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2022年7月30日 (土)

週刊大司教第八十七回:年間第18主日

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あっという間に7月も終わりです。学校も夏休みの真っ最中で、本来であれば、各地の小教区でも、様々な夏の行事が行われたり準備されたりしている時期です。東京では、このところ自治体からの検査陽性者の報告が相次ぎ、教区内の教会でも、様々な要因を勘案して夏恒例の行事を中止としたところも少なくないと報告を受けています。大変残念ですが、一日も早くこの状況から脱することができるように、わたしたちにできる祈りを続けたいと思います。また教会活動にあっては、手洗い、うがい、換気、マスク、適度な距離といった基本を、忘れないようにいたしましょう。

感染の拡大が続いている東京教区内では、この数日、いくつかの教会で、司祭の検査陽性が報告されています。また信徒の方々にも、検査で陽性となる方が増えていますし、発症されている方も少なくありません。特に司祭が感染した場合、それぞれの小教区のミサをどのようにするかは、現場の司祭に判断の権限をゆだねていますので、教会からのお知らせなどにご注意ください。

なお関口教会も、司祭ほかの検査陽性のため、明日7月31日のミサは、中止となっています。その後、8月7日については、平和祈願ミサを非公開配信で行うことができるか、検討中です。

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教皇様は7月24日から本日30日まで、カナダを司牧訪問されました。バチカンニュースは今回の訪問について、「今回の訪問は、カナダの政府と、カトリック教会、そして先住民共同体の招きに応えて行われるもの。教皇はこの訪問を通し、カナダのかつての先住民同化政策下、カトリック教会が運営に関わった寄宿学校において先住民の人々が体験した苦しみに耳を傾け、ご自身の寄り添いを直接伝えたいと願われている」と伝えています。

教皇様はカナダのエドモントン郊外で行われた先住民族の方々との集いで、「多くのキリスト教徒たちが様々な形で、先住民の人々を抑圧した権力者たちの植民地主義的なメンタリティーを支持したこと、中でもカトリック教会や修道会のメンバーが、無関心をも含めた態度をもって、当時の政府による文化の破壊と、寄宿学校制度を頂点とする強制的な同化政策に協力したことに対し赦しを願った」と報道されています。

教皇様はご自分のツイッターでも、この謝罪ですべてが終わるのではなく、いやしのプロセスの始まりであり、同時にゆるしは人間の努力だけではなく神からの恵みを必要とするとも述べておられます。

以下、本日午後6時配信の週刊大司教第87回、年間第18主日のメッセージ原稿です。

年間第18主日C(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第87回
2022年7月31日

コヘレトの言葉は、「何というむなしさ。すべてはむなしい」と始まります。一体何がむなしいのでしょうか。コヘレトの言葉はそのあとで、「全てに時がある」という有名な一節を記します。この時は時計で計ることのできる時間ではなく、被造物に対して神が定めた時のことを指していますが、その神の定めた時に逆らって生きようとする姿勢やその価値観を、コヘレトの言葉がむなしいのだと指摘しています。

パウロはコロサイの教会への手紙で、「上にあるものを求めなさい。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい」と述べています。ここにおいても、この世界を支配する人間的な価値観は、脱ぎ捨てるべき古い人の生き方を支配するものであって、造り主の姿に倣う新しい人を支配するものではない事を明示します。

ルカ福音は、自らのために蓄財しようと、新しく大きな蔵を建てようとしている金持ちのたとえ話を記しています。この世の価値観の典型である自分のための蓄財行為に対して、神が「愚か者よ、今夜お前の命は取り上げられる」と言ったというこのたとえ話は、まさしく、この世の価値観に支配され、徹底的に利己的な動機から行動するものに、その「むなしさ」を突きつけています。同時に、この世界を支配しているのは神であって、人間の都合で世界が動くわけではないと言う事実、すなわち、全ては神の時によって定められており、それに逆らうことは全くむなしいとこのたとえ話は教えています。

貧しい人のために積極的に出向いていく教会であることを求める教皇フランシスコは、回勅「兄弟の皆さん」に次のように記しています。

「世界はすべての人のために存在しています。人は皆、同じ尊厳を持って、この地球に生まれるからです」(118)

その上で教皇様は、「共同体としてわたしたちには、すべての人が尊厳を持って生き、十全な発達のための適切な機会が得られることを保障する責務があるのです」と記します(118)

さらに教皇様は聖ヨハネ・クリゾストモの言葉を引用して、こう記します。

「自分の財産を貧しい人々に分かち与えないとすれば、それは貧しい人々のものを盗むことになり、彼らの生命を奪うことになります。わたしたちが持っている物はわたしたちのものではなく、貧しい人々の物です」(119)

第二バチカン公会議の現代世界憲章には、「人間の価値は、その人が何を持っているかではなく、どのような者であるかによる(35)」という一節があります。わたしたちは、どのような者であろうとしているのでしょうか。自分自身を世界の中心に据え、自分の計画で人生が動いていると思い込む生き方なのか、それともすべての人の尊厳が守られ、賜物である命が十全な発達の機会を与えられるよう努める生き方なのか。

教皇様の「福音の喜び」に記された呼びかけに、あらためて耳を傾けたいと思います。

「出向いていきましょう。すべての人にイエスのいのちを差し出すために出向いていきましょう。・・・わたしは出て行ったことで事故に遭い、傷を負い、汚れた教会の方が好きです。閉じこもり、自分の安全地帯にしがみつく気楽さゆえに病んだ教会よりも好きです。(49)」

神の定められた時に敏感に心を向け、それを悟り、それに従う人生を歩みましょう。

 

 

 

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2022年7月23日 (土)

