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2022年2月27日 (日)

年間第八主日(ウクライナの平和のために祈るミサ)@東京カテドラル

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年間第八主日は、ウクライナへのロシアの軍事侵攻の事態を受け、教皇様から灰の水曜日には特別に平和のための断食と祈りをするようにとの呼びかけもあり、この主日のミサをウクライナの平和のために祈るミサとして、関口教会10時のミサを捧げました。

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残念ながら、字幕を入れて配信する関係で、説教内容を直前に変更することができませんので、灰の水曜日にまたお話をさせていただくことにして、ミサの初めにいつもより少し長く時間を取って、ミサの意向の説明をさせていただき、さらに説教の初めに少し付け加えさせていただきました。

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なおこの機会に是非、教皇ヨハネ23世の「地上の平和」を読み直していただければと思いますし、また第二バチカン公会議の現代世界憲章の第5章、77項以降に目を通していただければと思います。

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以下、本日10時のミサ説教の原稿です。

年間第八主日C(配信ミサ)
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2022年2月27日

63年前、1959年1月25日、聖パウロの回心の記念日に、ローマの城壁外にある聖パウロ大聖堂を訪れたのは、教皇ヨハネ23世でありました。そこに集まった数名の枢機卿たちを前に、教皇ヨハネ23世は、突然、公会議を開催することを宣言されました。第二バチカン公会議が始動した瞬間でした。

それ以前に、ピオ11世やピオ12世のころに、途中で中断する形になっていた第一バチカン公会議を再開することが検討はされていましたが、相談すればするほど、それは無理だろうという意見が大勢を占めていましたから、この突然の教皇ヨハネ23世の宣言には、多くの人が驚いたことだろうと思います。

このヨハネ23世の英断がなければ、教会の今の姿はなかったことでしょう。そしてその英断は、個人の判断ではなくて、聖霊の導きであると教皇様は確信しておられました。

もちろん聖なる教会は連綿と連続して存在しているのであって、第二バチカン公会議前と公会議後の教会が、全く異なる教会であることはあり得ません。そうではなくて、教会の土台である信仰の真理は全く変わることなく、それを時代の現実の中で具体的に生きる道を真摯に追求し、見いだそうとしたのが、第二バチカン公会議であったと思います。教会共同体が、今わたしたちのただ中で生きておられる神の御言葉と歩みを共にするために、重要な役割を果たした公会議であったと思います。

この発表直後から、公会議に向けた準備が始まりました。3年の時間をかけて、様々な準備委員会が設けられ、検討が続けられて、最終的に1961年12月25日に発布された「フマーネ・サルティス」において、正式な開会が翌年1962年と定められ、実際には1962年の10月11日に最初の総会会議が始まりました。

「フマーネ・サルティス」に記された、次の言葉をあらためて耳にするとき、公会議を開催するようにと教皇ヨハネ23世に決断を促した聖霊の導きが、心に響きわたります。

「現在、教会は人類社会が危機に直面していること、大きく変動していることを知っている。人類が新時代への転機に立っている現在、これまでの転換期にそうであったように、教会の任務は重い。教会は現代世界の血管に、福音の永遠の力、世界を生かす神の力を送りこまなければならない」と記されていました。

わたしたちは、現代世界の血管に、福音の永遠の力を送り込むのであります。福音の永遠の力は生きている神の言葉そのものであり、その神の言葉には、世界を生かす神の力がみなぎっています。わたしたちの信仰は、生きている神の言葉を心に刻み、それに生き、それを告げしらせる信仰です。神の言葉に生かされ、導かれる信仰です

先ほど朗読されたシラ書は、箴言や知恵の書と並んで、人生の現実を冷徹に見据えた辛辣な言葉に満ちあふれています。その言葉は辛辣であると同時に、人生を豊かに生きる上での奥深い示唆にも満ちあふれた含蓄に富む言葉でもあります。

先ほどの箇所を耳にすると、「まさしくその通り」としか言い様がありません。「ふるいを揺さぶると滓が残るように、人間も話をすると欠点が現れてくるものだ」と記されていました。また「樹木の手入れは、実を見れば明らかなように、心の思いは話を聞けば分かる」とも記されています。

わたしたちが語る言葉は、わたしたちの心の反映です。口から出る言葉は、わたしたちの心の鏡です。今こうして言葉を語っている自分自身への自戒も込めてでありますが、自分を大きく見せよう、より良い者として見せよう、などと不遜なことを考えて心にもないことを語ったとしても、語る言葉そのものがその野望を打ち砕きます。わたしたちは結局、自分が心に持っていないものを、言葉を通じて語ることはできません。わたしたちが語る言葉は、機械が語るデジタルな音の羅列ではなくて、わたしたちの心の反映です。

ルカ福音はそのことを、イエスの言葉として、「人の口は,心からあふれ出ることを語るのである」と記しています。それはすなわち「木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる」という言葉に集約されます。そうであるならば、わたしたちはどのような実を結んでいるのでしょうか。わたしたちが結んでいる実で、わたしたちの中味は明らかにされてしまいます。

同時にルカ福音は、「兄弟の目にあるおがくずは見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか」と語るイエスの言葉を記します。どれほどわたしたちは、自らの身を振り返ることなく,他者を裁いていることでしょうか。他者を裁き断罪するとき、わたしたちは時に大きな思い違いをしてはいないでしょうか。自分も同じように、過ちを犯す人間である。弱さを抱えた人間であるということを、忘れてはいないでしょうか。他人を裁くときに、わたしたちの口から語られる言葉は、やはりわたしたちの心の反映です。裁く心に、果たして愛は宿っているでしょうか。

コリントの教会への手紙でパウロは、「死よお前の勝利はどこにあるのか」と記しています。死は人間のいのちを奪い、すべてを無に帰することによって、あたかもわたしたちを完全に支配しているかのようであり、それによってわたしたちの上に勝利する存在であるかのように思われます。わたしたちは死によって、すべてを失うからであります。しかしパウロは、死はすべての終わりではなく、死に打ち勝って復活した主イエスによって、わたしたちは死による見せかけの勝利を打ち砕き、新しいいのちに生きるという本当の勝利に与るのだと指摘します。人間の存在を無に帰する死という究極の出来事を、主の復活が打ち砕いてしまったのですから、それにあずかる者には恐れるものがありません。

パウロは「主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを」わたしたち知っているはずだと記します。主に結ばれているという確信を持っていないときに、困難に直面するわたしたちは他者を裁きます。主に結ばれているという確信を持っていないときに、困難を自分で乗り越えようとしてわたしたちはむなしく虚栄に満ちた言葉を語ります。わたしたちは、主に結ばれて福音に生き、その福音を忠実に語り、その福音が現実化するように努めなくてはなりません。福音は心に秘めておくものではなく、わたしたちの日々の生活を通じて、つまりわたしたちの語る言葉と行いを通じて証しするものです。

あらためて、第二バチカン公会議を招集された教皇ヨハネ23世の言葉を思い起こします。わたしたち「教会は現代世界の血管に、福音の永遠の力、世界を生かす神の力を送りこまなければ」なりません。(ヨハネ23世「フマーネ・サルティス」) 

わたしたち教会は、自分の言葉ではなくて、神の言葉を語らなくてはなりません。

わたしたち教会は、その始まりの日から常に導いてくださる聖霊の働きに信頼し、その導きに身を委ね、わたしたちとともにおられる主に常にむずばれて、いのちの言葉を語り続けるものでありましょう。

 

 

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2022年2月26日 (土)

週刊大司教第六十六回:年間第八主日

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このところ危機的な状況が継続していたウクライナを巡る国際的緊張関係は、国際社会の対話による解決への呼びかけもむなしく、ロシアの軍事侵攻へと発展してしまいました。

二つ前の記事でもお知らせしましたが、教皇様は、3月2日の灰の水曜日に平和を求めて断食と祈りをするように呼びかけておられます。また教皇様ご自身は、駐バチカン・ロシア大使館へ直接出向かれて、平和への願いを伝えられたとのことです。

これまでも世界の歴史の中で同様の行動が繰り返されてきたことですが、政治的・軍事的に大きな力を持った国による、他の独立国をもてあそぶような行動は、世界に与える影響を考えるとゆるされることではありません。また今後の世界秩序に与える影響にも大きなものがあると思われます。今般の事態に関わる政治のリーダーたちが、共通善に資する道を選択し、いのちの尊厳を守る道を選択し、一日も早い事態の沈静化をはかるように望みます。同時に、賜物であるいのちが、これ以上の危機にさらされることのないように祈ります。

以下、本日午後6時配信の、週刊大司教第66回、年間第八主日のメッセージ原稿です。

年間第八主日C(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第66回
2022年2月27日

シラ書は、箴言や知恵の書と並んで、人生の現実を冷徹に見据えた辛辣な言葉に満ちあふれています。その言葉は辛辣であると同時に、人生を豊かに生きる上での奥深い示唆にも満ちあふれた含蓄に富む言葉でもあります。

