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2022年5月28日 (土)

週刊大司教第七十八回:主の昇天の主日

Fullsizerender

すでにご存じの方が多いとは思いますが、新型コロナ感染症に罹患し,この数日は臥せっております。すでに多くの方から,メールやFB上で励ましのコメントを頂き,また多くの方にお祈りいただいていることに,心から感謝いたします。

23日月曜日の夜には、遅くまでFABCの総会準備委員会がオンラインで行われ参加していましたが,そのあたりから軽い発熱と喉の痛みを感じ始めました。そのまま翌火曜日朝には症状が悪化し、そのままその日は教区本部に出勤せずに自室で休んでおりました。しかしながら水曜には熱もまし喉の痛みも激しくなってきたので、医療機関を受診し、新型コロナ陽性と診断されました。

その後すぐに文京保健所から携帯に電話があり、保健所の指示で最低でも10日間の自宅療養となりました。(現時点では23日をゼロとして、6月2日までの自宅療養を指示されています)なお,ワクチンは,三度すでに接種済みです。

木曜と金曜には、38度程度の熱と激しい喉の痛み、咳で、声もでなくなってしまいましたが、土曜日、本日の朝には熱も少し落ち着き、喉の痛みも多少和らいできたと感じます。ただ,声は多少出るようになりましたが,戻っていません。こうしてPCの前で座ってタイプできるようになったのも,昨日からです。私は子どもの頃から喉が弱く,よく喉を痛めて高熱を出してきました。これは大人になっても変わらず、特に疲れたときなどに喉を痛め,高熱を出すことがあります。それで慣れていると言うのではなく、それにもかかわらず,今回ほど激しい喉の痛みには遭遇したことがないほど、喉を痛めつけられました。

文京保健所と東京都のフォローアップセンターからは、一日に数回、病状確認の電話があり、また登録したラインで症状を一日二度(午前午後)報告するなど、細かくケアを頂いています。独居で罹患された方々には,こういった電話による確認は、誰かに見守られている、つながっているという安心をもたらす,重要なものだと実感いたします。大勢の対象となる方を抱え,保健所などのスタッフの皆さんには大変な業務量だと思いますが,その大切なお働きに,心から感謝いたします。

教区の業務にいろいろと支障をきたし,またいくつかの予定をキャンセルすることになって,大変申し訳ありません。特に亀有教会の皆さんには,明日の昇天の主日に,教会50年の記念ミサの予定でしたのに,出かけることができなくなり,申し訳なく思います。一日も早く現場復帰できるように、皆様のお祈りの時に覚えていただけると幸いです。

教会の諸活動にあっても,そろそろ大丈夫だろうと気を緩めず,今一度,対面行事やミサなどでの感染対策をご確認いただければと思います。

以下、本日午後6時配信の週刊大司教第七十八回、主の昇天のメッセージ原稿です。なお映像は5月18日に収録したものです。

主の昇天の主日C(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第78回
2022年5月29日

御父のもとへと旅立たれる主を目の当たりにして、弟子たちは呆然と佇んでいました。使徒言行録は、その弟子たちに対して天使が、「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか」と語りかけたと記します。天使の呼びかけは、ただ呆然と立ち尽くすのではなく、イエスが再び来られることを確信しながら、その日まで、与えられた使命を果たして生きよという、促しの言葉であります。

弟子たちは何をするように促されていたのでしょうか。ルカ福音も使徒言行録もともに、聖霊による導きの約束と、「地の果てに至るまで、わたしの証人となる」というイエスの言葉を記します。すなわち弟子たちは、自分勝手に何かを語ることではなく、神の聖霊に満たされ導かれて、イエスの言葉と行いについて、世界中の人たちにあかしをする福音宣教者となるように促されているのです。

わたしたちは、自分勝手に好きなことを語る宣教者ではなく、聖霊に導かれて主イエスの言葉と行いを語る忠実な宣教者でありたいと思います。

2015年5月24日に回勅「ラウダート・シ」が発表されたことを受けて、毎年5月には、「ラウダート・シ週間」が設けられ、教皇が呼びかけた総合的エコロジーの視点から、わたしたちの共通の家である地球を守るための道を模索し、行動を決断するときとされています。

今年の「ラウダート・シ週間」は5月22日から29日までとされ、そのテーマは、「ともに耳を傾け、ともに歩もう」であります。「ともに」と言う呼びかけは、もちろんシノドスの道程を今ともに歩んでいるからに他なりません。教皇フランシスコは回勅に、「皆がともに暮らす家を保護するという切迫した課題は、人類家族全体を一つにし、持続可能で総合的な発展を追求するという関心を含んでいます」と記されました。残念ながら、この数ヶ月、わたしたちはこの共通の家を争いの場としてしまい、武力の行使は地球を荒廃させ、さらには環境の中心にある賜物であるいのちを暴力的に奪い去ります。人類家族全体は、残念ながら一つにはなっておらず、共通の家に対する配慮は後回しにされています。

わたしたちはこの現実の中で、キリストの福音をあかしするものとして遣わされています。教会を導く聖霊は、わたしたちにこの現実の中で何をあかしするようにと導いておられるのでしょう。

創世記には、神が人を創造されたときに、互いに助けるものとして共に生きるようにと、二人の人を創造していのちを与えられた事が記されています。わたしたちは互いに助け合うようにいのちを与えられました。いのちを守らず、他者への配慮を忘れた世界には、神の平和がありません。

