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2022年4月24日 (日)

復活節第二主日「神のいつくしみの主日」@関口教会ミサ

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復活節第二主日は「神のいつくしみの主日」です。

この日は関口教会の10時のミサを司式いたしました。(写真上:聖マリア大聖堂右手に安置されている、聖ファウスティナの聖遺物)

東京教区のカリタス組織である「カリタス東京」は、昨年夏に設立を公示して以来、この「神のいつくしみの主日」に立ち上げることを目指して準備を進めてきました。組織としての「カリタス東京」は、本日付で立ち上げることになりましたが、当初予定していたCTICを核としての新しい組織体にするためには、今しばらく調整の時間が必要です。とはいえ、新しい組織はそれ以外の教区の社会活動も包括するので、調整がつくまで立ち上げを延期することもできません。したがって、本日付で「カリタス東京」は立ち上がります。

今後、調整がついた段階で、あらためて全体としてのカリタス東京のあり方などについては、お知らせいたします。

カリタス東京は、いわゆるカリタスジャパンの教区における支部ではありません。確かにカリタスジャパンに対する教区の窓口を含みますが、教区のカリタス組織は、カリタスジャパンの業務の教区版ではありません。全く異なる組織体です。

どうしても「カリタス」という名前を耳にすると、カトリック教会が組織する災害救援や人道援助の団体としての「カリタス(カリタスジャパンや国際カリタス)」を思い起こされるのかも知れません。しかし「カリタス」という言葉は、それをはるかに超えた、キリスト者が生きる道の基本を指し示す言葉です。信仰に生きるわたしたちは、カリタスに生きるのです。

第二バチカン公会議の現代世界憲章には、「各自は隣人を例外なしに「もう一人の自分」と考えなければならず、何よりもまず隣人の生活と、それを人間にふさわしいものとして維持するために必要な手段について考慮すべきである(27)」と記されています。隣人愛の行動は、隣人への生活へと思いを馳せ、それを「人間にふさわしいものとして維持するために」手を尽くすことを求めますが、「人間にふさわしい」すなわち「人間の尊厳」を守るための行動は、ありとあらゆる事を含んでいます。

教皇フランシスコは、「ラウダート・シ」において「総合的エコロジー」という言葉を使い、この世界にある諸々はすべてつながっているのだと指摘されました。カリタスの行動も、その対象を「総合的」に考えます。教皇フランシスコが、社会に対する様々な教会の活動を統括する部門として、「総合的人間開発促進の部署」を設立した由縁です。それは、個々の評議会、例えば正義と平和や難民移住者などの活動が、教皇庁にとって不要となったための統合ではなくて、単なるネットワーク化では現実の要求に応えることができないがために、全てを統合する部署を創設して、あらゆる視点から対応をしていくものです。バチカンでの同部署の創設時の会合の模様を、2017年4月5日の「司教の日記」に記していますので、ご一読いただければと思います。この時、教皇様は盛んに、パウロ六世の「諸国民の進歩(ポプロールム・プログレッシオ)」50周年を記念するときでしたので、同文書に記された「総合的人間開発」に触れて、教会の社会の課題に対する対応も総合的であるべきことを強調されていました。

東京教区のカリタス組織として設立された「カリタス東京」は、災害救援や人道援助団体としてだけ組織されたのでなく、それも含めて、「人間の尊厳」を守るためのありとあらゆる必要に「総合的」に応える組織となることを、最終的に目指しています。既存のいくつかの組織を統合したりするため、今後さらに組織としての調整が必要になりますが、できる限り早い段階で、これまでの教区の諸活動をさらに深め、総合的な取り組みとして、「人間の尊厳」を守り高める組織となってまいります。

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以下、本日午前10時からの、関口教会での主日ミサでの説教原稿です。(写真上:聖マリア大聖堂右手に安置されている聖ヨハネパウロ二世の聖遺物)

復活節第二主日C(配信ミサ説教)
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2022年4月24日

復活節第二主日は、教皇ヨハネパウロ二世によって、「神のいつくしみの主日」と定められています。「人類は、信頼を持ってわたしのいつくしみへ向かわない限り、平和を得ないであろう」という聖ファウスティナが受けた主イエスのいつくしみのメッセージに基づいて、神のいつくしみに信頼を持って近づき、それを黙想する日であります。同時にわたしたちは、神のいつくしみに身をゆだね、それによって今度は、自分自身が受けたいつくしみと愛を、隣人に分かちあうことを決意する日でもあります。

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2005年4月2日に帰天された教皇ヨハネパウロ二世は、その翌日の神のいつくしみの主日のために、メッセージを用意されていました。そこにはこう記されていました。

「人類は、時には悪と利己主義と恐れの力に負けて、それに支配されているかのように見えます。この人類に対して、復活した主は、ご自身の愛を賜物として与えてくださいます。それは、ゆるし、和解させ、また希望するために魂を開いてくれる愛です。」

「悪と利己主義と恐れの力に負けて」、わたしたち人類がどれほど愚かな間違いを犯すのか、わたしたちはこの四旬節に目の当たりにしました。ロシアによるウクライナへの武力侵攻は、武力の行使によって多くのいのちを奪い去っただけでなく、数限りない人がいのちを守るために故郷を離れ難民となって周辺の国へ旅立たなくてはならなくなりました。その数は聖週間が始まる頃に、国連の発表では450万人を超えています。

