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2021年10月30日 (土)

世界宣教の日:堅信式ミサ@上野毛教会

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先週10月24日の世界宣教の日の日曜日、午後二時半から、上野毛教会を会場に、世田谷南宣教協力体の合同堅信式ミサが行われました。

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宣教協力体の合同堅信式でしたが、現在の感染症対策の制限がある状況の中で、準備などの都合もあり、堅信を受けられたのは上野毛教会の4名の方でした。ミサ後に、宣教協力体に属する上野毛、田園調布、碑文谷から主任司祭と信徒会長が集まり、現状報告をいただきました。ちなみにこの三つの教会は、それぞれ、カルメル会、フランシスコ会、サレジオ会と、司牧を担当する修道会が異なります。通常であれば、それぞれの教会から大勢に参加していただくのですが、今回は、聖堂内には受堅者、代父代母、家族などだけがおられ、そのほかホールなどで配信であずかった方もおられるとのことです

堅信を受けられた皆さん、おめでとうございます。

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この日のミサでの説教は原稿なしでしたが、録音から起こしたものを参考までに以下に掲載します。(言い間違いなど、多少手直ししましたが、ほとんどその場で語ったとおりです。)

上野毛教会堅信式ミサ

2021年10月24日

皆さま、堅信おめでとうございます。

今日の日曜日は、教会では世界宣教の日と定められていて、教会の福音宣教のために、また宣教に携わる人々のために祈り、さらには宣教の意識を高めるようにと、世界の教会に呼び掛けられている、特別な日曜日でもあります。

宣教というのは当然、私たち一人一人洗礼を受けたキリスト者にとっては、一番大切な役割の一つです。それはイエスが、ご復活のあとに弟子たちに対して全世界に行って皆に伝えなさいと、洗礼を授けなさいという宣教命令を残して行かれたからです。それ以降ずっと今に至るまで、イエスの弟子として洗礼を受け従って生きていこうと決意した私たち一人一人には、その最後のイエスの命令、すなわち宣教命令が脈々と受け継がれているわけです。

洗礼を受け、ご聖体を受け、そして最後に堅信を受けることによって、私たちの入信の秘跡は完成します。

キリスト者としての入信のプロセスは、この堅信の秘跡によって完成しますが、完成したらどうなるかというと、イエスの宣教しなさいという命令に、完全に従ってゆく義務がそこから生じてくるのです。恵みも頂きますけれども、恵みに伴って義務も生じてくる。

恵みは何かというと、それは聖霊による助力、聖霊による助け、祝福、導きであります。もちろん、私たちは弱い人間ですし、完璧な人間はいないので、しなければならないと思ってもできないことが沢山あるわけですよね。で、特にこの福音を宣べ伝えなさいという命令を、具体的に私たちの生活の中で実行していこうとすると、どうしたらいいかわからない。道端に立ってのぼり旗を立てて、福音を信じなさいと言ったところで、あまり誰も聞いてくれそうにない。この社会の中で、私たちはどうやって福音を伝えていくのだろう。そのためには、知恵が必要となるのです。

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しかしその必要な知恵は、いくら私たちが人間の知恵を一所懸命振り絞っても、なかなか足りない。神の知恵による助けがなければ、実際に私たちが生きて行く中で、どうやって福音を告げ知らせてゆくのかということへのアイディアは浮かんでこない。神の知恵を与えてくれるのは、聖霊の助けです。聖霊は知恵を与えてくれる。知恵そのものを与えてはくれないかもしれないが、知恵に近づくことができるように、様々な形で私たちを後押しして下さいます。

そして、福音を証しするには、やっぱり勇気が必要です。勇気がなければ、実際に福音を何らかの形で伝えてゆこうという思いが出てこない。その勇気はやはり、聖霊の助けによって神から与えられる恵みの一つであるわけです。私たちは勇気を頂いて、そして神から頂いた知恵によって、どのような形で福音を証していったらいいのか考え、実行して行くのです。

その私たちの思いを後ろから支えてくれるのは、聖霊であります。聖霊の助けです。堅信の秘跡を受けることによって、私たちは聖霊の助けを頂くことができるのです。

堅信の秘跡を受けた瞬間に、その聖霊の恵みが私たちに大量に降りてパッと花開いて、突然すごい超人に生まれ変わるということではないです。そういうことはなかなか起こらない。残念ですが。

そうではなくて、今から私たちが福音を告げるのだという決意をもってその務めを果たそう、イエスの最後の宣教命令に従って生きようと行動するときに、聖霊が後ろから私たちを支えて、助けてくれるのです。聖霊が後ろから私たちを支えてくれる、聖霊が後押しをしながら知恵を与えて、勇気を与えて、導いてくれるのです。それが、この堅信の秘跡であると思います。
ですから、今日こうやって堅信を受けたそのあとに、私たち一人一人がその務めを果たしていくこと、完成したキリスト者として福音を宣べ伝える務めを果たして行くという決意を、今日、ぜひ固めて頂きたいと思います。

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それでは具体的に、どうやって福音を証しするのか。それはやはり、人と人との出会いの中で、私たちが日々語る言葉、何気ない行い、そういった「言葉と行い」をもって、私たちは福音を証ししていかなければなりません。

聖書を丸暗記し、聖書にはこう書いてあると立派なスピーチをすることだけが、福音宣教ではないのです。福音宣教というのは、人と人との関わりの中で私たちが信じていることを、実際に目に見える形で証しして行くこと、耳に聞こえる形で証しして行くことです。

