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2021年10月30日 (土)

週刊大司教第五十回:年間第31主日

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10月もこの日曜日で終わりとなります。週刊大司教も50回目の節目を迎えることが出来ました。視聴して、共にお祈りくださっている皆様に感謝申し上げます。

ミサの公開が再開したことで、視聴していただく方も減ると予想していましたが、例えば現時点で、先週の第49回は千人を超える方にご覧いただいています。時には千五百人を超える週もあります。ありがとうございます。皆様の霊的な糧として役に立っているのであれば、それに勝る幸いはありません。

感染症対策でミサの参加を制限せざるを得ない状況の中で、霊的な助けとなればとの思いで始めた主日福音のメッセージ配信ですが、わたし自身の原稿の準備もそうですし、広報職員も撮影と編集にかなりの時間を費やすことになっていますので、このままいつまでも続けるのは難しいかと感じています。

一つの目安としては、視聴してくださる方が千人を割り込むことが続いた場合は、その段階で他の形への移行を考えることにしたいと思います。現時点では11月の王であるキリストまでは撮影が済んでいますので、待降節以降について検討中です。

毎日報告される検査陽性者の数は以前と比較すれば断然に低い数字で推移しています。さまざまな規制も解除されつつあります。同時に、第6波の可能性を指摘する声もあります。すでにクリスマスと年末年始についてはお知らせしたところですが、現状の推移を見ながら、医療関係者の意見を伺い、例えば祈りを一緒に唱えることや、聖歌隊による歌唱の制限緩和などを検討しております。ただマスクを着用することや、ある程度の距離を空けて着席することなどは、まだ当分の間、変更することは難しいと思われます。ご協力をお願い申し上げます。

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10月はロザリオの月です。月末になりましたが、あらためてロザリオについてメッセージで振り返りました。ロザリオは5月や10月に限定されているわけでもなく、日頃から手軽に唱えることが出来る貴重な祈りです。そして聖母の取り次ぎには、力があります。

以下、本日午後6時配信の、週刊大司教第五十回目のメッセージ原稿です。

年間第31主日B(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第50回
2021年10月31日

申命記は、「聞け、イスラエルよ」で始まる掟の言葉を記しています。旧約の掟の中心となる一節であり、イエスご自身が「第一の掟」として言及していることが、マルコ福音には記されています。

全身全霊をあげて、唯一の神を愛することを最も大切な掟であるとする主イエスは、同時に、「隣人を自分のように愛しなさい」というレビ記に記された言葉を、それに続く第二の大切な掟であると教えます。すなわち、唯一の神を愛することは、その神が創造された賜物であるいのちを生きる自分自身を愛することであり、それは同時に、同じいのちを生きている隣人を愛することをも意味するのですから、この三つの愛は、切り離すことは出来ません。

ヘブライ人への手紙は、創造主である神ご自身が、わたしたちへの愛を、自らの命を犠牲にしてまで具体化されたことを記し、完全な救いのために永遠に執り成してくださる祭司である主により頼むようにと呼びかけます。

いのちの与え主である神を信じるわたしたちキリスト者は、人間の性格として優しくあるから他者を愛し、助けを求める人に手を差し伸べるのではありません。わたしたちが信じる神が、まずいのちを賭してわたしたちへの愛に生きたからこそ、神から愛されてこのいのちを与えられ、生かされているわたしたちは、当然のこととして、隣人を愛するのです。隣人愛は優しさではなく、神から受けた愛の反映です。

神からわたしたちが受けている愛を、被造物として最も美しく反映しているのは、わたしたちの母である聖母マリアであります。教皇レオ13世によって、10月は聖母マリアにささげられた「ロザリオの月」と定められました。10月も終わりを迎えますが、その意味を振り返ってみましょう。

教皇パウロ六世が1969年に発表された使徒的勧告「レクレンス・メンシス・オクトーベル」は、冒頭で、「諸民族の心と精神の和解によって最後には真の平和が世界に輝くよう、幸いなるおとめマリアの助けを願うために、十月にロザリオを唱えることを強く勧めます」と記しています。

10月7日のロザリオの聖母の記念日は、1571年のレパントの海戦でのオスマン・トルコ軍に対する勝利が、ロザリオの祈りによってもたらされたとされていることに因んで定められています。歴史的背景が変わった現代社会にあっても、ロザリオは信仰を守り深めるための、ある意味、霊的な戦いの道具でもあります。

とりわけ昨年から今に至る感染症による困難な状況の中で、わたしたちを祈りのうちに霊的な絆で結び、さらには聖母の取り次ぎによって、聖母とともにこの困難に立ち向かう霊的な力をいただくためにも、ロザリオはわたしたちにとって、信仰の危機に立ち向かう武器であるとも言えます。

教皇パウロ六世は、使徒的勧告「マリアーリス・クルトゥス」で、「(マリアが)信仰と愛徳との両面において、さらにまた、キリストとの完全な一致を保ったという点において、教会の卓越した模範であると仰がれている」(16)と指摘します。

ロザリオの祈りを唱えることで、わたしたちを結び合わせているキリストの体における神秘的一致へと導かれ、どこにいても、いつであっても、ひとりでも、複数でも、ロザリオを唱えることで、わたしたちは聖母マリアがそうであったように、キリストの体において一致することが出来ます。

心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして神を愛するわたしたちは、聖母に倣って、キリストと一致しながら、命を守る愛の業に励みたいと思います。

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世界宣教の日:堅信式ミサ@上野毛教会

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先週10月24日の世界宣教の日の日曜日、午後二時半から、上野毛教会を会場に、世田谷南宣教協力体の合同堅信式ミサが行われました。

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宣教協力体の合同堅信式でしたが、現在の感染症対策の制限がある状況の中で、準備などの都合もあり、堅信を受けられたのは上野毛教会の4名の方でした。ミサ後に、宣教協力体に属する上野毛、田園調布、碑文谷から主任司祭と信徒会長が集まり、現状報告をいただきました。ちなみにこの三つの教会は、それぞれ、カルメル会、フランシスコ会、サレジオ会と、司牧を担当する修道会が異なります。通常であれば、それぞれの教会から大勢に参加していただくのですが、今回は、聖堂内には受堅者、代父代母、家族などだけがおられ、そのほかホールなどで配信であずかった方もおられるとのことです

堅信を受けられた皆さん、おめでとうございます。

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この日のミサでの説教は原稿なしでしたが、録音から起こしたものを参考までに以下に掲載します。(言い間違いなど、多少手直ししましたが、ほとんどその場で語ったとおりです。)

上野毛教会堅信式ミサ

2021年10月24日

皆さま、堅信おめでとうございます。

今日の日曜日は、教会では世界宣教の日と定められていて、教会の福音宣教のために、また宣教に携わる人々のために祈り、さらには宣教の意識を高めるようにと、世界の教会に呼び掛けられている、特別な日曜日でもあります。

宣教というのは当然、私たち一人一人洗礼を受けたキリスト者にとっては、一番大切な役割の一つです。それはイエスが、ご復活のあとに弟子たちに対して全世界に行って皆に伝えなさいと、洗礼を授けなさいという宣教命令を残して行かれたからです。それ以降ずっと今に至るまで、イエスの弟子として洗礼を受け従って生きていこうと決意した私たち一人一人には、その最後のイエスの命令、すなわち宣教命令が脈々と受け継がれているわけです。

洗礼を受け、ご聖体を受け、そして最後に堅信を受けることによって、私たちの入信の秘跡は完成します。

キリスト者としての入信のプロセスは、この堅信の秘跡によって完成しますが、完成したらどうなるかというと、イエスの宣教しなさいという命令に、完全に従ってゆく義務がそこから生じてくるのです。恵みも頂きますけれども、恵みに伴って義務も生じてくる。

恵みは何かというと、それは聖霊による助力、聖霊による助け、祝福、導きであります。もちろん、私たちは弱い人間ですし、完璧な人間はいないので、しなければならないと思ってもできないことが沢山あるわけですよね。で、特にこの福音を宣べ伝えなさいという命令を、具体的に私たちの生活の中で実行していこうとすると、どうしたらいいかわからない。道端に立ってのぼり旗を立てて、福音を信じなさいと言ったところで、あまり誰も聞いてくれそうにない。この社会の中で、私たちはどうやって福音を伝えていくのだろう。そのためには、知恵が必要となるのです。

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しかしその必要な知恵は、いくら私たちが人間の知恵を一所懸命振り絞っても、なかなか足りない。神の知恵による助けがなければ、実際に私たちが生きて行く中で、どうやって福音を告げ知らせてゆくのかということへのアイディアは浮かんでこない。神の知恵を与えてくれるのは、聖霊の助けです。聖霊は知恵を与えてくれる。知恵そのものを与えてはくれないかもしれないが、知恵に近づくことができるように、様々な形で私たちを後押しして下さいます。

そして、福音を証しするには、やっぱり勇気が必要です。勇気がなければ、実際に福音を何らかの形で伝えてゆこうという思いが出てこない。その勇気はやはり、聖霊の助けによって神から与えられる恵みの一つであるわけです。私たちは勇気を頂いて、そして神から頂いた知恵によって、どのような形で福音を証していったらいいのか考え、実行して行くのです。

その私たちの思いを後ろから支えてくれるのは、聖霊であります。聖霊の助けです。堅信の秘跡を受けることによって、私たちは聖霊の助けを頂くことができるのです。

堅信の秘跡を受けた瞬間に、その聖霊の恵みが私たちに大量に降りてパッと花開いて、突然すごい超人に生まれ変わるということではないです。そういうことはなかなか起こらない。残念ですが。

そうではなくて、今から私たちが福音を告げるのだという決意をもってその務めを果たそう、イエスの最後の宣教命令に従って生きようと行動するときに、聖霊が後ろから私たちを支えて、助けてくれるのです。聖霊が後ろから私たちを支えてくれる、聖霊が後押しをしながら知恵を与えて、勇気を与えて、導いてくれるのです。それが、この堅信の秘跡であると思います。
ですから、今日こうやって堅信を受けたそのあとに、私たち一人一人がその務めを果たしていくこと、完成したキリスト者として福音を宣べ伝える務めを果たして行くという決意を、今日、ぜひ固めて頂きたいと思います。

