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2022年8月27日 (土)

週刊大司教第九十一回:年間第二十二主日

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8月も間もなく終わりに近づきました。毎日不安定な天気ですが、今年は残暑は長く続くでしょうか。

現在の感染状況はピークを越えたようにも思われますが、毎回「波」が押し寄せる度に新たな指摘が専門家からはあり、なかなか気が抜けない時間が続いています。これだけ多くの人が気をつけていても検査陽性になったり発症したりしていますので、教区内の司祭の感染も広がり、いくつかの小教区では、そのためにミサができなくなっているところもあります。できる限りお手伝いできる司祭を探してはいますが、それもなかなか難しい状況が続いています。いましばらくは、皆様ご理解のうえ、なんとか乗り越える努力を継続するようお願いいたします。

全国に目を向けると、わたし自身も五月末に感染しましたが、札幌、さいたま、名古屋の司教様方が検査陽性になったとの報告を受けています。幸いなことに症状は軽いと聞いています。このような状況の中ではできることは限られていますので、教区としては、基本を忠実に守って、教会活動を慎重に継続する道を選択しています。どうかこれまで続けてきた基本的な感染対策を今一度心に留め、教会の活動を続けてくださるようにお願いいたします。

以下、本日午後6時配信の週刊大司教第91回、年間第22主日メッセージの原稿です。

年間第22主日C(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第91回
2022年8月28日

「人間は、『余すことなく自分自身を与えない限り』、自己実現も成長もなく、充足も得られないように造られています」(「兄弟の皆さん」87)

教皇フランシスコは、回勅『兄弟の皆さん」にこう記しています。その上で教皇は、「いのちがあるのは、きずな、交わり、兄弟愛のあるところです。・・・自分は自分にのみ帰属し、孤島のように生きているのだとうぬぼれるなら、そこにいのちはありません。そうした姿勢には、死がはびこっています」と述べています。

ルカ福音は、「婚宴に招待されたら、上席についてはならない」というイエスの教えを記しています。人間関係において謙遜さが重要だとするこの話は、ここで終わっていたらマナーを教える話に留まったのかも知れません。しかしこのあとにルカ福音は、「宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい」と記しています。

宴席に招かれる人と招かれない人の対比は、ここで意図的に持ち出されているとしか思えません。それはこの話が、処世術やマナーを語っているのではなく、神の国に招かれるとは一体どういう意味であるのかを説き明かしているからに他なりません。

すなわち、上席に着こうとする人が象徴するのは、神の国に招かれるのは自分が勝ち得た権利の行使なのではなく、徹頭徹尾、神からの恵みでしかあり得ない事実であります。そして、すべてのいのちを神が愛おしく思われているからこそ、その招きからは、誰ひとりとして忘れ去られることはないと、その続きの話が示唆します。

その中にあって、天の国で豊かに報いを受けるためには、この社会の現実の中で、余すことなく自分自身を与え、互いのきずな、交わり、兄弟愛を深めなくてはならないことが示され、それに対してあたかも自分が勝ち得た権利の行使のように高慢に振る舞い、隣人への視点を失ったところにはいのちがないことが示されています。

現代社会の現実は、排除と排斥に軸足を置き、持てる者と持たない者との格差が広がり続け、持たない者はその存在さえ忘れ去られたと、教皇フランシスコはたびたび指摘してきました。

第二バチカン公会議の現代世界憲章は、「地上の富は万人のためにある」という原則を示します(69)。そこにはこう記されています。

「神は、地とそこにあるあらゆる物を、すべての人、すべての民の使用に供したのであり、したがって造られた富は、愛を伴う正義に導かれて、公正にすべての人に行き渡るはずのものである。・・・それゆえ人間は、富の使用に際して、自分が正当に所有している富も単に自分のものとしてだけでなく、共同のもの、すなわち富が自分だけでなく他人にも役立ちうると言う意味において共同のものであると考えなければならない」

教皇フランシスコはこれを受けて、「兄弟の皆さん」にこう記しています。

「人は皆、同じ尊厳をもって、この地球に生まれ・・・肌の色、宗教、能力、出生地、居住地、そのほか多くのことの違いを、重視したり、皆の権利を損なって一部の人の特権を正当化することに利用してはなりません(118)」。

神ご自身がそうされるのですから、わたしたちも主の僕として、誰も忘れることなく、すべての人を等しく神の国に招き入れるよう努めましょう。

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2022年8月26日 (金)

ウクライナの平和のための祈り@東京カテドラル

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8月24日はウクライナの独立記念日でした。またロシアによる軍事侵攻が始まって半年でもあります。まだまだ事態は混迷を深め、解決の糸口は見えてきません。国際社会に与えている影響にも大きいものがあります。しかし時間の経過と共に、大きな事件であっても忘れ去られることがしばしばあります。世界各地で、これまでも繰り返されてきました。大多数から忘れ去られた陰に、数多くの悲劇が取り残され、世界から希望を奪い続けてきたことを心に留めたいと思います。忘れないで祈り続けたいと思います。

忘れられることで、あたかも「解決」したかのように思われてきた悲劇は多々あります。

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東京在住のウクライナ正教会ポール・コロルク司祭からは、以前にも灰の水曜日に共に平和のために祈りたいとの呼びかけがありました。今回も独立記念日にあたって共に平和を祈りたいとの希望が寄せられ、8月24日午後4時から、東京カテドラル聖マリア大聖堂の地下聖堂において、平和のための祈りをともに捧げました。ポール司祭が香炉を振りながらウクライナ語で祈りを朗唱。わたしは日本語で、アシジの聖フランシスコの平和のための祈りを、皆さんと一緒に唱えました。

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直前の呼びかけでしたので、準備する時間も限られ、また広報も限定的でしたが、それでも30名近い方が、祈りのために集まってくださいました。

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また駐日ウクライナ大使、駐日ポーランド大使、また元駐ウクライナ日本大使の角さん(信徒)の三名が参加してくださいました。参加してくださった皆さん、本当にありがとうございました。

これからも忘れることなく、平和のために祈り続けたいと思います。

以下は東京教区が配信している、当日の模様のビデオです。

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2022年8月25日 (木)

大島教会訪問@伊豆大島


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伊豆大島には、教会共同体があります。東京教区の教会です。8月21日の主日に、ミサを捧げるために大島まで出かけてきました。

現在は司祭が常駐していないため、教区本部から月に一度、ミサをするために司祭が訪れています。東京港の竹芝ターミナルから高速船で1時間45分。大型船で5時間前後。それなりの距離です。今回は、行きは土曜日に高速船で、帰りは日曜に大型客船での旅でした。

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教区のホームページには、大島教会について、こう記されています。

「教会の始まりは、大島在住の信徒が土地を寄贈たことからです。そこに祈りの家、司祭館が建てられ、1962年に10月16日に献堂式が行なわれました。その後、東京教区だけでなく、横浜教区の熱海や伊東教会の司祭や、マリア会の松尾修道士などの協力のもとに、教会活動が展開されてきました」

「大島教会には、6,7名、あるいは一家族が簡単に自炊で宿泊できるスペースがあります。気軽にご利用されてはいかがでしょうか。 大島の信徒は大歓迎で、 そのような機会を待っています。 お問い合わせは教区本部事務局までどうぞ。」