本日の朗読として指定されているシラ書の箇所は、「まさしくその通り」としか言い様がない示唆に富んだ言葉の羅列であります。「人間も話をすると欠点が現れてくるものだ」と記され、また「心の思いは話を聞けば分かる」と記されています。わたしたちが語る言葉は、わたしたちの心の反映です。心の鏡です。今こうして言葉を語っている自分自身への自戒も込めてでありますが、心にもないことを語ることで自分をより良く見せようとしても、語る言葉がその野望を打ち砕きます。

ルカ福音はそのことを、イエスの言葉として、「人の口は,心からあふれ出ることを語るのである」と記しています。それはすなわち「木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる」という言葉に集約されます。わたしたちはどのような実を結んでいるのでしょうか。

同時にルカ福音は、「兄弟の目にあるおがくずは見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか」と語るイエスの言葉を記します。どれほどわたしたちは、自らの身を振り返ることなく,他者を裁いていることでしょうか。他者を裁き断罪するとき、わたしたちは時に大きな思い違いをしてはいないでしょうか。自分も同じように、過ちを犯す人間である。弱さを抱えた人間であるということを、忘れてはいないでしょうか。

コリントの教会への手紙でパウロは、「死よお前の勝利はどこにあるのか」と記しています。死は人間のいのちを奪い、すべてを無に帰することによって、あたかもわたしたちを完全に支配しているかのようであり、それによってわたしたちの上に勝利する存在であるかのように思われます。わたしたちは死によって、すべてを失うからであります。

しかしパウロは、死はすべての終わりではなく、死に打ち勝って復活した主イエスによって、わたしたちは死による見せかけの勝利を打ち砕き、新しいいのちに生きるという本当の勝利に与るのだと指摘します。人間の存在を無に帰する死という究極の出来事を、主の復活は打ち砕いてしまったのですから、それにあずかる者には恐れるものがありません。パウロは「主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを」わたしたち知っていると記します。

主に結ばれた苦労に身を委ねないときに、わたしたちは他者を裁きます。主に結ばれた苦労に身を委ねないときに、わたしたちはむなしく虚栄に満ちた言葉を語ります。わたしたちは、主に結ばれて福音に生き、その福音を忠実に語り、その福音が現実化するように努めなくてはなりません。福音は心に秘めておくものではなく、わたしたちの日々の生活を通じて、つまりわたしたちの語る言葉と行いを通じて証しするものです。

特に、感染症の状況が続く中で、さまざまな活動の自粛が続き,勢いわたしたちはインターネットを通じたコミュニケーションに比重を大きく移しています。インターネットにおける無責任な発言や、他人を裁く言動、また面白おかしくするためなのか、全く真実ではないことを広めようとする言説。時に他者の命を奪うほどの負の力を秘めた言葉の暴力。言葉の後ろに控える人間の心の鏡です。だからこそ、「教会は現代世界の血管に、福音の永遠の力、世界を生かす神の力を送りこまなければ」なりません。(ヨハネ23世「フマーネ・サルーティス」)

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秋津教会堅信式

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2022年2月20日午後2時から、清瀬市にある秋津教会で、11名の方の堅信式を行いました。おめでとうございます。

主任司祭の野口神父様の依頼で、人数制限している中で多くの方に司教ミサに与っていただくことができるように、今回の秋津教会訪問では、前晩土曜日の夕方6時、日曜日の午前10時、そして午後2時と、三回のミサを捧げました。またミサには、間もなく新しい司教様から助祭叙階を受ける予定の、仙台教区の高木健太郎神学生が、侍者のリーダとして奉仕してくれました。高木神学生は、東京の神学院で養成を受けていますが、これまで秋津教会で神学生としての主日の使徒職奉仕をしてきました。

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また土曜の夜と日曜の朝のミサでしたので、一晩泊まりましたが、泊まった先は所沢駅前のホテル。東京教区の小教区を訪問して、宿泊はさいたま教区内というのも、興味深いです。ミサには慈生会の病院や施設で働いておられるベタニア会のシスター方も、大勢参加してくださいました。

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以下、堅信式ミサの説教録音から書き起こして、多少の手直しをした原稿です。

秋津教会堅信式
2022年2月20日

堅信の秘蹟を受ける皆さん、おめでとうございます。
キリスト者として完成して行くためには、洗礼を受け、聖体を受け、そして堅信を受けるという、この3つが必要なわけですけれども、今日堅信を受けることによって、その入信の過程、キリスト者となって行くというプロセスが、完成します。完成するのですから、堅信の秘蹟を受けたその直後には、完成したキリスト者がここに誕生するはずなんですよね。

完成したキリスト者というのは、いろいろな形容をされます。以前はよく、キリストの兵士になると言われていました。キリストのために戦う、この社会の中で戦ってゆく兵士になるのだというようなことでしょう。

成熟した信仰者になるという言い方もします。大人の信仰者になる、大人の信徒になる、いろんな言い方をしますけれども、いずれにしろ自立して、しっかりと信仰を生きて行く者となると言うことです。堅信を受けることで入信の秘蹟が完成し、そのときに、そういう信仰者となるということが求められているということを、まずもって心に留めたいと思います。

その意味で、今日のこのルカによる福音は、年間第7の主日の福音であり、特別に選んだ福音ではないけれども、そこには、イエス様が私たちに、まさしく成熟した大人の信仰者としてどういう生き方をしてほしいのかということが、しっかりと記されていると思います。

でもその前に、第1朗読のサムエル記の話をちょっと見て頂きたいのです。
今日のサムエル記は、イスラエルの王様の話です。イスラエルの民に最初は王様はいなかったのですけれども、当のイスラエルの民が自分たちも王様が欲しいと望んだので、神様がサウルという人を選んだのです。ところが、ある年月、王として治めたのちに、サウルが神様の意に添わない行動を取り始めた。そこで神様は、今度はダビデを王として選びます。ですから、今日の朗読の段階では、それを悟ったサウルが、自分の王座を奪おうとしているダビデに対する敵意を非常に燃やしているのです。元々サウルとダビデはとても仲が良かった、というか、ダビデは懸命にサウルに使えていました。しかし、今やサウルは敵意を燃やして、ダビデの命を奪い取ろうとしている。

それが、荒れ野で野営をしているときに、ダビデたちはサウルのところに忍び込むことに成功するわけです。さあ、目の前にサウルがいる。ダビデの部下は、もうこれは、神がサウルを私たちに手渡してくれているのだと、今ここでサウルを仕留めよう、殺してしまいましょうとダビデに提案するのですが、それに対してダビデは、いや、そんなことをしてはいけない。「主が油を注がれた方に手をかければ、罰を受けずには済まない」と答えたという話が書かれています。

実はもう一回、他の箇所でも同じようなことがあるのです。
洞窟の中に隠れていたダビデたちの目の前に、サウルが一人で現れた。さあ、今こそ神がサウルをダビデに手渡したのだからここで殺してしまおうと、部下の者たちがダビデに勧めます。けれどもダビデはサウルを殺すことなく、その服の端を切り取るだけで済ましたという話もあります。

もちろん、今日の福音の中に「敵を愛しなさい」という言葉があるので、その敵を愛するという言葉に通じる話として、この第1朗読が選ばれているのだろうと思います。けれどもこの物語の中で重要なのは、ダビデの言葉なんですね。つまり、目の前に起こっている出来事を見てダビデの部下たちは、これが神の思い、これが神の計画、今こそ神がサウルをダビデに渡しているんですと、勝手に解釈しているんですよね。それこそが神の思し召しだ、これこそが神が望んでいることだと、皆は様々に言うんですけれど、ダビデはそれに乗らないんですよ。あくまでも、神が選んだ人を、つまり神の計画を私は勝手に変えることはできないんだと、はっきりと言うんです。

この世の中ではいろんなことが起こっていきますね。その中で私たちは、これこそきっと神様が望んでいることに違いない、神の思し召しだと解釈をし、その解釈に従って生きていこうとするんです。しかし、よく考えてみないと、大きな間違いをすることがあるかもしれないのです。
つまりこの時ダビデの部下たちも、自分たちの都合のいいように神様の思いを解釈しているんですよ。自分たちにとって都合のいいのは、ここでサウルを殺してしまうことなので、それこそが神の思し召しなんですと言って、ダビデを一所懸命説得しようとするわけです。

私たちの人生の中でもあるはずです。これこそ神様が望んでいることに違いないと思ったときには、落ち着いて、本当に神がそれを望んでいることなのか、それとも私がただ単にそうして欲しいと思っているだけなのか、それをよく考えてみないといけないんですね。

神が計画していること、神が望んでいることを、私たちが勝手に変えていくことは許されていないのです。本当に神が何を望んでいるのかということを、しっかりと知る、識別すると良く教会では言いますが、起こっている出来事を見極めて、神が本当に望んでいることは何なのか、どっちに歩みを進めることなのかということを、はっきり知ることが大切です。もしかしたら、私にとって都合がいいだけなんじゃないか、これを選んだら私が満足するだけなんじゃないのと、これを選んだら私が優位になるだけなんじゃないのと、まずは落ち着いて識別する必要があります。

自分にとって有利なことだとか、自分にとって都合のいいことが神の思し召しと思ったら、それはたぶん違います。
だいたい、自分にとって都合の良くないことの方が多いです、神様が考えていることは。