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それでは具体的に、どうやって福音を証しするのか。それはやはり、人と人との出会いの中で、私たちが日々語る言葉、何気ない行い、そういった「言葉と行い」をもって、私たちは福音を証ししていかなければなりません。

聖書を丸暗記し、聖書にはこう書いてあると立派なスピーチをすることだけが、福音宣教ではないのです。福音宣教というのは、人と人との関わりの中で私たちが信じていることを、実際に目に見える形で証しして行くこと、耳に聞こえる形で証しして行くことです。

しかし、私たちは完璧ではない弱い人間なので、四六時中いつでも福音の言葉を語り、行って、福音を証しして行くことが出来ていない。どうしても様々な思い煩い、誘惑、いろんなことがあるので、そう簡単に24時間いつでも神様の言葉を証しし、神様の言葉に従って生きているわけではありません。

しかしそうできないからこそ、堅信の秘跡をもって聖霊のお恵みを頂くのです。できない、弱い、足りない私を、神様が聖霊の力によって助けてくれているんだという確信を、それを持つことが、とても大切だと思います。

今日、堅信を受けることによって私はすごい人間になるのではなく、すごい人間にはなれないんだ、弱さのうちに生きているのだということを、あらためて自分に言い聞かせ、だから神様の助けが必要なんだと、だから聖霊の導きが必要なんだと、だから聖霊によって後ろから背中を押してもらうことが必要なんだという、謙遜な思いを持つことによって初めて、聖霊の力が働くんです。

パウロが、「私たちは弱いときにこそ強い」と言っておられる。どういうことかというと、わたしがわたしがと、自分が頑張るんだと前に立ち続けているとそれが壁となって神様の力は働きようがないのです。私は弱いのだと、私にはできないと、神様の助けが必要なんだと遜ったときに初めて、邪魔する壁が崩れ去って神様の力が働くことができるのです。

ですから堅信の秘跡を受けることによって、自分たちのそれぞれの弱さをあらためて認め、神様、頼むから私を通してあなたの力を働かせて下さいと、身を委ねるということも大切だと思います。

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今日の朗読に、目の不自由な人が治してもらった話がありますけれども、あの話はとても大切な話なので、堅信の話からは少し離れますが申し上げておきたいと思います。

あのバルティマイの話は、よく読んでみると誰も何もしない話です。誰も何もしていないのです。みんな何もしないぞって言っている話なのです。そのバルティマイという人が、一所懸命イエスに「治してくれ」と叫ぶんですけれども、みんなは「黙れ」と、「うるさい」と、静かにしてろと抑え込もうとしますね。

そこへイエスが、「いや連れて来なさい」と言ったけれども、誰もそのバルティマイの手を引いてイエスのところに連れて行かないのです。一言もそんなこと書いてない。誰一人として、目の見えないバルティマイの手を引いてイエスのところに連れて行こうとしていない。皆、何をしたかというと、「安心しなさい。立ちなさい」と言っただけです。声を掛けただけです。だからバルティマイは、自分でイエスのところに歩いて行くんです。いざイエスのところに来たら、どうですか。他のところでは、イエスは、唾を付けて土をこねて目に塗るとか、ああしなさい、こうしなさいとか言ったりとかするんですけれども、なんにもしない。イエスも、なんにもしないで、「どうしてほしいんだ」と聞くんです。「何をしてほしいんだ」と。バルティマイが「目を治して下さい」と言ったあとは、「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と、それで終わる話ですね。だからイエスも誰も何もしないのに、目が治った奇跡の話なんです。

このお話の素晴らしいところは、二つあります。

一つは、このバルティマイの目が治ったということ。もう一つは、実はですね、周りにいる人たちがイエスによって変えられたということなんです。ここがとても大切なところです。つまり、助けを求めて叫んでいた人を無視して、その存在をないものとしようとしていた人たちが、「安心しなさい。立ちなさい」と言う。同じ人たちがですよ。それまで無視しようとしていた人たちが、「安心しなさい。立ちなさい」と声を掛ける存在に大きく変えられたというお話なんです。

そして彼らが大きく変えられたことによって、バルティマイが治されていくんですね。イエスが「あの男を連れて来なさい」と、私はあの男が必要なんだということを言って下さったことによって、人々の心が助けを求める人の存在に気がつくように変えられたのです。

イエスの力で、神の力で、見えなかった目が治りました。ですけれど、この奇跡物語のすごいところは、そこにもって行く過程で、実は周りにいる人たちが変えられたということ。それまでそのバルティマイという人の生きる希望を奪ってきた人たちが、今度は逆に生きる希望を与える存在になっていったということなのです。

生きる希望を奪って、「お前なんかいなくていいんだ。静かにしていろ」と言っていた人たちが、「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ」と声を掛ける存在に変わっていった。それによってバルティマイは、励まされて生きる希望が生まれるんです。生きる希望が生まれて、そこにイエスの力が加えられて目が治されて行く。そういう話なんです。

ですので、奇跡物語であると同時に、私たち一人一人の関わりはどうあるべきなのかということを教えている奇跡物語でもあります。
そしてそれは私たちに、困窮している人たち、困難に直面している人たち、命の危機に直面している人たち、助けを必要としている人たちとの関係を教えています。お前の存在なんかないものだと排除し見えないものとするような態度ではなくて、「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ」と呼び掛け、行動するようにと促し励ますものとなるように。そこに命を生きる希望が生まれます。

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私たちも、困って困窮している人たち、困難に直面している人たち、社会から排除され忘れ去られている人たちに対して、「安心しなさい。立ちなさい。さあ一緒に生きてゆこう。命を生きていこう。」と。命の希望を生み出すような人間関係を持つことによって、育て上げ、生み出すことによって、そこに命を生きる奇跡の関係を、命を生きる希望を、神の力が働くような状況を生み出していくことができるのです。そしてそれが、福音宣教に繋がっていくのです。

今日の世界宣教の日にあたり、私たち一人一人が、どうやって福音を宣教できるのか、そしてどのように福音を宣教するのかということを、あらためて考えたいと思います。

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2021年10月29日 (金)

船橋学習センター・ガリラヤで講演

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千葉県船橋駅前にあるカトリック船橋学習センター・ガリラヤは、定期的に講座を開設していますが、感染対策のため、その多くがオンラインとなっています。しかし状況が多少は好転しつつあることもあり、現在はハイブリッドが多数を占めるようになりました。

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その学習センターで、10月23日午後に、ハイブリッド形式で、お話をさせていただきました。テーマは「教皇訪日を受けて、これからの教会」といたしました。普段使われているセンターの場所では、感染対策で少人数しか入ることができないため、今回は近くにある石井食品さんのご厚意で、石井食品本社ビルの一階にあるコミュニティハウスViridian(ヴィリジアン)を使わせていただきました。

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石井食品と言えば、ハンバーグなど、お弁当に使えるレトルト食品などで有名ですし、無添加調理を「こだわり」として掲げています。会場は普段は販売所や食事処、さらには料理教室の会場として使われているところで、石井食品を代表するレトルト食品のかずかすが販売され、わたしもお昼にはお弁当代わりに普段そこで提供される栗ご飯の定食をいただきました。

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教皇様の来日は2019年11月でしたが、その直後にコロナ禍が始まって教会活動が停滞したため、教皇訪日の残したものを探り深める試みが出来ずにおりました。今回お話しした内容は、全て教皇様が日本で、特に東京で残された言葉の語ることについてです。教皇様が就任された2013年以来繰り返し示されてきた教会の姿、その集大成が現在行われているシノドスですが、そのシノドスに至る過程にあって、教皇様の示された教会の姿を明確にする言葉として、日本での言葉に重要な意味があると思います。

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ヨハネパウロ二世が訪日されたときは、その後もしばしば、「戦争は人間のしわざです」というインパクトのある言葉が、皆の口に何度も上りました。教皇様の口まねをして得意がる人も大勢いました。それが教会の平和旬間として残されていきました。今回は、直後の状況のため、深めることが出来ずに来ました。まだ遅くないと思います。これからも教皇様の日本での言葉を深める作業を続けたいと思います。

カトリック船橋学習センター・ガリラヤのホームページには、理念がこう記されています。

「カトリック船橋学習センター・ガリラヤ(以下、ガリラヤ)は、人びとが学び、働き、暮らしている社会の中で、カトリックの精神に基づく価値観を養い広めていくことを目的に設立しました。ガリラヤはキリストの愛を学び、キリスト教文化を知り、社会で起きているさまざまな出来事をキリスト教の視点で考える場所です」

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現在の理事長は、真生会館の理事長でもあるミラノ会のアンドレア・レンボ神父様です(上の写真、向かって右から二人目)。この講座の前に、アンドレア神父様を始めスタッフの皆さんに集まっていただき、現状報告と今後の計画について伺いました。

アンドレア理事長はホームページにこう記しています。

「当センターは2014年に大原神父様をはじめ数人の信徒の方々の協力のもと、明日に向けて船出しました。イエスのメッセージを発信し、学びあい、わかちあい、祈りあうことを大切に、私たちの社会の明日のためにと働いてまいりました。 

今、コロナというチャレンジを受けるなか、私たちは新たなガリラヤを探求しています。そのひとつがオンライン講座です。オンライン講座を通じて、ひとつの場所を超えてイエスのよき知らせが大きく広がっていくのを目の当たりにしています。想像以上のゆたかさを体験しています」 

船橋学習センター・ガリラヤが、社会の激しく変わる状況の中でどのような姿で続いていくのかは、現時点では推測が難しいと思いますが、オンラインであれ対面であれ、信仰の学びを深めることは大切ですから、今後の発展を注視しながら見守りたいと思います。

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2021年10月23日 (土)

週刊大司教第四十九回:年間第30主日

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ロザリオの月である10月も後半。と言うことは今年も間もなく終わりに近づき、典礼も徐々に待降節をどことなく意識し始めてきます。

