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2022年1月29日 (土)

週刊大司教第六十二回:年間第四主日

Hoken22a

1月最後の主日である年間第四主日は,世界こども助け合いの日と定められています。今年のテーマは、「わかち合うこころはたからもの」とされています。

中央協議会のホームページには,次のように説明されています。

『「世界こども助け合いの日」は、子どもたちが使徒職に目覚め、思いやりのある人間に成長することを願って制定されました。この日はまず第一に、子どもたちが自分たちの幸せだけでなく世界中の子どもたちの幸せを願い、そのために祈り、犠牲や献金をささげます。毎日のおやつや買いたいものなどを我慢してためた子どもたち自身のお小遣いの中から献金することが勧められています。日本では、各教会だけでなく、カトリック系の幼稚園や保育園の大勢の子どもたちがこの日の献金に協力しています』

教皇庁宣教事業の児童福祉会が担当する事業で、日本の教会の全国の担当者は、東京教区の門間直輝神父様,東京教区の担当者は教区職員の田所さんです。

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準備されている今年の日本のポスターには、「コロナ禍を超えて、すべてのこどもたちが神さまに愛されているこどもとして互いに助け合い、励ましあって今を乗り越えて欲しいという願いが込められています」と,門間神父様が解説しています。

また昨年のこの日に集められた日本での献金総額は、4700万円を超え、マダガスカル、ナイジェリア、ルワンダ、ウガンダ、ザンビア、ジンバブエ、トリニダードトバゴ、インド、スリランカ での支援事業のために送金されたとのことです。今年もまた,ご協力とお祈りをお願いいたします。

2月2日の主の奉献の祝日を前に,本日1月29日午後、日本カトリック管区長協議会(男子)と日本女子修道会総長管区長会の共催で、奉献生活者のミサが、イグナチオ教会で捧げられました。本来であれば,聖堂一杯に奉献生活者が大集合するのですが,現在の感染状況もあり,主な方々だけが参加して,ミサはオンラインで配信されました。(上に掲載の写真はそのイグナチオ教会でのミサ)

私は司式を担当し、教皇大使が英語で説教、そして山野内司教様も共同司式に参加。奉献生活を営む方々の教会の福音宣教活動への貢献に感謝し,その道の上に聖霊の導きと祝福を祈り,同時に奉献生活者の生きた証しを通じて福音に多くの人が触れ、さらには召命が豊かに与えられるように,ともに祈りをささげました。

来年こそは,皆さん大勢の修道者で聖堂を一杯にして,ともに祈りをささげたいと願っています。またミサの最後には、誓願宣立10年の奉献生活者が,励ましの意味を込めて教皇大使からプレゼントをいただきました。会場には代表として男女それぞれ2人ずつが参加しました。

奉献生活を営む男女の皆さんに,心から感謝します。

以下、本日午後6時配信の,週刊大司教第62回目、年間第四主日のメッセージ原稿です。

年間第四主日C(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第62回
2022年1月30日

神の望まれる世界が実現しないのは、一体どうしてなのでしょうか。

ルカ福音は、ナザレの会堂でイエスが自らの使命を記したイザヤ書を朗読した後に、神の言葉がその日に実現したと告げた後のことを記しています。神の言葉に接した人々は、自分たちがよく知るヨセフの子が、このようなことを言うとは一体どういうことだと、つまづいたことを記します。

神の望まれる世界が実現しない一番の理由は、わたしたちが神の言葉を、そのままで素直に受け取ることができないことにあります。わたしたちは、受けた言葉を解釈します。往々にしてその解釈は、神の思いを推し量ろうとする識別ではなく、自分の経験と知識に基づいた判断による解釈です。神の言葉を、この世の価値観という枠にはめて解釈しようとする事によって、わたしたちはその実現を阻んでしまいます。

エレミヤ書は、預言者エレミヤの召命を物語っています。エレミヤが誕生する前から、彼を預言者と選ばれていた神は、「あなたは腰に帯を締め、立って、彼らに語れ」と命じます。しかも、「わたしが命じることをすべて」語るようにと、神は指示します。すなわち、エレミヤが語ろうとすることはエレミヤの解釈ではなく、エレミヤの知恵と知識に基づいた言葉ではなく、神が語ることを「すべて」そのままで告げるようにとの命令です。そこに人間の価値観の枠組みが介入する余地はありません。だからこそ、簡単には受け入れられないのです。拒絶されるのです。それに対して、「わたしがあなたと共にいて、救い出す」と神は約束されます。神の言葉に従い、それをこの世の価値観によってゆがめることなく伝えようとするものに、神は共にいてくださるという約束であります。

とはいうものの、ただ単に神の言葉を繰り返していればそれで良いわけではないと、パウロはコリントの教会への手紙に記します。すなわち、「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル」にすぎないと、パウロは記します。

わたしたちは、愛の心を持って、神の言葉を語り伝えなくてはなりません。この世の価値観の枠ではなく、神の愛の価値観の枠を前面に掲げて、神の言葉を告げしらせなくてはなりません。

「愛は、忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」

わたしたち一人ひとりには、一体何が欠けているのでしょうか。自らの言葉と行いを、振り返ってみたいと思います。

さて教会は本日を、「世界こども助け合いの日」と定めています。以前は「児童福祉の日」と呼ばれ、子どもたちのために何かをしてあげる日のように考えられていました。実際には、この日は、子どもたち自身が使徒職に目覚め、思いやりのある人間に成長することを願って制定されたものです。ですから「助け合い」の名前となりました。今年のテーマは「わかち合うこころはたからもの」です。

感染症の影響のもと、世界中の子どもたちもその心と体に大きな影響を受けています。生活環境の劇的な変化によって、心身に不調を来しているこども、経済の悪化によって命の危機に直面するこども。世界に目を向けると、助けを求めるこどもの姿が見えてきます。

生きている神の言葉がともにあることを信じるわたしたちは、将来の世代を担う子どもたちが、互いに助け合い支え合う生き方を選択するよう、ともに神の愛に生きる道を歩んで参りましょう。

 

 

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2022年1月28日 (金)

平和のために祈り続ける

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平和のために祈ると言えば,即座に毎年夏の平和旬間を想起しますが、もちろん平和のために祈ることに特別の季節はありません。教皇パウロ6世は、1968年に、毎年の1月1日を世界平和の日として制定されましたが、その最初のメッセージに次のように記しています。

「今後、毎年、人間の歩みの時を刻む暦 の最初の日に、将来の歴史の発展を動かすものが、正しくそして真に安定のある平和そ のものであるようにとの希望と約束の表れとして、このような催しが、繰返されること を、心から望んでおります」

一年の初めの日に平和を祈ることで、教皇パウロ6世は,一年を通じてわたしたちが平和のために祈り続けることを求められました。その上でパウロ6世は、「キリス ト教徒にとって、平和を唱えることは、イエズス・キリストを告げることと同じこと だからです。『われわれの平和は、キリストである』(エフェゾ2章14節)」と記しています。

まさしく教皇ヨハネ23世が「地上の平和」の冒頭に記したように、「すべての時代にわたり人々が絶え間なく切望してきた地上の平和は、神の定めた秩序が全面的に尊重されなければ,達成されることも保障されることもありません」。この世界でのイエスの福音の実現こそが、平和の達成です。

感染症の状況が続く中で,教皇様は世界的な連帯による相互の支え合いの重要性を,繰り返し説いてこられました。しかしこのような「いのちの危機」の状況にあっても、世界的な連帯は実現していません。

2021年の復活祭にあたって、「Urbi et Orbi」のメッセージで、教皇フランシスコは、こう述べられました。

「パンデミックはいまも猛威をふるっています。社会的、経済的な危機はいまだに深刻な状態にあり、とくに貧しい人に大きな影響を及ぼしています。それにもかかわらず、武力紛争と軍備拡張はとどまることを知りません。今、こんなことがあっていいはずがありません。」

国際社会がこの危機を乗り越えるために一致することなく、こんな状況でも武力紛争を続けていることを厳しく批判された教皇は、続けてこう述べています。

「十字架にかけられ、復活された主は、仕事を失った人や、経済的な苦境に陥っても社会から適切な保護を受けられない人の心の支えです。適切な生活水準を維持するのに必要な支援を、すべての人が、とくに困窮している家庭が受けられるよう、主が各国政府を動かしてくださいますように。悲しいことに、このパンデミックにより、貧しい人の数と、数えきれないほど多くの人の絶望が激増しています」

貧困のまん延と,それに伴ういのちを生きる事への絶望のまん延は、それ自体が平和の欠如です。なぜならば、イエスの福音の実現は,貧困のまん延ではなく,絶望のまん延でもなく、尊厳ある生活と,いのちを生きる希望に満たされることだからです。

教皇様は先日1月26日の一般謁見にあたって,緊張が高まっているウクライナ情勢に触れ、特にウクライナの平和のために祈りをささげるようにと,招かれました。バチカンニュースはこう伝えています。

「かつてウクライナで、大飢饉(1932年~1933年)のため多くの人が飢えに苦しみ、亡くなったことを思い起こした教皇は、数多くの辛い体験に接したウクライナの人々は平和を享受すべきである、と話された。教皇は、天に上げる皆の祈りが、地上の責任者たちの考えと心に触れ、対話と共通善を一部の利害に優先させることができるようにと願われた。」

わたしたちも教皇様の呼びかけに応えて、緊張が高まる地において神の平和が実現するよう、特に政治のリーダーたちに聖霊の導きがあるように,祈り続けたいと思います。

これに加えて、この2月1日で、ミャンマーでクーデターが発生し,民主的な政権が転覆させられてから一年となります。何度も繰り返しているように、東京教区はかつて戦後にケルン教区から受けた支援に対する感謝を込めて,今度はミャンマーの教会の支援を長年にわたって行ってきました。ミャンマーの教会は,東京教区にとって姉妹教会です。その地に平和がもたらされ、人々が安心して生活ができるように、民衆の声が力によって抑圧されることのないように、信教の自由が守られるように、クーデーターから一年となるこの時、平和のために祈りをささげたいと思います。(一番上の写真、ミャンマーの子どもたち、2020年2月)

