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2021年11月27日 (土)

週刊大司教第五十四回:待降節第一主日

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典礼の暦は新しくなり、待降節が始まります。主日の朗読の周年は「C」となります。

シノドスの歩みのためのビデオはご覧いただいていますか。今はまず、皆で意識を共有し、「教会」という存在への共通の理解を持つために、学ぶときです。もちろん、複数の方で一緒にご覧いただいて、それについていろいろと話し合われても構いません。「分かち合い」という言葉は、何か自分の内面のすべてをさらけ出さなくてはならないような響きがあったり、何らかの手法があったりというイメージがありますが、必ずしもそうではありません。

もちろん聖書のみ言葉に基づいた分かち合いには、それなりの方法があります。例えば、東京教区ホームページに幸田司教様が、「聖書の集い」についてまとめてくださった記事が掲載されています。

しかしここで触れている「分かち合い」は、学んだことに関してのそれぞれの感想を述べることです。誰かがメモを取ってくだされば、後からまとめて、自分たちの信仰生活の振り返りに役立てることができるでしょうし、シノドスの歩みの次の段階に役に立つものとなります。これに関しては、今の段階では、特に何か結果を提出していただくようなことはお願いしていませんのでご安心ください。

シノドスの学びのためのビデオは、こちらのリンクの教区ホームページか、youtubeのカトリック東京大司教区のチャンネルでご覧ください。

なお、今後の「週刊大司教」ですが、十二月中の土曜日はすべて配信を続けます。1月1日(土)については、週刊大司教はお休みとします。なおその日は「神の母聖マリア」の祭日ですから、関口教会のyoutubeチャンネルで、午前10時から大司教司式ミサの配信があります。その後、1月8日(土)からは、「週刊大司教」を配信いたします。また、関口教会のyoutubeチャンネルでは、12月24日午後9時と、25日午前10時にも、大司教司式ミサが配信される予定です。

以下、本日午後6時配信の週刊大司教第54回の、メッセージ原稿です。

待降節第一主日C(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第54回
2021年11月28日

典礼の暦は新しい一年を歩み始め、降誕祭に向けた準備のときである待降節が始まります。待降節の前半は、私たちの救いの完成の時に焦点を当て、後半は救い主の誕生を黙想するように私たちを招きます。

この二年ほどの間、私たちは感染症によってもたらされた命の危機と社会の混乱のただ中に身を置いてきました。想定外で発生したこの事態を通じて、私たちは神の計画が人知をはるかに超えていることをあらためて思い知らされています。人間が計画したことは、ことごとく立ち往生し、なすすべもなく私たちは立ちすくんでしまいました。

このような状況の中にいるからこそ、ルカ福音の言葉は、圧倒的な現実性を持って私たちに迫ってきます。「放蕩や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい」と弟子たちに語られる主イエスは、「いつも目を覚まして祈りなさい」と促します。

パウロはテサロニケの教会への手紙で、「神に喜ばれるためにどのように歩むべきかを」学んだ人々に、「その歩みを今後もさらに続けてください。わたしたちが主イエスによってどのように命令したか、あなた方はよく知っているはずです」と記しています。

「目を覚まして祈りなさい」という言葉は、単に覚醒していることを促しているのではなく、祈りのうちに「ときのしるし」を読み取り、主が命じられた生き方を続けていくこを求めます。私たちは、ただ座して何かを待っているのではなく、常に前進を続けながら行動的に主の時を待たなくてはなりません。今どのように行動するべきなのか。主はそれを、さまざまな「ときのしるし」を通じて示されています。今、感染症の状況のなかにあって、私たちはどう生きるべきなのかを考えさせられていますが、まさしくこの状況における「ときのしるし」に心の目を開き、「神に喜ばれる」生き方を見出し、前進し続けましょう。

教会は今、ともに歩む道、シノドスの道を一緒になって歩んでいます。今回のシノドスは、何かを議論して結論を出すこと以上に、教会が共同体であって、ともに支え合いながら道を一緒に歩んでいるのだという事実を、ともに心で感じ、皆の心に刻み込むことが一番の目的です。東京教区では、そのための一助として、現在、毎週のビデオを作成し配信しています。今更何を学ぶのかとお感じになるかも知れませんが、皆の思いを同じくするためにご覧いただければと思います。

私たちは、感染症の困難の中で、命を守るためには互いに助け合い支え合うことが不可欠であることをあらためて学びました。教会は連帯を呼びかけています。そもそも教会は救いの完成に向けてともに歩む神の民です。一緒になって「ときのしるし」を識別し、進むべき道を見いだし、支え合いながら、神の国の完成に向かって歩んでまいります。

ただ、私たちの歩みは、漠然とした散歩ではありません。私たちは神に喜ばれる生き方をして前進することで、神の福音を社会に向けてあかしする存在となりたいと思います。私たち自身の教会のあり方を振り返ってみましょう。教会共同体は、福音をあかしする共同体となっていますか。教会共同体は、どのような形で、具体的に福音をあかししようとしていますか。あかしするために挑戦したいけれども、それが出来ない原因は何でしょうか。そもそも、「わたしたちの教会」という時の、「わたしたち」とは誰のことでしょうか。忘れ去られている人、気がつかれていない人はいないでしょうか。この待降節を、教会の振り返りの時、シノドスの歩みをともに歩むときとしましょう。

 

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2021年11月25日 (木)

教皇訪日から2年が経ちました

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早いもので、教皇フランシスコが日本を訪れてから二年となりました。教皇様は2019年11月23日にタイのバンコクから東京の羽田空港に到着し、その後、24日には長崎と広島を訪れ、ちょうど2年前の25日には東京でさまざまな行事をこなされました。そして26日には上智大学を訪問した後、羽田から全日空(ANA)の特別機で、ローマへお帰りになりました。

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東京では、東北の被災者の方々との集い、天皇陛下と会談。その後カテドラルで青年の集い、午後には東京ドームでミサを捧げ、その後、首相と会談。わたしも迎える東京の司教として皇居以外はこの一日同行しましたが、これだけの行事をこなされる教皇様のタフさに、正直驚きました。

教皇様の言葉には、どれもこれも力がありました。教皇様は、もちろんカトリックの最高指導者として来日されましたが、同時にバチカン市国(聖座)の国家元首としての立場もあります。従って訪問先の国における発言は、両者の立場を意識してなされています。ですから日本におられた間のさまざまな発言は、当然、日本国内のみを意識した発言ではなく世界に向けた発言であり、また国家元首として他国の内政に干渉するものでもありません。

なかでも核廃絶のメッセージは、広島や長崎という世界的に意味を持つ二つの都市から、世界の政治のリーダーに向けて発信されたものです。教皇様の視点は常にグローバルに広がっており、その立ち位置から、教皇様の日本での様々な発言を理解したいと思います。

広島や長崎での言葉は、その後もしばしばさまざまな場で引用されていますから、ここでは東京での教皇様の発言で、心に残っているものの一部を、記憶のために記しておきたいと思います。

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東京カテドラルでの青年の集いにて

「わたしたち人類家族にとって、皆が同じようになるのではなく、調和と平和のうちに共存すべきだと学ぶことが、どれほど必要でしょうか。わたしたちは、工場の大量生産で作られたのではないのです。だれもが、両親や家族の愛から生まれたのです。だからこそ、皆、異なるのです。だれもが、分かち合うべき、自分の物語をもっているのです。」

「マザー・テレサは、かつて預言的で、示唆に富んだことをいっています。「孤独と、愛されていないという思いこそが、もっとも恐ろしい貧困です」。・・・正直に気づくでしょう。抱えている最大の貧しさは、孤独であり、愛されていないと感じることです。」

東北の被災者の方々との集いで

「食料、衣服、安全な場所といった必需品がなければ、尊厳ある生活を送ることはできません。・・・一人で「復興」できる人はどこにもいません。だれも一人では再出発できません。町の復興を助ける人だけでなく、展望と希望を回復させてくれる友人や兄弟姉妹との出会いが不可欠です。」