ですから、成熟した信仰者として生きていこうというときに、神様は私に何を望んでいるのだろうと一所懸命に考えていて、なんか都合のいいことばかり思い浮かんで来たら、それはたぶん自分が勝手に解釈しているだけ。神様はそう思っていないことが多いので、そこはちゃんと見極めた方がいいかなというふうに思います。

そして、ルカの福音には、私たちがどう生きるべきなのかということが書いてあります。
たとえば「敵を愛しなさい」。今まさに、一発即発で戦争が起こるんじゃないかと、ウクライナなどで起こっていることを耳にすると、非常に大きな不安になりますね。この「敵を愛しなさい」という言葉は、今の時代だけでなくて人類の歴史の中で、本当に繰り返し必要とされてきた言葉ですし、繰り返し、私たちはそれを叫んでゆかなければならない。「敵を愛しなさい」と。
また、「裁くな」ということは、人を裁くことによって自分も裁き返されるかもしれないということも書いてあります。自分が裁こうとするその秤で、自分も測り返される。だから人を裁いてはいけないということですが、今日のルカ福音の中で一番大切な言葉は、「人にしてもらいたいということを人にしなさい」という言葉だと思います。「人にしてもらいたいということを人にしなさい」。

もちろん、気を付けなくてはならないのは、自分がしてもらいたいことを人にしただけでは、それはただの親切の押し付けにしかならないんですね。私がしてもらいたいことが、他の人もしてもらいたいとは限らないので、私がしてもらいたいことを人にもというのは、どういうことをいっているんだろうと、その意味を考えないと、ただ単に、親切の押し付け、押し売りをしているだけのことになってしまいます。

この言葉でイエス様はいったい、何を私たちに求めているのだろうと考えることです。
私が何かをしてもらいたいというときは、その理由を知っている。どうして私は私のことを知っているんだろう。自分のことだから当たり前のだと言ってしまえば身も蓋もないですけれども、でも、自分が何かをしてほしいということを知っている一番大きな理由は、
私が私自身の命を一番大切にしているから。私の命を生かしていきたいから。私の命が十分に尊厳を守られて生きていけるようにするために、こういうことをしてほしい、ああいうことをしてほしいとわかるのです。自分の命を大切にしているからこそ、私たちは自分が何をしてほしいのか知っているんです。

だからそれと同じように、他人にもしなさい。つまり、他人の命を大切にし、他人の命が生かされるためには何が必要なのかをしっかりと知るために、その人の思い、言葉に、耳を傾けなさいと。他の人たちに、隣人の思いや心に、耳を傾ける。そして、命をしっかり守っていくことが出来るように支え合うこと。それが大切なんだということを、今日のこの言葉は私たちに伝えていると思います。

教皇様は、特にこの感染症の状況になってからの2年間、しばしば、「私たちがこの状況から抜け出すために一番重要なのは、互いに支え合うことによる連帯です」と、「連帯」という言葉を盛んに繰り返されます。しかもそれが残念ながらこの2年間、これだけの危機的な状況の中にいるにもかかわらず実現していないということも、しばしば指摘をされています。

私たちは、互いに支え合って、連帯していかなければ命を守っていくことはできないのだということを、教皇様は繰り返し仰っておられますけれども、まさしく「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」というこの言葉は、互いに大切にし合い、互いに支え合い、連帯して生きていくということの大切さを、私たちに教えていると思います。

教会は共同体です、と私たちは言いますけれど、その共同体というのはいったい何なのかといえば、互いに支え合い、連帯する人たちの集まりであるということです。

私たちはこの教会共同体の中で、互いを大切にし合い、互いに支え合っていくのです。
命が希望をもって生きていくことができるように、連帯し繋がりながら、一緒になって歩んでいきたいと思います。

 

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2022年2月25日 (金)

ウクライナの平和のために祈る

国際社会からの度重なる対話への呼びかけにもかかわらず、ロシアによるウクライナへの軍事侵攻が現実となってしまいました。第二次世界大戦後、その悲劇的な体験から多くを学んだはずの人類は、例えば国連憲章などを通じて、国家が武力によって現状変更することを否定してきたはずでした。

国連憲章第2条4項:「すべての加盟国は、その国際関係において、武力による威嚇又は武力の行使を、いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも、また、国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎まなければならない」

バチカンニュース日本語版でも、教皇様の一般謁見での祈りの呼びかけや、国務長官パロリン枢機卿の声明などが報道されています。

教皇様は、灰の水曜日に平和を求めて断食と祈りをささげるように呼びかけておられます。これに関して、本日付で、東京教区でわたしからの呼びかけ文を発表しましたので、以下に転載します。(東京教区ホームページにも掲載されています)

平和を求めての祈りの日
(2022年灰の水曜日)

「平和によってはなにも損なわれないが、戦争によってはすべてが失われうる」(教皇ピオ12世1939年8月24日のラジオメッセージ)

ウクライナとロシアの国境を挟んで高まっていた緊張は、国際社会の度重なる平和と対話の呼びかけにもかかわらず、ロシアによる軍事侵攻の開始決定という残念な道をたどり、すでに多数の人がいのちの危機に直面しています。

第二次世界大戦前夜のピオ12世の言葉をかみしめながら、あらためて教会は、「武力に頼るのではなく、理性の光によって-換言すれば、真理、正義、および実践的な連帯によって(ヨハネ23世「地上の平和」62)」、国家間の諸課題は解決されるべきであり、その解決を、神からの賜物であるいのちを危機に直面させ、人間の尊厳を奪う武力に委ねることはできないと主張します。わたしたちの共通の家が平穏に保たれ、真の神の秩序が確立されるように、政治の指導者たちが対話を持って解決の道を模索することを心から願っています。

教皇様は、ロシアによる侵攻の危険が高まっていた2月23日水曜日の一般謁見で、ウクライナの平和のために、3月2日の灰の水曜日を、特別な断食と祈りの日とするように呼びかけられました。「神は平和の神であり、戦争の神ではありません。神は皆の父であり、誰かのものではありません。わたしたちが必要とするのは兄弟であり、敵ではありません」と呼びかけられた教皇様は、「暴力の悪魔的な無分別さに対して、神の武器、すなわち、祈りと断食をもって答えることをイエスは教えました」と述べ、今年の灰の水曜日を、平和の祈りのための特別な日とすることを定められました。

教皇様のこの呼びかけに応え、3月2日の灰の水曜日に典礼の規定に従って「大斎・小斎」をまもるにあたり、特にウクライナにおける平和のために祈るようにお願いいたします。

また東京教区にあっては、2月27日、または3月6日のいずれかの主日ミサにおいて、教皇様の意向に従って、ウクライナの状況を心に留めながら、平和のためにミサを捧げてくださるようにお願いいたします。

2022年2月25日

カトリック東京大司教区 大司教
菊地功

 

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2022年2月19日 (土)

週刊大司教第六十五回:年間第七主日

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定例司教総会は、予定より半日早く、木曜日の午後には終了しました。その日は夕方に、ヨルダン大使と懇談。ヨルダンの現状と、難民受け入れの問題と、聖地巡礼へのお誘いのお話を伺い、今後の協力の方向性を確認しました。(下写真、左がリーナ・アンナーブ大使)

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ヨルダンは国際カリタスの会議のために、以前アンマンを訪れたことがあります。そのときの司教の日記のリンクです。その際にも、ヨルダンが受け入れているシリアからの難民の現状を伺い、カリタスヨルダンの運営する難民受け入れ施設を訪問しました。

前記事でお知らせしたように、今回の司教総会で、司教様たちの担当が更新となりました。私のように交代となった司教もいれば、留任や新任もあります。一覧は、中央協議会のこちらのホームページをご覧ください。すでにお知らせしたとおり、カリタスジャパンは成井司教様と、HIV/AIDSデスクは中村大司教様と、交代いたしました。

以下、本日午後6時配信の週刊大司教第六十五回、年間第七主日のメッセージ原稿です。(上の写真は、東京カテドラルのピエタ像)

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週刊大司教第65回
2022年2月20日

「あなた方の父が憐れみ深いように、あなた方も憐れみ深い者となりなさい」

ルカ福音はこう記して、イエスの弟子となる者はどのような生き方を基本とするべきなのかを説いています。憐れみ深さは,単なる性格としての優しさの問題ではなく、どのような生き方の姿勢を選択するのかの問題です。

ルカ福音は、人の生きる姿勢について、この世の常識とは真っ向から異なる選択肢を掲げた後に、「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」と記します。この言葉は捉えようによっては、余計な親切の押し売りを招きかねない言葉でもあります。わたしがしてもらいたいことが、必ずしも他者にとっても喜ばしいことであるとは限らないのは、考えてみるまでもなく当然です。であるならば,この言葉はいったいわたしたちに何を求めているのでしょう。

