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2021年9月19日 (日)

年間第25主日:東京カテドラル聖マリア大聖堂(配信ミサ)

210912cathedralmass

年間第25主日の9月19日、午前10時から、非公開でささげられ配信された主日ミサの説教の原稿です。

新規陽性者数が減少を続けていることが事態が好転している兆しだと信じていますが、このまま9月末日で緊急事態宣言が解除されるのであれば、10月1日からは、以前のステージ3に戻して、ミサを公開するようにしたいと思います。

なお10月以降、小教区の主日ミサとは別に、教区内で土曜日などにミサを伴う行事がいくつか予定されていますが、それぞれの主催者にあっては、必ず聖堂を管理する主任司祭・責任者と相談し、その小教区などの定めている感染対策を遵守されるようにお願いいたします。

以下、本日午前10時に関口教会のYoutubeチャンネルで配信されたミサの、説教原稿です。

年間第25主日B(配信ミサ)
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2021年9月19日

公開ミサを自粛しているために教会活動が立ち止まってしまい、そのためどうしても忘れられがちなのが残念ですが、世界の教会は教皇様の回勅「ラウダート・シ」に触発された「被造物の季節」を、そして日本の教会は「すべてのいのちを守る月間」を、9月1日から10月4日まで、すなわちただいまの時期に過ごしております。

人類は常になんらかの発展を指向し、与えられた資源を活用することで、より良い生活を、そして社会を手に入れようと努めてきました。もとより生活が便利になり、健康や安全が保証される社会を実現することは、より共通善に近づくことであるとも考え、研鑽を重ね、努力を積み上げてきました。残念なことに、教皇が回勅「ラウダート・シ」の冒頭で指摘するように、その努力の過程でわたしたち人類は、自分たちこそが「地球をほしいままにしても良い支配者や所有者と見なすように」なり、「神から賜ったよきものをわたしたち人間が無責任に使用したり乱用し」てきました。その結果、共通の家である地球を深く傷つけてしまったと指摘する教皇は、さらにこう述べています。

「わたしたちが神にかたどって創造された大地への支配権を与えられたことが他の被造物への専横な抑圧的支配を正当化するとの見解は、断固退けられなければなりません。」(67)

その上で、「あらゆるものは密接に関係し合っており、今日の諸問題は、地球規模の危機のあらゆる側面を考慮することの出来る展望を」(137)必要とすると指摘し、密接に結びあわされている森羅万象を俯瞰するような、総合的視点が不可欠であることを強調されます。

わたしたちの心には、競争の原理が刻み込まれているのでしょうか。競争に打ち勝って、より良い人生を手に入れたい。そう願って、世界的な規模で続けられたさまざまな競争は、結果として、共通の家である地球を傷つけてしまった。それは、わたしたちの願いが、神の御心に適う願いではなかったためではないでしょうか。

「彼の言葉が真実かどうか見てやろう」という「神に逆らう者」の言葉が、知恵の書には記されています。神に逆らう者にとっては、神による永遠の救いではなく、この世での救いこそが現実であって、それは、神のいつくしみとは対立する利己的な欲望の実現でしかありません。しかし神に従い真実を追究する者の生き方は、この世が良しとする価値観に基づいた生き方と真っ向から対立することが、そこには記されています。

教皇は、わたしたちにいのちを与えられた創造主が、人類にどのような使命を与えたのかを記す創世記の話を引いて、「ラウダート・シ」にこう記します。

「聖書が世界という園を『耕し守る』よう告げていることを念頭に置いたうえで、・・・『耕す』は培うこと、鋤くこと、働きかけることを、『守る』は世話し、保護し、見守り、保存することを意味します」

すなわちわたしたちは、被造物の上に君臨して支配し浪費する存在ではなく、被造物を管理し守り育てるようにと命じられた、奉仕する支配者でなければならないことが記されています。

心に刻み込まれた競争の原理は、利己的欲望と相まって、わたしたちを君臨する支配者にしてしまいました。しかし「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」と述べられた主は、わたしたちに奉仕する支配者となることを求められます。それこそは、主イエスご自身が自ら示された生き方であります。

「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである(マルコ10章45節)」と、マルコ福音の続きに記されています。

使徒ヤコブは、ねたみや利己心が、混乱やあらゆる悪い行いの源であると指摘します。正しい動機、すなわち神が与える知恵に基づく価値観によらない限り、神の平和は実現せず、いのちを奪うような混乱が支配すると、使徒は指摘します。

使徒は、「得られないのは願い求めないからで、願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で求めるからです」と記します。「間違った動機」とは、すなわち時空を超えたすべての人との繋がりに目を向けず、今の自分のことだけを考える利己心がもたらす動機です。その利己的な動機による行動の選択が、被造界を破壊してきたのだと教皇は指摘します。

受難と死へと至るイエスの生涯そのものが、人間の常識をはるかに超えた人生です。その人生にこそ、自らが創造された人類に対する、神の愛といつくしみが具現化しています。イエスの受難への道は、神の愛のあかしであります。十字架は、神の愛の目に見える証しであり、十字架における受難と死こそ、具体的な行いによる神の愛のあかしです。神の常識は、救いへの希望は、人間がもっとも忌み嫌う、苦しみと死の結果としてあることを強調します。この世が常識的だとする価値観で信仰を理解しようとするとき、わたしたちは神の愛といつくしみを、そしてその心を、理解できない者で留まってしまいます。信仰は、常識をはるかに超えたところにあります。

主イエスは、その受難と死を通じて、わたしたちに君臨する支配者ではなく、奉仕する支配者としての生き方を明確に示し、わたしたちがその生き方をあかしするようにと求められます。

繰り返しわたしたちを襲う大規模な災害は、そのたび事にわたしたちに価値観と発想の転換を求めます。わたしたちの徹底的な回心を求めます。そしていま、感染症のただ中で、わたしたちは価値観と発想の転換を求められ、回心を求められています。

9月7日、教皇フランシスコは、正教会と英国国教会のそれぞれの代表とともに、環境に関するメッセージを発表されました。その中で、環境をめぐる持続可能性を具体化することが急務の課題であると指摘し、さらには環境問題が、特に貧しい人々に与える影響を考慮することや、こういった課題に取り組むための世界的な協力構築の必要性を真摯に考えるようにと求めておられます。その上で、このパンデミックの状況は、わたしたちが短期的視点から目先の利益に捕らわれて行動するのか、はたまた回心と改革の時とするのかの選択肢を与えているのだと呼びかけます。

