年間第13主日堅信式ミサ@麹町聖イグナチオ教会
6月26日の日曜日は、午後3時半から、四ッ谷にある麹町聖イグナチオ教会で、堅信式を行いました。麹町教会ではいつも大勢の方が堅信を受けられますが、今回は91名だったと伺っています。堅信を受けられた皆さん、おめでとうございます。
なお今回は、主任司祭が英神父様からオチョア神父様に交代になって、初めての堅信式ミサでした。感染対策で入堂制限をしているため、聖堂には受堅者と代父母、聖歌隊や関係者だけの参加でしたが、それでも100名近い受堅者ですから、聖堂は一杯でした。また教会の地下駐車場では、ベトナム出身の青年たちが、ダンスの練習中で、いつものように活気にあふれた麹町教会でした。
以下、当日の録音から起こして少しだけ手直しした説教原稿です。そのあとに麹町教会のオンライン配信のビデオを貼り付けますので、そちらを聴いていただければと思います(説教はビデオ開始から20分くらいのところです)。説教の内容的には、いつも堅信式でお話ししていることです。
麹町教会堅信式ミサ
2022年6月26日このミサの中で、堅信の秘跡を受けられる皆様に、心からお祝いを申し上げたいと思います。
洗礼に始まり、ご聖体、そしてこの堅信と、三つの秘跡を受けることによって、わたしたち一人一人がキリスト教に入信をする、入信の過程が完了します。完成したキリスト者に、この堅信の秘跡を受けることによってなっているはずです。昔は「キリストの兵士になる」なんて言い方もしましたけれども、完成した成熟した大人の信仰者が、堅信の秘跡を受けたときに出来上がっているはずなんですね。
大人の信仰者ですので、そこには様々な責任が伴ってきます。ま、社会の中でも、成人して大人になってゆくということに伴い、様々な義務が、務めが生じてきますね。それと同じように、入信の秘跡を完了し成熟した信仰者になった人には、とても大切な務めがそれぞれに与えられていると思います。
もちろん準備の段階で何度も聞いてきただろうと思いますけれども、信仰者、成熟した大人の信仰者にとって一番大切なこと、それはイエスキリストの福音を宣べ伝えてゆく、福音宣教者になってゆくという務めです。
イエスが、ご復活のあと御父のもとに帰られるとき、弟子たちに対して、全世界に行って福音を宣べ伝えなさいと、父と子と聖霊の名によって洗礼を授けなさいと言われた、あの福音を告げ知らせる宣教の命令は、弟子たちを通じて、そこから連綿と今に至るまで続いています。それが、わたしたち一人一人の信仰者の務めです。
ですので、堅信を受けられる皆さんには、どうやったらこの福音を宣べ伝えられるのだろうかということを真剣に考えて頂ければと思います。
たぶん人生のその先は長いので、そのうち考えるわと、いいかと思われるかもしれないですけれども、早いうちに考えた方がいいと思います。あとになればなるほど難しくなってくるので、早いうちに、わたしはどうやって福音を告げ知らせようかと考えてくださったらいいなと思います。でも、もちろん、人間の業では福音を伝えるなんてできないですよね。四ッ谷の駅前に立って旗でも立ててマイクを持って宣伝をしても、それでは福音は伝わらないです。この人は何なんだろう思われるだけで、福音は伝わらない。
どうやって福音を伝えてゆくかというのは、実はものすごく難しい問題なんですよ。で、それをわたしたちはどうやってやって実行してゆくのか、それを助けてくれるものは二つあると思います。
一つは聖霊の助けです。今日の堅信の秘跡によって皆さんお一人お一人が受けることになる聖霊。聖霊は、あの使徒言行録に記されている通り、五旬祭の日、聖母と共に弟子たちが祈っているところに聖霊が降ってきて、様々な騒々しい物音を立てて……、騒々しかったんですよ、すごく。だから周りの人たちが何事かと見に来たわけです。
周りの人たちがやって来て見たら、自分が理解できる言葉で……、使徒言行録には、様々な国の言葉で話していたと書かれています。みんなが理解できる言葉で福音が告げ知らせられていたというあの出来事は、まさしく、聖霊が働くってそうゆうことなんだよということを、一番ふさわしく記している出来事ですよね。
聖霊が降って来ることによって、それまで隠れていた弟子たちは勇気付けられ、堂々と様々な人たちに通じる言葉で福音を宣べ伝え始めたと。つまり聖霊は、わたしたちを福音宣教者に変えてくれるんだということであると思います。
ですので、今日、聖霊を受けることでわたしたち一人一人に聖霊の力が働いて、わたしたちを、福音を宣教する者として行動するように……変えてくれればいいんですけれど、なかなかそうはいかないんですよ。変えてくれるといいですが、後押しをしてくれる、一番それがふさわしい言い方だと思います。
わたしがやるぞ!という思いを、やる気をもっているところに、後ろから神様の力がグーッと後押ししてくれる。ヤダヤダと思っているところに後押しはできないので、よし、わたしは何とかして福音を告げるぞ!と思ったところに、後ろから聖霊がグーッと押してくれるのです。その聖霊の助けが一つです。