「わたしたちの共通の家の未来について考えるなら、ただただ利己的な決断は下せないこと、わたしたちには未来の世代に対して大きな責任があることに気づかなければなりません。その意味でわたしたちは、控えめで慎ましい生き方を選択することが求められています。」

東京ドームでのミサで

「いのちの福音を告げるということは、共同体としてわたしたちを駆り立て、わたしたちに強く求めます。それは、傷のいやしと、和解とゆるしの道を、つねに差し出す準備のある、野戦病院となることです。キリスト者にとって、個々の人や状況を判断する唯一有効な基準は、神がご自分のすべての子どもたちに示しておられる、いつくしみという基準です。」

もっとたくさんの言葉を残して行かれましたが、全てを記すことはできません。教皇様の発言は、カトリック中央協議会のホームページからも、関連のメッセージなどとともにすべてご覧いただけます。また訪日の公式記録集も発売されています。

教皇訪日直後から感染症への対応に追われることになり、せっかく教皇様が日本に残された諸々の言葉を深め、理解し、行動に移すことがおろそかになってしまいました。残念です。少し落ち着いてきた今だからこそ、もう一度教皇様の日本での言葉に耳を傾け、理解を深め、行動へとつなげていきたいと思います。

以下、余談ですが、実は個人的に一番記憶に残っていることがあります。(もちろん東京でのエスコート役として教皇様の近くにいて、いろいろと見聞きし体験したことはありますが、それらを書くのはまだ時期尚早だと思います。)

東京ドームの祭壇上のことです。奉献文の締めくくり、主の祈りの前の栄唱、「キリストによって・・・」のところで、一瞬、頭が真白になり、そのまま冷や汗をかきながら祈りを歌ったことです。「頼む。わたしの記憶よ、間違えないでくれ」と祈りつつ。

何があったかというと、この日のミサは、事前に教皇庁儀典室と打ち合わせて裁可を経て作成された、この日のための儀式書に基づいて行われました。式文は英語とラテン語と日本語が入り交じっていました。この儀式書は、教皇儀典室の名儀でバチカンで作成され、タイと日本で行われたミサを全て網羅する立派なものです。(下の写真)

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ドームミサでは、いわゆる奉納の部分以降は基本的にラテン語で、前田枢機卿様とわたしが共同司式で唱える部分だけは日本語が指定されていました。そして奉献文の締めくくりの栄唱を、わたしがラテン語で歌い出すことになっていました。当日のビデオを見ていただくと分かりますが、歌っているのはわたしです。

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祭壇上に用意された件の儀式書は、事前に見ることができませんでした。てっきり、譜面が記されているものと思っていたのです。ところがその瞬間になって目の前のページを開いたら、言葉だけで音が記されていない。これで間違えたら、大変です。それで冷や汗ものの大緊張だったのです。

一応これでもわたしは、前の典礼から今の典礼に変わる時期に小学生だったので、その頃に侍者を始めてカタカナでラテン語の祈りを暗記し、その後、小神学校では週に三度ほどラテン語のミサ(今の典礼でグレゴリアン聖歌)があったので、今でもラテン語式文の歌唱はなんとか記憶していますが、やはりあれだけの大舞台で諳んじて歌うのは、大変な緊張でありました。ビデオを見て、その部分がなんとなく間延びして聞こえるのは、間違えないようにと慎重になっているためです。

なお教皇訪日関連のビデオは、youtubeのこちらの「Pope in Japan 2019 公式」チャンネルからご覧いただけます。

 

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2021年11月21日 (日)

王であるキリストの主日:東京カテドラル

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王であるキリストの主日である本日、東京カテドラル聖マリア大聖堂で捧げられた関口教会10時のミサには、ミャンマー出身の信徒の方々と、同じくミャンマー出身のビンセント神父様(ミラノ会・府中教会)がおいでくださいました。東京教区にとっては、11月の第三主日はミャンマーデーです。ミャンマーの平和と安定のために、ともに祈りを捧げました。

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また本日は世界青年の日でもあります。教皇様のメッセージは、こちらの中央協議会のホームページで全文をご覧ください

以下、本日のミサの説教原稿です。

王であるキリストB(配信ミサ)
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2021年11月21日

教会は典礼の暦の最後の主日を迎え、来週からは降誕祭・クリスマスに備えての待降節が始まります。年間最後の主日は、王であるキリストの主日となっていますが、この日はいろいろなことを黙想したり、祈ったりする日でもあります。

東京教区では、1979年以来、ミャンマーの教会を支援していますが、毎年11月の第3日曜日が「ミャンマーデー」と定められ、ミャンマーの教会支援のための献金が続けられてきました。今年は本日がミャンマーデーであります。

教区のホームページには、次のように記されています。

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「東京大司教区は1964年よりドイツのケルン大司教区と姉妹関係を結び、お互いに助け合い、祈り合う関係を保っています。1979年には両大司教区の友好25周年のお祝いが行なわれました。当時の白柳誠一東京大司教(後に枢機卿)は、ケルン教区の精神を学び、ケルン教区の召命のために祈るよう教区の全信者に呼びかけました。来日していたヘフナー枢機卿(当時のケルン教区長)と白柳大司教は、ケルン教区の精神をさらに発展させようと考え、25周年以降は力をあわせてミャンマー(旧ビルマ)の教会を支援することに合意しました。・・・ミャンマーが支援先に選ばれたのは当時ミャンマーが最も貧しい国の一つであり、援助を必要としていたからです」

これまでミャンマーデーの献金は、担当者を通じて現地に送金され、主にミャンマー各地の神学生養成のために使われてきました。昨年2月、コロナ禍が始まる直前には、わたしを始め数名の教区司祭団がミャンマーを訪問し、東京教区が支援して順次建設が進められている神学校を訪れて、新しい建物の起工式なども行いました。

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その後、今年の2月にクーデターが起きたことで、状況は一変しています。

今年の8月の平和旬間の際には現地の平和と安定を願い、特別に祈りを捧げ、さらに支援のための緊急の献金を行いましたが、2月のクーデター後に政権を握った国軍によって、民主選挙の結果は無視され、軍政に反対する民衆のデモは武力で弾圧されていると伝わってきます。多数の死傷者が出ているとの報道もあります。

また仏教国であるミャンマーには、少数派ではありますがカトリック教会が全国各地に存在し、軍による力の支配に反対し、民主的な国の運営を求める民衆を支援しています。警察に立ちはだかるシスターの写真なども報道されたのは記憶されている方もおられると思います。首都ヤンゴンの大司教でありミャンマー司教協議会会長のボー枢機卿は、しばしばメッセージを発表して平和を求めておられますが、メッセージの一つで、「このような暗い時代にあっても、わたしたちに呼びかける主の声が聞こえます。教会が証人となり、正義と平和と和解の道具となり、主の手と足となって貧しい人々や恐れている人々を助け、愛をもって憎しみに対抗するようにと」と述べておられます。

多民族国家であり、民族間の相互理解と連帯が不可欠な中、一つにまとめるのは大変難しい国であるのは事実ですが、しかし暴力をもって人々の自由意思を弾圧し、支配することは、許されることではありません。特に、たまものである人間のいのちを危機にさらす行為を、国家運営の手段とすることを認めることはできません。ミャンマー国軍による支配が、人々の共通善に資するものとなり、いのちを守る道を選択することに目覚め、人々の幸福を実現するよりふさわしい政府の在り方へと舵を切ることを願っています。

本日のヨハネ福音は、この世の権威が支配する国家の構造と、神の国、すなわち神の支配が、全く異なる実体であることを語るイエスの姿を記しています。わたしたちの王であり、すべてを支配する世界の王であるイエスは、今まさにご自分のいのちを奪おうとするこの世の権力を前にして、毅然とした態度でぶれることなく「真理」を語られます。神の支配は神の秩序の確立であり、真理による支配であり、人間の欲望や知識に基づいたこの世の権力が支配する国家とは異なることを、イエスはピラトに向かって宣言されます。