いまは視点を転換し、常識を打ち破り、神の呼びかけに耳を傾け、その知恵に倣って生きる道を選び取るときであります。

日本では明日9月20日が、敬老の日とされています。それに伴って、今日の主日を、特に高齢の方々のために祝福を祈る日としている教会も多いのではないでしょうか。何歳からを高齢者と呼ぶのかについては、さまざま議論があることでしょうが、人生の経験を積み重ね、いのちの時を刻んでこられた多くの方々のために、神様のさらなる豊かな祝福をお祈りいたします。教皇様は今年から、7月の最後の主日を、「祖父母と高齢者のための世界祈願日」と定められました。社会の常識は、年齢とともに人は役割を失い、社会の中心から離れていくことを当然としています。しかし、福音に生き、福音をあかしする生活には、定年はありません。どこにいても、どんな状況でも、この世に立ち向かう主の福音をあかしするために、神の呼びかけに応える道を選択し、たゆむことのない回心の道を歩みましょう。

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2021年9月18日 (土)

週刊大司教第四十四回:年間第25主日

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9月19日、年間第25主日です。

この時期、9月の第3月曜日が敬老の日と定められているため、一番近い主日に、教会でも高齢の方への祝福などの行事を行ってきたところが多いかと思います。大変残念ですが、今年は公開ミサを自粛しているため、こういった行事も中止となっています。カテドラルから配信させていただく9月19日の主日のミサでは、いつも通り教区の皆さんのためにミサを捧げますが、特に敬老の日に因んで、人生の大先輩である兄弟姉妹の皆さんの上に神様の祝福と守りがあるようにお祈りいたします。(上の写真は、教皇様が海外などへ司牧訪問に出かける前後に必ず訪れて祈りをささげるサンタ・マリア・マジョーレ大聖堂の「ローマ人の救い」の聖母)

国民の祝日に関する法律には、この日は、「多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う」日であると記されています。今日のメッセージでも触れていますが、教皇様は7月の最後の主日を、「祖父母と高齢者のための世界祈願日」と定めておられます。教皇様の意図は、もちろん日本の敬老の日と同様の思いも込められていますが、それと同時に、一人ひとりのいのちに与えられている使命には定年はないことも強調されています。すなわち、年齢や健康や体力の面から、社会の中心から徐々に退いたとしても、福音を告げしらせることや福音に生きることには定年はない。その年代に応じた役割があることを指摘されています。

この祈願日の典礼の手引きには、「若者も高齢者も、祖父母も孫たちも、同じ家庭に属していてもいなくても、わたしたち全員は「体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです」ということを理解するため」に、この日は定められていると記されています。それぞれに与えられている使命を自覚し、今いのちを生きている状況に応じて、キリストの一つの体の部分としての役割を果たしていきたいと思います。

政権を担っておられる自民党の総裁選が始まっており、その後には新しい首相の誕生とさらには衆議院議員の選挙も控えています。これまで積み重なってきた国内のさまざまな事情と、さらには国際的な関係など、リーダーが対処しなければならない課題は大きく、国家の舵取りは難しいことだと思います。共通善や人間の尊厳の実現に向かって少しでも近づく国家であるように、聖霊の照らしと導きを、そして政治のリーダーたちへの叡智と励ましを、この時期、特に祈りたいと思います。

以下、本日午後6時配信の、「週刊大司教」第四十四回、年間第25主日のメッセージ原稿です。

年間第25主日B(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第44回
2021年9月19日

「彼の言葉が真実かどうか見てやろう」という「神に逆らう者」の言葉が、知恵の書には記されています。神に従い真実を追究する者の生き方は、この世が良しとする価値観に基づいた生き方と真っ向から対立することが、そこには記されています。

使徒ヤコブは、ねたみや利己心が、混乱やあらゆる悪い行いの源であると指摘します。正しい動機、すなわち神が与える知恵に基づく価値観によらない限り、平和は実現せず、いのちを奪うような混乱が支配すると、使徒は指摘します。

マルコ福音は、誰が一番偉いのかと議論する弟子たちに対するイエスの言葉を記しています。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者となりなさい」というイエスの言葉は、弟子たちに対する回答と言うよりも、この世への警句であります。神が良しとされる価値観は、弟子たちが捕らわれているような、この世の価値観とは全く異なっているのだと言うことを悟らせようとする言葉です。受難と死へと至るイエスの生涯そのものが、人間の常識をはるかに超えた人生です。

その人生にこそ、自らが創造された人類への愛といつくしみが具現化していると頭で理解はしても、心情的にそれを素直にその通りだと認めることは難しい。もっとほかの方法があるだろうと思ってしまいます。しかし神の常識は、人間がもっとも忌み嫌う、苦しみと死の結果にこそ、神の愛といつくしみがあるとするのです。この世が常識的だとする価値観で信仰を理解しようとするとき、わたしたちは神の愛といつくしみを、そしてその心を、理解できない者で留まってしまいます。信仰は、常識をはるかに超えたところにあります。

日本では明日9月20日が、敬老の日とされています。それに伴って、今日の主日を、特に高齢の方々のために祝福を祈る日としている教会も多いのではないでしょうか。

教皇様は今年から、7月の最後の主日を、「祖父母と高齢者のための世界祈願日」と定めておられます。この機会に、そう定められた教皇様の意向を振り返ってみたいと思います。

教皇様はこの祈願日に向けたメッセージにこう記しておられます。

「わたしたちの孤独は、主にとってどうでもよいことではありません。イエスの祖父である聖ヨアキムも、子どもがいなかったために共同体から孤立していたと伝えられています。彼の人生は、妻アンナ同様、無益なものとみなされていました。けれども主は天使を遣わして彼を慰めました」

その上で教皇様は、「このパンデミックの数か月のように、何もかも真っ暗に思えるときでも、主は天使を遣わし、わたしたちの孤独を慰め続け、「わたしはいつもあなたとともにいる」と繰り返しておられます」と述べておられます。

そして、主が共にいてくださるわたしたち一人ひとりには、年齢に関係なく、使命があるのだとして、こう記します。

「いくつであろうと、仕事を続けていようがいまいが、一人暮らしだろうが家族と一緒だろうが、若くして孫をもとうが老齢になってであろうが、自立できていようが支援が必要だろうが、関係ありません。福音を伝える務め、孫たちに伝統を伝える務めに定年などないのです」

社会の常識は、年齢とともに人は役割を失い、社会の中心から離れていくことを当然としています。しかし、福音に生き、福音をあかしする生活には、定年はありません。どこにいても、どんな状況でも、この世に立ち向かう主の福音をあかしする業を続けてまいりましょう。

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2021年9月14日 (火)

2021年「秋田の聖母の日」

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第7回目となる、秋田の聖母の日が、本日9月14日と明日15日行われています。とはいえ、昨年に続き、感染症の状況のため、秋田の聖体奉仕会に集まることは取りやめとなり、オンラインでの開催となりました。(写真は、配信ビデオからのスクリーンショットです)

オンラインで公開されたビデオは、youtubeで後ほど見ていただくことも出来ます。わたしは、毎年この日に合わせて巡礼を企画してきた横浜の信徒の旅行者「パラダイス」が企画した、zoomでの祈りの集いから、参加した皆さんと一緒に祈りました。

