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2022年5月16日 (月)

復活節第五主日:関口教会ミサ

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復活聖第五主日の午前中は、関口教会で10時のミサを司式しました。このミサでは、特に香港の状況に思いを馳せ、香港と中国の教会のため、特に今回の事態に遭遇している陳日君枢機卿様のために、皆さんにお祈りしていただきました。

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また同日午後2時半からは、六本木にあるフランシスカン・チャペルセンターで、堅信式を行いました。チャペルセンターは、英語を基本とする小教区ですので、この日の堅信式ミサも英語ミサです。いつもであれば聖堂は一杯になるのですが、感染対策のため、受堅者と代父母、その家族だけに参加者を限定し、4名ほどのコーラスの聖歌隊が素晴らしい歌を披露してくださいました。堅信を受けられたのは22名の方々。おめでとうございます。

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以下、関口教会10時ミサの説教の原稿です。

復活節第五主日(配信ミサ説教)
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2022年5月15日午前10時

復活された主との出会いを通じて、その生き方を大きく変えられたパウロは、各地に福音を宣べ伝える旅に出ます。最初の宣教旅行の締めくくりを、本日の使徒言行録は記していました。

パウロとバルナバが成し遂げた福音宣教の成果は、「神の恵みに委ねられて送り出された」ためであり、すべては「神が自分たちと共にいて行われ」事であると、記されています。

わたしたちは、復活された主によって力をいただき、福音を全世界にあかしするようにと派遣されています。わたしたちが告げるのは、自分自身の考えではありませんし、自分の知識をひけらかすことでもなく、告げるのはわたしを通じて語られる主ご自身です。わたしたちが自分自身を語ろうとするとき、そこに神の力が働く余地はなくなります。

ヨハネ福音は、主が最後の晩餐で弟子たちの足を洗った後に、弟子たちに与えた「新しい掟」を記しています。その直前に、「栄光を受ける」という言葉がくり前されます。ここでイエスは、そのあとに起こる十字架での受難と死について語っています。この世の常識から言えば悲惨な敗北でしかない十字架での受難と死とは、それを通じて神が自らを贖いのいけにえとしてささげる業であり、それが神の完全なる愛の目に見える証しとなることから、神の栄光を具体的にしめすことになります。その栄光を受けた主から派遣されるわたしたちは、主が命じたように生きることによって、主が受けられた栄光にさらなる栄光を増し加えることになります。わたしたちの福音宣教の業は、わたしたち自身の栄光のためではなく、神に栄光を帰するためであります。

「互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなた方がわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」

わたしたちが互いに愛し合うのは、まさしく、その行いを通じて、「皆が知るようになる」ための福音の生きたあかしであり、神ご自身による十字架での受難と死という最大の愛のあかしの行動を無にせず、その栄光を増し加えるためであり、究極的には福音宣教の業であります。

もちろん互いに愛し合うためには、互いの存在を受け入れあうことが必要です。感染症や戦争など、この数年間わたしたちはいのちの危機の中で生き続けています。不条理に、また暴力的にいのちを奪われる方々が、数多くおられる事実を目の当たりにし続けています。その中でどうしても自己防衛の思いが強くなり、その思いは人間を利己的にしてしまいます。安心を求めて、異質なものへの拒否感と排除の感情が強まります。個人のレベルでも、共同体のレベルでも、国家のレベルでも、自分を守ろうとするとき、わたしたちは排他的になってしまいます。

まさしく今の時を生きているからこそ、「互いに愛し合いなさい」という新しい掟を、具体的に生きることは、イエスの福音のあかしであり、十字架をむなしいものとせず、神の栄光を増し加える業であります。

互いに心を開き、耳を傾けあい、支え合う連帯こそが、この状況から抜け出すために不可欠だと、教皇フランシスコはたびたび繰り返されてこられました。福音を広く宣べ伝えることを第一の責務だと考えるのであれば、わたしたちは、互いに愛し合うために、お互いに耳を傾けあい、心を開く必要があります。誰ひとりとして排除されない世界を生み出すための一歩を、踏み出さなければなりません。