ヨハネの黙示は、すべての人への愛のために、自らの血をもって、すなわち十字架における死をもって、わたしたちすべてを罪から解放された方が、その恵みと平和をもってすべてを支配していると述べ、「罪と苦しみと死に対する勝利」こそが神の支配の実現によって到来するのだと指摘します(カテキズム要約314)。

教会のカテキズムは、「キリストのみ国は教会のうちにすでに現存しているとはいえ、まだ、王であるキリストが地上に来臨し、『大いなる力と栄光』とを持って完成されるには至っていません。・・・ですから、キリスト者は、特に感謝の祭儀の中で、キリストの来臨を早めるために、『主よ、来てください』と祈るのです」と記し、旅する教会が世界に対して、神の支配のあるべき姿を自らの姿を通じて示し続けることの重要性を説いています(671)。

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愚かにも互いのいのちを奪い合い、利己的な野心や欲望に突き動かされて争いを続ける人間に対して、神はそれでもこの不出来な我々を闇に捨て置くことなく、愛を注ぎ続け、その愚かな罪のすべてを赦すために自らを十字架のいけにえとしてささげられた。この世の権力者は、自分ではなく他の誰かのいのちの犠牲や誰かの苦しみによって、野望を成し遂げようとするのでしょう。しかし真理の王は、自ら進んで苦しみを背負い、自らの言葉と行いでその愛をあかしされる。

神がすべての支配者だと信じるわたしたちは、神が望まれる世界の構築を目指して行かなくてはなりません。神が望んでおられるのは神の真理が支配する国、すなわち神の秩序が完全に実現している世界です。それこそが本当の意味での平和な国であります。

教皇様は今年から、世界青年の日を、これまでの受難の主日から、王であるキリストの主日へ移動されました。教皇様は今年のテーマを、使徒言行録26章16節から取った、「起き上がれ。あなたが見たことの証人として任命する」とされています。メッセージの中で教皇様は、パウロの回心の話に触れた後で、「洗礼によって新しいいのちに生きることになったわたしたちに、主は重要で人生を変えるような使命を与えられます。『あなたはわたしの証し人となる』」と、特に青年たちに呼びかけます。

もちろんこの呼びかけは青年たちだけに向けられたものではなく、すべてのキリスト者に向けられた呼びかけです。この世界を支配する価値観と神の支配は異なると、言葉で言うのは簡単ですが、それではわたしたちはその神の支配が実現しているはずの教会で、何を体験しているでしょう。共同体の交わりは喜びと希望を生み出しているでしょうか。互いの尊敬のうちに対話を生み出しているでしょうか。正義と平和を実現し、助けを求める人に手を差し伸べているでしょうか。共通の家である地球とすべてのいのちを守っているでしょうか。わたしたちの教会は、キリストは生きていると世界に向かって告げているでしょうか。真摯に振り返ってみましょう。

 

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2021年11月20日 (土)

週刊大司教第五十三回:王であるキリスト

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教会の典礼の暦では一年の最後の主日となりました。11月21日は王であるキリストの主日です。

また教皇様は、今年から世界青年の日を、これまでの受難の主日から王であるキリストの主日に移行されました。さらに、11月の第三の主日にあたるので、東京教区はこの日が恒例の「ミャンマーデー」となります。先日来繰り返していますが、ミャンマーの安定と平和のために祈りましょう。さらにこれまで同様、ミャンマーの教会を支えるために、特に神学生の養成のために献金をお願いします。

すでに小教区には公示を発送しましたが、現在、新規の検査陽性者数が激減した状態が続いており、また政府にあっても行動制限のあり方の見直しをするとの報道もあり、教区の感染対策において多少の緩和を決定し、待降節第一主日から実施します。

主には、これまでミサ中の聖歌歌唱などが全くなくなっていた教会もあるところ、基本的に聖歌を元に戻します。できる限り聖歌隊など一部の方の歌唱を基本としますが、換気が充分で空間があるところでは、皆で一緒に聖歌を歌うことも可能とします。ただしマスクはしっかりと着用ください。

さらにミサの応唱や祈りを一緒に唱えることを中止していましたが、これを再開し、皆で応えたり祈ったりできることとします。少しの緩和ですが、状況が悪化しない限り継続し、クリスマスに向けて、一緒に心安く祈ることができればと思います。ただし状況はまだ不確定な要素がありますから、これまで通り、感染対策は継続するようにお願いいたします。

以下、本日午後6時配信の週刊大司教第53回目のメッセージ原稿です。

王であるキリストB(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第53回
2021年11月21日

ヨハネ福音は、この世の権威が支配する国家の構造と、神の国、すなわち神の支配が、全く異なる実体であることを語るイエスの姿を記しています。わたしたちの王であり、すべてを支配する世界の王であるイエスは、今まさにご自分のいのちを奪おうとするこの世の権力を前にして、毅然とした態度でぶれることなく「真理」を語られます。神の支配は神の秩序の確立であり、真理による支配であり、人間の欲望や知識に基づいたこの世の権力が支配する国家とは異なることを、イエスはピラトに向かって宣言されます。

ヨハネの黙示は、すべての人への愛のために、自らの血をもって、すなわち十字架における死をもって、わたしたちすべてを罪から解放された方が、その恵みと平和をもってすべてを支配していると述べ、「罪と苦しみと死に対する勝利」こそが神の支配の実現によって到来するのだと指摘します(カテキズム要約314)。

「キリストのみ国は教会のうちにすでに現存しているとはいえ、まだ、王であるキリストが地上に来臨し、『大いなる力と栄光』とを持って完成されるには至っていません。・・・ですから、キリスト者は、特に感謝の祭儀の中で、キリストの来臨を早めるために、『主よ、来てください』と祈るのです」とカテキズムは記し、旅する教会が世界に対して、神の支配のあるべき姿を自らの姿を通じて示し続けることの重要性を説いています(671)。

愚かにも互いのいのちを奪い合い、利己的な野心や欲望に突き動かされて争いを続ける人間に対して、神はそれでもこの不出来な我々を闇に捨て置くことなく、愛を注ぎ続け、その愚かな罪のすべてを赦すために自らを十字架のいけにえとしてささげられた。この世の権力者は、自分ではなく他の誰かのいのちの犠牲や誰かの苦しみによって、野望を成し遂げようとするのでしょう。しかし真理の王は、自ら進んで苦しみを背負い、自らの言葉と行いでその愛をあかしされる。

神がすべての支配者だと信じるわたしたちは、神が望まれる世界の構築を目指して行かなくてはなりません。神が望んでおられるのは神の真理が支配する国、すなわち神の秩序が完全に実現している世界です。それこそが本当の意味での平和な国であります。

教皇様は今年から、世界青年の日を、これまでの受難の主日から、王であるキリストの主日へ移動されました。教皇様は今年のテーマを、使徒言行録26章16節から取った、「起き上がれ。あなたが見たことの証人として任命する」とされています。メッセージの中で教皇様は、パウロの回心の話に触れた後で、「洗礼によって新しいいのちに生きることになったわたしたちに、主は重要で人生を変えるような使命を与えられます。『あなたはわたしの証し人となる』」と、特に青年たちに呼びかけます。

もちろんこの呼びかけは青年たちだけに向けられたものではなく、すべてのキリスト者に向けられた呼びかけです。この世界を支配する価値観と神の支配は異なると、言葉で言うのは簡単ですが、それではわたしたちはその神の支配が実現しているはずの教会で、何を体験しているでしょう。共同体の交わりは喜びと希望を生み出しているでしょうか。互いの尊敬のうちに対話を生み出しているでしょうか。正義と平和を実現し、助けを求める人に手を差し伸べているでしょうか。共通の家である地球とすべてのいのちを守っているでしょうか。わたしたちの教会は、キリストは生きていると告げているでしょうか。真摯に振り返ってみましょう。

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2021年11月18日 (木)