回勅「ラウダート・シ」で教皇フランシスコは、神が創造されたものは、一つとして他者と関係なく勝手に存在するものはなく、すべてが密接につながっていることを指摘し、こう記しています。

「密接に絡み合う根本的な三つのかかわり、すなわち、神とのかかわり、隣人とのかかわり、大地とのかかわりによって、人間の生が成り立っていることを示唆しています。聖書によれば、いのちに関わるこれら三つのかかわりは、外面的にもわたしたちの内側でも、引き裂かれてしまいました。この断裂が罪です」(66)

福音を告げしらせるようにと遣わされているわたしたちには、この世界において、三つのかかわりが引き裂かれている状態を修復させる務めがあります。神が望まれる世界は、「創造主と人間と全被造界との関係」が修復され、調和が実現している世界であるはずです。

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2022年5月23日 (月)

コンベンツアル聖フランシスコ会助祭叙階式@赤羽教会

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5月21日土曜日の午後2時から、赤羽教会を会場に、コンベンツアル聖フランシスコ修道会の助祭叙階式が行われました。

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助祭に叙階されたのは、大天使ミカエル 外山 祈さんとテモテ・マリア 中野里晃祐さんのお二人。おめでとうございます。

感染症対策のため、多くの方の参加はなりませんでしたが、聖堂には同修道会会員や神学生、新助祭のご家族、そして赤羽教会関係者が集まりました。朝からあいにくの雨模様でしたが、ミサが始まる頃には雨も上がり、最後には無事に聖堂前で記念撮影もできました。また赤羽教会の侍者の皆さんも、叙階式は滅多にない儀式ですが、一生懸命に頑張ってくださいました。感謝です。

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叙階されたお二人は、今後、一年ほどの司牧実習を各地で行い、その後、養成が順調に進めば、来年春には司祭に叙階されることになります。叙階式に与ったときには、与えられたその恵みに喜ぶとともに、さらにその後に続く人が出るように、司祭・修道者の召命のためにお祈りください。

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コンベンツアル聖フランシスコ修道会助祭叙階式・赤羽教会

「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、 食べ物がない。空腹のままで解散させたくない。途中で疲れきってしまうかもしれない。」

先ほど朗読されたマタイ福音は、パンと魚を増やす奇跡物語でありました。その奇跡自体、驚くべき神の業でありますが、同時にその業を成し遂げたイエスの動機、心持ちが、この冒頭の言葉に満ちあふれています。

1980年に発表された回勅「いつくしみ深い神」で、教皇ヨハネパウロ二世は、「キリストにおいてキリストを通して、神は御いつくしみをもって、とくに見えるものとなります。・・・(キリストは)ご自身がいつくしみそのものなのです(2)」と指摘されています。イエスは神のいつくしみそのものであり、その言葉と行いは、神のいつくしみを具体的に顕すものでした。

教皇フランシスコの、東京ドームでの言葉を思い起こします。
「キリスト者にとって、個々の人や状況を判断する唯一有効な基準は、神がご自分のすべての子どもたちに示しておられる、いつくしみという基準です」

教会はこの世界の現実の中で、神のいつくしみを具体的に顕す存在であり続けたいと思います。2020年2月頃から始まって今に至るまで、感染症の困難の中で暗中模索を続けてきた世界は、暗闇から抜けだそうともがき続けています。にもかかわらずわたしたちは愚かにも、互いのいのちを暴力的な力を持って奪い取る戦争を、再び始めてしまいました。

ちょうど明日5月22日から29日まで、今年の「ラウダート・シ週間」となります。そのテーマは、「ともに耳を傾け、ともに歩もう」であります。教皇フランシスコは回勅「ラウダート・シ」で、「皆がともに暮らす家を保護するという切迫した課題は、人類家族全体を一つにし、持続可能で総合的な発展を追求するという関心を含んでいます」と記されました。残念ながら、この数ヶ月の現実は、この共通の家を争いの場とすることであり、武力の行使は地球を荒廃させ、さらには環境の中心にある賜物であるいのちを暴力的に奪い去ります。人類家族全体は、残念ながら一つにはなっておらず、共通の家に対する配慮は後回しにされています。

わたしたちはこの現実に向けて、キリストの福音を、そして神のいつくしみをあかしするものとして遣わされています。教会を導く聖霊は、わたしたちにこの現実の中で何をあかしするようにと導いておられるのでしょう。

折しもこの困難な時期のただ中にあって、教皇様は、2023年秋に世界代表司教会議(シノドス)を開催することを決定され、そのテーマを、「ともに歩む教会のため-交わり、参加、そして宣教-」と定められました。わたしたちは今その道程を、全世界の教会をあげて、ともに歩もうとしています。

第二バチカン公会議の教会憲章は、教会が個人の信心の積み重ねと言うよりも、全体として一つの神の民であることを強調しました。教会憲章には、「しかし神は、人々を個別的に、まったく相互の関わりなしに聖化し救うのではなく、彼らを、真理に基づいて神を認め忠実に神に仕える一つの民として確立することを望んだ」(教会憲章9)と記されています。

さらに教会憲章は、洗礼によって一つの民に結びあわされたわたしたちは、「ある人々はキリストのみ心によって他の人々のための教師、神秘の分配者、牧者として立てられているが、キリストのからだの建設に関する、すべての信者に共通の尊厳と働きについては、真実に平等」(教会憲章32)であると記しています。