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大島教会は小さな共同体ですが、この日は20名近い方が集まってくださいました。夏休みでもあり、普段は島を出ている若い方も、ちょうど実家に戻ってきたところでした。土曜日には島全体を見て見て回るのにあわせ、また日曜にはミサ後に、信徒の方々のすべての家を訪問させていただきました。家庭でのお祈りの機会をいただけたことに感謝します。また日曜に東京へ戻るときには、岡田港で、信徒の方々に、カラーテープでのお見送りをいただきました。出港時には「蛍の光」が流れるので、何か遠い国へ出かけていくような気持ちになりました。

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以下、当日のミサ説教を録音からおこしたものです。なおミサのビデオは、東京教区のYoutubeチャンネルで、後日公開の予定です。

東京の大司教になったのは2017年の12月ですから、もう5年目に入っているのですけれども、やっと大島に来ることができました。もっとも、もっと早く来る予定はあったのですけれども、コロナになってしまったので移動するのが難しくなったというのが一番大きな理由ですけれども、浦野神父様から何度も何度も「そのうち時間を設定して」と言われていましたので、やっと今回時間をとることができました。

小さな教会共同体だと、多分皆さんもそう思っていると思うのですけれども、 わたしは東京に来る前に13年間新潟教区の司教をしていたんですね。新潟教区というのは、秋田県と山形県と新潟県なんですね。ある時、秋田県の北の方にある能代というところに教会があるのですけれども、そこの教会に行って、そこにはドイツ人のおじいちゃんの神父様が一人住んでいらっしゃったのですけれども、香部屋で着替えていたらですね、ドイツ人のそのおじいちゃんの神父様が、「司教様、今日は司教様が来てくださったので沢山の人が来てます!」って仰るんです。「ああ、沢山人が来てるんだなあ」と思って、一緒に、ミサが始まってお御堂に入っていったら、10人の人がいました。10人。「10人で沢山か」と思って、ミサが終わってから神父様に「神父さん、ミサが始まる前に『今日は沢山人がいる』って言いましたけれども、10人しかいませんでしたよ」って言ったら、神父様が「はい、いつもは3人しか来ません」と仰ったんですね。ですから、そういうところでずっと働いていましたので、実はこれ多いんです。

日本の教会は、どうしても東京の都心の教会のイメージで「教会、教会」って考えて、司教さんたちが集まって会議する時でも、「教会は」って言うと、だいたいイグナチオ教会とか関口とか大きい教会を頭に抱いてものを考えるので、あれがスタンダードだと思っているのですけれども、でも、実際には日本中色んなところに行くと、だいたい3人とか4人とか5人とかくらいしか来られないような教会が多いですので、地域的にも人口比からしても非常にマイノリティであるのは確かなんですね。ですから、そういう中で信仰を守っている教会共同体はこの大島だけではなくて、日本全国色々なところに、もっと小さな教会共同体の中で信仰を守り、そして信仰を伝えてつないでいる人たちが沢山おられるということは、どうか心のどこかに留めておいていただけたらいいかなあというふうに思っています。

もちろん、今、司祭の数が、召命がなかなか増えないですので、司祭になりたいという人がそんなに簡単には出てこないですし、例えば今日、「わたしは神父になりたいです」という青年が出てきても、この人が神父になるまでに7年かかるんですよね。なので、たとえ今年出てきても、彼が神父になるのは7年後の話なので、そう簡単に神父は増えないんですけれども、ですから、今いる神父さんたちでなんとかしていかなければならないというのは、これから先も続いていくと思います。そして、高齢の司祭たちが増えて引退してきていますから、その意味でですね、神父さんが来てミサをしないことには始まらないのは確かなんですけれども、そうではない時に、どういう形で信仰を信徒の方々が守っていくのかというのはとても大切な、これからの課題だと思うんですね。どういう形で信仰を伝えていくのか。

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それで、今日の福音の中に「狭い戸口から入りなさい」という話が書いてあったんですよね。「狭い戸口から入りなさい」って、いったいどういうことなんだろうと。そして、その狭い戸口に入る前の質問がありますよね。「救われる者は少ないのでしょうか」という質問をする人がいたと。でもイエスは「ええ少ないですよ」とか「ええ多いですよ」という答えをしていないんですよね。「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」という質問に対して「狭い戸口から入りなさい」と、全然噛み合っていない質問と答えなのですけれども、これはいったい何でなんだろうと考えてみると、そもそも神様は「誰かだけは救いたい」とか「この人たちだけ救いたい」とか、そういうことではないんです。神は命を創った神ですので、自分が創造したすべての命を救いたいわけです。救うとは、聖書的なことから言えば、神が最初に命を創った、アダムとエヴァが生きていたあの楽園の状態、あれが神が理想の世界として創ったわけですけれども、そこから出ていちゃったのは人間の方なんですよね。罪を犯して出て行ったのは人間の方なので、あの最初の状況、つまり、すべての人が神のもとで一緒に生きているような状況をまた創り上げたい、そのためには、「あの人この人」ではなくて、すべての人がそこに救われて神とともに生きるようなことにしたいわけです。

つまり、「救われる者は少ないんですか、多いんですか」という質問は、イエスにとって全く意味がない質問なんですよね。救われる人はすべての人のはずなんです。すべての人を救いたい。でも実際には、救われないようにしているのは、神の側、つまり神が選択をしているのではなくて、人間の側が離れていってしまっている。どんどん人間の方が離れていって、神とは関係ないような生活をしていこうとしている。それがイエスの言う戸口の広いところで生きている人たちですよね。狭いところという言い方は、どう生きていくのか、この人生の中でわたしたち一人ひとりがどのようにして生きていくのかと。ですから、その後に「おまえのことなんか知らない」とかというやりとりの話がずっと書いてありますけれども、それは、その人生の中でどう人は生きてきたのか、どう生きていたのかと、つまり門の広い狭いは、神が広くしたり狭くしたりしているわけではなくて、人間の側が広くしたり狭くしたりしているんだと。だから、だだっ広い門は、入っては色んなところに行く門なわけですよね。だから、狭い門、つまり神に向かって一直線に向かっている門をくぐっていくようにするのは、それは あなたたち次第であると、自分たち次第なんだということを、この話の中でイエスは伝えていると思います。

それで、わたしたち一人ひとりは、どう生きていくのか、どのようにこの世界の中で生きていくのかということを考えなければならない。その務めが与えられていると思うんですね。そしてこれは夕べ(8月20日)の週刊大司教の中でも短く話をしていたと思いますけれども、教皇パウロ6世が第二バチカン公会議の後に「福音宣教」という文書を出したんですけれども、その中に「神は何らかの方法ですべての人を救うでしょう」と書いてあるんですね。つまり、わたしたち人間が何もしなくても、神は人間を愛しているので、何らかの方法で人間を救おうとするだろうと書いてあるんですね。

そうすると、じゃあ我々はないもしなくていいのかと、いわゆる万人救済論と言われている考え方を、「人間は何もしなくても神様が救ってくれるから大丈夫です」という言い方をする人たちもいるんですけれども、でも、そうじゃないよと。パウロ6世は、人間が何もしなかったら、それは神から離れていくことになる。そこでパウロ6世が書いているのは、でも福音を知っているわたしたち、イエスに従うことを決意したわたしたちが何もしない、特に福音を知らせないのであれば、特に間違った説だとか、恥だとか、恐れだとかによってこの福音を告げなければ、わたしたち自身の救いがあるかどうかは分かりませんよと。というふうに書いておられるんですね。つまりそれはどういうことかと言うと、それはわたしたちが福音を証しをする、福音を伝えていくような生き方をしていかなければ、どんどん神様から離れていくことになるんだと。だから、神が一生懸命「救おう、救おう、救おう」としているのに、人間の方からどんどん離れていくことになってしまうんだということを、 パウロ6世が「福音宣教」という文書に書いてらっしゃるんですね。