わたしたち自身は、自分が何をしてほしいのかを、どうして知っているのでしょう。わたしたちは自分自身を大切に思い、自らの身体と心の声に真摯に耳を傾けるからこそ、自分自身にとって何が必要なのかを識別することができています。多くの場合、その識別の作業は、あたかも当たり前のように毎日の生活で行われるので、その大変さに気がついていないだけなのかも知れません。「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」という言葉は、わたしたちに隣人への思いやりの心を求めます。隣人の声に耳を傾ける姿勢を求めます。隣人の命の尊厳を尊重し、その命が十全に生きることができるように、連帯することを求めています。

ルカ福音はまた、「あなた方は敵を愛しなさい」というイエスの言葉を記します。単に隣人への思いやりの心を持つだけでなく、自らに敵対し攻撃してくるものにも愛の心を向けることは、容易なことではありません。サムエル記は、サウルが王位を奪われる恐怖から、神が選んだ後継者であるダビデを亡き者にしようとしたことを記しています。ダビデにとって、自らの身を守るためにサウルの命を奪う機会が与えられたにもかかわらず、サウルが神に選ばれたものであったという理由から、ダビデは自らの敵に愛のまなざしを向けました。ダビデはまさしく、「あなた方の父が憐れみ深いように、あなた方も憐れみ深いものとなりなさい」という神の言葉を生きる者でした。自らが、御父によってゆるされたものであるという深い自覚が、敵を許し愛するする行動へと駆り立てます。

「人を裁くな」とイエスは言われたと、ルカ福音は記します。わたしたちはそもそも簡単に他者を裁く存在です。あたかも自分により正義があるかのような勘違いをしながら、幾たび人を裁いてきたことでしょう。正義はどこにあるのでしょうか。とりわけこの二年間、感染症の暗闇の中で疑心暗鬼に捕らわれたわたしたちは不安のあまり寛容さを失い、簡単に他者を裁いては自らの心の安定を取り戻そうとしています。わたしたちは、「自分の計る量りで計り返される」ことを心に留めておかなくてはなりません。

「あなた方の父が憐れみ深いように、あなた方も憐れみ深いものとなりなさい」と言う言葉は、今年の2月11日、世界病者の日のテーマでもありました。教皇様はメッセージで、「あわれみとは神の別名であり、それは偶発的に生じる感情としてではなく、神のすべてのわざの中に存在する力として、神の本質を表しています。それは強さであり、同時に優しさでもあります」と記します。神に従って生きることを誓っているわたしたちは、神の本質であるあわれみを身に帯びて、強くなりながらも,優しさに満ちあふれた存在でありたいと思います。

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2022年2月16日 (水)

2022年定例司教総会から

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今週、2月14日から18日まで、司教団の定例司教総会が開催されています。全国16教区の司教が全員集まるのは、主にこの総会の機会ですが、すでにお知らせしたとおり、年に三度の会議が行われます。司教たちのためにお祈りくださっていることに感謝いたします。(上の写真、私の右後ろが日本カトリック会館)

このたびの司教総会初日から、司教協議会の会長に就任いたしました。任期は3年です。また副会長には、横浜教区の梅村司教様が就任されました。これまで会長を務めてくださった高見大司教様に感謝申し上げます。なお高見大司教様は、ご存じの通り昨年12月末に引退が教皇様によって受理され、来週には後任の中村大司教様の着座式が、長崎で行われる予定です。

司教協議会は、各教区の上部組織ではありません。ある一定の地域の司教たちが「当該領域のキリスト信者のために結束して司牧的任務を遂行し、特に教会が、法の規定に従って、時と所に即応する使徒職の方式及び要綱を介して人びとに提供する善益をますます推進する任務」のための組織です。(教会法447条)ですから、司教協議会会長が、すなわち日本の教会のトップという意味ではありません。それぞれの教区司教にとってのトップは教皇様です。

しかし同時に、日本の教会全体として取り組んでいかなくてはならない課題は山積しており、そういった課題のための行動には、当然司教団が率先して取り組まなくてはなりません。教会全体としての具体的な取り組みを責任を持って行うところに、司教協議会の会長の責任があるのだと理解しています。もちろん対外的な代表としての顔もあるかと思いますが、それ以上に、司教団全体をまとめ前進させる役割を忠実に果たしていく心づもりです。この新たな役割をふさわしく果たしていく力と知恵があたえられますように、皆様のお祈りをお願い申し上げます。

現在の感染状況もあり、今回の総会はハイブリッド形式とし、何名かの司教様方はそれぞれの場からの参加となりましたが、初日には教皇大使レオ・ボッカルディ大司教様も潮見までおいでくださり、励ましのメッセージを頂きました。

なお、今回の総会中に、司教の様々な担当の交代もありました。多くの場合は留任ですが、いくつかの担当で交代がありました。

わたし自身は今回でカリタスジャパンの責任司教を降り、新潟の成井司教様に交代していただきました。成井司教様、今後はカリタスジャパンの責任司教として、よろしくお願いします。

1995年3月に、カリタスジャパンのルワンダ難民キャンプ支援活動に呼ばれてから、98年まではこの難民支援活動担当、その後は援助担当や委員会秘書などを連続してつとめさせていただき、その間にカリタスアジアの地域委員会や国際カリタスの理事会のメンバーも務めました。また2004年に司教となってからは、これまで担当司教、あるいは責任司教を務めてきましたので、都合27年間、何らかの形でカリタスジャパンに関わってきました。またその間、2011年から19年までは、カリタスアジアの総裁にも選んでいただきました。この長期間、ご助力くださった皆さん、活動を支援してくださった皆さん、募金にご協力いただいた皆さん、委員会などに協力いただいた皆さん、一緒に活動に携わってくださった皆さん、そしてなによりお祈りくださった皆さんに、心から感謝申し上げます。

この交代で社会司教委員会の委員も降りることになりましたので、同時にHIV/AIDSデスクの担当司教も離れることになります。諸活動にご協力いただいている皆様に感謝いたします。

 

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2022年2月12日 (土)

週刊大司教第六十四回:年間第六主日

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東京でも寒い毎日が続いています。年間第六主日となりました。今年は復活祭が四月後半の4月17日となるため、四旬節の始まりも3月にずれ込み、灰の水曜日は3月2日となります。そのため二月中の日曜日は、年間の主日が続きます。

日本の司教協議会は、毎年2月と7月と12月に、総会を開催しています。12月は主に翌年度(1月から)の予算を承認するためですから一日だけの総会ですが、2月と7月は月曜日から金曜日までを予定しています。2月を定例司教総会、7月を臨時司教総会、12月を特別臨時司教総会と呼んでいます。全国に十六ある教区の司教が全員集まるのは、この司教総会の機会だけとなっています。もちろん通常の業務対応のため、原則として毎月第一木曜日には常任司教委員会が開催され7名ほどの司教が集まりますが、全員が集まる機会は限られています。

今年の定例司教総会は、2月14日の午後から18日までの予定で開催されることになっています。昨年の臨時総会ですでに選挙が行われましたので、この2月の司教総会の初日から、私は司教協議会の会長に就任します。副会長は横浜教区の梅村司教様です。なお感染症の状況のため、今年の総会は、オンラインを組み入れたハイブリッド形式で行います。また総会中にイグナチオ教会で開催を予定していた、回勅「兄弟の皆さん」の公開勉強会も、オンラインでの配信とすることになりました。これについてはこちらの中央協のリンクをご覧ください

どうかこの一週間は、司教総会のためにお祈りください。聖霊に導かれて、十分な意見の交換の上で、ふさわしい識別を行い、道を見いだすことができるように、お祈りくださいますようにお願いいたします。

以下、本日午後6時配信の週刊大司教第六十四回、年間第六主日のメッセージの原稿です。

年間第六主日C(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第64回
2022年2月13日

エレミヤの預言は、「荒れ地の裸の木」と「水のほとりに植えられた木」の対照的な二つの異なる状態にある木を記します。その上で、前者を「人間に信頼し、肉なるものを頼みとし、その心が主を離れ去っている人」、後者を主をよりどころとする「主に信頼する人」であると記し、わたしたちが何により頼んで生きているのかを振り返るように促しています。

パウロはコリントの教会への手紙で、キリストの復活を信じることがなければ、わたしたちの信仰は単なる現世的な生きる術であって、私たち信仰者の復活すらも夢物語に終わると指摘します。この世に生きる者でありながら、この世に身を寄せて生きているのではなく、永遠の命へと招かれているものであることを心に刻んで、わたしたちは信仰生活を営んでいます。現世的な欲望を満足させるための信仰ではなく、神の計画のうちにある永遠の時の流れを見据えた信仰です。

カテキズムには「わたしたちが固く信じ希望しているのは、キリストが死者の中から真に復活して永遠に生きておられるように、正しい人々もまた、死後、復活されたキリストとともに永遠に生き、世の終わりにキリストによって復活させられると言うことです」と記されています(カテキズム989)。

わたしたちはこの信仰における希望に与るために、「主に信頼する人」であり「正しい人」であり続ける努力をしなければなりません。しかしそれは一体どういう意味なのでしょうか。