東京大司教区のミャンマーデーは11月21日

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東京教区の2021年ミャンマーデーは、来る11月21日、王であるキリストの主日です。 この日はミサの中で、ともにミャンマーの平和のために祈りましょう。またこれまで通り、ミャンマーにおける神学生養成を支援するために献金をお願いします。(写真は2019年2月、ミャンマー北部マンダレー教区のマルコ・ティン・ウィン大司教と)

ミャンマーデーは1979年に始まりましたが、その起源はさらに時代をさかのぼり、戦後のケルン教区による東京教区支援が始まりです。2004年2月、東京とケルンの友好50周年を迎え、当時の岡田大司教様のメッセージには、こう記されています。

「1979年、両教区の友好25周年にあたり、当時の白柳誠一東京大司教(後に枢機卿)は「ケルン精神」を学び、ケルン教区の召命のために祈るよう教区の信者に呼びかけました。そして、来日した当時のケルン教区長ヘフナー枢機卿と白柳大司教はケルン精神をさらに発展させようと考え、25周年以降は力をあわせてミャンマー(旧ビルマ)の教会を支援することに合意しました。こうして東京大司教区では、毎年11月の第3日曜日を「ミャンマーデー」と定め、ミャンマーの教会のための献金を呼びかけることになったのです。ミャンマーが支援先に選ばれたのは当時ミャンマーが最も貧しい国の一つであり、わたしたちの援助を非常に必要としていたからであります。」

また、2004年1月22日付けで、岡田大司教様の次のような言葉が教区ホームページに掲載されています。

「ところでわたくしは1月8日から13日まで、ミャンマーを訪問し、ミャンマーの司教様方と話し合うことができました。その中で、ミャンマーの教会の活気に触れることができ、深い感銘を受けました。また、お互いの友好関係を再確認することができました。25年前、白柳枢機卿様がケルンの精神にならって始められたミャンマー(旧ビルマ)との友好関係を、今後より確かな、意味のあるものにしたいと考えております。ミャンマーには約240人の大神学生がいますが、司教様方が一致して望んでおられることは、この神学生たちのために適切な勉強と生活の場を整えることであり、この面での援助を期待していることも分かりました。東京教区にできることはわずかかもしれません。しかし幸い、ケルン教区が東京教区と協力して、ミャンマーの教会への援助を申し出てくださっています。」

白柳枢機卿様に始まり、岡田大司教様の時代を経て今に至るミャンマーデーです。特に今年は、ミャンマーでのクーデターの後、混乱する現地の平和を祈ることも、大事な意向となっています。ケルン教区との関係やミャンマー支援の始まりについては、教区のホームページのこちらをご覧ください。

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昨年2月、コロナ禍直前に、東京教区のミャンマー支援を担当するレオ神父様、高木健次神父様を中心に、わたしも含めて数名で訪問団を結成し、ミャンマーで東京教区が支援する神学院などを視察して友好関係を深めてきました。その時点では、直後にコロナ禍が始まったり、その後にクーデターが発生するなど、全く想像もできませんでした。

この状況で、現地とは自由に行き来ができませんが、断片的に、神学生の養成の継続などについて情報は伝わってきます。ミャンマーに16ある教区全体の哲学過程の神学院(2年間)として、マンダレー大司教区のピンウーリンに設置されている神学院では、東京教区の支援で、これまでに宿舎や教室、食堂、図書館、ホールなどのために2棟が完成しています。昨年2月の訪問時には3棟目の起工式を行いました。神学生たちのためにもお祈りください。

追記(2021年11月19日)

今年のミャンマーデーに合わせて、担当者のレオ神父様のメッセージと、マルコ大司教様のメッセージが東京教区ホームページに掲載されています。こちらのリンクから

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2021年11月17日 (水)

赤羽教会堅信式ミサ

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11月14日は貧しい人のための世界祈願日でしたが、赤羽教会で堅信式ミサを行いました。赤羽教会は、JR赤羽駅の目の前の好立地。コンベンツアル聖フランシスコ会の担当する小教区で、現在の主任司祭は同会会員の平神父様です。

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堅信を受けられたのは4名のお子さんたち。おめでとうございます。聖堂はまだ入堂制限をしているので、一部の信徒の方は、信徒会館ホールで映像で参加されました。またこの日のミサの中では、七五三の祝福も行われ、5名の女の子たちがメダイを受け、これまでの成長に感謝しこれからも命をより良く健やかに生きていくことができるように、祝福を受けられました。

説教の冒頭でも触れましたが、侍者の男の子の元気いっぱいな「かみのみことば」という声が、朗読の後に聖堂に響き渡りました。確かに朗読されている言葉は、神のみ言葉です。それを認識させる力強い呼びかけでした。

折しも教会は、11月21日から28日まで、聖書週間を迎えます。中央協議会のホームページにはこう記されています。

「聖書週間は、1976年5月の定例司教総会で、聖書に親しみ、聖書をより正しく理解するための全国的な運動として「聖書週間」設定案が当時の宣教司牧委員会から提出され、同年11月の臨時司教総会において1977年11月の第3日曜日からの1週間を「聖書週間」とすることが決定されました」

現在わたしは、日本聖書協会の副理事長を務めさせていただいておりますが、日本聖書協会からも、この聖書週間に合わせて献金のお願いが届いているかと思います。今年の聖書協会からの献金のお願いに、わたしは以下のように記しました。

 「『教会は、主の御からだそのものと同じように聖書をつねにあがめ敬って』きました(啓示憲章21)。わたしたちの信仰生活にとって、聖書は欠くことのできない柱であり、典礼において朗読される御言葉を通じて、主はわたしたちとともにおられます。
 感染症による困難のため、わたしたちはこの数ヶ月、皆でともに集まって祈りをささげることが難しい状況にあります。わたしたちが主の御名によって集まるとき、そこに主はともにおられると約束されているのですから、わたしたちの信仰にとって教会に集まることは大切です。それが出来ないとき、聖書のみ言葉を通じて主の現存を心に感じることは、わたしたちの信仰の絆を深め、御言葉は霊的共同体とわたしたちを、信仰の絆で結んでくださいます。
 そのためにもより良く翻訳された聖書の存在は重要です。世界各地で取り組まれている聖書の翻訳事業のために、また視覚や聴覚の障害とともにある方々にも神の御言葉が届けられ、信仰の絆に結ばれるよう、点訳・手話聖書の事業を推進するために、皆様のご支援をお願いします」

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以下、赤羽教会でのミサの説教録音からの書き起こしを手直ししたものです。

赤羽教会堅信式ミサ
2021年11月14日

先ほど、朗読をしていただきましたが、その朗読のあとに、侍者が、「神のみことば」と大きい声で唱えられましたね。あぁ、素晴らしいなと思いました。

どうしてかというと、ミサの中で朗読台から朗読される聖書の言葉は、国語の授業のときの朗読とは全然違うものだからです。このミサの中で、この朗読台から聖書が朗読されるときは、それは神のことばが朗読されているんです。ここから告げられるのは「神のことば」であって、単なる聖書の朗読ではないのです。

神様は、様々な方法で私たちに語りかけて下さいますけれども、特に大切なのは、このごミサの中での二つの主の現存です。そのうちの一つはもちろん、ご聖体の秘跡です。このミサの中でイエス様はここにおいでになる。イエス様はパンと葡萄酒の形をとって、私たちの間に実際にいて下さるということ。

そしてもう一つは、ミサの中で聖書が朗読されるとき、神のみことばのうちに神様はいて下さるという、神のみことばにおける現存です。ここで朗読される聖書のことばは、誰かが書いた本の朗読ではなくて、まさしく神のことば。神のみことばがいま語られたのだということをはっきりと告げる。。そのために、はっきりと「神のみことば」と告げることは大切ですし、はっきりとその事実をここにいる皆が意識するということが、とても大切だと思います。

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今日のマルコによる福音は、「王であるキリスト」が次の週に控えており、ここで一年間の典礼の暦が終わるわけで、そうするとどうしても、世の終わり、時の終わりを考えさせるような朗読が記されます。同時に私たち自身の、一生涯の終わりということも考えさせられます。