そろそろ小教区ではクリスマスについて計画する時期です。現時点で感染症の状況は落ち着いており、毎日報告される検査の新規陽性者の人数も、低い数字で留まっています。同時に、今後年末、または年始にかけて、もう一度、いわゆる第6波が襲来するという指摘もあります。

大変残念ですが、今年のクリスマスも、東京教区では(東京都と千葉県)、昨年と同様に、感染症対策を施し、入場を制限して行わざるを得ません。普段教会に足を運ばれる事のない方が大勢教会を訪れるのがクリスマスですが、大変申し訳ありませんが、教会は今年のクリスマスも感染対策を継続して入場を制限せざるを得ませんので、ご承知起きください。来年こそは、またコロナ禍前のいつものように、大勢の方に自由に足を運んでいただけるようになることを、心から願っています。

すでにお知らせしているように、シノドスの歩みが教区で始まっています。前記事にもあるように、教区の皆さんに共通理解を持っていただくために、教区担当者の小西神父様がビデオを用意され、これは今後も続いて配信されますので、ご活用ください。

Bangla

10月の最後から二番目の主日、すなわち今年は10月24日が、世界宣教の日と定められています。この日は、すべてのキリスト者が宣教の心を呼び起こし、世界の福音化のために、霊的物的な援助をすることを目的としています。教皇庁の福音宣教省には世界各地の教会活動を支援する部署が設けられ、世界宣教の日の献金がそのために使われています。それぞれの小教区での献金に、ご協力くださいますようにお願いいたします。(写真は、バングラデシュの先住民族のお父さん。2009年)

この日のための教皇様のメッセージは、タイトルが「わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです」(使徒言行録4・20)とされています。教皇様のメッセージの全文は、こちらのリンクから、中央協議会のホームページでご覧ください。

以下、本日夕方6時配信の、週刊大司教第四十九回のメッセージ原稿です。

年間第30主日B(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第49回
2021年10月24日

マルコ福音は、バルティマイの目が癒やされた奇跡物語を記しています。病気の治癒の奇跡であるこの物語には、実はイエスによる二つの「治す業」が記されています。

一つは当然、バルティマイの不自由だった目が癒やされ、見えるようになったという「治す業」であります。もう一つは、そこに集まった大勢の群衆の心を、助けを求める人の叫びに無関心な心から、希望を生み出すかかわりの心へと「治す業」であります。

バルティマイが叫び声を上げたときに、群衆は「叱りつけて黙らせようとした」と福音は記します。すなわち助けを求める人の声を押さえ込み、その存在を見えない者とした行動であります。その群衆は、福音の後半で、バルティマイに対して、「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ」と声をかけるようになります。助けを求める人の声を押さえ込みその存在を無視しようとした群衆の無関心の心は、励ましを与える配慮に満ちた関わりの心へと変えられ、バルティマイに生きる希望を生み出しました。群衆の心を変えたのは、イエスの一言です。「他の誰でもない。あの男を呼んで来なさい」。すなわち、いのちの与え主である主にとって、今大切なのは助けを求めているバルティマイをおいて他にはいないと、群衆に心を向けるようにと語られました。

マルコ福音のこの奇跡物語は、すべてのいのちを守ろうとする創造主が、わたしたちに求めている互いの関係性を明確にします。確かに具体的に病気を治すようないつくしみの行為は大切ですが、それは同時に、助けを求めているいのちが、自ら立ち上がって生きる希望を見いだすために、その存在を認め励ますような関わりをすることも重要であることを教えています。

10月の最後から二番目の主日は、世界宣教の日と定められています。この日は、すべてのキリスト者が宣教の心を呼び起こし、世界の福音化のために、霊的物的な援助をすることを目的としています。教皇庁の福音宣教省には世界各地の教会活動を支援する部署が設けられ、世界宣教の日の献金がそのために使われています。

今年のテーマは、使徒言行録から、「わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです」(使徒言行録4・20)とされており、教皇様はメッセージを発表されています。

教皇様はメッセージで、「神の愛の力を経験したとき、個人や共同体の生活の中で御父の存在に気づかされたとき、わたしたちは、見たことや聞いたことを告げ、分かち合わずにはいられません」と記し、その上で、「福音宣教の道のりは、どこにいようとも一人ひとりを呼び出し、友としての対話をしたいと望んでおられる主を熱心に探し求めることから」始まると記しています。まさしく、群衆の中からバルティマイを見いだし、声をかけ、その行為を通じて多くの人の回心をもたらし、「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」といのちの希望を生み出す言葉をかける人へと変えてくださった主イエスが、わたしたちに従うべき生き方を示しておられます。

教皇様は、パンデミックという状況が分断と孤立化を深め、「わたしたちは落胆し、幻滅し、疲労し、希望を奪うあきらめの気持ちに、視野が遮られてしまったのです」と指摘します。しかし、「希望のことばは、そのことばにふれるがままでいる人にあらゆる決定論を打ち破らせ、自由と立ち上がるために必要な勇気を贈ります」とも指摘します。わたしたちも、希望を生み出すいのちの言葉を語る者となりましょう。助けを求める人たちに心を向ける者となりましょう。関わりの中で、「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ」と声をかける者となりましょう。

 

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2021年10月22日 (金)

受刑者とともに捧げるミサ

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このところ恒例となってきた、NPO法人マザーハウス主催(代表:五十嵐弘志 さん)の「受刑者とともに捧げるミサ」が今年も企画され、10月16日(土)の午後に、聖イグナチオ・麹町教会で行われました。

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マザーハウスのホームページには、次のように解説が掲載されています。

「教皇フランシスコは「いつくしみの特別聖年」中の2016年11月6日(日)を、「受刑者の聖年」と定め、受刑者やその家族のため、そして刑務官や教誨師を含め、刑務所の内外で受刑者の支援に携わっているすべての人・機関のために祈るよう呼びかけました。

理事長の五十嵐は、社会の人々と刑務所にいる受刑者が共に祈ることで孤独と犯罪から解放されると考え、菊地功大司教に受刑者と共に捧げるミサの司式を要請し、2018年10月に菊地功大司教とローマ教皇庁大使館の大使チェノットゥ大司教の共同司式にてミサを開催し、毎年、実施しています」

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同法人のホームページには、当日のミサの様子のビデオも掲載されています。この時期ですので感染症対策のために、残念ながら大勢の方に参加していただくことは出来ませんでしたが、当日の模様は配信され、多くの方が祈りの時をともにしてくださいました。

以下、当日、用意していった説教の原稿ですが、上述のビデオを見ていただくとおわかりのように、ほとんど原稿通りに話してはおりませんでした。

受刑者とともに捧げるミサ
2021年10月16日
聖イグナチオ・麹町教会

昨年初めからすでに2年近く続いている感染症による困難な状況は、地球的規模で、人類社会に大きな影響を与えています。感染症対策のため、各国の政府によって取られたさまざまな政策によって、経済が悪化し、雇用関係が不安定になっている国も少なくありません。もちろん人類にとって未知の感染症ですから、誰ひとりとしてどのように対処するべきなのかについて正解を知っている人はおらず、また感染症の実際の健康への影響も、専門家の間にもさまざまな議論があります。わたしたちも目に見えないウイルスが相手ですから、一体どう対処したら良いのかが判然とせず、この2年近くは、本当に暗闇の中を手探りで歩んでいるような気持ちに包まれています。

教会も大きな影響を受けています。教会は定期的に大勢の人が集まることで成り立ってきましたが、残念ながらそのこと自体を制限しなくてはならなくなり、活動が大きく制約されています。

教皇フランシスコは、昨年、一時中断していた一般謁見を2020年9月2日に再開し、その日は少数の会衆を教皇宮殿の中庭に入れて、こう話されています。

「このパンデミックは、わたしたちが頼り合っていることを浮き彫りにしました。わたしたちは皆、良くも悪くも、互いに結びついています。この危機から、以前よりよい状態で脱するためには、ともに協力しなければなりません」

教皇様は、誰ひとり排除されない社会を実現し、すべてのいのちがその尊厳を守られるようにと働きかけてきましたが、特にこの感染症の困難に襲われてからは、地球的規模での連帯の必要性を強調されてきました。

しかし残念ながら、連帯は実現せず、かえって孤立と孤独が激しくすすみ、いのちが危機に直面しています。

今年2021年の復活祭にあたってのメッセージで、教皇様は次のように述べられました。

「パンデミックはいまも猛威をふるっています。社会的、経済的な危機はいまだに深刻な状態にあり、とくに貧しい人に大きな影響を及ぼしています。それにもかかわらず、武力紛争と軍備拡張はとどまることを知りません。今、こんなことがあっていいはずがありません。」

その上で教皇様は、「十字架にかけられ、復活された主は、仕事を失った人や、経済的な苦境に陥っても社会から適切な保護を受けられない人の心の支えです。」と呼びかけられます。今わたしたちの社会は、不安の暗闇の中に置き去りにされている恐怖から、他者に対する配慮をする余裕を心から奪い、不寛容な心は利己的になり、自分を守ることにばかり集中して、助けを必要として叫びを上げている人の存在を見えないものにしています。

教皇様は「福音の喜び」で、教会のあるべき姿を、「出向いていく教会」であるとされました。自分の安全安心を守ろうとするのではなく、常に挑戦し続ける姿勢を教会に求めました。失敗を恐れずに、常に挑戦を続ける教会です。しかもその挑戦は、困難に直面し、誰かの助けを必要としている人のところへ駆けつける挑戦です。

そして「福音の喜び」には、「イエスは弟子たちに、排他的な集団を作るようには言いませんでした」という言葉もあります。その上で教皇は、「教会は無償のあわれみの場でなければなりません。すべての人が受け入れられ、愛され、ゆるされ、福音に従うよい生活を送るよう励まされると感じられる場でなければならないのです」と指摘します。(114)