週刊大司教第八十六回:年間第十七主日

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今年の年間第17主日は、メッセージでも触れていますが、7月の第四日曜日ですから、祖父母と高齢者のための世界祈願日と定められています。教皇様が定められ、昨年から始まりました。

この祈願日のために、教皇様はメッセージを発表されています。今年のタイトルは、「白髪になってもなお実を結び」です。こちらのリンクからご一読ください

多くの皆様にお祈りいただきましたが、司教総会が火曜日7月19日から金曜日7月22日朝まで開催され、無事に終了しました。お祈りに感謝いたします。昨日の午後は、シノドス準備文書に記されているように、他のキリスト教諸派の方々から、ともに歩む教会の姿勢についての分かち合いをお聞きする設け、麹町教会を会場に、NCC(日本キリスト教協議会)、聖公会、福音ルーテル教会の代表の方々をお招きして、シンポジウムを開催しました。興味深い分かち合いのひとときでした。カトリック側からは、司教総会において採択されたばかりの、日本の教会からの報告書を、わたしがかいつまんで説明させていただきました。

バチカンのシノドス事務局による準備文書には、「一つの洗礼によって結ばれた、異なる信仰告白をもつキリスト者間の対話は、シノドスの旅において特別な位置を占めています」と、その意義が記されています。

22synodsprayer01 シンポジウムの終わりには、ともに歩む教会の姿を黙想し、聖霊の導きを願いながら、前田枢機卿様の司式で、合同礼拝を行い、私が説教を担当させていただきました。

東京では感染者数が急増しています。行動制限が行政から発出されるとのニュースも耳にします。現状では、基本的な感染対策である、手指の消毒、うがい、屋内でのマスク着用、充分な換気の確保を徹底し、適度の距離を保っていることで、教会での典礼は可能だと判断していますが、行政が制限などを求めた場合には、適宜対応することにいたします。もちろん、それぞれの小教区ので状況の違いや、信徒の皆さんのお考えの違いもあることでしょうから、最終的にはそれぞれの小教区で、基本を守った上で、判断してくださって構いません。

以下、本日午後6時配信の、週刊大司教第86回、年間第17主日メッセージ原稿です。

年間第17主日C(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第86回
2022年7月24日

ルカ福音は、「祈りを教えてください」と願う弟子たちに、イエスが、「父よ、御名が崇められますように」と始まる「主の祈り」を教えたことを記しています。

イエスが示すもっとも基本となる祈りは、「父よ」と始まります。イエスが指し示す御父のイメージは、例えば放蕩息子を迎え入れる父親に象徴されるような、神のいつくしみを具体化した存在です。わたしたちに語りかける御父は、わたしたちがその呼びかけに応えるのを待ち続け、わたしたちが語る言葉に耳を傾けてくださいます。

カテキズムは、主の祈りを、「全福音の要約、もっとも完全な祈り」とする教父たちの言葉を紹介し、「福音の本質的内容を祈りの形でまとめている」と指摘しています(カテキズム要約579)。

主の祈りは、わたしたちが神に従ってたどるべき道を明示する祈りです。先に呼びかけてくださった神に対するわたしたちの答えとして、わたしたち自身の生きる姿勢を明確にするこの祈りは重要であり、神はわたしたちの決意表明に耳を傾けてくださいます。

わたしたちの祈りに耳を傾けられる御父の姿勢は、創世記に記されたソドムの町に関するアブラハムと神のやりとりにもよく表れています。辛抱強く耳を傾けるのは、御父です。

御父が耳を傾けてくださる存在であるからこそ、イエスは弟子たちに、「求めなさい。探しなさい。門をたたきなさい」と諭します。与えられるものは「よいもの」です。「聖霊」です。邪悪な事柄を執拗に求めたからと言って、それは聞き入れられません。わたしたちが執拗に祈り求めるためには、まず、「父よ」と呼びかけるあの福音を凝縮した祈りが必要であり、その祈りのあとに続けて求めることができるのは、善であり、悪ではありません。神の御旨の実現であり、悪の支配ではありません。ゆるしであって、分断や分裂ではありません。

教皇フランシスコは、昨年2021年から、7月26日の聖ヨアキムとアンナの記念日に近い主日を、「祖父母と高齢者のための世界祈願日」と定められました。今年は7月24日がこの祈願日となります。今年の祈願日のために教皇様はメッセージを用意され、そのテーマを詩編92から取った、「白髪になってもなお実を結び」とされています。

長寿であることは、多くの国で祝福でしたが、日本のように少子高齢化が激しく進むと、そうとばかりも言われなくなります。教皇様はご自身の近頃の体調に触れながら、6月15日の一般謁見で、「高齢になると、もう自分の身体のコントロールが効かなくなります。何をして、何をしないかを選択することを学ばなければなりません。身体の活力はわたしたちを裏切り、見捨てます。たとえこころは望み続けても。そして、人はその願望を静めることを学ばなければなりません」と述べておられます。

今年のメッセージでは、しかし、「聖書が教えているように、長寿は祝福であり、老人は疎まれる存在ではなく、いのちを豊かに与えてくださる神のいつくしみの生きたしるしです」と指摘されます。その上で教皇様は、力が全てを支配することを良しとするかのような現代社会にあって、高齢者の謙遜さと蓄えた知恵が必要だとして、こう言われます。「わたしたちが面倒を見てもらうということ自体が、ともに生きることは可能であるばかりか必要なことだと表明する、一つの手段です。」

教皇様はこれを、優しさによる革命と呼ばれています。力による革命ではなく、謙遜さと知恵による革命です。神の語りかけには積極的に応え、お互いには耳を傾け合いましょう。