2月1日の直前となる1月30日の日曜日、夕方から,ミャンマーの方々が集う築地教会で,平和のための祈りをささげます。私もご一緒させていただきます。残念ながらコロナ禍の状況の中で,大勢で集まることは控えなくてはなりませんから,皆さんに参加を呼びかけることはできませんが,どうか心をあわせて、ミャンマーの平和のために,1月30日の日曜日に、一緒にお祈りください。

 

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2022年1月26日 (水)

聖パウロの回心の記念日といえば

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1月25日は聖パウロの回心の記念日で、この日をもってキリスト教一致祈祷週間が終了します。教皇様は、昨日の夕方、ローマの城壁外の聖パウロ大聖堂に赴き、キリスト教一致のための祈りを捧げられました。(写真は2018年6月の聖ペトロ大聖堂での枢機卿親任式で、聖ペトロの像の前で祈る教皇フランシスコ)

1月25日の聖パウロ大聖堂といえば、ちょうど63年前、1959年1月25日、聖パウロ大聖堂を訪れたのは、教皇ヨハネ23世でありました。そこに集まった数名の枢機卿たちを前に、教皇ヨハネ23世は、突然、公会議を開催することを宣言されました。第二バチカン公会議が始動した瞬間でした。(下の三枚の写真は、2017年のアドリミナの際に,聖パウロ大聖堂で日本の司教団がミサを捧げたときのものです)

もちろんそれ以前に、ピオ11世やピオ12世のころに、途中で中断する形になっていた第一バチカン公会議を再開することが検討はされていましたが、相談すればするほど、それは無理だろうという意見が大勢を占めていましたから、この突然の教皇ヨハネ23世の宣言には、多くの人が驚いたことだろうと思います。

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それから3年の時間をかけて、様々な準備委員会が設けられ、検討が続けられて、最終的に1961年12月25日に発布された「フマーネ・サルティス」において、正式な開会が翌年1962年と定められ、実際には62年の10月11日に最初の総会が始まりました。

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「フマーネ・サルティス」には公会議を招集しようと決断した教皇様の思いが、実際には突然のひらめきではなく、それ以前から長年にわたり続いていた考察に基づいていたことが、こう記されています。

「一方においては精神的貧困に苦しむ世界、他方には生命力に満ちあふれるキリストの教会がある。私は……教皇に選ばれたとき以来、この二つの事実に直面して、教会が現代人の諸問題の解決のために貢献するよう、すべての信者の力を結集することが私の義務であると考えてきた。そのため、私の心に浮かんだこの考えを超自然的霊感であると判断し、今こそカトリック教会と全人類家族にとって全世界教会会議を開催する時であると考えた。」

なおこの翻訳をはじめ、第二バチカン公会議の意義などを複数の方が執筆された連載が、女子パウロ会のサイトに掲載されていますので、一読されることをお勧めします。

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公会議開始50年を記念した年、2012年10月10日の一般謁見における、当時のベネディクト16世の振り返りを、引用しておきたいと思います。教皇ベネディクト16世自身は、第二バチカン公会議当時、新進気鋭の若手神学者として、会議に参加しています。

「第二バチカン公会議の諸文書に含まれる豊かな意味に目を向けるために、わたしはただ四つの憲章を挙げたいと思います。それはいわば、わたしたちに方向を示す羅針盤の四方位基点だからです。『典礼憲章』(Sacrosanctum Concilium)は、教会の原点には、礼拝すること、神、キリストの現存の神秘の中心性があることを示します。キリストのからだであり、世を旅する民である教会の根本的な使命は、神に栄光を帰すことです。『教会憲章』(Lumen gentium)が述べるとおりです。わたしが引用したい第三の文書は『神の啓示に関する教義憲章』(Dei Verbum)です。神の生きたみことばが教会を呼び集め、歴史の歩みの中でいつも教会を生かします。そして、教会が、神に栄光を帰すために、神から受けたすべての光を世にもたらす方法が、『現代世界憲章』(Gaudium et spes)の中心テーマです。
 第二バチカン公会議はわたしたちに力強く呼びかけます。日々、信仰のすばらしさを再発見しなさい。主といっそう深い関係をもつために、信仰を深く知りなさい。自分のキリスト信者としての召命に徹底的にこたえなさい。」

教会を導かれる聖霊の働きに信頼し、霊的な照らしを受けながら、神へと至る正しい道を見極めながら、この60年以上にわたる取り組みを深め、さらに歩みを強めていきたいと思います。

 

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2022年1月24日 (月)

神のことばの主日、ケルンデー@東京カテドラル

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年間第三主日となった1月23日。この日はまず、教皇フランシスコによって定められた「神のことばの主日」です。加えて教会は、1月18日から,パウロの回心の1月25日まで,キリスト教一致祈祷週間としています。さらに1月の第四の日曜日は、東京大司教区にとって、「ケルン・デー」であります。盛りだくさんの日曜日でありました。

東京教区とケルン教区との姉妹関係については,東京教区のホームページに詳しく掲載されています。このリンクから,さらに奥へと探索ください。最初のページに到達すると,左側にいくつか項目が並んでいますから(「ケルン教区の紹介」など),そこをクリックすると,さらに詳しい情報が掲載されています。

そして東京教区とケルン教区の姉妹関係は、さらに白柳枢機卿時代に,ミャンマーの教会への支援へと発展しました。これまでも東京教区では11月にミャンマーデーを行って、ミャンマーの司祭養成の支援を行ってきましたが、2021年2月にクーデターが発生し,軍事政権下で厳しい毎日が続いていることと,キリスト者が少数派の同国で教会への暴力的攻撃も発生していることから、昨年来、しばしば、支援のための祈りをお願いしてきました。今回も,ケルン教区から,一緒にミャンマーのために祈りをささげようという呼びかけがありました。東京教区が,ことさらにミャンマーのための祈りや支援を強調するのは,ミャンマーの教会支援がケルン教区との関係の中で生み出された新たな兄弟姉妹関係であり、ケルンから受けた支援への感謝の気持ちの表現でもあるからです。

クーデター発生から間もなく一年になります。そこで来週、1月30日の日曜日の夕方、東京在住のミャンマー共同体の方々と、築地教会において、私も参加して、平和のための祈りをささげる予定でおります。

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教皇様は,「神のことばの主日」にあたり、サンピエトロ大聖堂で捧げたミサの中で、女性6人、男性2人をカテキスタとして任命し、さらに女性3人と男性5人を朗読奉仕者に任命されました。バチカンニュースから引用します。

「教皇は、2021年1月に、使徒的書簡「スピリトゥス・ドミニ」を通し、教会の朗読奉仕者と祭壇奉仕者に、男性だけでなく、女性も選任することができるよう、教会法を改定した。また、同年5月、自発教令「アンティクウム・ミニステリウム」をもって、「信徒カテキスタ」の務めを公式に定め、信者がその特性を生かしながら福音宣教へ積極的に取り組むことを励ましている。」

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以下、1月23日日曜日午前10時の,関口教会のミサでの説教の原稿です。一部、前晩の「週刊大司教」メッセージと重複します。

年間第三主日C(配信ミサ)
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2022年1月23日

東京教区にとって本日は、「ケルン・デー」であります。東京教区にとって、ケルン教区との繋がりには歴史的な意味があり、また物質的な援助にとどまらず、霊的にも大きな励ましをいただいてきました。東京教区のホームページには、こう記されています。

「まだ第2次世界大戦の傷あとの癒えない1954年、当時ドイツのケルン大司教区の大司教であったヨゼフ・フリングス枢機卿は、ケルン大司教区の精神的な復興と立ち直りを願い、教区内の信徒に大きな犠牲をささげることを求めました。そして その犠牲は、東京教区と友好関係を結び、その宣教活動と復興のための援助をするという形で実現されていきました」

そこにはフリングス枢機卿と当時の土井枢機卿との、個人的な出会いもあったと記されています。

もちろんドイツも敗戦国であり、当時は復興のさなかにあって、決して教会に余裕があったわけではありません。にもかかわらず海外の教会を援助する必要性を問われたフリングス枢機卿は、「あるからとか、余力があるから差し上げるのでは、福音の精神ではありません」と応えたと記録されています。この自らの身を削ってでも必要としている他者を助けようとする精神は、当時のケルン教区の多くの人の心を動かし、ケルン教区の建て直しにも大きく貢献したと伝えられています。

それ以来、東京カテドラル聖マリア大聖堂の建設をはじめ、東京教区はケルン教区から多額の援助を受けて、さまざまな施設を整えることができました。東京教区の感謝の気持ちは、白柳枢機卿の時代、1979年の両教区友好25周年を契機として、ミャンマーの教会への支援となりました。それ以来、わたしたちは毎年の「ケルン・デー」に、いただいたいつくしみに感謝を捧げ、その愛の心に倣い、今度は率先して愛の奉仕に身をささげることを、心に誓います。またケルン教区のために、特に司祭・修道者の召命のために、祈りをささげてきました。

友好50周年当時のマイスナー枢機卿の書簡には、東京教区への支援を通じて、「私たちの目と心が、世界中の欠乏、飢え、病気に向けて開かれることとなりました。東京教区との、信仰と祈りの生きた共同体が存在しなかったならば、ケルン教区においてその5年後に、全ドイツの司教たちに働きかけて、世界中の飢えと病気に対する教会の救済組織「ミゼレオール」を創設しようとする歩みはなされなかったかも知れません」と記されています。いまやこの「ミゼレオール」は普遍教会において国際カリタスと並んで立つ、世界的な司牧的援助団体に成長しています。