ともに旅を続ける神の民にあって、わたしたち一人ひとりには固有の役割が与えられています。

わたしたちの信仰共同体は、ただの仲良しの仲間の集まりではなくて、一つのキリストの体に結ばれた、共同体です。同じキリストに結ばれることで、共同体を形作る一人ひとりは同じ神のいつくしみに満たされ、同じいつくしみに生かされ、同じいつくしみをあかしするものとなります。わたしたちの信仰は、共同体における「交わり」を通じて、神のいつくしみをあかしする信仰です。

交わりによって深められたわたしたちの信仰は、わたしたち一人ひとりを共同体のうちにあってふさわしい役割を果たすようにと招きます。交わりは参加を生み出します。一人ひとりが共同体の交わりにあって、与えられた賜物にふさわしい働きを十全に果たしていくとき、神の民は福音をあかしする宣教する共同体となっていきます。ここにシノドスのテーマである「ともに歩む教会のため-交わり、参加、そして宣教-」の意味があります。

果たして今の状況の中で、わたしたちの教会共同体は、何をあかししているでしょうか。

福音をあかしする教会共同体を育てて行くためには、牧者である司祭の役割は重要ですし、それを助ける助祭の役割も重要です。

(以下、助祭叙階式の儀式書から引用) 

ご列席の皆さん。教会共同体において、新しく誕生する2人の助祭の務めは何でしょうか。

助祭は聖霊のたまものに強められ、神のことばと祭壇に奉仕し、愛のわざに励み、すべての人に仕えて、司教とその司祭団を助けます。祭壇に奉仕する者となって福音を告げ知らせ、ささげものを準備し、主の御からだと御血を信者に授けます。

さらに、助祭の奉仕職には、司教から命じられたことに従って、信者にも信者でない人にもよい勧めを与え、聖なる教えを伝え、祈りを司式し、洗礼を授け、結婚に立ち会って祝福を与え、死に臨む人にキリストの聖なる糧を授け、葬儀を司式することがあります。

助祭は、すべての務めを神の助けによって果たし、仕えられるためではなく仕えるために来られたキリストのまことの弟子であることを示してほしいと思います。

あなたがたは自らすすんで助祭に叙階されることを希望しているのですから、かつて使徒たちによって愛のわざの奉仕者として選ばれた人々のように、人望があつく、聖霊と知恵に満たされた者でなければなりません。あなたがたは独身のまま奉仕職を果たそうとしています。独身生活は、牧者としての愛のしるしと励ましであり、また、世にあって豊かな実りをもたらす特別な源なのです。主キリストへのひたむきな愛に駆り立てられ、すべてをささげてこの生き方を貫く人々は、ほかのことにとらわれず、よりたやすくキリストに結ばれるでしょう。こうして、より自由に神と人々に仕えることに専念し、人々を神によって新たに生まれる者とするわざに、よりよく奉仕することができるのです。信仰に根ざし、これを土台にして、キリストの役務者、神の秘義を人々にもたらす者にふさわしく、神と人々の前で汚れのない者、非のうちどころのない者として自らを示してください。また、福音の告げる希望から目をそらさないでください。あなたがたは、福音を聞くだけではなく、福音に奉仕しなければならないのです。

清い心で、信仰の秘義を保ち、口でのべ伝える神のことばを行いで示してください。こうして聖霊によって生かされるキリストの民は、神のみ旨にかなう清いささげものとなり、あなたがたも終わりの日に主を迎えて、「忠実な良いしもべだ。よくやった。主人と一緒に喜んでくれ」という主のことばを聞くことができるでしょう。

 

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2022年5月21日 (土)

週刊大司教第七十七回:復活節第六主日

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復活節第六主日です。

復活節第六主日は、世界広報の日と定められており、この日のために教皇様のメッセージも発表されています。第二バチカン公会議の「広報メディアに関する教令」に基づき、現代社会におけるメディアのあり方を問いかけ、福音宣教との関わりを考察するために始まったこの世界広報の日ですが、第56回目となる今年の世界広報の日のテーマは、「心の耳で聴く」とされています。こちらのリンクからメッセージ全文をお読みいただけます

自らの主張を言いっぱなしで聞くことが欠如していると指摘する教皇様は、次のようにメッセージに記します。

「ですから聴くことは、対話にも正しいコミュニケーションにも、いちばんで不可欠な要素です。まず聴くということをしなければコミュニケーションは成立しませんし、聴く力がなければ、優れた報道はできません。確実で良識ある包括的な情報を提供するには、長期にわたり耳を傾けることが必要です。ルポとして何らかの出来事を報告したり、現状を描いたりするには、耳を傾ける技術の獲得と、自身の考えを変えて当初の仮説を修正することもあるとの覚悟が必要です」

その上で、「兄弟に耳を傾けることのできない人は、いずれ、神に耳を傾けることもできなくなるでしょう」と、教皇様は指摘されています。

じっくりと耳を傾ける事よりも、反射的に攻撃的な言説に走ることがしばしば見られる現代社会にあって、心の耳を澄ませることの大切さをあらためて心に刻みたいと思います。

以下、本日午後6時配信の、週刊大司教第77回目、復活節第六主日のメッセージ原稿です。

復活節第六主日C(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第77回
2022年5月22日

教会は聖霊に導かれています。

ヨハネ福音は、最後の晩餐でイエスが弟子たちに残した言葉を記しています。主イエスは、「わたしは去って行くが、また、あなた方のところへ戻って来る」という言葉を具体的に示すために、弟子たちの上に聖霊の導きがあることを約束します。聖霊の働きを通じて、神は教会とともに歩みを続けておられます。教会は、常に聖霊に満たされ、聖霊による導きを受けている存在です。その教会を通じて、わたしたちも聖霊の導きのうちに時を歩んでいます。

