« 主の降誕、おめでとうございます。 | トップページ | 週刊大司教第五十八回:聖家族の主日 »

2021年12月25日 (土)

主の降誕、日中のミサ

Christmas21a

主の降誕のお喜びを申し上げます。

クリスマスの典礼は、前晩のミサに始まって、夜半(本来は深夜)、早朝、日中と、異なる典礼が用意されています。夜半のミサが、通常は一般の方も含めて参列者が一番多いため、すでに24日の夕方から、何回も繰り返して夜半ミサが行われる教会もあるため、前晩のミサは捧げられないこともありますし、早朝のミサは参加者も少ないこともあり、夜半のミサと日中のミサがもっとも知られているミサです。

今年は昨年に続いて、感染症対策のため、残念ながら一般の方の参加をお断りしている教会がほとんどかと思います。そのため24日のミサの回数も少なくなってはいますが、それでも東京カテドラル聖マリア大聖堂にある関口教会は、24日は夕方5時、7時、9時と、三回のミサが捧げられ、大勢の方が祈りをともにしました。

来年のクリスマスは、入場制限のないミサとなり、どなたにでも安心して参加していただけるお祝いと祈りの機会となることを、心から祈っています。

以下、本日25日午前10時から捧げられた、東京カテドラル聖マリア大聖堂での降誕祭・日中のミサの説教原稿です。

主の降誕 日中ミサ(配信ミサ)
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2021年12月25日午前10時

主の降誕、おめでとうございます。

「いかに美しいことか。山々を行き巡り、良い知らせを伝えるものの足は」と記すイザヤ預言者は、その「良い知らせ」が、「平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え、救いを告げ」るものであると明示しています。

インターネットが普及した現代社会で、わたしたちはあふれかえる言葉に取り囲まれて生きています。特にこの二年間、感染症対策のために直接出会う機会が減少し、教会などでもミサの配信に始まってさまざまな情報がインターネットを通じて発信されるようになり、これまでは実際に出かけていかなくてはならなかった会議などでもオンラインが普通になり、コミュニケーションには多種多様な手段が提供されています。

わたしたちは、あふれかえる言葉に取り囲まれて生きている時代だからこそ、その言葉の持つ力を振り返ってみなくてはなりません。なぜならば、誕生した幼子が、人となられた神の言であるからにほかなりません。

ヨハネ福音は、他の福音と異なり、その冒頭でイエス誕生物語を記していません。ヨハネ福音には、馬小屋も、羊飼いも、闇夜に光り輝く天使も登場しません。ただ、「初めに言があった」と始まる福音は、受肉し人となられた神の言にこそ、命があり、その命こそが暗闇に輝く光であることが示されています。暗闇に住むすべての人に命を与え、その命を生きる前向きな力を与える希望の光。それこそが、神の言の持つ力であります。私たちの神は、感情的な存在ではなく、はっきりと語られ、私たちの間に現存される言葉の神です。

毎日浪費されるように、さまざまな手段を通じて世界中にあふれかえるわたしたちの言葉には、心の叫びの言葉もあれば、意味のない薄っぺらな言葉もあります。真実を語る言葉もあれば、でたらめな言葉もあります。いのちを生かす言葉もあれば、いのちを奪う言葉もあります。希望を生み出す言葉もあれば、闇に引きずり込む悪意の言葉もあります。言葉は、ひとたび発信されてしまうと、他者に対してなんらかの影響を及ぼす力を、大なり小なり秘めています。

わたしたちが発する言葉は、わたしたち自身の存在そのものを土台として生み出されてきました。わたしたちが発する言葉は、わたしたちの存在そのものの反映です。わたしたちの発する言葉は、わたしたちの心を写す鏡です。