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2022年7月17日 (日)

年間第16主日@東京カテドラル聖マリア大聖堂

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年間第16主日は、関口教会の午前10時の主日ミサを、司式させていただきました。

ミサの冒頭でもお願いをいたしましたが、今週、司教総会が行われます。通常は月曜からですが、明日月曜が休日のため、今回は火曜日から金曜日まで、全国16教区からすべての現役の司教が集まり、開催されます。また会期中には、シノドスに関連して、キリスト教諸教会の方々をお招きして、今回のシノドスに関しての分かち合いをともにし、また祈りの時を共有することも予定されています。

司教総会は、現在は2月と7月に一週間ずつ、そして12月に一日だけ開催されており、全国の司教が皆集まるのは、それほど回数があるわけではありません。聖霊が豊かに働き、司教総会を導いてくださるように、皆様のお祈りをお願いいたします。

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以下本日の関口教会でのミサ説教の原稿です。

年間第16主日C(配信ミサ説教)
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2022年7月17日

新しい出会いを歓迎し、あたたかくもてなす行動は、わたしたちの心を豊かにし、喜びと希望を生み出します。もてなしをする心は、命を生かす心です。

残念ながら、わたしたちがいま生きている世界では、特にこの二年間、その対極にある暴力的な行動が支配的になっています。教皇様ご自身が、すでに第三次世界大戦が始まっているとまで言われたウクライナを巡る戦争状態は、世界中を巻き込み、それに触発されて、暴力的解決を良しとするような言動すら、当たり前のように耳にします。感染症の状況が続く中で、先の見えない不安のために、多くの人の心は守りの姿勢を強めていて、他者を排除する力へとつながってしまいました。社会にとって異質な存在を受け入れることよりも、排除することによって、安定を見出そうとするところに、喜びと希望を見出すことはできません。命を生かす道を見いだすことはできません。

この状況の中で、見知らぬ旅人をもてなす心の姿勢は、世界にまだ存在しているでしょうか。

日本でも、様々な状況の中で、命の危機に直面して助けを求めている人たちがおられます。戦争のように直接的な命への暴力がまん延するところでは、命を守るために具体的に避難生活を選択せざるを得ない人が多数おられます。神から与えられたこの共通の家に住んでいるわたしたちは、見知らぬ旅人をもてなす心の姿勢を持ち続けているでしょうか。

先日の安倍元総理に対する非道な襲撃事件もそうですし、数年前に発生した障害と共に生きる方々の命に対する暴力的犯罪もそうですが、自らの思いを実現するために、また身勝手で理不尽な理由のために、他者の命に暴力を振るうことは、命を賜物として与えてくださった神に対する攻撃であり、いのちの尊厳を守ろうとするわたしたちの信仰とは対極にある行動です。あらためて言うまでもなく、神からの賜物であるこの命は、その始まりから終わりまで徹底的に守られなくてはなりませんし、神の似姿としてのその尊厳は、常に尊重されなくてはなりません。

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創世記のアブラハムの物語は、神の人であったアブラハムが、旅人を迎え入れた話を記しています。そのもてなしの心は、アブラハムの神への信仰の反映であり、それがために神はその不思議な旅人たちを通じて自らの計画をアブラハムにあかされました。

このことをパウロはヘブライ人への手紙にこう記しています。(ヘブライ人13:1)

「兄弟としていつも愛し合いなさい。旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました」

またローマ人への手紙にもこう記してあります。(ローマ12:13)

「聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人を持てなすよう努めなさい」

使徒言行録の「人々は大変親切にしてくれた」(使徒言行録28・2)をテーマとして掲げた2020年のキリスト教一致祈祷週間を前に、教皇様は当時の一般謁見で次のように述べておられます。

「親愛なる皆さん、もてなす心は大切です。・・・もてなすこころは、一方的に親切を行う行為ではないのです。他の教派のキリスト者をもてなすとき、その人たちを、わたしたちに送られたたまものとして受け入れます。・・・なぜなら、その兄弟姉妹たちのうちに聖霊が種を蒔かれたものを受け取るからです。そして、それがわたしたちにとってのたまものとなります。聖霊はいたるところに、恵みの種を蒔かれるのです」

もてなしの心は、単に優しさの一方通行ではなくて、すでに神が播かれた聖霊の種の実りを、わたしたちは新しい出会いの中で受け取るのだと教皇様は指摘されています。

ルカ福音はよく知られているマリアとマルタの態度を対比させた物語を記しています。イエスを迎え入れたとき、マルタは忙しく立ち振る舞い、マリアはイエスの足元で話に聞き入っています。

手伝おうとしないマリアに業を煮やしたマルタが不平を漏らすとき、イエスは「マリアはよい方を選んだ」と断言します。これでは一生懸命になってもてなしをするマルタがかわいそうです。一体イエスの本意はどこにあるのでしょう。

イエスの本意を知る手がかりは、マルタが「せわしく立ち働いていた」という描写と、イエス自身の「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している」と言う言葉にあります。すなわちイエスは、もてなすために働くマルタを否定し、イエスの言葉を聞くことだけに集中するマリアを肯定しているのではなくて、多くのことに思い悩んで心を乱しているのか、はたまた神の心だけに集中しているのかの選択を迫っています。

そもそも話の冒頭で、イエスを迎え入れるのはマルタです。創世記でアブラハムが三人の旅人を無理にでもと迎え入れたように、マルタはイエスを家に迎え入れます。マルタのこの迎え入れるもてなしの態度がなければ、全ては始まりません。マルタがイエスを迎え入れていなければ、マリアはその足元でイエスの言葉に耳を傾けることもなかったことでしょう。

