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2022年3月26日 (土)

週刊大司教第七十回:四旬節第四主日

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四旬節も第四主日となりました。

復活節に洗礼を受けられる準備をされている皆さんには、あと三週間ほどの準備期間です。特に成人洗礼の皆さんには、洗礼と初聖体と堅信を一度に受けられることが通常ですので、そうなると、この受洗の機会のあとに、学びを深めたり、祈りを深めることから離れてしまうこともあり得ます。実際、毎年に洗礼を受けたすべての人が日曜日に教会に来ていたとしたら、教会はあっという間に人であふれてしまうはずなのですが、実際にはそうなっていない。もちろん同じような課題は幼児洗礼の方々や、長年信徒である方々にも、何らかのきっかけで教会から足が遠のいてしまうことはあります。そういったことも含めて、わたしたちキリスト信者のすべてには、洗礼後の継続した信仰養成が、重要な意味をもっています。わたしたちは洗礼を受けた後も、生涯をかけてキリストについて学び続けたいと思いますし、神との祈りにおける対話を続け深めたいと思います。また「二人三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである(マタイ18:20)と約束された主に信頼し、教会共同体における交わりを深め続けたいと思います。(写真はエルミタージュ美術館のレンブラントの放蕩息子の帰還)

教皇様のロシアとウクライナの聖母の汚れなきみこころへの奉献に合わせて、この3月25日または26日に祈りをささげてくださった皆様に感謝いたします。まだ状況は不確実です。聖母の取り次ぎによって神の平和が確立されますように、これからもお祈りをお願いいたします。

以下、本日午後6時配信の週刊大司教第70回、四旬節第四主日のメッセージ原稿です。

四旬節第四主日C(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第70回
2022年3月27日

ルカ福音は、よく知られている「放蕩息子」のたとえ話を記しています。この物語には、兄弟とその父親という三名が、主な登場人物として描かれています。

2016年の「いつくしみの特別聖年」のあいだ、教皇フランシスコはしばしば父である神のあわれみ深さを語り、そのいつくしみの姿勢に倣うようにと勧められました。その年の5月11日の一般謁見で、この物語に触れこう語っています。

「父親のいつくしみは満ちあふれるほど豊かで無条件です。その優しさは、息子が話す前に示されています。・・・(弟が自らの過ちを認める)ことばは、父親のゆるしの前に崩れ去ります。父親の抱擁と接吻により、彼は何があってもつねに自分は息子だと思われていたと悟ります」

その上で教皇は、「父親の論理はいつくしみの論理です。弟は自分の罪のために罰を受けて当然だと思っていました。兄は、自分の奉仕の報いを期待していました。二人は互いに話し合うこともなく、異なる生き方をしていましたが、両者ともイエスとは違う論理のもとに考えています」

「傷をいやし、和解とゆるしの道をつねに差し出す準備のある、野戦病院となること(東京ドームミサ説教)」を教会共同体に求める教皇フランシスコは、しばしば神のいつくしみの深さとそれに倣うことをわたしたちに説いておられます。

同時に教皇フランシスコは、特に現在の感染症の状況になってからそれが顕著ですが、わたしたちが世界的規模で「連帯」することの必要性を強調されます。「放蕩息子」のたとえ話も、単に父親の限りない優しさを記しているだけではなく、その優しさが、実のところ「連帯」に基づいていることを明示しています。

弟を迎え入れた父親は、「いなくなっていたのに見つかったからだ」という言葉の前に、「死んでいたのに生き返り」と付け加えています。弟は何に死んでいたのでしょうか。

弟を迎え入れた父親に対して不平を言う兄に、父は「お前はいつも私と一緒にいる。私のものは全部お前のものだ」と告げています。

すなわち、ここで家族として描かれている「共同体」の絆から離れていることは、いのちを生きていたとしても「死んでいる」ことであって、その絆に立ち返ったからこそ弟は「死んでいたのに生き返り」と父親が語っているのです。共同体の絆、すなわち連帯の絆に結ばれて、人はいのちを十全に生きることができるのです。父親の優しさは、共同体の連帯の絆に立ち返らせようとする愛の心に基づいています。

「連帯」の意味についてしばしば語られた教皇ヨハネパウロ二世は、回勅「真の開発とは」にこう記しています。

「(連帯とは)、至るところに存在する無数の人々の不幸、災いに対するあいまいな同情の念でもなければ、浅薄な形ばかりの悲痛の思いでもありません。むしろそれは、確固とした決意であり、・・・共通善のために働くべきであるとする堅固な決断なのです(「真の開発とは」38)」

四旬節にあたって、わたしたちは「愛の業」に生きるようにと招かれます。その一助として、カリタスジャパンなどを通じた援助事業に資するための献金をするようにと勧められます。そういった行動は、わたしたちがキリスト者として優しい人だからそうするのではありません。それは、あの父親に倣い、連帯を実現しようとする、一人ひとりの信仰における決断に基づく行動です。

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2022年3月25日 (金)

公式訳:ロシアとウクライナをマリアの汚れなきみ心に奉献する祈り

教皇様が本日日本時間の深夜、26日午前1時(ゆるしの秘跡の典礼が始まるのが午前1時で、奉献自体は午前2時すぎに行われるものと思われます)の典礼で使われる祈りが公開されました。

二日前に教皇庁から、現在バチカンのサイトに掲載されている日本語訳文が届きました。教皇庁から直接に日本語訳が届くこと自体めったにないのですが、残念ながら手直しの必要を感じましたので、司教協議会でこの公式訳を底本に翻訳を手直ししました。この作業に時間を要しました。ゼロからの翻訳であれば、もっと早くできたと思いますが、関係者の協力で、本日に間に合うことになりました。

日本語での公式訳は、中央協議会のホームページ、こちらのリンクをご覧ください

なお東京教区では、それぞれの場で教皇様に一致して祈りをささげるとともに、私は、明日26日の教区宣教司牧評議会の冒頭で、教区全体から集まる評議員の皆さんと一緒に祈りを捧げます。

ウクライナの平和のため、また全世界の平和が確立されるように、聖母の取次を祈りましょう。

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2022年3月23日 (水)

平和を求めて、教皇様と一致して祈る

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すでに一つ前のガクタン司教様の叙階式の記事でもお知らせしましたが、ウクライナにおける戦争状態を憂慮し、平和を求めて様々に努力を積み重ねておられる教皇フランシスコは、3月25日に聖母の汚れなきみこころに、ロシアとウクライナを奉献されることを決められ、世界中の司教に一致して祈るようにと通達を出されました。(写真はファティマにて)

通達の文書と、それに伴う奉献の祈りの文書は、本日(3月23日)午前中に、教皇庁大使館から各司教に送付されてきました。祈りの文章はかなりの長文ですし、用語などに過去の公式の祈りとの整合性を持たせなくてはならないため、現在、中央協議会事務局で典礼委員会の協力の下、翻訳が進められています。

聖母の汚れなきみこころにロシアを奉献すると言うことに関して、その原点は、ファティマで出現された聖母が、ルチアに伝えた第一、第二の秘密に記されています(「ファティマ第三の秘密」教皇庁教理省、カトリック中央協議会2001年4月20日発行)。是非この文書を一度ご参照ください。

