« 週刊大司教第五十三回:王であるキリスト | トップページ | 教皇訪日から2年が経ちました »

2021年11月21日 (日)

王であるキリストの主日:東京カテドラル

Xstking2101

王であるキリストの主日である本日、東京カテドラル聖マリア大聖堂で捧げられた関口教会10時のミサには、ミャンマー出身の信徒の方々と、同じくミャンマー出身のビンセント神父様(ミラノ会・府中教会)がおいでくださいました。東京教区にとっては、11月の第三主日はミャンマーデーです。ミャンマーの平和と安定のために、ともに祈りを捧げました。

Xstking2104

また本日は世界青年の日でもあります。教皇様のメッセージは、こちらの中央協議会のホームページで全文をご覧ください

以下、本日のミサの説教原稿です。

王であるキリストB(配信ミサ)
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2021年11月21日

教会は典礼の暦の最後の主日を迎え、来週からは降誕祭・クリスマスに備えての待降節が始まります。年間最後の主日は、王であるキリストの主日となっていますが、この日はいろいろなことを黙想したり、祈ったりする日でもあります。

東京教区では、1979年以来、ミャンマーの教会を支援していますが、毎年11月の第3日曜日が「ミャンマーデー」と定められ、ミャンマーの教会支援のための献金が続けられてきました。今年は本日がミャンマーデーであります。

教区のホームページには、次のように記されています。

Myanmar_20211121122701

「東京大司教区は1964年よりドイツのケルン大司教区と姉妹関係を結び、お互いに助け合い、祈り合う関係を保っています。1979年には両大司教区の友好25周年のお祝いが行なわれました。当時の白柳誠一東京大司教(後に枢機卿)は、ケルン教区の精神を学び、ケルン教区の召命のために祈るよう教区の全信者に呼びかけました。来日していたヘフナー枢機卿(当時のケルン教区長)と白柳大司教は、ケルン教区の精神をさらに発展させようと考え、25周年以降は力をあわせてミャンマー(旧ビルマ)の教会を支援することに合意しました。・・・ミャンマーが支援先に選ばれたのは当時ミャンマーが最も貧しい国の一つであり、援助を必要としていたからです」

これまでミャンマーデーの献金は、担当者を通じて現地に送金され、主にミャンマー各地の神学生養成のために使われてきました。昨年2月、コロナ禍が始まる直前には、わたしを始め数名の教区司祭団がミャンマーを訪問し、東京教区が支援して順次建設が進められている神学校を訪れて、新しい建物の起工式なども行いました。

Myanmar_20211121122301

その後、今年の2月にクーデターが起きたことで、状況は一変しています。

今年の8月の平和旬間の際には現地の平和と安定を願い、特別に祈りを捧げ、さらに支援のための緊急の献金を行いましたが、2月のクーデター後に政権を握った国軍によって、民主選挙の結果は無視され、軍政に反対する民衆のデモは武力で弾圧されていると伝わってきます。多数の死傷者が出ているとの報道もあります。

また仏教国であるミャンマーには、少数派ではありますがカトリック教会が全国各地に存在し、軍による力の支配に反対し、民主的な国の運営を求める民衆を支援しています。警察に立ちはだかるシスターの写真なども報道されたのは記憶されている方もおられると思います。首都ヤンゴンの大司教でありミャンマー司教協議会会長のボー枢機卿は、しばしばメッセージを発表して平和を求めておられますが、メッセージの一つで、「このような暗い時代にあっても、わたしたちに呼びかける主の声が聞こえます。教会が証人となり、正義と平和と和解の道具となり、主の手と足となって貧しい人々や恐れている人々を助け、愛をもって憎しみに対抗するようにと」と述べておられます。