マルタのこの行動とアブラハムの行動は、わたしたちに、もてなしの心を持って他者を迎え入れる態度こそが、神との出会いの鍵であることを教えています。

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先日のカトリック新聞で(6月26日号)、麹町教会のウェルカム・テーブルのことが大きく紹介されていました。同様の取り組みをしている教会は他にもあると聞いています。多くの人を迎え入れる行動は、神との出会いの場をもたらします。キリストの弟子であるわたしたちに必要な基本的な生きる姿勢の一つは、この迎え入れる態度であって、それはわたしたちが人なつこくて優しいからではなくて、その態度と行動が、神との出会いの場を生み出すからに他なりません。

様々なことに心を奪われ、心を乱していたマルタは、思いの外激しい口調で、迎え入れた客であるはずのイエスに不平をぶつけます。そのときマルタの迎え入れる心はどこにあったのでしょうか。肝心のもてなす対象であるイエスに、苦情を言いつける態度は、どう見ても目的を取り違えた態度です。つまり、何のためにもてなしているのかを忘れて、もてなすことそれ自体が重要であるかのように勘違いをしてしまったのです。イエスは、正しくふさわしい目的に、心を集中させるようにと諭します。

教皇フランシスコは2019年7月21日のお告げの祈りでこの話を取り上げ、次のように述べています。「マリアの姿勢を褒めることで、イエスは、わたしたち一人ひとりに再びこういっておられるのではないでしょうか。『しなければならないことに翻弄されず、何よりもまず、主の声に耳を傾けなさい。そうすれば、あなたの人生に課されたことを、しっかり果たせるようになります』」。

わたしたちはこの世界に神との出会いの場を一つでも多く生み出すために様々なことに挑戦していきます。わたしたちの弟子としての福音宣教です。多くのことをしていたとしても、その目的は神と共にいることであり、他の人たちを神と共にいる場に招くことです。招く行動それ自体が大切なのではなくて、大切なのは神と共にいる場を生み出すことであります。目的をしっかりと心に留め、そのための手段を神聖化するような間違いを犯さないように、福音を告げるために神との出会いの場を一つでも多く作り上げていきましょう。

 

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2022年7月16日 (土)

週刊大司教第八十五回:年間第十六主日

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梅雨が明けたかと思ったら、まるで梅雨のような雨降りの毎日が続いています。

ウクライナでは戦争が続き、多くの命が暴力的に奪われ、危険にさらされる毎日が終わりません。日本でも、自らの思いを実行するために銃を持って元総理大臣の命を暴力的に奪う事件がありました。世界はまるで、命に対する暴力に支配されつつあるかのようです。私たち信仰者は、神からの賜物である命は、その始めから終わりまで、徹底的に守られ、その尊厳が尊重されなくてはならないと、あらためて強調したいと思います。


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今年も8月に入ると平和旬間となります。教区としての呼びかけも別途記しましたので、後ほど紹介しますが、司教協議会会長としても、平和旬間を迎えてのわたしの談話を公表しています。タイトルを教皇様の言葉から、「平和は可能です。平和は義務です」といたしました。こちらのリンクからご覧ください

ウクライナの戦争が続いているため、世界の関心はそちらに向けられています。これまでも世界では次から次へと悲劇的な出来事が発生し、しばしば世界の関心は移り変わり、忘れられてしまう出来事も少なくありません。

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東京教区にとっては、ミャンマーの教会は姉妹教会であり、長年にわたって支援を続けてきましたから、今こそ息の長い平和のための祈りを続けたいと思います。その一環として、7月9日の夜6時から、東京カテドラル聖マリア大聖堂で、ミャンマーの平和のための祈りの集いを行いました。府中教会のヴィンセント神父様(ミャンマー出身)と、教区のミャンマー委員会のレオ神父様を中心に、ミャンマー出身の方が集まってくださり、一緒に祈りをささげました。写真はその祈りの集いの様子です。

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東京教区の今年の平和旬間は、わたしたちの兄弟姉妹の苦しみを忘れないという姿勢を明確にするために、あらためてミャンマーの平和のための祈りを中心にした、平和のために祈る時にしたいと思います。

以下、本日午後6時配信の、週刊大司教第85回、年間第16主日のメッセージ原稿です

年間第16主日C(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第85回
2022年7月17日

ルカ福音はよく知られているマリアとマルタの態度を対比させた物語を記しています。イエスを迎え入れたとき、マルタは忙しく立ち振る舞い、マリアはイエスの足元で話に聞き入っています。

手伝おうとしないマリアに業を煮やしたマルタが不平を漏らすとき、イエスは「マリアはよい方を選んだ」と断言します。これでは一生懸命になってもてなしをするマルタがかわいそうです。一体イエスの本意はどこにあるのでしょう。

イエスの本意を知る手がかりは、マルタが「せわしく立ち働いていた」という描写と、イエス自身の「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している」と言う言葉にあります。すなわちイエスは、もてなすために働くマルタを否定し、イエスの言葉を聞くことだけに集中するマリアを肯定しているのではなくて、多くのことに思い悩んで心を乱しているのか、神の心だけに集中しているのかの選択を迫っています。

そもそも話の冒頭で、イエスを迎え入れるのはマルタです。創世記でアブラハムが三人の旅人を無理にでもと迎え入れたように、マルタはイエスを家に迎え入れます。マルタのこの迎え入れる態度がなければ、全ては始まりません。マルタがイエスを迎え入れていなければ、マリアはその足元でイエスの言葉に耳を傾けることもなかったことでしょう。

