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2021年12月 7日 (火)

待降節第二主日ミサ:東京カテドラル聖マリア大聖堂

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待降節第二主日は、前記事にもあるように、宣教地召命促進の日ですので、カテドラルでミサを捧げました。関口教会10時のミサです。

関口教会の主日10時ミサは、常に侍者の少年少女が大勢おられ、しかもよく練習を積んでいるので、心配することなくミサを捧げることができます。司教がミサをすると、結構侍者はいろいろとしなくてはならないので大変だと思います。ミトラを着けたり外したり、バクルス(杖)を持ったり持たなかったり、そのほか諸々。荘厳なミサの時には香も使うので、またまた役割が増えます。

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その昔まだ叙階したばかりだった頃、わたしが担当していた教会では、3年に一度、司教様が訪問されて、堅信式を行っていました。アフリカのガーナでの話です。

わたしが一人で担当する巡回教会が23ほどあったので、地区を四つに分け、司教様には四回の堅信式ミサをお願いしていました。もちろん一日に四回ではなくて、司教様は一週間小教区に泊まっていただいて、毎日村を巡回し、一度のミサで堅信を授けていただくのは、200人ほどです。そう、3年に一度の堅信式は、毎回ほぼ800人ほどが対象でした。もちろんすべて野外ミサです。聖堂には入りきれません。正面のステージのところに幕を張って、その前に祭壇をしつらえてあるのですが、しばしばその幕の裏手で、教会の長老たちが休憩をしていました。時に風でその幕が落ち、司教様が堅信を授けている裏手で、くつろぐ長老たちが露わになって大慌てなんて事もよくありました。

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その頃のわたしは、まだ叙階したばかりで司教様のミサを一緒にしたこともなかったので、言葉一つ発せずミトラをかぶったままこちらへ首をかしげる司教様の、無言の圧で、儀式を体で覚えたものです。

そんなわけで、1990年代には本当に司祭が少なかったガーナでしたが、今は地元からの召命も増加し、わたしが働いていたコフォリデュア教区は、首都のアクラ教区から独立した1992年頃、20名ほどしかいなかった教区司祭が、現在は70名を超えています。

まだまだ司祭は必要です。司祭の召命のために、また現在神学院で養成を受けている神学生のためににお祈りください。東京教区には現在、4名の神学生が、東京カトリック神学院で学んでいます。彼らの今年のザビエル祭のビデオをご覧ください。一人ひとりのインタビューもあります。このリンクです。1時間番組です。

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以下、待降節第二主日の東京カテドラル聖マリア大聖堂でのミサ説教の原稿です。

待降節第二主日C(配信ミサ)
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2021年12月5日

混沌とした暗闇を手探りで歩んでいるこの時代にこそ、「荒れ野で叫ぶ声」が必要です。

感染症との闘いに明け暮れたと言っても過言ではないこの2年間、私たちははっきりとした道を見出すことができず、心に不安を抱えながら、旅路を歩んでいます。この旅路は疑心暗鬼の暗闇の旅路であり、時に自分のいのちを守ることに専念する心は利己的になり、社会全体から寛容さを奪ってしまいました。教会共同体もその影響を大きく受け、教会内でもさまざまな意見が錯綜する中で、本当に進むべき道は一体どこにあるのか模索を続けざるを得ない状況です。そのため教会共同体からも、心の余裕が奪い取られていると感じます。

2年前、2019年の11月、教皇様はこの地におられました。東京ドームのミサ説教で、教皇様はこう呼びかけられました。

「いのちの福音を告げるということは、共同体としてわたしたちを駆り立て、わたしたちに強く求めます。それは、傷のいやしと、和解とゆるしの道を、つねに差し出す準備のある、野戦病院となることです。キリスト者にとって、個々の人や状況を判断する唯一有効な基準は、神がご自分のすべての子どもたちに示しておられる、いつくしみという基準です。」

わたしたちは、創造主からの賜物であるいのちを守るために、また隣人愛の選択として、充分な感染対策に努めてきました。同時に、その対策によって教会のさまざまな活動は制限され、特に神の愛を具体化する奉仕の活動には、実施に困難が伴っています。この困難な状況の中で、どのようにして教皇様の呼びかけに応えるのでしょう。とりわけ、病気に起因するいのちの危機だけではなく、それによってもたらされた経済状況や雇用状況の悪化と、孤独や孤立によっていのちの危機が増大している中で、どうしたら神のいつくしみを届けることができるのか。いまわたしたち教会共同体のあり方が問われていると感じます。

