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2021年12月25日 (土)

週刊大司教第五十八回:聖家族の主日

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今年の降誕祭は土曜日ですので、翌日の主日が聖家族の主日となります。今夜の週刊大司教は、25日の夜ですが、翌26日の聖家族の主日の福音に基づいてのお話です。

なお来週1月1日は、週刊大司教をお休みにします。新年1月1日は午前10時から、関口教会のミサを大司教司式ミサとして配信しますので、そちらをご覧ください。新年の週刊大司教は、1月8日土曜日の午後6時、主の洗礼の主日から再開です。

このクリスマス直前に、バチカンからはちょっとしたうわさ話が流れてきていました。2017年1月1日に、それまで聖座(バチカン)に設置されていた「正義と平和評議会」「開発援助促進評議会」「移住・移動者司牧評議会」および「保健従事者評議会」が統合されて、新しい部署、「人間開発のための部署」が設置されました。これは英語名称が「Dicastery for Promoting Integral Human Development」といいますので、どちらかというと「総合的人間開発促進局」とでも言うのだろうと思います。その責任者は、それまで正義と平和評議会の責任者であったピーター・タクソン枢機卿です。(その頃の最初の会議参加の「司教の日記」はこちらです

この新しい部署は、統合されたそれぞれの評議会の務めを引き継ぎ、それぞれがデスクとして業務を続けてきました。ですから、新しい部署が創設されたからと言って、正義と平和の務めが消滅したり移住移動者への関わりがなくなったりしたわけではなく、部署内には新しいセクションが設けられて務めの精査が行われてきました。とはいえ、それまで存在していた4つの評議会を統合したことと、特に難民セクションは教皇様直轄となり、その担当責任者の一人であるマイケル・チェルニー師(イエズス会)が枢機卿となったことなどから、組織の見直しが必要ではないかともささやかれていました。今年の夏には、教皇様の指示で、シカゴのスーピッチ枢機卿による業務監査も行われ、同じような業務監査が行われた役所ではその後、責任者が交代となったことから、この部署でもタクソン枢機卿が交代となるのではと推測されていました。

教皇様が、ラウダート・シなどにおいて、『総合的』という概念を強調されていることもあり、シングルイシューへの取り組みから総合的(インテグラル)な視点への転換は、教会の社会系の活動に広く求められていることでもあります。その意味で、この部署が創設されたことには大きな意味があったと思いますし、教会が社会正義の実現のために幅広く取り組んでいくための総合的担当部署の創設は、この時代にあって不可欠だと思います。

しかし同時にそれは、組織が巨大化することも意味し、報道によれば、この部署はバチカンの中で予算規模が上から三番目という、結構巨大組織となっていたこともあり、新しい部署として運営するタクソン枢機卿には大きな苦労があったと思います。

この部署が誕生したときに定められた規約は、試行期間として5年と定められていましたし、聖座の役職は5年で一期を基本としているので、このところ、タクソン枢機卿の去就が注目されていました。教皇庁広報官は23日の記者発表で、教皇様がタクソン枢機卿から提出された5年任期終了に伴う辞表を受理し、1月1日から新しい指導体制が決まるまでの間、チェルニー枢機卿を代理の責任者として任命されました。今後の展開に注目したいと思います。

タクソン枢機卿は、わたしがまだガーナの小教区で働いていた頃、1991年9月にケープコースト大司教区の名物司教だったジョン・アミサ大司教(ガーナ人初の司教)が交通事故で急死し、その後を受けて92年10月に後任の大司教に任命されました。そのときご本人は博士号取得直前でローマに留学しておられました。大司教任命を受けて急遽福音宣教省に呼び出されたタクソン師は、ジーパンにシャツ姿だったので、玄関の警備員に追い払われたというのは有名な話です。その頃に福音宣教省長官だったトムコ枢機卿から直接聞いたので、本当だと思います。大司教に任命された当時から、ガーナの教会でも一歩も二歩も図抜けた存在であったと記憶しています。初のアフリカ出身の教皇候補と噂されることもしばしばです。今後のタクソン枢機卿に(まだ73歳です)注目したいとおもいます。

以下、本日午後6時配信の週刊大司教第五十八回のメッセージ原稿です。

聖家族の主日C(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第58回
2021年12月26日

皆様、主の降誕おめでとうございます。

誕生した幼子は、飼い葉桶に寝かされて、聖ヨセフと聖母マリアによって、そのいのちを守られています。受肉した神のみ言葉は、家族のうちに誕生し、家族によって守られ、育まれました。降誕祭直後の主日は、聖家族を黙想する日であります。

使徒ヨハネは、「神の掟を守る人は、神のうちにいつもとどまり、神もその人のうちにとどまってくださいます」と記しています。まさしく聖家族を構成する聖ヨセフと聖母マリアは、神の言葉に従順に従い、その御旨の実現のために人生を捧げられたことで、神の掟を守る人であることをあかしし、その故にこの家族のうちに神は常にとどまり、この家族を聖なる家族とされました。

ルカ福音は、イエスが十二歳になったときの家族の話を記しています。過越祭のためにエルサレムに上ったとき、その帰路、少年イエスがエルサレムに残り、家族と離れてしまったときの逸話であります。

三日目に見出されたイエスは、自らが神の子であることを明示され、真の家族は神のもとにあることを示されますが、同時にイエスは、神の掟を守る二人から離れることなく、そのもとにとどまるために、両親と一緒に旅を続けます。

私たちが教会共同体を考えるとき、そこには「地上の教会と天上の善に飾られた教会」が実在し、互いに別なものではなくて「複雑な一つの実在」を構成していると教会憲章は指摘します。同様に、家族においても、地上の家族と天上の家族があり、私たちは、その両者によって育まれる存在です。

教皇フランシスコは使徒的勧告「愛のよろこび」の冒頭に、「家庭において生きられている愛の喜びは、教会にとっても大きな喜びです」と記します。その上で、「家庭が健全であることは、世界と教会の将来にとって、決定的に重要なことです(31)」と記します。

しかし同時に、現実の世界では理想とするような家族ではなく、厳しい状況に直面する家族や崩壊してしまった家族、また家族そのものが存在しないような状況があることを認識し、教会のこれまでの態度を反省してこう記しています。

「私たちは長い間、恵みに開かれるよう励ますことをせずに、単に教義や生命倫理や道徳の問題に執拗にこだわることで、家庭を十分に支え、夫婦のきずなを強め、彼らの共同生活を意味あるものにしたと信じてきました。(37)」

司牧的配慮の重要性を説かれる教皇様は、その上で、「教会は、家庭の中の家庭であり、すべての家庭教会が持ついのちによって、たえず豊かにされています」と記して、教会と家庭のきずなを強調されています。

回勅「兄弟の皆さん」において教皇様は、教会共同体という家庭でともに旅するようわたしたちを招かれ、そのためには兄弟姉妹のきずなのうちに連帯しなければならないと強調されます。神の掟を守ろうとするわたしたちは、共同体の中に神がいつもとどまってくださることを信じています。この共同体は、私たちにとって天上の家族に連なる家族であります。教皇様は、「私たち信者は、神は万人の御父という理解がなければ、兄弟愛の呼びかけに盤石な根拠はない(272)」と記します。この現実の中で、聖なる家族の一員となるよう招かれる主に、積極的に応えましょう。

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主の降誕、日中のミサ

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主の降誕のお喜びを申し上げます。

クリスマスの典礼は、前晩のミサに始まって、夜半(本来は深夜)、早朝、日中と、異なる典礼が用意されています。夜半のミサが、通常は一般の方も含めて参列者が一番多いため、すでに24日の夕方から、何回も繰り返して夜半ミサが行われる教会もあるため、前晩のミサは捧げられないこともありますし、早朝のミサは参加者も少ないこともあり、夜半のミサと日中のミサがもっとも知られているミサです。

今年は昨年に続いて、感染症対策のため、残念ながら一般の方の参加をお断りしている教会がほとんどかと思います。そのため24日のミサの回数も少なくなってはいますが、それでも東京カテドラル聖マリア大聖堂にある関口教会は、24日は夕方5時、7時、9時と、三回のミサが捧げられ、大勢の方が祈りをともにしました。

