年間第八主日(ウクライナの平和のために祈るミサ)@東京カテドラル
年間第八主日は、ウクライナへのロシアの軍事侵攻の事態を受け、教皇様から灰の水曜日には特別に平和のための断食と祈りをするようにとの呼びかけもあり、この主日のミサをウクライナの平和のために祈るミサとして、関口教会10時のミサを捧げました。
残念ながら、字幕を入れて配信する関係で、説教内容を直前に変更することができませんので、灰の水曜日にまたお話をさせていただくことにして、ミサの初めにいつもより少し長く時間を取って、ミサの意向の説明をさせていただき、さらに説教の初めに少し付け加えさせていただきました。
なおこの機会に是非、教皇ヨハネ23世の「地上の平和」を読み直していただければと思いますし、また第二バチカン公会議の現代世界憲章の第5章、77項以降に目を通していただければと思います。
以下、本日10時のミサ説教の原稿です。
年間第八主日C(配信ミサ)
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2022年2月27日63年前、1959年1月25日、聖パウロの回心の記念日に、ローマの城壁外にある聖パウロ大聖堂を訪れたのは、教皇ヨハネ23世でありました。そこに集まった数名の枢機卿たちを前に、教皇ヨハネ23世は、突然、公会議を開催することを宣言されました。第二バチカン公会議が始動した瞬間でした。
それ以前に、ピオ11世やピオ12世のころに、途中で中断する形になっていた第一バチカン公会議を再開することが検討はされていましたが、相談すればするほど、それは無理だろうという意見が大勢を占めていましたから、この突然の教皇ヨハネ23世の宣言には、多くの人が驚いたことだろうと思います。
このヨハネ23世の英断がなければ、教会の今の姿はなかったことでしょう。そしてその英断は、個人の判断ではなくて、聖霊の導きであると教皇様は確信しておられました。
もちろん聖なる教会は連綿と連続して存在しているのであって、第二バチカン公会議前と公会議後の教会が、全く異なる教会であることはあり得ません。そうではなくて、教会の土台である信仰の真理は全く変わることなく、それを時代の現実の中で具体的に生きる道を真摯に追求し、見いだそうとしたのが、第二バチカン公会議であったと思います。教会共同体が、今わたしたちのただ中で生きておられる神の御言葉と歩みを共にするために、重要な役割を果たした公会議であったと思います。
この発表直後から、公会議に向けた準備が始まりました。3年の時間をかけて、様々な準備委員会が設けられ、検討が続けられて、最終的に1961年12月25日に発布された「フマーネ・サルティス」において、正式な開会が翌年1962年と定められ、実際には1962年の10月11日に最初の総会会議が始まりました。
「フマーネ・サルティス」に記された、次の言葉をあらためて耳にするとき、公会議を開催するようにと教皇ヨハネ23世に決断を促した聖霊の導きが、心に響きわたります。
「現在、教会は人類社会が危機に直面していること、大きく変動していることを知っている。人類が新時代への転機に立っている現在、これまでの転換期にそうであったように、教会の任務は重い。教会は現代世界の血管に、福音の永遠の力、世界を生かす神の力を送りこまなければならない」と記されていました。
わたしたちは、現代世界の血管に、福音の永遠の力を送り込むのであります。福音の永遠の力は生きている神の言葉そのものであり、その神の言葉には、世界を生かす神の力がみなぎっています。わたしたちの信仰は、生きている神の言葉を心に刻み、それに生き、それを告げしらせる信仰です。神の言葉に生かされ、導かれる信仰です
先ほど朗読されたシラ書は、箴言や知恵の書と並んで、人生の現実を冷徹に見据えた辛辣な言葉に満ちあふれています。その言葉は辛辣であると同時に、人生を豊かに生きる上での奥深い示唆にも満ちあふれた含蓄に富む言葉でもあります。
先ほどの箇所を耳にすると、「まさしくその通り」としか言い様がありません。「ふるいを揺さぶると滓が残るように、人間も話をすると欠点が現れてくるものだ」と記されていました。また「樹木の手入れは、実を見れば明らかなように、心の思いは話を聞けば分かる」とも記されています。
わたしたちが語る言葉は、わたしたちの心の反映です。口から出る言葉は、わたしたちの心の鏡です。今こうして言葉を語っている自分自身への自戒も込めてでありますが、自分を大きく見せよう、より良い者として見せよう、などと不遜なことを考えて心にもないことを語ったとしても、語る言葉そのものがその野望を打ち砕きます。わたしたちは結局、自分が心に持っていないものを、言葉を通じて語ることはできません。わたしたちが語る言葉は、機械が語るデジタルな音の羅列ではなくて、わたしたちの心の反映です。
ルカ福音はそのことを、イエスの言葉として、「人の口は,心からあふれ出ることを語るのである」と記しています。それはすなわち「木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる」という言葉に集約されます。そうであるならば、わたしたちはどのような実を結んでいるのでしょうか。わたしたちが結んでいる実で、わたしたちの中味は明らかにされてしまいます。
同時にルカ福音は、「兄弟の目にあるおがくずは見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか」と語るイエスの言葉を記します。どれほどわたしたちは、自らの身を振り返ることなく,他者を裁いていることでしょうか。他者を裁き断罪するとき、わたしたちは時に大きな思い違いをしてはいないでしょうか。自分も同じように、過ちを犯す人間である。弱さを抱えた人間であるということを、忘れてはいないでしょうか。他人を裁くときに、わたしたちの口から語られる言葉は、やはりわたしたちの心の反映です。裁く心に、果たして愛は宿っているでしょうか。
コリントの教会への手紙でパウロは、「死よお前の勝利はどこにあるのか」と記しています。死は人間のいのちを奪い、すべてを無に帰することによって、あたかもわたしたちを完全に支配しているかのようであり、それによってわたしたちの上に勝利する存在であるかのように思われます。わたしたちは死によって、すべてを失うからであります。しかしパウロは、死はすべての終わりではなく、死に打ち勝って復活した主イエスによって、わたしたちは死による見せかけの勝利を打ち砕き、新しいいのちに生きるという本当の勝利に与るのだと指摘します。人間の存在を無に帰する死という究極の出来事を、主の復活が打ち砕いてしまったのですから、それにあずかる者には恐れるものがありません。
パウロは「主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを」わたしたち知っているはずだと記します。主に結ばれているという確信を持っていないときに、困難に直面するわたしたちは他者を裁きます。主に結ばれているという確信を持っていないときに、困難を自分で乗り越えようとしてわたしたちはむなしく虚栄に満ちた言葉を語ります。わたしたちは、主に結ばれて福音に生き、その福音を忠実に語り、その福音が現実化するように努めなくてはなりません。福音は心に秘めておくものではなく、わたしたちの日々の生活を通じて、つまりわたしたちの語る言葉と行いを通じて証しするものです。
あらためて、第二バチカン公会議を招集された教皇ヨハネ23世の言葉を思い起こします。わたしたち「教会は現代世界の血管に、福音の永遠の力、世界を生かす神の力を送りこまなければ」なりません。(ヨハネ23世「フマーネ・サルティス」)
わたしたち教会は、自分の言葉ではなくて、神の言葉を語らなくてはなりません。
わたしたち教会は、その始まりの日から常に導いてくださる聖霊の働きに信頼し、その導きに身を委ね、わたしたちとともにおられる主に常にむずばれて、いのちの言葉を語り続けるものでありましょう。
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