洗礼者ヨハネの出現を伝えるルカ福音は、イザヤ書を引用しながら、ヨハネの先駆者としての役割を明確にします。福音は、洗礼者ヨハネこそが、イザヤ書に記された「荒れ野で叫ぶもの」であると記します。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と叫ぶその声は、混沌とした世界に対して、救い主である主の到来にむけて充分な準備をせよという呼びかけの声であり、その準備を整えることによって始めて、「人は皆、神の救いを仰ぎ見る」のだと記します。

救いの完成を求めて主の再臨を待ち望むわたしたちは、現代社会にあって「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と呼びかける声となるよう求められています。

混沌とした事象が複雑に絡み合う現代社会の現実にあって、主を迎える準備を整えることは簡単ではありません。何か一つのことを推し進めれば、それで全てが解決するような単純な世界ではありません。神の秩序が支配する社会を実現するためには、混沌とした社会のさまざまな側面において、地道に丁寧に、神が望まれる道へと立ち戻らせる努力を積み重ねなくてはなりません。

ですから、「主の道を整えよ」と叫ぼうとするわたしたちは、「本当に重要なことを見分けられる」目を持たなくてはなりません。パウロはフィリピの教会への手紙で、そのためにはわたしたちが、「知る力と見抜く力とを身につけて」、愛を豊かに深めることが必要だと指摘します。

わたしたちが、現代社会にあって、もし洗礼者ヨハネのような先駆者としての役割を果たすのであれば、「神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った」ように、わたしたちも神の言葉によって心が満たされるように、聖霊の導きを祈り続けなくてはなりません。教会共同体は、そしてわたしたち神の民は、現代社会にあって「荒れ野で叫ぶものの声」であり続けたいと思います。

「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と叫ぶ役割は、教会共同体の務めであり、すなわちはキリストに従うすべての人に求められているとは言え、同時にその努めのために生涯を捧げる人の存在も不可欠です。

教会は12月の最初の主日を、宣教地召命促進の日と定めています。

この日わたしたちは、「世界中の宣教地における召命促進のために祈り、犠牲をささげます」。またこの日の献金は「教皇庁に集められ、全世界の宣教地の司祭養成のための援助金としておくられ」ることになっています。

もちろん日本は今でもキリスト者が絶対的な少数派である事実から、宣教地であることは間違いありません。日本の教会は聖座の福音宣教省という役所の管轄下にあります。アジアでは、フィリピン以外の教会は全て、福音宣教省の管轄下にあり、すなわちアジア全体はほぼ全てが宣教地であります。

その意味でも、日本における福音宣教を推進するために、さらに多くの働き手の存在は不可欠です。まずもって日本の教会の司祭修道者召命のために、どうかお祈りください。

同時に、司祭一人あたりの信徒数から言えば、アジアやアフリカの教会と比較すると、日本は実は司祭数が多い教会でもあります。もう30年も前のことになりますが、わたしはアフリカのガーナの小教区で働いていました。その頃、まだ叙階したばかりのわたしひとりで、20を超える教会共同体を担当し、40名を超えるボランティアのカテキスタとともに、司牧にあたっていました。

アジアやアフリカの教会は、急速に成長しています。そこには司祭修道者の存在が不可欠です。幸いなことに急速に成長する教会には、豊かに召命の恵みが与えられていると聞いています。司祭養成が充分にそして適切に行われるように、支援と祈りを続けましょう。もちろん東京教区は長年にわたってミャンマーの司祭養成に援助を続けてきました。これも大切なことですから、責任を持って続けていきたいと思います。

教会は、司祭を始め福音宣教に生涯を捧げる人を必要としています。荒れ野にあって、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と声を上げる存在を必要としています。洗礼者ヨハネのように、「本当に重要なことを見分けられる」目を持ち、勇気を持って困難に立ち向かう存在を必要としています。

わたしたちは今、シノドスの歩みをともにしています。シノドスへの歩みに関する教皇様の発言には、わたしたちが大切にしなければならない態度、あり方が繰り返し登場することに気がつきます。教区の担当者である小西師のまとめでは、「識別する」、「聴く」、「参加する」という三つの行動が重要であると指摘されています。

私たちは司祭が一人でも与えられるようにと祈り続けると同時に、私たちの共同体のあり方をも見直すことが必要です。そして互いの声に耳を傾け、積極的に自分ができる範囲で、具体的な愛の活動に参加していきましょう。

荒れ野に叫ぶ声として教会共同体が充分に育成され、ともに力強く前進するときに、そこには必ず召命の恵みが豊かに与えられます。共同体を豊かに育てることと、召命の促進は表裏一体です。わたしたち一人ひとりが、勇気を持って荒れ野に叫ぶ声となることができるように、聖霊の導きを願いましょう。

 

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