秋田の聖母の日が始まったきっかけは、2013年10月に、ローマ教区が主催して世界各地の聖母巡礼所を中継で結んだロザリオの祈りに参加したことでした。当時のことはこちらに記してありますし、当時にビデオもまだ見られるようです。リンク先に貼り付けてあります。10月12日の夜に始まり、時差の関係で徹夜で祈りをささげ、翌日のミサで締めくくった集まりには、海外も含め各地から多くの方が参加されました。当時の日記には、事前申し込みは800人ほどでしたが、当日はそれ以上に人が聖体奉仕会に集まったと記されています。

この行事に触発されて、翌年から、9月14日の十字架称賛と15日の悲しみの聖母の両日、聖体奉仕会で「秋田の聖母の日」と名付けた祈りの集いを開催してきました。それ以来、毎年、国内外から、多くの方が参加してくださっています。また秋田地区の神言会司祭団も、協力してくださっています。わたしは17年に新潟教区から東京教区に移っても、毎年この行事には参加しておりましたし、それに併せて巡礼も行ってきました。残念ながら、昨年と今年は、感染症の状況の中で多数が集まる行事は中止となりましたが、今年は初めての試みとして、オンラインでの開催となりました。

来年こそは、秋田の地で皆さんと一緒になって祈りをささげることが出来ることを、希望しています。この困難な状況から解放されるように、聖母の取り次ぎでお祈りいたしましょう。

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本日は十字架称賛の祝日です。いまでこそ、ファッションで十字架を身につける一般の方もおられるようになっていますが、もちろん十字架の起源は、処刑の道具であります。決して「かっこいい」ものではありません。しかしその十字架に、特別な意味を与えたのは、主イエスであります。主イエスこそが、「恐るべき処刑の道具」を「輝かしい栄光のあかし」に変えてくださいました。だからわたしたちは、誇りを持って十字架を示します。感謝を持って十字架を仰ぎ見ます。信頼を持って十字架により頼みます。勇気を持って自らの十字架を背負います。

教皇フランシスコは、2015年から16年にかけて開催したいつくしみの特別聖年の大勅書「イエス・キリスト、父のいつくしみのみ顔」にこう記しています。

「十字架の傍らでマリアは、愛弟子ヨハネとともに、イエスが口にしたゆるしの言葉の証人となりました。イエスを十字架につけた者たちに与えられた究極のゆるしは、神のいつくしみはいかに果てないものであるかを私たちに教えます。マリアは、神の子のいつくしみが限りなく、例外なく誰もがこれに与ることを証言しています」

十字架の傍らに立つ聖母マリアと弟子ヨハネは、苦しみのうちに自らをいけにえとして奉献されるイエスに一致するとともに、自らが生涯をかけて説き続けた愛といつくしみの教えを、生命の極みにあっても言葉と行いであかしするイエスの姿に触れることになりました。

十字架の上で「父よ彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と、迫害する者のために赦しと神のいつくしみを祈り、「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と、神の前に謙遜にある者のためには愛の言葉を述べられたイエス。

パウロはコリント人への手紙にこう書いています。

「キリストがわたしを遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです。(1コリント1章17節)」

人間の知恵を労して、いくら神の愛といつくしみについて雄弁に語ってみせたところで、その言葉の知恵は、結局はキリストの十字架をむなしくしてしまうとパウロは説きます。なぜならば、キリストの十字架上での生命の極みにおける生きる姿こそは、愛といつくしみという福音の、まさしく目に見えるあかしそのものだからです。そのあかしを生きていない私たちが、いくら人間の浅はかな知恵を労して言葉を並べ立てても、イエスのすさまじいまでの生命を賭した十字架上での愛といつくしみのあかしに並ぶことなど出来ません。十字架は神の愛の目に見える証しであります。神の愛の具体的な行動の目に見える証しであります。

私たちも、私たちの生きる姿そのものによって、イエスの教えを、福音を、その愛といつくしみを、あかししていかなくてはなりません。教会は、キリストの十字架の傍らに立ち続け、苦しみのうちにおけるイエスの愛といつくしみの言葉と行いに一致し、自らもその模範に倣いながら生きていかなくてはなりません。その生きる姿で、福音をあかししていかなくてはなりません。福音に基づいた世界、すなわち神が望まれる世界を実現するためです。

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明日もまた秋田の聖母の日の二日目が、ビデオで配信されます。どうぞ一緒に、聖母とともに祈りをささげましょう。すべての人に救いの福音がもたらされるように、聖母の助けを願いましょう。わたしたちが主イエスの十字架での苦しみにあずかり、主の愛を身に受けて、自らあかしして生きることが出来るよう、その模範である聖母に倣うことが出来るように祈りましょう。(写真上は、ローマのサンタ・マリア・マジョーレ大聖堂)

なお、秋田の聖母の日のビデオ配信などは、こちらのリンクから聖体奉仕会のホームページをご覧ください。

 

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2021年9月12日 (日)

年間第24主日:東京カテドラル聖マリア大聖堂(配信ミサ)

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教皇様は、本日9月12日朝にローマを発ち、まずハンガリーのブダペストへ向かわれます。ブダペストでは、折から開催されている第五十二回国際聖体大会の閉会ミサを司式されます。

その後、スロバキアの首都ブラチスラヴァへ移動され、15日(水)まで滞在され、さまざまな行事をこなされることになっています。先般手術を受けられたこともあり健康不安説も出たりしましたが、教皇様はいつもと変わらず司牧訪問へ出かけられました。先ほどブダペストへの到着の動画を拝見しましたが、お元気な様子でした。教皇様の今回の司牧訪問の安全と成功のために、お祈りください。

今回の司牧訪問の詳しい日程は、英語ですが、こちらのバチカンのサイトをご覧ください

先日来お知らせしている2023年秋のシノドスへの道程ですが、一番最初の準備文書が、9月7日の教皇庁でのシノドス事務局による記者会見で発表されました。翌日には英語版が、メールで届けられましたので、現在、中央協議会で翻訳中です。これに関しては、想像より長い文書でしたが、10月以降の教区での意見の聴取開始が求められていますので、間もなくないようについてお知らせするように、東京教区の担当者である小西神父様と準備を進めてまいります。また必要な情報は、適宜、教区のホームページに掲載します。

以下、本日9月12日午前10時に東京カテドラル聖マリア大聖堂でささげられた配信ミサの、説教の原稿です。昨日の週刊大司教と重なるところが多々ありますが、ご容赦ください。

年間第24主日B(配信ミサ)
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2021年9月12日

感染症の拡大を防ぎ、また自分のことだけではなく、隣人のいのちを守るために、愛の心を持って、教会の活動自粛に協力いただいている皆様に、心から感謝いたします。今日の主日も、教会共同体の霊的な絆に繋がれて、わたしたちは祈りのうちに一致しています。この配信ミサを一つの助けとして、互いの霊的な絆の存在に心を向けたいと思います。またこうしてカテドラルでささげられている大司教司式のミサは、ここにいるごく少数の者の個人的信心のためではなく、教区共同体の典礼行為として、教区のすべての皆様との霊的一致のうちにささげられていることを、あらためて申し上げたいと思います。復活の主は、死に打ち勝ったそのいのちの力をもって、いつもわたしたちと共にいてくださいます。