わたしたちも、余裕があるからではなくて、苦しいからこそ、積極的に支援の手を差し伸べるものでありたいと思いますし、その積極的な行動は、必ずやわたしたちを霊的に成長させてくれると、わたしは信じています。

さて、先ほど朗読されたルカ福音は、公生活の初めに、聖霊に満たされたイエスが、ガリラヤ地方の会堂で教えた話を記します。ナザレの会堂で、イエスに渡されたイザヤ書に記された言葉こそ、イエスが告げる福音の根幹をなす、人となられた神の生きる姿勢を明示したものでした。イエスこそは、とらわれ人に解放を告げ、主の恵みの年を告げる存在であることが明らかにされます。

そのイザヤの言葉を受けて、イエスご自身が、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と言われたと、福音は記します。まさしく、人となられた神の言葉は、力ある生きた言葉であります。

パウロはコリントの教会への手紙で、キリストの体と私たちとの関係を解き明かし、多様性における一致こそが、キリストにおける教会共同体のあるべき姿であることを明確にします。

ネヘミヤ書は、エルサレムの城壁が総督ネヘミヤによって修復された後,祭司エズラが民に向かって律法を読み上げた出来事を記します。この時、民にとって朗読された律法は、単なる神の定めた掟を羅列する文章ではなく、神からの直接の生きた呼びかけの言葉として、心に響き渡ったことが、記されています。

本日、年間第三主日を、教会は「神のことばの主日」と定めています。この主日は、教皇フランシスコによって、2020年に始められました。「神のことばの主日」を制定した使徒的書簡「アペルイット・イリス」で教皇様は、この「神のことばの主日」を、「神のことばを祝い、学び、広めることにささげる」主日とされました。その上で教皇様は、この主日がキリスト教一致祈祷週間と重なることも念頭におきながら、次のように記しています。

「わたしたちがユダヤ教を信じる人々との絆を深め、キリスト者の一致のために祈るように励まされる、その時期にふさわしいものとなることでしょう。これは、ただ時期が偶然重なるということ以上の意味をもっています。「神のことばの主日」を祝うことには、エキュメニカルな価値があります。聖書はそれを聴く人々に向かって、真の、そして堅固な一致への道筋を指し示すからです」

その上で教皇様は、「聖書のただ一部だけではなく、その全体がキリストについて語っているのです。聖書から離れてしまうと、キリストの死と復活を正しく理解することができません」と指摘し、第二バチカン公会議の啓示憲章が、「聖体の秘跡に与ることに匹敵する」と指摘する神の御言葉との交わりの重要性を説いています。啓示憲章にはこう記されています。

「教会は、主の御からだそのものと同じように聖書をつねにあがめ敬ってき〔まし〕た。なぜなら、教会は何よりもまず聖なる典礼において、たえずキリストのからだと同時に神のことばの食卓からいのちのパンを受け取り、信者たちに差し出してきたからで〔す〕」(『啓示憲章』 21)。

いのちのパンとしての主イエスの現存である神のことばに親しむことは、主イエスの現存である聖体の秘跡に与ることに匹敵するのだと、第二バチカン公会議は指摘しています。

ミサの中で聖書が朗読されるとき、神の言葉はそこで生きており、そこに主がおられます。私たちを生かしてくださる主の言葉の朗読に、真摯に耳を傾けましょう。

そして、1月18日から25日までは、キリスト教一致祈祷週間であります。今年は、マタイ2章の「私たちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」をテーマに掲げ、特に中東の諸教会のために、またその地域の人々のために祈ることが求められています。

中東と言えば聖地があるばかりではなく、長年にわたってさまざまな紛争が繰り返されてきた地であり、時に宗教対立を口実に争いが起こったり、領地紛争で罪のない子どもたちの血が流されたりすることが続いているところでもあります。

一致祈祷週間のために用意された資料には「中東の歴史は、昔も今も、紛争と対立にあふれ、血に染まり、不正と抑圧により暗雲に覆われています。・・・この地域では血なまぐさい戦争や革命が繰り返され、宗教的な過激主義が台頭しています」と記されています。

わたしたちはただ単に組織として一緒になればよいものでもなく、同じ祈りを一緒にすれば済むものでもない。それよりも互いのことをよく知り、理解を深め、適切な対話を行って、一致して神の福音を証ししていくことができる福音宣教の道を探っていくよう努めたいと思います。特に今年は、聖地を含めた中東地域の平和のためにともに祈りましょう。神の救いと神の支配の実現がもたらす本当の喜びを共にできるよう、多様性の中で一致して歩み続けたいと思います。

 

 

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2022年1月22日 (土)

週刊大司教第六十一回:年間第三主日

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東京と千葉は,まん延防止等重点措置の実施対象となりました。これについては,一つ前の記事でお知らせしています。原則として現在の感染対策を継続し,その徹底をあらためて心したいと思います。

1月22日土曜日の午前中、公益財団法人東京カリタスの家主催のペトロ岡田武夫大司教追悼ミサが,東京カテドラル聖マリア大聖堂で捧げられました。写真はそのときのものです。岡田大司教様は,長年にわたり、この東京カリタスの家の理事長を務めておられ、社会福祉事情の充実にリーダーシップを発揮されました。現在は私が,その後任として理事長を務めさせていただいています。

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公益財団法人東京カリタスの家の諸活動については,こちらのホームページをご覧ください

同ホームページには,東京カリタスの家の理念が次のように記されています。

「健康で幸せな生活には「身体的」「精神的」「社会的」「霊的」な健全さが満たされることが必要です。わたしたちは生きづらさや苦しみを負っている方々を兄弟、姉妹として迎え、その困難や苦しみを共に担い、寄り添うことを目指します。その方が本来持っている「生きる力」が回復され、自分らしく生きることが出来るよう共に歩みます」

本日のミサは感染状況が深刻化する中でしたので,参列者を限定して行われましたが、イエスのカリタス会のシスター方に聖歌隊を勤めていただき、また暖かな晴天にも恵まれ、穏やかな心で,岡田大司教様の永遠の安息を祈る場となりました。

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以下、本日午後6時配信の週刊大司教第61回、年間第三主日のメッセージ原稿です。なお1月23日の関口教会10時ミサは,神のことばの主日であり、なおかつ「ケルンデー」でもありますから、大司教司式ミサです。

年間第三主日C(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第61回
2022年1月23日

ルカ福音は、公生活の初めに、聖霊に満たされたイエスが、ガリラヤ地方の会堂で教えた話を記します。ナザレの会堂で、イエスに渡されたイザヤ書の言葉こそ、イエスが告げる福音の根幹をなす生きる姿勢を明示したものでした。イエスこそは、とらわれ人に解放を告げ、主の恵みの年を告げる存在であることが明らかにされます。

そのイザヤの言葉を受けて、イエスご自身が、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と言われたと記されています。まさしく、人となられた神の言葉は、力ある生きた言葉であります。

パウロはコリントの教会への手紙で、再び、キリストの体と私たちとの関係を解き明かし、多様性における一致こそが、キリストにおける教会共同体のあるべき姿であることを明確にします。

ネヘミヤ書は、エルサレムの城壁が総督ネヘミヤによって修復された後,祭司エズラが民に向かって律法を読み上げた出来事を記します。この時、民にとって律法は単なるおきての羅列ではなく、神からの生きた呼びかけの言葉として、心に響き渡りました。

年間第三主日は、神のことばの主日とされています。この主日は教皇フランシスコによって2020年から始まりました。神のことばの主日を制定した使徒的書簡「アペルイット・イリス」で教皇様は、神のことばの主日を、「神のことばを祝い、学び、広めることにささげる」主日とされました。その上で教皇様は、この主日がキリスト教一致祈祷週間と重なることも念頭に、次のように記しています。

「わたしたちがユダヤ教を信じる人々との絆を深め、キリスト者の一致のために祈るように励まされる、その時期にふさわしいものとなることでしょう。これは、ただ時期が偶然重なるということ以上の意味をもっています。「神のことばの主日」を祝うことには、エキュメニカルな価値があります。聖書はそれを聴く人々に向かって、真の、そして堅固な一致への道筋を指し示すからです」

その上で教皇様は、「聖書のただ一部だけではなく、その全体がキリストについて語っているのです。聖書から離れてしまうと、キリストの死と復活を正しく理解することができません」と指摘し、啓示憲章が「聖体の秘跡に与ることに匹敵する」と指摘する神の御言葉との交わりの重要性を説いています。ミサの中で聖書が朗読されるとき、神の言葉は生きており、そこに主がおられます。私たちを生かしてくださる主の言葉の朗読に、真摯に耳を傾けましょう。

ところで東京教区にとって本日は、「ケルンデー」であります。教区ホームページには、こう記されています。

「まだ第2次世界大戦の傷あとの癒えない1954年、当時ドイツのケルン大司教区の大司教であったヨゼフ・フリングス枢機卿は、ケルン大司教区の精神的な復興と立ち直りを願い、教区内の信徒に大きな犠牲をささげることを求めました。そして その犠牲は、東京教区と友好関係を結び、その宣教活動と復興のための援助をするという形で実現されていきました」

そこにはフリングス枢機卿と当時の土井枢機卿との、個人的な出会いもあったと記されています。それ以来、東京カテドラル聖マリア大聖堂の建設をはじめ、東京教区はケルン教区から多額の援助を受けてきました。そのお返しという形で、白柳枢機卿の時代に、ミャンマーの教会支援が始まりました。私たちは受けた慈しみに感謝しながら、その愛の心に倣い、率先して愛の奉仕に身をささげる、生きた神の言葉の証人であり続けたいと思います。

 

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まん延防止等重点措置の実施に伴って

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1月21日から2月13日まで、東京大司教区の管轄する東京都と千葉県は、まん延防止等重点措置の実施対象地域となりました。この数日間の急激な検査陽性者の増加に伴っての措置であると理解しています。

