の歌集にない歌も使われます。できる限り譜面が手元にあるような聖歌を使うように努力いたします。なお譜面を画面上に映し出すことは、さまざまな制約があるため出来ません。

なお、週刊大司教に関しては、始めの歌、途中の演奏、終わりの歌のすべてが、わたしの作曲ですので著作権の問題はありません。演奏者名は最後に短いですがクレジットされています。許可いただいた演奏者の皆さん、ありがとうございます。

間もなく9月です。9月1日から10月4日までは、「すべてのいのちを守る月間」です。これについては9月一日付けで、公示文書を出しますので、後日、東京大司教区ホームページからご覧ください。

また2023年秋の通常シノドス(世界代表司教会議)にむけた、教区での準備も始まりますが、これについても上記同様、9月1日付けで、公示文書を出しますので、後日、東京大司教区のホームページをご確認ください。

以下、本日午後6時配信の、週刊大司教のメッセージ原稿です。

年間第22主日B(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第41回
2021年8月29日

申命記は、イスラエルの民がモーセを通じて神の掟と法を与えられ、それに忠実に生きることで命を得るようにと命じられた話を記しています。さらに、掟と法を守るというその民の忠実さを通じて、諸国民が神の偉大さを知るようになるとも記します。すなわち、神の掟と法を守ることは、自分自身の救いのためだけではなく、神の栄光を具体的に表すためであり、新約の言葉で言えば、福音宣教の業であります。

使徒ヤコブは、わたしたちの心に植え付けられた神のことばこそが神からの賜物であり、その言葉は救いを与える真理の言葉であると記します。その上で使徒は、心に植え付けられた御言葉を「聞くだけで終わる」ような自分を欺いた者ではなく、「御言葉を行う人になりなさい」と呼びかけます。

マルコ福音は、ファリサイ派と律法学者が、定められた清めを行わないままで食事をするイエスの弟子の姿を指摘し、掟を守らない事実を批判する様が描かれています。それに対して福音は、ファリサイ派や律法学者たちを「偽善者」と呼び、掟を守ることの本質は人間の言い伝えを表面的に守ることではなく、神が求める生き方を選択するところにあると指摘したイエスの言葉を記します。

マタイ福音の5章17節には、「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」というイエスの言葉が記されています。さまざまな掟や法が定められた背後にある理由、すなわち神の望まれる生き方に近づくための道しるべとして与えられた役割を思い起こし、人間の言い伝えではなく、神の望みに従って道を歩むことが、掟や法の「完成」であります。すなわち、使徒ヤコブが記しているように、その掟や法を定められた神のことばを、馬耳東風のごとく聞き流すのではなく、「御言葉を行う人」になることこそが、求められています。

あらためて言うまでもなく、わたしたちキリスト者は、すべからく福音宣教者として生きるように招かれています。教皇フランシスコは、「福音の喜び」にこう記します。

「洗礼を受けたすべての人には例外なく、福音宣教に駆り立てる聖霊の聖化する力が働いています。(119)」

その上で教皇は、「イエス・キリストにおいて神の愛に出会ったかぎり、すべてのキリスト者は宣教者です。・・・最初の弟子たちに目を向けてください。彼らはイエスのまなざしに出会った直後、喜んでそれを告げ知らせに行きます。・・・一体、わたしたちは何を待っているのでしょうか。(120)」と記し、福音宣教者としての召命に、わたしたち一人ひとりが目覚めるように促します。

福音を告げるためには、わたしたち自身がそれに生きていなくてはなりません。わたしたちは、単に知識としての信仰を語り伝えるのではなく、信仰を具体的に生きることによって、わたしたちが人生で出会う人をキリストとの個人的出会いへと招かなくてはなりません。

そのためにこそ、わたしたちは、神の言葉をただ聞いて理解する者に留まらず、具体的に行う者となる必要があるのです。

困難な状況が続く中で、不安の暗闇は、わたしたちを分断と対立へと誘います。わたしたちは神の言葉を行うものとして一致を実現するために、愛といつくしみを実践する者となりましょう。

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2021年8月21日 (土)

週刊大司教第四十回:年間第21主日

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週刊大司教も、今回で通算40回目の配信となりました。ご視聴いただいている皆様の、何らかの霊的な手助けとなっているのあれば、幸いです。現在のような社会の状況ですので、この週刊大司教の配信は、このままの形で、今年の待降節前あたりまでは継続する予定です。その後、同じ形で続けるかどうかは、状況を見ながら考えてまいります。

なお8月16日から9月12日まで、東京教区では、小教区におけるミサの公開を中止にしています。東京教区でミサの公開中止は、昨年来のコロナ禍にあって、今回が二回目です。公開を中止にしている間は、関口教会の日曜日午前10時のミサを大司教司式ミサとして、配信をいたします。

週刊大司教は、Youtubeのカトリック東京大司教区のアカウントから配信されます。このページに入って「動画」というところをクリックしていただくと、過去のすべての週刊大司教やロザリオの祈りをご覧いただくことが出来ます。

関口教会のミサの配信は、Youtubeのカトリック関口教会のアカウントです。こちらもそのページに到達して「動画」というところをクリックいただくと、過去の大司教司式ミサをご覧いただくことが出来ます。小教区のミサ配信動画は保存いたしませんが、大司教司式ミサに関しては動画を保存してあります。

なお霊的聖体拝領ではなく、実際に拝領を希望される方は、それぞれの主任司祭にご相談ください。なおカテドラルの関口教会では、以前より、毎週木曜日の午後1時から聖体礼拝を行っていますが、その際にも、司祭にご相談くだされば、聖体拝領が可能です。