第二バチカン公会議の現代世界憲章は、「神の民は、世界を満たす主の霊によって自分が導かれていることを信じ、この信仰に基づいて、現代の人々と分かち合っている出来事、欲求、願望の中に、神の現存あるいは神の計画の真のしるしを見分けようとつとめる(11)」と記します。すなわち、教会は社会の現実から切り離された隠れ家なのではなく、聖霊の導きのうちに積極的に社会の現実を識別し、神の計画を見極め、その実現のために出向いていく存在であります。

使徒言行録は、初代教会にあって意見の対立が生じたときに、パウロやバルナバがエルサレムにおもむき、使徒や長老と協議をしたことを記しています。その協議の結果を伝える手紙には、「聖霊とわたしたちは、次の必要な事柄以外、一切あなた方に重荷を負わせないことに決めました」という言葉が記されています。教会が普遍教会として、異邦人に対して、すなわち全世界に向けて福音を告げる存在となることを決定づけたこのエルサレムでの話し合いは、聖霊による導きを識別し、正しい道を見いだすために行われたことが示されています。聖霊は時として、教会に大きな変革の道を示すこともあると、この使徒言行録の話はわたしたちに示唆しています。

わたしたちは常に、ともに歩んでくださる神の聖霊の導きに耳を傾け、その示す方向性を識別する努力を続けなくてはなりません。わたしたちの知見があたかも全てであるかのように思い込むなら、わたしたちは聖霊の導きに背を向け、神の声に耳を閉ざしてしまうことになりかねません。

復活節第六主日は、世界広報の日と定められています。第二バチカン公会議の「広報メディアに関する教令」は、「(広報)メディアが正しく活用されるなら、人類に大きく貢献することを熟知している。それらが人々を憩わせ、精神を富ませ、また神の国をのべ伝え、堅固なものとするために大いに貢献する」と、メディアの福音宣教に果たす役割を高く評価しています。同時に、メディアに携わる人々に対して、「人類社会の正しい利益に向かってのみ(広報メディア)を方向付けるべく努力するよう」呼びかけます。インターネットが普及した現代、この呼びかけは一部の専門家だけでなく、すべての人に向けられています。

今年、第56回めとなる「世界広報の日」の教皇メッセージ、「心の耳で聴く」において、教皇フランシスコは、「聴くことは、謙遜な神の姿と相通じるところがあります。神は、語ることによって人間をご自分の似姿として造り、聴くことによって人間をご自分の対話の相手として認めます。・・・主は、人間が余すところなくあるべき姿になれるようにと、人間を愛の契約にはっきりと招いておられます。それは、他者に耳を傾け、受け入れ、譲る力を備えた神の似姿、かたどりとなることです。聴くとは、本質的には愛の次元なのです」と記しています。

わたしたちは創造主である神ご自身がそうであるように、他者に耳を傾けることが必要です。そして神ご自身の声に耳を傾けるために、心の耳を澄ませることが不可欠です。

 

 

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第66回カトリック美術展@有楽町マリオン

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カトリック美術協会が毎年行ってきたカトリック美術展は、この二年間、感染症の状況のため開催を見送ってきましたが、今年は第66回目として、開催されることになりました。

会場は有楽町マリオンの11階にある朝日ギャラリー。昨日5月20日から25日の水曜日まで、午前11時から午後6時半まで(最終日は午後4時半まで)行われています。

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お時間のある方、是非一度足を運んでいただければと思います。昨日の初日には、わたしも会場に出かけ、ちょうどいらした多くの作者の方々に、それぞれの作品を解説していただくという、贅沢な時間を過ごしました。

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また今回は同じ会場の隣のセクションで、長年にわたりカトリック美術協会を先頭に立って率いてこられた田中玉紅先生(1920~2018)の回顧展も開催されています。是非とも足を運ばれることを、お勧めいたします。

田中玉紅先生は桜の画家として著名な方で、会場はまるで桜が咲き誇っているかのような雰囲気です。90を超えられても、細部まで桜を描かれたその筆遣いには、圧倒されます。ぜひどうぞ。

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2022年5月16日 (月)

復活節第五主日:関口教会ミサ

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復活聖第五主日の午前中は、関口教会で10時のミサを司式しました。このミサでは、特に香港の状況に思いを馳せ、香港と中国の教会のため、特に今回の事態に遭遇している陳日君枢機卿様のために、皆さんにお祈りしていただきました。

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また同日午後2時半からは、六本木にあるフランシスカン・チャペルセンターで、堅信式を行いました。チャペルセンターは、英語を基本とする小教区ですので、この日の堅信式ミサも英語ミサです。いつもであれば聖堂は一杯になるのですが、感染対策のため、受堅者と代父母、その家族だけに参加者を限定し、4名ほどのコーラスの聖歌隊が素晴らしい歌を披露してくださいました。堅信を受けられたのは22名の方々。おめでとうございます。

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以下、関口教会10時ミサの説教の原稿です。

復活節第五主日(配信ミサ説教)
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2022年5月15日午前10時