さて、この夏には、オリンピックとパラリンピックという世界的な行事が、東京を中心に開催されました。先週の日曜日9月5日は、パラリンピックの閉会式でありました。

感染症が終息しない中で一年延期されたこともあり、また緊急事態宣言のなかでもありましたので、先に開催されたオリンピックとともに、こうした状況下で国際的な行事を開催すること自体に賛否両論がありました。参加された方々や現場での運営にあたった方々には大きな苦労があったことだと思いますし、わたし自身も含め、開催を不安に感じた方も少なくないと思います。

教区としては、数年前から、選手村での宗教的サポートのために、他の宗派の方々と一緒になって協力する準備を進めていたところでしたが、このような状況下で、実際に選手村で活動することは出来なくなりました。また選手や関係者も外に自由に出てくることが出来ないばかりか、宗教者が選手村に入ることも出来なくなり、結局いくつかの言語で霊的メッセージやロザリオの祈りのビデオを作成して、組織委員会に提供することしか出来ませんでした。組織委員会では各宗派に公平を期すため、そのビデオがどのように公開されどのような反響があったのかは公表されていません。ですからわたしたちとしても、かなりの時間を掛けて準備したそういったビデオが、どのように役に立ったのかどうか、分からないのは残念です。少しでも、参加された方々の霊的な助けとなった事を願っています。

さて、障がいと共に生きる方々のスポーツ世界大会であるパラリンピックは、大会が象徴する価値観からも重要な意味をもつ出来事であると思います。しかし、オリンピックと比較すれば、報道などの面で特にそうですが注目度は高いとは言えず、加えて今回の感染症の事態で、さらにパラリンピックの存在がかすんでしまったのは、残念です。

パラリンピックに掲げられた重要な柱である価値観は、スポーツイベントを超えて社会全体へ重要なメッセージを発信していると言っても過言ではないと思います。日本パラリンピック委員会によれば、パラリンピックが重視する価値は、「勇気、強い意志、インスピレーション、公平」であります。

同委員会のホームページによれば、「マイナスの感情に向き合い、乗り越えようと思う精神力」が勇気であり、「困難があっても、諦めず、限界を突破しようとする力」が強い意志であり、「人の心を揺さぶり、駆り立てる力」がインスピレーションであり、「多様性を認め、創意工夫をすれば、誰もが同じスタートラインに立てることを気づかせる力」を公平としています。

教会はすべてのいのちが神の目からは大切であることを強調し、誰ひとり排除されない社会の構築を提唱しています。また教会は、わたしたちのいのちは、その始まりから終わりまで、一つの例外もなくその尊厳が守られなければならないと主張します。

残念ながら、いのちの多様性を認めながら共に支え合って生きる社会を目指すのではなく、互いの違いを強調して分断し、異なる存在を排除しようとする傾向が、昨今の世界では、さまざまな形態をとって見受けられます。

世界を巻き込んでいま発生しているいのちの危機は、その解決のためにも、世界全体の視点からの強固な連帯が必要であることを明確にしています。しかし残念なことに、世界的規模の連帯は、この事態に直面しても実現せず、かえって、多くの国が自国の安全と利益だけを優先する事態にもなっています。資金的にも医療資源でも乏しい、いわゆる途上国の多くは取り残されようとしています。

教皇フランシスコは、パンデミックの中で長らく中断していた一般謁見を2020年9月2日再開したとき、こう話されていました。

「このパンデミックは、わたしたちが頼り合っていることを浮き彫りにしました。わたしたちは皆、良くも悪くも、互いに結びついています。この危機から、以前よりよい状態で脱するためには、ともに協力しなければなりません。・・・一緒に協力するか、さもなければ、何もできないかです。わたしたち全員が、連帯のうちに一緒に行動しなければなりません。」

しかし今年の復活祭のメッセージで教皇は、国際的な連帯が実現していない事実を指摘し、「悲しいことに、このパンデミックにより、貧しい人の数と、数えきれないほど多くの人の絶望が激増しています」と述べられています。

この状況の中でも、一人ひとりのいのちの尊厳をないがしろにするような行動や事件は相次いでいます。いのちを賜物として与えられた存在として、わたしたちすべては、互いに助け合い、支え合い、お互いの持ついのちの驚くべき物語に耳を傾け、尊敬の念を持って、いのちを生きていかなくてはなりません。

この社会の現実に対して、「勇気、強い意志、インスピレーション、公平」という価値観は、連帯のうちにともに支え合おうという、いのちを守る社会の実現を力強く呼びかけています。

使徒ヤコブは、信仰があるといっても行いが伴わないのであれば、「何の役に立つでしょうか」と問いかけます。その上で、「わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう」と宣言します。

マルコ福音は、イエスが弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と尋ねた話を記します。弟子たちは口々に、各地で耳にしてきた主イエスについての評価を語ります。つまりそれは「うわさ話」であります。それに対してイエスは、「それでは、あなた方はわたしを何者だというのか」と迫ります。わたしたちは、いま、主によって回答を迫られています。自ら決断して回答するように求められています。わたしたち一人ひとりは、一体何と応えるのでしょう。誰かから、どこかで聞いた話ではなくて、わたしにとって、主イエスとは何者なのでしょうか。

わたしたちは、いのちを与えられた神から愛されている存在です。守られている存在です。その神のいつくしみを、愛を、具体的にわたしたちに示されるのは、共にいてくださる主イエスであります。主こそわたしたちの救い主と、ペトロと一緒に応えるのであれば、わたしたちには主が生きたように、語ったように、生きていく務めがあります。それは信仰を具体的に行動に表すことであり、すべてのいのちが神に愛される存在であることを、具体的に示すことであります。

 

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2021年9月11日 (土)

週刊大司教第四十三回:年間第24主日

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残念なことに、現在の緊急事態宣言は9月30日までの延長となりました。緊急事態宣言とともに自動的に公開ミサの自粛に入る教区もある中、東京教区では、小教区の現場の皆さんのご協力で感染対策に取り組み、できる限りミサを続けるようにしてきました。昨年の最初の公開ミサ自粛以降は、原則として小教区でのミサの公開を継続してきました。感染対策にご協力いただいた小教区の現場の方々に、心から感謝いたします。

しかしこの8月に、検査の新規陽性者が大幅に増加し、自宅療養や入院される発症者も増加し、さらには重症者も200名をはるかに超える人数が続いたこと、さらにはいわゆる変異株による感染が課題として浮かび上がってきたことなど諸要素を勘案し、今回の感染症が昨年初めに始まってから二度目となる、東京教区における公開ミサの自粛に踏み切りました。

