吉祥寺教会堅信式@三位一体の主日
今年、2022年の三位一体の主日は、吉祥寺教会で24名の方の堅信式を行いました。
わたし自身の健康状態は、徐々に回復しているとは言え、まだ大きい声を出したり歌ったりすると咳が出てしまうため、吉祥寺教会でのミサも、わたしが唱える部分は全て歌わないことにいたしました。わたし自身のミサ司式における歌唱については、月末の26日の関口教会主日ミサから試してみようと思っています。
吉祥寺教会のミサは、聖歌隊がしっかりと歌ってくださいました。ミサの始まる前には、聖霊の導きを願いながら、聖歌隊長ともう一人の聖歌隊員が、ラテン語でVeni Creator を歌ってくださいました。この歌は名古屋の神言会の神学院では、毎朝一番に歌う讃歌ですので、聖歌隊長はお手の物だと思います。
堅信を受けられた皆さんには、ミサ後に集まっていただき、それぞれの信仰の歩みを少しずつわかち合っていただきました。ありがとうございます。まだ今の状況で、祝賀会などができなかったのが残念ですが、受けた聖霊の恵みを十分に生かして、その聖霊の後押しを受けることができるように、積極的な信仰生活を歩んで行かれますように。皆さん、堅信、本当におめでとうございます。
以下、当日の録音から書き起こして、内容を整理した、説教です。また、以下のリンクから、Youtubeで、当日のミサをご覧いただくこともできます。
Youtubeビデオ:吉祥寺教会の三位一体の主日ミサへのリンク
三位一体の主日
吉祥寺教会
2022年6月12日堅信の秘跡を受けられる24名の方々に、心からお慶びを申し上げたいと思います。
5月の末に新型コロナに感染して陽性になり、10日間隔離状態にありました。熱が出て喉がかなり痛く、今もまだ声がちょっと戻っていないので、歌を歌うことができません。大きい声でお話をすることも難しいので、ボソボソとお話させて頂きます。
このコロナに感染して10日間自宅療養しろと言われて、あらためてですけれども、人間は独りでは生きてゆけないと、誰かによって支えられて生きているんだという、ごく当たり前のことを思い起こさせられました。
元気な時には自分の力で何でもできるので、一人で生きているような思いが募ってきて人間は傲慢になるものですが、実際には、人の命は誰かによって支えられ、生かされ、生きているんだという当たり前のことを、わたしたちは忘れてしまいがちであります。弱ったときやいのちの困難を抱えて生きているときに、はじめて自分の弱さを認めて、目の前に張り巡らしてきたバリアみたいなものが解かれて初めて、他の人が助けてくれているんだということがわかるということなのだろうと感じています。
そもそも、創世記の第2章に記されているように、いのちを創造された神様は、まず一人の人を創造し、彼に合う助けるものを作ろうと仰って、新たなものをさまざまと創造された。けれども、どれもこれも彼を助けるには充分ではなかった。そこで神様は、最初に創造した人からあばら骨を取って、もう一人の人を創造した。
だから人は、互いに助け合うためにいのちを与えられている。逆に言えば、人は独りで生きてゆくことはできないと言うことです。この2年以上にわたって続いているパンデミックの状況の中で、それをわたしたちは思い起こしたいと思います。
教皇様もパンデミックの最初の頃から、連帯することの必要性を仰っていました。この状況からよりよく抜け出すためには、互いに連帯し合わなければならないと強調してこられたわけです。けれども残念ながら、今まさにわたしたちの目の前で戦争が起きています。大国による他国への侵略という戦争が続けられ、連帯するどころか、排斥し排除し、互いに憎しみ合いいのちを奪い合うという状況が今、世界で続いているわけです。
だからこそ、あらためてわたしたちはいのちの大切さと、いのちを護り互いに支え合うことの大切さを、愚直に強調し続けていきたいと思います。
わたしたちはいのちを与えられたものとして、それを忠実に生きてゆく役割、務めが与えられています。それはまさしくいのちの大切さ、そしていのちを互いに支え合って生きてゆくことの大切さを、強調してゆくことに他なりません。