復活された主との出会いを通じて、その生き方を大きく変えられたパウロは、各地に福音を宣べ伝える旅に出ます。最初の宣教旅行の締めくくりを、本日の使徒言行録は記していました。

パウロとバルナバが成し遂げた福音宣教の成果は、「神の恵みに委ねられて送り出された」ためであり、すべては「神が自分たちと共にいて行われ」事であると、記されています。

わたしたちは、復活された主によって力をいただき、福音を全世界にあかしするようにと派遣されています。わたしたちが告げるのは、自分自身の考えではありませんし、自分の知識をひけらかすことでもなく、告げるのはわたしを通じて語られる主ご自身です。わたしたちが自分自身を語ろうとするとき、そこに神の力が働く余地はなくなります。

ヨハネ福音は、主が最後の晩餐で弟子たちの足を洗った後に、弟子たちに与えた「新しい掟」を記しています。その直前に、「栄光を受ける」という言葉がくり前されます。ここでイエスは、そのあとに起こる十字架での受難と死について語っています。この世の常識から言えば悲惨な敗北でしかない十字架での受難と死とは、それを通じて神が自らを贖いのいけにえとしてささげる業であり、それが神の完全なる愛の目に見える証しとなることから、神の栄光を具体的にしめすことになります。その栄光を受けた主から派遣されるわたしたちは、主が命じたように生きることによって、主が受けられた栄光にさらなる栄光を増し加えることになります。わたしたちの福音宣教の業は、わたしたち自身の栄光のためではなく、神に栄光を帰するためであります。

「互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなた方がわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」

わたしたちが互いに愛し合うのは、まさしく、その行いを通じて、「皆が知るようになる」ための福音の生きたあかしであり、神ご自身による十字架での受難と死という最大の愛のあかしの行動を無にせず、その栄光を増し加えるためであり、究極的には福音宣教の業であります。

もちろん互いに愛し合うためには、互いの存在を受け入れあうことが必要です。感染症や戦争など、この数年間わたしたちはいのちの危機の中で生き続けています。不条理に、また暴力的にいのちを奪われる方々が、数多くおられる事実を目の当たりにし続けています。その中でどうしても自己防衛の思いが強くなり、その思いは人間を利己的にしてしまいます。安心を求めて、異質なものへの拒否感と排除の感情が強まります。個人のレベルでも、共同体のレベルでも、国家のレベルでも、自分を守ろうとするとき、わたしたちは排他的になってしまいます。

まさしく今の時を生きているからこそ、「互いに愛し合いなさい」という新しい掟を、具体的に生きることは、イエスの福音のあかしであり、十字架をむなしいものとせず、神の栄光を増し加える業であります。

互いに心を開き、耳を傾けあい、支え合う連帯こそが、この状況から抜け出すために不可欠だと、教皇フランシスコはたびたび繰り返されてこられました。福音を広く宣べ伝えることを第一の責務だと考えるのであれば、わたしたちは、互いに愛し合うために、お互いに耳を傾けあい、心を開く必要があります。誰ひとりとして排除されない世界を生み出すための一歩を、踏み出さなければなりません。

単なる優しさではなく、単なる物わかりの良さではなく、対立していても、相互理解が難しくとも、排除するのではなく、互いに耳を傾け合うために必要なのは、忍耐です。一番大切なものは、神が賜物として与えられたいのちであるという、心の根底を支える確信です。十字架での受難と死によってすでに目に見える形であかしされた神の愛に、希望を抱いて従うことです。模範は主ご自身によって示されました。それに従うかどうかの選択は、わたしたちの決断にかかっています。

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さて5月は聖母の月です。先日5月13日はファティマの聖母の記念日でしたが、10月とともに5月には、聖母の取り次ぎを願って、ロザリオの祈りをささげるように勧められています。

特に2020年以来、感染症の困難によっていのちの危機に直面する中で、教皇様はしばしば、聖母の取り次ぎを願って祈りをささげるようにと、わたしたちを招いてこられました。

2020年4月26日には、「この試練のときを信仰と希望をもって乗り越えられるよう、聖母マリアが助けてくださいます」とアレルヤの祈りの時に述べて、その年の5月中にはロザリオの祈りを唱えるようにと招かれました。その上で、すべての信徒に手紙を送り、そこにこう記されています。

「五月は、神の民がとりわけ熱心におとめマリアへの愛と崇敬を表す月です。五月には家庭で家族一緒にロザリオの祈りを唱える伝統があります。・・・そこで、わたしはこの五月に、家庭でロザリオの祈りを唱えるすばらしさを再発見するよう皆さんにお勧めしたいと思ったのです。だれかと一緒に唱えることも、独りで唱えることも、どちらの機会も最大限に活用して、状況に応じて決めることができます。」

加えて今年、感染症の状況が終息せず、わたしたちが暗闇の中を彷徨っていると感じ続けているさなかに、今度は戦争の危機が発生しました。ウクライナへのロシアによる武力侵攻という暴挙の中で、多くの人がいのちを暴力的に奪われる事態を目の当たりにして、教皇様は聖母への祈りを強めるように呼びかけられ、全世界を、特にロシアとウクライナを聖母に奉献され、またわたしたちもそれに倣って、聖母への奉献の祈りをささげました。