もとより、ワクチン接種に関しては、教皇様を始めわたし自身も受けていることや、教皇様の接種を強く勧める言葉もありますので、わたしとしては接種を前向きに受け止めていますが、体調やアレルギーなどで受けることが出来ない方、さまざまな考えから受けないことを選択される方もおられますので、教区として接種を義務化するような判断はしていませんし、今後もするつもりはありません。接種の義務化を求めないのですから、ワクチン接種の有無を教会活動参加の可否に援用することもいたしません。

全体として状況は良い方向に向かっているという判断の声を多く聞くようになりました。今般、9月30日までの緊急事態宣言の延長が決定されたことで、東京教区におけるミサの公開に関してあらためて判断することにしました。一昨日の時点では、全体の状況が徐々に好転しているのは確かですが、入院や療養が必要な方はまだまだ多く、重症者の方も多くは回復されていません。やはり今しばらくは慎重な行動が必要と判断いたしました。

これまで幾たびも繰り返してきたことですが、教会はミサを放棄したわけではありません。ミサは続けられています。一人ひとりのキリスト者の霊的成長のために聖体祭儀は不可欠であると同時に、それは独り個人の信心ではなく、教会共同体としての行為であります。昨年3月9日にわたしはこうメッセージを記しました。

「ミサの中止は、上記のように『公開のミサ』の中止であって、教区内の小教区や修道院にあっては、「公開されない」形で、ミサが通常通り司祭によって毎日捧げ続けられています。教区共同体内から、ミサが消えてしまったわけではありません。司祭はたとえ一人でミサを捧げたとしても、すべては「公」のミサとして捧げるからです。教皇ヨハネパウロ2世の回勅『教会に命を与える聖体』に、こう記されています。
『(司祭が祭儀を行うこと)それは司祭の霊的生活のためだけでなく、教会と世界の善のためにもなります。なぜなら「たとえ信者が列席できなくても、感謝の祭儀はキリストの行為であり、教会の行為だからです」』

わたしがミサ公開自粛期間に、自ら司式する主日ミサをカテドラルから配信する一番の理由は、そのミサが、東京教区という共同体全体のミサであることを象徴するためでもあります。わたしはともに祈ってくださる教区の皆さんと霊的に繋がれながら、教区の皆さんとともに、教区共同体の行為として、ミサを捧げます。

どうか困難な状況からの解放を求め、教会共同体の霊的な繋がりの中で、ともに祈り求めましょう。この困難が、わたしたちの教会共同体を、これまで以上に堅固な存在としてくださるように、わたしたちをその体における一致へと招かれる主に信頼して、祈り続けましょう。

以下、本日午後6時配信の、週刊大司教第四十三回のメッセージ原稿です。

年間第24主日B(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第43回
2021年9月12日

先週の日曜日9月5日に、パラリンピックが閉会式を迎えました。先に開催されたオリンピックとともに、感染症が終息しない中で国際的な行事を開催すること自体に賛否両論がありましたし、実際に参加された方々や現場での運営にあたった方々には大きな苦労があったことだと思います。わたし自身もかなりの不安を抱いておりましたし、感染症に関して社会への影響があったのかどうかは、後にならなければ判明しないのかもしれません。

障がいと共に生きる方々のスポーツ世界大会であるパラリンピックは、その大会が象徴する価値観からも世界にとって重要な出来事であると思うのですが、オリンピックと比較すれば注目度は高いとは言えず、加えて今回の事態でそれがさらにかすんでしまったのは残念です。

パラリンピックに掲げられた重要な柱である価値観は、スポーツイベントを超えて社会全体へ重要なメッセージを発信していると言っても過言ではないと思います。日本パラリンピック委員会によれば、パラリンピックが重視する価値は、勇気、強い意志、インスピレーション、公平であります。

同委員会のホームページによれば、「マイナスの感情に向き合い、乗り越えようと思う精神力」が勇気であり、「困難があっても、諦めず、限界を突破しようとする力」が強い意志であり、「人の心を揺さぶり、駆り立てる力」がインスピレーションであり、「多様性を認め、創意工夫をすれば、誰もが同じスタートラインに立てることを気づかせる力」を公平としています。

教会はすべてのいのちが神の目からは大切であることを強調し、誰ひとり排除されない社会の構築を提唱しています。またわたしたちのいのちは、その始まりから終わりまで、一つの例外もなくその尊厳が守られなければならないと主張しています。残念ながら、多様性を認めながら共に支え合って生きるのではなく、分断し排除しようとする傾向が、昨今の世界では、さまざまな形態をとって垣間見られます。その社会に対して、「勇気、強い意志、インスピレーション、公平」という価値観は、連帯のうちにともに支え合おうという、いのちを守る社会の実現を呼びかけています。

イザヤは、この世によって排除され迫害されるいのちに対して、そのいのちを愛し守られる創造主が、常に共にいて守られることを記しています。

使徒ヤコブは、行いが伴わない信仰は、「何の役に立つでしょうか」と問いかけます。その上で、「わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう」と宣言します。

マルコ福音は、イエスが弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と尋ねた話を記します。弟子たちは口々に、方々で耳にする主イエスについての評価を語ります。つまりそれは「うわさ話」であります。それに対してイエスは、「それでは、あなた方はわたしを何者だというのか」と迫ります。わたしたちは、いま、主によって回答を迫られています。わたしたち一人ひとりは、一体何と応えるのでしょう。わたしにとって、主イエスとは何者なのでしょうか。

わたしたちは、いのちを与えられた神から愛されている存在です。守られている存在です。その神のいつくしみを、愛を、具体的にわたしたちに示されるのは、共にいてくださる主イエスであります。主こそわたしたちの救い主と、ペトロと一緒に応えるのであれば、わたしたちには主が生きたように、語ったように、生きていく務めがあります。それは信仰を具体的に行動に表すことであり、すべてのいのちが神に愛される存在であることを、具体的に示すことであります。

 

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2021年9月 7日 (火)

レジオマリエ誕生から100年

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レジオマリエが誕生して、今日で100年になります。おめでとうございます。

1921年9月7日の夜8時に、「15人の若い婦人たちがアイルランドのダブリン市フランシス街ミラ・ハウスに集まり、無原罪の聖マリアの像を囲んで、ひざまずき祈った」のが始まりであると、レジオマリエの資料に記されています。その後1925年11月に、フランク・ダフ氏が、この会の名称を「レジオマリエ」とされました。フランク・ダフ氏は、ビンセンシオ・ア・パウロ(SVP)の会員でもありました。

レジオマリエの案内の資料には、この活動の目的が以下のように記されています。

「レジオマリエの目的は、会員の聖性を目指しながら、小教区司祭の指導のもとに自分の洗礼と堅信による福音宣教の使命を果たすために、マリアと一致してキリストの救いの希望と喜びをまだ知らない人々に伝えることです。その方法は耐えずマリアの取り次ぎを願いながら、マリアの生き方にならい、出来るだけ謙遜に人々への奉仕に生きることです」