私たちはいつでも、そのときのために備えていなければならない。そのためには、「時のしるし」をしっかりと見極めないといけない。様々な形で神様は私たちに語りかけるけれども、「時のしるし」をしっかりと見極めて、正しい判断をしなさい。先ほど朗読した福音は、そう告げています。

この世の中で起こっている様々な出来事を通じて、神は私たちにいろんなことを語りかけて下さる。その語りかけを知ろうと努力をすることが、とても大切なことだということ。その最たるものが、このミサの中で朗読される神のみことばであり、聖書のことばによって、神は私たちに様々なことを語りかけて下さっているということなんです。

余談ですが、来年待降節から典礼の式次第が変わり、侍者ではなく朗読する人が「神のみことば」と言って、みんなが「神に感謝」と答えるようになります。本当は、朗読をする前に、これから朗読するのは神のことばですと宣言して朗読した方がいいと思いますけれども、典礼はそうなっていないのでね。

いずれにしても、朗読が終わったあと、「神のみことば」と宣言する意味は、ミサの中で朗読される聖書が、まさしく「神のことば」であるということを告知すること。したがって、神が今このミサの中で、私たち一人一人に何かを語りかけようとしておられるのだということを意識させることです。そのことを心に留め、朗読される聖書のことばに耳を傾け、そして心を向けて頂ければと思います。

今日の「聖書と典礼」の開いたところ、年間第33主日(緑)の下に、「貧しい人のための世界祈願日」と書いてあります。

教皇フランシスコは特に、貧しい人たちに対する思いを、とても強く持っておられます。貧しい人と一言で言っても、ただ単にお金がないといった金銭的な貧しさだけでなく、社会の中の、いろんな意味で生活が厳しい状況に置かれている、命の危機に直面している、たくさんの人たちに対する思いです。

教皇様が日本に来られたとき、東京のカテドラルで青年たちとの集いで話された中に、マザー・テレサのことばを引用しながら語ったところがあります。それは、人間関係がない、誰からも思いを寄せられていない、孤立している、孤独の中にある、それこそが愛の欠如であり、それこそがまさしく貧しさなんだということ。それを強調されました。(「孤独と、愛されていないという思いこそが、もっとも恐ろしい貧困です」)

貧困のうちにあって、誰からも面倒を見てもらえず、忘れられ去られている人たち。難民となって住み慣れた故郷を離れ、海を渡り漂着したけれども誰からも助けてもらえない人たち。様々な理由から孤立のうちに誰からも思いを寄せられず、忘れ去られているような人たち。様々な意味での貧しさ、お金のないことの貧しさ、誰からも心をかけられないことによる心の貧しさ、様々な貧しさがこの世界にはあって、それらすべては人間関係の欠如、思いやりの欠如、支え合おうとする心の欠如、そこから生まれているのだということを、教皇様は強調されています。

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今年の貧しい人のための世界祈願日のテーマとして、「貧しい人たちはいつもあなた方とともにいる」という聖書のことばが引用されています。その貧しさは、今言ったように、単にお金がない貧しさという意味に限定されるのではないんです。人間関係が断たれてしまって孤立している人たち、誰からも助けを得られない状況に置かれている人たち、法律的に厳しい状況に置かれている人たち、様々な意味での貧しさを抱えて生きている人たちは、常に私たちの周りにいる、私たちとともにいるんだということです。だから、常に助けを求めている人のことを忘れずに、心に掛けていなさいということ。

特に、いまのこの新型コロナ感染症が広がる中で、私たちは人間関係を断ってきていますよね。教会でも、残念なことに人数制限をしているため、みんなが一緒に集まることができない中で、どうしても人間関係が希薄になってきます。なるべく人と会わないように、なるべく人と関わらないように、そういう行動を優先していると、人に対する思いやりが欠けてきて寛容さを失い、ギスギスした殺伐とした社会が私たちの周りに広がってきます。その殺伐とした社会の中で、人の命を大切にする、思いやりの心を持つなどということは、どんどん忘れ去られてしまっているんです。

そのような中で教皇様は、人はやっぱり支え合って生きていかなければならない。人は連帯のうちに生きていかなくてはならない、ということを常々強調され、この貧しい人のための世界祈願日を5年前に定められました。

教皇様は、ただ語るだけではなく、具体的に目に見える形で行動され、模範を示し続けてこられました。それは、わたしたちがそれぞれの場で同じようにするように、同じような心配りをするように、同じように思いやりを持って支え合いなさいということを、目に見える形で示し教えておられるのだと思います。

教皇様のその模範にしっかりと倣い、それぞれ生きているこの日本の社会の中で、思いやりの心、支え合う心、互いに連帯し合って命を生きてゆく心、命を守ろうとする心、それを大切にする生き方をしていきたいと思います。

今日、堅信を受けられる方々は、洗礼に始まり、ご聖体、そして堅信と、三つの秘跡を受けることで、キリスト教徒になる入信の過程が完成します。洗礼を受け、聖体を受け、そして堅信を受けることによって、言ってみれば一人前の大人のキリスト者になっていくわけです。つまり、独り立ちをするので、キリスト者としてこれから生きていく責任がそこには生じてくるんですね。

もちろん、私たち一人一人は弱い者ですし、原罪に囚われ、様々足りないことを抱えて生きています。完全なキリスト者として生きなさいとイエス・キリストが教えられたことを、毎日完璧に守って生きるということ。それは目指したいけれども、なかなかそうはできないのです。

そんな弱さの中で、やっぱり自分は完全なものになれないんだと認めたとき、それまで外からの助けを拒んでいた壁が崩れ去り、聖霊の助力、聖霊の助けが働くことができる。聖霊が私たちを様々な賜物で満たして、私たちを後ろから支えて下さるのです。

ですから、その聖霊の助け、聖霊の賜物に感謝しながら、しっかりと信頼して生きていこうと決意をするというのが、この堅信式の中でとても大切なことだと思います。

これから先、神様から与えられた呼び掛けに応えて、一人前のキリスト信者として責任を果たしながら生きていくのです。そのためには、私には神様からの助けがいつも必要なんですと、聖霊の力で助けて下さい、聖霊来て下さい、と毎日お祈りを続け、聖霊の賜物にしっかりと信頼しながら生きていって頂きたいと思います。

 

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2021年11月13日 (土)

週刊大司教第五十二回:年間第33主日

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2015年から16年と続いたいつくしみの特別聖年の締めくくりにあたり、教皇様は使徒的書簡「あわれみある方と、あわれな女」を発表され、年間第33主日を、「貧しい人のための世界祈願日」と定められました。今年は11月14日がその祈願日となっています。

教皇様はこの日のためにメッセージを発表されています。本文はこちらの中央協議会のリンク先をご覧ください。

教皇様はメッセージの中で、マルコ福音書14章7節の「貧しい人々はいつもあなた方と一緒にいる」をテーマとして選び、次のように呼びかけられます。

「貧しい人は共同体にとって「部外者」ではなく、ともに苦しみを担うべき兄弟姉妹であり、彼らの苦労と疎外感を和らげることで失われた彼らの尊厳は回復され、欠かすことのできない社会包摂が確保されるのです。しかし、慈善行為というものは支援者と受益者を前提としていますが、分かち合うことからは兄弟愛が生まれることは、ご存じのとおりです。施しは散発的なもの、他方、分かち合いは永続的なものです」

教会の人道支援組織である国際カリタスは、教皇様のこの永続的な「分かち合い」への呼びかけに応え、特に貧困撲滅のために世界各地で取り組んでいます。1951年12月12日にローマで13のカリタスが集まって誕生した国際カリタスは、今年70周年を記念しています。現在国際カリタスは世界的な連盟組織として162の各地のカリタスをメンバーとして成り立ち、200を超える国と地域で活動しています。12月13日には、新しい世界的なキャンペーンを開始する準備が進められていますが、特にこの「貧しい人の世界祈願日」から次週の「世界青年の日(王であるキリスト)」までの期間、「祈りから行動へ」と題して、教会全体の貧困撲滅への取り組みを促しています。残念ながら日本語訳がなく英語だけですが、興味のある方はこちらの国際カリタスホームページのリンクをご覧ください。本日から来週まで、毎日何らかの行事やリフレクションがビデオで提供されています。また前述の世界的キャンペーンについては、今後、カリタスジャパンから情報が提供されることになります。