1965年、東西の対立が激しくなる中で、特に世界平和のために聖母の取り次ぎを祈ってほしいと、教皇パウロ六世は呼びかけ、回勅「メンセ・マイオ」で、「五月は、より頻繁で熱心な祈りのための力強い励ましであり、わたしたちの願いがよりたやすくマリアのあわれみ深い心に近づく道を見いだすときです。教会の必要が求めるときに、あるいは人類が何か重大な危機に脅かされているときにはいつでも、キリスト者に公の祈りをささげるよう勧めるためこのマリアにささげげられた月を選ぶのは、わたしの先任者たちに好まれた習慣でした」と呼びかけられました。(3)

もちろん祈りをささげ、全てを委ねたからと言って、それで平和が自動的に実現するものではありません。パウロがそうであったように、委ねたあとに、主とともにわたしたちは行動するのです。主のおもいが具体的に実現するようにと、導かれるままに行動するのです。平和の実現のためには、祈りとともに、主の導きに従った、わたしたちの行動が不可欠です。

なぜならば、ヨハネパウロ二世が広島で語られたように、「戦争は人間のしわざ」だからであります。「人間のしわざ」であるからこそ、それを解決するのも、人間の業にかかっています。

福音をあかししましょう。イエスの福音は一体どのような世界の実現を求めているでしょうか。どのような人間関係を求めているでしょうか。

「互いに愛し合いなさい。わたしがあなた方を愛したように」

わたしたちは、新しい掟に忠実に生きる者であり続けましょう

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2022年5月15日 (日)

週刊大司教第七十六回:復活節第五主日

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復活節第五の主日となりました。

この水曜日、衝撃的なニュースが香港の友人から飛び込んできました。3代前の香港司教である陳日君枢機卿様が、公安当局に逮捕されたというのです。陳枢機卿様は、御年90歳と高齢ですが、香港の民主化のために活動する人々を支え、自らも積極的に行動されていました。ですからその身の安全を慮る声は以前からありましたが、高齢の枢機卿ですから、バチカンとの関係を考えると手荒な選択はないだろうと思われていました。今回は、民主化運動に関連して身柄を拘束された人たちを資金的に支える基金の運営にかかわり、海外の勢力に通じていたとして、国家安全維持法違反で逮捕、拘束となった模様です。即座に保釈されましたが、パスポートを取り上げられているとのことで、今後どのような展開になるのか、ともに拘束された他の3名の方々と共に、注視したいと思います。香港の現在の司教様からもお祈りをとの依頼がありますので、ここは祈りの力をもって支援したいと思います。香港の平和と安定のため、また中国のために祈りましょう。

個人的なことですが、陳枢機卿様とは、2002年に初めてお会いしました。その年に前任者が帰天され、陳枢機卿様は協働司教から教区司教となられて、即座にカリタス香港の見直しに手を付けられました。香港のカリタスはありとあらゆる社会での活動を包括し、学校もあれば社会福祉施設もあれば外国人支援もあれば宿泊施設まで運営している、巨大組織です。ちょうどそのとき私は、カリタスアジアの運営委員の一人として、東アジア担当だったので、即座に、香港に「呼びつけられ」ました。そこで二日間にわたって、いろいろと意見と事情の聴取をされたのが出会いです。

それ以来今に至るまで、ご想像いただけるあの分野について、ありとあらゆることをご教示いただいています。枢機卿様のために、そして香港の教会のために、さらには中国にある教会のために、心からお祈りいたします。

以下、本日午後6時配信の週刊大司教第76回のメッセージ原稿です。

復活節第五主日C(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第76回
2022年5月15日

5月は聖母の月です。5月13日はファティマの聖母の記念日でしたが、10月とともに5月には、聖母の取り次ぎを願って、ロザリオの祈りをささげるように勧められています。

特に2020年以来、感染症の困難によっていのちの危機に直面する中で、教皇様はしばしば、聖母の取り次ぎ願って祈りをささげるようにと、わたしたちを招かれています。

2020年4月26日には、「この試練のときを信仰と希望をもって乗り越えられるよう、聖母マリアが助けてくださいます」とアレルヤの祈りの時に述べて、五月中にロザリオの祈りを唱えるようにと招かれました。その上で、すべての信徒に手紙を送り、そこにこう記されています。

「五月は、神の民がとりわけ熱心におとめマリアへの愛と崇敬を表す月です。五月には家庭で家族一緒にロザリオの祈りを唱える伝統があります。感染症の大流行によるさまざまな制約の結果、わたしたちはこの「家庭で祈る」という側面がなおさら大切であることを、霊的な観点からも知ることになりました。

そこで、わたしはこの五月に、家庭でロザリオの祈りを唱えるすばらしさを再発見するよう皆さんにお勧めしたいと思ったのです。だれかと一緒に唱えることも、独りで唱えることも、どちらの機会も最大限に活用して、状況に応じて決めることができます。」

加えて今年、感染症の状況が終息にまだ向かわない中で、わたしたちは今度は戦争の危機に直面しました。ウクライナへのロシアによる武力侵攻という暴挙の中で、多くの人がいのちを暴力的に奪われる事態を目の当たりにして、教皇様は聖母への祈りを強めるように呼びかけられました。

1965年、特に世界平和のために聖母の取り次ぎを祈ってほしいと、教皇パウロ六世は呼びかけました。回勅「メンセ・マイオ」で、教皇は5月にロザリオの祈りをささげる伝統について、「五月は、より頻繁で熱心な祈りのための力強い励ましであり、わたしたちの願いがよりたやすくマリアのあわれみ深い心に近づく道を見いだすときです。教会の必要が求めるときに、あるいは人類が何か重大な危機に脅かされているときにはいつでも、キリスト者に公の祈りをささげるよう勧めるためこのマリアにささげげられた月を選ぶのは、わたしの先任者たちに好まれた習慣でした」と述べています。(3)