以下、本日午後6時配信の、週刊大司教第40回目のメッセージ原稿です。

年間第21主日B(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第40回
2021年8月22日

ヨシュア記は、イスラエルの全部族に対して、ヨシュアが決断を求める様子を記しています。主に仕えるのか、またはほかの神々に仕えるのか、それは自由なのだから自分で決断せよと、ヨシュアは民に迫ります。もちろんイスラエルの民は、「主を捨てて、ほかの神々に仕えることなど、するはずがありません」と応えて、唯一の神への忠誠を誓います。神の偉大な力によって解放された救いの記憶が、心に刻み込まれていたからに他なりません。

ヨハネ福音は、同じように自己決断を迫るイエスの姿が描かれています。自らをいのちのパンとして示され、ご自分こそが、すなわちその血と肉こそが、永遠の命の糧であることを宣言された主を、人々は理解することが出来ません。多くの人が離れていく中で、イエスは弟子たちに決断を迫ります。「あなた方も離れていきたいか」。

ペトロの言葉に、弟子たちの決断が記されています。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます」。日本の教会が、長年にわたって聖体拝領の前に唱えてきた言葉の一部です。その前には、マタイ福音の言葉から、「主よ、あなたは神の子キリスト、永遠の命の糧」が唱えられます。

わたしたちは、主こそが永遠の命の糧であり、主こそいのちの言葉であり、主こそが真理へと至る道であると信じるように、決断を促されています。救いへと至る命の希望は、主イエスにしかあり得ないと信じるように、決断を促されています。いつまでも共にいると約束されたのは主ご自身であって、ヨシュアがそう迫ったように、わたしたちはそれを信じると決断することも、離れていくことも自由です。

わたしたちが、主の現存を信じ選び取る決断するためには、イスラエルの民の決断の根底に、エジプトからの解放の記憶があったように、わたしたち自身と主との出会いの体験の記憶が不可欠です。

それではわたしたちは、一体どこで主と出会うのでしょうか。

「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたこと」と述べられる主は、生活の現実の中でのさまざまな出会いを通じて、とりわけ神の愛といつくしみを具体的にあらわす出会いを通じて、個人的に出会う機会を与えられます。同時に、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる」と約束された主は、共同体の交わりの中で出会いの機会を与えられます。しかしそれ以上に、主は御聖体における現存のうちに、わたしたちを個人的な出会いへと招いておられます。

わたしたちの信仰にとって、キリストとの生きた関係が重要だと、回勅「神は愛」に記された教皇ベネディクト16世は、2011年の主の晩餐のミサの説教で、こう述べています。

「聖体は、一人ひとりの人が深く主に近づき、主と交わる神秘です。・・・聖体は一致の秘跡です。・・・聖体は主とのきわめて個人的な出会いです。にもかかわらず、聖体は単なる個人的な信心業ではありません。わたしたちは感謝の祭儀をともに祝わなければなりません。主はあらゆる共同体の中に完全なしかたで現存されます」

主は常に、わたしたちとともに道を歩んでおられます。主は常に、わたしたちを出会いへと招いておられます。その主に留まると言うわたしたちの決断を、共同体の決断を、待っておられます。

 

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2021年8月15日 (日)

聖母の被昇天2021@関口教会

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8月15日。聖母の被昇天の祭日であるとともに、終戦の日でもあり、教会はこの日で8月6日から始まった平和旬間を締めくくります。

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関口教会では、強い雨が降りしきる中でしたが、11名の子どもたちが初聖体を受けられました。おめでとうございます。初聖体を受けた子どもたちは、説教の後に前に出て、復活のロウソクからそれぞれのロウソクに火をいただいて祝福を受け、また聖体拝領も内陣に上がっていただきました。またミサの最後には、関口教会からお祝いのメダイやカードをいただきました。

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また本日はわたしの霊名であるタルチシオの記念日です。現在の典礼暦では8月12日に移動しているかと思いますが、3世紀頃のローマでの殉教者で、8月15日に殉教したと言われます。捕らわれている人たちに密かに聖体を届けようとして捕まり、殉教した少年と言われますが、実際にはもう少し青年の助祭であったともいわれます。ヨーロッパでは昔から侍者の保護の聖人です。関口教会を始め、多くの方からお祝いの言葉とお祈りをいただきました。ありがとうございます。聖タルチシオのように、最後まで主に忠実に従うものであることが出来るよう、お祈り下さい。

以下、本日の関口教会でのミサの説教原稿です。

聖母の被昇天祭日
2021年8月15日
東京カテドラル聖マリア大聖堂

8月15日は、聖母被昇天を祝う祝日であり、同時に日本においては、1945年のこの日に終わりが宣言された戦争の記憶を思い起こす日でもあります。教皇フランシスコは、2019年11月24日に広島を訪れ、次のように呼びかけられました。

「思い出し、ともに歩み、守る。この三つは倫理的命令です。・・・この三つには、平和となる道を切り開く力があります。ですから、現在と将来の世代に、ここで起きた出来事の記憶を失わせてはなりません」 

その上で教皇は、「原子力の戦争目的の使用は、倫理に反します。核兵器の保有は、それ自体が倫理に反しています」と述べ、核兵器廃絶への決意を世界に向けて宣言されました。

教皇フランシスコが呼びかけるように、「平和となる道を」切り開き続けるために、わたしたちは過去を振り返り、「思い出し、ともに歩み、守る」事を通じて、神の平和の実現のために祈り続け、また行動し続けていきたいと思います。わたしたち人類が、「和解と平和の道具となり」、世界的な連帯のうちに互いを大切にしようと誓うとき、そこに希望が生まれると教皇フランシスコは説いておられます。

教皇は、今般のコロナ禍にあっても、連帯して支え合うことの重要さを強調されてきました。

しかし、このいのちの危機に直面するなかにあってさえも、世界的な連帯と支え合いは実現していません。コロナ禍は疑心暗鬼の暗闇の中で、分断と対立を助長してしまいました。今年の復活祭メッセージで、教皇は次のように失望を露わにされました。