これまでの2年間の経験からは、このまま予定通りに2月13日ですべてが解決することなく,仮に事態が悪化すれば,緊急事態宣言の再発出も視野に入れる必要があると思われます。同時に現在感染の主流となっているといわれるオミクロン株にあっては、ワクチン接種の効果と相まって、重症化する率は低くなっているとも言われます。しかしながら、重篤化しないまでも入院治療を必要とされる方は増加し、それがための病床使用率の上昇であり,なおかつそれに伴うまん延防止等重点措置の実施であることを考慮すれば、やはり慎重に対策を講じることは不可欠です。

東京大司教区では、これまでも,できる限りミサの非公開を避けることを主眼に,教会における感染対策の徹底をまずもってお願いしてきました。現場で対策にあたってくださる信徒・司祭の皆様には,心から感謝いたします。

現時点では,これまでの感染対策のさらなる徹底を対策の中心とし、ミサの公開の中止などは原則としては行いません。ただし,待降節前に、聖歌の歌唱や祈りを一斉に唱えることも可能としましたが,この部分だけは撤回します。詳細は,こちらのリンクから,東京教区のホームページに掲載されている一覧をご覧ください。

なお小教区のある地域によって事情が異なりますので、教区の方針は原則と考え、それに基づいて,主任司祭を中心に地域にあった判断をしてくださるようにお願いいたします。

今回の拡大が,一連のコロナ禍の最後の波となることを心から願って、一日も早い終息と心の平和を,御父に祈り求め続けたいと思います。わたしたちのよりどころ、病人のいやし、苦しむ者の慰めである聖母マリアの取り次ぎによって、御子の深いあわれみの御心にわたしたちが包まれますように,祈り続けましょう。

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2022年1月18日 (火)

キリスト教一致祈祷週間2022年

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今年も1月18日から1月25日まで、キリスト教一致祈祷週間です。(写真は、先日の聖バルナバ教会での祈祷集会録画風景です)

第二バチカン公会議以降、日本の教会でもよく耳にするエキュメニズムという言葉で進められている一致運動です。様々な取り組みがなされており、教義の側面や神学的な対話は行われてきてはいますが、実際的にはやはり長年にわたって異なるやり方で信仰を守っていますから、具体的な組織の合同と言う一致は難しいとも感じられます。同時に、例えば社会のさまざまな問題に取り組む現場(炊き出しや滞日外国人支援、貧困対策などの社会福音化の活動)では、教団・教派の枠を超えて、互いに協力し合いながら活動することが当たり前になっていますので、福音を生きる側面での一致はかなり進んでいるとも言えるかと思います。その現場での一致を、霊的な側面にいかに波及させるのかが課題の一つです。

第二バチカン公会議の「エキュメニズムに関する教令」の冒頭を引用します。

「すべてのキリスト者間の一致を回復するよう促進することは、聖なる第二バチカン公会議の主要課題の一つである。主キリストが設立した教会は単一・唯一のものである。しかし数多くのキリスト教共同体が自分たちこそイエス・キリストの真の継承者であると人々の前で自称している。彼らは皆、自分が主の弟子であると公言するが、同時に、それぞれ考えが異なり、異なった道を歩いている。それはあたかもキリスト自身が分裂しているかのようである。このような分裂は明らかにキリストの意思に反し、また世にとってはつまづきであり、すべての造られたものに福音をのべ伝えるというもっとも聖なる大義にとっては妨げになっている(1)」

かつて教皇ヨハネパウロ二世は回勅「キリスト者の一致」のなかで、「キリスト教一致のための運動は、付録のようなものではありません。・・・エキュメニズムはもともと教会の生活と活動の一部であり、そのすべてに浸透していなければなりません(20)」と記しています。同じ福音に生きる者が、キリストという一本のぶどうの幹に繋がっているのは当然であり、共同体の一致は福音に生きるためには不可欠だからです。出来ることから、歩みを共にしていきたいと思います。

今年の東京における一致祈祷集会は、感染症の状況のため、オンラインで配信されます。本日1月18日午後1時半以降、日本キリスト教協議会(NCC)のYoutubeチャンネルで配信される予定です。詳細は、こちらのリンクから、カトリック東京大司教区のホームページの記事をご覧ください。

今年の一致祈祷週間のテーマは、「わたしたちは東方でそのかたの星を見たので、拝みに来たのです」(マタイ2・2)。特に長年にわたって紛争が続き、平和が確立されない、聖地をはじめ中東地域の教会と人々に思いを馳せて、祈りをささげることが呼びかけられています。

昨日1月17日に、教皇庁のシノドス事務局はプレスリリースを発表し、今回のシノドスの歩みにとって、エキュメニカル的な側面が重要であることを改めて強調しました。英語でのプレスリリースは、こちらのリンクから読むことができます

この中で、シノドス事務局は、昨年2021年10月28日に、教皇庁キリスト者一致評議会議長のコッホ枢機卿とシノドス事務局長のグレック枢機卿が、各国のエキュメニズム担当司教に連名で出した書簡に触れ、それぞれの部分教会においても,エキュメニカルな側面をシノドスの歩みの中に取り入れるようにと,さまざまな提案をされています。両枢機卿は書簡で、「シノドス性とエキュメニズムは、どちらもともに歩むプロセスです」と強調されています。その上で、「東方の博士のように、キリスト者も同じ天からの光に導かれて一緒に旅を続け、一緒にこの世の闇に遭遇します。博士たちと同じくキリスト者も、一緒にイエスを礼拝し、それぞれの宝を捧げるように招かれています。ともに寄り添いながら歩むことの必要性に気づき、キリストにおける兄弟姉妹が持つ豊かな宝に心を留め、わたしたちは一緒にこの二年間の旅をするようにと彼らに呼びかけ,キリストが彼にできる限り近づけるように導いてくださることを、そして互いに近づくことができるように導いてくださるように,心から祈ります」と記しておられます。

キリスト教一致評議会とシノドス事務局は,この一致祈祷週間のための祈りを作成し,公開しています。原文は下の写真です(英語)。仮の私訳を記しておきます。

天の父よ

星に導かれてベトレヘムへと旅した東方の博士たちのように

天からの光によって

このシノドスの時期に、カトリック教会がすべてのキリスト者とともに歩むよう導いてください。

博士たちがキリストの礼拝において一致したように

わたしたちをあなたの子に近づけ、また互いを近づけてください。

あなたが教会とすべての被造物に望まれているように、わたしたちが一致のしるしとなりますように。

わたしたちの主キリストによって。

アーメン

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2022年1月17日 (月)

あれから27年

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今からちょうど27年前、1995年1月17日に、阪神淡路の大震災が発生しました。淡路島北部を震源とした最大震度7の地震は、6434人の方々のいのちを奪い、その後も様々な困難を地域に残しました。(写真は、大震災後の火災の後に残った、鷹取教会のイエス像。撮影は2009年11月)

27年が経過した今日、あらためて亡くなられた方々の永遠の安息を祈ります。また昨日から本日早朝、震災発生時刻の午前5時46分に合わせて、多くの方が祈りを捧げました。その後の東北の大震災や現在のコロナ禍と、心の平安が乱される出来事が続き、いわば暗闇の中をさまよい続けているような思いを抱いてしまいます。共に祈りを捧げ、闇に輝く真の光を求めながら、心の平安を願いたいと思います。

以下、ちょうど10年前、阪神淡路の大震災から17年目に記した「司教の日記(2012年1月17日)」から、再掲します(リンク抜けなど、一部書き直してあります)。

1月17日です。阪神淡路大震災から17年。亡くなられた多くの方々のために祈ります。同時にあの日から全く新たな時間を刻み始めた多くの方々の心の平安を祈ると共に、これからの歩みにも祝福と守りを祈ります。

昨日の梅田でのフォーラム(2012年1月16日に大阪梅田教会で開催された第7回修道会宣教会フォーラム)でも「あの日からもう17年」という言葉が何度も聞かれました。大震災以降の復興に関わった多くの方々、そして復興を力強く歩んでこられた多くの方々にとって、昨年の東北の大震災は17年前の心持ちをあらためて思い起こす「とき」になったのではと思います。歴史の流れの中で、ある「ひととき」にいったい自分がどこで何をしていたかなんて、そう簡単に覚えているものではありません。しかし衝撃的な出来事があったときを、私たちは簡単に忘れません。それは私たちにとって、1995年1月17日であり、2011年3月11日ではないでしょうか。その日の自分を思い出すとき、そのとき、その瞬間に感じた思いをしっかりと思い起こしたいと思いますし、そのあとに自分が何を考え何をしたのかをも、さらにはどうしてそうしたのか、そうしなかったのかをも、しっかりと思い出してみたいと思います。結局はそれが今を生きる自分を支える柱、自分の人生の価値観を反映しているからです。

17年前は私にとって、今に至るまでのカリタスジャパンとのつきあいが始まった年でした。とはいえ、それは阪神淡路大震災ではなかったのです。(1995年)1月17日の朝、私はマニラのホテルのベッドの中でNHKのニュースを見ていました。信じられない光景と、国内にいないということだけで感じるもどかしさで、ただただ落ち着かない時間を過ごしていたことを覚えています。その数週間後、日本に戻った私に舞い込んできたのは神戸に行くことではなく、カリタスジャパンからの依頼でザイール(現コンゴ民主共和国)に出かける話でした。その一年前に起きた虐殺事件後混乱が続くルワンダから大量の難民が出ている。その難民キャンプがあるザイールに行ってほしい。すでにその数ヶ月前から継続していたカリタスジャパンによる難民救援事業の、最後の派遣組に参加することになりました。すでに派遣されていた塩田師と二人のシスターに助けられて、3ヶ月弱の派遣をこなすことができました(4名のうち私だけフランス語が話せませんでした)。それ以来、今に至るまで、様々な役割でカリタスジャパンに関わっています。