「主に信頼する人」であり、また「正しい人」であろうと自らの生き方を模索するわたしたちに、主ご自身は今日、ルカ福音を通じてその道を示されます。

「貧しい人々は幸いである、神の国はあなた方のものである」

マタイ福音のこの箇所には八つの「幸い」が記されていることから、このイエスの教えを「真福八端」と呼んでいます。ルカ福音には四つの幸せと四つの不幸が記されています。

「真福八端はイエス・キリストの姿を描き、その愛を映し出しています。受難と復活というキリストの栄光に与る信者たちの召命を表し、キリスト者の生活を特徴づける行動と態度とを明らかにする」とカテキズムは記します(カテキズム1717)

逆説的な生き方の中にこそ、神の祝福があることを明確にするこのイエスの説教は、わたしたちが「水のほとりに植えられた木」であり続けるために、この世界で当たり前と思われる幸せの中に生きるのではなく、キリストとともに苦難の道を歩み続けること、また苦難のうちにある人たちとともに歩み続けることを求めます。主にとって、「富んでいる」事や「満腹している」事など、この世界では幸せと判断されることは、実際には「荒れ地」なのだと、イエスの説教は指摘します。

あらためて、今ともに歩んでいるシノドスの道を振り返りましょう。

「聞くことは最初の一歩ですが、それには偏見のない、開かれた精神と心が必要です。わたしたちの部分教会は、誰に対し「耳を傾ける必要がある」でしょうか。・・・マイノリティの人、見捨てられた人、排除された人の声に耳を傾ける場はありますか。耳を傾けることを妨げている偏見や固定観念を認識していますか」と準備文書の設問の二番目に記されていました。

イエスの苦難の道はご自分のためではなくわたしたちのためであったように、それに倣うわたしたちの苦難の道程も、自分のためではなくすべての人のための苦難の道です。そのためにこそ、互いの状況に耳を傾け、特に「マイノリティの人、見捨てられた人、排除された人」に耳を傾け、ともに歩まれる主を見出し、その傍らに常にあるものとして歩み続けましょう。

 

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2022年2月11日 (金)

2022年世界病者の日@東京カテドラル

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2月11日はルルドの聖母の記念日です。ルルドの聖母の記念日は、典礼の暦では「任意」の記念日ですので、年間の典礼暦の中で大きな扱いを受けてはいませんが、聖母の祝日として大切な日であります。

教会はこの日、ルルドの聖母の記念日を祝うとともに、「世界病者の日」と定めています。教皇様の世界病者の日のメッセージは中央協のホームページに掲載されており、こちらのリンクです。世界病者の日は1993年に始まり、今年で30回目となります。教皇ヨハネパウロ2世は、1984年に使徒的書簡「苦しみのキリスト教的意味」を発表されて、それ以降、苦しみの持つ意味を考え、同時に苦しみのうちにいる人々に十分なケアがあるようにと呼びかけてきましたが、その文脈の中で、ルルドの聖母を通じて触れる神の癒やしの力を黙想しながら、この日を世界病者の日と定められました。

また今年のメッセージの冒頭で教皇フランシスコは次のように記し、この日の意味を再確認しています。

「30年前、聖ヨハネ・パウロ二世教皇が世界病者の日を制定したのは、神の民、カトリック医療施設、そして市民社会が、病者と彼らのケアにあたる人々の支援の必要性への認識を高めるためでした」

わたしたちはすべからく、なにがしかの意味で「病者」です。完全で完璧な人間などは存在しません。たとえば「障がい者」という言葉に対峙するかのように、「健常者」などという言葉を何気なく使ってしまいますが、人間は大なり小なり困難を抱えて生きているのであり、また齢を重ねれば当然にその困難さはまし加わります。肉体的な困難さではなく、心に困難を抱えている人も多くおられるでしょう。その意味で、完全完璧な「健常者」なる存在は、空想の世界にしかいないのではないでしょうか。

皆同じように、なにがしかの困難を抱えて生きているからこそ、その程度に応じて、私たちは助け合わなければならないのです。支え合って生きていかなくてはならないのです。わたしたちは連帯の絆のうちで、いのちを生きている者です。与えられた賜物であるいのちを、互いに生かし合おうとする存在です。いのちを生きる希望は、互いに支え合うところから生まれてきます。

教会は、そうしたなにがしかの困難を抱えて生きている人が、互いに支え合って生きていく共同体です。主イエスの癒やしの手は、私たちすべてに向けられています。私たちは教会にともに集うとき、その共同体の絆のうちにあって、主イエスの癒やしの手に、ともに抱かれて、安らぎを得るのです。

ですからこの「世界病者の日」は、特定の疾患のうちにある人たちだけを対象にした、特別な人の特別な日ではなく、私たちすべてを包み込む神の癒やしの手に、ともに包み込まれる日でもあります。主の癒やしの手に包み込まれながら、互いの困難さに思いやりの心を馳せ、その程度に応じながら、具体的に支え合って生きていくことができるように、主のあわれみに身を委ねましょう。

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毎年この日の午後、東京カテドラル聖マリア大聖堂では、世界病者の日のミサが捧げられてきました。残念ながら現在の感染状況の中では、互いのいのちを守るために、大勢の方に集まっていただくことが適いません。そこで、配信ミサといたしました。

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以下、本日午後一時半から行われた、世界病者の日のミサの、説教原稿です。

世界病者の日ミサ
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2022年2月11日

わたしたちは混沌とした中で、この2年間を過ごしてきました。地域によってその影響には違いがあるものの、確かにわたしたちは世界的な規模で、いのちの危機に直面してきました。感染症の状況は終息には至らず、2年が過ぎた現時点では、日本では第6波と言われる感染拡大のただ中におります。これが最後の感染拡大で、このまま終息に向かうという観測もあれば、まだまだ安心するのは早いと指摘する声もあり、2年を超える自粛生活に自信を持ってピリオドを打つには、まだ早いと言わざるを得ません。

あらためて、亡くなられた方々の永遠の安息を祈るとともに、現時点で病床にある方々の一日も早い回復を祈ります。またいのちを守るために、日夜懸命に努力を続けている医療スタッフ、介護職にある方々、また未知の感染症の解明のために日夜研究を続けている専門家の方々。その懸命な働きに、心から感謝すると共に、皆さんの心と体の健康が守られるようにお祈りいたします。

この二年ほど、互いのいのちへの思いやりと支え合いが重要であることを思い知らされた時はありません。危機を乗り越えるために、国境を越えた連帯が必要であると感じさせられたことはありません。そして、その連帯が難しいどころか、この状況の中でも,一触即発の紛争に発展しそうな対立が存在し、互いに支え合う世界の実現は、この危機に直面しても夢物語であることを痛感させられています。

今回の感染症への対策は、手洗い、うがい、マスクと言う基本的感染対策に加えて、社会的な距離を保つことが当初から重要視されてきました。そのため社会の活動は長期間にわたって停滞し、いきおい、人と人との繋がりが断絶されてしまう状況も生み出しています。

感染した場合の隔離の状況や、重篤化した場合の完全な孤立は言うに及ばず、今回の感染症はさまざまな場で、孤立を生み出し、孤独のうちに多くの人を追いやっています。また一体いつまでこのような状況が継続するのか推測することができないため、わたしたちの間には疑心暗鬼が深まり、社会の中で不寛容さに基づく攻撃的な言動とそれによる対立が目につくようになりました。加えて、感染した人やその家族への排除の動きや差別的な言動の事例も聞かれ、さらには必死になって治療に専念する医療スタッフへの差別的な言動もあると聞いています。

利己的な思想や価値観の広まりは、教皇フランシスコがすでに2013年に地中海のランペドゥーザ島で、「無関心のグローバル化」という指摘をしたとおりこの数年の世界的風潮であり、助け合うことや支え合うことが意味を失い、格差が明確に広がり、孤独や孤立のうちに取り残される人が多く見られるようになっていました。異質な存在を排除し、自己の価値観を守ることに専念する社会は、寛容さを失い、異質な存在への攻撃性を強めています。

自らを守るために利己的となる社会は、あたかも人間のいのちには価値の違いがあるかのような思い違いすら生み出してしまいます。自分を守るためならば、異質な存在は排除しても構わないという考えは、いのちに対する尊厳の欠如です。まさしく、ヨハネパウロ二世が指摘したとおり、現代社会は「死の文化」に彩られた社会となってしまいました。困難に直面し、不安を抱え、分断と対立にあえぎ、希望を失っている今だからこそ、教会はあらためてこの社会の中で、「死の文化」に対抗する「いのちの文化」を強調しなければなりません。神からの賜物であるいのちが、その始まりから終わりまで、例外なくその尊厳を守られる社会の実現のために、尽力しなければなりません。福音の力を持って、善が悪に勝利を収めることを、証明していかなくてはなりません。そのためにも、さまざまなレベルの共同体での連帯による支え合いが不可欠です。

こういった状況を目の当たりにする中で,教皇フランシスコは今年の世界病者の日のメッセージタイトルを、ルカ福音書から取った、「あなたがたの父があわれみ深いように、あなたがたもあわれみ深い者となりなさい」とされました。

教皇様はメッセージの冒頭で、「あわれみとは神の別名であり、それは偶発的に生じる感情としてではなく、神のすべてのわざの中に存在する力として、神の本質を表しています。それは強さであり、同時に優しさでもあります」と記します。