来年のクリスマスは、入場制限のないミサとなり、どなたにでも安心して参加していただけるお祝いと祈りの機会となることを、心から祈っています。

以下、本日25日午前10時から捧げられた、東京カテドラル聖マリア大聖堂での降誕祭・日中のミサの説教原稿です。

主の降誕 日中ミサ(配信ミサ)
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2021年12月25日午前10時

主の降誕、おめでとうございます。

「いかに美しいことか。山々を行き巡り、良い知らせを伝えるものの足は」と記すイザヤ預言者は、その「良い知らせ」が、「平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え、救いを告げ」るものであると明示しています。

インターネットが普及した現代社会で、わたしたちはあふれかえる言葉に取り囲まれて生きています。特にこの二年間、感染症対策のために直接出会う機会が減少し、教会などでもミサの配信に始まってさまざまな情報がインターネットを通じて発信されるようになり、これまでは実際に出かけていかなくてはならなかった会議などでもオンラインが普通になり、コミュニケーションには多種多様な手段が提供されています。

わたしたちは、あふれかえる言葉に取り囲まれて生きている時代だからこそ、その言葉の持つ力を振り返ってみなくてはなりません。なぜならば、誕生した幼子が、人となられた神の言であるからにほかなりません。

ヨハネ福音は、他の福音と異なり、その冒頭でイエス誕生物語を記していません。ヨハネ福音には、馬小屋も、羊飼いも、闇夜に光り輝く天使も登場しません。ただ、「初めに言があった」と始まる福音は、受肉し人となられた神の言にこそ、命があり、その命こそが暗闇に輝く光であることが示されています。暗闇に住むすべての人に命を与え、その命を生きる前向きな力を与える希望の光。それこそが、神の言の持つ力であります。私たちの神は、感情的な存在ではなく、はっきりと語られ、私たちの間に現存される言葉の神です。

毎日浪費されるように、さまざまな手段を通じて世界中にあふれかえるわたしたちの言葉には、心の叫びの言葉もあれば、意味のない薄っぺらな言葉もあります。真実を語る言葉もあれば、でたらめな言葉もあります。いのちを生かす言葉もあれば、いのちを奪う言葉もあります。希望を生み出す言葉もあれば、闇に引きずり込む悪意の言葉もあります。言葉は、ひとたび発信されてしまうと、他者に対してなんらかの影響を及ぼす力を、大なり小なり秘めています。

わたしたちが発する言葉は、わたしたち自身の存在そのものを土台として生み出されてきました。わたしたちが発する言葉は、わたしたちの存在そのものの反映です。わたしたちの発する言葉は、わたしたちの心を写す鏡です。

第二バチカン公会議の啓示憲章は、「教会は、主の御からだそのものと同じように聖書をつねにあがめ敬ってき〔まし〕た。なぜなら、教会は何よりもまず聖なる典礼において、たえずキリストのからだと同時に神のことばの食卓からいのちのパンを受け取り、信者たちに差し出してきたからで〔す〕」(『啓示憲章』 21)と記して、神のことばに親しむことは、聖体の秘跡に与ることに匹敵するのだと指摘します。わたしたちの信仰生活にとって、聖書は欠くことのできない柱であり、典礼において朗読される御言葉を通じて、主はわたしたちとともにおられます。

典礼憲章は、キリストは救いの業を成し遂げるために、「常にご自分の教会とともにおられ、特に典礼行為のうちにおられる」と記し、続けて、「キリストはミサのいけにえのうちに現存しておられる」と指摘します。(7)

同時に典礼憲章は、「キリストはご自身のことばのうちに現存しておられる」とも記し、「聖書が教会で読まれるとき、キリスト自身が語られるからである」と指摘します。ミサにおいて聖書が実際に声にして朗読される意味は、ただ単に本を朗読しているのではなくて、聖書に記されている神の言葉が朗読されることによって、そこに現存されるキリストの生きた言葉として、わたしたちの心に届くところにあります。ミサのいけにえにおいて、御聖体の秘跡を大切にするキリスト者は、同時に神の言葉の朗読をないがしろにすることは出来ません。

教皇フランシスコは、昨年から一月の年間第三主日を、「神のことばの主日」と定められています。この日を定めることを記した使徒的書簡「アペルイット・イリス」には、次のように記されています。

「聖霊によって書かれた聖書は、その同じ霊の光に照らされて読まれるとき、いつも新鮮です。旧約聖書は新約聖書の一部として理解されるなら、決して古いものではありません。なぜなら、すべては聖書全体に霊感を与える一つの霊によって変容されるからです。全体としての聖書は、そのことばによって養われるすべての人の未来ではなく、現在に関して、預言者的な役割を果たしています。イエス自身が、宣教の初めにあたってはっきりと述べています。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」(ルカ 4・21)」

さきほど朗読されたヘブライ人への手紙には、「御子は、・・・万物をご自分の力ある言葉によって支えておられます」と記されています。まさしく主イエスの言葉には力がありました。それはイエスこそが、「真理」だからであります。その言葉は常に真理です。ですから福音の他の箇所で、イエスの言葉を耳にした人々が、「権威ある新しい教え」とイエスの言葉を評したのです。

わたしたちも力ある言葉を語りたいと思います。自分勝手な思いや欲望を満たす言葉ではなく、いのちを奪う言葉ではなく、闇をもたらす言葉ではなく、裁き排除する言葉ではなく、それよりも神の真理に基づいた言葉、いのちを生かす言葉、希望を生み出す言葉、慈しみに満ちあふれた言葉、いたわり支え合う言葉、すなわち神の力に満ちた言葉を語りたいと思います。わたしたちは、「平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え、救いを告げ」るものでありたいと思います。

この二年間、感染症の状況のため、世界中の人たちが暗闇の中を彷徨いながらいのちを守ろうと努めてきました。わたしたちも、状況は好転しているとは言え、まだまだ先が完全に読めているわけではなく、しばらくは慎重に対応する必要があると思います。暗闇を手探りで進む状況は、しばらくは変わりがないものと思います。そういうときだからこそ、教会は暗闇の中に輝く光でありたいと思います。命の希望をもたらすものでありたいと思います。命の言葉を語る者でありたいと思います。

わたしが「教会」と言うとき、それは誰かどこかの人のことではありません。どこかにある立派な組織のことではありません。教会は皆さんお一人お一人のことです。幼子は、誰かどこかの他人のために人となり誕生したのではなく、今ここにいる皆さんお一人お一人のもとに受肉されたのです。私たちは力強く響いている希望の光である神の言葉を、今日耳にしました。その光を輝かせ続けるのは、私たち一人ひとりに与えられた、使命であります。

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2021年12月24日 (金)

主の降誕、おめでとうございます。

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主の降誕の夜を迎えました。おめでとうございます。

今年もまた困難な状況の中でのクリスマスとなりました。皆様は、どのような状況で、クリスマスを迎えておられるでしょうか。

暗闇の中に誕生した幼子は、いのちの創造主である神のみ言葉の受肉です。暗闇に輝く、命の希望の光です。クリスマスのミサが、まず最初に夜に行われるのには、闇に輝く光の与える希望を、心で感じるという大切な意味があるのだと思います。

皆様、お一人お一人の心にも、闇に輝く光がともされ、希望が生み出されますように。

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以下、本日午後9時の東京カテドラル聖マリア大聖堂で捧げられたミサの説教原稿です。

主の降誕 夜半ミサ(配信ミサ)
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2021年12月24日午後9時

順風満帆な人生というものは、どこかにありそうで実際にはないと言うことを、この二年間わたしたちは肌で感じさせられています。どんなに自分の人生がうまくいっていると思っていても、自然の力の前で、わたしたちはなすすべもなく立ち尽くしてしまうことがありうるのだということを、世界的な規模で、この時代を生きているほぼすべての人が自覚するという、凄まじい状況の中に、わたしたちは置かれています。

暗闇に取り残されたとき、希望の光はどこから来るのかと必死になって探し回るように、この二年間、一体何を信じたら良いのかも定かでなく、意見が対立し、互いに自分の正当性を主張して、時にはののしり合いにまで発展しながら、光を求めて、人類は彷徨っています。

助け合わなくては生きていけない。支え合わなければ生きてはいけない。そんなことは当たり前と分かってはいるけれど、しかし自分のいのちが危機に直面するとき、そこまで考える余裕はない。ただでさえ孤立と孤独が深まっていると指摘されてきた現代社会にあって、この二年の感染症による危機は、わたしたちを分断と利己主義と孤立へと強烈にいざなってきました。