しかし、私たちは完璧ではない弱い人間なので、四六時中いつでも福音の言葉を語り、行って、福音を証しして行くことが出来ていない。どうしても様々な思い煩い、誘惑、いろんなことがあるので、そう簡単に24時間いつでも神様の言葉を証しし、神様の言葉に従って生きているわけではありません。

しかしそうできないからこそ、堅信の秘跡をもって聖霊のお恵みを頂くのです。できない、弱い、足りない私を、神様が聖霊の力によって助けてくれているんだという確信を、それを持つことが、とても大切だと思います。

今日、堅信を受けることによって私はすごい人間になるのではなく、すごい人間にはなれないんだ、弱さのうちに生きているのだということを、あらためて自分に言い聞かせ、だから神様の助けが必要なんだと、だから聖霊の導きが必要なんだと、だから聖霊によって後ろから背中を押してもらうことが必要なんだという、謙遜な思いを持つことによって初めて、聖霊の力が働くんです。

パウロが、「私たちは弱いときにこそ強い」と言っておられる。どういうことかというと、わたしがわたしがと、自分が頑張るんだと前に立ち続けているとそれが壁となって神様の力は働きようがないのです。私は弱いのだと、私にはできないと、神様の助けが必要なんだと遜ったときに初めて、邪魔する壁が崩れ去って神様の力が働くことができるのです。

ですから堅信の秘跡を受けることによって、自分たちのそれぞれの弱さをあらためて認め、神様、頼むから私を通してあなたの力を働かせて下さいと、身を委ねるということも大切だと思います。

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今日の朗読に、目の不自由な人が治してもらった話がありますけれども、あの話はとても大切な話なので、堅信の話からは少し離れますが申し上げておきたいと思います。

あのバルティマイの話は、よく読んでみると誰も何もしない話です。誰も何もしていないのです。みんな何もしないぞって言っている話なのです。そのバルティマイという人が、一所懸命イエスに「治してくれ」と叫ぶんですけれども、みんなは「黙れ」と、「うるさい」と、静かにしてろと抑え込もうとしますね。

そこへイエスが、「いや連れて来なさい」と言ったけれども、誰もそのバルティマイの手を引いてイエスのところに連れて行かないのです。一言もそんなこと書いてない。誰一人として、目の見えないバルティマイの手を引いてイエスのところに連れて行こうとしていない。皆、何をしたかというと、「安心しなさい。立ちなさい」と言っただけです。声を掛けただけです。だからバルティマイは、自分でイエスのところに歩いて行くんです。いざイエスのところに来たら、どうですか。他のところでは、イエスは、唾を付けて土をこねて目に塗るとか、ああしなさい、こうしなさいとか言ったりとかするんですけれども、なんにもしない。イエスも、なんにもしないで、「どうしてほしいんだ」と聞くんです。「何をしてほしいんだ」と。バルティマイが「目を治して下さい」と言ったあとは、「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と、それで終わる話ですね。だからイエスも誰も何もしないのに、目が治った奇跡の話なんです。

このお話の素晴らしいところは、二つあります。

一つは、このバルティマイの目が治ったということ。もう一つは、実はですね、周りにいる人たちがイエスによって変えられたということなんです。ここがとても大切なところです。つまり、助けを求めて叫んでいた人を無視して、その存在をないものとしようとしていた人たちが、「安心しなさい。立ちなさい」と言う。同じ人たちがですよ。それまで無視しようとしていた人たちが、「安心しなさい。立ちなさい」と声を掛ける存在に大きく変えられたというお話なんです。

そして彼らが大きく変えられたことによって、バルティマイが治されていくんですね。イエスが「あの男を連れて来なさい」と、私はあの男が必要なんだということを言って下さったことによって、人々の心が助けを求める人の存在に気がつくように変えられたのです。

イエスの力で、神の力で、見えなかった目が治りました。ですけれど、この奇跡物語のすごいところは、そこにもって行く過程で、実は周りにいる人たちが変えられたということ。それまでそのバルティマイという人の生きる希望を奪ってきた人たちが、今度は逆に生きる希望を与える存在になっていったということなのです。

生きる希望を奪って、「お前なんかいなくていいんだ。静かにしていろ」と言っていた人たちが、「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ」と声を掛ける存在に変わっていった。それによってバルティマイは、励まされて生きる希望が生まれるんです。生きる希望が生まれて、そこにイエスの力が加えられて目が治されて行く。そういう話なんです。

ですので、奇跡物語であると同時に、私たち一人一人の関わりはどうあるべきなのかということを教えている奇跡物語でもあります。
そしてそれは私たちに、困窮している人たち、困難に直面している人たち、命の危機に直面している人たち、助けを必要としている人たちとの関係を教えています。お前の存在なんかないものだと排除し見えないものとするような態度ではなくて、「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ」と呼び掛け、行動するようにと促し励ますものとなるように。そこに命を生きる希望が生まれます。

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私たちも、困って困窮している人たち、困難に直面している人たち、社会から排除され忘れ去られている人たちに対して、「安心しなさい。立ちなさい。さあ一緒に生きてゆこう。命を生きていこう。」と。命の希望を生み出すような人間関係を持つことによって、育て上げ、生み出すことによって、そこに命を生きる奇跡の関係を、命を生きる希望を、神の力が働くような状況を生み出していくことができるのです。そしてそれが、福音宣教に繋がっていくのです。

今日の世界宣教の日にあたり、私たち一人一人が、どうやって福音を宣教できるのか、そしてどのように福音を宣教するのかということを、あらためて考えたいと思います。

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