 「社会的、経済的な危機はいまだに深刻な状態にあり、とくに貧しい人に大きな影響を及ぼしています。それにもかかわらず武力紛争と軍備拡張はとどまることを知りません。今、こんなことがあっていいはずがありません。」

わたしたちには、神の平和を確立するため、するべき事が山積みであることは明らかです。教皇の連帯への呼びかけを胸に刻みながら、平和へのさらなる祈りと行動をあらためて誓い、今年の平和旬間を締めくくりたいと思います。

本日のルカ福音は、聖母讃歌「マグニフィカト」を記しています。

「身分の低い、この主のはしためにも、目を留めてくださった」と歌うことで、聖母は、神が人を計る量りについて語ります。それは人間の常識が定める価値に基づく量りではなく、神ご自身の価値観に基づいた量り、すなわちすべてのいのちはご自身がその似姿として創造されたものとして大切なのだ、愛する存在なのだ、という量りであります。人間の常識の量りが価値を認めない存在にも、神は十分な価値を見いだされると聖母は歌います。

神は、自らが創造されたすべてのいのちが、一つの例外もなく大切なのだと言うことをあかしするため、具体的に行動された。そこに神の偉大さがあるのだと聖母は宣言します。自らの神の母としての選び、それ自体が、人間の常識をはるかに越えた神の価値観と、すべてのいのちを愛する神の行動の具体的な現れであると、聖母は強調します。

「主はその腕で力を振るい、思い上がるものを打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし」と歌うことで、聖母は、あたかもこの世を支配しているという幻想におぼれて神を忘れ、傲慢に生きるわたしたち人類に対する警告を発しておられます。誰ひとり排除せず、徹底的に愛を注がれる神は、わたしたちが連帯の絆を深め、互いに支え合うことで、神からの賜物であるいのちを守り、生かすようにと求められます。

エリザベトは「主がおっしゃたことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」と聖母に語りかけます。わたしたちにとって、神のことばが実現することこそが、神の望まれる世界の実現であり、平和の実現であります。平和の実現のために働く者は、神から喜ばれる幸いな存在であります。平和の実現を求めて、神の母、教会の母、平和の女王である聖母に倣って、神の導きに信頼しながら、信仰生活を歩んで参りましょう。

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本日このミサの中で、初聖体を受けられる方々がおられます。イエス様は、弟子たちに、「いつも共にいる」と約束されました。わたしたちは、どこに進んでいけば良いのか分からない暗闇の中に捨て置かれているのではなく、いつもイエス様が共にいてくださることを信じています。とはいっても、わたしたちは直接この目でイエス様を見ることは出来ません。でもイエス様は最後の晩餐の時に、弟子たちにパンとぶどう酒を分け与えて、これこそがご自分の体、ご自分の血であると宣言されました。わたしたちは、御聖体のうちに、イエス様が共にいてくださることを信じています。御聖体を拝領する度ごとに、イエス様が自分のところへ来てくださったことを感謝いたしましょう。イエス様は御聖体を通じて、いつもわたしたちと一緒にいてくださいます。

最後の晩餐の時、イエス様は、「これをわたしの記念として行いなさい」と言われました。この意味は、「わたしの行ったこと、教えたことを、忘れるな」という命令です。そしてこの命令は、単に忘れないだけではなくて、御聖体をいただくわたしたち一人ひとりが、イエス様の教えたように、語ったように、行ったように、行動することを求めています。いつも一緒にいてくださるイエス様は、わたしたちが、イエス様のように生きるようにと求めています。

御聖体をいただくとき、わたしたちはこのイエス様の命令を思い出して、イエス様が教えたことを思い出し、イエス様が語ったことを思い出し、イエス様がなさったことを思い出し、自分も同じように生きる決意を持ちましょう。わたしたちはその挑戦を独りでするのではなく、御聖体をいただく人は皆、互いに助け合う仲間です。

今日のミサで御聖体を一緒にいただく仲間と励まし合いながら、イエス様の模範に倣って生きていきましょう。

 

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2021年8月14日 (土)

週刊大司教第三十九回:聖母の被昇天

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今年は聖母被昇天祭が主日と重なりました。8月15日の日曜日は、聖母の被昇天です。

東京教区ホームページに掲載した公示のとおり、大変残念ですが、ミサの公開を自粛することにいたしました。期間は8月16日から4週間で、9月12日の日曜まで。それ以降をどうするのかについては、9月5日の日曜までにお知らせいたします。詳しくはホームページに掲載の公示をご一読ください。

できる限り秘跡にあずかる機会を提供することは教会の務めですから、ミサの公開を自粛することは本来あってはならないことです。皆様のご協力で、度重なる緊急事態宣言下にあっても小教区における感染対策をしっかりと実施してきたことで、ミサにあずかる皆さんが感染したという事例は報告されていないのですが、信徒の方で感染者が出たという報告は受けています。小教区の事情に応じて最終的には主任司祭が判断できるようにしておりましたので、すでにミサの公開を中止にしていた小教区も、教区内には複数存在しますが、現在の対応で今回の感染の波も乗り切ることが出来るだろうと考えておりました。

しかしそれは甘い判断だったと思います。この数日、毎日報告される検査においての新規陽性者数が高い数字を続けていることや、重症者が東京都で200名を超えていること、ワクチン接種が進んでおり高齢者の重症化は減少したものの、若い世代の重症者が増加していること、さらにこの数日の行政からの人流をさらに減らすなどの強い措置が次の2週間ほどは必要だという呼びかけもあり、これらを踏まえてこの二日ほどで司祭評議会や司教顧問団の意見を聞いた上で、今回の決定をいたしました。即日ミサを中止にすることも考えましたが、多くの皆さんに周知するために主日にアナウンスすることも必要ですので、明日15日にアナウンスすることにして、公開の中止を16日からの4週間といたしました。