今、教会は、この困難な現実の中で、命を守るために、積極的に出向いていき、助けを必要とする人たちとともに歩んでいかなくてはなりません。

ちょうど今、教皇様は2023年の秋に開催される世界代表者司教会議の準備を、世界中の教会で、明日から始めるようにと指示をされています。明日、10月17日のミサの中で、それぞれの地におけるシノドスのプロセスが始まります。シノドスという言葉は、会議の名称ではなくて、そもそも「ともに歩む」事を意味しており、教皇様はまさしく教会が、「ともに歩む」教会であるようにと願っておられます。誰ひとり忘れられることのないように、神から愛されて命を与えられたわたしたちは、司教も、司祭も、修道者も信徒も、ともに支え合い、助け合いながら、互いの声に耳を傾けあい、歩んでいきたいと思います。

わたしたちの歩みは、暗闇を彷徨う不確実な歩みではなく、わたしたちと共にいてくださる主とともに前進する歩みであり、神の民を導かれる聖霊の声に耳を傾けながらの前進です。

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マタイ福音は、「求めなさい。そうすれば与えられる」と語るイエスの言葉を記しています。イエスはわたしたちに、求めること、探すこと、門をたたくことを求めます。問題は、一体わたしたちは何を求め、何を探し、どの門をたたくのかであります。

同じ福音の記述の続きには、こう記されています。

「あなた方の天の父は、求める者に良いものをくださるに違いない」

すなわち、わたしたちは、自分がそうあってほしいと願うことを求めるのではなく、神が良しとされることを求めるときに、与えられるのです。神が望まれる命の生き方を実現しようと求め、探し、門をたたくときに、初めて神は答えてくださるのであって、わたしたちの自己実現や自己満足のために、欲望を満たす何かを探し求めても、それは与えられません。

ですからわたしたちは、神が良しとされる生き方とは一体どのような生き方であるのか、神が良しとして定める道はどこにあるのか、神の国の門はどの門であるのか、つねに見極めながら、より良い方向へと進んでいかなくてはなりません。だからこそわたしたちは、この道を一緒になって歩むのです。その「一緒」には、神が良しとして創造されたすべてのいのちの尊厳が含まれています。排除されてもよい人は誰ひとりいません。互いに支え合いながら、わたしたちは一緒になって道を見いだし、歩んでいきたいと思います。

今日このミサを捧げながら、過去を顧み許しを求めている人に善なる道が示されるように、祈りたいと思います。同時に犯罪の被害に遭われた方々の、心と体のいやしのために、祈ります。さらには、加害者のご家族、また被害者のご家族の方々の、いやしと生きる希望のために、祈りたいと思います。そして、すべての人が神の望まれる道を歩むことができるように、受刑者の方々に、また犯罪の被害者の方々に支援の手を差し伸べるすべての人のために、心から祈りたいと思います。キリストに従うわたしたち一人ひとりが、神が望まれるより良い道を、互いに支え合って、歩み続けることが出来ますように。

 

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2021年10月20日 (水)

シノドスの歩み:東京教区のビデオ公開始まりました

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先日お知らせしたように、2023年秋の世界代表司教会議(シノドス)第16回総会への歩みが、全教会で始まりました。

最初の時期、今年の10月から来年3月頃までは、それぞれの地方教会での分かち合いと識別のときです。各教区には担当者が任命されていますが、東京教区の担当者である小西神父様が、共通理解のためのビデオを作成してくださってます。順次公開されていきますが、その一回目と二回目が公開されました。

以下に、その一回目と二回目をリンクします。元になる小西神父様が用意された原稿は、教区ホームページに掲載されていますので参照ください。

シノドスに向けてバチカンから示された問いかけに、即座に答えを募集したら良いのではないかとお考えになるかもしれません。しかし今回は、回答を積み重ねることよりも、一緒になって理解し、一緒になって識別し、一緒になって歩むことを、教会全体が当たり前のこととして身につけること自体が重要視されています。

つまり今回のプロセスは、2023年秋の会議で結論が出て終わるものではなくて、これからの教会のあり方そのものを決定づける「出来事」です。今回、これまでを振り返りつつ話し合うことは、これからも話し合い続ける内容ですし、2023年の会議が終わっても話し合い続ける内容です。また東京教区にとっては宣教司牧方針を具体化する上での大切な教会のあり方でもあります。教皇様は、教会共同体そのものを、聖霊の導きに素直に従う共同体へと変えようとされています。

ご自分のスマホやパソコンで、用意されたビデオを見ることができる方は、それができない方にも分かち合ってください。感染対策で大勢が集まることはできませんが、数名で一緒に見たり、二人で見たり、このビデオの分かち合いからすべてを始めましょう。

Youtubeでご覧になれますから、近頃はご家庭のテレビがインターネットにつながっていたりするので、そういった手段でもご覧ください。ご覧になっていろいろ思うことがあると思います。後で役に立つと思いますから、メモして置かれることお勧めします。

 

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ロザリオの祈り、そして新しい典礼日本語訳の実施

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10月はロザリオの月です。10月2日の司教の日記に記した内容を、あらためて記しておきます。

教皇レオ13世によって、10月は聖母マリアにささげられた「ロザリオの月」と定められました。そもそも10月7日のロザリオの聖母の記念日は、1571年のレパントの海戦でのオスマン・トルコ軍に対する勝利が、ロザリオの祈りによってもたらされたとされていることに因んで定められています。歴史的背景が変わった現代社会にあっても、ロザリオは信仰を守り深めるための、ある意味、霊的な戦いの道具でもあります。

教皇パウロ六世が1969年に発表された使徒的勧告「レクレンス・メンシス・オクトーベル」は、冒頭で、「諸民族の心と精神の和解によって最後には真の平和が世界に輝くよう、幸いなるおとめマリアの助けを願うために、十月にロザリオを唱えることを強く勧めます」と記しています。

この困難な状況に立ち向かう今だからこそ、神の母であり、教会の母であり、そしてわたしたちの母である聖母マリアの取り次ぎによって、世界に、そしてわたしたちの心と体に、神の平和が取り戻されるよう、共にいてくださる主イエスと歩みをともにしながら、命の与え主である御父に祈り続けましょう。

感染症の状況の中で、オンラインでの祈りの時をともにする機会が増えました。これは今までにない新しい祈りの形です。もちろん聖堂に皆で集まることが一番大切ですし、それに勝るものはありません。特にミサに関しては、実際に聖堂で秘跡にあずかることとオンラインであずかることは同じではありません。(現時点では、特別な状況ですから、主日のミサにあずかる義務を、教区すべての方を対象に免除しています。オンラインのミサで、主日のミサにあずかる義務を果たすことは出来ないのですが、霊的な成長のため、また霊的聖体拝領の機会とするために、オンラインミサは活用していただければと思います)

しかしせっかく見出したオンラインを活用した学びや祈りの機会ですので、今後もフルに活用したいものだと思います。

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ロザリオの月に一緒にロザリオを唱えるために、オンラインの祈りのひとときを作成し、教区のホームページで公開しています。また東京教区のyoutubeアカウントからもご覧いただけます。秋田の聖母を囲んで、いろいろな方に参加していただいて、それぞれの場からオンラインで、栄えの神秘の一環を唱えた模様を録画してあります。皆様のお祈りの助けとして、活用いただければと思います。

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ところで、すでにお聞き及びだと思いますが、典礼の新しい翻訳が認可され、来年2022年の待降節、2022年11月27日から実施されることになりました。認可を受けるには長いプロセスがあったのですが、現時点ではミサの式次第と第一から第四までの奉献文の翻訳が認可されているに過ぎません。それ以外のいくつも箇所は、まだ認可をいただいていません。なお今回の認可には、これまで翻訳がなされていなかったミサの終わりの荘厳な祝福や、ミサの始めの回心の祈りのところで行われる灌水式の式文が含まれていますので、これは今後ミサの時に活用されることを期待しています。

大変面倒なことなのですが、しかしこのまますべてのが認可を受けるのを何年も待つこともふさわしくありません。というのも、現在のミサ典書は、2002年にラテン語規範版の第3版がバチカンから公表され、一日も早くその第3版に沿った典礼でミサを捧げるようにとされているからです。

そのため、祈願や叙唱などはこれまでのミサ典礼書に記されているものを併用して、来年から実施することになりました。今年からすぐではないのは、司祭も信徒も準備が必要だからです。司祭もこれから、何回か研修会を開催して、学んでいきます。

信徒の方にも一緒に学び備えていただくために、日本カトリック典礼委員会から『新しい『ミサの式次第と第一~第四奉献文』の変更箇所」という小冊子が用意され発売されています。一冊税別で260円です。

これまでの翻訳の経緯などが記されていますし、翻訳を変更した箇所についてはその理由が丁寧に解説されています。今後、小教区なでも学びの機会が準備されますので、どうか時間を掛けて学んでいただき、来年待降節の実施に備えてください。全体の翻訳が認可されて、新しいミサ典礼書(赤表紙のあの厚い本)が出来るまでには、まだまだ時間がかかるものと思います。歌ミサのための式次第のメロディーもどうなるかまだ未定です。皆様のご協力をお願いいたします。

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2021年10月17日 (日)

シノドス開始ミサ@東京カテドラル

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本日10月17日、教皇様は世界中のすべての教区で、2023年秋のシノドスに向けた歩みを始めるようにと指示をされました。東京教区では、カテドラルである関口教会の午前10時のミサを、大司教司式ミサとして、シノドス開始のミサとしました。

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神の民としてともに歩みこの道程は、教会のあり方を見つめ直し、新たなあり方を模索する道ですから、教会にとっての回心の道でもあります。関口教会のミサでは、本来は聖堂の外でシノドスの祈りを唱え、回心を象徴して灌水した後に、皆で入堂する予定でしたが、あいにくの雨模様となり、皆さんには席に着いたままで、侍者と司祭団が大扉から入道しながら灌水して始めることといたしました。

シノドス事務局が準備した文書(リンクは日本語訳です)には、今回のシノドスの目的がこう記されています。

「次の基本となる質問がわたしたちを促し、導いてくれます。今日、さまざまなレベル(地方レベルから全世界レベルまで)で行われているこの「ともに旅をする」ことは、教会がゆだねられた使命に従って福音を宣べ伝えることを可能にするでしょうか。また、シノドス的な教会として成長するために、聖霊はどのような段階を踏むようにわたしたちを招いているでしょうか」