さて、そうやって思い出してみると、当時もカリタスジャパンの要請にこたえて、全国の女子修道会がシスターを現地に派遣してくださったのでした。つまり、今東北で行われている「シスターズ・リレー」の原型は、17年前のルワンダ難民救援にあったのでした。東北の大震災のあとに、仙台教区サポートセンターとの連携の中でシスター達がボランティアーベースに継続して派遣されてきています。どこの修道会だとかそういった違いを超え(つまりは、昨日の話に出た「枠」を超えて)、異なる修道会の会員達が連携しながら順番に現地入りしてくるその機動力は、17年前のルワンダと同様、女子修道会の底力を感じさせるものがあります。現在のカトリック教会オールジャパンの被災地支援を、幅広く支えているのはシスター達の底力だと思います。そういった原動力があるからこそ、さらに教会内外の多くの人が引き寄せられて現場に駆けつけるのでしょう。

とはいえ、昨日のフォーラムでも少しそのことに触れたのですが、時間の経過と共に考えて行かなくてはならないこともあります。阪神淡路の復興支援の過程における地域共同体の再生について私自身がよく知っていないこともあるのですが、現在の東北における復興支援においても、17年前の体験をふり返って常に見直しが不可欠であろうと思います。主役は誰なのかをたびたび思い起こし、なんのために、どうして、なにをと自分たちに問いかけておくことは必要だと思っています。継続は力なりであると共に、どう継続させるのか、なぜ継続させるのかをも、常に考えておかなくてはと思うのです。

P.S. 「主役は誰か」は、私のいつものテーマです。決して善意ある自立した積極的ボランティア活動を否定するものではありませんが、そのときに心のどこかにとどめておいてくれればと思います。2005年に出版した「カリタスジャパンと世界」(サンパウロ刊)にちょっとそのあたりを書きました。その中から、次の一節を引用します。

『「アウトサイダーとしての自覚」
 開発援助の世界ではしばしば「アウトサイダー」という言い方をしますが、どのような関わり方をするにしろ、第三世界の現実の中に存在することを義務づけられた者でない限り、アウトサイダー(よそ者)に「本当のこと」は分からないのです。ロバート・チェンバースという開発専門家は、「リアリティ」という言葉を使って、客観的に実在する現実を「物理的なリアリティ」、主観的な解釈による現実を「個人的なリアリティ」と呼びながら、開発援助の現場で問題になる後者の「個人的なリアリティ」に注目します。つまり、開発プロジェクトに限らず援助全般において、一体誰の「リアリティ」が主役となっているのかという問題です。援助が究極的には「困っている人を助ける」事を目的としているのであれば、当然その主役は「困っている人」のはずでしょう。であるならば援助活動において主役となるのは、「困っている人」の「個人的なリアリティ」でなければなりません。ところが実際には、援助する側の「リアリティ」が優先されてしまうことが多いのです。言い換えれば、援助する側の都合が優先されるということです。

なぜそうなってしまうのでしょう。それは援助する側に、「アウトサイダー」の自覚が足りないからなのです。あくまでも自分たちは「よそ者」であり、主役は現地の人たちであるという自覚が足りないからなのです。

「よそ者」には帰るところがあります。そこには安定した生活があります。病気になったら母国に帰れば済んでしまいます。多くの場合、「よそ者」は現地に居たとしても、明日の食べ物に困ることはありません。「援助する側」と「援助される側」の現実には、たとえ時間と空間を共有していたとしても、雲泥の差があるのです。特に短期間の訪問者には、決して現地の「リアリティ」が見えることはないでしょう。チェンバースは「周辺」と「中心」という概念を使って、第三世界諸国に長期に滞在する開発や援助の専門家も、結局は「リアリティ」が掴みきれないと指摘します。「周辺」つまり農村部の現実を、「中心」すなわち設備の整った都市部を起点として活動する専門家は、ある種のフィルターを通じてしか見ることが出来ないのだというのです。例えば、都市を起点とする専門家の農村部における活動が、移動の困難な雨期を避け乾期に集中するため、一年を通じての現地に生きる人たちの現実が見えては来ないこともあるのです。援助に携わる人間は、自分が常に「アウトサイダー」であり、結局は現地の人たちの「リアリティ」を掴み切れていないのだということ、また主役は「彼ら」なのだということを、常に自覚して行動しなければなりません』 

追記 (2022年1月17日) この記事の掲載準備している間、トンガで海底火山の爆発があり、日本でも津波警報が発令されました。トンガの状況はまだ判然としませんが、被害を受けられた方々にお見舞いするとともに、安全をお祈りいたします。

 

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2022年1月16日 (日)

聖アーノルド・ヤンセンと神言修道会

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神言修道会の創立者である聖アーノルド・ヤンセンの記念日は、昨日の1月15日でした。

数年前、2007年、まだ新潟にいた頃に書いた「司教の日記」に、聖人について触れた記事がありますが、以下に再掲します。

1月15日は、聖アーノルド・ヤンセンの記念日です。聖アーノルド・ヤンセンといっても、日本の典礼の暦には乗っておらずなじみのない聖人ですが、先日、カトリック新聞では紹介されておりました。神言会、聖霊会、そして日本にはありませんが永久礼拝の聖霊会と、三つの修道会を創立したドイツ人司祭です。もともと教区司祭として高校教師であったヤンセン師は、海外宣教への熱意止みがたく、ドイツ発の宣教の会を創立しようと努力をしました。当時は相談した司教達からは、まずとにかく修道会ではなく宣教会(修道誓願を宣立しない会)を創ったらどうかと勧められたようですが、本人は修道会にこだわりつづけ、とうとう変人扱いされたこともあるようです。しかしそこはさすがに頑固なドイツ人だけのことはあり、とうとう1875年に、隣国オランダのシュタイルで宣教神学院の創立にこぎつけたのでした。ドイツ国内では当時、政治的理由からそのような活動が不可能であったため、最初の神学院はオランダに創設されたのです。その後1879年には最初の二人を中国に派遣し、日本に宣教師が送られたのは1907年、その後1909年1月15日にヤンセン師は亡くなりました。創立当初は大多数の会員がドイツ出身者でしたが、各宣教地での会員育成に努めた結果、現在全世界に六千人ほどいる会員のうち、半数はアジア出身者であり、さらにその半分がインドネシア出身の会員です。

日本に送られた宣教師は、秋田の地で宣教を始め、1912年には神言会員のライネルス師が新潟知牧区長に任命されて、現在の新潟教区へと歴史は繋がっています。日本では名古屋の南山学園が一番大きな事業となっているため、教育修道会としてのイメージが持たれていますが、修道会全体としては小教区で働く会員の割合が高く、あくまでも初期宣教に取り組む宣教修道会の性格を今でも保っています(はずです)。

当初から海外宣教を目的として創立された修道会ですから、その意味では修道生活をまず第一義として出来上がった会とは性格が異なっているのかもしれません。ヤンセン師は、単に頑固であっただけでなく(とても頑固であったのは事実のようですが)、聖霊の導きに完全な信頼を置いていたようです。神の御旨であると確信することは必ず聖霊の助力によって達成されるという堅い信仰があったようです。ヤンセン師は「みこころ」への信心でも有名でしたが、それ以上に聖霊への信心も強く、とうとう会服であるスータン(もともと教区司祭が集まって出来た修道会でしたので、当時の教区司祭のスータンと同じスタイルだったようです)を聖霊の色である赤にしようとしたという話が残っています。さすがにそれは許されなかったようですが、そのかわり、スータンの帯の裏を真っ赤にしてしまいました。

現代社会に生きている私たちは、聖霊の働きへの信頼が薄れているのではないかと思います。今生きている現実の中で、聖霊の働きなどというものは、なにやらオカルト的な現象と同一視されてしまう危険もあります。しかし教会は、聖霊降臨のその日から聖霊によって導かれているのであり、私たち信仰者の生活の様々なところに聖霊は働いているのは間違いありません。日常の常識で出来事に対する価値判断を下すだけでなく、信仰の目をもって聖霊の働きを識別する努力もしたいと思います。そして人間の理解をはるかに超えた神の意思の表れである聖霊の働きを、信じたいと思います。(写真は列聖式に使われた公式の肖像がより)

わたし自身は、司教になったとはいえ、神言修道会の会員であることに変わりはなく、ただ司教職を遂行するために、様々な修道誓願の制約からは解放されていますし、修道会における選挙権などは失っています。神言会はその国際的な性格から、世界各地に会員の養成共同体を設置しており、現在は全会員の中で、インドネシア国籍の会員が一番の多数を占めています。現在の総会長ブディ・クレデン師(Budi Kleden)も、インドネシア出身です。自画自賛になってしまうのかもしれませんが、神言修道会は会員数が増加し続けている修道会です。第二バチカン公会議後の1970年には5,500人ほどだった会員数は、このところ6,000人程度で推移していて、公式統計では昨年2020年が6,016人となっています。そのうちの4,150人が司祭会員で、1970年頃の司祭会員は3,200人ほどでした。減少しているのは、修道士の会員ですが、宣教修道会における修道士の役割は、そのときの状況に応じて変化してきていますから、今後も様々な展開があることでしょう。現在日本管区にも120人を超える会員が在籍し、名古屋の南山学園、長崎の長崎南山学園をはじめ、新潟教区、東京教区、名古屋教区、福岡教区、長崎教区で、小教区司牧にも関わり、名古屋では神言神学院を置いて司祭養成にあたっています。(下の写真は、2017年に日本を訪れたクレデン総会長と。山形県鶴岡市で)

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中国での宣教は神言会にとって一番最初の宣教地ですし、現在の中国共産党支配になる前、最後の北京大司教は神言会員のトマス田(ティエン)枢機卿様であったこともあり、現在でも中国本土での福音宣教には大きな関心を寄せていますし、出身の会員も多数いることから、今後の教会と中国共産党政府との関係は常に注目するところであり、かつ重要な祈りの対象でもあります。 

