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2022年7月13日 (水)

歴代教区大司教追悼ミサ@築地教会

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築地教会は、かつて関口にカテドラルが移る前、東京大司教区の初代のカテドラルでした。毎年この時期、夏の前に、8名の歴代教区大司教の追悼と感謝のミサを築地教会で捧げることにしていますが、今年は7月10日の主日9時半にささげられました。

日本の教会は「1876年5月22日、日本使徒座代理区は日本北緯使徒座代理区、日本南緯使徒座代理区の2つに分けられた。日本北緯使徒座代理区は横浜(翌年から東京)に代理区長館を置き、北海道、東北、関東および中部の各地方を管轄区域とした」と中央協議会のホームページに記されています。この北緯使徒座代理区の代理区長オズーフ司教は、翌1877年に代理区長館を東京の築地に移しました。この時から、いわゆる築地のカテドラルの歴史が始まります。

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その後1891年に東京は大司教区となり、オズーフ大司教が築地をカテドラルと定めました。1920年、レイ大司教の時にカテドラルは築地から関口に移され、その3年後、1923年の関東大震災で初代の聖堂は失われました。

1927年に現在の聖堂が完成。太平洋戦争末期の東京大空襲の時も、お隣の聖路加国際病院とともに焼失を免れ、現在に至っています。なお聖堂は東京都の歴史的建造物に指定されていますが、数年前に耐震補強工事を行い、内装も新たにされています。

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現在の主任司祭はコロンバン会のレオ・シューマカ神父様。この日は、兼任する潮見教会でのミサのためお出かけで、築地のミサはわたしと秘書のオディロン神父でささげました。

以下、当日の説教の録音から起こした内容を手直しした原稿です。

東京大司教区歴代教区長追悼ミサ
築地教会
2022年7月10日

ミサの冒頭でも申し上げましたけれども、毎年、東京教区の歴代の大司教様がたの永遠の安息を築地教会で一緒に祈り、そして現在の東京教区の礎を築き、歴史を刻んでこられた歴代の大司教様がたのその功績に感謝し、お働きに報いがありますようにと、この毎年のミサの中で祈りを続けたいと思います。

わたしたちはこの東京で、そしてこの日本で福音を述べ伝えてきていますが、伝えようとしている福音は、なかなか多くの人の心には届かない。そういう現実に直面し続けています。

初期のフランスから来られた宣教師の方々もそうでしたでしょうし、そのあと日本人司祭はもちろん、いろんな国からの宣教師の方々が来られましたが、みな同じように、どうしたら多くの日本の方々の心にイエス・キリストの福音を伝えることができるか、試行錯誤を重ねてきました。そして現代社会では、日本人だけに留まらず、この日本という国で一緒に生活をしているすべての人に、どうやったらイエス・キリストの福音を伝えることができるのだろうかということを、どうしても深く考えざるを得ません。

伝えていこう、一人でも多くの人にこの福音を伝えていこう。そういう気持ちが常にないといけない。しかし、社会全体が少子高齢化しているのが現実です。それは教会だけでなく、一般の社会的な組織でも、後継者不足などで組織の縮小傾向にあるんですね。昔若かった人は歳をとり高齢化し、若い人の人口は少ないですから、当然新たに入ってくる人が少ない。そういう現実に直面するとどうしても、今ある組織をどうやったら守ることが出来るんだろうということに集中してしまいがちです。もちろんそれは当然だと思います。

でも、そちらの方ばかり、あえて後ろという言い方が合っているのかはわかりませんけれども、どちらかというと後ろを見てしまうような姿勢であると、時の流れに合わせて前進はしているけれども、どうしてもそれはゆっくりな前進になってしまう。やはり前を向いて、福音を告げ知らせるんだという積極的な思いがなければ、しっかりと一歩一歩を前に進めていくことができないのです。

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この歴代の大司教様がたは、それぞれの時代に、大きな困難に直面しながらも後ろを振り返ることなく、前に向かってしっかりと、歩みを続けて来られた方たちです。今の時代からは考えられないようなご苦労が、明治の再宣教が始まった時代にはあったと思うんですね。その頃に外国からやって来て、この日本で生活をしていくということ自体が、今からでは考えられない大きな挑戦であったはずです。その中で、何が何でも福音のために前進するんだという思いが、今に繋がる、日本の教会の歴史を生み出してきたのだと思います。

ですから、この宣教師の方々、そしてそれを率いた歴代教区長の方々の、その前向きな福音宣教への姿勢を思い起こしながら、今の時代にあってわたしたちも、前向きに福音を告げ知らせるため前進を続けることを忘れずにいたいと思います。

そういう中で金曜日に、元総理大臣の安部晋三氏が、選挙の応援演説中に暴漢に銃撃されていのちを落されるという、非常にショッキングな事件が起きました。賜物であるいのちへの暴力は、神への挑戦です。決してゆるされることではありません。