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教皇様は、今年の貧しい人のための世界祈願日のメッセージで、パンデミックによって格差が激しくなり貧困が増し加わって命を危機に直面させていることを指摘し、こう記しています。

「貧困層は激増しており、残念ながらそれは今後数か月は続くでしょう。一部の国はパンデミックのきわめて深刻な影響を受け、もっとも弱い立場の人は生活必需品も得られなくなっています。炊き出しに並ぶ長蛇の列は、こうした事態の悪化を如実に表しています」

その上で教皇様は、「個人主義的な生活様式は貧困を生み出すことに加担し、しかも貧困の状況の責任をすべて貧しい人に負わせてばかりです。しかし、貧困は運命の産物ではありません。エゴイズムの結果です」と指摘されています。わたしたちを覆っている暗闇は、その深さを増し加えています。暗闇は命を危機に直面させています。

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主イエスの降誕を祝うこの夜、イザヤ書は「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住むものの上に、光が輝いた」と告げています。

ルカによる福音は、闇夜のただ中に、羊飼いが恐れを抱くほどの強烈な光が輝き渡り、救い主の誕生を告げたと記しています。

イザヤ書は、暗闇に輝く光として誕生する幼子が、「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」であり、その支配は、「正義と恵みの業によって」永遠に続くであろうと記します。

ルカ福音は、輝く光の中で天使たちが、神を賛美して「地には平和、御心に適う人にあれ」と歌ったと記します。

パウロは、「恵み」は、わたしたちに「この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように教え」、希望を持って栄光の現れを待つようにと教えている、と記します。

その上でパウロは、キリストが受肉し、わたしたちとともに時の流れの中で命を生き、「ご自身を捧げられたのは、わたしたちをあらゆる不法から贖いだし、良い行いに熱心な民をご自分のものとして清めるためだった」と記しています。

わたしたちが光を必要とする暗闇に生きていると言うことは、それは神が定めた秩序に逆らっている状況であり、パウロによれば「不法」の状態であり、「この世で、思慮深く、正しく、信心深く」生きていくための恵みに欠けた状態であり、さらには、命を生きる希望を失った状態であり、平和の欠如であり、それが故に、神の御心に適う状況ではありえない。

だからこそ、神は、自ら定めた秩序を回復し、賜物として与えられた命が生きる希望を取り戻すようにと、自ら人となり、わたしたちとともに歩まれる道を選ばれました。

わたしたちは、キリストの言葉に、命を生きる光を見出します。わたしたちは、キリストの行いに、命を生きる光を見出します。光を見出すからこそ、わたしたちはその言葉と行いを自らのものとし、今度は暗闇の中でわたしたち自身が光を輝かせようとします。わたしたちは、命の希望を告げしらせ、神の秩序を打ち立て、正義と恵みを具体的に生きる者となりたいと思います。

教会は、この困難な社会の状況の中で、広がる格差による分断が孤立と孤独を深める社会の中で、教皇フランシスコが繰り返されるように、いつくしみを具体的にもたらす野戦病院として、出向いていく教会であり続けたいと思います。

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教皇様は回勅「フラテリ・トゥッティ、兄弟の皆さん」において、兄弟愛と社会的友愛に生きるようにと呼びかけ、「一人で救われるのではなく、ともに救われる道しかない(32)」ことを強調されます。その上で教皇様は、「孤立することで、成長したり充実感を得たりする人はいません。愛はそのダイナミズムによって、ますます寛容さ、他者を受け入れるいっそうの力を求めます。・・・わたしたちは、歴史のダイナミズムと、民族・社会・文化の多様性のうちに、互いに受け入れ合い配慮し合う兄弟姉妹から成る共同体を形成する使命が宿っている(96)」と指摘されています。

教会は今、シノドスの道をともに歩んでいます。教会は、救いの完成を目指してともに歩んでいく神の民です。暗闇の中で一人でもがき、道を見いだそうそうとする共同体ではなく、互いに支え合い、受け入れ合い、配慮し合う共同体です。教会は、命の与え主である神が、すべての人を救いへと招いておられる御父であると信じているからこそ、誰ひとり排除されず、忘れ去られることなく、ともに歩む民であることを自覚し実現しようとしています。

シノドスの道をともに歩むときに、互いに「識別する」、「聞く」、「参加する」という三つの行動が、大切であると、準備文書は指摘しています。

わたしたちには、今までの歩み、今の歩み、これからの歩みを静かに黙想し、聖霊はわたしたちをどのように導き、どのように力づけ、どちらの方へと向かわせているのかに気づくことが求められます。

わたしたちは、教会に集う人々が教会をどのように受けとめているのかについて、お互いに耳を傾けあわなければなければなりません。聞くためには、寛容さと忍耐が必要です。

そして、わたしたちキリスト信者の基本的な姿勢の一つは、参加です。ミサに、祈りに、ボランティアグループに、ひいては地域の活動に、社会に積極的に参加することが求められます。コロナ禍で参加の形は変わりつつありますし、参加の仕方についても創造性が求められています。

教会共同体が、互いに支え合い、歩みをともにする交わりの共同体であるならば、教会は救いの完成を先取りする存在として、暗闇の中で輝く光となることができるでしょう。

人となられた神の積極的な行動力に倣い、またわたしたちの贖いのために自らを捧げられた神の愛に倣い、わたしたちも常に前進を続ける連帯の共同体、神の民であるように努めましょう。

 

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2021年12月18日 (土)

週刊大司教第五十七回:待降節第四主日

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待降節も終盤です。今年は主の降誕が土曜日なので、待降節第四週が十分にあります。良いクリスマスを迎えるためにも、良い準備をいたしましょう。

本日12月18日、前東京大司教である岡田武夫大司教様が帰天されて一年となりました。昨年の帰天時には、コロナ禍で、教区の皆での落ち着いたお別れのミサなどもできませんでした。残念に思います。さいたま教区と東京教区の両者で長年牧者の務めを果たされた岡田大司教様ですから、本来であれば、さいたま教区や東京教区の大勢の方とともに感謝の祈りをささげ、永遠の安息を祈るべきところです。

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先週末土曜日の午後、岡田大司教様が心を込めて指導されていた東京教区のアレルヤ会の皆さんと、カテドラルで追悼のミサを捧げました。あらためて、永遠の安息を祈ります。

以下、本日午後6時配信の、週刊大司教第57回目のメッセージ原稿です。

待降節第四主日C(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第57回
2021年12月19日

間もなく主の降誕です。教会の伝統には、重要な祝日や特別な願い事があるときに、9日間の連続した祈りを捧げる習慣があり、ラテン語の数字の9から「ノベナ」と呼ばれています。さまざまな機会にノベナの祈りが捧げられますが、特に聖霊降臨祭前と降誕祭前のノベナが知られています。フィリピン出身の信徒の方々には、早朝に集まりノベナのミサに与る「シンバンガビ」が有名で、東京でも、主に夕方ですが、このミサが捧げられる教会があります。教会は、主の降誕を喜び祝うために、心を込めて準備を進めます。

ミカの預言は、エルサレム近くの小さな町ベツレヘムから、イスラエルの王が現れると記し、「主の力、威厳を持って」治める王の支配こそが、神の平和の実現であると述べています。

ヘブライ人への手紙は、旧約時代のいけにえが、形に捕らわれ心の伴わないものとなったことで神から離れる結果となったことを指摘し、新約の契約は「御心を行うために」来られた主ご自身のいけにえによってただ一度で成し遂げられ、わたしたちは自らの救いのために形式的な祈りを捧げ続けるものではなく、新しい命に招いてくださる主をたたえ神を賛美するのだと指摘します。

ルカ福音は、聖母マリアのエリザベトご訪問を記しています。教皇フランシスコは「福音の喜び」の終わりで、マリアのこの訪問に触れ、「マリアは・・・すぐに動かれる聖母、人に手を貸すために自分の村から『急いで』出掛ける方です。正義と優しさの力、観想と他者に向けて歩む力、これこそがマリアを、福音宣教する教会の模範とするのです(288)」と記しています。

わたしたちが待ち望んでいる救い主は、形式的な崇敬を求めているのではなく、福音の実現が待ち望まれている地へ出向いていって、神の望まれる秩序を打ち立て平和を実現するようにと、わたしたちを招いておられます。主ご自身が、その道程をともに歩んでくださいます。