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2022年1月15日 (土)

週刊大司教第六十回:年間第二主日

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週刊大司教も記念すべき60回目となりました。毎週ご覧いただいている皆様には、心から感謝申しあげます。

感染症の状況下で教会に集まることに困難がある中で始めた毎週のミサのネット配信と、それに続いて始めた週刊大司教でのメッセージ発信ですが、緊急避難措置としてだけでなく、これからもさまざまに役立てていただければ幸いです。Youtubeのカトリック東京大司教区のアカウントを訪れていただくと、これまでの60回のすべての週刊大司教に加え、その途中何度か配信したロザリオの祈りや、季節毎のメッセージもご覧いただけます。また現在は、シノドスの歩みのためのビデオも配信していますので、土曜日の夕方や日曜日だけでなく、いつでも訪れて見直し、霊的生活の一助として役立てていただければと思います。

1月11日に、2022年度の第一次となる教区人事異動を公示いたしました。教区司祭に関しては主な移動はすべて公示しましたが、まだ修道会関係が出そろっていませんし、それ以外でも、今後、数回にわたって人事の公示をする予定です。

人事異動は、司祭の配置や担当を決定してお願いする立場のわたしよりも、実際に担当が代わり、新しい場所で新しい挑戦に立ち向かう神父様方の方が、何倍も大変です。特に年齢が上になるほど、新しい環境での再出発は容易ではありません。どうか、新しい主任司祭を迎える小教区などにあっては、司祭を支えて助けてくださいますように、お願い申しあげます。司祭を支えることには、当然、実際に手を貸すこともあれば、祈りを持って霊的に支えることもあります。特にわたしは霊的な支えこそが重要だと思っていますので、どうか、司祭のためにお祈りくださいますように、またその祈りは、「わたしの思い描くような司祭になりますように」ではなくて、「イエスの御心に導かれ、それを具体的に生きる司祭になりますように」と言う方向でお祈りくださいますよう、心からお願いいたします。

本日のメッセージでも触れていますが、キリスト教一致祈祷週間が1月18日から25日まで行われます。今年のテーマは「わたしたちは東方でそのかたの星を見たので、拝みに来たのです」とされ、特に紛争が続く中東地域で信仰を生きている諸教会を心に留めながら、一致を祈ることになっています。カトリック中央協議会のホームページ(こちらのリンク)、または東京教区のホームページ(こちらのリンク)をご覧ください。

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写真は、先日、東京での一致祈祷週間に備えて、東京での祈祷集会を事前に聖公会聖バルナバ教会においてビデオ撮影したときのものです。日本キリスト教協議会の吉高議長が説教をされ、わたしは司式を担当させていただきました。

以下、本日午後6時配信の、週刊大司教第60回目の、メッセージ原稿です。

年間第二主日C(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第60回
2022年1月16日

ヨハネ福音は、よく知られているカナの婚姻の奇跡物語を記しています。公生活を始めたイエスが、最初に行った奇跡として知られているのが、招かれたカナの婚姻において、水をぶどう酒に変えたというこの奇跡物語です。婚姻の宴は聖書、特に福音の中で、しばしば神の救いや神の支配の実現を例えるために用いられています。イザヤも、神の支配が実現することの喜びを、「花婿が花嫁を喜びとするように、あなたの神はあなたを喜びとされる」と記します。

すなわち婚姻の宴のように、あふれんばかりの喜びと希望に満ち溢れているのが、神の救いであり、神の支配の実現であるとされています。その意味で、宴を盛り上げるのに欠かせないワインが枯渇することは由々しき事態であり、イエスは水をワインに変えて、しかもそれを溢れんばかりに与えたと記すことで、救いにおける喜びの源は救い主イエスであることを、福音は明示します。

ヨハネ福音は、イエスが救いの計画を実現するために神の「時」を自覚して行動していたことを、最後の晩餐において弟子たちの足を洗う場面の直前に、「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り」と記すことで明らかにします。しかしこのカナの婚姻では、聖母に対して「わたしの時はまだ来ていません」と答えています。神ご自身が定めた「時」を変えさせたのは、聖母マリアの信仰とそれに基づく確信です。カナの婚姻の出来事に、わたしたちは、聖母マリアの取次の力と、神の救いの喜びと希望に寄与する聖母の存在の重要さを見出します。

コリント書は、聖霊のたまものが与えられた神の民は、それぞれが与えられた賜物によって多様な働きを実現し、それが同じ聖霊に導かれていることから、一致をもたらしていることを記します。

喜びと希望に満ちた神の救いと支配の実現のためには、聖霊に導かれて、多様性のうちに一致していることが不可欠です。

教会は、1月18日から25日までを、キリスト教一致祈祷週間と定めています。今年は、マタイ2章の「私たちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」をテーマに掲げ、特に中東の諸教会のために、また人々のために祈ることを求めています。

一致祈祷週間のために用意された資料には「中東の歴史は、昔も今も、紛争と対立にあふれ、血に染まり、不正と抑圧により暗雲に覆われています。・・・この地域では血なまぐさい戦争や革命が繰り返され、宗教的な過激主義が台頭しています」と記されています。

第二バチカン公会議のエキュメニズムに関する教令は、次のように指摘しています。
「あたかもキリスト自身が分裂しているかのようである。このような分裂は真に明らかにキリストの意志に反し、また世にとってはつまずきであり、すべての造られたものに福音をのべ伝えるというもっとも聖なる大義にとっては妨げとなっている(1)。」

ただ単に一緒になればよいものでもなく、同じ祈りを一緒にすれば済むものでもない。それよりも「公正と真理に基づいて」互いのことをよく知り合い理解を深め、適切な対話を行って一致して福音を証ししていくことができる道を探っていく努力を、この教令は求めています。

今回のシノドスの歩みも準備文書で、「一つの洗礼によって結ばれた、異なる信仰告白をもつキリスト者間の対話」の重要性を指摘し、その具体的な行動について問いかけています。神の救いと神の支配の実現がもたらす本当の喜びを共にできるよう、多様性の中で一致して歩み続けたいと思います。

 

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2022年1月 8日 (土)

週刊大司教第五十九回:主の洗礼

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新しい年の初め、今年は寒い冬になっていますが、皆様はいかがお過ごしでしょうか。

東京は何年ぶりかという雪に覆われました。もちろん前任の新潟や、管理者を務めた札幌での雪と比較すればたいした積雪ではありませんが、しかし積雪を想定してできていない都市で、雪を想定して生活していない人が暮らしているとき、大きな混乱を巻き起こします。例えば、新潟あたりで、この時期に冬用のタイヤをはいていない車は想像できませんし、外出するときに雪を想定した「冬靴」を履かないことも想像できませんが、そういうことを前提としない町では、さまざまに入り交じって、その混乱には大きなものがあります。車での事故など起きないことを願ってます。また生活されている状況で条件は異なるでしょうが、寒さによって体調を崩されたり、生命の危機に瀕することがありませんように。まだまだ寒い日が続くようですし、東京でも降雪がまたあるかも知れません。加えて、感染症の再拡大です。どうぞ健康に留意されますように。

新型コロナの検査陽性者は、東京においてはこの数日、増加し始めています。すでに第6波が到来したという声も聞こえてきます。ワクチン接種がある程度進んだことで、重篤化する率は低くなっているとの指摘もありますが、今しばらく状況の推移を見守ります。東京教区では、現時点で、待降節第一主日からの対策を変更する予定はありません。

一年ほど前、2021年1月6日には、米国大統領選挙の結果に対するさまざまな否定的反応から派生して、議会襲撃事件が発生したり、その後2月1日にはミャンマーで国軍による軍事クーデターが発生しました。民主主義が万能ではないとは言え、一人ひとりの命の尊厳を護り尊重することの重要性を主張する立場からは、それは必要な制度であると思います。昨年ギリシャを訪問された教皇様は、民主主義誕生の地で、その民主主義がヨーロッパを初め世界各地で衰退している現状にふれ、「党派心から参加へ、自分の望む意見に固執することからすべての人を生かす行動に参加するために」互いに支え合う連帯を呼びかけられました。

さまざまに多様な人が入り交じって暮らす国家を一つにまとまることは、大変難しいことだと思います。多民族国家であれば相互理解と連帯が不可欠であり、また歴史の負の遺産が政治に重くのしかかる国も存在します。しかし暴力をもって人々の自由意思を弾圧し支配したり、自らの主張を実現しようとすることは、どの国にあっても許されることではありません。特に、たまものである人間のいのちを危機にさらす行為を国家運営の手段とすることや、排除や差別を生み出す暴力的行動で影響力を行使しようとすることを認めることはできません。

以下、本日午後6時配信の、週刊大司教第59回、主の洗礼のメッセージ原稿です。

主の洗礼の主日C(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第59回
2022年1月9日

主の洗礼を記念するこの日、イザヤ書はバビロンで捕囚の時を過ごすイスラエルの民に対して、苦難ののちに訪れる神による解放の恵みを語ります。捕囚の苦難を耐え忍ぶことで、「彼女の咎は償われ」、「罪のすべてに倍する報いを主の御手から受けた」とイザヤは記します。

パウロはテトスへの手紙で、わたしたちの救いは、「キリストが私たちのためにご自身をささげられた」ことを通じて「あらゆる不法から贖いだし」たことによって与えられた恵みであることを強調します。そして「この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現した」と記します。わたしたちの救いは、私たちが正しさによって義と認められて与えられたものではなく、徹底的に神からの恵みであり、神ご自身の苦難を通じて与えられ、それが水と聖霊による洗礼によって実現したことを明確にします。