まさしく、わたしたち一人ひとりに与えられているのは、福音を証しをして生きていくということなのですけれども、ここからがものすごく難しいところで、じゃあどうするの、じゃあどうやってわたしたちは福音を証ししていくんだろうと。 福音を証しするというのは、別に街角に立って、のぼりを立てて、太鼓を叩いて、「皆さん教会に来てください」というようなことをすることではないんですよね。そうではなくて、毎日の生活の中の語ることばだとか、行いだとかいうことが、神の愛、神のいつくしみに根ざしているかどうかという問題ですよね。わたしたちの出会い、色んなところで色んな人たちに出会っていきます。その中でわたしたちは色んなことばを語っていきます。そして、色んな行いをしていきますけれども、そのことばと行いが、果たして神の愛、神のいつくしみに根ざしたものであるのかどうか、多分それが一番大きく問われていることだろうと思います。

その意味で、何か 聖書の知識を蓄えてそれを皆に語るとか、そういうことではなくて、わたしたちの日々の生活が、神がわたしたちに向けている愛といつくしみを具体化しているものであるのかどうかというのを、常に自分に問いかけて、そうなるように努力をしていきたいと思います。わたしたち自身が、神に向かって進むこの狭い戸口を自分たちで創り上げることができるように努力をしていきたいと思います。

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2022年8月20日 (土)

週刊大司教第九十回:年間第二十一主日

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8月も後半に入り、多少の涼しさを感じるようになってきました。

東京都内の感染状況は厳しいままで、この数日は、司祭の中にも検査陽性となり、軽症ですが発症された方も少なくありません。現在、教区として主日にミサに与る義務は免除していませんが、これは条件がついているので、健康について心配がある場合は免除と考えてください。

アジア各地の司教協議会の連盟組織であるFABC(アジア司教協議会連盟)は、1970年に教皇パウロ六世がマニラを訪問された際に集まった司教たちの話し合いで、誕生した組織です。司教協議会が各教区の上部組織ではないように、この連盟も各司教協議会の上部組織ではありませんが、第二バチカン公会議の教会憲章で示された司教の団体性や協働性と翻訳される「コレジアリタス」を具体化し、アジアの教会の意味を更に具体化するための組織として誕生しました。2020年がその50周年でした。2020年には50周年を記念する総会が予定されていましたが、コロナ禍のため開催が延期となり、結局今年の10月に、FABC50と銘打って、記念の総会がバンコクで開催されることになりました。FABC50のホームページがありますので、参照ください。(上がFABC50のロゴです)テーマが、「アジアの民として、ともに歩み続けよう」となっています。

今回の総会のための祈りやテーマソングが準備されていますが、10月に間に合うように、祈りに関しては翻訳を進めています。

この総会を始めるにあたり、現在のシノドスの歩みに触発され、実行委員会は、10月の総会本番に先立って、総会開始のための典礼を、来る8月22日月曜日に行うことになりました。バンコクで行われ、教皇様からのメッセージを含め、様々な方のメッセージと、テーマソングの披露など、ネットで中継される予定です。22日月曜日の日本時間13時開始です。この行事中継のYoutubeリンクはこちらです。またはFacebookのリンクはこちらです。ご覧いただければ幸いです。

なお私はこのFABCの事務局長を務めていますので10月の会議には参加しますが、現在の感染症の状況などに鑑み、8月22日の開始のための典礼は、現地ではなくオンラインで参加します。

以下、本日午後6時配信の週刊大司教第90回、年間第21主日のメッセージ原稿です。

年間第21主日C(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第90回
2022年8月21日

パウロ6世が第二バチカン公会議閉幕から10年となる1975年、大聖年に発表された使徒的勧告「福音宣教」は、現代社会にあって福音に生き、福音をあかししようとするわたしたちにとって、今でも重要な道しるべとなっています。

教会が福音を告げしらせる必要性を、教皇パウロ6世は、「教会も目の前に、福音を必要とし、それを受ける権利を持っている無数の人々を見ています。なぜなら、『神は、すべての人が救われて真理を知るようになることを望んでおられる』からです」(57)と記しています。

その上で教皇は、「たとえわたしたちが福音をのべ伝えなくても、人間は神のあわれみによって、何らかの方法で救われる可能性があります(80)」とまで記しています。

「キリストの苦しみと死は、いかにキリストの人性が、すべての人の救いを望まれる神の愛の自由で完全な道具であるかを示して」いると、カテキズムの要約に記されています(119)。

神はすべての人が救われるのを望まれているのは確実であり、ご自分が賜物として与えられたすべてのいのちを愛おしく思われる神は、その救いがすべての人におよぶことを望まれています。

だからといって、わたしたちがなにもしないで、それどころか自分勝手に生きていたのであれば、果たしてそこに救いはあるのだろうかと、今日のルカ福音は問いかけています。

イエスは、「救われる者は少ないのでしょうか」という問いに、直接には答えていません。なぜならば、救われるはずの者は、すべての人だからです。しかしその「すべて」を、「少ない」者とするのは、神の側ではなくて人間の側の勝手であることを、「狭い戸口から入るように努めなさい」というイエスの言葉が示唆しています。それに続く話で常に目覚めて準備をしている必要性が語られていますが、ここで重要なのは、救われるはずのわたしたちが、いかにしてそれを「少ない者」としないように、常に努力をしているのかどうかであります。

先ほどの「福音宣教」におけるパウロ6世の言葉には、続きがあります。

「しかし、もしわたしたちが、怠りや恐れ、また恥あるいは間違った説などによって、福音を述べることを怠るならば、果たしてわたしたちは救われるでしょうか(80)」

この世における狭い戸口は、わたしたちが福音の証し人となることを躊躇させるような、様々な誘惑のなせるところであります。福音を告げ知らせることへの怠り、それによってどういう反応があるのか見通せない不安による恐れ、社会全般を支配する価値観の中で、それとは異なる価値観を生きる事への恥ずかしさ、真理とかけ離れた説による誘惑。こちらにこそ真理がある、こちらこそ正しい道だという主張には、時としてわたしたちを惑わせ、イエスの福音から引き離す誘惑の力が潜んでいます。

パウロ6世の「福音宣教」の続きには、教皇の願いがこう記されています。

「願わくば、現代の人々が、悲しみに沈んだ元気のない福音宣教者、忍耐を欠き不安に駆られている福音宣教者からではなく、すでにキリストの喜びを受け取り、その熱意によって生活があかあかと輝いている福音宣教者、神の国がのべ伝えられ、教会が世界のただ中に建設されるために喜んでいのちをささげる福音宣教者から福音を受け取りますように」

イエスに従うと決めたわたしたち一人ひとりが、その福音宣教者です。

 

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2022年8月17日 (水)

茂原教会聖堂献堂70周年感謝ミサ

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千葉県にある茂原教会が70周年を迎え、8月14日、感染対策をとりながらでしたが、感謝ミサを捧げました。現在の主任司祭は、教区司祭の真境名神父様です。茂原教会の皆さん、70年、おめでとうございます。

教区のホームページに記された歴史によれば、再宣教初期に、茂原には教会が存在したようです。その意味で、教会自体の歴史は70年をはるかに超えています。しかし、1890年の日本における教区長会議以降の宣教方針転換もあり、またその当時の社会情勢もあり、明治末期ころには茂原の教会は閉鎖になったとのこと。