感染対策にご理解くださり、ご協力いただいている多くの方々、特に小教区で受付などで奉仕してくださっている皆様に、心から感謝いたします。また今回の措置について、皆様のご理解をいただきますようにお願いいたします。

公示でも触れていますが、信徒の皆様の霊的な糧として一助となればと願い、すでに今回で39回目となる「週刊大司教」のビデオメッセージを、土曜日18時に配信していますが、これは今後も継続します。

同時に、昨年のミサ公開中止時にそうであったように、関口教会の主日10時のミサを大司教司式として、ミサの公開が中止となっている期間は配信します。

「週刊大司教」はYoutubeの東京大司教区のアカウントから、主日のミサはYoutubeのカトリック関口教会のアカウントからの配信です。

またこういった配信が、同時に福音宣教の一助となることを、心から願って作成しておりますので、お知り合いの方々にもお勧めいただければと思います。

以下、本日午後6時配信の、週刊大司教第三十九回聖母の被昇天のメッセージ原稿です。

聖母の被昇天(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第39回
2021年8月15日

「ともに手をとり合って、友情と団結のある未来をつくろうではありませんか。窮乏の中にある兄弟姉妹に手をさし伸べ、空腹に苦しむ者に食物を与え、家のない者に宿を与え、踏みにじられた者を自由にし、不正の支配するところに正義をもたらし、武器の支配するところには平和をもたらそうではありませんか。」

1981年の2月25日、教皇ヨハネパウロ二世は、広島での平和メッセージのなかで、特に若者に対して呼びかけて、そのように述べられました。

イデオロギーの相違から来る東西の対立が深刻となり、全面的な核戦争の可能性も否定できなかった時代に、教皇は「戦争は人間のしわざです。戦争は人間の生命の破壊です。戦争は死です」と、広島の地から力強く宣言されました。

それから38年後、同じ広島の地から、教皇フランシスコはこう呼びかけられました。

「だからこそわたしたちは、ともに歩むよう求められているのです。理解とゆるしのまなざしで、希望の地平を切り開き、現代の空を覆うおびただしい黒雲の中に、一条の光をもたらすのです」

人間はいのちの危機を避けるために、「友情と団結」のうちに、「ともに歩む」ことを通じて行動できるはずだと、教皇たちは広島から平和のための行動を求めて声を上げました。

教皇フランシスコは、「フラテリ・トゥッテイ」にこう記します。

「予期せず新型コロナウイルス感染症のパンデミックが押し寄せ、わたしたちの偽りの安全を露呈しました。・・・共同での行動が取れないことが明らかにされました。過度につながりがあるにもかかわらず、わたしたち全員に影響する問題の解決をいっそう困難にする分裂が存在しました。・・・わたしたちが生きるこの時代に、一人ひとりの尊厳を認めることで、兄弟愛を望む世界的な熱意を、すべての人の間によみがえらせることを、わたしは強く望んでいます。(7,8)」

神の秩序が確立された世界、すなわち平和を求めて、国際的な連帯が不可欠であることが浮き彫りになりました。残念ながら、「友情と団結」のうちに、「ともに歩む」連帯は、実現していません。

聖母被昇天にあたり、ルカ福音は、聖母讃歌「マグニフィカト」を記します。聖母マリアは、全身全霊をもって神を褒め称える理由は、へりくだるものに目をとめられる主のあわれみにあるのだと宣言されています。

すなわち、人間の常識が重要だと判断している当たり前の価値観とは異なっている、神ご自身の価値観に基づいて、自らが創造されたすべてのいのちが、一つの例外もなく大切なのだと言うことをあかしするため、神は具体的に行動された。そこに神の偉大さがあるのだと、聖母は自らの選びに照らし合わせて宣言します。神ご自身の価値観は、「思い上がるものを打ち散らし、権力あるものをその座から引き降ろ」して、排除された人々を兄弟愛のうちに連れ戻す価値観であり、まさしく「友情と団結」のうちに、「ともに歩む」連帯に支えられています。

教皇フランシスコは、「ラウダート・シ」の終わりにこう記しています。

「イエスを大切になさった母マリアは、今、傷ついたこの世界を、母としての愛情と痛みをもって心にかけてくださいます。・・・天に上げられたマリアは、全被造界の母であり女王です。」(241)

聖母の悲しみに心をとめ、その取り次ぎに信頼しながら、全被造界が神の望まれる状態となるよう、神の平和の実現のために、ともに歩んで参りましょう。

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2021年8月12日 (木)

FABC事務局長の任期が判明

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先日お知らせしたとおり、突然にアジア司教協議会連盟(FABC)の事務局長(Secretary General)に任じられました。正式な任命書が、8月11日付けで届きました。写真のとおりです。

これで任期がはっきりしました。わたしの任期は、2021年7月から、2024年12月31日までで、一度再任される可能性があるとのことです。

先日のカトリック新聞には、7月に行われた司教総会の報告が掲載されていましたが、お気づきの方もおられましょうが、役職者の選挙がありました。会長を始めとした司教協議会の役職は、宗教法人としてのカトリック中央協議会の法人役員も兼ねるのですが、その任期は3年で、定例司教総会の始まりから3年後の定例司教総会の始まりまでとなっています。現在の会長である高見大司教様を始めとした役員の任期は2022年の定例司教総会までとなります。