ルカ福音は、公生活を始めるにあたって、イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けたことを記しています。ヨハネ自身が明確にするように、その水による洗礼は罪の赦しの象徴であって、主ご自身が与える聖霊と火による洗礼とは比較にならないものであります。しかし主ご自身は、人間となられ私たちとともに歩まれる意思を明確にし、またそれがわたしたちの罪を背負って歩まれることを明確にするために、公生活の始めにヨハネの洗礼を受けられました。

その行為を完全に祝福するように聖霊が鳩のように降り、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適うもの」との御父の声が響き渡ります。イエスの人生が御父の御旨に完全に従うものであり、同時に私たちとともに歩まれ、自らの意思ではなくすべてを捧げ尽くす犠牲の生き方を通じて、人類の救いという恵みを与えられる道を歩まれることを明確にする出来事です。

主の洗礼は、主イエスの人間としての歩みを方向付ける、重要な意味を持っています。その苦しみを通じてわたしたちを贖ってくださった主は、同じ道を歩むようにと、わたしたちを招かれます。他者のために捧げる苦しみを通じてもたらされる、救いの恵みに与るようにとの招きです。

私たち「信じるものは洗礼によってキリストの死にあずかり、キリストとともに葬られ、復活します」(カテキズム1227)。キリストに従うわたしたちは、この人生をどのように生きていくのでしょうか。

わたしたちが今ともに歩んでいるシノドスの道は、まさしく主がともに歩んでくださる道程です。この道程の中で主は、わたしたちが「不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように」招いておられます。

準備文書にいくつかある分かち合いの手引きとしての設問の第五番目には、こう問いかけが記されています。
「わたしたちは皆、宣教する弟子であるので、洗礼を受けた一人ひとりはいかにして宣教の主人公として呼ばれるでしょうか。社会での奉仕に取り組むメンバーを、共同体はどのように支えているでしょうか。彼らが宣教の論理でこれらの責任を生き抜くのを、皆さんはどのように支援していますか。宣教に関連する選びについての識別はどのようになされていますか、また誰がそれに参加していますか。」

洗礼を受けたわたしたちは、自分自身のために生きているのではなく、キリストに倣って、キリストのために生きています。今一度、それぞれの生き方を振り返り、ともに歩まれる主に従う決意を新たにいたしましょう。

 

 

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2022年1月 1日 (土)

神の母聖マリア@東京カテドラル

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一年の初め、1月1日は、神の母聖マリアの祭日です。また教会はこの日を世界平和の日とも定めています。この一年を聖母の御保護に委ね、その取り次ぎに信頼しながら、聖母とともに主イエスに至る道を歩み続けましょう。

教皇様は年の瀬の12月28日、長崎教区の高見三明大司教様の引退願いを受理され、後任として補佐司教である中村倫明司教様を大司教に任命されました。中村大司教様、おめでとうございます。長崎教区の大司教としての着座式は、2月23日に行われると伺っています。伝統ある教区の責任者として重責を担われる中村大司教様のために、聖霊の助力と導きを祈りましょう。(長崎教区ホームページの、お二人の略歴のページのリンクです

手元に中村司教様の写真がないか探したのですが、唯一データがあったのは、その昔、新潟教会の四旬節黙想会においでいただいたときのものでしたが、それは「変装」してお話ししておられるので、ここには掲載しません。上のリンク先の長崎教区ホームページに、中村大司教様のお写真があります。高見大司教様のあとに掲載されています。そちらをご覧ください

司教職は叙階によって与えられるので、司祭が生涯司祭であるように、司教も生涯司教です。ただし、教区司教(いわゆる教区長)などの役職には75歳という定年があり、教区司教は75歳になると「必ず」教皇様に引退願いを出さなくてはなりません。高見大司教様の引退は、この75歳という定年の引退です。高見大司教様は、1946年3月生まれで、現在ちょうど75歳です。

教区司教の任命は教皇様の専権事項ですから、提出された引退願いをどのように扱うのかは教皇様次第です。即座に認められることも時にありますが、多くの場合は、後任が決まるまで続けるよう指示されるか、事情がある場合は当分の間とどまるように指示されることもあります。いずれにしろ役職からの引退であって、司教職からの引退ではありません。教皇様によって引退届の取り扱いが、当分の間継続するようにという決定でなく、他の二つの場合、即座に後任を選任する手続きが開始されます。なお枢機卿の場合、教区司教などの役職から引退したとしても、80歳になるまでは教皇選挙の投票権があり、またバチカンの諸省庁のメンバー(委員)としても残ることになります。

司教選任の手続きは、その地方教会がバチカンのどの省庁の管轄下にあるかで異なります。日本などの宣教地は福音宣教省、歴史的にキリスト教国は司教省、カトリックの東方典礼の教会は東方教会省です。フランスなどいくつかの国では、過去の歴史的経緯や条約での取り決めから、司教の任命にその国政府の同意が必要な場合があり、その場合は国務省も関わります。いずれにしろ、それぞれの国に派遣されている教皇大使が、候補者の選任にあっては重要な役割を果たすことはどの場合でも共通です。

以下、本日2022年1月1日、東京カテドラル聖マリア大聖堂で捧げられた神の母聖マリアのミサ説教の原稿です。なお説教の最後でも触れている、世界平和の日にあたって発表されている教皇様の年頭の平和メッセージ本文は、中央協議会のこちらのリンクに全文が掲載されています。

神の母聖マリア
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2022年1月1日

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皆様、新年明けましておめでとうございます。

2022年が、皆様にとっていつくしみ深い神の祝福に満たされた年でありますように、お祈りいたします。

主の御降誕から一週間、御言葉が人となられたその神秘を黙想し、神ご自身のいつくしみに満ちた選択に感謝を捧げる私たちは、暦において新しい一年の始まりのこの日を、誕生した御子の母である聖母に捧げ、神の母聖マリアを記念します。

ルカ福音は、不思議な出来事に遭遇し、その意味を理解できずに翻弄される羊飼いや、その話を聞いた人々の困惑を伝えています。暗闇の中に輝く光を目の当たりにし、天使の声に導かれ聖家族のもとに到達したのですから、その驚きと困惑は想像に難くありません。しかし福音は、「マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」と記します。神のお告げを受けた聖母マリアは、その人生において常に、神の導きを黙想し識別に努められた、観想するおとめであります。常に心を落ち着け、周囲に踊らされることなく、神の道を見極めようと祈り黙想する姿を、喧噪のうちにあふれる情報に踊らされる私たち現代社会に生きる者に、倣うべき模範として示されています。

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2020年の初頭からすでに二年間、わたしたちは感染症の脅威にさらされ、命の危機を肌で感じてきました。その危機は、今現在でもまだ過ぎ去ってはいません。その脅威は世界のすべての人に及んでいるとは言え、命の危機の程度には差があり、またその対策にも格差が生じ、経済的にまた政治的に不安定な国では十分な対策を講じることができていないとも報道されています。ある程度の十分な対策に費用を割くことのできる先進国でも、社会全体が被っている影響は大きく、経済格差が広がり、感染症のためだけではなくそれに伴う社会の構造的課題の増大によって、命が危機に直面しています。

新しい年の初めにあたり、ともに祈りをささげたいと思います。現在の世界的な難局を、ともに連帯のうちに支え合いながら乗り越えていくことができるように、聖霊の導きを祈りましょう。教皇様が幾たびも呼びかけられてきた世界的な連帯は、さまざまな理由から実現していません。特に、わたしたちの政治のリーダーたちを、また経済界のリーダーたちを、聖霊が賢明と叡智と剛毅の賜物をもって導いてくださるように祈りたいと思います。またいのちを守るために日夜努力を続けている医療関係者の上に、護りがあるように祈り続けたいと思います。

わたしたちは、それぞれの生きている場で、それぞれができることに忠実でありながら、互いに助け合い支え合う連帯の絆を深める努力に努めたいと思います。神から与えられた賜物である命が、その始めから終わりまで例外なく、守られ育まれ、尊厳が保たれる世界の実現に努めたいと思います。世界の各地で、武力による紛争が、そして圧政による人権侵害が、命を危機にさらしています。命を守るために、危険を冒して旅立ち、国境を越えてきた難民の人たちが、安住の地を得ることなく、命の危機に直面しています。

この混乱のさなかで、聖母の生きる姿勢に倣い、さまざまに飛び交う言葉に踊らされることなく、神が望まれる世界の実現の道を見極めるために、祈りと黙想のうちに賢明な識別をすることができるように、聖霊の導きを祈り、またその導きに従う勇気を祈り願いたいと思います。

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教皇ヨハネパウロ二世は、神からの賜物である命の神秘とその尊さを説く回勅「いのちの福音」の締めくくりにこう記しています。
「キリスト誕生の秘義のうちに神と人との出会いが起こり、神の子の地上での人生の旅、十字架上で自らのいのちをささげることを頂点とする旅が始まります」

その上で教皇は、聖母の役割についてこう記しています。
「すべての人の名のもとに、すべての人のために、『いのちであるかた』を受け入れたのは、おとめにして母であるマリアでした。・・・マリアは、『自身がそのかたどりである教会と同じように、再生の恵みを受けたすべての人の母です。事実、マリアは、すべての人を生かしているいのちそのものである方の母です」

神の母である聖母マリアは、信仰に生きるわたしたちすべての母でもあります。聖母の生きる姿勢に倣い、わたしたちも、神の導きを冷静に識別し、聖霊の導きに勇気を持って身を委ね、神が望まれる正しい道、すなわち人間のいのちの尊厳を守る道を歩んでいきたいと思います。

その意味で、この二年間、教区からお願いしたさまざまな感染対策をご理解くださり、協力してくださっている皆様に、心から感謝申し上げます。自分の生命を守るためだけでなく、互いの生命を危険にさらさない行動は、隣人愛の選択であるとともに、神から与えられた賜物である生命を生きている私たちの努めでもあります。もちろん社会のなかにあって霊的な支柱となるべき教会ですから、最も大切なミサの公開中止などは極力避けたいと思いますので、今後も状況を見極めながら、適宜判断を続けます。感染対策の指針がしばしば変更となって混乱を招く場合もあり、大変申し訳なく思っています。新しい年になっても、今しばらくは慎重な対応が必要だと思われます。支え合いながら、互いのいのちに思いを馳せ、歩んで参りましょう。