現在に通じる教会は、戦後にこの地域一帯の宣教を委任されたコロンバン会の宣教師が改めて設立したもので、「1952年6月、初代主任司祭として聖コロンバン会のチャールズ・ロディー師が着任。1953年、コロンバン会の宣教師が現在の地に教会を建て、再び熱心な司牧が開始された。その後 、2009年まで聖コロンバン会、2010年から2014年までグアダルペ宣教会司祭が司牧にあたっていた。 1982年に聖堂、1994年に司祭館・ホールが完成し、現在に至る」と教区ホームページに記されています。

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これまで働いてくださった宣教師の方々に感謝します。また宣教師たちと一緒に、教会を育て上げてきた信徒の皆さんに、心からお祝い申し上げるとともに、次は100年を目指して、教会をさらに育てていかれることを期待します。

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この日は、ミサ後に真境名師に案内されて、九十九里浜を目の前にする白子に、十字架のイエス・ベネディクト修道会を訪ねました。

この会は、ホームページによれば、このような特徴をもって創設されました。

「明らかに神が招いていると思われる人を、単に健康が損なわれているという理由で修道生活から除外できるだろうか?」

「この問いかけが心にあった創立者ゴーシュロン神父 (当時モンマルトル大聖堂付司祭) は、指導していた数名の若い女性達と共に協力者のスザンヌ・ヴロトノフスカを初代総長として、1930年に十字架のイエスの愛の中で、典礼・念祷・沈黙・兄弟愛・仕事に特徴づけられた聖ベネディクトの戒律による簡素な隠世修道会を創立しました」。

 「この会は教皇庁直轄の修道会で、聖ベネディクト会連合に加入しています。健康に恵まれている人も、また身体的病気や障害を持つ人も同じ生活を分かち合うことが可能です。その適応において、伝統的隠世修道生活の厳しい根本的要素は一つも軽視されていません」。

日本での活動は1968年に始まり、1975年には白子で修道院が設立されました。実はその直前の一時期、シスター方は岐阜県の多治見修道院に住まわれていたことがあります。神言会のかつうての本部修道院で、葡萄酒を醸造していることで知られています。私自身がそのころ、名古屋の小神学校で小神学生だったので、シスター方が多治見におられたのは、記憶していました。

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短い時間でしたが、シスター方11名と、いろいろなお話をすることができました。

これからも、祈りをもって、教区を、そして日本の教会を支えてくださることを、お願いいたします。

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2022年8月15日 (月)

2022聖母被昇天祭@東京カテドラル

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8月15日、聖母被昇天祭です。

東京カテドラル聖マリア大聖堂で、関口教会と韓人教会の合同ミサとして、午後6時からミサを捧げました。また本日は私の霊名である聖タルチシオの元来の記念日でもありますので、多くの皆様のお祝いとお祈りをいただきました。感謝申しあげます。聖タルチシオはローマでの迫害時代(3世紀)、捕らわれているキリスト教徒のもとへ御聖体を密かに持って行く際に捕まり、御聖体を守って殉教したと伝えられ、ヨーロッパやアフリカなどでは、侍者の保護の聖人とされています。

以下、本日午後6時にささげられた聖母被昇天祭ミサの説教原稿です。

聖母被昇天祭
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2022年8月15日

8月15日は、教会にとっては聖母の被昇天を祝う大切な祝日ですが、同時に日本においては、1945年の戦争の終結を記憶し、過去を振り返り、将来への平和の誓いを新たにする祈りの日でもあります。

1981年に日本を訪問された教皇ヨハネパウロ二世は、自らを「平和の巡礼者」と呼ばれ、広島では、「戦争は人間の仕業です」と始まる平和アピールを発表され、その中で繰り返し、「過去を振り返ることは、将来に対する責任を担うことである」と世界に向けて強調されました。

教皇の言葉に触発された日本の教会は、その翌年の1982年から、「日本カトリック平和旬間」を始めました。わたしたちにとっては、戦争へと至った道を振り返り、同じ過ちを犯さないために学びを深め、祈り続けるときでありますし、同時に、戦後77年が経過しても世界の平和が確立されていない現実を目の前にして、平和の実現を妨げる要因を取り除くための祈りと行動を決意するときでもあります。

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東京教区では、今年の平和旬間を、昨年に続いて、クーデター後の混乱が続いているミャンマーのために祈る時といたしました。皆様のお祈りに感謝します。ミャンマーの司教様たちからも感謝の言葉が寄せられていますし、マンダレーのマルコ大司教様からは、東京教区の今年の平和を求める祈りを翻訳し、この期間に共に祈りをささげているとのメッセージをいただきました。

ミャンマーでは軍政下での混乱が続き、平和を求めて声を上げる人々や教会に対する暴力的な弾圧も続き、先日には民主化運動の指導者たちの死刑も執行されました。暴力を持って他者を従わせ支配しようとすることは、いのちの尊厳への挑戦です。

カテキズムには、「権威が正当に行使されるのはそれが共通善を目指し、その達成のために道徳的に正当な手段を用いるときです。従って、政治体制は国民の自由な決断によって定められ、人々の恣意でなく法が支配する「法治国家」の原則を尊重しなければ」ならないと記されています。(要約406)

残念なことに世界では次から次と暴力的な事態が発生し、社会の関心は移り変わっていきます。世界から忘れ去られたあとに、苦悩に晒された人だけが取り残される悲しみが、幾たび繰り返されてきたことでしょう。わたしたちは、「過去を振り返ることは、将来に対する責任を担うことである」という教皇の言葉を心に刻み、姉妹教会であるミャンマーの方々のことを忘れることなく、平和の確立を願いながら、祈り続け、行動したいと思います。

この2年以上にわたる感染症の脅威の中で教皇フランシスコは、いのちを守り、その危機に立ち向かうには連帯が不可欠だと強調してきました。この危機的状況から、感染症が広がる以前よりももっとよい状態で抜け出すには、「調和のうちに結ばれた多様性と連帯」が不可欠だと呼びかけてきました。互いの違いを受け入れ、支え合い、連帯することが、いのちを守るのだと強調されてきました。

しかしながら、特にこの半年の間、わたしたちの眼前で展開したのは、調和でも多様性でも連帯でもなく、対立と排除と暴虐でした。いのちの尊厳をないがしろにする人間の言葉と行いに、ひるむことなく立ち向かい、神が望まれる世界の実現の道を模索することは、いのちを賜物として与えられた、わたしたちの使命です。本来宗教は、賜物として与えられたいのちを危機にさらすものではなく、神の秩序の確立を目指して、いのちの尊厳を守り、共通善の実現のために資するものであるはずです。暴力が世界を支配するかのような状況が続くとき、どうしても暴力を止めるために暴力を使うことを肯定するような気持ちに引きずり込まれます。しかし暴力の結末は死であり神の否定です。わたしたちはいのちを生かす存在であることを強調したいと思います。

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いま世界に必要なのは、互いの違いを受け入れ、支え合い、連帯することであり、神の愛を身に受けて、自らの献身によって他者のためにその愛を分かちあう生き方です。

教皇フランシスコは「福音の喜び」の最後に、「教会の福音宣教の活動には、マリアという生き方があります(288)」と記しています。聖母マリアの人生は、まさしく神の愛を身に受けて、その実現のために自分をささげ、他者を生かそうと努める生き方であります。