わたしたちが今ともに歩んでいるシノドスの道は、まさしく主がともに歩んでくださる道程です。準備文書に記されているいくつかの設問は、回答を求められているものではなく、それを基にして小さなグループでの振り返りと分かち合いのための手引きです。今歩んでいるシノドスの道程は、小さな会議をたくさんすることではなくて、まず教会とは一体何であるのかの共通理解を深め、それがともに歩む神の民なのだという認識を共有し、その上で、歩み続けるために、小さなグループでの振り返りと分かち合いが求められています。東京教区で毎週提供しているビデオで是非学びを深めていただき、その後に、小さなグループで祈りのうちに分かち合いを進めていただくことを期待しています。

準備文書の手引きの設問に2番目には、「聴くこと」の大切さが指摘され、次のように記されています。

「聞くことは最初の一歩ですが、それには偏見のない、開かれた精神と心が必要です。わたしたちの部分教会は、誰に対し「耳を傾ける必要がある」でしょうか。・・・耳を傾けることを妨げている偏見や固定観念を認識していますか」

聖母は天使のお告げに耳を傾ける方です。ともに歩まれる主ご自身も、わたしたちの声に耳を傾けてくださる方です。わたしたちは、神の民としてともに歩もうとするとき、互いの声に耳を傾けているでしょうか。声を拾い上げようとしているでしょうか。振り返りたいと思います。

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2021年12月17日 (金)

東京で四年です。ひたすらに感謝。

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東京教区の大司教として2017年12月16日に着座してから、昨日で4年が経ちました。あっという間の4年でしたが、その半分はコロナ禍で身動きがとれない毎日でした。(上の写真は、2017年12月16日の着座式で牧杖を岡田大司教様から手渡された瞬間)

東京に着座以来、多くの方のお祈りに支えられて司教職を果たすことができました。心から感謝申し上げます。またそれ以前、2004年から13年間、信仰生活を共にした新潟教区の皆様が、東京に移ってからもお祈りを持って支えてくださっていることに、心から感謝申し上げます。

本日から東京での5年目となりました。教会は今、シノドスの歩みをともにしながら、教会とは一体どのような存在であるのかという、信仰を支える根幹部分の共通理解を深めようとしています。教会は流れ行く時のうちに歩みながら、その始めから聖霊に導かれて、常に新しくされてきました。教会に働く聖霊の力と導きに、常に信頼しながら、これからも歩みを進めていきたいと思います。教区の宣教司牧方針も、策定してから実施する段階でコロナ禍となり、若干立ち往生していますが、これからも時間を掛けながらゆっくりと、実現のために努力していきたいと思います。

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着座の記念日となる昨日12月16日は、夜7時から、目黒教会で、シンバン・ガビのミサを捧げてきました。ミサに参加して、特に着座記念日のためにお祈りくださった皆さんに感謝です。

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シンバン・ガビは、主にフィリピンで行われる、降誕祭前のノベナのミサです。フィリピンでは早朝に行われることが多いようですが、東京では夕方に、いくつかの教会で行われており、わたしは目黒教会で司式するのが今回で3回目です。ミサは英語で捧げられています。感染症が広まる前には聖堂に一杯の方が集まっていましたが、いまは距離を取ってのミサです。しかも聖歌も歌わないため、以前のような喜びを感じることが少なくなっていると感じます。一日も早く、皆が一緒にミサに与ることができるように、この困難を乗り越える日の到来を祈り求めましょう。

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また、本日12月17日は、教皇フランシスコの85歳の誕生日です。教皇様、おめでとうございます。85歳という年齢にもかかわらず、先日も海外訪問をされるなど、積極的に力強く聖務を果たしておられます。教皇様の健康のために、お祈りいたしましょう。

 

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2021年12月13日 (月)

レジオマリエ創設100周年感謝ミサ@東京カテドラル

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レジオマリエがアイルランドで創設されてから、100年となりました。

東京のレジオマリエの皆さんと、感謝ミサを12日の午後に、東京カテドラル聖マリア大聖堂で捧げました。ミサは指導司祭である淳心会のオノレ・カブンディ神父様を始め、関係する神父様方も多数参加してくださり、150名ほどが参加されました。

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東京のグループ(東京レジア)には、田園調布、松原、板橋、吉祥寺、初台、豊島、葛西、麻布、さいたま教区の川越、上尾、、大田、高崎、渋川、横浜教区の由比ヶ浜、鶴見、山手、雪の下、大船、静岡、逗子、平塚、茅ヶ崎、中和田、戸塚、百合ヶ丘、二俣川、藤沢、末吉町、仙台教区の元寺小路、四ツ家、松木町、一本杉、などの教会のメンバーが参加し、そのほかさいたまの松が峰、新潟の新潟、高田、柏崎などにも休会中のグループがあると聞いています。これに加えて東京韓人クリアも韓人教会にあります。(記載漏れがある場合はご容赦ください)

メンバーの高齢化も言われますが、聖母を通じて聖性の道を歩む大切な信徒の活動ですので、今後も力強く継続していくことを願っています。

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以下、昨日12月12日午後2時から捧げられたミサの、説教原稿です。

レジオマリエ100周年感謝ミサ
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2021年12月12日

レジオマリエが始まってから100年という時間が経過しました。東京教区において、レジオマリエの活動に参加し、聖母マリアを通じて聖性への道を歩んでおられる皆様に、心からお祝いを申し上げると共に、これまで、レジオマリエの活動を支え育ててくださった信仰の先達に感謝したいと思います。

レジオマリエは1921年9月にアイルランドで始まったと伺っています。すべての恩寵の仲介者である聖母マリアの導きに従うレジオマリエは、信徒使徒職の先駆者として、教会の福音宣教に大きく貢献してきました。教会にとって、聖母マリアを通じて祈るという聖なる伝統は、教会が教会であるために不可欠だとわたしは思いますので、これからも、形が変わっていくのかもしれませんが、レジオマリエの活動をさらに深め、発展させてくださるように願っています。

教皇フランシスコは、使徒的勧告「福音の喜び」の終わりに、「教会の福音宣教の活動には、マリアという生き方があります。というのは、マリアへと目を向けるたびに、優しさと愛情の革命的な力をあらためて信じるようになるからです」(288)と記しておられます。

ここで教皇様が、「マリアという生き方」が福音宣教にとって重要な姿勢であるという指摘をされていることに注目したいと思います。「マリアという生き方」とはどういう生き方でしょうか。

教会のカテキズムには次のような指摘があります。「マリアは、しみやしわのない花嫁としての教会の神秘、つまり、その聖性を、私たちすべての者に先立って現しました。『教会のマリア的な面がペトロ的な面に先立っている』のはこのためです。(カテキズム773)」

教会のペトロ的な面とは、ペトロの後継者であるローマ教皇に代表されるような使徒的な側面、目に見える地上の組織という側面です。

教会のマリア的な面については、教皇ヨハネパウロ二世が使徒的書簡「女性の尊厳と使命」の中でこう指摘しています。「聖性の段階において教会の『かたどり』となるものは、ナザレのマリアであることを思い起こします。マリアは聖性への道において皆に『先行』するものです。彼女において『教会は、すでに完成に到達し、しみもしわもないもの』でした。(27)」

つまり聖母マリアこそはキリスト者が完成を目指して進むときに模範となる存在であり、教会のあるべき姿、「かたどり」なのだという指摘です。ですから教会にはマリア的な面があるといいます。

教皇フランシスコは教皇ヨハネパウロ二世と同じように、教会のマリア的な面がペトロ的な面に先行することを強調しつつ、同時にマリア的な面こそが福音宣教をする教会にとっては不可欠であることを強調されています。教皇フランシスコが大切だと考える福音宣教における教会のマリア的な面とは、すなわち「マリアという生き方」という言葉に表された、聖母の生きる姿勢です。

教皇様は、「マリアへと目を向けるたびに、優しさと愛情の革命的な力をあらためて信じるようになる」(288)と記して、それを聖母の讃歌(マグニフィカト)から読み取ることが出来ると指摘しています。先ほど朗読されたルカ福音書一章47から55節に記された聖母の讃歌は、「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」と始まります。

聖母マリアが「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」と歌い上げる理由は何でしょうか。それはそのすぐ後に記されている言葉から明らかです。それは主が「身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったから」に他なりません。

