2022年聖週間:受難の主日@東京カテドラル
聖週間が始まりました。暖かい日曜となりましたが、今日は受難の主日(枝の主日)であります。
感染対策のため、今年もまた大規模な行列をすることなく、大聖堂の正面扉付近から、荘厳な入堂を行いました。会衆席の皆様には、そのまま席にとどまっていただき、枝の祝福では、私他三名の司祭が、聖水での祝福をしながら聖堂を回りました。「来年こそは、普通に戻れるだろう」と言い続けて、すでに三回目の聖週間です。あらためて、この感染症の一日も早い終息を、祈り続けたいと思います。
本日のミサで紹介いたしましたが、ソウル教区から新しく東京教区で働くために、金神父様が派遣されて来ました。ヨハネ金泌中(ピルジュン)神父様は、復活祭後から関口教会司祭館に住み、日本語を学んだあと、教区内で司牧にあたられます。(上の写真一番左)
また大司教秘書として神言会から派遣されてきたオディロン金一(イル)神父様も、今日は一緒にミサに出られました。(上の写真、左から二番目)
以下、本日の関口教会でのミサの、説教原稿です。
受難の主日C関口教会ミサ(配信ミサ)
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2022年4月10日感染症による混乱と暗闇の中で、わたしたちはこの2年以上を過ごしてきました。感染症対策に心を配りながら、不安を抱えたままの聖週間は、これで三回目となります。暗闇の中で彷徨うわたしたちは、闇に輝く光がどれほど大切なものであるのか、小さくとも輝く光がいのちを生きる希望を生み出すのだと言うことを、この苦難の中で肌で、いや心で感じています。
加えて今年、わたしたちは戦争がもたらす不安の中で、四旬節を過ごしてきました。世界はまたもや、人間の愚かな罪の結果を目の当たりにしています。多くのいのちが危機に直面する事態を目の前にして、それを遙か彼方の国の他人事のように傍観者として無責任に眺めていることはできません。あらためて、わたしたち教会は、いのちを守るために、そして神の秩序が確立されるために、戦いではなく、対話によって共に生きる道を探るように声を上げ、政治のリーダーたちに聖霊の導きがあるように祈らなくてはなりません。幸いなことに、今回の事態にあたって、連帯を表明し平和のために迅速に行動を始めた人たちが、日本をはじめ世界各地に大勢おられます。わたしたちも平和のために祈り続けたいと思います。
いのちを奪われるかも知れないという恐怖は、忍耐を奪い去り、対話の意義を見失わせ、それよりも武力を持って身を守る方向へとわたしたちをいざないます。いのちの与え主である神が、聖霊を持ってわたしたちを、特に政治のリーダーたちを照らし、神の平和への道を見いだすように導いてくださいますように。そしてわたしたち人類が、聖霊の導きに身を委ね、平和のために具体的に一歩を踏み出すことができますように。
教皇様はこの事態を憂慮し、ファティマにおける聖母のメッセージに従い、先般、3月25日の夕刻、聖母の汚れなきみ心に、あらためて全人類と、特にロシアとウクライナを奉献され、聖母の取り次ぎによって平和が実現するように祈られました。今の時代はインターネットで簡便に中継が見られることもあり、わたし自身も同じ時間に教皇様に一致して祈りました。
もっともその時刻とは26日の早朝2時半頃でしたから、皆さんに集まっていただくこともできませんでしたので、26日に開催された教区の宣教司牧評議会でともに祈りをささげました。ご存じのように、教区宣教司牧評議会とは、教区内のすべての宣教協力体の代表信徒、司祭評議会の代表司祭、そして修道女連盟の代表が参加しますので、文字通り東京教区全体を網羅する会議体です。その意味で、宣教司牧評議会で祈りをささげることで、教区全体を代表する形で、聖母への奉献の祈りをささげることができたのではないかと思います。
2020年9月2日の一般謁見で、教皇様は、 「このパンデミックは、わたしたちが頼り合っていることを浮き彫りにしました。・・・この危機から、以前よりよい状態で脱するためには、ともに協力しなければなりません。・・・調和のうちに結ばれた多様性と連帯、これこそが、たどるべき道です」と言われました。