そこにはこう記されています。「けれども、最後には、わたしの汚れない心が勝利するでしょう。教皇は、ロシアを私に奉献し、ロシアは回心し、世界に平和が与えられるでしょう」(同書19頁)。

また同書を発行した当時の教皇庁教理省の次官であったベルトーネ枢機卿は、「1984年3月25日、バチカンの聖ペトロ広場において、前もって呼びかけておいた世界中の司教たちと霊的に心を合わせ、(教皇ヨハネパウロ二世は)「すべての人々と諸民族」を「マリアの汚れないみ心」にゆだねました」と記し、それについて、「シスター・ルチアは、荘厳で普遍的なこの奉献の祈りが、彼女から見ても聖母マリアの望みにかなうものであることをことを認めました。『はい。1984年3月25日は、聖母が望まれたように行われました』。したがって、これ以外にどのような議論や要求にも根拠がありません」とも記しておられます。(同書12頁)

教皇様はこの聖母の言葉に信頼し、聖母の汚れなきみ心に全人類と、特にロシアとウクライナを奉献されます。さらにファティマにも特使を派遣して、同様に奉献の祈りをささげられます。わたしたちも教皇様に心をあわせ、平和のために祈りをささげましょう。

以下、東京教区における呼びかけ文です(教区のホームページにも掲載されています)。

東京大司教区の皆様

教皇フランシスコと一致しながら
ウクライナとロシアを聖母マリアの汚れなきみ心に奉献する

今年の四旬節は、戦争という悲しい現実の中で始まりました。ウクライナを巡るロシアの武力侵攻は世界に大きな衝撃を与えており、いのちを守り平和を希求する多くの人たちの願いを踏みにじる形で事態が展開しています。政治の指導者にあっては、国家の独立を脅かすだけでなく、共通善の実現を踏みにじるような無謀な行動を即座に止め、いのちを守り、希望を回復するために、対話のうちに平和へと向かう道を選択されることを切に願います

2月24日に戦争状態が発生してからまもなく一ヶ月になろうとしていますが、残念ながら平和とはほど遠い現実が、毎日のように報道されています。インターネットが普及した現在、SNSなどを通じて、わたしたちはいのちの危機に直面する人たちの声に、直接耳を傾ける事すらできるようになりました。それが多くの人に、今起こっていることが他人事ではないと感じさせ、平和を求める行動へと駆り立てているのではないでしょうか。

ウクライナにおけるこの状況を憂慮され、平和を求めるため、様々に努力を続けておられる教皇フランシスコは、聖母の取り次ぎによる神の平和の実現を求めて、来る3月25日(金)神のお告げの祭日のローマ時間午後5時(日本時間3月26日午前1時)に、聖ペトロ大聖堂において、ロシアとウクライナを聖母マリアの汚れなきみ心に奉献されます。

教皇様は、全世界の司教たちに、また司教を通じてすべての信者に、この奉献に一致して祈るようにと呼びかけ、できれば同じ時間に祈りを捧げるようにと招いておられます。

当日のために準備される公式の祈りは、今朝ほど教皇庁から届けられ、現在、中央協議会事務局で翻訳作業中です。翻訳ができ次第、中央協議会のホームページに掲載される予定です。

仮に公式の祈りの翻訳が間にあわない場合であっても、教皇様の意向に心をあわせ、平和のためにロザリオの祈りなどをお捧げください。

東京教区にあっては、教皇様によるローマでの奉献の時刻が日本では深夜となりますから、同じ時間でなくとも、翌朝などに祈りをささげるものといたします。また3月26日(土)には教区宣教司牧評議会が開催されますので、その冒頭に、参加者と一緒に祈りをささげます。

聖母の取り次ぎによって、神の平和がこの地上に実現し、いまいのちの危機に見舞われているウクライナの地に平和が確立されるように、また賜物であるいのちがその尊厳を守られるように、教皇様と心をあわせてともに祈りをささげましょう。

2022年3月23日
カトリック東京大司教 菊地功

 

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2022年3月21日 (月)

仙台にガクタン司教誕生

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3月19日、聖ヨセフの祝日に、仙台教区の新しい牧者であるエドガル・ガクタン司教が誕生しました。

ガクタン司教様、おめでとうございます。仙台教区の皆さん、おめでとうございます。そしてこれまで仙台教区を率いてくださった平賀司教様、ありがとうございます。特に平賀司教様にあっては、2011年3月11日の東日本大震災以降、復興の道程を先頭に立って導いてくださったことを感謝します。わたしも、その期間、カリタスジャパンの責任者として、また司教団の復興支援担当として、平賀司教様をはじめ仙台教区の方々と、ともに歩ませていただいたことを心から感謝いたします。

感染対策もあり、会場となった元寺小路教会には大勢の方が入ることはできませんでした。またガクタン司教様の故郷、フィリピンの方々も来日が適いませんでした。しかし、そういうときだからこそ、しっかりとしたオンライン配信が行われ、それを通じて聖堂に集まるよりもより多くの方が、仙台教区だけでなく世界中で、この司教叙階式に霊的に参加することができたのではないでしょうか。

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日本の教会にとって、初めてのフィリピン出身の司教誕生です。現在の日本の教会におけるフィリピン出身の信徒の方々の存在の重要性を反映しているとも言えます。同時にそのことは、またはそれ以上に、この事実は世界に広がる普遍教会の中での交わりを象徴するものでもあると思います。文化や言葉や国境を越えて繋がれているキリストの一つの身体である教会を、見事に象徴しているものだと思います。

またガクタン司教様は、復興支援活動の中で、特に大船渡を中心に活躍され、仙台教区にとっても「知らない外の人」ではありません。それを象徴するように、叙階式後には、大船渡教会の方々の「ガクタン音頭」が披露され、以下にガクタン司教様が地元で愛される存在であるかが浮き彫りになりました。司教様のこれからの活躍に期待しています。(ガクタン音頭の録音風景ビデオへのリンクです

なお当日集まった全国の司教たちに、教皇大使から口頭で、教皇様のウクライナとロシアの聖母のみこころへの奉献について通知がありました。ウクライナにおける状況を憂慮される教皇様は平和を求めて、3月25日(金)のローマ時間午後5時、無原罪の聖母のみこころに、ロシアとウクライナを奉献されます。3月25日は1984年に教皇ヨハネパウロ2世がロシアを無原罪の聖母のみこころに奉献した日であります。教皇様は司教たちに一致して祈るように呼びかけ、できれば同じ時間(日本では26日の午前2時です)、祈るように呼びかけられています。正式な呼びかけの文書と当日のために準備される祈りは、まだ届いていませんが、届き次第、できる限り速やかに翻訳を行い、ホームページなどでお知らせすることになると思います。教皇様の奉献と同じ時間は日本では深夜ですので、それ以外の時間などでも構いませんので、一緒に教皇様の意向に合わせて祈りをささげていただければと思います。東京教区としては、皆様に呼びかけると同時に、ちょうど26日に宣教司牧評議会が開催される予定ですので、その冒頭に祈りをささげたいと考えています。

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以下、ガクタン司教様の司教叙階式ミサの説教原稿です。なお後半部分の、「さて皆さん、・・・」以下は、司教叙階の儀式書に掲載されている内容を、短くまとめ、書き改めたものです。またビデオは、こちらのリンクの仙台教区のアカウントからご覧いただけます。