第二バチカン公会議の啓示憲章は、「教会は、主の御からだそのものと同じように聖書をつねにあがめ敬ってき〔まし〕た。なぜなら、教会は何よりもまず聖なる典礼において、たえずキリストのからだと同時に神のことばの食卓からいのちのパンを受け取り、信者たちに差し出してきたからで〔す〕」(『啓示憲章』 21)と記して、神のことばに親しむことは、聖体の秘跡に与ることに匹敵するのだと指摘します。わたしたちの信仰生活にとって、聖書は欠くことのできない柱であり、典礼において朗読される御言葉を通じて、主はわたしたちとともにおられます。

典礼憲章は、キリストは救いの業を成し遂げるために、「常にご自分の教会とともにおられ、特に典礼行為のうちにおられる」と記し、続けて、「キリストはミサのいけにえのうちに現存しておられる」と指摘します。(7)

同時に典礼憲章は、「キリストはご自身のことばのうちに現存しておられる」とも記し、「聖書が教会で読まれるとき、キリスト自身が語られるからである」と指摘します。ミサにおいて聖書が実際に声にして朗読される意味は、ただ単に本を朗読しているのではなくて、聖書に記されている神の言葉が朗読されることによって、そこに現存されるキリストの生きた言葉として、わたしたちの心に届くところにあります。ミサのいけにえにおいて、御聖体の秘跡を大切にするキリスト者は、同時に神の言葉の朗読をないがしろにすることは出来ません。

教皇フランシスコは、昨年から一月の年間第三主日を、「神のことばの主日」と定められています。この日を定めることを記した使徒的書簡「アペルイット・イリス」には、次のように記されています。

「聖霊によって書かれた聖書は、その同じ霊の光に照らされて読まれるとき、いつも新鮮です。旧約聖書は新約聖書の一部として理解されるなら、決して古いものではありません。なぜなら、すべては聖書全体に霊感を与える一つの霊によって変容されるからです。全体としての聖書は、そのことばによって養われるすべての人の未来ではなく、現在に関して、預言者的な役割を果たしています。イエス自身が、宣教の初めにあたってはっきりと述べています。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」(ルカ 4・21)」

さきほど朗読されたヘブライ人への手紙には、「御子は、・・・万物をご自分の力ある言葉によって支えておられます」と記されています。まさしく主イエスの言葉には力がありました。それはイエスこそが、「真理」だからであります。その言葉は常に真理です。ですから福音の他の箇所で、イエスの言葉を耳にした人々が、「権威ある新しい教え」とイエスの言葉を評したのです。

わたしたちも力ある言葉を語りたいと思います。自分勝手な思いや欲望を満たす言葉ではなく、いのちを奪う言葉ではなく、闇をもたらす言葉ではなく、裁き排除する言葉ではなく、それよりも神の真理に基づいた言葉、いのちを生かす言葉、希望を生み出す言葉、慈しみに満ちあふれた言葉、いたわり支え合う言葉、すなわち神の力に満ちた言葉を語りたいと思います。わたしたちは、「平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え、救いを告げ」るものでありたいと思います。

この二年間、感染症の状況のため、世界中の人たちが暗闇の中を彷徨いながらいのちを守ろうと努めてきました。わたしたちも、状況は好転しているとは言え、まだまだ先が完全に読めているわけではなく、しばらくは慎重に対応する必要があると思います。暗闇を手探りで進む状況は、しばらくは変わりがないものと思います。そういうときだからこそ、教会は暗闇の中に輝く光でありたいと思います。命の希望をもたらすものでありたいと思います。命の言葉を語る者でありたいと思います。

わたしが「教会」と言うとき、それは誰かどこかの人のことではありません。どこかにある立派な組織のことではありません。教会は皆さんお一人お一人のことです。幼子は、誰かどこかの他人のために人となり誕生したのではなく、今ここにいる皆さんお一人お一人のもとに受肉されたのです。私たちは力強く響いている希望の光である神の言葉を、今日耳にしました。その光を輝かせ続けるのは、私たち一人ひとりに与えられた、使命であります。

| |

« 主の降誕、おめでとうございます。 | トップページ | 週刊大司教第五十八回:聖家族の主日 »

配信ミサ説教」カテゴリの記事