以下、本日午後6時配信の、週刊大司教第52回目のメッセージ原稿です。

年間第33主日B(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第52回
2021年11月14日

教会の典礼の暦は終わりに近づいています。そのため、典礼の朗読は、世の終わりを示唆する朗読が選ばれるようになります。

ダニエルの預言は、救いの日にはさまざまな苦難が伴うが、神の民は大天使ミカエルによって守られるであろう事を記しています。

マルコ福音は、受難の時が間近に迫る中でイエスが語った言葉を記します。さまざまな苦難に直面するものの、「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」と記すことで、愛に満ちあふれた神はご自分の民を見捨てることはないと、イエスは確約されます。同時にイエスは、わたしたちが「時のしるし」をしっかりと識別し、つねに備えている者であるようにと呼びかけます。

ヘブライ人への手紙は、主ご自身が自らをいけにえとされた唯一の献げものを通じて、わたしたちをあがなってくださった、新しい契約について語ります。赦されたわたしたちは、その愛といつくしみに包まれて、それに応える生き方を選び取らなくてはなりません。契約なのですから、一方的に受けるだけでなく、わたしたちには果たすべき責任が課せられています。

つねに目覚めて備えるわたしたちは、それではどのようにして、自らに課せられた責任を果たしていくのでしょうか。主は、最後の晩餐で聖体の秘跡を制定されて、「わたしの記念としてこれを行え」と命じられました。わたしたちには、主ご自身が語り、行われたように、生き、また語ることが求められています。

2015年から16年と続いたいつくしみの特別聖年の締めくくりにあたり、教皇様は使徒的書簡「あわれみある方と、あわれな女」を発表され、年間第33主日を、「貧しい人のための世界祈願日」と定められました。

主イエスの言葉と行いに倣って生きようとするわたしたちにとって、貧困にあえぎ、生きることに困難を抱える方々への心配りは、忘れてはならない行動であります。教皇様の書簡にはこう記されています。

「人工の楽園で安易な幸福を約束する幻想を追い払うためには、わたしたちには希望と真の喜びのあかし人が必要です。多くの人が抱く深い空虚さの感情は、わたしたちが心に保つ希望と、それが与える喜びによって克服することができます。わたしたちは、いつくしみに触れられることによって心にわき上がる喜びを認める必要があります(3)」

神のあふれんばかりの愛といつくしみに包まれていることを自覚するとき、わたしたちはこの社会にあって、真の希望と喜びをあかしする者となることができます。

教皇様は、「イエスの間近にあることへの願望は、兄弟たちの隣人となることを求めます。なぜなら、具体的ないつくしみのしるし以上に御父に喜ばれるものはないからです」と記して、わたしたちを具体的な愛の行動へと招いておられます。

教会は今、そのあり方を振り返る回心の道を歩んでいます。シノドスの歩みは、「参加する」、「聴く」、「識別する」ことを、教会に属するすべての人に求めています。とりわけ教会は人々の声に耳を傾けて「聴く」ようにと神から招かれています。また人は隣人の声なき声に真摯に耳を傾けなければならないのです。耳を傾けあうところに「交わり」が生まれるからです。

助けを必要としている人の声に耳を傾け、そのもとへと駆けつける教会でありましょう。

 

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2021年11月10日 (水)

死者の月、追悼ミサ

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11月は死者の月です。毎年11月の第一日曜日には、カテドラル、府中墓地、五日市霊園で、それぞれ教区主催の合同追悼ミサが捧げられていますが、昨年と今年は、感染症の状況の中で多数が集まる行事が難しいため、中止となりました。

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そこで今年は、11月7日の主日が教区の追悼ミサの日に当たっていますので、この日は、あきる野教会へ出かけ、午前11時から主日ミサを一緒に捧げさせていただきました。あきる野教会は教区の五日市霊園の隣りにある教会です。ミサには大勢の方が集まってくださいました。ミサ後に、あきる野教会の方々はお花を持って、五日市霊園に墓参に出かけられました。わたしは、霊園の麓にある教区の合葬墓の前で、追悼のお祈りをさせていただきました。

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五日市霊園は山の斜面にある広大な霊園で、あきる野教会の方々も、関係している墓所を巡るだけで、2時間はかかるとのこと。この日は、各地から大勢の方が、墓参に訪れていました。

なお、あきる野教会は、青梅教会と兼任で主任を務めてくださっていた李神父様が、派遣契約期間が終了してこの10月に所属するソウル教区に戻られたこともあり、現時点では主任司祭が不在です。大変申し訳ないと思います。なんとか司祭の当番を決めて、主日ミサは確保したいと思いますが、正式には来春の定期人事異動で、担当する司祭を任命いたします。

以下、当日のミサ説教の録音から起こして整理した、説教原稿です。

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毎年11月の第1日曜日には、教区合同追悼ミサが執り行われます。本来であれば、本日午後にカテドラルで、わたしが追悼ミサを捧げるところですが、現在の感染症が収まらない中で大勢が集まることが難しく、昨年も今年も、合同追悼ミサは中止ということになりました。

しかしながら、亡くなられた方々のために祈ることは、大切な教会の伝統ですし、地上の教会と天上の教会の交わりの中で私たち自身の霊的成長のためにも、死者のために祈ることは大切なことです。そこで、今年は、あきるの教会にお邪魔させて頂き、亡くなられた方々の永遠の安息のため、一緒にお祈りを捧げることとさせて頂きました。ミサ後にはお隣の五日市霊園でもお祈りを捧げようと思います。

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新型コロナ感染症は、この社会の多くを変えてしまいました。いろんなことができなくなってしまった。集まることができない、一緒に祈ることができない。しかしできなくなっただけでなく、新たにできるようになったこともありました。

たとえばオンライン会議。実際に移動することなくインターネットで、自分の家に居ながら会議ができるようになりました。移動の時間と費用が節約できます。そしてもう一つ。男性が料理をするようになったと耳にしました。毎日家に居るようになったので、男性が自分で料理をするようになった。私も毎日夕食を自分で調理するようになりました。今まで一度も料理などしたこともなかったんです。東京の司教館の隣には「ペトロの家」という引退された大先輩の司祭の家があり、そこの厨房には業者が入っているので、わたしは以前はそちらへ食事をしに行っていました。ところが、感染対策のこともあり、高齢の司祭が大多数ですから、去年の半ば頃から、ペトロの家に食事に行くのを控えるようになりました。それで、自分で作るようになりました。

そうすると、当たり前ですが買い物に行かなくちゃいけない。関口教会の前の坂道をダラダラ降りて行くと、江戸川橋の交差点のところにスーパーマーケットがあるんですね。先日の夕方、そこまで買い物に行きまして、そのちょっとした間に二つのことを目撃しました。その二つの出来事を目の当たりにし、今この感染症の影響が、社会に深い傷を残していると感じたことがありました。

一つは、坂道を降りて行くと首都高速が通っていて、その下で子どもが大きい声で泣き叫んでいるのです。小さな子が、ものすごい大きな声で泣いているんです。どうしたのかなと思って覗き込んだ瞬間に、お父さんが、まだ若い、たぶん20代か30代前半くらいのお父さんが、ものすごい勢いで怒り始めて、これは大変な剣幕だなと思いましたが、周囲でもいろいろな人が心配そうにのぞき込んでいました。