エドガル・ガクタン司教叙階式説教
仙台カテドラル 元寺小路教会
2022年3月19日

「何もしなければ結果はゼロですが、一歩踏み出せば一歩前に進みます。・・・連帯と相互の献身に基づく未来を築くための一歩です。」

2019年11月25日、東京で東北の方々と出会った時の、教皇様の言葉です。

11年前、仙台教区の皆さんをはじめとして日本中の多くの方が、歴史に残るであろう出来事を体験しました。東日本大震災は、東北の沿岸部を中心に甚大な被害をもたらしました。

巨大な自然の力を目の当たりにして、わたしたちは人間の知恵と力のはかなさを痛感させられました。人間には限界があるという当たり前のことを思い知らされました。しかしながら、その後に続いた復興支援の歩みは、理不尽な出来事のただ中にあっても、それでも、わたしたちは神のいつくしみの手の中で包み込まれ生かされているのだという事実を、あらためて認めさせる体験となりました。「連帯と相互の献身」を通じた支え合いこそが、いのちを生きる希望を生み出すのだと言うことを、さまざまな出会いが証明してきました。教会は、この11年間、地域の方々とともに歩み支え合う行動を通じて、その存在自体が福音の愛のあかしとなってきたと、私は思っています。

教皇様は東京の集いで、さらに加えて次のように言われました。
「一人で「復興」できる人はどこにもいません。だれも一人では再出発できません。町の復興を助ける人だけでなく、展望と希望を回復させてくれる友人や兄弟姉妹との出会いが不可欠です」

仙台教区の皆さんと、全国の教会の皆さんが一緒になって、「展望と希望を回復させてくれる友人や兄弟姉妹との出会い」を生み出してきたのが、この11年の歩みではなかったでしょうか。

皆さんご存じのように、ガクタン司教様は、その歩みのただ中におられました。大船渡を中心に、さまざまな出会いを、連帯を、支え合いを生み出す中心に、ガクタン司教様はおられました。「連帯と相互の献身に基づく未来を築くため」、確実に一歩を踏み出す事ができるようにと、その活動の中に、ガクタン司教様はおられました。

あの大震災という出来事から9年が経過した2020年、わたしたちはあらためて人間の限界を思い知らされる出来事に遭遇しました。新型コロナ感染症の世界的な拡大です。

感染症への対策は、わたしたちが慣れ親しんできた教会の姿を大きく変えてしまいました。同時にわたしたちは、実際に日曜日に集まることが出来ない中で、それでは教会とはいったい何であるのかと自問する機会を与えられています。

教皇様は、2020年9月2日の一般謁見で、こう話されています。
「このパンデミックは、わたしたちが頼り合っていることを浮き彫りにしました。わたしたちは皆、良くも悪くも、互いに結びついています。この危機から、以前よりよい状態で脱するためには、ともに協力しなければなりません。・・・調和のうちに結ばれた多様性と連帯、これこそが、たどるべき道です。」

残念なことに今わたしたちは、「調和のうちに結ばれた多様性と連帯」と真っ向から対立する、戦争の危機のまっただ中におります。しかし同時に、この危機的な状況の中にあっても、多くの人が世界中で、平和のために声を上げ連帯して行動していることは、暗闇の中の小さいけれど力強い光として、わたしたちの希望となっています。連帯は希望を生み出します。希望は未来への展望を生み出します。

東京ドームミサでの教皇様のことばが、教会の今この時のあるべき姿を見出します。
「いのちの福音を告げるということは、共同体としてわたしたちを駆り立て、わたしたちに強く求めます。それは、傷のいやしと、和解とゆるしの道を、つねに差し出す準備のある、野戦病院となることです」

この危機のなかにあって、「傷のいやしと、和解とゆるしの道」を差し出す共同体であるためには、先頭に立つ牧者が不可欠です。教会共同体のあるべき姿を示す牧者が必要です。多様性を自ら生きる牧者が必要です。連帯と支え合いを自ら示す牧者が必要です。この時に、新しい牧者として、ガクタン司教様を任命してくださった教皇様の配慮にも、共に感謝したいと思います。

さて皆さん、人類をあがなうために御父から遣わされたわたしたちの主イエス・キリストは、ご自分も十二人の使徒たちを世にお遣わしになりました。それは、彼らが聖霊の力に満たされて福音を宣べ伝え、そしてすべての民を牧者のもとに一つに集めて、これを聖なる者とし、治めるためでした。使徒たちはこの務めが世の終わりまで続けられるように、自分たちの助け手を選び、キリストから受けた聖霊のたまものを按手によって彼らに与えました。この按手を通して、叙階の秘跡が余すことなく授けられます。こうして一つの時代から次の時代へと、司教職が絶え間なく受け継がれることによって、この中心となる伝承が保たれ、救い主のわざがわたしたちの時代にまで続き、また発展しているのです。

イエス・キリストご自身が司教の奉仕職のうちにおられ、自ら福音を宣べ伝え、信じる人々を信仰の秘跡をとおして聖化し続けておられます。ですから皆さん、わたしたち司教が按手によって司教団に加えるこの兄弟を感謝と喜びのうちに迎え入れてください。福音の真理をあかしする務めと、霊と義を与える奉仕職をゆだねられる新しい牧者を、キリストの役務者、神の秘義を人々にもたらす者、使徒の後継者として尊敬をもって受け入れてください。

ところでエドガル・ガクタン被選司教様、あなたは主から選ばれ、ペトロの後継者によって仙台教区の牧者として任命されました。司教職とは名誉ではなく、奉仕です。折りが良くても悪くても神の言葉をのべ伝え、忍耐を持って励まし、教えてください。そして自分にゆだねられた民のための祈りといけにえをささげるにあたっては、聖性に満ちあふれたキリストに倣い、その恵みを豊かにいただくように務めてください。

あなたにゆだねられた教会においては、忠実にキリストの秘義をもたらし、管理し、そして守る者となってください。御父から神の家族を治めるように選ばれた者として、いつもよい牧者キリストを忘れないでください。

神があなたにゆだねるすべての人を、父として兄弟として愛してください。とりわけキリストの奉仕職における協力者である司祭と助祭には愛を持って交わり、さらに、貧しい人、弱い人、旅路にある人、故郷を離れて生きる人々、忘れ去られた人、孤独のうちにある人、社会から排除された人に、特に愛を注いでください。キリスト者があなたと共に、福音を告げる使徒となるように励ましを与え、また、信徒の声によく耳を傾けてください。まだ福音に触れていない多くの方々も、主においてあなたにゆだねられている人々として大切に心にとめていてください。

ガクタン被選司教様、あなたは神の教会を治めるために聖霊によって遣わされるのですから、群れ全体を注意深く世話してください。あなたが教会の中でその姿を示す御父のいつくしみ深いみ名によって、そしてキリストの教会を生かし、わたしたちの弱さをその力によって強めてくださる聖霊のみ名によって、あなたにゆだねられた群れ全体を愛し、養い、育て、守り、導いてください。

 

 

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2022年3月19日 (土)

週刊大司教第六十九回:四旬節第三主日

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四旬節第三主日です。

3月16日深夜に、東北地方を襲った地震の被害を受けられた方々に、お見舞い申しあげます。

ちょうど本日19日が仙台教区のガクタン司教様の司教叙階式にあたり、昨日18日には東京から仙台へ移動しなくてはなりませんでした。結局、自分で運転して移動することにしました。東京から仙台への車での移動ですと、新潟へ向かう距離とそれほど変わりません。

