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2022年7月17日 (日)

年間第16主日@東京カテドラル聖マリア大聖堂

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年間第16主日は、関口教会の午前10時の主日ミサを、司式させていただきました。

ミサの冒頭でもお願いをいたしましたが、今週、司教総会が行われます。通常は月曜からですが、明日月曜が休日のため、今回は火曜日から金曜日まで、全国16教区からすべての現役の司教が集まり、開催されます。また会期中には、シノドスに関連して、キリスト教諸教会の方々をお招きして、今回のシノドスに関しての分かち合いをともにし、また祈りの時を共有することも予定されています。

司教総会は、現在は2月と7月に一週間ずつ、そして12月に一日だけ開催されており、全国の司教が皆集まるのは、それほど回数があるわけではありません。聖霊が豊かに働き、司教総会を導いてくださるように、皆様のお祈りをお願いいたします。

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以下本日の関口教会でのミサ説教の原稿です。

年間第16主日C(配信ミサ説教)
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2022年7月17日

新しい出会いを歓迎し、あたたかくもてなす行動は、わたしたちの心を豊かにし、喜びと希望を生み出します。もてなしをする心は、命を生かす心です。

残念ながら、わたしたちがいま生きている世界では、特にこの二年間、その対極にある暴力的な行動が支配的になっています。教皇様ご自身が、すでに第三次世界大戦が始まっているとまで言われたウクライナを巡る戦争状態は、世界中を巻き込み、それに触発されて、暴力的解決を良しとするような言動すら、当たり前のように耳にします。感染症の状況が続く中で、先の見えない不安のために、多くの人の心は守りの姿勢を強めていて、他者を排除する力へとつながってしまいました。社会にとって異質な存在を受け入れることよりも、排除することによって、安定を見出そうとするところに、喜びと希望を見出すことはできません。命を生かす道を見いだすことはできません。

この状況の中で、見知らぬ旅人をもてなす心の姿勢は、世界にまだ存在しているでしょうか。

日本でも、様々な状況の中で、命の危機に直面して助けを求めている人たちがおられます。戦争のように直接的な命への暴力がまん延するところでは、命を守るために具体的に避難生活を選択せざるを得ない人が多数おられます。神から与えられたこの共通の家に住んでいるわたしたちは、見知らぬ旅人をもてなす心の姿勢を持ち続けているでしょうか。

先日の安倍元総理に対する非道な襲撃事件もそうですし、数年前に発生した障害と共に生きる方々の命に対する暴力的犯罪もそうですが、自らの思いを実現するために、また身勝手で理不尽な理由のために、他者の命に暴力を振るうことは、命を賜物として与えてくださった神に対する攻撃であり、いのちの尊厳を守ろうとするわたしたちの信仰とは対極にある行動です。あらためて言うまでもなく、神からの賜物であるこの命は、その始まりから終わりまで徹底的に守られなくてはなりませんし、神の似姿としてのその尊厳は、常に尊重されなくてはなりません。

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創世記のアブラハムの物語は、神の人であったアブラハムが、旅人を迎え入れた話を記しています。そのもてなしの心は、アブラハムの神への信仰の反映であり、それがために神はその不思議な旅人たちを通じて自らの計画をアブラハムにあかされました。

このことをパウロはヘブライ人への手紙にこう記しています。(ヘブライ人13:1)

「兄弟としていつも愛し合いなさい。旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました」

またローマ人への手紙にもこう記してあります。(ローマ12:13)

「聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人を持てなすよう努めなさい」

使徒言行録の「人々は大変親切にしてくれた」(使徒言行録28・2)をテーマとして掲げた2020年のキリスト教一致祈祷週間を前に、教皇様は当時の一般謁見で次のように述べておられます。