二つ目は、今度はタクシーがお客さんを下ろすために止まったんですが、そのタクシーの後ろの部分がちょっと横断歩道に掛かっていた。ちょうどその前で高齢の男性が、信号が変わるのを待っていて、信号が変わったとたんに彼はタクシーをバーンって叩いた。で、運転手さんが慌てて出てきたら、すごい形相で、『こんなところに車止めていいと思ってんのか!』と大声で怒鳴りつけたのです。そんな怒んなくていいのに、ちょっと避けたらいいのにと思うことなんですが、ものすごい勢いで怒鳴り付けていて。タクシーの運転手さんは、さすがに喧嘩するわけにいかず一所懸命謝っていました。

買い物をして戻ってきたら、さっきの子どもが泣いていたところに警察官が来ていました。さすがに近所に住んでいるどなたかが警察を呼んだみたいですね。それほどの怒り具合だったんです。

たった20分くらいの間に、心の余裕を失ってしまった現実を目の当たりにした思いがします。多少なりとも恐怖を感じることでもあるし、悪くすれば命に係わることでもある。先日の電車の中での事件のように、人の命を奪うような、とてつもなく殺伐とした社会が、今私たちの周りに広がっているような気がして仕方がないのです。

もしかしたらすでに、だいぶ以前からそのような殺伐とした社会であったのかもしれません。けれども、やはりこの2年の間、私たちはとても不安に過ごしていた結果なのだと思います。この先どうなるんだろうと言う不安です。新型コロナ感染症という病気がどんなものかよくわからない。実際に重篤化する人や亡くなる人がいる。いつまでこの状況が続くんだろう。ワクチンを打って、何ともない人もいれば副作用がある人もいたりとか、いろんな未知の出来事が私たちの周りで起こっている。

単なる不安ではなく、実際に生きて行くことができるのかという、命に関わる不安。不安の暗闇の中を彷徨っている状況です。どこをどうしたらいいのか、わからない中で、私たちは答えを探して彷徨っているわけですね。暗闇を手探りで歩いている状況です。暗闇の中を手探りで歩いていると、どうしても疑心暗鬼になる。何でもかんでも疑ってかかるような心持ちになってくる。

この疑心暗鬼が生み出す不安は、どんどんどんどん積み重なっていくと、心は非常にとげとげしくなる。寛容さを失って行く。つまり、自分を守ろうとして、自分の命を守ろうとして、寛容さの許容範囲がどんどんどんどん狭まっていくのですね。自分を守りたいと思うので、どうしても利己的な心になり、他人のことを受け容れる心の余裕がなくなってしまう。寛容さが失われていくのです。今まさしく、私たちの日本の社会だけでなく世界中で、社会の寛容さが失われてしまっている気がいたします。

寛容さを失った社会は、人の命を危機に陥れる可能性に満ちた社会となります。病気も人の命を危険に陥れますが、その病気が社会にもたらした状況が、別な意味で人間の命をとてつもない危機に直面させている。寛容さを失うと、そこから立ち直るのは大変です。たとえば、仮に年が明けて政府がこれで安心ですと、薬もできましたから大丈夫ですとアナウンスをしたところで、社会の状況はすぐに元に戻るかも知れませんが、人の心は、戻るのにものすごい時間がかかるんですね。人間の心ってそんなにフレキシブルでないので、いったんどこかでグッと押し曲げられたら、なかなか戻るのに時間がかかるものなのです。ですので、私たちは今とても心が危うい、社会全体で心が危うい状況の中に命を生きているということを、つくづく感じています。

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今日の福音は、貧しい寡婦が生活費の大半を、献金として入れたという話です。それをイエスが、この人は有り余っているからではなく、乏しい中から持っているものをすべて、必要なお金を全部神様に捧げたんだと、自分を犠牲にして神に捧げたことを褒め称えている話ですね。

そして第一朗読でも、もう食うにも困っている寡婦のところに預言者エリヤがやって来て、その水を飲ませてくれと、そしてパンを食べさせてくれと言う。でも彼女はそんなパンなどないんです。あとは死ぬのを待つだけなんだと言っている。それでも出せと迫られて、彼女は持っているものをすべて預言者エリヤに捧げたところ、神はそれを良しとして祝福を与えられた。自己犠牲に対して祝福を与えられたという話ですよね。

まさしく、イエス・キリスト自身が自分の命を犠牲にしてすべての人を救ったことを、神は良しとされた。自己犠牲。私たちの信仰の根本にあるものは自らを捧げる自己犠牲の心です。心をどんどん閉じていって自分のことだけ考え、心の寛容さを失っている状況では、自分を犠牲にしようとは思えない。心が広く寛容であるからこそ、自己犠牲ができるんですね。

自分のことを守るためではなくて、誰かのためにです。誰かのために奉仕したい、誰かのために尽くしたい、誰かのために助けたい……。誰かのためにという心を持つには、寛容で開かれた心でなければならない。今の社会の状況とは対極にあるのが、自己犠牲の精神だと思います。

我慢をするということではなくて、自分の心を開いて、他人の痛み、他人の苦しみ、他人の願いに、耳を傾け心を開いて行く。それが、自分を犠牲にして他者に奉仕するイエスご自身の生き方であるし、この福音と第一朗読に示されていることだと思います。

そしてまさしく今、この新型コロナ感染症が終焉に向かって行きつつある、社会が元に戻ったときのために、寛容さを失ってしまっている心にもう一度豊かさを、優しさを、慈しみを取り戻すことを意識したい。だからこそわたしたちキリスト者の生き方というものに、とても大切な意味があると思います。街頭で宣伝をする必要はないんですけれど、私たち一人一人が、そうした寛容さを持った、慈しみを持った心の生き方を、具体的に社会に示して行くということが、とても大切なことだと思います。

キリスト者の救いの希望は、その寛容さにあって、その寛容さは、自分のためにだけでなくて、究極的には永遠の命に繋がって行くということ。この世だけですべてが終わってしまうのでなく、永遠の命の中で、神のもとで、私たちは新しい命を生きて行く。常に生かされているんだという確信。その希望を掲げながら、イエス・キリストの福音を具体的に生きて行くことで、伝えていきたいと思います。

 

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2021年11月 6日 (土)

週刊大司教第五十一回:年間第32主日

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11月の最初の日曜日です。11月は死者の月でもあるので、この日曜に追悼ミサを行う小教区も多いのではないでしょうか。わたしも、現在の状況で合同追悼ミサを行うのが難しいこともあり、11月7日の主日は五日市霊園が隣接するあきる野教会で、主日ミサを捧げさせていただいて、亡くなられた方々の永遠の安息をお祈りさせていただくことにしています。

11月3日には、午前10時から午後4時まで、zoomを利用して、カリタスジャパンの主催によるオンラインセミナーが行われ、わたしも責任者ですので参加して、最初のあいさつをさせていただきました。カリタスジャパンの活動は、国内外の援助活動と、援助を必要とする状況に関する啓発活動の二本柱がありますが、今回のセミナーは「コロナ禍と私たち」というテーマで、啓発活動を行う部会が中心となって開催されました。画面でざっと見た限り、全国から70名近い方が参加してくださったのではないでしょうか。

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教会におけるカリタスの活動は、カリタスジャパンに限定されるわけではなく、ベネディクト16世が指摘する教会の本三つの本質(福音を告げる、礼拝する、愛の奉仕)の一つとして、小教区から始まって教区、そして全国から世界へと、全てのレベルで行われる教会の愛の活動を指しています。その意味では、小教区を構成する一人ひとりの活動がベースとなっているとも言えます。

今回のセミナーでは、まず午前中を使い、各教区でのコロナの状況での主な取り組みをそれぞれの教区担当者が発表し、午後には、担当司教である成井司教、ノンフィクションライターである飯島裕子さん、大学院生の小林未希さん、大阪教区シナピスのビスカルド篤子さん、麹町教会の吉羽弘明さんが参加してのパネルディスカッションとなりました。それぞれの現場から、貴重なお話を聞くことが出来ました。ありがとうございます。