聖霊降臨の日から、五旬祭の日に聖霊が弟子たちに降ったあの日から始まって今に至るまで、教会は聖霊によって満たされ、聖霊によって導かれ、聖霊によって生かされ、生きています。わたしたちはこの聖霊の働きに信頼をして、それに素直に身を委ねて、教会とともに歩みを続けて行きたいと思います。
今日この堅信の秘跡をもって聖霊を受けられる方たちが、聖香油で十字架の印をされたときに変身してですね、急に変身してスーパーマンみたいになれたら、それはそれでよいですけれども、そうはならない。今まで何人もの人に堅信を授けてきましたが、残念ながら、堅信の秘跡のときにスーパーマンに変わった人は、誰もいません。聖なる油を受けても、同じ人がそのままそこに立っているんです。
じゃ、聖霊の働きって、いったい何なんだろう。聖霊はわたしをガラッと変えてくれるものなんじゃないのか。もしもそういう期待をしているんであれば、そうではありません。
聖霊は後ろから、前に進んでいこうと、前に向かって歩んでいこうと思うこの気持ちを、後ろから支えてくれる存在です。教会は常にそうです。教会が聖霊に満たされ導かれているからといって、誰も何もしないでも、教会が自動的に歴史を刻んできたわけではないですよね。聖霊は、教会自身が聖霊の促す方向に向けて進もうとしているときに、後ろからぐっと押してくれるんです。そうやって教会は歴史を刻んできたのです。ところが教会は人間の集りなので、常に間違いを犯すんですよ。
歴史の中で様々な間違いを犯し、間違った方向に進んでいくとき、そこに聖霊は働かないんです。聖霊が働かないので、方向性を間違えた行いは潰えていくわけです。人間の時間的感覚からいえばその結果がでるには長い時間がかかるように見えるのかも知れません。でも、結局その進んでいる方向は間違っているので、聖霊が後押しをすることもなく、潰えていきます。
教会の歴史はそれを繰り返してきました。人間が聖霊の促しをしっかりと識別し、教会共同体がふさわしくく正しい選択をし、教会が全体として聖霊が促す方向に向かって進んでいるとき、聖霊はその動きを後押ししてくれていると思います。
1965年に終わったあの第二バチカン公会議から今に至るまで、教会は様々な選択を積み重ねてきたわけですけれども、その多くはやはり聖霊の働きによってしっかりと裏打ちをされていて、聖霊の導きに従う歩みであったというふうに思います。
教会は様々な変革を続けながら前に向かって進んできていますが、聖霊の導きがなければ、あっという間にそのような試みは潰えていたことでしょう。今わたしたちはその聖霊の導きに信頼をして、教会の歩みをともにしていこうとしています。教皇様が2023年の来年、シノドスを行うので一緒になって歩んでいこうと、聖霊に素直に身を委ね、聖霊が促す方向に皆で歩んでいこうと呼びかけておられます。特別なことをしようと言っているのではなく、それを教皇様は、伝統的な教会の表現で「信仰の感覚」という言葉を使っています。
信仰の感覚、教会が全体として聖霊に促され一緒になって歩んでゆくときに、教会は誤ることはないと第二バチカン公会議の教会憲章にそう書いてあります。
まさしく今、教会は聖霊の導きに促され一緒になって歩んでいる。誰かが教会の進む方向を勝手に決めて、誰かが一人で引っ張っているとか、教会はそういう組織じゃないんです。誰か凄いリーダーが先頭に立って『オレについて来い』と言って進んでいるわけじゃないんです。我々のリーダーは神様しかおられないので、三位一体の神しかおられないので、その聖霊の促しに皆で促されて、一緒に歩んでいる。それが教会のあるべき姿だと思います。
今日、堅信の秘跡を受けられる方々もその歩みを共にする、私たちと一緒に聖霊に促されてより相応しい、神が望んでいる世界を生み出してゆくために、ともに歩んでゆく。そして命を大切にし、互いに助け合って生きてゆく。そのことを実践するために、前進するぞという意気込みを、聖霊が後ろからしっかりと支えて下さっている事を信じ、その聖霊の支えを信頼し、信仰生活を歩んで行って頂きたいと思います。
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