秋津教会堅信式
2022年2月20日午後2時から、清瀬市にある秋津教会で、11名の方の堅信式を行いました。おめでとうございます。
主任司祭の野口神父様の依頼で、人数制限している中で多くの方に司教ミサに与っていただくことができるように、今回の秋津教会訪問では、前晩土曜日の夕方6時、日曜日の午前10時、そして午後2時と、三回のミサを捧げました。またミサには、間もなく新しい司教様から助祭叙階を受ける予定の、仙台教区の高木健太郎神学生が、侍者のリーダとして奉仕してくれました。高木神学生は、東京の神学院で養成を受けていますが、これまで秋津教会で神学生としての主日の使徒職奉仕をしてきました。
また土曜の夜と日曜の朝のミサでしたので、一晩泊まりましたが、泊まった先は所沢駅前のホテル。東京教区の小教区を訪問して、宿泊はさいたま教区内というのも、興味深いです。ミサには慈生会の病院や施設で働いておられるベタニア会のシスター方も、大勢参加してくださいました。
以下、堅信式ミサの説教録音から書き起こして、多少の手直しをした原稿です。
秋津教会堅信式
2022年2月20日堅信の秘蹟を受ける皆さん、おめでとうございます。
キリスト者として完成して行くためには、洗礼を受け、聖体を受け、そして堅信を受けるという、この3つが必要なわけですけれども、今日堅信を受けることによって、その入信の過程、キリスト者となって行くというプロセスが、完成します。完成するのですから、堅信の秘蹟を受けたその直後には、完成したキリスト者がここに誕生するはずなんですよね。完成したキリスト者というのは、いろいろな形容をされます。以前はよく、キリストの兵士になると言われていました。キリストのために戦う、この社会の中で戦ってゆく兵士になるのだというようなことでしょう。
成熟した信仰者になるという言い方もします。大人の信仰者になる、大人の信徒になる、いろんな言い方をしますけれども、いずれにしろ自立して、しっかりと信仰を生きて行く者となると言うことです。堅信を受けることで入信の秘蹟が完成し、そのときに、そういう信仰者となるということが求められているということを、まずもって心に留めたいと思います。
その意味で、今日のこのルカによる福音は、年間第7の主日の福音であり、特別に選んだ福音ではないけれども、そこには、イエス様が私たちに、まさしく成熟した大人の信仰者としてどういう生き方をしてほしいのかということが、しっかりと記されていると思います。
でもその前に、第1朗読のサムエル記の話をちょっと見て頂きたいのです。
今日のサムエル記は、イスラエルの王様の話です。イスラエルの民に最初は王様はいなかったのですけれども、当のイスラエルの民が自分たちも王様が欲しいと望んだので、神様がサウルという人を選んだのです。ところが、ある年月、王として治めたのちに、サウルが神様の意に添わない行動を取り始めた。そこで神様は、今度はダビデを王として選びます。ですから、今日の朗読の段階では、それを悟ったサウルが、自分の王座を奪おうとしているダビデに対する敵意を非常に燃やしているのです。元々サウルとダビデはとても仲が良かった、というか、ダビデは懸命にサウルに使えていました。しかし、今やサウルは敵意を燃やして、ダビデの命を奪い取ろうとしている。それが、荒れ野で野営をしているときに、ダビデたちはサウルのところに忍び込むことに成功するわけです。さあ、目の前にサウルがいる。ダビデの部下は、もうこれは、神がサウルを私たちに手渡してくれているのだと、今ここでサウルを仕留めよう、殺してしまいましょうとダビデに提案するのですが、それに対してダビデは、いや、そんなことをしてはいけない。「主が油を注がれた方に手をかければ、罰を受けずには済まない」と答えたという話が書かれています。
実はもう一回、他の箇所でも同じようなことがあるのです。
洞窟の中に隠れていたダビデたちの目の前に、サウルが一人で現れた。さあ、今こそ神がサウルをダビデに手渡したのだからここで殺してしまおうと、部下の者たちがダビデに勧めます。けれどもダビデはサウルを殺すことなく、その服の端を切り取るだけで済ましたという話もあります。もちろん、今日の福音の中に「敵を愛しなさい」という言葉があるので、その敵を愛するという言葉に通じる話として、この第1朗読が選ばれているのだろうと思います。けれどもこの物語の中で重要なのは、ダビデの言葉なんですね。つまり、目の前に起こっている出来事を見てダビデの部下たちは、これが神の思い、これが神の計画、今こそ神がサウルをダビデに渡しているんですと、勝手に解釈しているんですよね。それこそが神の思し召しだ、これこそが神が望んでいることだと、皆は様々に言うんですけれど、ダビデはそれに乗らないんですよ。あくまでも、神が選んだ人を、つまり神の計画を私は勝手に変えることはできないんだと、はっきりと言うんです。
この世の中ではいろんなことが起こっていきますね。その中で私たちは、これこそきっと神様が望んでいることに違いない、神の思し召しだと解釈をし、その解釈に従って生きていこうとするんです。しかし、よく考えてみないと、大きな間違いをすることがあるかもしれないのです。