ガクタン司教様の叙階式については、別途掲載します。

以下、本日午後6時配信の週刊大司教第69回、四旬節第三主日のメッセージ原稿です。

四旬節第三主日C(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第69回
2022年3月20日

出エジプト記は、モーセの選びの物語を記します。神は自らを「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と名乗り、神の救いの計画を形作る時間の流れが、人間の常識をはるかに超えて連綿と続き、その一つ一つの時代の中での関わりが、すべからく結びあわされて一つの流れを形作っていることを明確にされます。

神の救いの計画を形作る時の流れは、今も連綿と続いており、わたしたちの理解をはるかに超えたところで、神はご自分の計画を成し遂げて行かれます。

パウロもこの雄大な時間の流れに触れ、神の救いの計画の中にあって、すべてが結びあわされていることを明確にし、今を生きているわたしたちも、その流れの中で結びあわされていることを示します。パウロは「立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい」と記すことで、わたしたちが自力ではなく、実は神のはからいの中で生かされている存在であることを示唆します。

ルカ福音は、神がその怒りをわたしたちに向けないのは、忍耐強く待っておられるからであり、わたしたちはそのあわれみの中で生かされているものであり、何気なく毎日を過ごしてはいけないということを示唆する、イエスの言葉を記します。わたしたちは、常なる回心へと招かれています。四旬節は、わたしたちを包み込む神のあわれみの中で、わたしたちが神によって生かされていることを悟り、回心へと導かれるときでもあります。

四旬節の第二金曜日、先日3月18日が、日本における「性虐待被害者のための祈りと償いの日」でありました。多くの教会で、本日四旬節第三主日に、この意向でミサが捧げられます。

いのちを賜物として与えてくださった神を信じるわたしたちには、いのちの尊厳を守る務めがあります。したがって教会の聖職者には、その務めを率先して果たすことが求められます。

残念ながら模範であるはずの聖職者が、いのちの尊厳をないがしろにする行為、とりわけ性虐待という人間の尊厳を辱め蹂躙する行為におよんだ事例が、世界各地で多数報告されています。なかでも保護を必要とする未成年者に対する性虐待という、卑劣な行為を行った聖職者の存在も明らかになっています。日本の教会も例外ではありません。

加えて司教をはじめとした教会の責任者が、聖職者のこうした加害行為を隠蔽した事例が、世界各地で報告されています。

いまシノドスの道をともに歩んでいる教会は、互いに耳を傾けあい、支え合いながら、連帯の絆に結ばれた共同体であることを目指しているはずです。互いの絆の中で、同じ尊厳あるいのちを与えられたものとして、ともに神によって生かされている共通理解を持とうとしているはずです。賜物であるいのちとその尊厳を守ることが、教会の一人ひとりの務めであり、そして共同体の努めであることを認めようとしているはずです。日本の教会が、いのちの尊厳を守り抜くための努力を怠らない教会共同体となることを、わたしたち司教をはじめ聖職者が妨げている事例があることを、大変申し訳なく思っています。

世界中の教会に多くの被害者がおられます。教会は、しばしば無関心や隠蔽も含め、被害を受けられた方々に大きな罪を犯してきました。申し訳ありません。わたしたち司教や聖職者がこのような罪を繰り返すことのないように、信仰における決意を新たにし、わたしたちを生かしてくださる神のいつくしみによりすがり、愛のうちに祈り、行動したいと思います。

 

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2022年3月17日 (木)

2022年「性虐待被害者のための祈りと償いの日」にあたって

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昨晩遅く、東京の司教館も、ミシミシと音をたてながら、かなり揺れました。東北をまた襲った大きな地震です。被害を受けられた皆様に、お見舞い申しあげます。

今週末の土曜日はガクタン司教様の司教叙階式で仙台へ行かなくてはならないのですが、もちろん当初予定していたのは新幹線でしたので、移動手段を思案中です。

明日3月18日は、今年の「性虐待被害者のための祈りと償いの日」にあたります。東京教区での呼びかけと、司教協議会会長名での呼びかけ文を、以下に再掲いたします。なお東京教区では、できる限り多くの方に祈り、またことの重大さを理解していただきたく、次の主日である20日に、この「祈りと償いの日」の教皇様の意向に合わせてミサを捧げることにしており、わたしも関口教会10時のミサを司式させていただく予定です。

なおこれに関連した教皇庁の諸文書が中央協議会のホームページに掲載されています。また改訂された教会法の翻訳なども掲載されています。ご参照ください。(教会法の翻訳は、基本的には現在出版されている教会報における用語翻訳と整合性を持つようにしてありますが、一部変更されているものもあり、今後、ラテン語用語の邦訳の見直しから、教会法全体の翻訳見直しへと作業が継続する見込みです)

東京教区の皆様

2022年「性虐待被害者のための祈りと償いの日」にあたって

四旬節の第二金曜日は、日本の教会における「性虐待被害者のための祈りと償いの日」と定められています。今年は3月18日(金)がその日となります。

この数年間、世界各地の教会において、聖職者による性虐待のケースが報告されるようになり、調査の結果、同様の事例が多数、過去にさかのぼって存在することが明らかになりました。加えて、聖職者によるそういった行為には、保護の対象である未成年者への性虐待行為もあることが明らかになりました。これは日本の教会も例外ではありません。さらには司教や修道会の責任者が、事実を隠蔽しようとした事例の報告も相次いでいます。

教皇様は、いのちの尊厳を守る立場から、これらの事実に目を背けることのないようにと指示をされ、世界中の教会が、この数年、対応のための制度を整えています。東京大司教区でも、すでに対応委員会や窓口を設けていますが、その制度をさらに整える努力を続けてまいります。

もちろん制度を整えたからと言ってすべてが解決するわけではありません。制度を正しくふさわしく運用するための啓発活動が必要ですし、さらに一番大切なことは、被害を受けられた方々の尊厳が回復されるために手を尽くすことであると思います。

いのちの尊厳を守るはずの聖職者がこのような正反対の行為をしたことに、心から謝罪いたします。これからも東京大司教区において、すべての人のいのちの尊厳を守るために、取り組んでいく決意を新たにいたします。

今年の「性虐待被害者のための祈りと償いの日」にあたり、東京大司教区では当日の3月18日(金)、またはその直後の3月20日(日)に、それぞれの教会において、教皇様の意向に合わせてミサを捧げるものとします。なおミサにあたっては、「ゆるしの奉献文」を使うものとします。

また3月20日(日)の関口教会10時のミサを大司教司式ミサとし、この意向で捧げます。

日本の司教団は昨年、「未成年者と弱い立場におかれている成人の保護のためのガイドライン」を改訂し、中央協議会のホームページで公開しています。このガイドラインは対象を「教会で宣教や司牧に携わるすべての人」、つまり司祭や修道者だけでなく、教会関連施設で奉仕するすべての職員やボランティアとしています。教会共同体のすべての方が、この問題を自分自身のこととして、ともに考え、祈り、行動してくださるようにお願いいたします。