教会にはいろいろなレベルでのさまざまな活動があります。それらが連携して行くことが出来れば、さらに大きな力となるでしょうし、何を最優先するべきなのかを明確にする中で、教会内に留まらず、さまざまな団体と連携していくことも、さらに必要となっていくと思われます。神から与えられた賜物である命を最優先に守っていき、その尊厳を保つために、努力を続けたいと思います。今日のメッセージで教皇様の言葉にも触れていますが、教皇様は常に挑戦するようにと教会を鼓舞しておられますが、そのときに避けるべきリスクを、シノドスに関連して三つあげられています。その三つのリスクに触れていますので、以下のメッセージをご一読ください。

以下、本日午後6時配信の週刊大司教第五十一回めのメッセージ原稿です。

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週刊大司教第51回
2021年11月7日

列王記は、貧しい一人のやもめと預言者エリヤとの出会いを描きます。貧しさと飢えの中でいのちの危機に直面する女性に、エリヤはそれでも施しをするようにと迫ります。しかし、いのちを賭けたその施しの業、すなわち犠牲の業に、豊かな報いがあったことが記されています。 

マルコ福音は、有り余る中で見せかけばかりに気を取られる律法学者の姿との対比の中で、イエスが、貧しいやもめが「乏しい中から自分の持っているものをすべて」神にささげた行為を評価した話を記しています。「生活費を全部入れたからである」と述べることで、イエスはこの女性の信仰が、まさしく自己犠牲の上に成り立ったいのちがけの信仰であることを明白にします。

ヘブライ人への手紙は、わたしたちの大祭司であるキリストは、この世の聖所に鎮座する存在ではなく、あがないを成し遂げて、御父のもとで執り成してくださっていると強調します。その上で、人類に対する神の愛は、まさしくいのちがけの自己犠牲によって具体的に表されたと指摘します。

わたしたちの信仰は、あたかも趣味のように、余裕があるから身につけるようなものではなくて、いのちがけで全てを神にゆだねる自己犠牲によって成り立っています。それは主ご自身が、わたしたちのために、まさしくそのいのちを投げ打って自らを神にゆだねたからに他なりません。わたしたちは、どのような覚悟で、何を犠牲にしてこの信仰を生きているのでしょうか。

「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と、マタイ福音に記されていました。信仰が、余裕があるから身につけるたしなみではないように、わたしたちの愛の行動も、余裕があるから行うものではありません。助けを必要としている人たちに、力を尽くして愛を実践する教会共同体でありたいと思います。

教会は今、シノドスの歩みをともに歩んでいます。聖霊に導かれて、これまでの教会の歩みを振り返り、現代社会にあって教会がどのようにあることを神が望まれているのかを、一緒になって見出していこうとしています。

シノドス開会ミサを翌日に控えた10月9日に、バチカンで行われたシノドスに向けた集いにおいて、教皇様は、シノドスは司牧的回心のための大きな機会である一方で、いくつかの「リスク」も抱えている、と指摘されました。それは、このシノドスの歩みを中身のない表面上のものにしてしまう「形式主義」、高尚だが概念的で世界の教会の現実から離れた「主知主義」、今までどおりでよいと考え何も変える意志がない「現状維持主義」の三つのリスクであります。

その上で教皇様は、今回のともに歩む旅路が、無計画にではなく「構造的に」歩む可能性を、また皆が教会を自分の家のように感じ、誰もが参加できる場所となるために「耳を傾ける教会」となる可能性を、さらには兄弟姉妹の希望や困難に耳を傾けることで司牧生活を刷新し、「寄り添う教会」となる可能性を与えていると指摘されます。わたしたちの教会はどうでしょう。

教会のこういった呼びかけに積極的に応えることは、思いの外面倒ですし、さまざまな犠牲を伴います。出来れば誰か余裕のある人に取り組んでほしいものだと思われるのかも知れません。しかし第二バチカン公会議に始まった教会の回心の道は、まだまだ途上であることを感じさせられる出来事が相次いでいる昨今、教会は自らのあり方を振り返り、神の導きに従う存在とならなくてはなりません。余裕があるからではなくて、すべてをかけて神に身をゆだね、自己犠牲の心を持って互いの命を守り抜き支え合う、奉仕する共同体となる道を歩みましょう。

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2021年11月 1日 (月)

諸聖人の祝日

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11月1日は諸聖人の祝日です。そして翌2日は死者の日。11月は死者の月と定められ、亡くなられた方々の永遠の安息を祈る月とされています。また教会の伝統は、11月2日から8日までの間、全免償を得ることで、それを煉獄の霊魂に譲ることが出来るとも定めています。この期間、聖堂を敬虔に訪問して祈り、主の祈りと信仰宣言を唱えることで、全免償をいただくことが出来ます。

教会のカテキズムには、聖人たちとの交わりについて次のように記されています。

「わたしたちが天の住人の記念を尊敬するのは、単に彼らの模範のためばかりではなく、それ以上に、全教会の一致が兄弟的愛の実践をとおして霊において固められるからです。・・・諸聖人との交わりは、わたしたちをキリストに結び合わせるのであって、全ての恩恵と神の民自身の生命は泉あるいは頭からのようにキリストから流れ出ます(957)」

また死者への祈りついて、カテキズムはこう記します。

「・・・死者のためのわたしたちの祈りは、死者を助けるだけでなく、死者がわたしたちのために執り成すのを有効にすることが出来るのです(958)」

教会は、地上の教会と天上の教会の交わりのうちに存在しています。

感染症の状況のため小教区聖堂の入場制限を実施している関係で、教区行事として11月の第一日曜日に行われる合同追悼ミサは、皆さんに集まっていただくことが出来ないため、昨年同様に中止となりました。その11月7日は各小教区で追悼ミサが行われますが、合同追悼ミサに代えて、わたしは、あきる野教会で主日ミサを捧げさせていただき、隣接する五日市霊園での追悼とさせていただきます。

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さて、10月30日土曜日には、カトリックアクション同志会主催で、グレゴリアン聖歌によるラテン語のミサが行われました。実施可能かどうかぎりぎりまで判断がずれ込んだため、わたしの手元に歌ミサの楽譜などが届いたのが三日前の10月27日です。しかもレクイエムのミサとするため、曲が通常と多少異なります。(歌ミサの曲は、大雑把に言うと、荘厳なものと簡素なものがあり、葬儀などは簡素な曲が使われます)よくこれで間に合ったと自分でも思いますが、さすがにラテン語を言いよどんでしまった箇所が、今回は数カ所ありました。

今回のミサには教皇大使のボッカルディ大司教も参事官とともに参加され、トゥミル参事官とともに、両者とも美声を披露してくださいました。大使は日本に着任されてから、今回が初めての東京カテドラル訪問となりました。

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10月31日の主日午後には、下町宣教協力体の合同堅信式が、浅草教会で行われました。浅草教会、上野教会、本所教会、中国センターから、26名の方が堅信を受けられました。おめでとうございます。

堅信式ミサは、会場の管理から典礼の進行まで、信徒の方々が分担して準備され、見事なまでのスムースな行事となりました。侍者の方々もよく練習されておられましたし、お二人で歌われた聖歌隊も素晴らしいものでした。準備してくださった皆様、ありがとうございます。

浅草教会の裏手には、殉教者の碑があります(一番上の写真)。江戸の殉教の一つ、鳥越の殉教を記念するものです。1613年の8月16日以降三度にわたって殉教した28名の殉教者を顕彰しています。

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東京教区のホームページには、膨大な情報が蓄積されていて、そのいくつかは埋もれていますが、その一つに、殉教者のガイドブックのPDFがあります。こちらのリンクからご覧ください。(このPDFはダウンロードに少々時間を要する重さです)。その中に鳥越の殉教についても詳しく触れられています。わたしたちの信仰の先達の勇気に倣い、またわたしたちが同じように福音をあかしして生きる勇気を与えられるよう、殉教者たちの取り次ぎを祈りましょう。

なお本日1日は、わたしの63歳の誕生日でした。お祝いのメッセージをたくさんの方からいただいています。それぞれにお返事できずに申し訳ありません。どうぞこれからもわたしのためにお祈りくださいますように、お願いいたします。

 

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