教皇フランシスコは、「正義と優しさの力、観想と他者に向けて歩む力、これこそがマリアを、福音宣教する教会の模範とするのです」と指摘します。

教会が模範とするべき聖母マリアの根本的な生きる姿勢、とりわけ「正義と優しさの力」は、ルカ福音書に記された聖母の讃歌「マグニフィカト」にはっきりと記されています。天使のお告げを受けたマリアは、その意味を思い巡らし、その上でエリザベトのもとへと出向いていきます。聖母マリアの「観想と他者に向けて歩む力」の具体的な表れであります。

マリアは全身全霊を込めて神を賛美するその理由を、「身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです」と記します。ここに、「謙虚さと優しさは、弱い者の徳ではなく、強い者のそれであること」を見いだすことが出来ると教皇は記します。なぜならば、マリアがこのときその身をもって引き受けた主の招きとは、人類の救いの歴史にとって最も重要な役割であり、救い主の母となるという、人間にとって最大の栄誉であるにもかかわらず、マリアはそれを謙虚さのうちに受け止め、おごり高ぶることもなく、かえって弱い人たちへの優しい配慮と思いやりを「マグニフィカト」で歌っています。「強い者は、自分の重要さを実感するために他者を虐げたりはしません」と教皇は指摘されます。今まさしく世界が必要としているのは、その心の姿勢であります。

聖母マリアは、御父が成し遂げられようとしている業、すなわち神の秩序の実現とは具体的にどういう状態なのかを、マグニフィカトではっきりと宣言します。

「主はその腕を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き下ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良いもので満たし、富める者を空腹のまま追い返されます」

聖母が高らかに歌いあげたように、教会は、貧しい人、困難に直面する人、社会の主流から外された人、忘れられた人、虐げられている人のもとへ出向いていく存在でありたいと思います。

聖母マリアに導かれ、その生きる姿勢に学び、神の前に謙遜でありながら、自分のためではなく他者のためにそのいのちを燃やし、「愛を持ち自己を与える」ことを通じて、神の平和を確立する道を歩んでいきたいと思います。

聖母と共に、主イエスに向かって歩み続ける神の民であり続けましょう。

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2022年8月14日 (日)

イエスのカリタス会創立85周年感謝ミサ

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8月13日の午後、台風が接近して大荒れの天気となった東京で、イエスのカリタス修道女会創立85周年感謝ミサが、杉並区井草にある日本管区本部修道院で捧げられました。わたしが司式させていただき、他にサレジオ会の浜口管区長と司教秘書のオディロン師が共同司式されました。感染症の状況から、ミサ後の祝賀会などは行われませんでした。

イエスのカリタス修道女会の皆さん、おめでとうございます。

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イエスのカリタス会は、85年前、サレジオ会のアントニオ・カヴォリ神父様が、宮崎の地で創立されました。当時、宮崎の地で教会が行っていた社会福祉事業に関わっている女性たちチマッティ神父様の助言の元に修道会としたもので、最初は創立の地の名称をとって、「宮崎カリタス修道女会」と呼ばれていました。その後、邦人会から教皇庁認可の国際修道会へと発展する中で、名称も「イエスのカリタス修道女会」となり、現在では総本部をローマに置いています。世界各地でシスター方は働いておられますが、詳しくは、会のホームページをご覧ください。

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東京教区での諸行事や、司教団の諸行事などで、しばしば聖歌隊を務めていただいており、大変お世話になっています。また感染症拡大初期のミサ非公開時には、関口教会から会衆を入れないミサをネット配信しましたが、そのすべてで聖歌隊を務めていただきました。当初は毎週日曜日、そして後半では土曜日の夕方に、時間を作って奉仕していただき、心から感謝しています。マスクをしたり、距離を開けて広がったりと、聖歌隊の運営には難しい状況ですが、心砕いてくださっていることに感謝いたします。教会の行事やCDを通じて、シスター方の素晴らしい歌声に触れられた方も少なくないと思います。これからのさらなるご活躍に期待しております。

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ミサのはじめには、シスター方が派遣されて働く16の国の旗が,イエスのみこころの旗と共に、内陣まで運ばれました。ミサにはシスター方のほか、施設などで一緒に働いてくださっている方々の代表も参加されました。

以下、本日の85周年感謝ミサの説教原稿です。

イエスのカリタス修道女会
創立85周年記念ミサ
2022年8月13日

1937年、サレジオ会のアントニオ・カヴォリ神父様がチマッティ神父様の勧めに従って、「身寄りのない老人や子どもたちのための総合福祉施設」である「救護院」で働かれる女性たちの会から、当時の宮崎カリタス修道女会を創立されたと、ホームページに記されていました。

それから85年。神の愛の具体化である活動から始まり、その神の愛を名称として掲げるイエスのカリタス会は、日本のみならず世界へと活動の場を広げ、現代社会のただ中で、神の愛のあかしを続けておられます。

会員の皆さまの献身的なお働きに感謝すると共に、さらなる発展をお祈りいたします。

先ほど朗読されたヨハネの手紙の最後の部分は、教皇ベネディクト16世の最初の回勅となった「神は愛」の冒頭の部分に使われていました。

「神は愛です。愛にとどまる人は、神のうちにとどまり、神もその人のうちにとどまってくださいます」

ベネディクト16世はこの一文が、「キリスト教信仰の核心をこの上なくはっきりと表して」いると指摘されます。「神は愛です」という言葉に神の姿のすべてが込められ、「そこから帰結する、人間とその歩む道の姿」が示されていると教皇は記しています。

その上で教皇ベネディクト16世は、「人をキリスト信者とするのは、倫理的な選択や高邁な思想ではなく、ある出来事との出会い、ある人格との出会いです。この出会いが、人生に新しい展望と決定的な方向付けを与える」と記しています。

愛である神を信じるわたしたちの務めは、わたしたち自身が愛といつくしみそのものである神と出会い、自分がいただいた恵みをさらに深め、それを社会の出会いの中で具体的にあかしをすることで、多くの人を神の愛のうちに生きるようにと導くことであります。

ヨハネは、「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して」、わたしたちを生かしてくださると記しています。わたしたち一人ひとりのいのちは、神の愛からほとばしり出た賜物であります。神の愛といつくしみを告げしらせるわたしたちは、この社会のただ中にあって、愛の恵み出るこのいのちを徹底的に守り抜く必要性を説き明かす使命も与えられています。

第二バチカン公会議の現代世界憲章には、こう記されています。

「全ての人は理性的な霊魂を恵まれ、神の像として作られ、同じ本性と同じ根源を持ち、キリストによってあがなわれ、神から同じ召命と目的を与えられている。従って全ての人が基本的に平等であることは、ますます認められなければならない(29)」

しかしながら今わたしたちの眼前で展開している現実はいったいどうでしょうか。

私たちが生きている現代世界は、その「いのち」をないがしろにし、あまつさえ人間自身が「いのち」をコントロールする権利があるとでも言わんばかりの傲慢さに満ちあふれ、いのちを守るどころかいのちを奪う暴力が支配しているかのようであります。 

とりわけこの2年半にわたり、わたしたちは新型コロナ感染症の蔓延という事態に直面するなかで、自らの命を守ることだけに留まらず他者の命を危険にさらさないためにも、様々な対策を講じてきました。それは、主の十戒にある「殺してはならない」という掟が、他者のいのちを危険にさらすことをも禁じているからであり、感染対策は隣人愛の実践に他なりません。

わたし自身が、今年の5月の末に感染してしまう事態となりました。自分自身が感染し、10日間、自室で隔離生活を送ったことで、大げさですが、あらためて人間のいのちは誰かによって生かされていることを実感しました。