定例司教総会は、以前は長いこと6月でしたが、会計年度の12月締めへのシフトに伴い数年前に変更となり、現在は2月に行われています。すなわち、来年22年2月の司教総会をもって役職者は交代となるのですが、その選挙は交代時期の前年の司教総会で行われることになっています。そこでこの7月の臨時司教総会で選挙を行いました。その結果、カトリック新聞にあるように、わたしが次期の司教協議会会長に選出されています。

来年の2月からは、会長をわたしが務めることになり、副会長には梅村司教様が、事務局担当司教には大塚司教様が、それぞれ選出されました。お祈りください。

ところで、これもすでにご存じとは思いますが、8月8日付けで教区のホームページに、『「カリタス東京」設立準備について』と言う公示をいたしました。詳細は公示文書をお読みいただければと思いますが、東京教区にあるさまざまな社会系の活動を統括する組織として、教区カリタスを立ち上げることにいたしました。

カリタスと言えば、カリタスジャパンに代表されるようなカトリック教会の災害救援組織であり、「国際カリタス」の名称で国連経済社会理事会で認定された国際NGOのことを想起され、つまりは東京教区にその支部を設けるのかとお考えになられるやも知れません。しかしそういうわけではありません。教区カリタスは、カリタスジャパンの下部組織ではありません。独立した、東京教区の組織体です。

教皇ベネディクト16世の回勅『神は愛』に詳しいので、しかも短い回勅なので、是非ご一読いただければと思いますが、教会の三つの本質的務め、「神のことばを告げ知らせること、秘跡を祝うこと、愛の奉仕を行うこと」(25参照)は、互いを前提として、教会を教会として成り立たせるために必要な働きとされています。同回勅には、「教会は、秘跡とみことばをないがしろにすることができないように、愛の奉仕をないがしろにすることもできません(22)」と記されています。その「愛の奉仕(ディアコニア)」を実践するための組織を、「カリタス」と呼び、教皇ベネディクト16世は『教会は、共同体として愛を実践しなければなりません(『神は愛』20)と記して、普遍教会全体、部分教会から地域共同体にいたるまで、そのための組織を設けるように勧めています。

同時に教皇は、部分教会において教区司教は教会の愛の活動を組織し推進する責任者であることを明確にしています(32)。その中で教皇は、司教叙階式の時の約束を取り上げ、こう記します。「(司教)受階者は、貧しい人、苦しむ人、助けを必要とするすべての人に、主の名において、神のいつくしみを示すことを、はっきりと約束します(32)」

従って、東京教区において、「愛の奉仕(ディアコニア)」を行うための組織(カリタス)を整備することは、司教であるわたしの務めです。また教皇は教会の愛の奉仕は、単に慈善活動だけを指すのではなく、正義のための活動も含んでいることを指摘します(28)。教皇ヨハネパウロ二世が指摘し、教皇フランシスコがしばしば繰り返す「総合的」という言葉が思い起こされます。神の愛の実践は、さまざまな側面から問題の根源へと立ち向かう姿勢を要求します。総合的な視点が不可欠です。

そのために教皇フランシスコは、2017年に教皇庁の正義と平和評議会、開発援助促進評議会、移住・移動者司牧評議会、保健従事者評議会を合同して、新しい部署を立ち上げました。日本語訳は「人間開発のための部署」が現在の仮称となっていますが、正確には「総合的人間開発促進の部署」となります。統合された評議会の活動は廃止されたわけではなく、もっと総合的な視点から強化されたというのが現状です。

東京教区でもこれらの教皇の教えや行動に触発されて、総合的な視点から、愛の奉仕の実践を考える部署を立ち上げることにしました。いくつかの既存の社会系委員会を統合しますが、それぞれの活動を廃止するのではなく、総合的な視点から強化していきたいと考えています。また外国籍の方々や、特に難民の方々を支援する活動は、これまでも教会単独ではなくさまざまな団体との協力関係の中で実績を積み重ねて現在に至っています。この活動の中心であるCTICは教区の「愛の奉仕」において重要な役割を担っていますので、今後も活動を中心となって継続し、新しい組織の中で中核となるリーダー的な役割を担ってほしいと願っています。

今後、8月末頃までには具体的な組織や活動内容についての検討委員会を設置し、このために任命されている司教代理の天本師を中心に、来年4月の立ち上げを目指して、検討を続けて参ります。

教区の皆様のご理解とご協力をお願い申し上げます。

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2021年8月 8日 (日)

2021年平和旬間「平和を願うミサ」@関口教会

今年の平和旬間の諸行事は、感染症の状況のために中止となりましたが、本日、年間第19主日の、それぞれの小教区で「平和を願う」意向でミサを捧げていただきました。今年は、すでにお知らせしているとおり、姉妹教会であるミャンマーの教会のため、またミャンマーの人々のため、その平和のために特に祈り、特別献金もお願いしています。なおミサ以外の特別献金も受け付けていますので、こちらのリンクから、教区ホームページをご覧ください。

平和旬間の「平和を願うミサ」として、本日10時の関口教会主日ミサを大司教司式ミサといたしました。またこのミサには、ミャンマーからの信徒の方や、ミャンマー出身のミラノ宣教会司祭で府中教会助任のビンセント神父様も参加してくださり、祈りのうちに連帯を強めました。

以下、本日のミサの説教原稿です。

東京大司教区「平和を願うミサ」
2021年平和旬間
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2021年8月8日

今年も8月6日から15日まで、日本の教会は平和旬間を迎えます。1981年に日本を訪問された教皇聖ヨハネ・パウロ2世は、広島での「平和アピール」で、「過去を振り返ることは、将来に対する責任を担うことである」と言われました。それ以来、日本の教会は、戦争を振り返り、平和を思うとき、平和は単なる願望ではなく具体的な行動が必要であることを心に刻み、この10日間を過ごしてきました。