レジオマリエには独特の組織機構がありますが、現在の東京での活動全体(東京レジア)の指導司祭は、淳心会のオノレ神父様が努めておられます。教区内のいくつかの小教区には、レジオマリエの活動が長年にわたって続けられてきています。参加される方の人数は、どこでも減少気味ですが、現代的にも重要な意味を持った信徒の使徒職ですので、今一度の発展を祈っています。

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30年以上前に働いていたアフリカのガーナでも、レジオマリエは盛んでした。わたしが主任司祭を務めていた教会は、オソンソンという小さな村にある「ルルドの聖母教会」でしたが、聖堂の横には大きなルルドがあり(写真上)、レジオマリエのメンバーの方々が、しばしば集まってはロザリオを祈っておられました。レジオマリエのメンバーは、小教区活動の大事な推進役でもありました。

今年の100周年にあたって、東京ではカテドラルで本日大司教司式で感謝ミサを捧げることを計画していました。しかし残念なことに、今般の状況のために延期とせざるを得なくなりました。レジオマリエの活動に参加されているすべての方々に、神様の豊かな祝福があるようにお祈りいたします。

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ところで、明日9月8日は、前駐日教皇庁大使であったジョゼフ・チェノットゥ大司教様が帰天されて、一年となる日です。聖マリアの誕生の祝日に、あらためて故ジョゼフ・チェノットゥ大司教の永遠の安息のために祈りたいと思います。

 

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2021年9月 5日 (日)

年間第23主日:被造物を大切にする世界祈願日ミサ

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9月第一の主日は、被造物を大切にする世界祈願日です。

午前10時から、東京カテドラル聖マリア大聖堂で、主日ミサを捧げ配信いたしました。本日の閉祭に歌われたのは、2019年に教皇様が訪日されたとき、東京ドームでのミサなどで歌われたものです。「すべてのいのちを守るため」のテーマに合わせての選曲です。この歌の譜面は、このリンクの中央協議会ホームページからダウンロードすることが出来ます。楽譜は一番下の「楽譜(伴奏つき)」からPDFで、録音も聞くことが出来ます。

以下、本日主日配信ミサの説教原稿です。

年間第23主日B(配信ミサ)
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2021年9月5日

回勅「ラウダート・シ」を2015年に発表された教皇フランシスコは、翌年から9月1日を、「被造物を大切にする世界祈願日」と定められました。日本ではその直後の日曜日を、この特別な祈願日と定めています。今年は9月5日の年間第23主日、本日が、「被造物を大切にする世界祈願日」であります。また「ラウダート・シ」の理念の啓発と、それを霊的に深めるため、9月1日の「被造物を大切にする世界祈願日」からアシジのフランシスコの記念日である10月4日までを、すべての被造物を保護するための祈りと行動の特別な期間、「被造物の季節(Season of Creation)」と定められました。

この祈願日にあたって、マルコ福音書に記された「エッファタ」の物語が朗読されることは、意義深いものがあります。なぜなら、「ラーダート・シ」で教皇フランシスコが呼びかけていることを理解するためには、わたしたちの心の耳が開かれる必要があるからです。時に現実だとか常識だとかしがらみだとか、さまざまに呼ばれている壁、すなわち歴史における時間の積み重ねが生み出した結果は、わたしたちの思考を縛り付けてしまっています。縛り付けるだけではなく、その壁は、思考の自由も行動の自由も奪ってしまいます。

教皇フランシスコは、そういった壁をすべて打ち壊し、常識や人間関係のしがらみにとらわれることなく、いのちが育まれるこの共通の家をどうしたら守ることが出来るのか、総合的な視点を持って取り組むようにと呼びかけます。その呼びかけは、教皇個人の呼びかけではなく、わたしたちの共通の家からの叫びであり、神からの呼びかけです。その叫びは、呼びかけは、聞こえているでしょうか。心の耳を開いていただく必要が、ここにあります。

教皇はこの祈願日について、2016年の最初のメッセージで、「被造物の管理人となるという自らの召命を再確認し、すばらしい作品の管理をわたしたちに託してくださったことを神に感謝し、被造物を守るために助けてくださるよう神に願い、わたしたちが生きているこの世界に対して犯された罪へのゆるしを乞うのにふさわしい機会」となる日であると述べています。

教皇フランシスコが「ラウダート・シ」で語る被造物への配慮とは、単に気候変動に対処しようとか温暖化を食い止めよういう環境問題の課題にとどまってはいません。「ラウダート・シ」の副題として示されているように、教皇がもっとも強調する課題は「ともに暮らす家を大切に」することであり、究極的には、「この世界でわたしたちは何のために生きるのか、わたしたちはなぜここにいるのか、わたしたちの働きとあらゆる取り組みの目標はいかなるものか、わたしたちは地球から何を望まれているのか、といった問い」(160)に真摯に向き合うことを求めているものです。

そのために教皇は、「あらゆるものは密接に関係し合っており、今日の諸問題は、地球規模の危機のあらゆる側面を考慮することの出来る展望を」(137)必要とすると指摘し、それを総合的エコロジーの視点と呼んでいます。

日本の教会も、2019年の教皇訪日に触発され、9月1日からアシジの聖フランシスコの祝日である10月4日までを、「すべてのいのちを守るための月間」と定めました。これは1981年に教皇ヨハネパウロ二世が訪日され、その平和アピールに触発されて8月の平和旬間を定めたように、教皇の「すべてのいのちを守るため」という呼びかけに応えるためであります。

教皇フランシスコは、神がよいものとして与えてくださったこの共通の家を、わたしたちが乱用し破壊しているとして、「ラウダート・シ」の冒頭にこう記しています。

「この姉妹は、神から賜ったよきものをわたしたち人間が無責任に使用したり濫用したりすることによって生じた傷のゆえに、今、わたしたちに叫び声を上げています。わたしたちは自らを、地球をほしいままにしてもよい支配者や所有者とみなすようになりました」(2)

さらに教皇は、人間のいのちが成り立っている三つの関係、すなわち、「神とのかかわり、隣人とのかかわり、大地とのかかわり」が引き裂かれている状況を指摘し、こう記します。

「聖書によれば、いのちにかかわるこれら三つのかかわりは、外面的にもわたしたちの内側でも、引き裂かれてしまいました。この断裂が罪です。わたしたちがずうずうしくも神に取って代わり、造られたものとしての限界を認めるのを拒むことで、創造主と人類と全被造界の調和が乱されました」(66)

すなわち、環境破壊や温暖化も含めて、共通の家である地球の危機は、この三つの関係の破壊による罪の結果であると教皇は指摘されます。そうであればこそ、わたしたちはその関係の修復に努めなければなりません。その意味で、「ラウダート・シ」は環境問題解決への問いかけの文書ではなく、被造物全体を包括した問題への取り組みへの呼びかけであり、罪の状態を解消するための回心の呼びかけの書でもあります。