元気な時には自分の力で何でもできますから、一人で勝手に生きているような思いが募ってきて、人間は徐々に傲慢になるものです。しかし実際には、わたしたちのいのちは誰かによって支えられ、生かされているのだという当たり前のことを、わたしたちは忘れてしまいがちであります。弱ったときやいのちの困難を抱えて生きているときに、はじめて自分の弱さを認めることができて、他の人に助けられ生かされているのだと肌で感じます。

感染症の事態に直面する中で、教皇フランシスコは世界的な連帯の重要性をたびたび強調されてきました。しかし現実は全く異なる様相を呈しています。

互いに連帯をという呼びかけを無視するかのように、今まさにわたしたちの目の前で大国の侵略による戦争が起きています。戦争は、連帯し互いに助け合うどころか、排斥し排除し、互いに憎しみをぶつけ合い、命を暴力的に奪い、人間の尊厳を傷つける行動です。先の参議院選挙中には元総理大臣が、銃撃を受け亡くなるという暴力的な事件も発生しました。

みなが連帯し、互いに助け合い、支え合い、耳を傾け合い、受け入れ合い、弱さをゆるしあうことが必要なときに、現実には暴力が支配し、いのちの尊厳がないがしろにされ、異質な存在は排除されています。愛とあわれみを欠いた社会に、神の正義はありません。

教皇ベネディクト十六世は、福音に生きる者にとって愛の業に励むことが不可欠であると、回勅「神は愛」で強調されました。わたしたちはこの現実の中で、神の愛といつくしみを、わたしたち自身の言葉と行いであかし続けたいと思います。

同時に教皇は、取り組むべき課題の大きさに私たちが圧倒され、暴力が支配する現実の中であきらめの誘惑に駆られるとき、「正しい道を歩み続けるために、キリストとの生きた関係が決定的に重要」であると教えます。さらに、「キリストから常に新たな力を得るための方法として、具体的に祈ることが、ここで何よりも必要です(36)」と、私たちを祈りへと招いておられます。

教皇フランシスコは「福音の喜び」で、同じようにイエスの愛との人格的な出会いの必要性を語った上で、この祈りについてこう記しています。

「もし、イエスを伝えたいという強い思いを抱いていないなら、イエスに向かって、再びあなたに引き寄せてくださいと、もっと祈る必要があります。・・・冷え切った心を開いてくださるよう、熱意に乏しくうわべだけの生活を送るわたしたちを目覚めさせてくださるよう、イエスの恵みを切に願わなければなりません。(264)」

修道会が歴史を刻み続ける中で、様々な事業に取り組んでこられたことと思います。そしてこれからも取り組まれることでしょう。その一つ一つが、多くの人にとって神の愛といつくしみとの出会いを生み出すものであるように願っています。

教皇ヨハネパウロ二世の使徒的勧告「奉献生活」に、「他の人々がいのちと希望を持つことが出来るために、自分のいのちを費やすことが出来る人々も必要です(104)」と記されていました。

困難に直面し、暴力に支配されている現代社会にあって、キリスト者が神の愛といつくしみに出会い、それを自らのものとし、さらに多くの人へと伝えていくことは容易ではありません。くじけて希望を失うことがしばしばです。そのときに、いのちの希望を生み出す存在が必要です。祈りのうちに、神の愛との出会いを生み出す人が必要です。100周年を目指して、これからも発展を続けられますように。

 

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2022年8月13日 (土)

週刊大司教第八十九回:年間第二十主日

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台風が接近する天候の不安定な週末となりました。東北をはじめ各地で大雨の被害が続出しています。被害に遭われた皆様に心からお見舞い申しあげると共に、この週末もまた充分に気をつけられますように、皆様の安全をお祈りいたします。

旧統一協会の事が、大きく取り上げられています。日本のカトリック司教協議会は、いわゆる霊感商法の被害などが大きな社会問題となり、またカトリック教会内での混乱も見られた1985年に、「世界基督教統一神霊協会に関する声明」を発表しており、その内容は現在も変わりません。

この声明では教えが全く異なっていることを指摘し、関連のいかなる運動や会合にも参加しないようにと、カトリックの信者に呼びかけています。また2008年の情報ハンドブックの特集でも、詳しく取り上げていますので、ご一読ください。

このような状況にあって、わたしたちの信仰は、神からの賜物である人のいのちを生かす信仰であって、人のいのちを見捨てたり、排除したり、暴力的に奪う信仰ではないこと、さらには社会の共通善の実現を目指す信仰であることを、あらためて心に留めたいと思います。

(なお「共通善」とは、第二バチカン公会議の現代世界憲章26に、「集団と個々の成員とが、より豊かに、より容易に自己完成を達成できるような社会生活の諸条件の総体である」と記されています)

8月14日は年間第二十主日、その翌日8月15日は聖母被昇天の祝日です。聖母被昇天の祝日は、関口教会で午前十時(訂正:10時のミサはありません。)と午後六時のミサがささげられる予定ですが、午後六時、夕方のミサが、大司教司式ミサとなります。

以下、本日午後六時配信の「週刊大司教」第89回、年間第20主日メッセージ原稿です。

年間第20主日C(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第89回
2022年8月14日

ルカ福音は、「私が来たのは、地上に火を投ずるためである」とイエスが述べた言葉を記しています。しかし同時にイエスは、自らの十字架での受難と死と復活を経なければ、その火が燃えさかることはないとも述べています。このことから、地上に投じられる火は、聖霊の火を示唆する言葉であろうと推測されます。もちろん聖霊に導かれて、神の福音が燃えさかる火のように広がっていくことも示唆しています。

使徒言行録に記された聖霊降臨の出来事は、騒々しくて落ち着かない出来事でありました。粛々と進むのではなく、周囲の人たちが驚いて見物に来るような、騒々しい出来事です。聖霊の働きがあるところには、騒々しさがあります。なにぶん火が燃えさかるのですから、落ち着いているはずがありません。聖霊が豊かに働くところは、騒々しくて落ち着かないのです。

ルカ福音は、対立と分断をもたらすというイエスの言葉を記します。これこそ落ち着かない言葉です。感染症の不安の中で戦争まで始まり、様々な暴力が支配する社会は、まさしく対立と分断の社会であり、現実は教会が主張し続ける支え合いと連帯の社会の対極にあります。一体これがイエスがもたらす現実なのでしょうか。

もちろんイエスの言葉は、対立や分断を推奨しているわけではありません。イエスの真意は、福音の価値観を前面に掲げ、聖霊の燃えさかる炎をひろげようとするならば、この世を支配する価値観と対立するという指摘です。

ヘブライ人への手紙でパウロは、この世の迫害に負けることなく、受難と死を耐え忍んだイエスの模範に倣い、「自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こう」と呼びかけます。

日本の教会は8月15日の聖母被昇天の祝日までを、平和旬間としています。コロナ禍でまだ制約がありますが、各地で平和を求める行動が繰り広げられています。わたしたちの行動は、この世界に神の秩序を実現させ、福音の価値観を生きる社会を実現し、賜物であるすべてのいのちがその始めから終わりまで尊重され守られる社会を実現しようとする行動です。あたかも暴力が支配するかのような現実は、ともすれば同じ暴力に頼って自らを守ることを良しとする方向に、わたしたちをいざないます。激しくそちらへ引き込もうとする潮流の中で、立ち止まって平和を唱えることは、容易なことではありません。まさしく福音の価値観を堅持しようとするとき、そこに社会の主流である価値観との対立が生じかねません。イエスの模範に倣い、忠実に忍耐強く、走り続けたいと思います。