なお、司教協議会会長としての呼びかけ文も、私の名前で公開されています。以下に掲載いたしますので、ご一読ください。

2022年3月4日

カトリック東京大司教区 大司教
菊地功


日本のカトリック信者の皆様

2022年「性虐待被害者のための祈りと償いの日」にあたって

いのちを賜物として与えてくださった神を信じるわたしたちには、いのちの尊厳を守る務めがあります。教会の聖職者には、その務めを率先して果たすことが求められるのは言うまでもありません。

残念ながら模範であるはずの聖職者が、いのちの尊厳をないがしろにする行為、とりわけ性虐待という人間の尊厳を辱め蹂躙する行為におよんだ事例が、世界各地で多数報告されています。なかでも保護を必要とする未成年者に対する性虐待という、卑劣な行為を行った聖職者の存在も明らかになっています。日本の教会も例外ではありません。

加えて司教をはじめとした教会の責任者が、聖職者のこうした加害行為を隠蔽した事例が、過去にさかのぼって世界各地で報告されています。

教皇フランシスコは、聖職者によって引き起こされたこの問題に、教会全体が真摯に取り組み、その罪を認め、ゆるしを請い、また被害にあった方々の尊厳の回復のために尽くすよう求めておられます。また特別の祈りの日である「性虐待被害者のための祈りと償いの日」を設けるようにと、各国の司教団に指示をされました。日本の教会では、四旬節・第二金曜日を、この祈りと償いの日と定めました。2022年にあっては、来る3月18日(金)がこの「性虐待被害者のための祈りと償いの日」にあたります。

日本の司教団は、2002年以来、ガイドラインの制定や、「子どもと女性の権利擁護のためのデスク」の設置など、対応にあたってきました。昨年12月には、「未成年者と弱い立場におかれている成人の保護のためのガイドライン」を作成し、日本の教会に委ねられている未成年者のいのちを守る使命を果たす決意を新たにしています。今後も、よりふさわしい制度とするために、常に見直しと整備を続けてまいります。

いまシノドスの道をともに歩んでいる教会は、互いに耳を傾けあい、支え合いながら、連帯の絆に結ばれた共同体であることを目指しています。日本の教会が、いのちの尊厳を守り抜くための努力を怠らない教会共同体であるように、努めて参ります。

世界中の教会に多くの被害者がおられるといわれます。無関心や隠蔽も含め、教会の罪を認めるとともに、被害を受けられた方々が神のいつくしみの手による癒やしに包まれますように、ともに祈ります。同時に、わたしたち聖職者がこのような罪を繰り返すことのないように、信仰における決意を新たにし、愛のうちに祈り、行動したいと思います。

どうぞ、四旬節第二金曜日に、またはその近くの主日に、教皇様の意向に合わせ、司教団とともに、祈りをささげてくださいますようにお願いいたします。

2022年2月17日

日本カトリック司教協議会 会長
菊地功

 

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2022年3月12日 (土)

週刊大司教第六十八回:四旬節第二主日

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四旬節は第二週に入ります。復活祭に向けて、洗礼の最終的な準備をされている方々のために、この四旬節の間は特に祈りましょう。また洗礼志願者の方々とともに、わたしたち自身も信仰の歩みを振り返り、何を信じているのか、どうして信じているのか、信じているのであればどう生きるのか、あらためて見つめ直してみましょう。(写真は本所教会のみちの光なる聖母の像)

この一週間は、年に二度ほど開催される定例のFABC(アジア司教協議会連盟)の中央委員会会議の週でした。FABC中央委員会は、アジア各地の司教協議会会長で構成されています。今回私は、日本の司教協議会会長として、またFABCの事務局長(SG)として参加しました。

会議はボンベイ(ムンバイ)で開催の予定でしたが、このような世界の状況ですので実際に集まることは難しく、オンラインを併用したハイブリッド会議です。最初の二日間は、FABCの各部局の責任者も入れての会議で、特に、今年の秋10月に予定されているFABC50年を記念する総会の準備についてが主要議題でした。FABC50年は2020年でしたが、当然この状況で2年間延期され、今回の秋の総会もハイブリッドになる模様です。開催地はバンコクが予定されています。もっともオンライン会議に対する否定的な意見も多くあり、できる限りタイに集まることが勧められる模様ですが、広いアジアですから、それぞれの地域の状況も異なり、実際にこの秋にどうなっているのかは分かりません。ただ逆にそれは準備をするバンコク教区に、非常に大きな負担を強いることになります。あと半年ほどしかないのに、具体的にどうなるのかが分からないのですから、準備のしようがありません。

いずれにしろ、FABC自体がアジアの各地の教会でよく知られているわけでもありませんし、創立から50年経って、日本の教会でも、FABCの活動がそれほど知られていないのも事実です。また実際に関わっている司教たちには、アジアの教会のこれからの方針の策定という思いがありますが、アジアの教会全体で見れば、FABCが司教さんたちの内輪の団体と見なされている嫌いもあります。10月に予定されている総会が、これまでの歴史を振り返り、しっかりと評価を行い、今の時代に何ができるのか、見つめ直す機会になればと思います。

以下、本日午後6時配信の週刊大司教第68回、四旬節第二主日のメッセージ原稿です。

四旬節第二主日C(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第68回
2022年3月13日

四旬節は、わたしたちが信仰の原点に立ち返るときです。その原点は、一体どこにあるのでしょうか。

創世記は、まだアブラムと呼ばれていたアブラハムを神が選び、契約を結ばれた出来事を記しています。暗闇の中で天を仰ぎ、「星を数えることができるなら、数えてみるが良い」と告げられたアブラハムの驚きを想像します。現代の東京の夜空であれば、もしかしたらすべての星を数えてしまえるのかも知れませんから、それではなんとも情けない話ですが、創世記の時代の夜空ですから、まさしく満天の星であったことだろうと思います。逆に言えば、そのこと自体が、人間が築き上げた繁栄が、結局は神の存在を見えないものとしてしまっていることを象徴しているのかも知れません。アブラハムの信仰の原点は、暗闇に満天の星を眺め、未来に向けた想像を超えた約束を与えられ神と契約を結んだ、そのときの驚きであったと思います。

パウロはフィリピの教会への手紙で、キリストの十字架にこそわたしたちの信仰の原点があることを強調し、信仰における旅路は、わたしたちをこの世での繁栄ではなく、本国である天の国へと導いていることを指摘します。

ルカ福音は、イエスがペトロ、ヨハネ、ヤコブの眼前で栄光を示された御変容の出来事を記します。神の栄光を目の当たりにしたペトロは、何を言っているのか分からないままに、そこに仮小屋を三つ建てることを提案したと福音は伝えます。ペトロはその栄光の中にとどまりたかったのでしょうが、イエスは困難に向けて前進を続けます。福音はモーセとエリヤが共に現れたと記します。律法と預言書、すなわち旧約聖書は、神とイスラエルの民との契約であり、信仰と生活の規範でありました。そこに神の声が響いて、「これはわたしの愛する子。これに聞け」と告げたと記されています。イエスこそが旧約を凌駕する新しい契約であること、すなわちイエスに従う者にとっての信仰の原点であることを、神ご自身が明確にしました。

わたしたちの信仰の原点は、イエスの言葉と行いにあります。教皇ベネディクト16世は、それについて、「信仰とは、何よりもまず、イエスとの深く個人的な出会いです。そして、イエスの近さ、友愛、愛を体験することです(2009年10月21日の一般謁見)」と述べています。