マルタのこの行動とアブラハムの行動は、わたしたちに、迎え入れる態度こそが、神との出会いの鍵であることを教えています。

先日のカトリック新聞で(6月26日号)、麹町教会のウェルカム・テーブルのことが大きく紹介されていました。同様の取り組みをしている教会は他にもあると聞いています。多くの人を迎え入れる行動は、神との出会いの場をもたらします。キリストの弟子であるわたしたちに必要な基本的な生きる姿勢の一つは、この迎え入れる態度であって、それはわたしたちが人なつこくて優しいからではなくて、その態度と行動が、神との出会いの場を生み出すからに他なりません。

様々なことに心を奪われ、心を乱していたマルタは、思いの外激しい口調で、迎え入れた客であるはずのイエスに不平をぶつけます。そのときマルタの迎え入れる心はどこにあったのでしょうか。肝心のもてなす対象であるイエスに、苦情を言いつける態度は、どう見ても目的を取り違えた態度です。つまり、何のためにもてなしているのかを忘れて、もてなすことそれ自体が重要であるかのように勘違いをしてしまったのです。イエスは、正しくふさわしい目的に、心を集中させるようにと諭します。

教皇フランシスコは2019年7月21日のお告げの祈りでこの話を取り上げ、次のように述べています。「マリアの姿勢を褒めることで、イエスは、わたしたち一人ひとりに再びこういっておられるのではないでしょうか。『しなければならないことに翻弄されず、何よりもまず、主の声に耳を傾けなさい。そうすれば、あなたの人生に課されたことを、しっかり果たせるようになります』」。

わたしたちはこの世界に神との出会いの場を一つでも多く生み出すために様々なことに挑戦していきます。わたしたちの弟子としての福音宣教です。多くのことをしていたとしても、その目的は神と共にいることであり、他の人たちを神と共にいる場に招くことです。招く行動それ自体が大切なのではなくて、大切なのは神と共にいる場を生み出すことであります。目的をしっかりと心に留め、そのための手段を神聖化するような間違いを犯さないようにしたいと思います。

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2022年7月13日 (水)

歴代教区大司教追悼ミサ@築地教会

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築地教会は、かつて関口にカテドラルが移る前、東京大司教区の初代のカテドラルでした。毎年この時期、夏の前に、8名の歴代教区大司教の追悼と感謝のミサを築地教会で捧げることにしていますが、今年は7月10日の主日9時半にささげられました。

日本の教会は「1876年5月22日、日本使徒座代理区は日本北緯使徒座代理区、日本南緯使徒座代理区の2つに分けられた。日本北緯使徒座代理区は横浜(翌年から東京)に代理区長館を置き、北海道、東北、関東および中部の各地方を管轄区域とした」と中央協議会のホームページに記されています。この北緯使徒座代理区の代理区長オズーフ司教は、翌1877年に代理区長館を東京の築地に移しました。この時から、いわゆる築地のカテドラルの歴史が始まります。

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その後1891年に東京は大司教区となり、オズーフ大司教が築地をカテドラルと定めました。1920年、レイ大司教の時にカテドラルは築地から関口に移され、その3年後、1923年の関東大震災で初代の聖堂は失われました。

1927年に現在の聖堂が完成。太平洋戦争末期の東京大空襲の時も、お隣の聖路加国際病院とともに焼失を免れ、現在に至っています。なお聖堂は東京都の歴史的建造物に指定されていますが、数年前に耐震補強工事を行い、内装も新たにされています。

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現在の主任司祭はコロンバン会のレオ・シューマカ神父様。この日は、兼任する潮見教会でのミサのためお出かけで、築地のミサはわたしと秘書のオディロン神父でささげました。

以下、当日の説教の録音から起こした内容を手直しした原稿です。

東京大司教区歴代教区長追悼ミサ
築地教会
2022年7月10日

ミサの冒頭でも申し上げましたけれども、毎年、東京教区の歴代の大司教様がたの永遠の安息を築地教会で一緒に祈り、そして現在の東京教区の礎を築き、歴史を刻んでこられた歴代の大司教様がたのその功績に感謝し、お働きに報いがありますようにと、この毎年のミサの中で祈りを続けたいと思います。

わたしたちはこの東京で、そしてこの日本で福音を述べ伝えてきていますが、伝えようとしている福音は、なかなか多くの人の心には届かない。そういう現実に直面し続けています。

初期のフランスから来られた宣教師の方々もそうでしたでしょうし、そのあと日本人司祭はもちろん、いろんな国からの宣教師の方々が来られましたが、みな同じように、どうしたら多くの日本の方々の心にイエス・キリストの福音を伝えることができるか、試行錯誤を重ねてきました。そして現代社会では、日本人だけに留まらず、この日本という国で一緒に生活をしているすべての人に、どうやったらイエス・キリストの福音を伝えることができるのだろうかということを、どうしても深く考えざるを得ません。

伝えていこう、一人でも多くの人にこの福音を伝えていこう。そういう気持ちが常にないといけない。しかし、社会全体が少子高齢化しているのが現実です。それは教会だけでなく、一般の社会的な組織でも、後継者不足などで組織の縮小傾向にあるんですね。昔若かった人は歳をとり高齢化し、若い人の人口は少ないですから、当然新たに入ってくる人が少ない。そういう現実に直面するとどうしても、今ある組織をどうやったら守ることが出来るんだろうということに集中してしまいがちです。もちろんそれは当然だと思います。

でも、そちらの方ばかり、あえて後ろという言い方が合っているのかはわかりませんけれども、どちらかというと後ろを見てしまうような姿勢であると、時の流れに合わせて前進はしているけれども、どうしてもそれはゆっくりな前進になってしまう。やはり前を向いて、福音を告げ知らせるんだという積極的な思いがなければ、しっかりと一歩一歩を前に進めていくことができないのです。