多民族国家であり、民族間の相互理解と連帯が不可欠な中、一つにまとめるのは大変難しい国であるのは事実ですが、しかし暴力をもって人々の自由意思を弾圧し、支配することは、許されることではありません。特に、たまものである人間のいのちを危機にさらす行為を、国家運営の手段とすることを認めることはできません。ミャンマー国軍による支配が、人々の共通善に資するものとなり、いのちを守る道を選択することに目覚め、人々の幸福を実現するよりふさわしい政府の在り方へと舵を切ることを願っています。

本日のヨハネ福音は、この世の権威が支配する国家の構造と、神の国、すなわち神の支配が、全く異なる実体であることを語るイエスの姿を記しています。わたしたちの王であり、すべてを支配する世界の王であるイエスは、今まさにご自分のいのちを奪おうとするこの世の権力を前にして、毅然とした態度でぶれることなく「真理」を語られます。神の支配は神の秩序の確立であり、真理による支配であり、人間の欲望や知識に基づいたこの世の権力が支配する国家とは異なることを、イエスはピラトに向かって宣言されます。

ヨハネの黙示は、すべての人への愛のために、自らの血をもって、すなわち十字架における死をもって、わたしたちすべてを罪から解放された方が、その恵みと平和をもってすべてを支配していると述べ、「罪と苦しみと死に対する勝利」こそが神の支配の実現によって到来するのだと指摘します(カテキズム要約314)。

教会のカテキズムは、「キリストのみ国は教会のうちにすでに現存しているとはいえ、まだ、王であるキリストが地上に来臨し、『大いなる力と栄光』とを持って完成されるには至っていません。・・・ですから、キリスト者は、特に感謝の祭儀の中で、キリストの来臨を早めるために、『主よ、来てください』と祈るのです」と記し、旅する教会が世界に対して、神の支配のあるべき姿を自らの姿を通じて示し続けることの重要性を説いています(671)。

Xstking2105

愚かにも互いのいのちを奪い合い、利己的な野心や欲望に突き動かされて争いを続ける人間に対して、神はそれでもこの不出来な我々を闇に捨て置くことなく、愛を注ぎ続け、その愚かな罪のすべてを赦すために自らを十字架のいけにえとしてささげられた。この世の権力者は、自分ではなく他の誰かのいのちの犠牲や誰かの苦しみによって、野望を成し遂げようとするのでしょう。しかし真理の王は、自ら進んで苦しみを背負い、自らの言葉と行いでその愛をあかしされる。

神がすべての支配者だと信じるわたしたちは、神が望まれる世界の構築を目指して行かなくてはなりません。神が望んでおられるのは神の真理が支配する国、すなわち神の秩序が完全に実現している世界です。それこそが本当の意味での平和な国であります。

教皇様は今年から、世界青年の日を、これまでの受難の主日から、王であるキリストの主日へ移動されました。教皇様は今年のテーマを、使徒言行録26章16節から取った、「起き上がれ。あなたが見たことの証人として任命する」とされています。メッセージの中で教皇様は、パウロの回心の話に触れた後で、「洗礼によって新しいいのちに生きることになったわたしたちに、主は重要で人生を変えるような使命を与えられます。『あなたはわたしの証し人となる』」と、特に青年たちに呼びかけます。

もちろんこの呼びかけは青年たちだけに向けられたものではなく、すべてのキリスト者に向けられた呼びかけです。この世界を支配する価値観と神の支配は異なると、言葉で言うのは簡単ですが、それではわたしたちはその神の支配が実現しているはずの教会で、何を体験しているでしょう。共同体の交わりは喜びと希望を生み出しているでしょうか。互いの尊敬のうちに対話を生み出しているでしょうか。正義と平和を実現し、助けを求める人に手を差し伸べているでしょうか。共通の家である地球とすべてのいのちを守っているでしょうか。わたしたちの教会は、キリストは生きていると世界に向かって告げているでしょうか。真摯に振り返ってみましょう。

 

| |

« 週刊大司教第五十三回:王であるキリスト | トップページ | 教皇訪日から2年が経ちました »

配信ミサ説教」カテゴリの記事