教皇フランシスコはこの言葉に、「謙虚さと優しさは、弱い者の徳ではなく、強い者のそれである」ことを見て取ります。そして続けます。「強い者は、自分の重要さを実感するために他者を虐げたりしません。(288)」

聖母マリアの人生を見れば、それは決して弱さのうちに恐れているような生き方ではありません。それどころか、神から選ばれ救い主の母となるというすさまじいまでの人生の転換点にあって、恐れることなくその運命を受け入れ、主イエスとともに歩み、その受難の苦しみをともにしながら死と復活に立ち会い、そして聖霊降臨の時に弟子たちとともに祈ることで、教会の歴史の始まりにも重要な位置を占めるのです。それほどの選びを受けた聖母マリアは、あくまでもその力を誇ることなく、謙虚さと優しさのうちに生きて行かれます。

教皇様の言葉は、いったいこの世において本当に力のあるものはだれなのかという価値基準への警告であります。今の世界では、いったいどういう人が強いものだと考えられているのか。その判断基準は本当の強さに基づいているのか。本当の強さとは、謙虚さと優しさという徳のうちにあるのではないか。

教皇様は、この世の権勢を誇るのではなく、排除され忘れ去られている人たちとともに歩む謙虚さこそが、人間にとって大切であることを、自らの行動を持って示されてきました。12月2日から6日まで、教皇様はキプロスとギリシャを訪問されましたが、ギリシャでは難民や移住者の受け入れに消極的なヨーロッパ諸国政府を批判され、以前にも訪れられた難民の方々が漂着するレスボス島を再訪され、難民の方々とともにある教会の姿を示しました。

最高の勇気の発露であるキリストの愛は、ゆるしと自己犠牲によって成り立っていますが、それこそは神の御子の生きる姿勢、すなわち神のいつくしみのあかしとしてとらえられます。そして教会はこの同じあかし、すなわち神のいつくしみを生きることを、最も大切な生きる姿勢として自らのものとしなければなりません。まさしく聖母マリアにおいて謙虚さと優しさといういわばいつくしみの要素が強さのあかしであるように、主においてもゆるしと自己犠牲といういつくしみの要素が、その強さのあかしとなるのです。

聖母の導きに身をゆだね、聖母に倣い、謙虚さと優しさを持って、歩みをともにしてくださる主と、傍らを歩まれる聖母とともに、福音をあかしするために積極的に出向いていく教会でありたいと思います。

 

Lofm100e

 

 

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2021年12月11日 (土)

週刊大司教第五十六回:待降節第三主日

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待降節も第三主日となりました。伝統的にこの日のミサでは、バラ色(ピンク)の祭服が使われることがあります。喜びを表現するためです。ミサの朗読のテーマも喜びです。もっとも一年に二回くらいしか使わないバラ色(ピンク)なので、所有していない教会も多いかと思いますので、祭服は紫かもしれませんが、心は喜びのピンクです。

先日、松原教会の主任司祭であるエドガル・ガクタン師が、仙台教区司教に任命された件を記しました。12月8日の無原罪の聖母の祭日に、淳心会(無原罪の聖母の御心の会)会員の司教任命が発表されたことは、意味のある事でした。特別な理由がない限りは、司教叙階式は任命から3か月、着座の場合は任命から2か月で行われますので、来年の3月ころには、仙台で司教叙階式が行われるものと思います。これは仙台教区の正式な発表を待ちたいと思います。

ところでキリスト教系のニュースなので、外国人司教は3人目と報道されているようですが、実際にはさいたま教区の山野内司教様は、確か国籍がアルゼンチンですから、4人目となるかと思います。もちろん、一昔前は、太平洋戦争直前まで、すべて外国籍の司教様であったわけですし、外国籍の司教が存在することは、いわゆる日本もそうであるところの宣教地では珍しいことではありません。修道会出身の司教も、私を含めてですが、増えました。と同時に、日本の教会を各地で支える存在となっているフィリピン出身の信徒の皆さんのことを思うと、フィリピン出身の司教が初めて日本で誕生したことには、意味があると感じています。ガクタン被選司教様の、これからの活躍に期待しています。

以下、本日午後6時配信の週刊大司教第56回目のメッセージ原稿です。

待降節第三主日C(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第56回
2021年12月12日

パウロはフィリピの教会への手紙で、主はすぐ近くにおられるのだから、「主において常に喜びなさい」と諭します。

ゼファニヤの預言も、「イスラエルの王なる主はお前の中におられる」と告げて、主が共にいてくださることの喜びを告げます。

ルカ福音は、救い主を待ち望む民が、力強く真理をあかしする荒れ野の声である洗礼者ヨハネに、期待を寄せる姿が記されています。それに対してヨハネは、自らの先駆者としての立場を明らかにし、さらに偉大な方が来られるという希望を告げます。

待降節第三主日は、神が共にいてくださることによって生み出される喜びが大きなテーマとなっています。主はどこにおられるのでしょうか。

今年11月14日の貧しい人のための世界祈願日にあたって出されたメッセージで、教皇様は次のように指摘されています。

「イエスが明かしてくださる神のみ顔は、実は、貧しい人に向けておられる御父のみ顔、貧しい人に寄り添う御父のみ顔なのです。イエスのすべてのわざが、貧困は運命によるものではなく、わたしたちの中にイエスがおられることの具体的なしるしだということを示しています」

その上で教皇様は、わたしたちは「(貧しい人の)うちにキリストを見いだし、その代弁者となり、さらに彼らの友となって、耳を傾け理解し、彼らを通して神が伝えようと望んでおられる不思議な知恵を受け取るよう招かれているのです」と指摘されています。

教会は今、シノドスの歩みを共有しています。「シノドス的教会は、福音を告げながら、「ともに旅をする』」神の民です(準備文書)。ひとつの神の民として、ともに歩んでいることを自覚しようとするとき、私たちは、その神の民とは一体誰なのかをあらためて認識するように招かれています。

シノドスの準備文書には、振り返りの手引きとしての質問がいくつか掲載されていますが、その最初には、こう記されています。

「教会でも社会でも、わたしたちは同じ道を並んで進んでいます。皆さんの地方教会では、「ともに旅をする」のは誰ですか。「わたしたちの教会」というとき、誰がその一部でしょう。誰がわたしたちにともに旅をするように頼んでいるのでしょうか。教会の枠の外にいる人たちも含めて、道行く友は誰ですか。明示的に、あるいは事実上、どういう人、グループが周縁部に取り残されているのでしょう」(準備文書)

そもそも私たちは、一緒になって歩みをともにしていると感じる教会でしょうか。教会は、単なる秘跡の分配所ではありません。ともに秘跡にあずかる共同体です。

「私たちの教会」には主が現存しておられるでしょうか。わたしたちは何によって共同体へと招かれているのでしょうか。近くにおられる主を探し求めましょう。助けを求め、支えを求め、忘れ去られた人のうちに現存される主を探し求めましょう。主の招きに応えて、主の現存を感じるとき、わたしたちは信仰の喜びに満たされます。互いに支え合い連帯するとき、わたしたちはそこに現存される主によって生かされ、命を生きる希望をいただきます。

教会は生きています。神の民は常に旅を続け、救いの完成の時を目指して歩み続ける民です。ともに旅する共同体の中で、ともに歩む主に導かれて、霊的に成長してまいりましょう。

 

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2021年12月 8日 (水)

仙台教区に新しい司教様が任命されました

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仙台教区に、新しい司教が誕生しました。

教皇様は、平賀司教様が2020年3月18日引退されてから空位となっていた仙台教区の後任の司教として、淳心会のエドガル・ガクタン神父様を任命されました。

ガクタン被選司教様、仙台教区の皆様、おめでとうございます。

淳心会会員のEdgar GACUTAN被選司教は、1964年9月23日にフィリピンで誕生。司祭叙階は1994年です。現在、東京大司教区の松原教会の主任司祭を務めておられます。

司教叙階式の日程などは、追って、仙台教区から発表されます。

おめでとうございます。

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2021年12月 7日 (火)

待降節第二主日ミサ:東京カテドラル聖マリア大聖堂

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待降節第二主日は、前記事にもあるように、宣教地召命促進の日ですので、カテドラルでミサを捧げました。関口教会10時のミサです。