でもやっぱり、一人でするのにはとても勇気が要ります。勇気も要るし、自分一人の知恵では足りないかもしれない。わたしが考えつくなんてことは、あまり大したことじゃないですから、わたしの頭で考えられるのはこれっぽっちしかないわけですけれども、それだけではなかなか追い付かないことなんだと思うんですね。
なので、二番目にそれを助けてくれるのは、それは教会共同体という存在だと思います。
教会は共同体です。弟子たちが聖母とともに、あの家の中で祈っていたように、教会は、ここに聖霊が降って来たように、教会は共同体です。イエスは弟子たちを集めました。弟子たちとともに歩んで行こうと、道を一緒に歩み続けました。共同体が信仰の基本です。
わたしたちは一人で信仰を生きてゆくわけではないんです。わたしたちは共同体の中で一緒に助け合い、一緒に支え合いながら、信仰を生きていきます。「教会はシノドスの道を歩んでいる」という言葉を、どこかで聞いたことがあるかもしれません。来年の2023年、ローマで会議がありますが、その会議のことだけでなくて、教皇様は、シノドスは教会の在り方そのものだよと。みんなで一緒に旅路を歩いてゆくんだよと。互いに助け合いながら、互いに支え合いながら、旅路を歩んでゆくんだ。それが教会共同体というものの在り方なんだということを強調されています。まさしく、わたしたちは福音を告げ知らせていく旅路を歩んでゆくわけですけれども、その旅路を一緒になって支え合いながら歩んでゆくんですね。
そして、互いに支え合い歩んでゆく中で、もう一つ重要な要素があります。それは、お互いに耳を傾け合うこと。それはものすごく大切なことです。
聖霊はそれぞれの人を通して様々なことを成し遂げてゆくのですけれども、その他の人たちを通してわたしたちに語られる神の声、聖霊の導きに耳を傾けることが、とても大切なのです。お互いの話をよく聞く、よく耳を傾ける、そしてお互いに理解を深めて、何が必要なんだろうと何が大切なんだろうということを理解しながら、支え合って歩んでゆく。。。そうすると、一緒に助け合う教会共同体がそこにできてゆくでしょ。
実は、それが福音宣教になるんです。
福音宣教って、道端に立って太鼓を叩いて、神の国は来ます!って大きい声で叫ぶことではないんです。教会共同体の交わりの中で、互いに支え合い、互いに愛し合い、ともに道を歩んでゆくその姿を、見せつけること。それが一番大きな福音宣教の始まりです。ここにこそ素晴らしい共同体があるんだと、ここにこそ一緒に助け合っている存在があるんだと、ここにこそ心の安らぎがあるんだと、ここにこそ不安を取り去って希望をもたらす仲間がいるんだということを、しっかりと周りに見せること。
それは福音宣教の第一歩ですよね。
教会に来ても、みんなが暗い顔をして、イヤそうに早く終わんないかなと、長い説教だなとブスッとしていても、誰もそこに安らぎや希望を見出さないですよね。みんなが互いに支え合って、困難を抱えている人たちを一所懸命助けて、そこに愛が満ち溢れているとき初めて、あぁ、わたしもここに行きたい、わたしもここに居て希望を自分の心に生み出したいと、そう思えるような共同体を作り上げてゆくというのは、とてもとても大切な福音宣教の第一歩だと思います。
「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」。さっき、とても厳しい言葉が、イエス様の言葉として福音の最後に記されていました。
後ろを振り返ってしまう一番大きな理由は、不安ですよね。将来を見通すことができない不安、これからいったいどうなるんだろう、この先どうなってゆくんだろうと思ったときに、思わず後ろを振り返ってしまう。
それは、神の国に向かって歩む姿勢じゃないんだよということを仰っているんですよね。じゃ、この不安を取り除くのはいったい何なんだろう。不安を取り除くのは、やっぱり希望ですよね。この2年半、新型コロナ感染症の状況の中で、なかなか難しい社会生活をわたしたちは歩んできたわけですけれども、まさしくこの2年半の体験は、分断と分裂だったと思います。
加えて戦争が始まったり、益々、社会全体で分断と分裂がどんどん深まっている。そうゆうときには、本当に希望がないです。希望を見出すのはとても難しい。希望を見出すことが難しいから不安になる。不安になるので、何でもかんでも躊躇してしまう。自分のことを守ろう。振り向いて自分のことを守ろう。新しいことを挑戦するのではなくて、今あるものを守ってゆこうと、すごく消極的な姿勢になってしまうんですね。
そうゆう中にあっても、神の国を求める者は常に希望をもって前に進んでゆきなさいと。希望はどこにある?この共同体の交わりの中に、希望は存在しています。
堅信を受けられる皆さま一人一人の上に聖霊が降り、一歩前に進もうとする皆さまを後押しして下さって、本当の希望をこの教会共同体の中に見出してゆくことができるように。ともに祈り合い、ともに耳を傾け合い、ともに歩んでゆきたいと思います。
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