東京教区ではこれまで、平和旬間委員会を設け、平和旬間の企画運営を行ってきましたが、昨年に続き今年もまた感染症の状況の中、特に今年は緊急事態宣言の下、平和行進や講演会などのすべての企画を中止とせざるを得ない状態になっています。大変残念ですが、しかしだからといって平和のために祈ることをあきらめる必要はありません。わたしたちは、この10日間を通じて、また特に今日のミサを通じて、神の望まれる世界の実現である平和が確立されるように、それぞれの場でともに祈りをささげたいと思います。

今年の平和旬間は、特に東京教区の姉妹教会であるミャンマーの教会に思いを馳せ、ミャンマーの人々のために、またその平和のために特に祈るときとしたいと思います。

2021年2月1日に発生したクーデター以降、ミャンマーの国情は安定せず、人々とともに平和を求めて立ち上がったカトリック教会に対して、暴力的な攻撃も行われています。ミャンマー司教協議会会長であるチャールズ・ボ枢機卿は、2021年5月23日夜、ミャンマー東部ロイコー県カヤンタヤルの聖心教会への攻撃によって4名が亡くなり、大勢が負傷した時に声明を発表され、そこにこう記しておられます。

「私たちは、地域社会の文化財である礼拝所が、国際協定による保護対象となっていることに注目していただきたいと思います。教会、病院、学校は、ハーグ陸戦条約によって紛争時であっても保護されています。そもそも国際協定を持ち出すまでもなく、そこで流された血は敵の血ではないことを忘れないでください。亡くなった方も負傷した方もこの国の国民です。彼らは武装さえしていませんでした。家族を守るために教会の中にいただけなのです。この国のすべての心が、罪のない人々の死に涙しています。今、何百人もの人々が亡くなり、何千人もの人々が難民や国内避難民となっています」

その上でボ枢機卿は、「平和は可能です。平和こそ唯一の道です」と呼びかけています。

ボ枢機卿はクーデター直後の3月に発表したビデオメッセージで、現在のミャンマーの状況を克明に述べた後、次のように教会の使命を指摘しています。

「しかし、このような暗い時代にあっても、わたしたちに呼びかける主の声が聞こえます。教会が証人となり、正義と平和と和解の道具となり、主の手と足となって貧しい人々や恐れている人々を助け、愛をもって憎しみに対抗するようにと」

ボ枢機卿のこの呼びかけに応え、姉妹教会であるわたしたちは、ミャンマーの地に神の望まれる平和が確立されるように、教会としての使命を果たしていきたいと思います。

ところで教皇ヨハネ23世は、回勅「地上の平和」の冒頭に、教会が考える「平和」の意味を明らかにして、こう記しています。

「すべての時代にわたり人々が絶え間なく切望してきた地上の平和は、神の定めた秩序が全面的に尊重されなければ、達成されることも保障されることもありません」

教会が語る「平和」とは、神の定めた秩序が実現している世界、すなわち神が望まれる被造物の状態が達成されている世界を意味しています。神からの賜物であるいのちが危機にさらされているような状況は、神が望まれる状態ではありません。恐れが支配する社会は、神が望まれる状態ではありません。憎しみが支配する社会は、神が望まれる状態ではありません。わたしたちは、神の望まれる社会の実現、すなわち平和のために働き続けたいと思います。

第一朗読列王記には、預言者エリヤがバアルの祭司たちと対峙し勝利した後、王妃イゼベルから恨みを買って、荒れ野へと逃れていく話が記されていました。神の道に忠実であり、その義を貫徹しようとすることは命がけであることが明示されている一方、精根尽き果てた義の人エリヤを、神は励まし続けたとも記されています。神の与えた使命を果たそうとする人に、神は寄り添って励ましてくださいます。わたしたちは、神が望まれる秩序の確立した世界、平和に満ちあふれた世界を実現しようとしています。しかしその神の望みに忠実であることは、たやすいことではありません。教皇ヨハネパウロ二世やオスカル・ロメロ大司教の人生がそうであったように、平和を求め行動することは、時にいのちの危機を伴います。それでもわたしたちは、主が共におられ、慰めを与えてくださることを信じています。

パウロはエフェソの教会への手紙で、わたしたちを生かし力づけてくださる聖霊に逆らうことなく、神に倣うものとして、「互いに親切にし、憐れみに心で接し、・・・ゆるし合いなさい」と勧めます。

ヨハネ福音は、先週に続けて、主ご自身が「いのちのパン」であり、「天から降ってきた生きたパン」を食べるものは、「永遠に生きる」と宣言された言葉を記しています。

主ご自身が自ら十字架へと歩まれたその自己犠牲の理由は、賜物であるいのちを生かし続けようとする神の愛であることが、ここに明示されています。わたしたちには、キリストをいただくものとして、すべてのいのちを守り生かそうとする神の愛に応えて生きる務めがあります。

パウロが指摘するように、「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなど」は、「一切の悪意」」とともに、いのちを大切にする行動とは対極にあり、すなわち平和を破壊する行動につながります。しかし「互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなた方を赦してくださったように、赦し」あうことは、いのちを守る行動に繋がり、平和を築き上げます。

教皇フランシスコは、2019年長崎の爆心地公園を訪れ、いのちを守るために費やされるべき資源が、軍事的争いのために使われ続けている事実を指摘し、こう述べられました。

「軍備拡張競争は、貴重な資源の無駄遣いです。本来それは、人々の全人的発展と自然環境の保全に使われるべきものです。今日の世界では、何百万という子どもや家族が、人間以下の生活を強いられています。しかし、武器の製造、改良、維持、商いに財が費やされ、築かれ、日ごと武器は、いっそう破壊的になっています。これらは神に歯向かうテロ行為です」

