« 週刊大司教第五十二回:年間第33主日 | トップページ | 東京大司教区のミャンマーデーは11月21日 »

2021年11月17日 (水)

赤羽教会堅信式ミサ

2021_11_14akabane01

11月14日は貧しい人のための世界祈願日でしたが、赤羽教会で堅信式ミサを行いました。赤羽教会は、JR赤羽駅の目の前の好立地。コンベンツアル聖フランシスコ会の担当する小教区で、現在の主任司祭は同会会員の平神父様です。

2021_11_14akabane04

堅信を受けられたのは4名のお子さんたち。おめでとうございます。聖堂はまだ入堂制限をしているので、一部の信徒の方は、信徒会館ホールで映像で参加されました。またこの日のミサの中では、七五三の祝福も行われ、5名の女の子たちがメダイを受け、これまでの成長に感謝しこれからも命をより良く健やかに生きていくことができるように、祝福を受けられました。

説教の冒頭でも触れましたが、侍者の男の子の元気いっぱいな「かみのみことば」という声が、朗読の後に聖堂に響き渡りました。確かに朗読されている言葉は、神のみ言葉です。それを認識させる力強い呼びかけでした。

折しも教会は、11月21日から28日まで、聖書週間を迎えます。中央協議会のホームページにはこう記されています。

「聖書週間は、1976年5月の定例司教総会で、聖書に親しみ、聖書をより正しく理解するための全国的な運動として「聖書週間」設定案が当時の宣教司牧委員会から提出され、同年11月の臨時司教総会において1977年11月の第3日曜日からの1週間を「聖書週間」とすることが決定されました」

現在わたしは、日本聖書協会の副理事長を務めさせていただいておりますが、日本聖書協会からも、この聖書週間に合わせて献金のお願いが届いているかと思います。今年の聖書協会からの献金のお願いに、わたしは以下のように記しました。

 「『教会は、主の御からだそのものと同じように聖書をつねにあがめ敬って』きました(啓示憲章21)。わたしたちの信仰生活にとって、聖書は欠くことのできない柱であり、典礼において朗読される御言葉を通じて、主はわたしたちとともにおられます。
 感染症による困難のため、わたしたちはこの数ヶ月、皆でともに集まって祈りをささげることが難しい状況にあります。わたしたちが主の御名によって集まるとき、そこに主はともにおられると約束されているのですから、わたしたちの信仰にとって教会に集まることは大切です。それが出来ないとき、聖書のみ言葉を通じて主の現存を心に感じることは、わたしたちの信仰の絆を深め、御言葉は霊的共同体とわたしたちを、信仰の絆で結んでくださいます。
 そのためにもより良く翻訳された聖書の存在は重要です。世界各地で取り組まれている聖書の翻訳事業のために、また視覚や聴覚の障害とともにある方々にも神の御言葉が届けられ、信仰の絆に結ばれるよう、点訳・手話聖書の事業を推進するために、皆様のご支援をお願いします」

2021_11_14akabane03

以下、赤羽教会でのミサの説教録音からの書き起こしを手直ししたものです。

赤羽教会堅信式ミサ
2021年11月14日

先ほど、朗読をしていただきましたが、その朗読のあとに、侍者が、「神のみことば」と大きい声で唱えられましたね。あぁ、素晴らしいなと思いました。

どうしてかというと、ミサの中で朗読台から朗読される聖書の言葉は、国語の授業のときの朗読とは全然違うものだからです。このミサの中で、この朗読台から聖書が朗読されるときは、それは神のことばが朗読されているんです。ここから告げられるのは「神のことば」であって、単なる聖書の朗読ではないのです。

神様は、様々な方法で私たちに語りかけて下さいますけれども、特に大切なのは、このごミサの中での二つの主の現存です。そのうちの一つはもちろん、ご聖体の秘跡です。このミサの中でイエス様はここにおいでになる。イエス様はパンと葡萄酒の形をとって、私たちの間に実際にいて下さるということ。

そしてもう一つは、ミサの中で聖書が朗読されるとき、神のみことばのうちに神様はいて下さるという、神のみことばにおける現存です。ここで朗読される聖書のことばは、誰かが書いた本の朗読ではなくて、まさしく神のことば。神のみことばがいま語られたのだということをはっきりと告げる。。そのために、はっきりと「神のみことば」と告げることは大切ですし、はっきりとその事実をここにいる皆が意識するということが、とても大切だと思います。

2021_11_14akabane02

今日のマルコによる福音は、「王であるキリスト」が次の週に控えており、ここで一年間の典礼の暦が終わるわけで、そうするとどうしても、世の終わり、時の終わりを考えさせるような朗読が記されます。同時に私たち自身の、一生涯の終わりということも考えさせられます。

私たちはいつでも、そのときのために備えていなければならない。そのためには、「時のしるし」をしっかりと見極めないといけない。様々な形で神様は私たちに語りかけるけれども、「時のしるし」をしっかりと見極めて、正しい判断をしなさい。先ほど朗読した福音は、そう告げています。

この世の中で起こっている様々な出来事を通じて、神は私たちにいろんなことを語りかけて下さる。その語りかけを知ろうと努力をすることが、とても大切なことだということ。その最たるものが、このミサの中で朗読される神のみことばであり、聖書のことばによって、神は私たちに様々なことを語りかけて下さっているということなんです。

余談ですが、来年待降節から典礼の式次第が変わり、侍者ではなく朗読する人が「神のみことば」と言って、みんなが「神に感謝」と答えるようになります。本当は、朗読をする前に、これから朗読するのは神のことばですと宣言して朗読した方がいいと思いますけれども、典礼はそうなっていないのでね。