四旬節は、信仰の原点、すなわちイエスとの個人的出会いに立ち返るために、御父のいつくしみに生きるようにと勧めます。いつくしみの具体的な行動の中でわたしたちは人と交わり、そこにいつくしみそのものである主がおられるからに他なりません。わたしたちは自らのあわれみ深い行動を通じて、また他者からのあわれみの業によって、そこにおられる主と出会います。わたしたちの信仰の原点の一つは、いつくしみの業、愛の業であります。

先日3月11日で、東日本大震災から11年となりました。教会は、災害の前から地元に根付いて共に生きてきた存在として、これからも東北の地元の方々と共に歩み続ける存在です。教会の東北におけるこの11年間の歩みは、どこからかやってきて去って行く一時的な救援活動に留まらず、東北のそれぞれの地で、地域共同体の皆さんと将来にわたって歩みをともにする中で、いのちの希望の光を生み出すことを目指してきました。そこに主イエスがおられます。連帯と支え合いの交わりの中に、主イエスがおられます。具体的な人と人との交わりの中で、わたしたちは主と個人的に出会います。それぞれの信仰の原点を、見つめ直しましょう。

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2022年3月11日 (金)

2011年3月11日から、11年となりました

東日本を中心に大きな地震が発生し、東北の広い地域、特に太平洋沿岸の広大な地域を、巨大な津波が襲ったあの日から、今日で11年となります。

あらためて、亡くなられた多くの方々を思い起こしながら、永遠の安息を祈ります。

なお、日本の教会は仙台教区を中心にして、全国の教区を挙げての復興支援活動を10年間行い、現在も形を変えて支援活動が続いています。昨年7月に、その10年間の活動の外部評価をしていただき、結果を公表していますので、こちらのリンクからご覧いただければと思います。(リンク先のページの一番下に、PDFファイルへのリンクがあります)

以下、すでに東京大司教区のホームページに掲載してありますが、11年目をむかえてのメッセージです。

東日本大震災から11年目を迎えて

カトリック東京大司教区 大司教
菊地功

2011年3月11日に、東日本大震災が発生して11年となりました。今年もまたあの出来事を忘れることなく心に刻み、大震災によって亡くなられた方々、またその後の過酷な生活の中で亡くなられた方々の永遠の安息をお祈りいたしましょう。また今でも行方が分からない方や、さまざまな形での避難生活を続けられる方も多数おられ、一日も早く、東北の地に希望が回復するように、心からお祈りいたしましょう。

教会は、いのちを生きる希望を掲げて、大震災発生から10年間、東北の地に生きる存在として、その役割を果たそうと務め、復興支援活動に取り組んできました。昨年の3月末で、全国の教区一丸となっての活動は、一旦終了となりましたが、そもそも教会は地元に根付いてある存在であることを考えるならば、今も東北各地の教会共同体を通じて、普遍教会としての支援の歩みは続けられています。

2019年11月に日本を訪れた教皇フランシスコは、東京での被災者との集いで、次のように述べておられます。

「食料、衣服、安全な場所といった必需品がなければ、尊厳ある生活を送ることはできません。生活再建を果たすには最低限必要なものがあり、そのために地域コミュニティの支援と援助を受ける必要があるのです。一人で「復興」できる人はどこにもいません。だれも一人では再出発できません。町の復興を助ける人だけでなく、展望と希望を回復させてくれる友人や兄弟姉妹との出会いが不可欠です」

わたしたちは、互いに助け合うために、支え合っていのちを生かすために、展望と希望を生み出すために、いのちを生きていることを、教会の10年にわたる復興支援活動の歩みを通じて神はわたしたちに語りかけ続けています。

教会は今、シノドスの歩みをともにしています。「交わり、参加、そして宣教」をテーマに掲げて、教会のシノドス性の具体化を求めているこの道程は、わたしたちが「ともに歩む」事を求めています。

シノドスの準備文書は、「シノドス的教会は、福音を告げながら、『ともに旅をする』のです。この『ともに旅をする』ということは、今日、みなさんの教会の中で、どのような形で起こっているでしょうか。わたしたちが『ともに旅をする』中で成長するために、霊は、わたしたちがどのような段階を踏むよう招いているでしょうか」とわたしたちに問いかけています。東北の地での復興支援活動は、日本の教会にとってまさしく「ともに旅をする」体験でした。交わりを通じて、福音を具体的に明かしする旅路でした。多くの方が、自分のできる可能性の中で「参加」する旅路でした。わたしたちは、あの10年間の旅路から学びたいと思います。

仙台教区は、まもなく3月19日に、エドガル・ガクタン司教様を新しい牧者としていただきます。震災を乗り越え復興の道を導いた平賀司教様に感謝するとともに、新たな牧者であるガクタン司教様と一緒に、これからも展望と希望を回復する道を歩み続けてまいりましょう。

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2022年3月 5日 (土)

週刊大司教第六十七回:四旬節第一主日

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四旬節第一主日です。

四旬節について全体像を一つにまとめて解説している記事が、中央協議会のホームページにあります。こちらのリンクです。良くまとめられているので、是非ご参照ください。

特にその記事の冒頭の典礼憲章の引用で、四旬節の持つ二重の性格が次のように強調されています。

「四旬節の二重の性格が、典礼においても典礼に関する信仰教育においても、いっそう明らかにされなければならない。すなわち、とくに洗礼の記念または準備を通して、そして悔い改めを通して、信者は神のことばをいっそう熱心に聞き、祈りに励んで、過越の神秘を祝うために備えるのである」

人数に違いはあれど、多くの小教区で、復活祭に洗礼を受ける準備をしておられる方がおられることと思います。四旬節は、わたしたち自身の信仰を見つめ直す回心のときであると同時に、新しく信仰の道を歩もうとして準備の最終段階に入った人たちと、ともに歩んでいくときでもあります。洗礼志願者の方々のために祈りましょう。四旬節第一主日には洗礼志願式が行われる教会もあることと思います。

ウクライナの状況は変わりません。世界中で平和のための祈りが捧げ続けられています。世界の進む方向を大きく変えてしまう可能性すらある大国の行動です。灰の水曜日だけでなく、ウクライナの平和のために、また政治の指導者が聖霊の導きによって、共通善の実現のためのふさわしい道を見いだすことができるように、祈り続けたいと思います。

以下、本日午後6時配信の週刊大司教第67回、四旬節第一主日のメッセージ原稿です。

四旬節第一主日C(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第67回
2022年3月6日

3月2日の灰の水曜日から、四旬節が始まりました。今日は四旬節第一主日です。

四旬節は、わたしたちの信仰を見つめ直し、その原点に立ち返るときです。また御父のいつくしみを自らのものとし、それを多くの人に具体的に示す、あかしの時でもあります。

教会の伝統は、四旬節において「祈りと節制と愛の業」という三つの行動をもって、信仰を見つめ直すようにわたしたちに呼びかけています。また教会は四旬節に特別な献金をするようにも呼びかけます。この献金は、犠牲としてささげる心をもって行う具体的な愛の業に他なりません。またその犠牲を通じてわたしたちは、助けを必要としている多くの人たちに思いを馳せ、傍観者ではなくともに歩む者になることを心掛けます。互いに支えあう連帯の絆のうちに、いのちを生きる希望を回復する道を歩みましょう。