この準備文書に記されている10の「探求すべきテーマ」については、今後順に説明してまいりますし、教区のホームページの特設コーナーでは、今週以降、順次、共通理解のためのビデオを公開します。一緒に歩みましょう。

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以下、本日のミサの説教の原稿です。

年間第29主日B
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2021年10月17日

教皇様は、2023年秋に世界代表司教会議(シノドス)を開催することを決定され、そのテーマを、「ともに歩む教会のため-交わり、参加、そして宣教-」と定められました。

その上で教皇様は、教会全体にとって、シノドスがまさしくその意味するところである「ともに歩む」プロセスの具現化となることを望まれて、これまでとは異なるシノドスのあり方を定められました。それは、シノドスがローマで行われる2023年の司教たちによる会議だけに終わらず、世界中すべての教区のすべての人と歩みをともにするプロセスとなることであります。

これまでは、テーマに基づいた準備文書がバチカンの事務局で作成され、それに対して各国の司教団が回答を送り、さらにその回答に基づいて具体的な討議資料が作成されて本番の会議に臨むというプロセスでした。これでは確かに、司教たちの考えは集約されますが、教会全体の識別を反映しているとは言い難い。そこで今回は、2021年10月からシノドスの歩みを始めることになり、まず最初の半年ほどで各教区での振り返りと識別が行われ、そこからアジアやアフリカなどの地域別に繋がり、あらゆる声に耳を傾けた上でのローマでの会議という、2年間にわたるプロセスが開始されることになりました。

すでに先週、教皇様は、今回のシノドスのプロセスの開始を、ローマから告知されていますが、世界中の教区は10月17日の主日を持って、それぞれの教区におけるシノドスの歩みを始めるようにと指示をされています。東京教区では本日のこのミサを持って、また各小教区で同様の意向で捧げられているミサを持って、シノドスの歩みを開始いたします。

9月の初めにローマ教区の信徒代表たちとお会いになった教皇様は、その席で、「教会がリーダーたちとその配下の者たちとか、教える者と教わる者とから成り立っているという凝り固まった分断のイメージから離れることには、なかなか手強い抵抗があるが、そういうとき、神は立場を全くひっくり返すのを好まれることを忘れている」と指摘されています。これまでのやり方に固執することなく、勇気を持って新しいあり方を模索することは、教皇フランシスコが教会にしばしば求められる道です。

2015年にシノドス創設50周年の式典が行われたとき、教皇様はこう述べておられます。

「まさに『シノドス性』の歩みとは、神が第三千年期の教会に期待しておられる歩みなのです。ある意味、主がわたしたちに求めておられることは、すべて『シノドス』(ともに歩む)ということばの中にすでに含まれています。信徒と司牧者とローマの司教がともに歩むこと、それをことばでいうのは簡単ですが、実行に移すことは、それほど容易ではありません。」

第二バチカン公会議の教会憲章は、教会が個人の信心の積み重ねと言うよりも、全体として一つの神の民であることを強調しました。教会憲章には、「しかし神は、人々を個別的に、まったく相互の関わりなしに聖化し救うのではなく、彼らを、真理に基づいて神を認め忠実に神に仕える一つの民として確立することを望んだ」(教会憲章9)と記されています。

さらに教会憲章は、洗礼によって一つの民に結びあわされたわたしたちは、「ある人々はキリストのみ心によって他の人々のための教師、神秘の分配者、牧者として立てられているが、キリストのからだの建設に関する、すべての信者に共通の尊厳と働きについては、真実に平等」(教会憲章32)であると記しています。

ともに旅を続ける神の民にあって、わたしたち一人ひとりには固有の役割が与えられています。共同体の交わりの中で、一人ひとりがその役割を十全に果たすとき、神の民全体はこの世にあって、福音をあかしする存在となり得ます。

わたしたちの信仰は、神の民という共同体の信仰です。一つのキリストの体に結ばれた、共同体の信仰です。わたしたちの信仰は、その共同体における「交わり」のうちにある信仰です。

「交わり」とは、「共有する」ことだったり、「分かち合う」ことだったり、「あずかる」ことを意味しています。パウロのコリントの教会への手紙に、「わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか」と記されていました。その「あずかる」が、すなわち「交わり」のことです。わたしたちの信仰は、キリストの体である共同体を通じて、キリストの体にあずかり、いのちを分かち合い、愛を共有する交わりのなかで、生きている信仰です。

信仰の共同体の中に生じる「交わり」は、父と子と聖霊の交わりの神の姿を反映しています。「交わり」は、わたしたちの共同体で行われる典礼や祈りによって生み出され豊かにされていきます。

交わりによって深められたわたしたちの信仰は、わたしたち一人ひとりを共同体のうちにあってふさわしい役割を果たすようにと招きます。交わりは参加を生み出します。一人ひとりが共同体の交わりにあって、与えられた賜物にふさわしい働きを十全に果たしていくとき、神の民は福音をあかしする宣教する共同体となっていきます。ここにシノドスのテーマである「ともに歩む教会のため-交わり、参加、そして宣教-」の意味があります。

今回のシノドスの歩みを通じてわたしたちは、共同体における信仰の感覚をとおして、神の民であるという自覚を深めるように招かれています。社会の現実、特に今般のパンデミックによる痛みへの共感を持つように招かれています。社会にあって今を一生懸命に生きている人たち、すなわち貧しい人々との対話や連帯へと招かれています。いのちを生きる道や文化の多様性を尊重するように招かれています。信仰において、互いに裁くものではなく許し合うようにと招かれています。

シノドスの準備文書の冒頭にこう記されています。
「ともに旅をし、これまでの旅をともに振り返ることで、教会はその経験を通して、どのようなプロセスが、交わりを生き、参加を実現し、宣教に自らを開くのに役立つかを学ぶことができるのです」

東京教区では、折しも宣教司牧方針を、今回と同様に多くの方の意見に耳を傾けながら定めたところです。残念ながら、発表した直後から感染症の状況に翻弄されており、宣教司牧方針を公表したものの、深めることが一切出来ずにおりました。

今回のシノドスの歩みは、そういった状況にある東京教区にとっては、ふさわしい呼びかけとなりました。シノドスの歩みをともにすることで、わたしたちは今の東京教区の現実の中で、神の民であるとはどういう意味があるのかを理解し深めようとしています。そのプロセスの中で、交わりを深め、ともに参加し、福音を告げる共同体へと豊かになる道を模索していきます。そのことはちょうど、東京教区の宣教司牧方針の三つの柱、すなわち、「宣教する共同体」、「交わりの共同体」、「すべてのいのちを大切にする共同体」の実現と直接につながっています。

本日からシノドスの道をともに歩み、ともに振り返り、ともに理解を深め、ともに祈りながら、わたしたちが交わり、参加し、宣教する神の民となるように、教区の宣教司牧方針を深めながら、旅路へと招かれる主の声に耳を傾けてまいりましょう。

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2021年10月16日 (土)

週刊大司教第四十八回:年間第29主日

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10月17日は、先頃からお知らせしているように、2023年秋に開催される世界代表シノドスの、それぞれの教区ので「歩み」の始まりです。設問を出して、大きな会議を開いて、結論を議決することは、手間がかかりますが、明白な答えが出てすっきりします。しかし今回教皇様は、そのような手法ではなくて、皆で一緒に識別をして現状に対する共通理解を持ち、ともに旅する神の民として歩んでいこうと呼びかけます。

言葉でそういうのは簡単ですが、これを具体的に実施していくのは難しいことです。大きな会議を開いた方が簡単です。しかし教皇様は、面倒なことをしなければ、現状は変わらないと言われます。来年二月末に司教団へ教区としての回答を提出するまで時間が限られているのですが、やり方はそれぞれの教区に任されていますので、東京教区では、まず皆で共通の理解を持つことから始めたいと思います。教区のホームページで順次情報を提供していきますので、どうかご覧ください。

教皇様は、10月9日のシノドス開始を告げる考察の集いで、こう述べておられます。(バチカンニュースから)

「教皇は、シノドスは司牧的回心のための大きな機会を与える一方で、いくつかの「リスク」も抱えている、と指摘。そのリスクとして、シノドスを中身のない表面上のものにしてしまう「形式主義」、高尚だが概念的で世界の教会の現実から離れた「主知主義」、今までどおりでよいと考え何も変える意志がない「現状維持主義」の3つに注意するよう促された」

衆議院が解散され選挙が行われます。国政にとって大切な選挙ですから、より良い方向へ進むよう聖霊の導きがあるよう祈りましょう。また今回の選挙で選ばれる方々の上にも、聖霊の祝福と導きがあるように祈りましょう。特に今はロザリオの月である10月ですので、ロザリオの祈りをとおして、わたしたちの母である聖母マリアの取り次ぎによって、現代世界における神の平和の実現をめざしてわたしたちが行動する神の知恵を与えられるよう、祈り続けましょう。

以下、本日午後6時配信の、週刊大司教第四十八回目のメッセージ原稿です。

年間第29主日B(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第48回
2021年10月17日

神ご自身による苦しみは、いのちへの希望を生み出しました。イザヤは、「自らを償いの捧げ物とした」事を通じて、「子孫が末永く続くのを見る」と記し、さらに「多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら負った」と記すことで、イエスご自身による受難の道程と、それによってもたらされた栄光への希望を預言します。

ヘブライ人への手紙は、選ばれた民を代表して神の前に立つ存在である大祭司を持ち出し、すでに御父のもとにあられるその大祭司である主イエスが、「あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われ」、人類の罪を背負ってくださったのだから、神とわたしたちとの結びつきは揺るぎないことを強調します。その上で、わたしたちの弱さに心をよせてくださる主イエスのいつくしみを記すことで、神の憐れみが豊かに与えられていることを確信するように促します。

マルコ福音は、再び、奉仕するリーダーについて語るイエスの姿が記されています。イエスご自身が、「仕えるために来た」と言われたように、そしてまさしくご自身がすべての人の罪を背負って、すべての人に仕える者として、その身をあがないのいけにえとしてささげてくださったように、わたしたちも、君臨するものではなく、互いに仕え合う者となることが求められています。