すなわち、わたしたちキリストに従って生きる者は、まさしくあわれみそのものである神に倣って生きるのですから、当然、自らもあわれみに満ちあふれた存在となる必要があると教皇様は指摘されます。

その上で、「御父のあわれみであるイエスの模範に倣って、病者の傷になぐさめの油と希望のぶどう酒を注ぐ、神の愛のあかし人の存在が重要なのです」と教皇様は指摘されます。

教皇様は今回のパンデミックがもたらした分断と孤立によって多くの人が傷つき、孤独のうちにさいなまれている現状を指摘し、イエスに倣うものすべてが「神の愛の証し人」となるように招いておられます。同時に教皇様は、そのために献身的に働くよう召されている医療関係者の方々の存在の重要性を指摘され、メッセージの中でこう呼びかけておられます。

「御父のようにあわれみ深い者となりなさいというイエスの呼びかけは、医療従事者にとって特別な意味があります。・・・親愛なる医療従事者の皆さん。愛と技能をもって病者の傍らで務めておられる皆さんの奉仕は、職業という枠を超え、使命となるのです。キリストの痛みを負ったからだに触れる皆さんの手は、御父のあわれみ深いみ手のしるしとなるはずです」

加えて教皇様は、カトリック医療施設がさまざまな国で運営の困難に直面していることを十分に承知した上で、それらは「保護され維持されるべき貴重な宝です」と記されます。

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世界病者の日と定められた2月11日は、1858年に、フランスのルルドで、聖母マリアがベルナデッタに現れた日でもあります。聖母はご自分を、無原罪の聖母であると示され、聖母の指示でベルナデッタが洞窟の土を掘り、わき出した水は、その後、70を超える奇跡的な病気の治癒をもたらし、現在も豊かにわき出し、多くの人に希望と生きる勇気を与える源となっています。

ルルドという聖地は、それ自体が、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」というイエスご自身の言葉を具現化している場所となっています。ルルドの聖地が生み出す安らぎの雰囲気は、希望を失った人の心に希望を回復し、互いへの思いやりの心を思い起こさせる力があります。わたしたちすべての教会共同体が、その霊的な安らぎの雰囲気に倣い、それを生み出すものでありたいと思います。

世界病者の日は、私たちを包み込む神の癒やしの手に、いつくしみの神の手に、ともに包み込まれることを実感する日でもあります。主の癒やしといつくしみの手に包み込まれながら、互いの困難さに思いやりの心を馳せ、その程度に応じながら、具体的に支え合って生きていくことができるように、野戦病院となる決意を新たにする日でもあります。その安らぎの中に、いのちを生きていく希望を見いだす日でもあります。共同体における連帯の絆を回復させる日でもあります。

神のいやしの奇跡の泉へとベルナデッタを導かれたルルドの聖母マリアが、同じようにわたしたちを、いのちを生きる希望の源であり、神のいつくしみそのものである御子イエスへと導いてくださいますように、聖母の取り次ぎを祈りましょう。

 

 

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2022年2月 8日 (火)

日本26聖人殉教祭@本所教会

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2月5日は日本26聖人の記念日でした。聖パウロ三木を筆頭に、26名のキリスト者は、長崎の西坂において、1597年2月5日に殉教の死を遂げられました。

毎年2月の最初の主日には、この26聖人殉教者を保護の聖人とする東京の本所教会で、殉教祭が行われてきました。今年は感染対策をしてミサに参加する方の人数を制限しながら、2月6日の日曜日の午前10時から、殉教者記念のミサを行いました。

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本所教会は、東京での4番目の教会として1880年(明治13年)の4月に聖堂が設けられ、そのときに「日本26聖人殉教者」に捧げられました。聖堂は度重なる火事や災害や空襲で焼失しましたが、現在の聖堂は1951年に、当時の主任司祭であった下山神父様によって建設されたものです。なお26聖人殉教者が列聖されたのは1862年(文久2年)6月8日ですから、今年で160年になります。またその当時の4つの教会とは、築地、浅草、神田、本所の四カ所で、その後に麻布と関口が加わりました。このあたりのことは、こちらのリンクから本所教会のホームページへ。

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以下当日のミサの説教の時、手元にあった原稿です。原稿のあとに、本所教会のYoutubeアカウントから当日のミサの映像のリンクを張ります。説教中、一部音声が乱れますが、すぐに回復しますので、御寛恕ください。

日本26聖人殉教者殉教祭ミサ
2022年2月6日
本所教会

わたしたちの人生には苦しみや困難がつきものです。他人の目からはどれほど順風満帆な人生だと思われていたとしても、そこには大なり小なり、さまざまな意味での苦しみや困難が存在するのが、わたしたちの人生です。

特にこの二年間、わたしたちは感染症の影響で、世界中ですべての人がいのちの危機に直面しています。どうしてこんなことになったのか、誰も分かりません。いつになったら安心できるのか、誰も分かりません。暗中模索という言葉は、まさしく今現在の状況を表している言葉であり、わたしたちは闇の中で希望を求めて彷徨っています。

感染症対策が経済に影響を与え、社会的距離を取ることや不要不急の外出を避けることなどが、多くの人を孤立の闇に閉じ込め、孤独が広がっています。感染症によっていのちの危機に直面する人もいれば、その感染症への対策によってもたらされた経済の危機や隔離政策によって、いのちの危機に直面する人もいます。

なぜこんなことになったのか。なぜ今なのか。いくら問いかけても答えは見つかりません。

教皇ベネディクト十六世は、回勅「希望による救い」のなかで、「苦しみは人生の一部」だと指摘されています。この世界から理不尽な苦しみを取り除く努力をしなければならないとしながらも、教皇は、人間はその有限性という限界の故に、苦しみの源である悪と罪の力を取り除くことができないのだとも指摘します。それができるのは神だけであり、神は人間の歴史に介入されて、自ら苦しまれることで、世界にいやしを与える希望を生み出した。それは自ら創造された人類への愛に基づく行動なのであり、その神の愛による苦しみにこそ、わたしたちが掲げる希望があるのだと指摘されます。

その上で、教皇ベネディクト十六世は、人間の価値というものは、わたしたちと苦しみとの関係で決まるのだとして、回勅にこう記しています。

「人とともに、人のために苦しむこと。真理と正義のために苦しむこと。愛ゆえに、真の意味で愛する人となるために苦しむこと。これこそが人間であることの根本的な構成要素です。このことを放棄するなら、人は自分自身を滅ぼすことになります(「希望による救い」39)」

苦しみは、希望を生み出す力であり、人間が真の神の価値に生きるために、不可欠な要素です。苦しみは、神がわたしたちを愛されるが故に苦しまれた事実を思い起こさせ、神がわたしたちを愛して、この世で苦しむわたしたちと歩みをともにされていることを思い起こさせます。

わたしたちの主イエスの人生こそは、「人とともに、人のために苦しむこと。真理と正義のために苦しむこと。愛ゆえに、真の意味で愛する人となるために苦しむこと」を具現化する人生であります。

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歴代の教皇様たちは、この世界になぜ苦しみが存在するのか、悪が存在するのかという課題に取り組んで、それぞれさまざまな教えを残しておられます。故岡田大司教様も、善である神が創造された世界になぜ悪が存在しているのだろうかと言う課題を最後まで追求されて、一冊の著書を残されました。「悪の研究」という著書は、大司教様が一年ほど前に亡くなられてから出版されました。

岡田大司教様の著書でもそうですが、悪が存在する理由は追求すればするほど、その理由は分からない。理由が分からないと言うことが分かる。悪が存在する理由は分からないけれども、神は愛をもってそれを凌駕して、わたしたちの苦しみをともにされたことによって、苦しみの中から希望が生まれるのだと言うことを明確に示された。そのことは理解ができる。なぜ苦しみがあるのかは分からないけれども、神はそこから復活のいのちへの希望を生み出していった。ですからわたしたちは、苦しみと理不尽さの中にあるときにこそ、主イエスの苦しみの人生に、そしてその死と復活の神秘に、本当の希望を見出します、

教会は2月5日に、日本26聖人殉教者を記念します。聖パウロ三木をはじめ26人のキリスト者は、1597年2月5日、長崎の西坂で主イエスの死と復活を証ししながら殉教して行かれました。

2019年11月に西坂を訪れた教皇フランシスコは、激しい雨の中、祈りを捧げた後に、次のように述べられました。

「この聖地は死についてよりも、いのちの勝利について語りかけます。ここで、迫害と剣に打ち勝った愛のうちに、福音の光が輝いたからです。・・・ここは何よりも復活を告げる場所です。あらゆる試練があったとしても、死ではなくいのちに至るのだと、最後には宣言しているからです。わたしたちは死ではなく、全きいのちであるかたに向かって呼ばれているのです。彼らは、そのことを告げ知らせたのです。」

聖人たちの殉教は、死の勝利ではなく、いのちの勝利なのだ。聖人たちの殉教によって、福音の光が輝いた。そこから「福音の光」という希望が生み出されたと教皇様は指摘されました。