感染症の状況と戦争の脅威の中に生きるとき、ヨハネ福音に記された主イエスの言葉が、心に強く響き渡ります。

「互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなた方がわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」

愛し合うためには、互いの存在を受け入れることが必要です。いのちの危機の中で、自己防衛の思いは、どうしても人間を利己的にしてしまいます。異質なものへの拒否感と排除の感情を強めます。個人のレベルでも、共同体のレベルでも、国家のレベルでも、自分を守ろうとするとき、わたしたちは排他的になってしまいます。だからこそいま、「互いに愛し合いなさい」という言葉が必要です。互いに心を開き、耳を傾けあい、支え合う連帯こそが、この状況から抜け出すために不可欠だと、教皇フランシスコはたびたび繰り返されます。福音を広く告げしらせることを第一の責務だと考えるのであれば、わたしたちは、互いに愛し合うために、心を開く必要があります。

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2022年5月 8日 (日)

東京カトリック神学院の院長がどなたかご存じですか?

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本日は、世界召命祈願日ですから、司祭養成の場である神学院について、少しお話しします。

日本の教会には、教区司祭を養成する神学院が二カ所に設けられています。

教区司祭養成の神学院は、福岡と東京にあり、九州と沖縄の5教区は福岡の神学院(福岡カトリック神学院)を、それ以外の大阪教会管区と東京教会管区の11教区は、東京の神学院(東京カトリック神学院)を運営しています。近年、東京の神学院では、基本的に修道会の司祭志願者も受け入れていますが、そういった修道会からの聴講生も含めて、毎年20人から30人ほどの神学生が在籍し、その中で東京教区からは、今年度は4名の神学生が在籍しています。

現時点での東京の神学院の養成は、予科(1年ないし2年)から始まって、哲学を2年と神学を4年。その後助祭に叙階されて半年以上を経てから司祭に叙階されることになっています。以前は神学の三年目終了時の神学四年目に助祭に叙階されていましたが、現在の司祭養成は2016年に教皇庁聖職者省が示した司祭養成基本綱要「司祭召命のたまもの」に基づいて、生涯をかけての養成プログラムへと根本的に変えられました。なおこの司祭養成基本綱要は邦訳が単行本として今年の3月に出版されています(上の写真)。またこれに基づいて、それぞれの国の司教団は、地域の事情に応じた個別の司祭養成の基本綱要を作成することになっています。

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哲学や神学やそのほか様々な科目の先生は、各地から通って授業を担当してくださっていますが、神学生と一緒に神学院で生活をともにする養成担当者が不可欠です。修道会の神学院の場合は、それ自体が修道院共同体なので、当然神学生以外にも複数名の修道会員が居住しており、神学生の霊的養成に参加するのですが、教区の神学院は事情が異なるため、養成担当者をいずれかの教区から派遣しなければなりません。

現在、東京の神学院では、4名の司祭が神学生と寝起きをともにしています。その内訳は、東京教区、横浜教区、名古屋教区からそれぞれ1名の3人が養成担当、これにグァダルペ宣教会のマルコ神父様が霊的指導者として加わっています。そしてその中の誰か一人が、全体の院長とならなくてはなりません。

加えて東京カトリック神学院の院長は、教皇庁の福音宣教省長官が任命する役職です。昨年までは大阪教区の松浦信行神父様が院長に任命されていましたが、このたび任期が満了し大阪教区にお戻りになりました。東京カトリック神学院司教団の推薦に基づき、新たに今年度4月から、東京教区の稲川圭三神父様が神学院長として、福音宣教省長官タグレ枢機卿から任命をいただきました。東京カトリック神学院の院長は、稲川圭三神父様です。


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過日、ローマからの書類や正式な任命書(もちろんラテン語で書かれています)が届き、教皇庁大使館で教皇大使が見守る中、稲川圭三神父様は定められた方式で、荘厳に信仰宣言を行い、誓約書に署名されました。わたしは稲川神父様の所属する東京教区を代表して同席させていただきました。(写真は大使館での誓約書への署名と信仰宣言)

稲川圭三神父様、院長就任おめでとうございます。教会にとって大切なお働きに、神様の豊かな祝福と導きがあるように、お祈りいたします。

また、復活節第四主日の世界召命祈願日にあたり、どうか、司祭・修道者の召命のためにお祈りください。また、機会があれば(ザビエル祭など)神学院を訪れ、養成の現場をご覧ください。さらに小教区に神学生が土日の司牧研修でお邪魔する際には、声をかけ、祈りを約束し、励ましてくださいますようにお願いいたします。道程は短くありません。最低でも七年半です。長い道のりを歩む神学生を孤独のうちにおかず、共同体の絆を持って支えてくださいますように。(写真下は、東京カトリック神学院正面入り口、そして聖堂前に立つザビエル像)

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2022年5月 7日 (土)

週刊大司教第七十五回:復活節第四主日

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復活節第四主日です。復活節第四主日は、毎年朗読される福音から「善き牧者の主日」とも呼ばれ、世界召命祈願日と定められています。通常であれば、この主日の午後2時から、東京カテドラル聖マリア大聖堂において、教区内で養成を受けている教区や修道会の神学生、修道会の志願者などに参加を呼びかけ、教区の一粒会と一緒に、召命祈願ミサを行うのですが、残念ながら今年もまた、感染症の状況を勘案して、中止とさせていただきました。