したがって「すべてのいのちを守るための月間」は、具体的なエコロジーの活動への招きと言うよりも、わたしたちの生き方の根本姿勢の見直しの呼びかけであり、神との関係、被造物との関係を見つめ直す具体的な行動への呼びかけを伴って、霊的な深まりと回心へとわたしたちを招いています。

イザヤ書は、「心おののく人々に言え。雄々しくあれ、恐れるな。・・・神は来て、あなたたちを救われる」という神の励ましの言葉を記しています。

感染症の状況の中で、普段通りの生活がままならず、また心の頼りである教会にあってもその活動が制限される中で、わたしたちは先の見通せない不安の闇の中で、恐れを感じています。

不安におののく者に対してイザヤは、神の奇跡的力の業を記し、その力が「荒れ野に水が湧きいで」るように、不安におののく者に希望を生み出し、いのちが生かされる喜びを記します。

使徒ヤコブは、外面的要素で人を判断する行いを批判します。確かにわたしたちは、外に現れる目に見える要素で、他者を判断し、裁いてしまいます。使徒はそれに対して、人間の価値は、神がその人に与えた恵みによって、いのちが豊かに生かされていることにあるのだと指摘します。

わたしたちは、いのちを生かされている喜びに、満ちあふれているでしょうか。そもそも私たちのいのちは、希望のうちに生かされているでしょうか。喜びに満たされ、希望に満ちあふれるためには、すべての恐れを払拭する神の言葉に聞き入らなくてはなりません。「恐れるな」と呼びかける神の声に、心の耳で聞き入っているでしょうか。

わたしたちは、神の言葉を心に刻むために、心の耳を、主イエスによって開いていただかなくてはなりません。「エッファタ」という言葉は、わたしたちすべてが必要とする神のいつくしみの力に満ちた言葉であります。わたしたち一人ひとりのいのちが豊かに生かされるために、神の言葉を心にいただきたい。わたしたち一人ひとりの心には今日、主ご自身の「エッファタ」という力ある言葉が、福音朗読を通じて響き渡っています。神の呼びかけに、耳を傾けましょう。

 

 

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2021年9月 4日 (土)

週刊大司教第四十二回:年間第23主日

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東京は涼しい9月の始まりとなりました。年間第23主日、週刊大司教は第42回目となります。

政治はめまぐるしく動こうとしていますが、その間の感染症対策は継続しています。東京教区では、主に東京都において毎日発表される検査の新規陽性者数、発症日別の感染者数、重症者数、死亡された方々などの数字を参考にしながら、対応を検討していますが、現時点では収まる方向へ向かいつつあると思われます。緊急事態宣言は、予定では9月12日までとなっていますが、その後に延長されるという話も伝わってまいります。教区としての公開ミサの自粛を12日以降度のようにするのかに関しては、教区のホームページで公示しておりますので、参照ください。

以下、本日9月4日(土)午後6時に配信した週刊大司教第42回目のメッセージ原稿です。

年間第23主日B(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第42回
2021年9月5日

イザヤ書は、「心おののく人々に言え。雄々しくあれ、恐れるな。・・・神は来て、あなたたちを救われる」という神の励ましの言葉を記しています。

感染症の状況の中で、普段通りの生活がままならず、また心の頼りである教会にあってもその活動が制限される中で、わたしたちは先の見通せない不安の闇の中で、恐れを感じています。

不安におののく者に対してイザヤは、神の奇跡的力の業を記し、その力が「荒れ野に水が湧きいで」るように、不安におののく者に希望を生み出し、いのちが生かされる喜びを記します。

マルコ福音は、このイザヤの予言の実現として、イエスがなさった奇跡の業を記しています。イエスは「エッファタ」の言葉を持って、耳を開き、口がきけるようにされたと記されています。さまざまな困難を抱えていのちを生きていた人に、希望と喜びを生み出した奇跡です。

使徒ヤコブは、外面的要素で人を判断する行いを批判します。確かにわたしたちは、外に現れる目に見える要素で、他者を判断し、裁いてしまいます。使徒はそれに対して、人間の価値は、神がその人に与えた恵みによって、いのちが豊かに生かされていることにあるのだと指摘します。

わたしたちは、いのちを生かされている喜びに、満ちあふれているでしょうか。そもそも私たちのいのちは、希望のうちに生かされているでしょうか。喜びに満たされ、希望に満ちあふれるためには、すべての恐れを払拭する神の言葉に聞き入らなくてはなりません。「恐れるな」と呼びかける神の声に、心の耳で聞き入っているでしょうか。わたしたちは、神の言葉を心に刻むために、心の耳を、主イエスによって開いていただかなくてはなりません。「エッファタ」という言葉は、わたしたちすべてが必要とする神のいつくしみの力に満ちた言葉であります。わたしたち一人ひとりのいのちが豊かに生かされるために、神の言葉を心にいただきたい。だからこそ、わたしたち一人ひとりには今日、主ご自身の「エッファタ」という力ある言葉が必要です。

ところで、教皇フランシスコは、2015年に回勅「ラウダート・シ」を発表され、教会が共通の家である地球環境のさまざまな課題に真摯に取り組むことの重要性を強調されました。その啓発と霊的な深まりのため、毎年9月1日を「被造物を大切にする世界祈願日」と定め、アシジのフランシスコの記念日である10月4日までを、被造物を保護するための祈りと行動の月間、「被造物の季節(Season of Creation)」としています。

日本の教会も、2019年の教皇訪日に応える形で、この期間を「すべてのいのちを守るための月間」とさだめ、昨年からさまざまな呼びかけを行っています。

教皇様は「ラウダート・シ」において、「総合的エコロジー」という言葉をしばしば使い、環境への配慮とは、単に気候変動に対処しようとか、温暖化を食い止めようとかいう単独の課題への取り組みを意味するのではなく、全体としての「ともに暮らす家を大切に」することであると強調されます。そのため、いのちに関わるさまざまな課題を総合的に考えなくてはならず、究極的には、「この世界でわたしたちは何のために生きるのか、わたしたちはなぜここにいるのか、わたしたちの働きとあらゆる取り組みの目標はいかなるものか、わたしたちは地球から何を望まれているのか、といった問い」(160)に真摯に向き合うことが求められています。

すべてのいのちを大切にせよと命じられる神の言葉を心に刻むために、主の「エッファタ」という力強い言葉によって、心の耳を開いていただきましょう。神の言葉に心を向けましょう。

 

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2021年9月 1日 (水)

シノドスの準備を始めます

2023年秋に予定されている第十六回シノドス(世界代表司教会議)に向けた準備が始まります。

Synodpremeeting

教皇様は、今回のシノドスで、教会の「シノドス的あり方」そのものを議題としておられ、つまりその意味である「歩みをともにする」教会であるために、わたしたちは何をどうするべきなのかを探ろうとされています。そのため、代表の司教だけでなく、広く教会全体の意見を聞くために、シノドス事務局に質問状を作成させ、それにもとづいた世界中の教区での意見聴取をこの10月からはじめることとされ、そういったプロセス全体を「シノドス」と考えようと呼びかけておられます。(写真は6月末に行われた、シノドス事務局とアジアの司教たちとのzoomでの意見交換会。参加者は、後2ページくらい続きますので、かなりの司教が参加したと思われます)