その聖母被昇天の祝日に朗読されるルカ福音は、聖母讃歌「マグニフィカト」を記しています。

「身分の低い、この主のはしためにも、目を留めてくださった」と歌うことで、聖母は、神が人を計る量りについて語ります。その量りは人間の常識が定める価値観によるのではなく、神ご自身の価値観に基づく量り、すなわちすべてのいのちはご自身がその似姿として創造されたものとして大切なのだ、愛する存在なのだ、という神の愛といつくしみに基づいた量りであります。

自らの神の母としての選び、それ自体が、人間の常識をはるかに越えた神の価値観に基づいた、すべてのいのちを愛する神の具体的な行動であると、聖母は強調します。

わたしたち一人ひとりを、そのいつくしみを持って導かれる主の愛に信頼し、この世界に投じられた聖霊の炎がさらに燃えさかるように務めて参りましょう。

 

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2022年8月10日 (水)

2022年平和旬間:平和を願うミサ@東京カテドラル

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2022年の東京教区平和旬間は、感染症対策のため、いわゆるイベントを行うことができない状況となっています。特に教区としての平和を願いミサを予定していた関口教会では、主任司祭を含めた司祭・助祭団などに検査陽性があり、予定していた8月7日は、ミサの公開が中止となりました。

とはいえ、「ミサの公開が中止」というのは、「ミサが中止」なわけではなく、司祭がささげるミサに会衆を入れないことを意味していますので、8月7日は、関口教会で非公開の形で平和を願いミサを捧げました。

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すでに触れているように、昨今の国内外の状況で、平和を祈らなくてはならない課題は多々ありますし、そもそも平和旬間が設けられたきっかけも、過去を振り返り将来へ責任を持つことを呼びかけられた、教皇ヨハネパウロ二世の広島アピールにあるのですから、戦争の記憶を振り返りそこから学ぶことも忘れるわけにはいきません。その中で、東京教区では、そういったことを踏まえた上で、ともすれば新しく起こる悲劇の陰で忘れられていくことの多い課題に目を向け、特に姉妹教会であるミャンマーのために祈り続けることを選択しました。ロシアによるウクライナ侵攻や国内での暗殺事件などなど、暴力が支配するかのようなこの世界には、平和の課題が山積しています。その中で、ミャンマーを忘れないでいたいと思います。

なぜミャンマーなのかという問いかけをいくつかいただいています。一番の理由は、幾度も繰り返していますが、ミャンマーの教会が東京教区の姉妹教会だからです。東京教区が戦後にケルン教区から受けた様々な援助へのお返しとして、今度はミャンマーへの支援が始まりました。その関わりを、わたしたちは忘れずにいたいと思います。

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そしてこの一年、クーデター以降、様々な機会にミャンマーの平和のために祈ってきました。残念ながら状況は混迷を極めており、平和は乱されたままです。その中で、わたしたちの兄弟姉妹が、困難に直面しています。それを忘れるわけには行きません。すでに教区のホームページにマンダレーのマルコ大司教様のお手紙が掲載されていますし、そのほかの教区からもいただいていますが、今回のわたしたちの平和旬間の祈りに対して、ミャンマーの教会からはお返事のメッセージをいただいています。そこには、この平和旬間にあわせて、ミャンマーの教会でも、平和旬間に、一緒に平和のために祈ると記されています。この目に見える繋がりを、大切にしたいと思います。(上の写真は2020年2月、マンダレーでマルコ大司教様と)

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以下、8月7日午前10時からカテドラルでささげた平和を願うミサの説教原稿です。なおこのミサは、私と天本師以外では、聖歌隊を務めたイエスのカリタス会の方々、構内におられるシスター方と、配信スタッフのみが参加しました。

年間第19主日(平和を願うミサ)
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2022年8月7日

わたしたちが生きているこの世界は、まるで暴力に支配されているかのようであります。

2020年2月頃から、感染症の状況が世界中を巻き込んで、不安の渦の中でわたしたちから希望を奪い去りました。この状況は多少の改善があったかと思うと再び悪化することを繰り返し、そのたび事に、一体いつまでこのようなことが続くのかという焦燥感がわたしたちを包み込み、その焦燥感がもたらす先の見えない不安が、なおいっそうわたしたちの心を荒れ果てた地におけるすさみへと招き入れています。その中でわたしたちは、いのちを守る道を見いだそうと努めてきました。

この2年以上にわたる感染症の脅威の中で教皇フランシスコは、いのちを守り、その危機に立ち向かうには連帯が不可欠だと強調してきました。この危機的状況から、感染症が広がる以前よりももっとよい状態で抜け出すには、「調和のうちに結ばれた多様性と連帯」が不可欠だと呼びかけてきました。互いの違いを受け入れ、支え合い、連帯することが、いのちを守るのだと強調されてきました。

しかしながら、特にこの半年の間、わたしたちの眼前で展開したのは、調和でも多様性でも連帯でもなく、対立と排除と暴虐でした。この不安な状況の中で、互いに手を取り合って支え合い、いのちを守るために連帯しなくてはならないことが明白であるにもかかわらず、ミャンマーではクーデターが起こりました。ウクライナではロシアの侵攻によって戦争が始まりました。暴力によっていのちを奪い取るような理不尽な事件も起こりました。

1981年に日本を訪問された教皇聖ヨハネ・パウロ2世は、広島での「平和アピール」で、「戦争は人間のしわざです。戦争は人間の生命の破壊です。戦争は死です」と、平和を呼びかけられました。その言葉に触発されて、日本の教会は、戦争を振り返り、平和を思うとき、平和は単なる願望ではなく具体的な行動が必要であることを心に刻むために、この10日間の平和旬間を定めました。

「戦争は人間のしわざ」であるからこそ、その対極にある平和を生み出すのは、やはり「人間のしわざ」であるはずです。「戦争は人間の生命の破壊」であるからこそ、わたしたちは神からの賜物であるいのちを守り抜くために、平和を生み出さなくてはなりません。「戦争は死」であるからこそ、わたしたちいのちを生きている者は、戦争を止めさせなくてはなりません。

ヨハネパウロ2世は広島で、「過去を振り返ることは、将来に対する責任を担うことである」とも言われました。わたしたちは、過去の歴史を振り返りながら、いま選び取るべき道を見出し、将来に向けて責任ある行動を取りたいと思います。平和は、どこからか降ってくるお恵みではなくて、わたしたち自身はこの地上において具体化するべきものです。

暴力が世界を支配するかのような状況が続くとき、わたしたちはどうしても暴力を止めるために暴力を使うことを肯定するような気持ちになってしまいます。しかし暴力の結末は死であります。わたしたちはその事実を、先の参議院選挙期間中に目の当たりにしました。

いのちに対する暴力を働くことによって、自らの思いを遂げようとすることは、いのちを創造された神への挑戦です。神がいのちを与えられたと信じるわたしたちキリスト者にとって、いのちはその始まりから終わりまで守られなくてはならない神からの尊厳ある賜物です。

多くの人が自由のうちにいのちをより良く生きようとするとき、そこに立場の違いや考えの違い、生きる道の違いがあることは当然です。その違いを認め、一人ひとりのいのちがより十全にその与えられた恵みを生きる社会を実現するのが、わたしたち宗教者の務めです。宗教はいのちを生かす道を切り開き、共通善を具体化し、平和を実現する道でなくてはなりません。