申命記は、イスラエルの民に原点に立ち返ることを説いています。神に感謝の捧げ物をするときに、自分たちがどれほどに神のいつくしみと力に護られてきたのかを、共同体の記憶として追憶する言葉です。神に救われた民の原点に立ち返ろうとする、記憶の言葉です。

パウロはローマの教会への手紙に、「実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われる」と記しています。申命記は、共同体の記憶に基づいたイスラエルの民に限定的な救いを記しますが、パウロはここで、神の救いはすべての人に向けられていることを明確にします。パウロは、復活された主イエスとの具体的な体験こそが、新約の民の共同体における共通の記憶であることを記します。わたしたちが立ち返る信仰の原点は、ここにあります。

ルカ福音は、荒れ野における四十日の試みの話を記します。イエスは、いのちを生きるには極限の状態である荒れ野で悪魔のさまざまな誘惑を受けます。それは空腹の時に石をパンに変えることや、この世の権力と繁栄を手に入れることや、神に挑戦することでありました。すべてはこの世に満ちあふれている人間の欲望の反映であります。それに対してイエスは、申命記の言葉を持って反論していきます。共通の救いの記憶、すなわち共同体の信仰の原点に立ち返ることにこそ、この世のさまざまな欲望に打ち勝つ力があることを、イエスは明確にします。信仰共同体に生きているわたしたち一人ひとりは、立ち返るべき信仰の原点を共有しているでしょうか。

四旬節の初めにあたり、教皇様はメッセージを発表されています。今年のメッセージのテーマは、ガラテヤ書6章の言葉で「たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります。ですから、今、時のある間に、すべての人に対して、善を行いましょう」とされています。(ガラテヤ 6 ・ 9 ー 10a)

その中で教皇様は、四旬節こそ将来の豊かな刈り入れのために種を蒔くときであるとして、「四旬節はわたしたちを回心へと、考え方を改めることへと招きます。それによって人生は、本来の真理と美しさを得るでしょう。所有するのではなく与えることが、蓄えるのではなくよい種を蒔いて分かち合うことが、できるようになるのです」と呼びかけます。その上で教皇様は、「他の人のためによい種を蒔くことは、個人の利益だけを考える狭量な論理からわたしたちを解放し、行動に無償性ゆえの悠然とした大らかさを与えてくれます。そうしてわたしたちは、神のいつくしみ深い計画の、すばらしい展望に加わるのです」と記されています。わたしたちもこの四旬節に信仰の原点に立ち返り、良い種を蒔くものとなり、神のいつくしみの計画に与るものとなるよう努めたいと思います。

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2022年3月 2日 (水)

2022年灰の水曜日・ウクライナの平和のために祈る

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灰の水曜日の午前10時のミサを、東京カテドラル聖マリア大聖堂で捧げました。教皇様の意向に従って、この日はウクライナの現状を心に留め、平和のために祈る日でもあります。

このミサには日本にただ一人というウクライナ正教会のポール・コロルク司祭が、数名のウクライナ関係者とともに臨席してくださいました。正教会ですので一緒に共同司式はできないので、ミサ終了後、聖櫃の置かれたマリア祭壇に場所を移して、一緒に平和のための祈りをささげました。ビデオでは、一旦ミサが終了してから、1:18:30あたりから、平和のための祈りが始まります。

ミサに参加された多くの方が残ってくださり、一緒に祈りをささげてくださいました。感謝。

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以下、本日のミサの説教の原稿です。

灰の水曜日
2022年3月2日
東京カテドラル聖マリア大聖堂

灰の水曜日から四旬節が始まります。今年もまた、感染症の状況の中で、安心して集まることができないままで、この季節を迎えました。いのちの危機の不安を感じながら四旬節を迎えるのは、これでもう3回目となります。

加えて今年は、戦争の危機のただ中での灰の水曜日となりました。ウクライナを巡るロシアの武力侵攻は、大国の暴力的行動として世界に大きな衝撃を与えており、いのちを守り平和を希求する多くの人たちの願いを踏みにじる形で事態が展開しています。政治の指導者にあっては、国家の独立を脅かすだけでなく、共通善の実現を踏みにじるような無謀な行動を即座に止め、いのちを守り、希望を回復するために、対話のうちに平和へと向かう道を選択されることを切に願います。

1939年8月、第二次世界大戦の前夜、ナチスドイツによるポーランド侵攻の直前、教皇ピオ12世がラジオメッセージで述べられた言葉が、当時の状況を彷彿させるいま、心に突き刺さります。

「平和によってはなにも損なわれないが、戦争によってはすべてが失われうる」(教皇ピオ12世1939年8月24日のラジオメッセージ)

ヨハネ23世はこのピオ12世の言葉を引用しながら、回勅「地上の平和」にこう記しています。
「武力に頼るのではなく、理性の光によって--換言すれば、真理、正義、および実践的な連帯によって(ヨハネ23世「地上の平和」62)」、国家間の諸課題は解決されるべきである。

国家間の紛争の解決を、神からの賜物であるいのちを危機に直面させ、人間の尊厳を奪うであろう武力に委ねることはできないと、教会はあらためて主張します。教皇様の呼びかけに応えて、本日の灰の水曜日、わたしたちはウクライナの平和のために祈りをささげます。

「戦争は人間のしわざです。戦争は人間の生命の破壊です。戦争は死です」と、広島から世界に向かって平和を力強く呼びかけられた教皇ヨハネパウロ二世は、2000年1月1日の世界平和の日のメッセージにこう記されました。

「平和は可能です、と断言します。平和は神からのたまものですが、同時に、神の助けを受けて正義と愛のために働くことによって日々築いていくべきものでもあります」

国家の間にはさまざまな課題があり、その解決は、実際に政治に関わらないわたしたちが思うほど単純なものではないことでしょう。一朝一夕に世界の平和が実現することは不可能だとしても、わたしたちは誠実に、日々、「正義と愛のために働くことのよって」、平和の実現を目指して歩んでいきたいと思います。

戦争のただ中にいる多くの人たち、特に幼い子どもたちを、いままさしく恐怖が襲っていることを悲しみとともに思いながら、その心に連帯して、平和のために祈りを捧げ続けたいと思います。

Aw22c

四旬節は、わたしたちの信仰を見つめ直し、その原点に立ち返るときです。

小さな目に見えないウイルスによって、先行きの見えない不安の暗闇に閉じ込められてしまったわたしたちは、人間の存在のはかなさを思い知らされています。人類の知恵と知識をもってしても、まだまだ分からないこと、コントロールできないことがわたしたちの眼前に立ちはだかっていることを思い知らされています。まさしく、灰の水曜日に頭に灰を受け、「あなたはちりであり、ちりに帰っていくのです」と言葉をかけられるときに、いのちを創造された神の前で、わたしたちは徹底的にへりくだって、謙遜に生きるしか道がないことを、神の御手に身を委ねる以外に道がないことを、認めざるを得ない心持ちになります。神に身を委ね、その導きに心から従い、同じいのちを与えられたものとして互いに支え合い、連帯のうちに歩みをともにする決意を新たにしたいと思います。

パウロはコリントの教会への手紙の中で、「わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています」と述べ、さらには、「神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません」とも述べています。