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この歴代の大司教様がたは、それぞれの時代に、大きな困難に直面しながらも後ろを振り返ることなく、前に向かってしっかりと、歩みを続けて来られた方たちです。今の時代からは考えられないようなご苦労が、明治の再宣教が始まった時代にはあったと思うんですね。その頃に外国からやって来て、この日本で生活をしていくということ自体が、今からでは考えられない大きな挑戦であったはずです。その中で、何が何でも福音のために前進するんだという思いが、今に繋がる、日本の教会の歴史を生み出してきたのだと思います。

ですから、この宣教師の方々、そしてそれを率いた歴代教区長の方々の、その前向きな福音宣教への姿勢を思い起こしながら、今の時代にあってわたしたちも、前向きに福音を告げ知らせるため前進を続けることを忘れずにいたいと思います。

そういう中で金曜日に、元総理大臣の安部晋三氏が、選挙の応援演説中に暴漢に銃撃されていのちを落されるという、非常にショッキングな事件が起きました。賜物であるいのちへの暴力は、神への挑戦です。決してゆるされることではありません。

ご存じのように、政治家としての安倍晋三氏と日本の司教団は、様々な課題で考え方が対極にあり、合意するところはあまりありませんでした。たとえば核兵器廃絶、死刑の問題、憲法の問題など、たぶん目指すゴールは同じなのでしょうが、選択した道は異なると言うことなのだろうと思います。

しかし、その安倍首相が教皇様を日本に招待しようと、積極的に、また長年にわたって尽力してくださったのは確かであり、教皇訪日に関して元首相の功績は非常に大きいものがあったと思います。その意味で、安倍元首相のお働きには感謝しています。教皇訪日の際にも、教皇様と直接会談をされ、核兵器廃絶や平和の確立、環境問題について教皇様と意見を交わされました。

もちろん、そういった課題においても、教皇様と元首相は、目指すところは同じでも、選択する道は異なったと思います。

ただ、個人的な安部元首相への思いとは別に、そもそも暴力をもって人間のいのちを奪い、それによって自分の思いを成し遂げようとすることを、信仰者はゆるすことはできませんし、またどのような宗教であっても、それをゆるしてはならないと思います。あらためて安倍元首相の安息を祈ります。

残念なことに、報道を耳にする限りでは、安倍元首相銃撃事件の犯人の男性は、宗教を理由に挙げているようです。

真の宗教は、人のいのちを奪うことによって何かを成し遂げようとすることではなく、人のいのちを生かすことによって、希望を生み出すことを目的としているのだということを、あらためて強調しなければならないと思います。特に、この2,30年ほどの間、特に21世紀に入ってから顕著ですが、宗教を口実にして人のいのちを奪うという行動が、日本でも、そして世界各地でも、頻発し悲劇を生み出しています。

白柳枢機卿様も理事長を務められたことがありその活動に深く関わられてきた、世界宗教者平和会議という組織があります。この組織には、カトリックも、キリスト教の様々な宗派も、仏教もイスラム教も、諸々様々な宗教の人たちがそこに加わって、世界で平和を求める運動を続けてきているんですね。宗教を口実にして人のいのちを奪うということは決してゆるされないのです。

過去を振り返ってみれば、確かに歴史の中で、宗教を口実とし宗教を理由とし、人のいのちを奪うことがありました。それを深く反省し、そしてその反省の上に立って、わたしたちは信仰をもって生きるということはいのちを生かすことであり、そこから希望を生み出すためである。そのために信仰があるのだと、宗教があるのだということを、世界に呼び掛けていく。そういう活動が、この世界宗教者平和会議という存在であります。

わたしたちは今だからこそ、わたしたちが信じている宗教は、人のいのちを生かす信仰であって、人のいのちを見捨て、奪う信仰ではないということを、あらためて強調しなければならないと思います。

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今日の福音の中に、隣人愛の模範として「善きサマリア人」の話が記されています。
レビ人と祭司は、自分の仲間のユダヤ人を見捨て、自分の都合のために道の反対側を通って行ったと記されています。レビ人もそして祭司も、宗教の都合を理由にして、つまり自分の都合を優先させることによって、いのちの危機に瀕している仲間を見捨てていった。いのちを排除していった。にも拘らず、様々な恩讐を乗り越えてサマリア人は、自分と敵対するユダヤ人に救いの手を差し伸べている。時間を使い、お金を使い、彼のいのちを助けようとした。

信仰は人を助け、いのちを生かし、希望を生み出すものでなければならない、それが隣人愛の根本だと思います。

隣人愛は決して、優しくなりましょうなんていう生やさしい呼び掛けではないんです。隣人愛は、みんなで優しくしましょう、互いに優しくし合いましょうという、感情的な呼び掛けではないのです。それは、わたしたちがどう生きるのか、わたしたちは何を信じて生きるのかという決断を求める教えです。

わたしたちは、人のいのちを奪ったり、人のいのちを排除したり、人のいのちの希望を奪ったり絶望を与えたりする存在ではなくて、人のいのちを生かし、助け、そしてそこから希望を生み出す、そういう生き方が求められているんだと。

だからイエスは全身全霊をもって、心を尽くし精神を尽くし、すべてを尽くして、神に従いなさい、神を愛しなさい、隣人を愛しなさいと。全身全霊を尽くして隣人を愛せよということを、教えられています。

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今日、あらためてこのイエスの言葉に耳を傾けながら、信仰を生きるということを考えましょう。現代社会の中で具体的にどうしていったらいいのか。わたしたちが信仰を生きることで、真摯に生きることで、それを多くの人たちに証ししていくことができます。福音宣教に繋がっていく、この信仰を生きるということをどうしたらいいのか、あらためて考えてみたいと思います。