教皇様は、2023年秋に世界代表司教会議(シノドス)を開催することを決定され、そのテーマを、「ともに歩む教会のため-交わり、参加、そして宣教-」と定められました。

その上で教皇様は、教会全体にとって、シノドスがまさしくその意味するところである「ともに歩む」プロセスである事を望まれて、ローマでの2023年の会議だけでなく、世界中すべての教区を巻き込んで、2021年10月から始められるようにと指示をされました。

すでに先週、教皇様は、今回のシノドスのプロセスの開始を、ローマから告知されていますが、世界中の教区は10月17日の主日を持って、それぞれのシノドスのプロセスを始めるようにと指示をされています。

9月の初めにローマ教区の信徒代表たちとお会いになった教皇様は、その席で、「教会がリーダーたちとその配下の者たちとか、教える者と教わる者とから成り立っているという凝り固まった分断のイメージから離れることには、なかなか手強い抵抗があるが、そういうとき、神は立場を全くひっくり返すのを好まれることを忘れている」と指摘されています。

2015年にシノドス創設50周年の式典が行われたとき、教皇様はこう述べておられます。

「まさに『シノドス性』の歩みとは、神が第三千年期の教会に期待しておられる歩みなのです。ある意味、主がわたしたちに求めておられることは、すべて『シノドス』(ともに歩む)ということばの中にすでに含まれています。信徒と司牧者とローマの司教がともに歩むこと、それをことばでいうのは簡単ですが、実行に移すことは、それほど容易ではありません。」

教皇様は、例えば教会がこの世の団体であるかのように、民主的に運営される仲良しの共同体であろうとはされていません。そうではなくて、地上を旅する神の民として、司教も司祭も修道者も信徒も、ともに手を携えて、互いに奉仕し合い、互いに支え合い、歩みをともにする共同体となることです。交わりの共同体は、福音を生きる共同体です。参加する共同体は、責任を共有する共同体です。宣教する共同体は、福音をあかしする共同体です。神ご自身が人となり、へりくだりのうちにわたしたちと歩まれたように、わたしたちも互いに仕え合う者として歩みましょう。

 

 

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2021年10月14日 (木)

シノドスの歩み、開始です

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2023年秋に開催される第16回通常シノドス(世界代表司教会議)は、これまでとは異なるシノドスです。

これまでは、バチカンの事務局から世界中の司教団に課題が示され、それに対する各国司教団の回答をもとに作業文書が作成されて、本番の会議には集まった代表の司教による討議なされ、教皇様に対して提言が出て、最終的には教皇様が使徒的勧告で答えらるというプロセスでした。

今回は、シノドスの準備と言うよりも、シノドス自体が、もう始まりました。

10月10日のローマでのミサを持って、教皇様は23年秋まで続くシノドスを始められました。もっともそのシノドスは、教会全体を巻き込んだともに歩むプロセスであると教皇様は言われます。神の民全体で歩みをともにしながら識別をするのだというのです。そのために、まずは各教区で、理解を深め、ともに歩みながら識別をすることが求められ、世界中の教区では、来る10月17日にその開幕を告げることになっています。

東京教区でも、10月17日午前10時の関口教会主日ミサをわたしが司式し、教区におけるシノドスを始めることを宣言します。

ただしこの教区でのシノドスは、特別な会議を行うことではありません。まずは一緒になって理解を深めるところから始めたいと思います。東京教区のシノドス担当者である小西神父様がまとめてくださった招きの文書にはこう記されています。(招きの文書はこちらのリンク

「ここでは、三つの動詞が大切となります。「参加する」、「聴く」、「識別する」。教会は人々に「参加する」ようにとうながさなければなりません。そのうながしに応えて人は、信者であれ未信者であれ、積極的に「歩み」に「参加」するのです。教会は人々の声に耳を傾けて「聴く」ようにと神から招かれています。また人は隣人の声なき声に真摯に耳を傾けなければならないのです。耳を傾けあうところに「交わり」が生まれるからです。そして教会は、自らがどこに向かっているかを反省的に「識別する」必要があります。混迷する現代社会にあって、教会の果たす役割と務めを知らなければなりません。そして、数々の情報に翻弄され真実を得ることが難しくなっている現代社会を生きる人々もまた生きる方向をしっかりと見極めて行かなければならないのです」

バチカンの事務局からは、10の設問が送付されていますが、同時に今回は、その設問に直接「回答」することではなくて、それを道しるべとして、教会のあり方を振り返り、同じ共同体で信仰を生きているお互いの理解を深める事が求められています。(なお10の設問は、中央協議会のこちらの特設ページにリンクがあります)

シノドスという言葉の意味も、小西神父様の招きの文書にわかりやすく記されていますので、ご参照ください。なおこの招きの文書の内容は、別途ビデオとして作成され公開される予定です。また今後順次、今回のシノドスが求めている方向性を理解するために、解説のビデオが、順次作成されて、公開されます。教区のホームページの、シノドス特設サイトをご覧ください

以下、本日公示した、教区におけるシノドスの道程の開始に関する文書です。

2023年世界代表司教会議(シノドス)に向けた歩みの開始について

教皇フランシスコは2023年秋に世界代表司教会議(シノドス)の第十六回通常総会を開催することを決定され、そのテーマを、「ともに歩む教会のため-交わり、参加、そして宣教-」と定められました。

教皇は、今回のシノドスが、その意味するところである「ともに歩む」プロセスを教会が具体的に生きる存在となることを望まれ、新たなシノドスのあり方を定められました。教皇は、今回のシノドスが、ローマで開催される2023年10月の代表司教たちによる会議だけに終わるのでなく、世界中のすべての教区が、ともに識別の時を過ごし、神の民を構成するすべての人が、その歩みに加わるようにと呼びかけられています。

今回のシノドスのプロセスの開始は、すでに10月10日の教皇ミサを持って告知されていますが、同時に教皇は、世界中の教区が10月17日の主日を持って、それぞれのシノドスの歩みを始めるようにと指示をされています。

東京教区では、10月17日に関口教会の主日10時ミサを大司教司式ミサとし、それを持って教区のプロセスを開始しますが、同時にこの主日の小教区主日ミサでも、シノドスの歩みに聖霊の導きがあるようにともにお祈りください。

なお今回のシノドスの歩みに取り組むために、東京教区の担当者として小西広志神父様を任命して準備を進めております。今回の歩みは、イベントや多数決で何かを議決する会議を開催することが主眼ではなく、神の民のすべての部分が、共通の信仰の理解を持ち、交わりを深め、福音を宣教する共同体へと変わる回心の歩みであります。それは東京教区の宣教司牧方針の具体化とともにある歩みでもあります。来年の2月までの期間、教区の皆様と歩みをともにし、ともに識別することが出来るように、さまざまな材料を今後提供してまいります。その後も、2023年のローマでの会議が終了するまで、関連する情報を、教区ホームページや教区ニュースで随時提供してまいります。

どうか一緒になって、交わりと参加の歩みをともにしてくださいますようにお願いいたします。

 

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2021年10月 9日 (土)

週刊大司教第四十七回:年間第28主日

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10月10日は年間第28主日です。週刊大司教も、本日の配信で第47回目となりました。ご視聴いただいている皆様に感謝申し上げるとともに、現在の状況の中でまだまだ教会に出かけることに困難がある方々に、週刊大司教をおすすめいただければと思います。パソコンからだけでなくスマートフォンからもYoutubeでビデオをご覧いただくことが出来ますし、過去の動画もそのまま保存してあります。ご活用ください。

教皇様は本日と明日の典礼を持って、シノドスの歩みを開始されます。シノドスの歩みは世界のすべての教区を巻き込んで始まり、2023年秋にローマで開催される世界代表司教会議まで継続します。各教区では来週、10月17日に教区での歩みを始めるようにと指示をされております。現在の状況ですから特別な典礼儀式は行いませんが、カテドラルの関口教会で、10月17日の午前10時のミサを大司教司式ミサとして、これを持ってシノドスの歩みを開始といたします。

今回のシノドスは、設問に対する回答を見いだすための会議ではなくて、神の民としての教会が、聖霊に導かれてともに歩む方向性を識別するために、できる限り多くの人の声に耳を傾けたいという教皇様の願いを実行に移すプロセスです。

すでにバチカンの事務局からは、このプロセスを始めるために各教区に対して10の設問が送られてきています。これらについては、この数日中に、これからどのように取り組むのかを含めて、お知らせをいたしますが、バチカンの事務局もこの10の設問への正解を求めているのではなく、それに基づいて各自が、また教区内のさまざまなレベルの共同体が、振り返り、深め、道を見いだす時をともにすることを求められています。従って、教区として何か会議を行ったり、または宣教司牧方針の時のように10の設問への回答を募集するような形ではなく、教皇様が望まれている教会のあり方について、ともに理解を深める時をまず持ちたいと考えています。そのために、シノドスが目指すところなどを解説する連続ビデオを作成して、教区のホームページで公開する準備をしています。

シノドスについての情報は、随時、教区ホームページに特設ページを設け掲載していきますので、どうぞご活用ください。

以下、本日午後6時配信の、週刊大司教第47回目のメッセージ原稿です。

年間第28主日B(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第47回
2021年10月10日

「善い先生」と呼びかけ、イエスのもとにひざまずいた人物は、忠実に掟を守る正しい生き方をする人だったのでしょう。マルコ福音は、イエスから基本となる掟を教示されたこの人が、「そういうことはみな、子どもの時から守ってきました」と応えた様を記し、彼の正しさを強調します。イエスもその事実自体を否定はせず、しかしそこには欠けていることがあると指摘しています。

この正しい人に欠けていたのは、一体何だったのでしょうか。イエスは、二つのことを問いかけ、求められます。まず第一に、たくさんの財産を持っていたこの人に、すべてを売り払い、貧しい人たちに施しをすることを求め、さらに加えて第二に、「わたしに従いなさい」と、イエスとともに歩むことを求めます。そしてこの二つこそ、掟を守る正しいこの人に欠けている事柄であります。