四旬節は、まさしくこの点を自らに問いかけ、神の前で自分は誠実な僕であるのかどうかを振り返るときでもあります。果たしてわたしたちは、それぞれに与えられた神からの恵みを十分に生かして、キリストの使者としての務めを果たしているでしょうか。

振り返るときに、心にとめておかなくてはならないことがあります。それは本日の第1朗読ヨエル書に記されている、「衣を裂くのではなく、おまえたちの心を引き裂け」という神の言葉であります。

わたしたちは、人間ですから、それぞれが心の中に承認欲求のような感情を抱えています。誰かに認められたい。ふさわしく評価されたい。自らの望みを実現したいという、自己実現への欲求もあります。当たり前のことです。

信仰者として生きていくときに、わたしたちは本来、「キリストの使者としての務め」に重心を置いていかなければならないはずなのですが、どうしてもわたしたちの弱さが、承認欲求や自己実現へとその重心を引きずり込もうといたします。その生き方をイエスは、「偽善者たち」と指摘します。偽善者とは、すなわち自分の欲求に重心を置いて生きている人、自分中心に世界を回そうとする人であります。

いのちの危機に直面する中で、先行きが見通せない不安はわたしたちを、自分のいのちを護ろうとばかり専心する利己的な存在にしています。利己的な心は、他者への思いやりの心を奪い、人間関係から、そして社会全体から、寛容さが消え失せます。

教皇様はしばしば、このパンデミックの状況から抜け出すために、いのちを生きる希望が必要であり、その希望は世界的な連帯からのみ生まれると指摘されます。しかし社会の不寛容さは、異質な存在を排除する力を生み出し、連帯を崩壊させ、いのちをさらに危機にさらしています。

わたしたちは「キリストの使者」として果たすべき、社会の現実にあって神のいつくしみを言葉と行いであかしし、その光を輝かせるという大切な働きを忘れ去り、周りの人々の心にまなざしを向けることなく、欲望の赴くままに道を踏み外してしまいます。

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ヨエルの預言は、わたしたちにこう語りかけています。

「あなたたちの神、主に立ち返れ。主は恵みに満ち、憐れみ深く、忍耐強く、いつくしみに富み、くだした災いを悔いられるからだ」

何度も何度も失敗を繰り返し、道を踏み外し、自分中心に生きようとするわたしたちに、預言者は、何度も何度も、神のいつくしみに立ち返れ、立ち返れ、と呼びかけるのです。

私たち信仰者は、この四旬節にその生き方をあらためて見直し、踏み外した道から、愛と希望の道へと立ち返る努力をしなければなりません。互いに支え合う連帯の道を見いださなくてはなりません。いのちを守る道を見いださなくてはなりません。

神は忍耐を持って、私たちが与えられた務めを忠実に果たすことを待っておられます。キリストの使者として生きる覚悟を、平和のために地道に働き続ける者である決意を、この四旬節に新たにいたしましょう。

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2022年3月 1日 (火)

灰の水曜日から四旬節です(2022年)

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明日、3月2日は、灰の水曜日です。四旬節が始まります。今年は受難の主日(枝の主日)が4月10日、聖木曜日からの聖なる三日間は4月14日から16日、復活の主日は4月17日です。したがって聖霊降臨祭は6月5日ですが、この日に教区合同堅信式を行うかどうかについては、3月の司祭評議会で話し合う予定です。

灰の水曜日には、頭に灰を受けることになります。通常は、司祭は個別に言葉を唱えながら、額に灰を持って十字をするのですが、感染症への対応として、昨年に続き今年も、司祭はこの言葉を全員に向かって一度唱え、あとは沈黙のうちに、頭に灰をかけることになっています。

灰を頭に受け、それによって人間という存在が神の前でいかに小さなものであるのか、神の偉大な力の前でどれほど謙遜に生きていかなくてはならないものなのか、感じとっていただければと思います。司祭は、「回心して福音を信じなさい」、または「あなたはちりでありちりに帰っていくのです」と唱えます。

前者は、四旬節の持っている意味、つまりあらためて自分たちの信仰の原点を見つめ直し、神に向かってまっすぐに進めるように軌道修正をするということを明示しています。後者は、すでに触れたように、神の前で人間がいかに権勢を誇ろうとも、小さなむなしい存在であることを自覚して謙遜に生きるようにと諭しています。

なお明日3月2日午前10時からの関口教会での灰の水曜日ミサは、大司教司式ミサですが、その中で教皇様の意向に従ってウクライナの平和のために祈ります(なお通常の典礼ですので、平和のための特別な典礼を行うわけではありません)

四旬節は信仰の原点に立ち返る時ですから、これに合わせて、洗礼を志願する人たちも歩みをともにし、復活祭に洗礼を受けることが勧められています。このことから四旬節第一主日には、その年の復活祭に洗礼を受けるために準備をしてきた方々の洗礼志願式が、多くの小教区で行われます。四旬節は、自らの信仰を見つめ直すとともに、洗礼への準備をする方々を心に留めて祈りをいたしましょう。

四旬節にあたり教皇様はメッセージを発表されています。今年は少し長いのですが、「たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります。ですから、今、時のある間に、すべての人に対して、善を行いましょう」(ガラテヤ6・9-10a)と言うタイトルになっています。教皇様のメッセージ全文はこちらの中央協議会へのリンクをどうぞ。

四旬節には、祈り、節制、愛の業が、伝統的に勧められています。その教会の伝統に倣って、四旬節には特別の愛の献金が行われてきました。日本の教会ではカリタスジャパンが、この四旬節愛の献金の担当になっております。詳しくはこちらのリンク、カリタスジャパンのサイトをご覧ください。

そして祈り、節制、愛の業ですから、その節制です。灰の水曜日は小斎と大斎の日と定められています。今年の大斎と小斎は、教皇様の呼びかけに応えて、特にウクライナの平和のために捧げましょう。これについては、こちらの中央協議会のホームページをご覧ください。なおこちらに私が書いた司教協議会会長の談話も掲載されていますので、ご一読ください。

大斎は、「1日に1回だけの十分な食事とそのほかに朝ともう1回わずかな食事をとることができ、満18歳以上満60歳未満の信者が守ります。」

小斎は、「肉類を食べないことですが、各自の判断で償いの他の形式、とくに愛徳のわざ、信心業、節制のわざの実行をもって代えることができ、満14歳以上の信者が守ります。」(中央協HPより)

病気や妊娠など理由のある方は免除されています。詳しくはこちらの中央協議会ホームページへのリンクをご覧ください。

四旬節にあたり、信仰を見つめ直しましょう。自分が信じている福音に従って生きるとはどういうことなのか、イエスの呼びかけに従って生きるとはどういうことなのか。祈りと黙想のうちに考えるときにしたいと思います。

わたしたちの信仰は、ひとり隠れて生きるものではなく、イエスが弟子を集めたときから、共同体の中で生きる信仰です。教会における人間関係の中で、社会における人間関係の中で、家族の人間関係の中で、福音をどのように生きていくのかをあらためて考えてみたいと思います。

「全世界に行って福音を告げ知らせよ」という主からの宣教命令は、誰かのための命令ではなくて、わたしたち一人ひとりへの命令であることも忘れないようにいたしましょう。

 

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