質問状はまだ届いていませんが、その準備のために、9月1日付けで以下の公示をいたしました。今後担当者から教区ホームページなどを通じて情報提供を行ってまいりますので、ご参照ください。以下、公示文書です。なお文書中にある、添付の日程表などは、教区ホームページをご覧ください。

2021年9月1日
カトリック東京大司教区の皆様

東京大司教区 大司教
菊地功

主の平和

第十六回通常シノドスに向けた「歩み」について

教皇様は、2023年秋に第16回目となる通常シノドス(世界代表司教会議)開催を発表されており、そのテーマを、「ともに歩む教会のため―交わり、参加、そして宣教」と定められています。教皇様は2023年秋の本会議に向けた準備の過程自体をシノドスの一部と考え、今年10月以降、まずそれぞれの教区で意見聴取をするようにと求められ、それに基づいて聖座のシノドス事務局が、9月中に各教区への質問状を作成し配布するとのことです。

この質問状への回答をとりまとめるために、各教区では担当者を任命するようにと同事務局から指示をされております。東京教区では、小西広志神父様(フランシスコ会)をシノドス準備に向けた教区担当者として任命いたします。任期は、2021年9月1日から第十六回通常シノドス閉幕までとし、質問状への回答のとりまとめと、同時に任命期間の間、シノドスの意義や今回のシノドスの主要課題について啓発も担当していただきます。

なお今回の通常シノドスは、準備期間それ自体がともに歩む期間と考えられています。シノドス事務局長のグレック枢機卿の書簡によれば、「このシノドスの歩みが、分かち合われる旅であることを強調するため」、教皇様は来る10月9日と10日にシノドス開幕を宣言する典礼行事を行い、同時に世界中の各教区でも、10月17日の日曜日に、同様にシノドスの開幕を祝う典礼を行うように求められています。それ以外のこの「ともに歩む期間」の日程については、添付資料をご覧ください。

東京教区では、感染症の状況の先行きが見通せないことから、10月17日に特別な典礼行事は行いませんが、それぞれの小教区の主日ミサで、シノドス成功のために聖霊の導きがあるよう祈りをささげてください。この詳細については、後日お知らせします。

質問状と回答方法などについては、シノドス事務局から届き次第、教区担当者の小西神父様から皆様にお知らせします。ともにこの旅路を歩もうと呼びかける教皇様に応えて、教区の多くの方が、シノドスの歩みに参加してくださることを、期待しております。

 

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すべてのいのちを守るための月間

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9月1日は、教皇様が定められた「被造物を大切にする世界祈願日」です。日本ではその直後の、9月最初の主日にお祝いいたします。また9月1日から10月4日までは、「すべてのいのちを守るための月間」としています。

感染症のため特別な行事などは行いませんが、このテーマを心に留めていただけるように、この月間の間、東京大司教区のホームページでさまざまな情報を提供いたしますので、ご参照ください。

以下、公示文書です。詳細は、東京大司教区ホームページをご覧ください。

2021年9月1日
カトリック東京大司教区の皆様
東京大司教区 大司教
菊地功

「すべてのいのちを守るための月間」にあたり
(2021年9月1日~10月4日)

昨年に引き続き今年もまた、感染症の状況の中で社会全体が大きな影響を受け、教会もその活動を自粛する中で、「すべてのいのちを守るための月間」が始まります。

教皇フランシスコは、回勅「ラウダート・シ」を発表されたことで、教会がエコロジーの課題に真摯に取り組むことの大切さを強調されました。その啓発と霊的深化のため、毎年9月1日を「被造物を大切にする世界祈願日」とさだめ、さらにアシジの聖フランシスコの記念日である10月4日までを、被造物を保護するための祈りと行動の月間、「被造物の季節(Season of Creation)」と定められました。

教皇様が強調されるエコロジーへの配慮とは、単に気候変動に対処しようとか温暖化を食い止めようとかいう単独の課題にとどまってはいません。「ラウダート・シ」の副題として示されているように、課題は「ともに暮らす家を大切に」することであり、究極的には、「この世界でわたしたちは何のために生きるのか、わたしたちはなぜここにいるのか、わたしたちの働きとあらゆる取り組みの目標はいかなるものか、わたしたちは地球から何を望まれているのか、といった問い」(160)に真摯に向き合うことが求められています。

日本の司教団はこの世界祈願日を9月の第一主日と定めており、今年は9月5日となります。さらに日本の司教団は、2019年の教皇訪日のテーマである「すべてのいのちを守るため」を深め、黙想し,祈り、行動するために、この「被造物の季節」を特別な期間と位置づけて、「すべてのいのちを守るための月間」と名付けました。

教皇は、「あらゆるものは密接に関係し合っており、今日の諸問題は、地球規模の危機のあらゆる側面を考慮することの出来る展望を」(137)必要とすると指摘し、それを総合的エコロジーの視点と呼んでいます。

その上で教皇は、「わたしたちがずうずうしくも神に取って代わり、造られたものとしての限界を認めるのを拒むことで、創造主と人類と全被造界の調和が乱されました」(66)と指摘され、環境破壊や温暖化も含めて、共通の家である地球の危機は、「創造主と人類と全被造界」の三つの関係の破壊による罪の結果であると指摘されます。教皇は「ラウダート・シ」を通じて、被造物全体を包括した地球規模の課題への取り組みへの呼びかけをされており、調和が乱されたことによって引き裂かれた罪の状態を解消するため、わたしたちの回心を呼びかけておられます。

今年もまた感染症対策のため,教区における特別な行事などは制限せざるを得ませんが、教皇様の呼びかけを心にとめ、「私たちの共通の家」への心遣いを深め、「創造主と人類と全被造界」の関係を修復するために、一人ひとりの回心のときとしていただきますように,お願いいたします。教皇様の呼びかけは、もちろん一人ひとりの環境への配慮の行動を求めていますが、それだけに留まらず、教会全体として社会に向かって「創造主と人類と全被造界」の調和を回復するための具体的な行動を求めておられます。この機会に、教皇様の回勅「ラウダート・シ」を読み直したり、一緒に学んだりする機会を設けてはいかがでしょうか。

「すべてのいのちを守る月間」にあたって、9月5日の主日に教皇様の意向に合わせて祈ることはもちろんとして、この月間の間に東京教区のホームページを通じて、さまざまな情報を提供いたします。ご参照いただければ幸いです。皆様がそれぞれの場で、ご自分に出来ることを小さくとも忠実に果たしていくことは重要ですし、同時に、共同体として皆の知恵と力を結集して行動していくことも大切です。

 

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