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ところで一年の初めの日は、教会にとって、世界平和の日でもあります。かつて1968年、ベトナム戦争の激化という時代を背景に、パウロ六世が定められた平和のための祈りの日であります。

今年の世界平和の日にあたり、教皇フランシスコはメッセージを発表されています。今年のメッセージのテーマは、「世代間対話、教育、就労――恒久的平和を築く道具として」とされています。

教皇様は今年の平和メッセージで、安定した平和を築くための道として、歴史の記憶を守る高齢者と未来を切り開く若者の対話の必要性を説き、さらには世界各国における教育への投資の重要性、さらには労働者の尊厳の推進の大切さを説いています。

「世代間の対話」は、恒久的な平和を実現するために不可欠であると、教皇様は強調されています。また、「教育」は自由と責任と成長の条件であり、さらには総合的な人類の発展に不可欠な人間の尊厳の完全な実現のために、「労働」を尊厳あるものにすることを避けて通ることはできないと教皇様は説いておられます。

真の平和の実現のために、社会の現実における個々の問題に取り組むことはもちろん不可欠ですが、同時に総合的な視点を持つことの必要性を説かれる教皇様は、誰ひとり排除されない世界の実現を目指して、わたしたちに「歴史から学び、傷をいやすために過去に触れ、情熱を育て、夢を芽生えさせ、預言を生み、希望を花開かせるために未来に触れる」ようにと呼びかけておられます。

あらためて、神の秩序が確立された世界の実現を目指し、すべてのいのちが守られる世界を生み出すことができるように、教皇様の思いに心をあわせ、平和への思いを新たにいたしましょう。

 

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謹賀新年

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皆様、新年明けましておめでとうございます。

二年にわたる混乱の中でわたしたちは生きてきました。新しい年2022年が、希望と喜びに満ちた年となるように、ともに祈りましょう。皆様の健康が守られ、希望と喜びに満ちあふれた毎日となりますように、心からお祈りいたします。

またわたしも自信もまた、この一年、司教職をふさわしく果たすことができるように、皆様のお祈りで支えてくださるようにお願いいたします。

東京大司教の任命を受けてからすでに4年が経過し、東京での生活も5年目に入りました。その間、2019年には教皇訪日があり、また2020年と20201年は、コロナ禍のための混乱の渦中にあり、4年のうちの3年は、落ち着いて東京教区の宣教司牧にあたることができなかったと感じています。すでに発表させていただいた宣教司牧方針を、一歩ずつ実現する年にしたいと思います。皆様のご理解とご協力を、そして何よりもお祈りをお願いいたします。

なお、年頭の教区ニュースに掲載した皆様への新年のあいさつを、以下に再掲します。教区ニュースは、こちらのリンクからも全文をご覧いただけます。なお、この挨拶文を執筆した段階では、長崎の大司教様の任命は発表されていませんでしたので、触れていませんが、次の日記の記事でこれについては記します。

東京教区ニュース 2022年1/2月号

「明けない夜はない」などと言われますが、この二年ほどの間、私たちは感染症によってもたらされた世界的規模の暗闇の中で彷徨ってきました。たびかさなる波の襲来や変異株の出現など、不安を増し加える出来事が相次ぐ中、徐々にウイルスの研究も進み、夜明けは近いと感じることができるようになりました。

しかし、さまざまな形で影響を受けた世界では、感染症からだけではなく経済的にも、いのちが危機に直面し続けています。

この二年間、教区からお願いしたさまざまな感染対策をご理解くださり、協力してくださっている皆様に、心から感謝申し上げます。自分の生命を守るためだけでなく、互いの生命を危険にさらさない行動は、隣人愛の選択であるとともに、神から与えられた賜物である生命を生きている私たちの努めでもあります。ミサの公開中止などは極力避けたいと思いますので、今後も状況を見極めながら、判断を続けます。感染対策の指針がしばしば変更となって混乱を招く場合もあり恐縮ですが、ご理解いただきますようにお願いいたします。新しい年になっても、今しばらくは慎重な対応が必要だと思われます。互いに支え合いながら、歩んで参りましょう。

さて、教会は今、シノドスの歩みをともにしています。詩編100の3節に、「わたしたちは主のもの、その民、主に養われる羊の群れ」と記されていますが、洗礼によってキリストの体において一つに集められた私たちは、神に養われる羊の群れとして、神の民を形作っています。わたしたちはともに歩む共同体です。

第二バチカン公会議の教会憲章は、教会が個人の信心の積み重ねであると同時に、一つの神の民であることを強調しました。教会憲章には、「しかし神は、人々を個別的に、まったく相互の関わりなしに聖化し救うのではなく、彼らを、真理に基づいて神を認め忠実に神に仕える一つの民として確立することを望んだ」(教会憲章9)と記されています。

神の民を形作るわたしたち一人ひとりには、固有の役割が与えられています。共同体の交わりの中で、一人ひとりが自らに与えられた役割を自覚し、それを十全に果たすとき、神の民全体はこの世にあって、福音をあかしする存在となることができます。わたしが司教職のモットーとしている「多様性における一致」は、それぞれの役割を認識し、その役割を忠実に果たすところに多様性の意味があり、キリストの体をともに作り上げることに、一致があります。

わたしたちの信仰は、共同体における「交わり」のうちにある信仰です。わたしたちの信仰は、キリストの体である共同体を通じて、キリストの体にあずかり、いのちを分かち合い、愛を共有する交わりのなかで、生きている信仰です。

交わりによって深められたわたしたちの信仰は、私たち一人ひとりに行動を促します。「交わり」は互いの声に耳を傾ける「聞く」態度を生み出し、そこから「参加」を生み出します。一人ひとりが共同体の交わりにあって、与えられた賜物にふさわしい働きを自覚し、それを十全に果たしていくとき、神の民は福音をあかしする宣教する共同体となっていきます。ここにシノドスのテーマ、「ともに歩む教会のため-交わり、参加、そして宣教-」の意味があります。

今回のシノドスの歩みを通じてわたしたちは、共同体における信仰の感覚をとおして、神の民であるという自覚を深めるように招かれています。確かに会議を開いて、設問に回答を見出していく作業は、何かを成し遂げたという実感を与えてくれます。ところが今回、教皇様は、会議をして結論を出すことよりも、「神の民」であることの自覚を共有するための学びや分かち合いの過程そのものが大切なのだと強調されます。

教区担当者である小西神父が中心になって、さまざまな学びのためのビデオを作成しておりますので、是非ご覧いただき、その内容について、複数の方と心に浮かんだ思いを分かち合うことを、それぞれの小教区では続けていただければと思います。

教会は社会の現実の苦しみ、特に今般のパンデミックによる痛みへの共感を持つように招かれています。社会にあって今を一生懸命に生きている人たち、すなわち貧しい人々との対話や連帯へと招かれています。いのちを生きる道や文化の多様性を尊重するように招かれています。

シノドスの歩みに合わせて、東京教区では先に発表した宣教司牧方針を深めてまいります。宣教司牧方針は、私たちの教会が、「宣教する共同体、交わりの共同体、すべてのいのちを大切にする共同体」となることを目指しています。この実現のため、シノドスの歩みから私たちはさまざまな示唆をいただくことができます。

宣教司牧方針を具体化して行くにあたって、この春には、東京教区のカリタス組織である「カリタス東京」が誕生します。教会にとって愛の奉仕の業は、福音宣教と祈りや典礼と並んで、欠かすことのできない本質的な要素です。同時に、現在の教区の体力の中で、広くさまざまな課題に取り組むためには、組織を集中させることが不可欠です。教区内ですでに活動しているさまざまな動きと連動しネットワークを強化しながら、教会の愛の奉仕の業を深めてまいります。

教区カテキスタ養成を含めた生涯養成に関しては、コロナ禍で実施が滞ってしまったところがありますが、状況の緩和に合わせて、さらに充実させていくよう努めます。

また、宣教協力体の見直し作業と、小教区規約の規範版の作成を、教区宣教司牧評議会に諮りながら、作業部会を設置して議論を深める予定でした。残念ながら宣教司牧評議会を開催することができずに一年が経過してしまいました。これも状況の緩和を見極めながら、早急に作業を再開する予定です。

ところで、この2月からわたしは、日本カトリック司教協議会の会長に就任することになりました。任期は3年です。選出していただいた司教様方の期待に応え、日本の教会のために全力を尽くしたいと思います。また、先般わたしは、アジア司教協議会連盟の事務局長にも選出されました。アジア各国の司教協議会のこの連盟は、日々の実務を香港に駐在する事務局次長に委ねるものの、任期の2024年末まで、できる限り責務を忠実に果たしたいと思います。求められている責務を忠実に、ふさわしく果たすことができるように、皆様のお祈りによる支えを、心からお願いいたします。

先般教皇様は、仙台司教として淳心会会員のエドガル・ガクタン師を任命されました。仙台教区の皆様にお祝いを申し上げると同時に、東京教区にとっては松原教会の主任司祭を失うことにもなりました。ガクタン被選司教のこれからの活躍の上に、神様の祝福を祈ります。

なお、今年2022年の待降節第一主日から、日本語の典礼式文が変更となります。30年余にわたる翻訳作業と、試行錯誤と、典礼秘跡省との交渉の実りです。今後、式文以外のミサのさまざまな祈りの文章も新しくなっていきます。よりふさわしい典礼を行うことができるように、この際、典礼についても学びを深めていただきますようにお願いいたします。

新しい年の初めにあたり、皆様の上に、全能の御父の豊かな祝福がありますように、お祈りいたします。

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