関口教会の主日10時ミサは、常に侍者の少年少女が大勢おられ、しかもよく練習を積んでいるので、心配することなくミサを捧げることができます。司教がミサをすると、結構侍者はいろいろとしなくてはならないので大変だと思います。ミトラを着けたり外したり、バクルス(杖)を持ったり持たなかったり、そのほか諸々。荘厳なミサの時には香も使うので、またまた役割が増えます。

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その昔まだ叙階したばかりだった頃、わたしが担当していた教会では、3年に一度、司教様が訪問されて、堅信式を行っていました。アフリカのガーナでの話です。

わたしが一人で担当する巡回教会が23ほどあったので、地区を四つに分け、司教様には四回の堅信式ミサをお願いしていました。もちろん一日に四回ではなくて、司教様は一週間小教区に泊まっていただいて、毎日村を巡回し、一度のミサで堅信を授けていただくのは、200人ほどです。そう、3年に一度の堅信式は、毎回ほぼ800人ほどが対象でした。もちろんすべて野外ミサです。聖堂には入りきれません。正面のステージのところに幕を張って、その前に祭壇をしつらえてあるのですが、しばしばその幕の裏手で、教会の長老たちが休憩をしていました。時に風でその幕が落ち、司教様が堅信を授けている裏手で、くつろぐ長老たちが露わになって大慌てなんて事もよくありました。

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その頃のわたしは、まだ叙階したばかりで司教様のミサを一緒にしたこともなかったので、言葉一つ発せずミトラをかぶったままこちらへ首をかしげる司教様の、無言の圧で、儀式を体で覚えたものです。

そんなわけで、1990年代には本当に司祭が少なかったガーナでしたが、今は地元からの召命も増加し、わたしが働いていたコフォリデュア教区は、首都のアクラ教区から独立した1992年頃、20名ほどしかいなかった教区司祭が、現在は70名を超えています。

まだまだ司祭は必要です。司祭の召命のために、また現在神学院で養成を受けている神学生のためににお祈りください。東京教区には現在、4名の神学生が、東京カトリック神学院で学んでいます。彼らの今年のザビエル祭のビデオをご覧ください。一人ひとりのインタビューもあります。このリンクです。1時間番組です。

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以下、待降節第二主日の東京カテドラル聖マリア大聖堂でのミサ説教の原稿です。

待降節第二主日C(配信ミサ)
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2021年12月5日

混沌とした暗闇を手探りで歩んでいるこの時代にこそ、「荒れ野で叫ぶ声」が必要です。

感染症との闘いに明け暮れたと言っても過言ではないこの2年間、私たちははっきりとした道を見出すことができず、心に不安を抱えながら、旅路を歩んでいます。この旅路は疑心暗鬼の暗闇の旅路であり、時に自分のいのちを守ることに専念する心は利己的になり、社会全体から寛容さを奪ってしまいました。教会共同体もその影響を大きく受け、教会内でもさまざまな意見が錯綜する中で、本当に進むべき道は一体どこにあるのか模索を続けざるを得ない状況です。そのため教会共同体からも、心の余裕が奪い取られていると感じます。

2年前、2019年の11月、教皇様はこの地におられました。東京ドームのミサ説教で、教皇様はこう呼びかけられました。

「いのちの福音を告げるということは、共同体としてわたしたちを駆り立て、わたしたちに強く求めます。それは、傷のいやしと、和解とゆるしの道を、つねに差し出す準備のある、野戦病院となることです。キリスト者にとって、個々の人や状況を判断する唯一有効な基準は、神がご自分のすべての子どもたちに示しておられる、いつくしみという基準です。」

わたしたちは、創造主からの賜物であるいのちを守るために、また隣人愛の選択として、充分な感染対策に努めてきました。同時に、その対策によって教会のさまざまな活動は制限され、特に神の愛を具体化する奉仕の活動には、実施に困難が伴っています。この困難な状況の中で、どのようにして教皇様の呼びかけに応えるのでしょう。とりわけ、病気に起因するいのちの危機だけではなく、それによってもたらされた経済状況や雇用状況の悪化と、孤独や孤立によっていのちの危機が増大している中で、どうしたら神のいつくしみを届けることができるのか。いまわたしたち教会共同体のあり方が問われていると感じます。

洗礼者ヨハネの出現を伝えるルカ福音は、イザヤ書を引用しながら、ヨハネの先駆者としての役割を明確にします。福音は、洗礼者ヨハネこそが、イザヤ書に記された「荒れ野で叫ぶもの」であると記します。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と叫ぶその声は、混沌とした世界に対して、救い主である主の到来にむけて充分な準備をせよという呼びかけの声であり、その準備を整えることによって始めて、「人は皆、神の救いを仰ぎ見る」のだと記します。

救いの完成を求めて主の再臨を待ち望むわたしたちは、現代社会にあって「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と呼びかける声となるよう求められています。

混沌とした事象が複雑に絡み合う現代社会の現実にあって、主を迎える準備を整えることは簡単ではありません。何か一つのことを推し進めれば、それで全てが解決するような単純な世界ではありません。神の秩序が支配する社会を実現するためには、混沌とした社会のさまざまな側面において、地道に丁寧に、神が望まれる道へと立ち戻らせる努力を積み重ねなくてはなりません。

ですから、「主の道を整えよ」と叫ぼうとするわたしたちは、「本当に重要なことを見分けられる」目を持たなくてはなりません。パウロはフィリピの教会への手紙で、そのためにはわたしたちが、「知る力と見抜く力とを身につけて」、愛を豊かに深めることが必要だと指摘します。

わたしたちが、現代社会にあって、もし洗礼者ヨハネのような先駆者としての役割を果たすのであれば、「神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った」ように、わたしたちも神の言葉によって心が満たされるように、聖霊の導きを祈り続けなくてはなりません。教会共同体は、そしてわたしたち神の民は、現代社会にあって「荒れ野で叫ぶものの声」であり続けたいと思います。

「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と叫ぶ役割は、教会共同体の務めであり、すなわちはキリストに従うすべての人に求められているとは言え、同時にその努めのために生涯を捧げる人の存在も不可欠です。

教会は12月の最初の主日を、宣教地召命促進の日と定めています。

この日わたしたちは、「世界中の宣教地における召命促進のために祈り、犠牲をささげます」。またこの日の献金は「教皇庁に集められ、全世界の宣教地の司祭養成のための援助金としておくられ」ることになっています。

もちろん日本は今でもキリスト者が絶対的な少数派である事実から、宣教地であることは間違いありません。日本の教会は聖座の福音宣教省という役所の管轄下にあります。アジアでは、フィリピン以外の教会は全て、福音宣教省の管轄下にあり、すなわちアジア全体はほぼ全てが宣教地であります。

その意味でも、日本における福音宣教を推進するために、さらに多くの働き手の存在は不可欠です。まずもって日本の教会の司祭修道者召命のために、どうかお祈りください。

同時に、司祭一人あたりの信徒数から言えば、アジアやアフリカの教会と比較すると、日本は実は司祭数が多い教会でもあります。もう30年も前のことになりますが、わたしはアフリカのガーナの小教区で働いていました。その頃、まだ叙階したばかりのわたしひとりで、20を超える教会共同体を担当し、40名を超えるボランティアのカテキスタとともに、司牧にあたっていました。

アジアやアフリカの教会は、急速に成長しています。そこには司祭修道者の存在が不可欠です。幸いなことに急速に成長する教会には、豊かに召命の恵みが与えられていると聞いています。司祭養成が充分にそして適切に行われるように、支援と祈りを続けましょう。もちろん東京教区は長年にわたってミャンマーの司祭養成に援助を続けてきました。これも大切なことですから、責任を持って続けていきたいと思います。

教会は、司祭を始め福音宣教に生涯を捧げる人を必要としています。荒れ野にあって、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と声を上げる存在を必要としています。洗礼者ヨハネのように、「本当に重要なことを見分けられる」目を持ち、勇気を持って困難に立ち向かう存在を必要としています。

わたしたちは今、シノドスの歩みをともにしています。シノドスへの歩みに関する教皇様の発言には、わたしたちが大切にしなければならない態度、あり方が繰り返し登場することに気がつきます。教区の担当者である小西師のまとめでは、「識別する」、「聴く」、「参加する」という三つの行動が重要であると指摘されています。

私たちは司祭が一人でも与えられるようにと祈り続けると同時に、私たちの共同体のあり方をも見直すことが必要です。そして互いの声に耳を傾け、積極的に自分ができる範囲で、具体的な愛の活動に参加していきましょう。