すなわち、第一に彼の正しさは、神の掟を忠実に守っているところにあるのですが、そもそも掟は何のために守るのか。掟とは、神が求められるいのちの生き方に、わたしたちが忠実であるために与えられた道しるべです。掟は、それを守ることを目的として与えられているのではなく、守ることによって具体的にどのような生き方が実現するのかが問題です。

仮に掟を完璧に守っているのであれば、それを実際の行動として具体的に生きているのかどうかが問われることになります。イエスがここで指摘する、「貧しい人々に施す」行為は、神の求める生き方であり、具体的には助けを必要としている人、一人ひとりのうちにおられる神を見いだし、ともに歩もうとする愛の具現化です。神に喜ばれるその生き方は、天に宝を積むことでもあります。

さらにイエスは、神に従うという決断が欠けていることを指摘します。掟を守ることが神が求める生き方をすることであるならば、それはすなわち全身全霊を持って神に従う決断をすることへとつながります。中途半端な信仰ではなく、すべてを賭けた決断をイエスは求めます。

知恵の書は、どのような財宝よりも優れている知恵について語ります。知恵と賢明さは、わたしたちを神の求める生き方へと導く手立てであり、加えて知恵は「すべての善」とともにあると知恵の書は記します。神に従うという徹底的な決断をするためには、善とともにある知恵と賢明さが必要です。

ヘブライ人の手紙も、同様に、生きている「神の言葉」は、「心の思いや考えを見分けることが出来」る力があると記します。わたしたちの善に従う決断のために必要なのは、神の知恵、そして賢明さ、それをもたらす神の言葉であって、この世の成功や富ではありません。

ところで2023年秋に開催される世界代表司教会議(シノドス)は、世界中の教区に属するすべての人をともに、本日その歩みを始めます。それぞれの教区での歩みは来週から始まりますが、教皇様は10月9日と10日に、シノドスのプロセス開始を告げられます。

テーマは、「ともに歩む教会のため―交わり、参加、そして宣教」と定められています。前回の通常シノドス閉幕にあたり、教皇様は、「傾聴というこの基本的な手だてを通して、わたしたちは現実を解釈し、現代のしるしを把握しようとしました。そして、みことばと聖霊の光のもとに、「共同体としての識別」が行われました」と述べておられます。今こそわたしたちに、教会全体に、知恵と賢明さが必要です。生きている神の言葉に促されて、教会共同体の識別が賢明に行われるように祈るとともに、神の呼びかけに全身全霊を持って徹底的に従うことが出来るように、知恵と賢明さと信仰における勇気を願いましょう。

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町田教会で堅信式、年間第27主日

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緊急事態宣言が解除となり、ミサの公開が再開しましたが、その直後の最初の堅信式が、10月3日に町田教会(主任司祭は林神父様)で行われ、17名の方が堅信の秘跡を受けられました。おめでとうございます。感染症の状況の中、堅信式も何度も延期になり、皆さんよくぞ待ってくださいました。その忍耐と犠牲に、御父の豊かな報いと聖霊の祝福がありますように。

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またこのミサの中では、教区の神学生である熊坂さんが、朗読奉仕者の選任を受けられました。司祭養成の過程では、まず哲学課程が終わったところで司祭助祭の候補者として認定を受けます。その後、朗読奉仕者と祭壇奉仕者の選任をそれぞれ受けて、助祭叙階に至ります。助祭叙階後は、短くても半年以上の助祭としての務めを経て、司祭に叙階されることになります。

現在東京教区には4名の神学生がおり、東京カトリック神学院に在籍しています。熊坂さん、冨田さん、田町さん、今井さんの四名です。ご存じのように司祭になるためには、現在の養成課程では、最低でも7年間必要です。例えば、今日、志願者が現れたとしても、まず教区の中で、教区養成担当者による見極めの期間があり、その後神学院の入学試験を経て7年です。加えて今現在の新しい養成の課程では、神学院での勉学と養成をすべて修了してから初めて助祭叙階となり、そ助祭としての奉仕を半年以上経験してから司祭叙階ですので、実際には8年近くがかかることになります。

ひとりでも多くの青年が、教区の教会共同体を導く牧者として生きていく決断をし、司祭の道を歩んでくださるように、皆様のお祈りをお願いいたします。また司祭への道を進むべきかどうか悩んでいる青年がおられましたら、より良い識別が出来るようにと励まし、またともに歩んでくださいますように。

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準備いただいた町田教会の皆様、ありがとうございます。また当日の映像配信も準備が大変だったと思います。ありがとうございます。町田教会の皆様には、感染対策のため、多くの方には参加いただけませんでした。また次回、皆さんとお会いできればと思います。

以下、町田教会での当日のミサ説教を録音してテープ起こしをした原稿を掲載します。

年間第27主日

町田教会堅信式ミサ

新型コロナの感染症が私たちの社会に大きな影響を与えて、すでに1年半が過ぎてしまいました。教会も様々な影響を受けています。信徒の方々の中には、感染して亡くなられた方もおられますし、入院されている方もおられます。

幸い、他の多くの国々と比較するとまだその影響は少ない、小さい方だと思います。

でも新しいウイルス感染症ですので、実体が解明されていない。はっきりとわからない中で慎重に行動して行かざるを得ないので、他の国の様々な事例を参考にしながら、東京教区でも昨年は1度、政府の緊急事態宣言に合わせてミサの公開を中止しました。3月から6月まで、その後はできる限りミサに与ることができるようにしています。  

私たちの信仰生活の中心はやはり聖体祭儀です。ご聖体におけるイエス様の現存とともに、私たちは信仰を深めていく。そして、共同体のつながりを確認する、絆を確認する、実感する。そういう意味でも、この聖体祭儀はとても大切な秘蹟ですし、これなしには考えられないわけですから、なるべくご聖体に与っていただく、聖体祭儀に与っていただくということで、緊急事態宣言が何回か出ても、感染対策を続けながらミサを続けてきたわけです。

教会に集まっていただいて、感染対策を取りながらミサを続けることは楽なことではないです。司祭だけではなく、特に教会の役員の方、ボランティアで関わってくださる多くの方々に、本当に感謝申し上げたいと思います。お一人お一人の助けがなければ、こうやって教会の活動を続けていくことはできませんでした。感謝申し上げたいと思います。

4回目となる緊急事態宣言が出た時にはどうしようかと考えたのですけれど、ちょうど夏ですね、オリンピックの前です。1年以上過ぎ、感染対策を同じように取ってきても、どうしても緩みが出てきてしまっている。70近くある小教区の中で、危険な兆候が見られたという報告がありました。今回は8月の半ば、新規陽性者の方が5千人くらいになり、どんどん数が上がっていった段階で、カトリックの医師会のドクターなどの方々に相談をしながら、今回のミサの公開を自粛することにいたしました。

幸い9月の半ば過ぎくらいから新規の陽性者の方の数が減っていき、入院されている方々の数も減っていきましたので、9月30日の政府の緊急事態宣言解除に合わせて教会の活動を再開し、今日こうやって自粛期間を過ぎた後の最初のミサをこの町田教会で、共にお祝いすることができることを感謝したいと思います。

さらにはこのミサの中で聖体祭儀だけではなくて、堅信の秘蹟もあるという素晴らしい機会を与えていただいたことを、本当に感謝したいと思います。

医療関係者の方々には心から感謝申し上げるとともに、まだ、病床におられる方々が多くおられますので、その方々の一日も早い回復と健康をお祈りし続けたいと思います。

今回の感染症は、私たちに世界的な規模で起こっている出来事ですから、世界的な規模で手を取り合わなければならない。連帯をしなければならないということを、改めて思い起こさせてくれました。

今このグローバルな繋がりの中で、自分の国だけ鎖国をし、自分の国は大丈夫だから他の国と関係がないんだ、というような形では生きていくことができない世界ですので、私たちは今現在こうやって目に見えない小さなウイルスとの戦いの中にいる中で、世界中の国々と連帯をし、ともに命を守っていかなければならないということを、ひしひしと思い知らされています。

教皇様ご自身も何度も何度も、連帯することの大切さ、私たちは互いに助け合っていかなければ命を守ることができないということを、いくたびも呼びかけておられます。

ところが一年くらいたったくらい、今年のご復活祭でしたけれども、教皇様はご復活祭のメッセージで、「これだけ連帯の必要性を多くの人たちが口にしているにもかかわらず、実際にそれが成し遂げられていない。それどころか自分の国のことばかり考えて、あまつさえ、この感染症の中で戦争をしようと、武力でなにか物を解決しようというような動きさえある。または、この感染症対策の中で経済状況が悪化して職を失い、非常に困窮した状態の中で、別な意味で命の危機に直面している多くの人たちが忘れ去られようとしている。この1年間私たちはいったい何をしてきたんだ」ということを、繰り返しおっしゃられました。私たちは、連帯が必要だ、連帯が必要だと言っているけれど、実際に連帯するということはなかなか難しいという現実に直面しています。


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連帯……。教皇様が、何度も何度も繰り返し言われる、-連帯しなければならない―というのはどこから出てくる考え方なんだろうという事を振り返ってみると、今日の第一朗読の創世記の2章に記されている物語から出てくるんですね。
創世記というのは、第1章の最初の所で、六日間で神様は世界を作って七日目に休まれましたよという、一週間で世界天地が創造された物語が

そこには記されているわけですが、その時にはいろんな物を造って最後に人間を造るわけです。

ところが章が変わって2章に入ると、今度は全く違う話がそこに書いてあるのです。

今日の第一の朗読でその一部が語られています。何をしたかというと、神様は最初に人間を造った。一人の人を造って、そしてその後に、「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」と言うんです。そして神は、様々なものを創造して様子を見るんですね。いろんなものを創造していって人に与えて、それが人を助ける者となるかどうか見ていくわけですけど、残念ながらみんな良いものなんですが、満足なものではないわけです。人間にとって助ける者とはならない。