ご存じのように、政治家としての安倍晋三氏と日本の司教団は、様々な課題で考え方が対極にあり、合意するところはあまりありませんでした。たとえば核兵器廃絶、死刑の問題、憲法の問題など、たぶん目指すゴールは同じなのでしょうが、選択した道は異なると言うことなのだろうと思います。

しかし、その安倍首相が教皇様を日本に招待しようと、積極的に、また長年にわたって尽力してくださったのは確かであり、教皇訪日に関して元首相の功績は非常に大きいものがあったと思います。その意味で、安倍元首相のお働きには感謝しています。教皇訪日の際にも、教皇様と直接会談をされ、核兵器廃絶や平和の確立、環境問題について教皇様と意見を交わされました。

もちろん、そういった課題においても、教皇様と元首相は、目指すところは同じでも、選択する道は異なったと思います。

ただ、個人的な安部元首相への思いとは別に、そもそも暴力をもって人間のいのちを奪い、それによって自分の思いを成し遂げようとすることを、信仰者はゆるすことはできませんし、またどのような宗教であっても、それをゆるしてはならないと思います。あらためて安倍元首相の安息を祈ります。

残念なことに、報道を耳にする限りでは、安倍元首相銃撃事件の犯人の男性は、宗教を理由に挙げているようです。

真の宗教は、人のいのちを奪うことによって何かを成し遂げようとすることではなく、人のいのちを生かすことによって、希望を生み出すことを目的としているのだということを、あらためて強調しなければならないと思います。特に、この2,30年ほどの間、特に21世紀に入ってから顕著ですが、宗教を口実にして人のいのちを奪うという行動が、日本でも、そして世界各地でも、頻発し悲劇を生み出しています。

白柳枢機卿様も理事長を務められたことがありその活動に深く関わられてきた、世界宗教者平和会議という組織があります。この組織には、カトリックも、キリスト教の様々な宗派も、仏教もイスラム教も、諸々様々な宗教の人たちがそこに加わって、世界で平和を求める運動を続けてきているんですね。宗教を口実にして人のいのちを奪うということは決してゆるされないのです。

過去を振り返ってみれば、確かに歴史の中で、宗教を口実とし宗教を理由とし、人のいのちを奪うことがありました。それを深く反省し、そしてその反省の上に立って、わたしたちは信仰をもって生きるということはいのちを生かすことであり、そこから希望を生み出すためである。そのために信仰があるのだと、宗教があるのだということを、世界に呼び掛けていく。そういう活動が、この世界宗教者平和会議という存在であります。

わたしたちは今だからこそ、わたしたちが信じている宗教は、人のいのちを生かす信仰であって、人のいのちを見捨て、奪う信仰ではないということを、あらためて強調しなければならないと思います。

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今日の福音の中に、隣人愛の模範として「善きサマリア人」の話が記されています。
レビ人と祭司は、自分の仲間のユダヤ人を見捨て、自分の都合のために道の反対側を通って行ったと記されています。レビ人もそして祭司も、宗教の都合を理由にして、つまり自分の都合を優先させることによって、いのちの危機に瀕している仲間を見捨てていった。いのちを排除していった。にも拘らず、様々な恩讐を乗り越えてサマリア人は、自分と敵対するユダヤ人に救いの手を差し伸べている。時間を使い、お金を使い、彼のいのちを助けようとした。

信仰は人を助け、いのちを生かし、希望を生み出すものでなければならない、それが隣人愛の根本だと思います。

隣人愛は決して、優しくなりましょうなんていう生やさしい呼び掛けではないんです。隣人愛は、みんなで優しくしましょう、互いに優しくし合いましょうという、感情的な呼び掛けではないのです。それは、わたしたちがどう生きるのか、わたしたちは何を信じて生きるのかという決断を求める教えです。

わたしたちは、人のいのちを奪ったり、人のいのちを排除したり、人のいのちの希望を奪ったり絶望を与えたりする存在ではなくて、人のいのちを生かし、助け、そしてそこから希望を生み出す、そういう生き方が求められているんだと。

だからイエスは全身全霊をもって、心を尽くし精神を尽くし、すべてを尽くして、神に従いなさい、神を愛しなさい、隣人を愛しなさいと。全身全霊を尽くして隣人を愛せよということを、教えられています。

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今日、あらためてこのイエスの言葉に耳を傾けながら、信仰を生きるということを考えましょう。現代社会の中で具体的にどうしていったらいいのか。わたしたちが信仰を生きることで、真摯に生きることで、それを多くの人たちに証ししていくことができます。福音宣教に繋がっていく、この信仰を生きるということをどうしたらいいのか、あらためて考えてみたいと思います。

 

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