荒れ野に叫ぶ声として教会共同体が充分に育成され、ともに力強く前進するときに、そこには必ず召命の恵みが豊かに与えられます。共同体を豊かに育てることと、召命の促進は表裏一体です。わたしたち一人ひとりが、勇気を持って荒れ野に叫ぶ声となることができるように、聖霊の導きを願いましょう。

 

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2021年12月 4日 (土)

週刊大司教第五十五回:待降節第二主日

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待降節第二主日は、宣教地召命促進の日とされています。

この日について、中央協議会のホームページには、こう記されています。

「キリストを知らない人に救いの福音を伝えることは、キリスト者一人ひとりに課せられた使命であり、神からの呼びかけにこたえること(召命)です。それゆえ、宣教地である日本において、すべての信徒がその使命を果たせるよう、また宣教に従事する司祭・修道者がよりいっそう増えるよう祈ることは、とても大切なことです。この日、わたしたちは、世界中の宣教地における召命促進のために祈り、犠牲をささげます。当日の献金はローマ教皇庁に集められ、全世界の宣教地の司祭養成のための援助金としておくられます」

世界の一体どこが宣教地であるのかは、難しい問題です。客観的に見れば、すべての人が洗礼を受けているわけではないので、世界中すべての地域が宣教地であることは間違いありません。しかしここで宣教地と言われているのは、主に福音宣教省が管轄している地域と考えられ、この日の特別献金を集約し配分する担当も、福音宣教省が実務を担当する教皇庁宣教事業・使徒聖ペトロ会とされています。なお日本におけるこの活動の担当者は、東京教区の門間直輝神父様です。中央協議会のホームページに、門間神父様からの呼びかけ文が掲載されています。そして、日本はもちろん福音宣教省の管轄下にあり、宣教地です。

使徒聖ペトロ会は、宣教地における司祭養成のための支援を目的としていますが、日本の教会はこの会自体の創設に深く関わっています。19世紀後半に、日本での再宣教を進めるにあたり邦人司祭養成が急務であると考えたパリ外国宣教会のアルフォンス・クザン長崎司教が、フランスのジャンヌ・ビガー 女史らに支援を求める手紙を書いたのが1889年6月1日で、これが使徒聖ペトロ会の始まりとされています。

日本での召命のために、また世界中での召命のために、お祈りとご支援をお願いいたします。

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教皇大使レオ・ボッカルディ大司教は、12月2日夕方に東京カトリック神学院を訪問され、同神学院の保護の聖人である聖フランシスコ・ザビエルを記念して、神学生たちとミサを捧げました。ちょうど神学院の運営にあたる司教委員会が開催されたので、同委員会メンバーの大塚司教、梅村司教、白浜司教、そしてわたしも一緒にミサを捧げました。(写真は、神学院聖堂に向かって建つザビエル像)

大使は神学院へのお土産に、その昔、聖フランシスコ・ザビエルが日本に派遣されたときの教皇文書の写しを持参され、そこに教皇の代理としてと言う言葉があることから、ミサ後にその写しを見せてくださり、第一号の日本への大使はザビエルだったと、力説されておられました。大使はその後、神学生の食事に加わり、交流のひとときを過ごしてお帰りになりました。コロナ禍で、着任以来、まだ日本の教会の訪問ができず、信徒の皆さんとの交流も持てないことを大変残念がっておられます。イタリア出身のボッカルディ大使は、ご自分で作曲したり歌ったりが大好きな方で、教会の皆さんとの交わりを大変楽しみにしておられますので、状況が改善すれば、大使の小教区訪問なども計画できるかと、期待しています。

以下、本日午後6時配信の、週刊大司教第五十五回のメッセージ原稿です。

待降節第二主日C(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第55回
2021年12月5日

洗礼者ヨハネの出現を伝えるルカ福音は、イザヤ書を引用しながら、ヨハネの先駆者としての役割を明確にします。福音は、洗礼者ヨハネは「荒れ野で叫ぶもの」と記しますが、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と叫ぶその声が、救い主である主の到来を準備させるためであり、それによって、「人は皆、神の救いを仰ぎ見る」と記します。

救いの完成を求めて主の再臨を待ち望む私たちは、現代社会にあって「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と呼びかける声となるよう求められています。

混沌とした事象が複雑に絡み合う現代社会の現実にあって、主を迎える準備を整えよと叫ぼうとする私たちには、「本当に重要なことを見分けられる」目が必要です。パウロはフィリピの教会への手紙で、そのためにはわたしたちが、「知る力と見抜く力とを身につけて」愛を豊かに深めることが必要だと指摘します。先駆者としての役割を果たすにあたって「神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った」ように、私たちも神の言葉によって心が満たされるように聖霊の導きを祈り続けなくてはなりません。

現代社会にあって「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と叫ぶ役割は、キリストに従うすべての人に求められているとは言え、同時にそのために生涯を捧げる人の存在も不可欠です。

教会は12月の最初の主日を、宣教地召命促進の日と定めています。

この日わたしたちは、「世界中の宣教地における召命促進のために祈り、犠牲をささげます」。またこの日の献金は「教皇庁に集められ、全世界の宣教地の司祭養成のための援助金としておくられ」ることになっています。もちろん日本は今でもキリスト者が絶対的な少数派である事実から宣教地であることは間違いなく、その意味でも、日本における福音宣教を推進するための働き手の存在は不可欠です。同時に、司祭一人あたりの信徒数から言えば、アジアやアフリカの教会と比較しても、実際には司祭数は多い教会でもあります。もう30年も前のことになりますが、わたし自身、アフリカのガーナの小教区で働いていた頃、一人で20を超える教会共同体を担当していました。教会は、司祭を始め福音宣教に生涯を捧げる人を必要としています。荒れ野にあって、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と声を上げる存在が必要です。洗礼者ヨハネのように、「本当に重要なことを見分けられる」目を持ち、勇気を持って困難に立ち向かう存在が必要です。

この一年を聖家族の長である聖ヨセフの年と定められた教皇様は、今年4月の世界召命祈願日のメッセージで、聖ヨセフの生涯を貫く特徴的な生きる姿勢に触れ、その中で、忠実であることに関して、こう記されています。

「聖ヨセフの生涯とキリスト者の召命を貫き、日常生活を漠とはしないもの。忠実です。ヨセフは「正しい人」で、日々の労働を黙々と続け、神とその計画に粘り強く従うかたです。とくに困難なときには、「あらゆることを考え」ています。熟慮し、熟考し、焦りにとらわれず、性急に結論を出す誘惑に負けず、衝動に流されず、近視眼的な生き方をしません。何事にも根気強く励みます。最高の選びに忠実であり続けることによってのみ、人生は築かれると知っているのです」

教皇様は聖ヨセフに倣って生きるようにと、この一年を聖ヨセフの年と定められ、間もなく12月8日に特別年は終了します。宣教者の召命を考え祈るこの日、洗礼者聖ヨハネと聖ヨセフという二人の生き方を黙想し、それに倣って、勇気を持ってまた忠実に、福音を告げましょう。

 

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2021年12月 1日 (水)

成田教会献堂25周年、佐原教会創設70周年

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11月28日の日曜日、千葉県にある成田教会では献堂25周年、そして佐原教会では創設70周年を記念し、それぞれ感謝のミサを捧げました。

どちらも感染症対策のため、一年遅れのお祝いとなりました。

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まず28日の朝8時から、成田教会の主に外国語グループを中心にミサを捧げ、その中で22名の方が堅信の秘跡を受けられました。その後11時から、再び成田教会でミサを捧げ、こちらでは献堂25周年を記念して改修した主扉の祝福、聖櫃と洗礼台の祝福もおこなれました。

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その後車で1時間ほど掛けて移動し、午後3時から、香取市佐原にある教会で、70周年の感謝ミサを捧げ、こちらでは二人の方が堅信を受けられました。

成田教会と佐原教会の皆さん、そして堅信を受けられた皆さん、おめでとうございます。また両方の教会の基礎を作り上げてくださったコロンバン会の宣教師の方々に、心から感謝いたします。

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教区のホームページによれば、まず、成田教会の歴史は次の通りです。