残念ながら今起こっていることは全くその反対であります。「調和のうちに結ばれた多様性と連帯」と真っ向から対立する、戦争の危機のまっただ中におります。しかし同時に、この危機的な状況の中にあっても、多くの人が世界中で、平和のために声を上げ連帯して行動していることは、暗闇の中の小さいけれど力強い光として、わたしたちの希望となっています。連帯は希望を生み出します。希望は未来への展望を生み出します。
受難の主日は、また枝の主日とも呼ばれ、冒頭でわたしたちはイエスのエルサレム入城を歓喜の声をあげシュロの葉を振って迎えた群衆の話を耳にしました。その群衆は、数日後に、イエスを十字架につけて殺してしまえと叫ぶ群衆へと変わってしまいます。エルサレムにいた同じ人々は、なぜこんなに変わってしまうのか。それは当事者意識の欠如、傍観者としての無責任のなせる業であろうと思います。
もしも仮に愛する家族のひとりが、目の前でいのちの危機に直面しているならば、多くの人は平然としてはおられず、どうにかして助けたいと思うことでしょう。
わたしたちでさえそうであるならば、いのちの与え主である神が、ウクライナへのロシアによる武力侵攻や、東京教区が姉妹教会として平和を祈り続けているミャンマーなどなど、世界の各地でいのちの危機に直面する一人ひとり、神ご自身が賜物としていのちを与えられた神が愛する存在のいのちの危機を目の当たりにして、平然としておられるはずがありません。わたしたちに、いのちを守るために祈り行動するようにと、神は求めておられると確信します。
しかし多くの人が犠牲になる戦争のような事態であっても、それが遙か彼方で発生すると、最初は興奮して興味を示すものの、時間が経過するに連れて、興奮は静まってしまい、興味も薄れてしまいます。世界の歴史には、忘れられた悲劇が多々刻まれています。しかし忘却は苦しみを解決はしません。忘れられたその陰で、いのちの危機は続いていきます。そういう無責任な傍観者のような態度、すなわち無関心は、いのちを奪います。神のひとり子を十字架につけて殺した、あの大勢の群衆。まるで野次馬のような、無責任な傍観者としての「無関心」であります。
イザヤは、絶望的とでもいう状況の中で苦しみとともに生き抜こうとするイエスの姿を、苦難のしもべの姿として預言書に書き記しています。
主なる神が「弟子としての舌」を与え、「朝ごとにわたしの耳を呼び覚まし、弟子として聞き従うようにして」くださったがために、「わたしは逆らわず、退かなかった」。苦しみに直面したイエスの御父に対する従順と不退転の決意を、イザヤはそう記します。
神が与えられた「弟子としての舌」は、「疲れた人を励ますように」語るための舌であると、イザヤは記します。その舌から語られる言葉は、いのちを生かす言葉であり、生きる希望を生み出す言葉であり、励まし支える言葉であります。
その舌が語る言葉は、自分の知識や感情や思いに基づいた勝手な言葉ではなく、「朝ごとに」呼び覚まされる主の言葉に耳を傾け、それを心に刻んで従おうと決意した、神ご自身の言葉であります。神は、耳を傾けるわたしたちが、その神の言葉を日々語り続けるようにと励まされます。
人間の知識や感情や思いに左右される言葉は、イエスを十字架の死へと追いやった負の力を持った言葉となり得ます。状況に流される傍観者である群衆を扇動し、無責任で人ごとのような言葉をもって、他者のいのちを危機に追いやり、いのちを奪います。神のことばに耳を傾け、それを心に刻み、不退転の決意をもってそれに従い、それを語り、それに生きる主イエスの言葉は、互いを支え、傷を癒やし、希望の光をともす、いのちを生かす言葉そのものであります。苦しみのただ中から語られる、いのちの言葉です。
無責任な傍観者としての無関心が支配する現代社会にあって、わたしたちはイエスご自身に倣い、希望に満ちたいのちの言葉を語り続ける者でありたいと思います。弟子の舌をもって語り続ける者でありたいと思います。無責任に放言するものではなく、苦しみのただ中にいるいのちに心をあわせ、いのちを守る言葉を語り続ける者でありたいと思います。
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