どうかこの主日に、司祭、そして修道者の召命のためにお祈りくださるようにお願いします。

また同時に、召命を語ることは、キリスト者の召命、すなわち信徒の召命についても考えるときです。一人ひとりに呼びかけ、福音をそれぞれの場で、それぞれの方法であかしするようにと招いておられる主に、どのように応えていくか。黙想する日曜といたしましょう。

例年、教皇様はこの日にあわせてメッセージを発表されます。今年は発表が大幅に遅れ、つい2・3日前の発表となりました。そのため、中央協議会での翻訳は間に合いません(日本では連休中の発表でしたので)。今年のメッセージのテーマは「Called to build a Human Family(人類家族を造るために呼ばれて)」となっています。翻訳の発表までは今しばらくお待ちください。

メッセージで教皇様は、教会がいまともに歩んでいるシノドスの道に触れ、まずはじめに教会全体が福音宣教の主役となるように召されていると強調されます。すなわち、召命は特定の人、特に聖職者の召命だけを語るのではなく、それぞれの場でどのように福音を宣教する主役となるのかを考える、教会全体への召命であることを指摘されています。

その上で、教会全体が、分断された人類を再び一致させ神と和解させるというキリストの使命にともに与るように招かれていると強調されます。

もちろん司祭や修道者の召命が増えるようにと、その道を歩み出す勇気が呼ばれている人に与えられるようにとお祈りいただきたいのですが、同時にわたしたち一人ひとりが、また教会共同体が、神からの呼びかけに応え、与えられたタレントを共通善のために十分に生かすために、互いに何ができるのだろうか。教皇様の呼びかけに耳を傾け、この主日に、お祈りください。

なお教皇様はこの数日、様々な要因から歩くことや立っていることに困難を感じておられます。どうか教皇様の健康のためにも、お祈り下さい。

以下、本日午後6時に配信された週刊大司教第七十五回、復活節第四主日メッセージ原稿です。

復活節第四主日C(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第75回
2022年5月8日

復活節第四主日は、世界召命祈願日と定められています。教皇パウロ六世によって、1964年に制定されました。今日は特に、司祭・修道者の召命のために、お祈りをお願いいたします。

第二バチカン公会議の会期中、1964年4月11日のラジオメッセージで、教皇パウロ六世は、こう述べておられます。

「十分な数の司祭を確保するという問題は、すべての信者にすぐさま影響を与えます。それは、彼らがキリスト教社会の宗教的な未来をそのことに託しているためだけではありません。この問題は、小教区や教区の各共同体の信仰と愛の力を正確かつ如実に表す指標であると同時に、キリスト者の家庭の道徳的な健全性のしるしだからです。司祭職と奉献生活への召命が多く見られるところではどこでも、人々は福音を豊かに生きています」

すなわち召命の問題は、組織としての将来的存続の課題にとどまるのではなくて、福音が豊かに生きられているかどうかの指標でもあるというのです。これはわたしたちにとっては、厳しい指摘です。国内には修道会立も含めていくつもの神学院があり、司祭養成が行われてきました。さらに各修道会では国内外各所で志願者の養成が行われてきました。しかし近年、司祭や修道者を志願する信徒の数は減少傾向にあり、例えば東京教区でも、司祭を目指す神学生は、現時点では四名しかおりません。

一人の神学生が司祭になるまで養成するためには、最低でも7年が必要です。将来の教区組織維持の観点からも厳しいものがありますし、教皇パウロ六世の指摘されるように、それが福音が豊かに生きられているかの指標であるとするなら、まさしくその数字自体が厳しい指摘となっています。まずは司祭・修道者の召命のために祈りましょう。同時に、わたしたち教会共同体の責務として、さらに福音に生きる姿勢を追い求め、福音をあかしして参りましょう。

実際、召命を語ることは、ひとり司祭・修道者の召命を語ることにとどまるのではなく、すべてのキリスト者に対する召命を語ることでもあります。司祭・修道者の召命があるように、信徒の召命もあることは、幾たびも繰り返されてきたところです。

第二バチカン公会議の教会憲章に、こう記されています。

「信徒に固有の召命は、現世的なことがらに従事し、それらを神に従って秩序づけながら神の国を探し求めることである。自分自身の務めを果たしながら、福音の精神に導かれて、世の聖化のために、あたかもパン種のように内部から働きかけるためである」(31)

いまほど、司祭・修道者の召命に加えて、信徒の召命を深める必要があるときはありません。牧者であるキリストの声を、すべての人に届けるためには、キリスト者の働きが必要です。「自分自身の務めを」社会の中で果たしながら、「パン種のように内部から働きかける」召命を生きる人が必要です。「福音の精神に導かれて、世の聖化」のために召命を生きる人が必要です。

召命の促進は、特別な人の固有の務めではなく、教会共同体全体の責務であります。

ヨハネ福音は、羊飼いと羊のたとえを記しています。「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける」と主は言われます。わたしたちは常にわたしたちと共にいてくださり、先頭に立ってわたしたちを導いてくださる羊飼いとしての主の声を聞き分けているでしょうか。それとも、もっと他の声に気を取られて、そちらへと足を向けているのでしょうか。それぞれに与えられた召命を理解し、その召命に忠実に生きるとき、わたしたちは羊飼いの声を聞き分ける羊となることができます。

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