つまりこの時ダビデの部下たちも、自分たちの都合のいいように神様の思いを解釈しているんですよ。自分たちにとって都合のいいのは、ここでサウルを殺してしまうことなので、それこそが神の思し召しなんですと言って、ダビデを一所懸命説得しようとするわけです。私たちの人生の中でもあるはずです。これこそ神様が望んでいることに違いないと思ったときには、落ち着いて、本当に神がそれを望んでいることなのか、それとも私がただ単にそうして欲しいと思っているだけなのか、それをよく考えてみないといけないんですね。
神が計画していること、神が望んでいることを、私たちが勝手に変えていくことは許されていないのです。本当に神が何を望んでいるのかということを、しっかりと知る、識別すると良く教会では言いますが、起こっている出来事を見極めて、神が本当に望んでいることは何なのか、どっちに歩みを進めることなのかということを、はっきり知ることが大切です。もしかしたら、私にとって都合がいいだけなんじゃないか、これを選んだら私が満足するだけなんじゃないのと、これを選んだら私が優位になるだけなんじゃないのと、まずは落ち着いて識別する必要があります。
自分にとって有利なことだとか、自分にとって都合のいいことが神の思し召しと思ったら、それはたぶん違います。
だいたい、自分にとって都合の良くないことの方が多いです、神様が考えていることは。ですから、成熟した信仰者として生きていこうというときに、神様は私に何を望んでいるのだろうと一所懸命に考えていて、なんか都合のいいことばかり思い浮かんで来たら、それはたぶん自分が勝手に解釈しているだけ。神様はそう思っていないことが多いので、そこはちゃんと見極めた方がいいかなというふうに思います。
そして、ルカの福音には、私たちがどう生きるべきなのかということが書いてあります。
たとえば「敵を愛しなさい」。今まさに、一発即発で戦争が起こるんじゃないかと、ウクライナなどで起こっていることを耳にすると、非常に大きな不安になりますね。この「敵を愛しなさい」という言葉は、今の時代だけでなくて人類の歴史の中で、本当に繰り返し必要とされてきた言葉ですし、繰り返し、私たちはそれを叫んでゆかなければならない。「敵を愛しなさい」と。
また、「裁くな」ということは、人を裁くことによって自分も裁き返されるかもしれないということも書いてあります。自分が裁こうとするその秤で、自分も測り返される。だから人を裁いてはいけないということですが、今日のルカ福音の中で一番大切な言葉は、「人にしてもらいたいということを人にしなさい」という言葉だと思います。「人にしてもらいたいということを人にしなさい」。もちろん、気を付けなくてはならないのは、自分がしてもらいたいことを人にしただけでは、それはただの親切の押し付けにしかならないんですね。私がしてもらいたいことが、他の人もしてもらいたいとは限らないので、私がしてもらいたいことを人にもというのは、どういうことをいっているんだろうと、その意味を考えないと、ただ単に、親切の押し付け、押し売りをしているだけのことになってしまいます。
この言葉でイエス様はいったい、何を私たちに求めているのだろうと考えることです。
私が何かをしてもらいたいというときは、その理由を知っている。どうして私は私のことを知っているんだろう。自分のことだから当たり前のだと言ってしまえば身も蓋もないですけれども、でも、自分が何かをしてほしいということを知っている一番大きな理由は、
私が私自身の命を一番大切にしているから。私の命を生かしていきたいから。私の命が十分に尊厳を守られて生きていけるようにするために、こういうことをしてほしい、ああいうことをしてほしいとわかるのです。自分の命を大切にしているからこそ、私たちは自分が何をしてほしいのか知っているんです。だからそれと同じように、他人にもしなさい。つまり、他人の命を大切にし、他人の命が生かされるためには何が必要なのかをしっかりと知るために、その人の思い、言葉に、耳を傾けなさいと。他の人たちに、隣人の思いや心に、耳を傾ける。そして、命をしっかり守っていくことが出来るように支え合うこと。それが大切なんだということを、今日のこの言葉は私たちに伝えていると思います。
教皇様は、特にこの感染症の状況になってからの2年間、しばしば、「私たちがこの状況から抜け出すために一番重要なのは、互いに支え合うことによる連帯です」と、「連帯」という言葉を盛んに繰り返されます。しかもそれが残念ながらこの2年間、これだけの危機的な状況の中にいるにもかかわらず実現していないということも、しばしば指摘をされています。
私たちは、互いに支え合って、連帯していかなければ命を守っていくことはできないのだということを、教皇様は繰り返し仰っておられますけれども、まさしく「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」というこの言葉は、互いに大切にし合い、互いに支え合い、連帯して生きていくということの大切さを、私たちに教えていると思います。
教会は共同体です、と私たちは言いますけれど、その共同体というのはいったい何なのかといえば、互いに支え合い、連帯する人たちの集まりであるということです。
私たちはこの教会共同体の中で、互いを大切にし合い、互いに支え合っていくのです。
命が希望をもって生きていくことができるように、連帯し繋がりながら、一緒になって歩んでいきたいと思います。
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