その上で教皇は、「どうか、祈り、一致の促進の飽くなき探求、対話への粘り強い招きが、わたしたちが信を置く「武器」でありますように。また、平和を真に保証する、正義と連帯のある世界を築く取り組みを鼓舞するものとなりますように」と呼びかけられました。

慰め主である主が、常にともにおられ力づけてくださることを心に刻みながら、神の平和の確立を求めて、神の愛が支配する世界の実現を目指して、祈り、語り、行動して参りましょう。

 

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2021年8月 7日 (土)

週刊大司教第三十八回:年間第19主日

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暑い毎日が続いております。暑いとは言え、8月7日は立秋です。ですので、この場を借りて、教区の皆様に残暑お見舞い申し上げます。どうか暑さに気をつけて、同時に感染対策も怠らずに、安全にお過ごしください。

現在東京教区が管轄する東京都と千葉県は、緊急事態宣言の対象となっています。この数日発表される、毎日の新規陽性者の数も高い数字が連続しています。加えて感染力が高いと言われるデルタ株が広まっているという報道もありました。

高齢の方を中心にワクチン接種が進んでおり、高齢者が感染しても重症化は避けられているという話も耳にしますが、しかし、慎重な感染対策を続けることは不可欠です。

マスクをすること、手洗いやうがいを徹底すること、互いの距離をとることは、絶対に忘れないでください。加えて、教会でお願いしている、一斉に唄ったり祈りを唱えないことを徹底してくださるようにお願いします。6日の東京都知事の記者会見では、マスク着用や手指の消毒の徹底に加えて、施設の入場制限を徹底することや、互いの距離を1.8mはとることが強く求められています。聖堂の人数制限の厳守と、互いの距離の確保を、今一度、徹底してくださるように、お願いします。

その上で、特にミサが終わった後のことですが、ミサの前も同様です。互いのおしゃべりです。そもそも聖堂では、日頃からいわゆる「おしゃべり」は避けて沈黙のうちに祈りの雰囲気を保っていただきたいのです。そして、対策への慣れもあるのだと思いますが、中にはよく聞き取れないからとマスクをずらしたり、互いに近づいたり、大声になったり、数名の方が密集したりと、今少し慎重に行動してくださるようにお願いいたします。

わたしとしてはなんとか安全を確保しながら、できる限りミサの公開を継続し、秘跡にあずかっていただく機会を確保したいと願っています。ですので、どうか今しばらくの間は、慎重な対策の徹底をお願いします。

すでに何度もお知らせしているように、ミサ参加者の受付をしてくださる方や消毒を担当してくださる方の確保が難しい場合、またそういった方々から不安が聞かれる場合は、主任司祭は「躊躇せず」に、ミサの公開を中止してください。地域によって感染の事情が大きく異なっていますので、基本的には、「いまはミサのために聖堂に集まることは難しいことなのだ」と言う認識を大前提に、お考えください。

少しでも体調の悪い方や、不安のある方は、どうか自宅でお祈りください。主日のミサの義務は、現在も教区全体に対して免除しています。

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以下、本日夕方6時配信の、週刊大司教第三十八回のメッセージ原稿です。

年間第19主日B(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第38回
2021年8月8日

列王記は、預言者エリヤがバアルの祭司たちと対峙し勝利した後、王妃イゼベルから恨みを買って、荒れ野へと逃れていく話を記します。神の道に忠実であり、その義を貫徹しようとすることは命がけであることが明示されている一方、精根尽き果てた義の人エリヤを、神は励まし続けたとも記されています。神の与えた使命を果たそうとする人に、神は寄り添って励ましてくださいます。

パウロはエフェソの教会への手紙で、わたしたちを生かし力づけてくださる聖霊に逆らうことなく、神に倣うものとして、「互いに親切にし、憐れみに心で接し、・・・ゆるし合いなさい」と勧めます。神の聖霊に満たされているものは、キリストご自身が愛ゆえにあがないのいけにえとなられたことに倣い、愛によって歩むのだとパウロは指摘します。

ヨハネ福音は、先週に続けて、主ご自身が「いのちのパン」であり、「天から降ってきた生きたパン」を食べるものは、「永遠に生きる」と宣言された言葉を記しています。

賜物であるいのちを生かし続けようとする神の愛は、主ご自身が自ら十字架へと歩まれたその行為のうちに明示されています。わたしたちには、キリストをいただくものとして、その神の愛、すなわちすべてのいのちを守り生かそうとする神の愛に応えて生きる務めがあります。

わたしたちにとって、すべてのいのちを守るために行動することは、平和のための行動でもあります。パウロが指摘するように、「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなど」は、「一切の悪意」」とともに、いのちを大切にする行動とは対極にあり、すなわち平和を破壊する行動につながります。しかし「互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなた方を赦してくださったように、赦し」あうことは、いのちを守る行動に繋がり、平和を築き上げます。

「過去をふり返ることは、将来に対する責任を担うことです」と、教皇ヨハネパウロ二世は、1981年に広島で述べられました。

第二次世界大戦が終結してから今に至るまで、戦争の悲惨な現実が繰り返し多くの人によって語り続けられてきたのは、戦争が自然災害のように避けることのできない自然現象なのではなく、まさしく教皇ヨハネパウロ二世が広島で指摘されたように、「戦争は人間のしわざ」であるからに他なりません。そして、「人類は、自己破壊という運命のもとにあるものでは」ないからこそ、その悲劇を人間は自らの力で避けることが可能です。

教皇フランシスコは、長崎の爆心地公園で、こう述べられました。

「軍備拡張競争は、貴重な資源の無駄遣いです。本来それは、人々の全人的発展と自然環境の保全に使われるべきものです。今日の世界では、何百万という子どもや家族が、人間以下の生活を強いられています。しかし、武器の製造、改良、維持、商いに財が費やされ、築かれ、日ごと武器は、いっそう破壊的になっています。これらは神に歯向かうテロ行為です」