単なる優しさではなく、単なる物わかりの良さではなく、対立していても、相互理解が難しくとも、排除するのではなく、互いに耳を傾け合うために必要なのは、忍耐です。一番大切なものは、神が賜物として与えられたいのちであるという、心の根底を支える確信です。十字架での受難と死によってすでに目に見える形であかしされた神の愛に、希望を抱いて従うことです。模範は主ご自身によって示されました。それに従うかどうかの選択は、わたしたちの決断にかかっています。

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さて5月は聖母の月です。先日5月13日はファティマの聖母の記念日でしたが、10月とともに5月には、聖母の取り次ぎを願って、ロザリオの祈りをささげるように勧められています。

特に2020年以来、感染症の困難によっていのちの危機に直面する中で、教皇様はしばしば、聖母の取り次ぎを願って祈りをささげるようにと、わたしたちを招いてこられました。

2020年4月26日には、「この試練のときを信仰と希望をもって乗り越えられるよう、聖母マリアが助けてくださいます」とアレルヤの祈りの時に述べて、その年の5月中にはロザリオの祈りを唱えるようにと招かれました。その上で、すべての信徒に手紙を送り、そこにこう記されています。

「五月は、神の民がとりわけ熱心におとめマリアへの愛と崇敬を表す月です。五月には家庭で家族一緒にロザリオの祈りを唱える伝統があります。・・・そこで、わたしはこの五月に、家庭でロザリオの祈りを唱えるすばらしさを再発見するよう皆さんにお勧めしたいと思ったのです。だれかと一緒に唱えることも、独りで唱えることも、どちらの機会も最大限に活用して、状況に応じて決めることができます。」

加えて今年、感染症の状況が終息せず、わたしたちが暗闇の中を彷徨っていると感じ続けているさなかに、今度は戦争の危機が発生しました。ウクライナへのロシアによる武力侵攻という暴挙の中で、多くの人がいのちを暴力的に奪われる事態を目の当たりにして、教皇様は聖母への祈りを強めるように呼びかけられ、全世界を、特にロシアとウクライナを聖母に奉献され、またわたしたちもそれに倣って、聖母への奉献の祈りをささげました。

1965年、東西の対立が激しくなる中で、特に世界平和のために聖母の取り次ぎを祈ってほしいと、教皇パウロ六世は呼びかけ、回勅「メンセ・マイオ」で、「五月は、より頻繁で熱心な祈りのための力強い励ましであり、わたしたちの願いがよりたやすくマリアのあわれみ深い心に近づく道を見いだすときです。教会の必要が求めるときに、あるいは人類が何か重大な危機に脅かされているときにはいつでも、キリスト者に公の祈りをささげるよう勧めるためこのマリアにささげげられた月を選ぶのは、わたしの先任者たちに好まれた習慣でした」と呼びかけられました。(3)

もちろん祈りをささげ、全てを委ねたからと言って、それで平和が自動的に実現するものではありません。パウロがそうであったように、委ねたあとに、主とともにわたしたちは行動するのです。主のおもいが具体的に実現するようにと、導かれるままに行動するのです。平和の実現のためには、祈りとともに、主の導きに従った、わたしたちの行動が不可欠です。

なぜならば、ヨハネパウロ二世が広島で語られたように、「戦争は人間のしわざ」だからであります。「人間のしわざ」であるからこそ、それを解決するのも、人間の業にかかっています。

福音をあかししましょう。イエスの福音は一体どのような世界の実現を求めているでしょうか。どのような人間関係を求めているでしょうか。

「互いに愛し合いなさい。わたしがあなた方を愛したように」

わたしたちは、新しい掟に忠実に生きる者であり続けましょう

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