「親愛なる皆さん、もてなす心は大切です。・・・もてなすこころは、一方的に親切を行う行為ではないのです。他の教派のキリスト者をもてなすとき、その人たちを、わたしたちに送られたたまものとして受け入れます。・・・なぜなら、その兄弟姉妹たちのうちに聖霊が種を蒔かれたものを受け取るからです。そして、それがわたしたちにとってのたまものとなります。聖霊はいたるところに、恵みの種を蒔かれるのです」

もてなしの心は、単に優しさの一方通行ではなくて、すでに神が播かれた聖霊の種の実りを、わたしたちは新しい出会いの中で受け取るのだと教皇様は指摘されています。

ルカ福音はよく知られているマリアとマルタの態度を対比させた物語を記しています。イエスを迎え入れたとき、マルタは忙しく立ち振る舞い、マリアはイエスの足元で話に聞き入っています。

手伝おうとしないマリアに業を煮やしたマルタが不平を漏らすとき、イエスは「マリアはよい方を選んだ」と断言します。これでは一生懸命になってもてなしをするマルタがかわいそうです。一体イエスの本意はどこにあるのでしょう。

イエスの本意を知る手がかりは、マルタが「せわしく立ち働いていた」という描写と、イエス自身の「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している」と言う言葉にあります。すなわちイエスは、もてなすために働くマルタを否定し、イエスの言葉を聞くことだけに集中するマリアを肯定しているのではなくて、多くのことに思い悩んで心を乱しているのか、はたまた神の心だけに集中しているのかの選択を迫っています。

そもそも話の冒頭で、イエスを迎え入れるのはマルタです。創世記でアブラハムが三人の旅人を無理にでもと迎え入れたように、マルタはイエスを家に迎え入れます。マルタのこの迎え入れるもてなしの態度がなければ、全ては始まりません。マルタがイエスを迎え入れていなければ、マリアはその足元でイエスの言葉に耳を傾けることもなかったことでしょう。

マルタのこの行動とアブラハムの行動は、わたしたちに、もてなしの心を持って他者を迎え入れる態度こそが、神との出会いの鍵であることを教えています。

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先日のカトリック新聞で(6月26日号)、麹町教会のウェルカム・テーブルのことが大きく紹介されていました。同様の取り組みをしている教会は他にもあると聞いています。多くの人を迎え入れる行動は、神との出会いの場をもたらします。キリストの弟子であるわたしたちに必要な基本的な生きる姿勢の一つは、この迎え入れる態度であって、それはわたしたちが人なつこくて優しいからではなくて、その態度と行動が、神との出会いの場を生み出すからに他なりません。

様々なことに心を奪われ、心を乱していたマルタは、思いの外激しい口調で、迎え入れた客であるはずのイエスに不平をぶつけます。そのときマルタの迎え入れる心はどこにあったのでしょうか。肝心のもてなす対象であるイエスに、苦情を言いつける態度は、どう見ても目的を取り違えた態度です。つまり、何のためにもてなしているのかを忘れて、もてなすことそれ自体が重要であるかのように勘違いをしてしまったのです。イエスは、正しくふさわしい目的に、心を集中させるようにと諭します。

教皇フランシスコは2019年7月21日のお告げの祈りでこの話を取り上げ、次のように述べています。「マリアの姿勢を褒めることで、イエスは、わたしたち一人ひとりに再びこういっておられるのではないでしょうか。『しなければならないことに翻弄されず、何よりもまず、主の声に耳を傾けなさい。そうすれば、あなたの人生に課されたことを、しっかり果たせるようになります』」。

わたしたちはこの世界に神との出会いの場を一つでも多く生み出すために様々なことに挑戦していきます。わたしたちの弟子としての福音宣教です。多くのことをしていたとしても、その目的は神と共にいることであり、他の人たちを神と共にいる場に招くことです。招く行動それ自体が大切なのではなくて、大切なのは神と共にいる場を生み出すことであります。目的をしっかりと心に留め、そのための手段を神聖化するような間違いを犯さないように、福音を告げるために神との出会いの場を一つでも多く作り上げていきましょう。

 

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