 

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2022年7月 9日 (土)

週間大司教第八十四回:年間第十五主日

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安倍元首相が銃撃され亡くなられたとのニュースを聞き、驚きと共に悲しみが湧き上がっています。安倍元首相の永遠の安息をお祈りいたします。

命に対する暴力を働くことによって、自らの思いを遂げようとすることは、命を創造された神への挑戦です。神が賜物として命を与えられたと信じるキリスト者にとって、命はその始めから終わりまでその尊厳と共に守られなくてはならない賜物です。

今回の暴力的犯罪行為の動機は、これから解明されるのでしょうが、多くの人が自由のうちに命を十全に生きようとするとき、そこに立場の違いや考えの違い、生きる道の違いがあることは当然ですから、その違いを、力を持って、ましてや暴力を持って押さえ込むことは、誰にもゆるされません。暴力が支配する社会ではなく、互いへの思いやりや支え合いといった神のあわれみの心が支配する社会の実現を目指したいと思います。

本日午後6時より、東京カテドラル聖マリア大聖堂では、東京教区の姉妹教会であるミャンマーの兄弟姉妹の皆さんと共に、ミャンマーの平和のために祈る集いが開かれます。こちらも配信をされることになっています。軍事政権が暴力を持って人々の自由を圧迫し、いのちの尊厳をないがしろにしているミャンマーの現状に心を馳せ、平和を祈ります。また昨日の安部元総理襲撃という事件がありましたので、全ての暴力を否定し、神の正義が支配する社会の実現のために祈ります。これについては別途また報告します。

以下、本日午後6時配信の週間大司教第84回、年間第十五主日のメッセージ原稿です。

年間第15主日C(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第84回
2022年7月10日

ルカ福音書は、よく知られた「善きサマリア人」の話を伝えています。

律法の専門家のイエスに対する問いかけは、これだけのことをすればこれだけの報いがあるはずだという、例えば労働の対価としてそれに見合った報酬があるべきだというような意味合いで、正義の実現として正しい問いかけではあります。しかし、神と私との関係の中では、これだけすればこれだけ報いがあるはずだ、という論理は通用しません。なぜならば、神を信じるとは、「自分自身を神にゆだね、神が真理そのものであるため、神から啓示されたあらゆる真理に同意しながら、神ご自身に帰依すること」であって、それはつまり神からの一方的な働きかけに身を任せることに他ならないからです。(カテキズムの要約27)。

神を信じることは、レストランでメニューから選択したら食事が出てくるような類いのことではなくて、神に帰依しているのですから、主体である神が望まれるように生きることであります。人生の様々な出会いの中で、神がどのように行動することをわたしたちに望まれるのかが問題であって、事前に用意されたメニューを選択することでは決してありません。

見事な回答をした律法の専門家に対して、イエスは、「よく知っているではないか。それではその神の望みを具体的に生きれば良い」と告げます。しかし律法の専門家は、事前に用意されたメニューにこだわります。隣人の範囲は一体どこまでなのかと問いかけています。

善きサマリア人の話は、神が求められているいつくしみのおもいに心を動かされることなく、自らが事前に選択した道をひたすらに歩む二人の姿と、神のいつくしみの心に動かされて、それを具体的に生きようとしたサマリア人の対比を描きます。

教皇ヨハネパウロ二世は回勅「いつくしみ深い神」に、神のいつくしみについて記しています。

「いつくしみの本当の本来の意味は、ただ見ていること、どんなに深く同情を込めてであっても、・・・悪いことを見つめていることではなく、・・・世界と人間の中に実際にある悪いことからよいものを見出し、引き出し、促進するとき(6)」に表れます。

わたしたちに求められているあわれみ深い行動は、単にわたしたち自身の優しい性格によっているのではなくて、それは神ご自身の思い、張り裂けんばかりに揺さぶられている神のあわれみの心に、わたしたちが自分の心をあわせることによって促される行動です。

神ご自身は、ただ傍観者としてあわれみの心を持ってみているのではなく、自ら行動されました。自ら人となり、十字架での受難と死を通じて、ご自分のいつくしみを目に見える形で生きられました。そこに、最初から用意されていたメニューはありません。

いつくしみそのものである神は、その愛に基づいて、信じるものが隣人への愛に生きるように促されます。一人ひとりの信仰者が促されると共に、教会は共同体としてその責務を担っています。

教皇ベネディクト16世は、回勅「神は愛」に、「教会の全ての活動は、人間の完全な善を求める愛を表します。・・・愛とは、物質的な事柄も含めた、人間の苦しみと必要にこたえるために教会が行う奉仕を意味します」と記して、教会全体が組織的に神の愛を具体化する行動を取るように促します。

わたしたち一人ひとりの生活での出会いを通じて、また教会の組織を通じて、神のいつくしみの心のおもいを身に受けて、具体化して参りましょう。

 

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2022年7月 6日 (水)

大分教区、森山信三司教様誕生

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大分教区の新しい教区司教に任命されていた森山信三司教様の司教叙階式は、7月3日の午後に、大分駅前のホールを会場に、無事執り行われました。司教叙階式の主司式は、管区大司教である長崎の中村大司教様。中村大司教様と森山司教様は、神学院の同級生です。日本の全ての現役司教と、教皇大使、さらには引退されている高見大司教様と宮原司教様も参列され、感染対策で会場は定員の半分程度の600名ほどでしたが、オンラインで全国の多くの方が参加されたと思います。

信徒数もそれほど多くない大分教区ですが、司祭、修道者、信徒の方がよく準備され、心からの喜びを感じる素晴らしい叙階式でした。準備された皆さんには、本当にありがとうございます。そして心からおめでとうございます。