いずれにしても、朗読が終わったあと、「神のみことば」と宣言する意味は、ミサの中で朗読される聖書が、まさしく「神のことば」であるということを告知すること。したがって、神が今このミサの中で、私たち一人一人に何かを語りかけようとしておられるのだということを意識させることです。そのことを心に留め、朗読される聖書のことばに耳を傾け、そして心を向けて頂ければと思います。

今日の「聖書と典礼」の開いたところ、年間第33主日(緑)の下に、「貧しい人のための世界祈願日」と書いてあります。

教皇フランシスコは特に、貧しい人たちに対する思いを、とても強く持っておられます。貧しい人と一言で言っても、ただ単にお金がないといった金銭的な貧しさだけでなく、社会の中の、いろんな意味で生活が厳しい状況に置かれている、命の危機に直面している、たくさんの人たちに対する思いです。

教皇様が日本に来られたとき、東京のカテドラルで青年たちとの集いで話された中に、マザー・テレサのことばを引用しながら語ったところがあります。それは、人間関係がない、誰からも思いを寄せられていない、孤立している、孤独の中にある、それこそが愛の欠如であり、それこそがまさしく貧しさなんだということ。それを強調されました。(「孤独と、愛されていないという思いこそが、もっとも恐ろしい貧困です」)

貧困のうちにあって、誰からも面倒を見てもらえず、忘れられ去られている人たち。難民となって住み慣れた故郷を離れ、海を渡り漂着したけれども誰からも助けてもらえない人たち。様々な理由から孤立のうちに誰からも思いを寄せられず、忘れ去られているような人たち。様々な意味での貧しさ、お金のないことの貧しさ、誰からも心をかけられないことによる心の貧しさ、様々な貧しさがこの世界にはあって、それらすべては人間関係の欠如、思いやりの欠如、支え合おうとする心の欠如、そこから生まれているのだということを、教皇様は強調されています。

2021_11_14akabane05

今年の貧しい人のための世界祈願日のテーマとして、「貧しい人たちはいつもあなた方とともにいる」という聖書のことばが引用されています。その貧しさは、今言ったように、単にお金がない貧しさという意味に限定されるのではないんです。人間関係が断たれてしまって孤立している人たち、誰からも助けを得られない状況に置かれている人たち、法律的に厳しい状況に置かれている人たち、様々な意味での貧しさを抱えて生きている人たちは、常に私たちの周りにいる、私たちとともにいるんだということです。だから、常に助けを求めている人のことを忘れずに、心に掛けていなさいということ。

特に、いまのこの新型コロナ感染症が広がる中で、私たちは人間関係を断ってきていますよね。教会でも、残念なことに人数制限をしているため、みんなが一緒に集まることができない中で、どうしても人間関係が希薄になってきます。なるべく人と会わないように、なるべく人と関わらないように、そういう行動を優先していると、人に対する思いやりが欠けてきて寛容さを失い、ギスギスした殺伐とした社会が私たちの周りに広がってきます。その殺伐とした社会の中で、人の命を大切にする、思いやりの心を持つなどということは、どんどん忘れ去られてしまっているんです。

そのような中で教皇様は、人はやっぱり支え合って生きていかなければならない。人は連帯のうちに生きていかなくてはならない、ということを常々強調され、この貧しい人のための世界祈願日を5年前に定められました。

教皇様は、ただ語るだけではなく、具体的に目に見える形で行動され、模範を示し続けてこられました。それは、わたしたちがそれぞれの場で同じようにするように、同じような心配りをするように、同じように思いやりを持って支え合いなさいということを、目に見える形で示し教えておられるのだと思います。

教皇様のその模範にしっかりと倣い、それぞれ生きているこの日本の社会の中で、思いやりの心、支え合う心、互いに連帯し合って命を生きてゆく心、命を守ろうとする心、それを大切にする生き方をしていきたいと思います。

今日、堅信を受けられる方々は、洗礼に始まり、ご聖体、そして堅信と、三つの秘跡を受けることで、キリスト教徒になる入信の過程が完成します。洗礼を受け、聖体を受け、そして堅信を受けることによって、言ってみれば一人前の大人のキリスト者になっていくわけです。つまり、独り立ちをするので、キリスト者としてこれから生きていく責任がそこには生じてくるんですね。

もちろん、私たち一人一人は弱い者ですし、原罪に囚われ、様々足りないことを抱えて生きています。完全なキリスト者として生きなさいとイエス・キリストが教えられたことを、毎日完璧に守って生きるということ。それは目指したいけれども、なかなかそうはできないのです。

そんな弱さの中で、やっぱり自分は完全なものになれないんだと認めたとき、それまで外からの助けを拒んでいた壁が崩れ去り、聖霊の助力、聖霊の助けが働くことができる。聖霊が私たちを様々な賜物で満たして、私たちを後ろから支えて下さるのです。

ですから、その聖霊の助け、聖霊の賜物に感謝しながら、しっかりと信頼して生きていこうと決意をするというのが、この堅信式の中でとても大切なことだと思います。

これから先、神様から与えられた呼び掛けに応えて、一人前のキリスト信者として責任を果たしながら生きていくのです。そのためには、私には神様からの助けがいつも必要なんですと、聖霊の力で助けて下さい、聖霊来て下さい、と毎日お祈りを続け、聖霊の賜物にしっかりと信頼しながら生きていって頂きたいと思います。

 

| |

« 週刊大司教第五十二回:年間第33主日 | トップページ | 東京大司教区のミャンマーデーは11月21日 »

司教の日記」カテゴリの記事