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「殉教者の血は教会の種である」と、二世紀の教父テルトゥリアヌスは言葉を残しました。

教会は殉教者たちが流した血を礎として成り立っていますが、それは悲惨な死を嘆き悲しむためではなく、むしろ聖霊の勝利、すなわち神の計らいの現実における勝利を、世にある教会が証しし続けていくという意味においてであります。わたしたちには証しを続ける責務があります。

わたしたちは、信仰の先達である殉教者たちに崇敬の祈りを捧げるとき、単に歴史に残る勇敢な者たちの偉業を振り返って褒め称えるだけではなく、その出来事から現代社会に生きるわたしたち自身の希望の光を見いだそうとします。

わたしたちは、信仰の先達である殉教者を顕彰するとき、殉教者の信仰における勇気に倣って、福音をあかしし、告げしらせるものになる決意を新たにいたします。なぜならば、殉教者たちは単に勇気を示しただけではなく、福音のあかしとして、いのちを暴力的に奪われるときまで、信仰に生き抜いたのです。つまりその生き抜いた姿を通じて、最後の最後まで、福音をあかしし、告げしらせたのです。わたしたちは殉教者に倣い、福音に生き抜くようにと、最後の瞬間まで福音を証し、語り、行うようにと、今日、主から呼ばれています。

迫害という困難な時代に、福音に生きるとはどういうことであるのかを、殉教者たちは明確に模範を示されました。永遠の命への希望を心に刻み、どのような困難があっても神の愛を証しする奉仕の業に励み、それを最後の最後までやり通すこと。

今この感染症という困難な時代に生きているわたしたちも、この状況だからこそ、どのように福音に生きるべきなのかを見極めなくてはなりません。神からの賜物であるいのちを守り抜く行動は、自己保身ではなく隣人愛に基づく行動は、恐れのあまりの退却ではなく、積極的な愛の証しの行動です。今わたしたちは信仰を堅く保って、それをあかしし、告げしらせるために、どのような生き方をするべきか、何を語るべきか、何に心を向けるべきか、何を大切にするべきか、心の耳を開き、信仰の先達に倣い、この困難なときだからこそ、互いに助け合い支え合うことで、福音を証しして参りましょう。

 

 

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2022年2月 5日 (土)

週刊大司教第六十三回:年間第五主日

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年間第五主日となりました。

2月の初め、日本の教会の暦では、殉教者たちに思いを馳せる機会となっています。2月3日は福者ユスト高山右近の記念日でした。(上の写真は、2019年5月にカテドラルに安置された福者ユスト高山右近像を運ぶ、フィリピン出身の信徒の皆さん)

福者ユスト高山右近は、大名として織田信長や豊臣秀吉に仕えていましたが、秀吉のバテレン追放令以降も信仰を守り抜くために、領地や財産そして地位などをすべて放棄し、金沢で前田家の庇護の元に暮らしていました。しかし1614年、家康によって国外追放となりマニラへ。大変な旅であったのでしょう。到着後に病を得て、ほんの40日ほどのマニラ滞在でしたが、1615年2月3日に帰天されました。その当時からすでにマニラにおいて列福運動が起こっていたのだそうですが、その後紆余曲折を経て日本での列福運動が実を結び、2017年2月7日に、大阪で列福式が行われました(そのときの司教の日記へのリンク)。人生のすべてを失って、最後には祖国までも失った高山右近の人生そのものが、殉教の人生だと認められました。(下の写真は大阪での列福式)

その場しのぎの価値判断、今さえ良ければ後はどうでも良いとでもいわんばかりの生きる姿勢が普通になり、絶対的な価値判断はあまり顧みられなくなる相対的で流動的な現代社会に対して、あくまでも守りぬくべき真理はどんな代償を払っても捨て去ることは出来ないという姿勢を貫いた福者ユスト高山右近は、単に信仰者としてだけではなく、一人の人間の尊厳ある生き方を示す模範として、その存在には重要な意味があると思います。

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現在、日本においてキリスト教を取り巻く環境は大きく変わり、当時のような迫害は存在していません。大きく変化した社会状況の中で、今、人間は一体何のために生きているのかという根本的な課題に、わたしたちはふさわしい回答をもっているでしょうか。高山右近の生涯は、常に自分の側からの判断ではなく、自分が常に向かい合って生きる神の立ち位置からの判断を優先させていった生涯であったと思います。そこには今良ければなどという刹那的な判断はあり得ず、神が望まれる人の有り様を常に模索するへりくだった生き方があったように思います。

そして、本日2月5日は日本二六聖人殉教者(聖パウロ三木と同志殉教者)の記念日です。今年は感染状況を見極めながらですが、例年通り2月5日の記念日に近い主日、2月6日に、本所教会で殉教祭のミサを捧げることができそうです。感染対策で参加者は限定されていますが、殉教者の人生に思いを馳せ、信仰における苦しみと忍耐の意味を考え、その血を持って教会の礎を確立した信仰の先達に倣い生きることを誓う記念日にしたいと思います。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第63回、年間第五主日のメッセージ原稿です。

年間第五主日C(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第63回
2022年2月6日

「今から後、あなたは人間をとる漁師になる」

ルカ福音は主イエスがシモン・ペトロにそう呼びかけて弟子とした、召命の物語を書き記します。「お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と、プロの漁師としての経験知からイエスの求めに渋々応じたシモン・ペトロは、その後、生涯にわたって「お言葉ですから」と、弟子たちのリーダーとしてまた教会の頭としての務めを果たし続けることになります。神の呼びかけ、召命は、まさしく人知をはるかに超えた神秘の領域にあります。

パウロはコリントの教会への手紙で、自らが福音として伝えていることの核心部分をあらためて示します。それは、主イエスの受難と死と復活が、夢物語ではなく、現実の出来事であることを、改めて強調し、だからこそ神の恵みも絵空事ではなく現実であることを強調しています。

イザヤ書は、「誰を遣わすべきか」という神の問いかけに、イザヤが「わたしがここにおります」と応えた事を記しますが、その前段で、神による直接の罪の赦しが預言者を力づけたことを記しています。

わたしたちは、絵空事ではない事実に基づいて、わたしの力ではなく、呼んでくださった方の力によって、しかもその方による罪の赦しによって力づけられて、福音をあかしし、告げしらせるものであります。わたしたちは、主イエスの死と復活の証人です。

教会は2月5日に、日本26聖人殉教者を記念します。聖パウロ三木をはじめ26人のキリスト者は、1597年2月5日、長崎の西坂で主イエスの死と復活を証ししながら殉教して行かれました。

2019年11月に西坂を訪れた教皇フランシスコは、激しい雨の中、祈りを捧げた後に、次のように述べられました。

「しかしながら、この聖地は死についてよりも、いのちの勝利について語りかけます。ここで、迫害と剣に打ち勝った愛のうちに、福音の光が輝いたからです」

聖人たちの殉教は、死の勝利ではなく、いのちの勝利なのだ。聖人たちの殉教によって、福音の光が輝いた。そこから「福音の光」という希望が生み出されたと教皇様は指摘されました。

「殉教者の血は教会の種である」と、二世紀の教父テルトゥリアヌスは言葉を残しました。

教会は殉教者たちが流した血を礎として成り立っていますが、それは悲惨な死を嘆き悲しむためではなく、むしろ聖霊の勝利、すなわち神の計らいの現実の勝利を、世にある教会が証しし続けていくという意味においてであります。

わたしたちは、信仰の先達である殉教者たちに崇敬の祈りを捧げるとき、単に歴史に残る勇敢な者たちの偉業を振り返るだけではなく、その出来事から現代に生きるわたしたちへの希望の光を見いだそうとします。

わたしたちは信仰の先達である殉教者を顕彰するとき、殉教者の信仰における勇気に倣って、福音をあかしし、告げしらせるものになる決意を新たにしなければなりません。なぜならば、殉教者たちは単に勇気を示しただけではなく、福音のあかしとして、いのちを暴力的に奪われるときまで、信仰に生きて生き抜いたのです。つまりその生き抜いた姿を通じて、最後の最後まで、福音をあかしし、告げしらせたのです。

わたしたちは殉教者に倣い生き抜くようにと、今日、主から呼ばれています。

 

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2022年2月 4日 (金)

ミャンマーの平和を願っての声明

すでに前記事にも記しましたが、ミャンマーでクーデターが発生してから、2月1日で一年です。一年を迎えてもまだ情勢は改善していません。ミャンマー司教協議会会長であるヤンゴン大司教のチャールズ・ボ枢機卿の呼びかけに応えて祈り続けることを誓う、平和への願いの声明を2月1日付けで教区ホームページに掲載しました。日本語と英語の原稿を、こちらにも掲載しておきます。

なおことさらにミャンマーの平和を強調するのは、第一には東京大司教区にとってミャンマーの教会が長年にわたる姉妹教会として支援を続けていることがあります。第二に、こういった海外の平和に関する課題は、当該国の司教団からの行動の呼びかけがない場合、その国における信教の自由などを考慮しながら、海外の教会には慎重な対応が求められます。ミャンマーに関しては、ミャンマー司教協議会会長のボ枢機卿が、度重なる支援要請の声明を出されており、連帯が求められていますので、特に姉妹教会として積極的に行動したいと思います。