2020年12月に浜口末男司教様が帰天されてから空位であったなか、二度目となる教区管理者を務めていた田口孝志神父様が病に倒れ、事務局長の山下神父様がその後任を務めておられました。新しい牧者をいただいて、力強く歩みを再開する大分教区の上に、神様の豊かな祝福があるように祈ります。

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大分にはたくさんの殉教の地がありますが、大分空港がある国東半島には、福者ペトロ岐部の出身地が存在します。空港からさらに半島の先へ進んで車で四十分ほど。国東市の岐部に記念公園と小さな聖堂がありました。ここには舟越保武作のペトロ岐部の像が建てられています。

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司教叙階式の当日、東京からの到着便が午前中早い時間だったので、教区職員の方に連れられて、同じ便で出かけた山野内司教様と一緒に、ショットした巡礼ができました。この地に誕生したペトロ岐部は、歩いて聖地に到達し、さらにローマに到達して司祭になったというのですから、そのことだけでも、信仰の力に驚きます。

殉教者が信仰の故に流した血潮は、教会の礎です。信仰の先達である日本の殉教者が播いた豊かな信仰の種を受け継いだわたしたち現代の教会が、殉教者の信仰に倣い、力強く福音をあかしできるように、その取り次ぎを祈り続けましょう。

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以下、大分教区が公開している、当日の叙階式の録画ビデオです。

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2022年7月 2日 (土)

週刊大司教第八十三回:年間第十四主日

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あっという間に梅雨が明け、6月末から猛暑となりました。どうか熱中症にはお気をつけください。

上の写真は、6月27日月曜日に東京カテドラル聖マリア大聖堂で行われた、今年の司祭叙階ダイアモンド、金祝、銀祝のお祝いミサ後に撮影した参加司祭の集合写真です。記録のため、一瞬マスクを外しました。教皇大使も参加してくださいました。お祝いを迎えられた神父様方に、心からお慶びを申しあげます。

明日7月3日の午後2時から、大分教区の新しい司教、スルピス森山信三師の司教叙階式が執り行われます。森山司教様は1959年1月生まれですから、わたしとほぼ同い年です。森山司教様と大分教区のために、どうぞお祈りください。わたしも明日の朝早く、大分に向かい、叙階式に参加する予定です。なお、こちらのリンク先の大分教区ホームページに、司教叙階式の映像配信についての解説が掲載されています。明日、日曜日の午後2時です。

以下、本日午後6時配信の週刊大司教第八十三回、年間第十四主日のメッセージ原稿です。

年間第14主日C(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第83回
2022年7月3日

パウロはガラテヤの教会への手紙に、「主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません」と記しています。同じパウロは十字架について、コリントの教会への手紙には、次のように記していました。

「キリストがわたしを遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです。(1コリント1章17節)」

福音を告げるものが「言葉の知恵に」頼っていては「キリストの十字架がむなしいもの」となると告げるパウロは、その十字架こそが、信仰者の唯一の誇りであるのだと強調しています。

信仰者の唯一の誇りである十字架とは一体なんでしょうか。それは、神ご自身が自ら創造されたいのちに対して、ご自分のいつくしみの心を、ご自身をいけにえとしてささげるという目に見える具体的な行動としてあらわした、主の愛の心そのものです。

ルカ福音には、イエスが72人を任命し、「ご自分が行くつもりの全ての町や村に2人ずつ遣わされた」と記されていました。福音を告げるようにと遣わされた宣教者は、神の支配の確立である平和を告げしらせ、その告知は病人のいやしという具体的な行動を伴っていたことが記されています。同時に福音を告げるようにと遣わされることはたやすいことではなくて、「狼の群れに小羊を送り込むようなもの」と主ご自身が言われるように、いのちの危機をも意味する数多の困難を伴う生き方です。まさしく主ご自身が十字架を持って具体的にあかしをされたように、福音を告げしらせることも命懸けの具体的な愛のあかしの行動であります。

信仰者は、すべからく福音を告げるようにと派遣されています。わたしたちは全て、福音宣教者であります。イエスは「ご自分が行くつもりの全ての町や村」へと弟子たちを派遣されました。その町や村は一体どこでしょうか。もちろんすべてのいのちを創造され、この世界を創造された御父にとって、そのいつくしみはこの世界のすべてのいのちに対して向けられています。ですから、するべき事は山積しているのです。福音が伝わっていない町や村は、わたしたちの周囲を見ただけでも、いくらでもあるではありませんか。ですから、「収穫は多いが、働き手は少ない」とイエスは言われます。いま、その働き手が必要です。

働き手は誰でしょうか。誰か特別な人が司祭や修道者になれば、それで済むことなのでしょうか。召命を語ることは、ひとり司祭・修道者の召命を語ることにとどまるのではなく、すべてのキリスト者に対する召命を語ることでもあります。司祭・修道者の召命があるように、信徒の召命もあることは、幾たびも繰り返されてきたところです。

第二バチカン公会議の教会憲章に、こう記されています。
「信徒に固有の召命は、現世的なことがらに従事し、それらを神に従って秩序づけながら神の国を探し求めることである。自分自身の務めを果たしながら、福音の精神に導かれて、世の聖化のために、あたかもパン種のように内部から働きかけるためである」(31)

弟子を2人ずつ遣わされたイエスは、ともに歩む教会の姿をそこに明示します。互いに耳を傾けあい、互いに支え合い、互いに道を歩み続ける2人の弟子は、今共に道を歩む教会に変わろうとしているわたしたちへの模範です。福音をあかしする人生をともに歩みましょう。

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