「最初教会は、成田ニュータウンの中台に、居を構えましたが、一般の住宅を聖堂として使っていましたので、手狭になることを見越して、新聖堂建設の準備は、かなり早い段階から始まっていました。途中、信徒の数が増えたために、1988年には、聖堂の拡張工事が行われました。創立から13年の間、 宣教会コロンバン会のアイルランド人司祭を中心に、信徒がカを合わせて教会の基礎を築いて来ました。1989年に、教区司祭を迎えた教会は、5年後に「公津の杜」に土地を購入することが出来ました。1995年の5月から新聖堂の建築が始まり、同年11月には完成・ 引越をし、12月には、当時の東京教区長・白柳誠一枢機卿と森一弘補佐司教の共同司式による、盛大な献堂式が行われました。」

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そして、佐原教会については、こう記されています。

「ここにカトリック教会が出来たのは、1951年、聖コロンバン宣教会のフォード神父様が、荒れた澱粉工場の跡地に聖堂を建設した事から始まっています。そして1955年、2代目のヘイデン神父様が、教会向かい側の隣地に白百合幼稚園を設立し、やがて、その運営をお告げのフランシスコ姉妹会にお任せになりました。その後、聖コロンバン宣教会が佐原を引き揚げてから後、2003年からは、学校法人愛心学園に移管され、現在に至っています。」

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以下、午後3時から行われた佐原教会のミサでの説教の録音から起こしたものを加筆訂正した原稿です。

佐原教会 創設七十周年ミサ

教会創設70周年、おめでとうございます。

今日の福音には、世の終わりの出来事を述べるイエスの言葉が記されていました。待降節の前半の2週間は、世の終わり、主の再臨を意識しながら考えるときで、後半の2週間は幼子の誕生、クリスマスに向けての準備をすることに集中します。
どちらの時期にしても、待降節という言葉に記されている、「待つ」ということ、降りてくるのを待つというのが待降ですから、「待つ」ということを考えるときであります。

わたしたちが何かが起こるのを待つというときには、当然いろんな待ち方がそこにはあります。
昔、私はアフリカのガーナというところで主任司祭として8年間くらい、山奥の村の教会で働いていました。その村には、教会の自動車くらいしかなくて、自家用車なんて存在しない。公共の交通機関も、乗り合いのバスというよりトラックの荷台を改造したような車が、村と村や町を結んで走っているんですよね。街へ出かけて行く人たちはみな、そのバスが来るのを待って乗って出かけていくんです。
私の働いていた村からバスが通過する表の通りまで、1時間くらい歩かなくちゃいけないのですけれども、みんなが朝、「今から町へ行ってきまーす」と出かけていくんです。

そのうちの何人かは、実際、町へ行くんですけれども、だったい何人かは行けずに帰ってくるんですよ。朝出かけていってから何時間かすると、トボトボとしょげて戻ってくる。で、「どうしたの?」と聞くと、「いやあ、ちょっと、バスに乗れずに行けませんでした」と。
最初の頃はなぜかなと思っていたのですが、山の中のその街道沿いのところに、バスを止めるスポットがある。止めるスポットはあるけれど、決まった停留所も、決まった時刻表もないんです。時刻表がないので、道端でバスが走ってくるのを常に待ち構えていなくてはいけないんですよ。

で、そうするとバスを待って交差点の辺りに何人かの人がたむろする。ということは、人が集まる。何時間か人が集まり、たむろするところには、必ず自然にできるものがあるんですね。それは飲み屋です。飲み屋ができるんです。

バスが来るのを待っているけれど時刻表がないので、いつ来るかわからない。定期的に走ってくるわけじゃないので。朝の時間帯に町へ行くのがワーッと来て、午後の時間帯に帰ってくるような形で、何台かが走っているわけです。そうするとその飲み屋です。当然、飲み屋に強い人と、飲み屋に弱い人が、この世には存在しますよね。どこでも存在しますよね。飲み屋に弱い、つまり、酒に弱いという意味じゃなくて、誘惑に弱い人は、喜んで飲み屋に行って酒を飲んで、そのまま気が付いたらバスは行ってしまっていたということになる。(笑)

でも誘惑に強い人は、飲み屋に飲まれることなく、道端にしっかり陣取って、耳を澄ましている。バスが必ず停まってくれるわけじゃないんです。停留所があるわけではないので。そこで、乗りたいってしっかりと意思表示をして、止めなくちゃいけない。だから、よく耳を澄まして、トラックが来たら道端で手を振ってサッと止めて、サッサと行っちゃうわけです。誘惑に弱い人は、そこで楽しくお酒を飲んで、「あれ、いつの間にかお昼になってしまった」と。で結局、町へ行くこともできずに落ち込んで帰ってくるんですね。
待つということには、受け身で待つ待ち方と、積極的に待つ待ち方と、両方あるんだという話です。

この待降節に私たちが求められているのは、ただただダラーっと何もしないで、休んで待っているという待ち方ではないのだと思います。積極的に待つ、まさしく「いつも目を覚まして、祈りなさい」と主イエスご自身が仰っているように、常に耳を澄ませて、常に目をしっかりと見開いて、いつ主はやってくるんだろうかということを、積極的に探しながら待つ姿勢というが、求められているんだと思います。それが私たち信仰者の待つ姿勢であります。

教会はこの2年間くらい、日本だけではなくて世界中どこでも、新型コロナ感染症のために集まることが出来ずに、非常に厳しい状況の中で教会活動を行ってきました。

教会は、狭いところに沢山の人が集まって一緒に歌を歌ったりするので、三密のオンパレードですから、この感染症には非常に弱いわけですよね。なるべく距離をとってみたり、なるべく換気をしたり、いろんな対策を取ったとしても、互いのいのちを守るためには、多くのところで公開のミサを中止するという決断もせざるを得ませんでした。

今までは当たり前のように、日曜日になれば教会に出かけて行っていた。教会も、日曜日なんだから教会に来て下さいと呼びかけていたのが、この2年間は、来ないで下さいと、なるべくみんな家にいてお祈りして下さいと、お願いをするようになってしまった。

私自身も、来ないで下さい、主日の義務は免除ですとお伝えしました。そうしたら、余談ですが、主日にミサに与ることが義務だということを知らなかった人が、いたんですよ。

主日にミサに与るのは義務なので、感染症の状況での特例としてそれを免除しているのですが、その来ないでというときに、それではどう対応するのかということです。つまり、「あーよかった、これで日曜日に教会へ行かなくて済んだ」と思ってリラックスしてしまうのか、そうじゃなくて、行けないからこそどうしようか。聖書を読むのか、聖書と典礼を読むのか、インターネットでミサの配信を観てみるのかなど、何もできないときにどう対応するのかという、積極的な対応が大切ですよね。

ですから、実はこの2年間の厳しい状況は、私たちによい信仰の訓練の時を与えてくださっているとも言えるかと思います。
今までは、教会に行って、神様からお恵みを頂くということばかり考えていたんですけれど、自分からそれを求めてゆく、探求する。自分が工夫して神様の恵みをいただくために行動する。自分から積極的に一歩を踏み出すということを、私たちはこの2年間で訓練されているように思います。

せっかく、自分から積極的に神様からの恵みを頂こうとするようになった今だからこそ、これをもう少し育んで、それぞれの人が一所懸命信仰生活を生きるようになったら、このコロナの感染症の制約がなくなったあとでは、素晴らしい教会共同体が誕生するのではないでしょうか。今までなかったような一人一人が行動する教会共同体が、そこにできていると期待しています。

まだもう少しの間、私たちは面倒なことを心配しながら、慎重に教会活動を進めてゆかなければならないと思いますが、その中にあって、それぞれがいったいどうやって神様の再臨を、イエスの再臨を待つことができるのかということを考えながら、信仰生活を歩んで参りたいと思います。

今日この佐原教会は、創立から70年という一つの節目を迎えることになりました。2千年の教会の歴史は、常に新しくされながら前進を続ける事の繰り返しであります。古くなって消えていってしまうのではなくて、常に新しく変えられていくのが教会の歴史なのですから、この70年の歴史を土台にして、次の100周年、あと30年ですよね、それを目指して新しく変えられていく。どうしたら今の時代の中で信仰を生きる教会になって行くのかということをあらためて考え、新たにされる。新しく生まれ変わる機会にして頂ければと思います。

心から皆さまにお祝いを申し上げるとともに、次の100周年に向けて新しく変えられていく勇気をもって、神様に豊かな聖霊の照らしを一緒にお祈り頂ければと思います。

20211128narita05

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