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わたし自身は1994年に、アフリカのルワンダで起こった虐殺事件の後に発生した難民の流出という事態に、カリタスジャパンの一員として現地で救援事業に取り組みました。そのとき、200万人を超える人が、いのちを守るために周辺国に流出し、歴史に残る規模だと言われていました。今回はその倍以上です。市民への虐殺とも言うべき暴虐行為の話も伝わってきます。まさしく今こそ、「ゆるし、和解させ、また希望するために魂を開いてくれる」神の愛しみ深い愛に包まれることが必要です。

1980年に発表された回勅「いつくしみ深い神」で、教皇ヨハネパウロ二世は、「愛が自らを表す様態とか領域とが、聖書の言葉では「あわれみ・いつくしみ」と呼ばれています(3)」と記し、愛と、あわれみと、いつくしみは、切り離すことができないと主張されます。

その上で教皇は、「人間は神のいつくしみを受け取り経験するだけでなく、他の人に向かって、『いつくしみをもつ』ように命じられている」と指摘し、そのためにこそ互いに支え合う連帯が不可欠だと強調されました。

さらに教皇は、正義には愛が不可欠であると指摘して、教会が「多くの要素を持った人間関係、社会関係の中に、正義だけでなく、福音の救世的メッセージを構成している『いつくしみ深い愛』を持ち込む」ために働くよう求められました。(いつくしみ深い神14)

教皇フランシスコの、東京ドームでの言葉を思い起こします。
「傷をいやし、和解とゆるしの道をつねに差し出す準備のある、野戦病院となることです。キリスト者にとって、個々の人や状況を判断する唯一有効な基準は、神がご自分のすべての子どもたちに示しておられる、いつくしみという基準です」

「平和があるように」と、復活された主は弟子たちに語りかけました。死をもたらす悪に、神の愛といつくしみが打ち勝つことを示された主は、「平和があるように」、すなわち神の支配が弟子たちと常にともにあることを明確に宣言して、弟子たちの恐れを取り除きます。平和は、神の打ち立てられる秩序が実現している状態です。目に見えるリーダーであったイエスを失っておののく弟子たちに対して、神の秩序が彼らを常に支配しているからこそ、どこにいてもどのような状況でも、主は弟子たちとともにおられることを明確にされました。復活された主は、常に共にいてくださいます。わたしたちをその平和で包み込んでくださいます。

そして弟子たちを罪のゆるしのために派遣されました。罪のゆるし、すなわちイエスご自身がその公生活の中でしばしば行われたように、共同体の絆へと回復させるために、神のいつくしみによって包み込む業を行うことであります。

福音に記されたトマスと主との関係は、神のいつくしみは完全な存在であり常にわたしたちに向けられているのに、それを拒むのは人間の側の不信仰であることを浮き彫りにします。信じようとしないトマスを、それでもイエスは愛といつくしみで包み込もうとなさいます。放蕩息子の父親に通じる心です。この世界には、神の愛といつくしみが満ちあふれています。互いに連帯し、支え合い、賜物であるいのちを尊重して生きるようにとわたしたちを招く、神の愛といつくしみに満ちあふれています。それを拒絶するのは、わたしたちの側の不信であり、怠慢であり、悪意であります。 

ベネディクト16世は回勅「神は愛」に、「キリストとの一致は、キリストがご自分を与えるすべての人との一致でもあります(14)」と記しています。

その上で教皇は、「神への愛と隣人愛は、真の意味で一致します」と述べて、神の平和のうちに生きる者は、神の愛に包み込まれ、神と一致しようとするときに、同時に隣人愛の行動に向かうのだと記しています。従って、神の愛に具体的に生きる行為、つまりカリタスの行いは、イエスの言葉と行いに付き従うものにとって選択肢の一つではなく、義務でもあります。

「カリタス」という名前を耳にすると、カトリック教会が組織する災害救援や人道援助の団体を思い起こされるのかも知れません。しかし「カリタス」という言葉は、それをはるかに超えた、キリスト者が生きる道の基本を指し示す言葉です。信仰に生きるわたしたちは、カリタスに生きるのです。

第二バチカン公会議の現代世界憲章には、「各自は隣人を例外なしに「もう一人の自分」と考えなければならず、何よりもまず隣人の生活と、それを人間にふさわしいものとして維持するために必要な手段について考慮すべきである(27)」と記されています。隣人愛の行動は、隣人への生活へと思いを馳せ、それを「人間にふさわしいものとして維持するために」手を尽くすことを求めますが、「人間にふさわしい」すなわち「人間の尊厳」を守るための行動は、ありとあらゆる事を含んでいます。教皇フランシスコは、「ラウダート・シ」において「総合的エコロジー」という言葉を使い、この世界にある諸々はすべてつながっているのだと指摘されました。カリタスの行動も、その対象を「総合的」に考えます。

本日、東京教区のカリタス組織として「カリタス東京」が設立されます。まだまだこれから中味を整えていかなくてはなりませんし、組織を整える調整が必要です。カリタス東京は、災害救援や人道援助団体としてだけ組織されたのでなく、それも含めて、「人間の尊厳」を守るためのありとあらゆる必要に「総合的」に応える組織となることを、最終的に目指しています。神の愛といつくしみに、すべての人が包み込まれるように、社会の現実のあらゆる側面で、総合的に神の秩序の確立のために取り組んでいきます。教区内において、様々な側面から社会の課題に取り組んできた多くの方を、ネットワーク化し、互いに支え合うようにしたいとも考えています。どうか皆さん、神のいつくしみに勇気を持って身を委ね、受けた愛を多くの人に分かちあう道を歩みましょう。

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