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2021年12月 1日 (水)

成田教会献堂25周年、佐原教会創設70周年

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11月28日の日曜日、千葉県にある成田教会では献堂25周年、そして佐原教会では創設70周年を記念し、それぞれ感謝のミサを捧げました。

どちらも感染症対策のため、一年遅れのお祝いとなりました。

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まず28日の朝8時から、成田教会の主に外国語グループを中心にミサを捧げ、その中で22名の方が堅信の秘跡を受けられました。その後11時から、再び成田教会でミサを捧げ、こちらでは献堂25周年を記念して改修した主扉の祝福、聖櫃と洗礼台の祝福もおこなれました。

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その後車で1時間ほど掛けて移動し、午後3時から、香取市佐原にある教会で、70周年の感謝ミサを捧げ、こちらでは二人の方が堅信を受けられました。

成田教会と佐原教会の皆さん、そして堅信を受けられた皆さん、おめでとうございます。また両方の教会の基礎を作り上げてくださったコロンバン会の宣教師の方々に、心から感謝いたします。

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教区のホームページによれば、まず、成田教会の歴史は次の通りです。

「最初教会は、成田ニュータウンの中台に、居を構えましたが、一般の住宅を聖堂として使っていましたので、手狭になることを見越して、新聖堂建設の準備は、かなり早い段階から始まっていました。途中、信徒の数が増えたために、1988年には、聖堂の拡張工事が行われました。創立から13年の間、 宣教会コロンバン会のアイルランド人司祭を中心に、信徒がカを合わせて教会の基礎を築いて来ました。1989年に、教区司祭を迎えた教会は、5年後に「公津の杜」に土地を購入することが出来ました。1995年の5月から新聖堂の建築が始まり、同年11月には完成・ 引越をし、12月には、当時の東京教区長・白柳誠一枢機卿と森一弘補佐司教の共同司式による、盛大な献堂式が行われました。」

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そして、佐原教会については、こう記されています。

「ここにカトリック教会が出来たのは、1951年、聖コロンバン宣教会のフォード神父様が、荒れた澱粉工場の跡地に聖堂を建設した事から始まっています。そして1955年、2代目のヘイデン神父様が、教会向かい側の隣地に白百合幼稚園を設立し、やがて、その運営をお告げのフランシスコ姉妹会にお任せになりました。その後、聖コロンバン宣教会が佐原を引き揚げてから後、2003年からは、学校法人愛心学園に移管され、現在に至っています。」

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以下、午後3時から行われた佐原教会のミサでの説教の録音から起こしたものを加筆訂正した原稿です。

佐原教会 創設七十周年ミサ

教会創設70周年、おめでとうございます。

今日の福音には、世の終わりの出来事を述べるイエスの言葉が記されていました。待降節の前半の2週間は、世の終わり、主の再臨を意識しながら考えるときで、後半の2週間は幼子の誕生、クリスマスに向けての準備をすることに集中します。
どちらの時期にしても、待降節という言葉に記されている、「待つ」ということ、降りてくるのを待つというのが待降ですから、「待つ」ということを考えるときであります。

わたしたちが何かが起こるのを待つというときには、当然いろんな待ち方がそこにはあります。
昔、私はアフリカのガーナというところで主任司祭として8年間くらい、山奥の村の教会で働いていました。その村には、教会の自動車くらいしかなくて、自家用車なんて存在しない。公共の交通機関も、乗り合いのバスというよりトラックの荷台を改造したような車が、村と村や町を結んで走っているんですよね。街へ出かけて行く人たちはみな、そのバスが来るのを待って乗って出かけていくんです。
私の働いていた村からバスが通過する表の通りまで、1時間くらい歩かなくちゃいけないのですけれども、みんなが朝、「今から町へ行ってきまーす」と出かけていくんです。

そのうちの何人かは、実際、町へ行くんですけれども、だったい何人かは行けずに帰ってくるんですよ。朝出かけていってから何時間かすると、トボトボとしょげて戻ってくる。で、「どうしたの?」と聞くと、「いやあ、ちょっと、バスに乗れずに行けませんでした」と。
最初の頃はなぜかなと思っていたのですが、山の中のその街道沿いのところに、バスを止めるスポットがある。止めるスポットはあるけれど、決まった停留所も、決まった時刻表もないんです。時刻表がないので、道端でバスが走ってくるのを常に待ち構えていなくてはいけないんですよ。

で、そうするとバスを待って交差点の辺りに何人かの人がたむろする。ということは、人が集まる。何時間か人が集まり、たむろするところには、必ず自然にできるものがあるんですね。それは飲み屋です。飲み屋ができるんです。