わたしたちの姉妹教会であるミャンマーの方々は、2021年2月1日に発生したクーデター以降、国情は安定せず、人々とともに平和を求めて立ち上がったカトリック教会に対して、暴力的な攻撃も行われ、さらに先日は民主化運動の活動家に死刑が執行されました。暴力による支配はいのちを生かすことはなく、いのちを奪うのであって、それはいのちの与え主である神への挑戦です。

様々な大きな事件が起こる度に、世界の関心は移り変わっていきます。その背後に、苦しみのうちに忘れ去られる多くの人がいます。いま世界には、平和を破壊するような状況が多々存在し、祈りを必要としています。だからこそわたしたちは、姉妹教会の方々を忘れることなく、今年の平和旬間でも、ミャンマーの方々のために祈り続けたいと思います。

ルカ福音は、主人の帰りを待つ間、常に目覚めて準備している僕の話を記します。「あなた方も用意していなさい。人の子は思いがけないときに来るからである」

この朗読箇所の直前には、「自分の持ち物を売り払って施しなさい。すり切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい」と記されています。すなわちイエスが求めているのは、その再臨の時まで、わたしたちがどのように生きるのかであって、常に用意をするとは、単に準備を整えて控えていることではなくて、積極的に行動することを意味しています。

わたしたちは、天に富を積むために、神の意志をこの世界で実現する行動を積極的に取らなくてはなりません。神のいつくしみを具体化したのはイエスご自身ですが、そのイエスに従う者として、イエスの言葉と行いに倣うのであれば、当然わたしたちの言葉と行いも、神のいつくしみを具体化したものになるはずです。

神の望まれている世界の実現は、すなわち神の定めた秩序の具体化に他なりません。教皇ヨハネ二十三世は、「地上の平和」の冒頭に、こう記しています。

「すべての時代にわたり人々が絶え間なく切望してきた地上の平和は、神の定めた秩序が全面的に尊重されなければ、達成されることも保障されることもありません」(「地上の平和」1)

わたしたちは、神の秩序が確立されるために、常に尽くしていきたいと思います。

わたしたちが語る平和は、単に戦争や紛争がない状態なのではなく、神が望まれる世界が実現すること、すなわち神の秩序が支配する世界の実現です。わたしたちは日々、主の祈りにおいて、「御国が来ますように」と祈りますが、それこそは神の平和の実現への希求の祈りです。求めて祈るだけではなく、わたしたちがそのために働かなくてはなりません。その意味で福音宣教は平和の実現でもあります。

今年の復活祭メッセージで、教皇フランシスコはこう呼びかけました。

「どうか、戦争に慣れてしまわないでください。平和を希求することに積極的にかかわりましょう。バルコニーから、街角から、平和を叫びましょう。「平和を!」と。各国の指導者たちが、人々の平和への願いに耳を傾けてくれますように」(2022年4月17日)。

常に目を覚まして、神の秩序の確立のために、平和の確立のために、「平和を」と叫び続け、また働き続けましょう。

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2022年8月 6日 (土)

週刊大司教第八十八回:年間第19主日


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8月に入り、本日8月6日から日本の教会は平和旬間を過ごします。昨日、8月5日、広島の世界平和記念聖堂では毎年恒例の平和祈願ミサが捧げられ、私も司教団の一員として参加いたしました。また8月6日の朝、8時15分の原爆投下の時間の黙祷に続いて捧げられたミサにも参加いたしました。いつもであれば、東京も含め全国から多くの方が参加して行われる平和行事ですが、残念ながら、コロナ禍のため、今年も平和公園からカテドラルまでの平和行列などは中止となり、ミサや講演会も参加者を限定してオンライン配信で行われました。

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東京教区においては、都内の感染者の状況や、司祭が複数名検査陽性や発症していることなどもあり、ミサなどの公開を中止にしている教会も少なくありません。関口教会も、主任司祭など複数名の検査陽性のため、8月7日はミサが非公開ですが、オンライン配信で、大司教司式の平和祈願ミサを行います。

感染対策がおろそかにならないように、あらためて基本を見直してください。聖堂内でのマスク着用、手指の消毒、十分な換気に気を配り、適度な距離をとることや、帰宅時のうがいなどを忘れないようにいたしましょう。またミサでの歌唱は、全員ではなく、聖歌隊や独唱者に任せることを続けます。

以下、本日午後6時配信の週刊大司教第88回、年間第19主日のメッセージ原稿です。

年間第19主日C(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第88回
2022年8月7日

ルカ福音は、主人の帰りを待つ間、常に目覚めて準備している僕の話を記します。「あなた方も用意していなさい。人の子は思いがけないときに来るからである」

この朗読箇所の直前には、「自分の持ち物を売り払って施しなさい。すり切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい」と記されています。すなわちイエスが求めているのは、その再臨の時まで、わたしたちがどのように生きるのかであって、常に用意をするとは、単に準備を整えて控えていることではなくて、積極的に行動することを意味しています。

わたしたちは、天に富を積むために、神の意志をこの世界で実現する行動を積極的に取らなくてはなりません。神のいつくしみを具体化したのはイエスご自身ですが、そのイエスに従う者として、イエスの言葉と行いに倣うのであれば、当然わたしたちの言葉と行いも、神のいつくしみを具体化したものになるはずです。

神の望まれている世界の実現は、すなわち神の定めた秩序の具体化に他なりません。教皇ヨハネ二十三世は、「地上の平和」の冒頭に、こう記しています。

「すべての時代にわたり人々が絶え間なく切望してきた地上の平和は、神の定めた秩序が全面的に尊重されなければ、達成されることも保障されることもありません」(「ヨハネ23世地上の平和1)

わたしたちは、神の秩序が確立されるために、常に尽くしていきたいと思います。

日本の教会は、教皇ヨハネパウロ二世の平和への願いに触発されて、日本訪問の翌年から、8月6日の広島の日に始まり、9日の長崎の日、そして15日の終戦の日にいたる10日間を「平和旬間」と定めて、亡くなられた方々の永遠の安息を祈り、戦争の記憶を伝え、平和のために祈る時としてきました。

わたしたちが語る平和は、単に戦争や紛争がない状態なのではなく、神が望まれる世界が実現すること、すなわち神の秩序が支配する世界の実現です。わたしたちは日々、主の祈りにおいて、「御国が来ますように」と祈りますが、それこそは神の平和の実現への希求の祈りです。求めて祈るだけではなく、わたしたちがそのために働かなくてはなりません。その意味で福音宣教は平和の実現でもあります。

教皇ヨハネパウロ二世は、1981年に広島の地から世界に向けてこう語りかけました。

「戦争は人間のしわざです。戦争は人間の生命の破壊です。戦争は死です。この広島の町、この平和記念堂ほど強烈に、この真理を世界に訴えている場所はほかにありません」

その上で、「過去をふり返ることは将来に対する責任を担うことです」と指摘されましたが、今年、国際社会は過去の悲惨な経験を忘れ去り、連帯の必要性をかなぐり捨て、将来への責任を放棄するかのように、暴力的な大国の行動に翻弄されています。

戦争によって暴力的にいのちを奪われる多くの方の存在を目の当たりにし、起こっている出来事の理不尽さに心が打ちのめされるとき、わき上がる恐怖と怒りは、思いやりや支え合いを、感情の背後に追いやってしまいます。今世界は、暴力によって平和を獲得することを肯定する感情に流されています。しかしそれは、真の平和を踏みにじることにしかなりえません

常に目を覚まして、神の秩序の確立のために、平和の確立のために、働き続けましょう。

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