教会にとって平和とは、戦争がないことだけを意味してはいません。それは神の秩序が確立された状態であり、すべてのいのちが大切にされている共通の家で、だれも排除されることのない社会を実現することであります。天上での完成の日を目指して、わたしたちは神が愛をもって創造されたこの世界を、日々、神の望まれる姿へ近づける努力を怠ってはなりません。その使命を果たす努力を続けるわたしたちに、なかなかゴールに到達できずに疲れ切ったわたしたちに、主は常に寄り添い、ともに歩んでくださいます。

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2021年8月 6日 (金)

2021年の平和旬間です

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8月6日は主の変容の主日であるとともに、広島における原爆投下を記憶する日でもあります。多くの方が一瞬にしていのちを奪われ、その後も影響を残した破壊的な核兵器は、決して使われてはならないという思いを新たにし、戦争で亡くなられた多くの方の永遠の安息を祈ります。

教皇ヨハネパウロ二世が、1981年に広島の地から世界に向けて発信された言葉が響きます。

「戦争は人間のしわざです。戦争は人間の生命の破壊です。戦争は死です。この広島の町、この平和記念堂ほど強烈に、この真理を世界に訴えている場所はほかにありません」

「過去をふり返ることは将来に対する責任を担うことです。1945年8月6日のことをここで語るのは、われわれがいだく「現代の課題」の意味を、よりよく理解したいからです。あの悲劇の日以来、世界の核兵器はますますふえ、破壊力をも増大しています」

同じ広島の地で、2019年、教皇フランシスコは世界に向けてこう語りかけておられます。

「わたしは謹んで、声を発しても耳を貸してもらえない人たちの声になりたいと思います。現代社会が置かれている増大した緊張状態、人類の共生を脅かす受け入れがたい不平等と不正義、わたしたちの共通の家を保護する能力の著しい欠如、あたかもそれで未来の平和が保障されるかのように行われる継続的あるいは突発的な武力行使を、不安と苦悩を抱いて見つめる人々の声です」

「戦争のために原子力を使用することは、現代においては、これまで以上に犯罪とされます。人類とその尊厳に反するだけでなく、わたしたちの共通の家の未来におけるあらゆる可能性に反する犯罪です。原子力の戦争目的の使用は、倫理に反します。核兵器の保有は、それ自体が倫理に反しています」

日本の教会は、教皇ヨハネパウロ二世の平和への願いに触発されて、日本訪問の翌年から、8月6日の広島の日に始まり、9日の長崎の日、そして15日の終戦の日にいたる10日間を「平和旬間」と定めて、亡くなられた方々の永遠の安息を祈り、戦争の記憶を伝え、平和のために祈る時としてきました。

わたしたちが語る平和は、単に戦争や紛争がない状態なのではなく、神が望まれる世界が実現すること、すなわち神の秩序が支配する世界の実現です。わたしたちは日々、主の祈りにおいて、「御国が来ますように」と祈りますが、それこそは神の平和の実現への希求の祈りです。求めて祈るだけではなく、わたしたちがそのために働かなくてはなりません。その意味で福音宣教は平和の実現でもあります。

毎年、8月5日には、広島教区で開催される平和記念行事に全国の司教が参加してきましたが、今年は現在のような状況であるため、わたしは参加を取りやめました。本来は平和公園からカテドラルまで平和行進も行われてきたのですが、昨年に続いて今年も中止となりました。

なお昨日8月5日夕方のミサの様子は、以下の広島教区のビデオをご覧ください。

東京教区でも例年は平和旬間委員会を設け、平和旬間の企画運営にあたり、教区全体として、また宣教協力体として、さまざまな企画を行ったり、祈りの時を設けたり、平和行進をしたりして、この10日間を過ごしてきました。しかし昨年に続き今年もまた感染症の状況の中、特に今年は緊急事態宣言の下、また毎日報告される新規陽性者の数も増加する中で、すべての企画を中止とせざるを得ない状態になっています。

すでにお知らせしていますが2021年の平和旬間は、特に東京教区の姉妹教会であるミャンマーの教会に思いを馳せ、ミャンマーの人々のために、またその平和のために特に祈るときとしたいと思います。東京教区のホームページに、特設サイトを設けたりますのでご覧ください。

ミャンマーは2021年2月1日に発生したクーデター以降、平和からはほど遠い状況にあります。また感染症への対策も後手に回り、先日も以前からよく存じ上げているパテイン教区のJohn Hsane Hgyi司教様が、67歳で、新型コロナ感染症のために亡くなられました。

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人々とともに平和を求めて立ち上がったカトリック教会に対して、暴力的な攻撃も行われています。シスターが軍隊の前に跪いて手を広げ、暴挙を自分の体で止めようとした姿が、写真で広まりました。その思いに、わたしたちも心をあわせたいと思います。

東京教区は、長年にわたって、主にミャンマーにおける神学生養成を支援してきました。教区ではレオ神父様と高木健次神父様が中心になって、ミャンマーの教会と交流を続け、わたしも昨年2月、コロナ禍の寸前に、現地の神学生たちを訪問することが出来ました。そのような関係を通じて培われたミャンマーの教会との関係です。ミャンマー司教協議会会長であるチャールズ・ボ枢機卿の平和への呼びかけにわたしたちも応えたいと思います。聖霊の導きのもとに、政府や軍の関係者が平和のために賢明な判断が出来るように、弱い立場に置かれた人々、特にミャンマーでの数多の少数民族の方々のいのちが守られるように、信仰の自由が守られるように、神の平和がもたらされるように、この平和旬間にともに祈りましょう。

平和旬間にあたり、日本カトリック司教協議会会長である高見大司教様の談話が発表されています。こちらのリンクからご覧ください。

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