バスが来るのを待っているけれど時刻表がないので、いつ来るかわからない。定期的に走ってくるわけじゃないので。朝の時間帯に町へ行くのがワーッと来て、午後の時間帯に帰ってくるような形で、何台かが走っているわけです。そうするとその飲み屋です。当然、飲み屋に強い人と、飲み屋に弱い人が、この世には存在しますよね。どこでも存在しますよね。飲み屋に弱い、つまり、酒に弱いという意味じゃなくて、誘惑に弱い人は、喜んで飲み屋に行って酒を飲んで、そのまま気が付いたらバスは行ってしまっていたということになる。(笑)

でも誘惑に強い人は、飲み屋に飲まれることなく、道端にしっかり陣取って、耳を澄ましている。バスが必ず停まってくれるわけじゃないんです。停留所があるわけではないので。そこで、乗りたいってしっかりと意思表示をして、止めなくちゃいけない。だから、よく耳を澄まして、トラックが来たら道端で手を振ってサッと止めて、サッサと行っちゃうわけです。誘惑に弱い人は、そこで楽しくお酒を飲んで、「あれ、いつの間にかお昼になってしまった」と。で結局、町へ行くこともできずに落ち込んで帰ってくるんですね。
待つということには、受け身で待つ待ち方と、積極的に待つ待ち方と、両方あるんだという話です。

この待降節に私たちが求められているのは、ただただダラーっと何もしないで、休んで待っているという待ち方ではないのだと思います。積極的に待つ、まさしく「いつも目を覚まして、祈りなさい」と主イエスご自身が仰っているように、常に耳を澄ませて、常に目をしっかりと見開いて、いつ主はやってくるんだろうかということを、積極的に探しながら待つ姿勢というが、求められているんだと思います。それが私たち信仰者の待つ姿勢であります。

教会はこの2年間くらい、日本だけではなくて世界中どこでも、新型コロナ感染症のために集まることが出来ずに、非常に厳しい状況の中で教会活動を行ってきました。

教会は、狭いところに沢山の人が集まって一緒に歌を歌ったりするので、三密のオンパレードですから、この感染症には非常に弱いわけですよね。なるべく距離をとってみたり、なるべく換気をしたり、いろんな対策を取ったとしても、互いのいのちを守るためには、多くのところで公開のミサを中止するという決断もせざるを得ませんでした。

今までは当たり前のように、日曜日になれば教会に出かけて行っていた。教会も、日曜日なんだから教会に来て下さいと呼びかけていたのが、この2年間は、来ないで下さいと、なるべくみんな家にいてお祈りして下さいと、お願いをするようになってしまった。

私自身も、来ないで下さい、主日の義務は免除ですとお伝えしました。そうしたら、余談ですが、主日にミサに与ることが義務だということを知らなかった人が、いたんですよ。

主日にミサに与るのは義務なので、感染症の状況での特例としてそれを免除しているのですが、その来ないでというときに、それではどう対応するのかということです。つまり、「あーよかった、これで日曜日に教会へ行かなくて済んだ」と思ってリラックスしてしまうのか、そうじゃなくて、行けないからこそどうしようか。聖書を読むのか、聖書と典礼を読むのか、インターネットでミサの配信を観てみるのかなど、何もできないときにどう対応するのかという、積極的な対応が大切ですよね。

ですから、実はこの2年間の厳しい状況は、私たちによい信仰の訓練の時を与えてくださっているとも言えるかと思います。
今までは、教会に行って、神様からお恵みを頂くということばかり考えていたんですけれど、自分からそれを求めてゆく、探求する。自分が工夫して神様の恵みをいただくために行動する。自分から積極的に一歩を踏み出すということを、私たちはこの2年間で訓練されているように思います。

せっかく、自分から積極的に神様からの恵みを頂こうとするようになった今だからこそ、これをもう少し育んで、それぞれの人が一所懸命信仰生活を生きるようになったら、このコロナの感染症の制約がなくなったあとでは、素晴らしい教会共同体が誕生するのではないでしょうか。今までなかったような一人一人が行動する教会共同体が、そこにできていると期待しています。

まだもう少しの間、私たちは面倒なことを心配しながら、慎重に教会活動を進めてゆかなければならないと思いますが、その中にあって、それぞれがいったいどうやって神様の再臨を、イエスの再臨を待つことができるのかということを考えながら、信仰生活を歩んで参りたいと思います。

今日この佐原教会は、創立から70年という一つの節目を迎えることになりました。2千年の教会の歴史は、常に新しくされながら前進を続ける事の繰り返しであります。古くなって消えていってしまうのではなくて、常に新しく変えられていくのが教会の歴史なのですから、この70年の歴史を土台にして、次の100周年、あと30年ですよね、それを目指して新しく変えられていく。どうしたら今の時代の中で信仰を生きる教会になって行くのかということをあらためて考え、新たにされる。新しく生まれ変わる機会にして頂ければと思います。

心から皆さまにお祝いを申し上げるとともに、次の100周年に向けて新しく変えられていく勇気をもって、神様に豊かな聖霊の照らしを一緒にお祈り頂ければと思います。

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