2022聖母被昇天祭@東京カテドラル
8月15日、聖母被昇天祭です。
東京カテドラル聖マリア大聖堂で、関口教会と韓人教会の合同ミサとして、午後6時からミサを捧げました。また本日は私の霊名である聖タルチシオの元来の記念日でもありますので、多くの皆様のお祝いとお祈りをいただきました。感謝申しあげます。聖タルチシオはローマでの迫害時代(3世紀)、捕らわれているキリスト教徒のもとへ御聖体を密かに持って行く際に捕まり、御聖体を守って殉教したと伝えられ、ヨーロッパやアフリカなどでは、侍者の保護の聖人とされています。
以下、本日午後6時にささげられた聖母被昇天祭ミサの説教原稿です。
聖母被昇天祭
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2022年8月15日8月15日は、教会にとっては聖母の被昇天を祝う大切な祝日ですが、同時に日本においては、1945年の戦争の終結を記憶し、過去を振り返り、将来への平和の誓いを新たにする祈りの日でもあります。
1981年に日本を訪問された教皇ヨハネパウロ二世は、自らを「平和の巡礼者」と呼ばれ、広島では、「戦争は人間の仕業です」と始まる平和アピールを発表され、その中で繰り返し、「過去を振り返ることは、将来に対する責任を担うことである」と世界に向けて強調されました。
教皇の言葉に触発された日本の教会は、その翌年の1982年から、「日本カトリック平和旬間」を始めました。わたしたちにとっては、戦争へと至った道を振り返り、同じ過ちを犯さないために学びを深め、祈り続けるときでありますし、同時に、戦後77年が経過しても世界の平和が確立されていない現実を目の前にして、平和の実現を妨げる要因を取り除くための祈りと行動を決意するときでもあります。
東京教区では、今年の平和旬間を、昨年に続いて、クーデター後の混乱が続いているミャンマーのために祈る時といたしました。皆様のお祈りに感謝します。ミャンマーの司教様たちからも感謝の言葉が寄せられていますし、マンダレーのマルコ大司教様からは、東京教区の今年の平和を求める祈りを翻訳し、この期間に共に祈りをささげているとのメッセージをいただきました。
ミャンマーでは軍政下での混乱が続き、平和を求めて声を上げる人々や教会に対する暴力的な弾圧も続き、先日には民主化運動の指導者たちの死刑も執行されました。暴力を持って他者を従わせ支配しようとすることは、いのちの尊厳への挑戦です。
カテキズムには、「権威が正当に行使されるのはそれが共通善を目指し、その達成のために道徳的に正当な手段を用いるときです。従って、政治体制は国民の自由な決断によって定められ、人々の恣意でなく法が支配する「法治国家」の原則を尊重しなければ」ならないと記されています。(要約406)
残念なことに世界では次から次と暴力的な事態が発生し、社会の関心は移り変わっていきます。世界から忘れ去られたあとに、苦悩に晒された人だけが取り残される悲しみが、幾たび繰り返されてきたことでしょう。わたしたちは、「過去を振り返ることは、将来に対する責任を担うことである」という教皇の言葉を心に刻み、姉妹教会であるミャンマーの方々のことを忘れることなく、平和の確立を願いながら、祈り続け、行動したいと思います。
この2年以上にわたる感染症の脅威の中で教皇フランシスコは、いのちを守り、その危機に立ち向かうには連帯が不可欠だと強調してきました。この危機的状況から、感染症が広がる以前よりももっとよい状態で抜け出すには、「調和のうちに結ばれた多様性と連帯」が不可欠だと呼びかけてきました。互いの違いを受け入れ、支え合い、連帯することが、いのちを守るのだと強調されてきました。
しかしながら、特にこの半年の間、わたしたちの眼前で展開したのは、調和でも多様性でも連帯でもなく、対立と排除と暴虐でした。いのちの尊厳をないがしろにする人間の言葉と行いに、ひるむことなく立ち向かい、神が望まれる世界の実現の道を模索することは、いのちを賜物として与えられた、わたしたちの使命です。本来宗教は、賜物として与えられたいのちを危機にさらすものではなく、神の秩序の確立を目指して、いのちの尊厳を守り、共通善の実現のために資するものであるはずです。暴力が世界を支配するかのような状況が続くとき、どうしても暴力を止めるために暴力を使うことを肯定するような気持ちに引きずり込まれます。しかし暴力の結末は死であり神の否定です。わたしたちはいのちを生かす存在であることを強調したいと思います。
いま世界に必要なのは、互いの違いを受け入れ、支え合い、連帯することであり、神の愛を身に受けて、自らの献身によって他者のためにその愛を分かちあう生き方です。
教皇フランシスコは「福音の喜び」の最後に、「教会の福音宣教の活動には、マリアという生き方があります(288)」と記しています。聖母マリアの人生は、まさしく神の愛を身に受けて、その実現のために自分をささげ、他者を生かそうと努める生き方であります。
教皇フランシスコは、「正義と優しさの力、観想と他者に向けて歩む力、これこそがマリアを、福音宣教する教会の模範とするのです」と指摘します。
教会が模範とするべき聖母マリアの根本的な生きる姿勢、とりわけ「正義と優しさの力」は、ルカ福音書に記された聖母の讃歌「マグニフィカト」にはっきりと記されています。天使のお告げを受けたマリアは、その意味を思い巡らし、その上でエリザベトのもとへと出向いていきます。聖母マリアの「観想と他者に向けて歩む力」の具体的な表れであります。
マリアは全身全霊を込めて神を賛美するその理由を、「身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです」と記します。ここに、「謙虚さと優しさは、弱い者の徳ではなく、強い者のそれであること」を見いだすことが出来ると教皇は記します。なぜならば、マリアがこのときその身をもって引き受けた主の招きとは、人類の救いの歴史にとって最も重要な役割であり、救い主の母となるという、人間にとって最大の栄誉であるにもかかわらず、マリアはそれを謙虚さのうちに受け止め、おごり高ぶることもなく、かえって弱い人たちへの優しい配慮と思いやりを「マグニフィカト」で歌っています。「強い者は、自分の重要さを実感するために他者を虐げたりはしません」と教皇は指摘されます。今まさしく世界が必要としているのは、その心の姿勢であります。
聖母マリアは、御父が成し遂げられようとしている業、すなわち神の秩序の実現とは具体的にどういう状態なのかを、マグニフィカトではっきりと宣言します。
「主はその腕を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き下ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良いもので満たし、富める者を空腹のまま追い返されます」
聖母が高らかに歌いあげたように、教会は、貧しい人、困難に直面する人、社会の主流から外された人、忘れられた人、虐げられている人のもとへ出向いていく存在でありたいと思います。
聖母マリアに導かれ、その生きる姿勢に学び、神の前に謙遜でありながら、自分のためではなく他者のためにそのいのちを燃やし、「愛を持ち自己を与える」ことを通じて、神の平和を確立する道を歩んでいきたいと思います。
聖母と共に、主イエスに向かって歩み続ける神の民であり続けましょう。
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