以下、声明の本文です。

対話による平和の実現を願って
ミャンマーの兄弟姉妹のために

ミャンマーで国軍によるクーデターが発生し、選挙で選ばれた民主政権が倒されてから、一年となります。民主化を求める声は国軍によって押さえ込まれ、治安維持を名目に殺害された国民も少なくないと報道されています。

ミャンマー司教協議会会長であるヤンゴン大司教のチャールズ・ボ枢機卿は、この一年の状況は「長引く十字架の道行き」であると語り、「ミャンマー全土が戦場となった」と述べています。その上でボ枢機卿は、「教会は、武力衝突を逃れてきた人々に避難所としての場を提供しているために、軍や武装組織による襲撃や爆撃の対象となっている」として、自由と民主化を求める多くの人々を攻撃し、生命を危機に直面させる国軍を厳しく批判しています。(バチカンニュース)

国内外の平和を求める多くの声にもかかわらず、「ミャンマー軍は、クーデターに伴って発令していた「非常事態宣言」を半年間延長すると、31日夜、国営テレビを通じて発表し、今後も全権を掌握し続ける姿勢を示し」たと報道されています(NHKニュースサイト)。残念ながら混乱した状況は好転することなく、国連や東南アジア諸国連合も有効な策を講じることができないまま,事態は膠着化しています。

カトリック東京大司教区は,ドイツのケルン教区と協力しながら、長年にわたってミャンマーのカトリック教会を支援してきました。それは,戦後に東京の教会がケルンの教会から大きな支援を受けて復興した事を感謝のうちに記憶し,その善に資する隣人愛の心をさらにひろげるために、1979年のケルンと東京の友好関係25周年に、当時のヘフナー枢機卿と白柳枢機卿が合意してミャンマーの教会への支援を始めたことの由来します。

それ以来、東京大司教区はミャンマーの教会を姉妹教会として、特に司祭養成のために支援活動を行ってきました。

「教会は、その本質的な宗教的使命は人権の保護と促進であることを自覚しており」、神の似姿として創造され賜物として与えられたいのちの尊厳が、例外なく尊重され護られることを主張してきました。(教会の社会教説綱要159)

また、国家には共通善に到達すると言う責任があると考え、「国家は市民社会を代表するものであり、市民一人ひとりの貢献によって共通善が成立するよう、市民社会の一致、統一および組織を保障」するようにと求めてきました(教会の社会教説綱要168)

ひとりミャンマーだけではなく、同様に人権が制約され共通善の実現を阻む状況が世界に存在していることは残念な事実であり、その実現なしに、神の平和は達成されません。

ボ枢機卿の呼びかけに賛同し,あらためて,対話による平和の実現を求めます。同時にミャンマーの姉妹教会の皆さんのために,ミャンマーの人々のために、祈り続けます。

一人ひとりのいのちが大切にされ、人間の尊厳が尊重され守られる社会が実現するように。

いのちを奪う暴力ではなく,連帯のうちに互いに助け合い支え合う社会が実現するように。

信教の自由が侵されることなく、平和と喜びのうちに神を賛美する社会が実現するように。
 
2022年2月1日
カトリック東京大司教区 大司教
菊地功

HOPING FOR PEACE THROUGH DIALOGUE
FOR OUR BROTHERS AND SISTERS IN MYANMAR

It has been a year since the Myanmar military staged a coup d'etat and overthrew the democratically elected government. Calls for democratization have been suppressed by the armed forces, and it has been reported that many people have been killed in the name of maintaining security.

Cardinal Charles Bo, Archbishop of Yangon, the president of the Catholic Bishops’ Conference of Myanmar, expressed that the situation for the past year has been “an extended Way of the Cross” and that “the whole of Myanmar is a war zone.” Cardinal Bo added that “churches that have been sheltering displaced people fleeing clashes between the army and armed groups are being targeted, raided and shelled by the military,” denouncing their attacks which endanger the lives of the many people seeking for freedom and democratization. (Vatican News)

Despite the collective efforts calling for peace domestically and internationally, it has been reported that “Myanmar's military announced via the country's state-run television on Monday (31st January) that it is extending ‘a state of emergency’ for another six months and will continue to have full authority.” (NHK news site) Unfortunately, the state of turmoil has not changed for the better, and with organizations such as the United Nations and the Association of Southeast Asian Nations unable to take effective measures, the situation is at a standstill.

The Archdiocese of Tokyo, in cooperation with the Archdiocese of Cologne in Germany, has been supporting the Catholic Church in Myanmar for many years. It started with the friendship fostered through the substantial support shared by the Church in Cologne to the Church in Tokyo for its reconstruction program after the war. And to remember such goodness with heartfelt gratitude, expanding further this love for neighbors, on the occasion of the 25th anniversary of this friendship between Cologne and Tokyo in 1979, Cardinal Höffner and Cardinal Shirayanagi agreed to start to support the Church in Myanmar.

Since then, the Archdiocese of Tokyo has been supporting the Church in Myanmar as a Sister Church, providing assistance especially for the program of priestly formation.

“The Church is aware that her essentially religious mission includes the defense and promotion of human rights” and advocates that the dignity of the gift of life created in the image of God must be always respected and protected without exception. (Compendium of the Social Doctrine of the Church 159)

Moreover, the responsibility for attaining the common good belongs to the State, believing that “the State must guarantee the coherency, unity and organization of the civil society of which it is an expression, in order that the common good may be attained with the contribution of every citizen.” (Compendium of the Social Doctrine of the Church 168)

It is a unfortunate that there are also other places in the world where the situation is similar to Myanmar where human rights are restricted and the realization of the common good is hindered. Without these realizations, God's peace will not be achieved.

I am one with Cardinal Bo calling once again for the realization of peace through dialogue. At the same time, let us continue to pray for all the faithful in our Sister Church of Myanmar, and for all the people of Myanmar.

Let us build a society that values the life of every human being, respecting and protecting human dignity.

Let us build a society that does not promote life-threatening violence, but rather encourage help and support for one another in solidarity.

Let us build a society that does not violate religious freedom, but rather unite in praising God in peace in joy.


February 1, 2022

Tarcisio Isao Kikuchi, SVD
Archbishop
Archdiocese of Tokyo

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2022年2月 1日 (火)

ミャンマーでのクーデターから一年です

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ミャンマーで昨年2月1日、アウン・サン・スー・チー国家顧問ら与党関係者が国軍によって拘束され、軍出身のミン・スエ副大統領が大統領代行となって非常事態宣言を発令してから、今日で一年です。(昨年の司教の日記のリンク

NHKニュースサイトによれば、「ミャンマー軍は、クーデターに伴って発令していた「非常事態宣言」を半年間延長すると、31日夜、国営テレビを通じて発表し、今後も全権を掌握し続ける姿勢を示し 」たと言うことです。同サイトはまた、「クーデターの発生から1年になるのにあわせて、軍の統治を拒む市民が、一斉に仕事を休んで外出も控える「沈黙のストライキ」を全土で行う構えで、参加した市民には法的措置をとると警告する軍との間で緊張が高まっています」と伝えています。ミャンマーの方々の安否が気遣われます。

この一年何度も繰り返してきたことですが、東京大司教区はかねてより、ミャンマーの教会を支援してきました。戦後にケルン教区から受けた支援への感謝の気持ちとして、いわばそのお返しとして,今度はケルン教区と一緒になって,ミャンマーの教会を支援してきました。特に司祭養成のために,ミャンマーデーの献金を持って支援を行っています。

東京教区内の小教区に所属されるミャンマー出身の信徒の方々がおられます。故郷のことを思い、どれほど心配されていることでしょう。故郷が、安心と安定を取り戻すように、ミャンマーの平和を心から願います。この一年、ミャンマーの教会は,特にアジアの諸司教団の支援を受けて、軍事政権に対して幾たびも声を上げてきました。しかしながらそのたび事に、教会が標的となった攻撃が繰り返され、命を奪われた方も少なくありません。東京教区のホームページでも,ミャンマー司教協議会の会長であるチャールズ・ボ枢機卿が声明を発表する毎に,それを紹介して,連帯のお祈りをお願いしてきました。昨年の平和旬間には,この緊急の事態に直面しているわたしたちの姉妹教会を心に留めて、例年とは異なり、ミャンマーのために祈る平和旬間とさせていただいたところです。(昨年の平和旬間の平和を祈るミサについての日記

ミャンマーの共同体の方々と、クーデター一年を前に、1月30日日曜日の夕方、築地教会聖堂を会場に、ミャンマーの平和を祈り夕べの祈りをささげました。メンバーとの友好関係を担当する一人である築地教会のレオ神父様と、私も、お話をさせていただきました。当日の模様は,教区広報でビデオを編集して,後日公開する予定です。

暴力的な力を持って、尊厳ある人間のいのちのを危機にさらすことは,ゆるされません。神が与えられた人間の尊厳が、命の尊厳が十全に尊重され、誰ひとりとして排除されることのない世界の実現を求めて、平和を祈り続けたいと思います。

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