そこで神は何をしたかというと、もう一人の人を造った。もう一人の人を造った。つまり人間は何のために命を与えられているのか。命を与えられている意味はいったいなんなのか。それは互いに助ける者となるために、私たちは命を与えられているんだ。

その一番根本の例が、男性と女性が一緒になって家庭を造っていくということ。それが一番のスタートなのですけれども、男性と女性だけでなくすべての命、人と人は助け合うために、その命を与えられているんだということを、この創世記の物語は、私たちに教えているんです。

今日の福音も、結婚離婚はどうするんだという掟の話をイエスはしていますが、あらためて創世記の物語を引用することでイエスは、人の命はお互いに助け合うため、一緒になって生きていくために与えられているんだということを、強調されています。

ここから、「私たちは互いに連帯して、この地上で命を生きていかなければならない」と教皇様が繰り返しおっしゃられる言葉の、この根本的な考え方が出てくるんですね。

私たちはこの命を、互いに助け合うために、互いに支え合うために、互いに手を取り合って歩んでいくために、命を与えられているんだと。
だからけっして、クリスチャンは、キリスト者は、優しい人だから他人を助けるわけではないですよね。私たちは何か、優しい性格をもった人たちだから他の人に手を差し伸べたり愛の業を行うのではないのです。私たちは互いに、優しくない人がたくさんいるのをよく知ってますよね。教会に行っても、けっしてみんな良い人ではないのです。でも私たちは助け合うのです。何故ならば、それが、私たちが命を与えられている理由だからです。それが意味だからです。そうしなければ命を生きている意味はないからです。

神は私たちに互いに助け合う者となれといって命を与えてくださったので、私たちは性格が良かろうが悪かろうが、他人を助けるんです。人に優しくするんです。それが、私たちが命を生きる意味であると思います。

そしてこの新型コロナ感染症の只中にいるときに、まさしく私たちは今、互いに助け合うというのはいったい何なんだろうと、改めて考えさせられていると思います。それには色々な道がありますよね。直接的に貧しい人たちを助ける、職がない人に手を差しのべて職を提供するとか、食べるものがない人たちに食を提供するとか、いろんな具体的な行いがありますし、それ以外にも感染対策をすることも、自分の命を守るだけではなくて他人の命を守るために、積極的な愛の行動です。

互いに支え合っていくというのは、いろんな方法があるんですね。みんなが同じ事をすれば良いということではなくて、それぞれが互いにできることを忠実に果たしていくことによって、互いに命を守り、互いに支え合って、助け合ってこの命を生きていく。
それが、神が私たちに命を与えられた理由なんだということを、あらためて心に刻んでいきたいと思います。

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今日堅信を受けられる方々は、洗礼から始まってご聖体、そして堅信、この3つの秘蹟を受けることによって、キリスト教の入信の秘蹟が完成します。洗礼を受け、ご聖体を受け、そして堅信を受ける、この3つで、完成した成熟したキリスト者として完成するんですね、ここで。
ですのでこれからは、堅信を受けてから成熟した大人の、年齢は関係なく、大人のキリスト者として生きていくということが求められています。それは福音に記されている、イエスが求められている、様々な生き方を忠実に果たしていく責任が生じるということだと思います。

でももちろん、私たちはそんな簡単に完璧な、今日の堅信の秘蹟を受けた途端にスーパーマンに変わるわけではないです。堅信式の後で立派な人に生まれ変わるわけではないのです。残念ながら。弱い人間ですから、必ずしもイエス様が言う通りなんてできないですよね。できないからこそ、堅信の秘跡の時に聖霊をいただくのです。

聖霊は私たちを変えてくださるのではなく、聖霊は、私たちの弱さを補って、私たちを後ろから支えてくださる神の息吹(いぶき)です。神の力です。神様は堅信の秘蹟を通じてこれから日々、後ろから一生懸命息を「ふーっ」と吹きかけて、あっちへ行きこっちへ行き、倒れそうになる私たちを、まっすぐ進むように支えてくださっているんですね。

この神様の息吹、神様の支え、神様の思いを、信頼して、大人の信仰者として、これからの日々の生活を歩んでいっていただきたいと思います。

 

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2021年10月 2日 (土)

週刊大司教第四十六回:年間第27主日

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時間は本当に飛ぶように過ぎ去ってしまいます。とりわけ、現在のように不確定要素のただ中で翻弄され、対応に追われるとき、心はどうしても落ち着きを失い、気がつくと、あっという間に時間だけが過ぎていたと言うことなのでしょうか。10月となり、今年も年末に向けての3ヶ月となりました。

10月はロザリオの月です。(聖母子像の写真は麹町教会)

教皇レオ13世によって、10月は聖母マリアにささげられた「ロザリオの月」と定められました。そもそも10月7日のロザリオの聖母の記念日は、1571年のレパントの海戦でのオスマン・トルコ軍に対する勝利が、ロザリオの祈りによってもたらされたとされていることに因んで定められています。歴史的背景が変わった現代社会にあっても、ロザリオは信仰を守り深めるための、ある意味、霊的な戦いの道具でもあります。

教皇パウロ六世が1969年に発表された使徒的勧告「レクレンス・メンシス・オクトーベル」は、冒頭で、「諸民族の心と精神の和解によって最後には真の平和が世界に輝くよう、幸いなるおとめマリアの助けを願うために、十月にロザリオを唱えることを強く勧めます」と記しています。

この困難な状況に立ち向かう今だからこそ、神の母であり、教会の母であり、そしてわたしたちの母である聖母マリアの取り次ぎによって、世界に、そしてわたしたちの心と体に、神の平和が取り戻されるよう、共にいてくださる主イエスと歩みをともにしながら、命の与え主である御父に祈り続けましょう。

東京教区では、すでに教区ホームページなどで公示したように、10月1日から、感染対策を取りながら教会活動を再開しています。今後状況がどのように変化するのかまだ見通せませんが、互いの命を守るための積極的な愛の行動として、感染対策にご協力ください。

なお昨日付で人事の公示をいたしましたが、これまで10年以上にわたって東京教区の司牧のために貢献してくださった李 宗安師(現青梅・あきる野教会主任司祭)は、李神父様の所属するソウル教区と東京教区との契約が満了し、10月末をもって帰国されることになりました。ソウル教区からは、すでに後任の神父様が任命され、派遣の手続きが進んでいますが、残念ながら現在の感染症の状況で日本政府から宗教ヴィザが発給されず、入国できずに待機されている状態です。李神父様のこれまでの東京での司牧に対する貢献に感謝するとともに、帰国されてからのソウル教区でのご活躍をお祈りいたします。(なお、フランス語共同体の新しい担当司祭もフランス司教団から任命されていますが、同様の理由で、入国できず、待機中です)

以下、本日午後6時公開の、週刊大司教第四十六回のメッセージ原稿です。

年間第27主日B(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第46回
2021年10月3日

創世記は、冒頭で神による天地創造の業を記していますが、二章においては創造物語の視点を変え、人が賜物であるいのちを与えられた理由を記しています。

二人の人が創造された理由がそこに記されているように、わたしたちは互いに「彼に合う助ける者」となるように、そのいのちを与えられている。そう記す創世記は、わたしたちが互いに助け合い、支え合うことこそが、いのちを生きる本質であると強調します。

マルコ福音も、ファリサイ派の人たちとイエスの、離縁に関する議論について記しながら、二人の人が一体となることの根本にある、いのちに与えられた使命、すなわち、互いに助け合い、支え合うことこそがわたしたちがいのちを生きる意味であることを明確にします。

ヘブライ人への手紙は、救いの創始者、すなわち天地を形作られた神ご自身が、数々の苦しみを通じて完全な者となったことで、「多くの子らを栄光へと導いた」と記します。

教皇ベネディクト16世は回勅『希望による救い』の中で、「人間は単なる経済条件の生産物ではありません。有利な経済条件を作り出すことによって、外部から人間を救うことはできないのです(21)」と指摘します。その上で教皇は、「人とともに、人のために苦しむこと。真理と正義のために苦しむこと。愛ゆえに、真の意味で愛する人となるために苦しむこと。これこそが人間であることの根本的な構成要素です。このことを放棄するなら、人は自分自身を滅ぼす(39)」と述べています。

教会が常に顕彰してやまない殉教者たちは、その人生における苦しみを通じて、まさしく「人間であることの根本的な構成要素」を明確に表現した存在です。殉教者たちは信仰を生き抜くことで苦しみ抜きながらも、賜物としていのちを与えられた人間の生きる意味を明確にした存在です。主ご自身が苦しみを通じて多くの人を救いへと導いたように、苦しみを通じて人間の本質を明確に示した殉教者たちは、そのいのちは、自分のためではなく、互いに助け合うため、支え合うためにこそ与えられていることをはっきりと示されました。

わたしたちには、苦しみのうちにあっても連帯のうちに、互いのいのちを支え合って生きることが求められています。

教皇フランシスコは、一般謁見を昨年9月2日に一時中断後再開した時、こう話されました。
「このパンデミックは、わたしたちが頼りあっていることを浮き彫りにしました。わたしたちは皆、良くも悪くも、互いに結びついています。この危機から、以前よりよい状態で脱するためには、ともに協力しなければなりません。独力ではなく、協力するのです。独りでは決してできないからです。一緒に協力するか、さもなければ、何もできないかです。わたしたち全員が、連帯のうちに一緒に行動しなければなりません。」

感染症の状況の中で、わたしたちはいのちの危機を肌で感じました。この不安と苦しみのなかにあって、わたしたちの心はどうしても自分の方へと向かってしまいます。自分のいのちを守ろうとして、利己的になってしまいます。分断と分裂、そして孤立と孤独は、この数年、世界各地で社会の課題となって顕在化してきましたが、このパンデミックによって、さらに明確な社会の課題として、いや、いのちの危機をもたらす要因として、わたしたちの目前に立ちはだかっています。わたしたちは、互いに助け合う者としていのちを与えられていることを思い起こし、殉教者の勇気に倣い、いのちを生きる本当の意味を、広くあかしし、伝えてまいりましょう。

 

 

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