イエスのカリタス会創立85周年感謝ミサ
8月13日の午後、台風が接近して大荒れの天気となった東京で、イエスのカリタス修道女会創立85周年感謝ミサが、杉並区井草にある日本管区本部修道院で捧げられました。わたしが司式させていただき、他にサレジオ会の浜口管区長と司教秘書のオディロン師が共同司式されました。感染症の状況から、ミサ後の祝賀会などは行われませんでした。
イエスのカリタス修道女会の皆さん、おめでとうございます。
イエスのカリタス会は、85年前、サレジオ会のアントニオ・カヴォリ神父様が、宮崎の地で創立されました。当時、宮崎の地で教会が行っていた社会福祉事業に関わっている女性たちチマッティ神父様の助言の元に修道会としたもので、最初は創立の地の名称をとって、「宮崎カリタス修道女会」と呼ばれていました。その後、邦人会から教皇庁認可の国際修道会へと発展する中で、名称も「イエスのカリタス修道女会」となり、現在では総本部をローマに置いています。世界各地でシスター方は働いておられますが、詳しくは、会のホームページをご覧ください。
東京教区での諸行事や、司教団の諸行事などで、しばしば聖歌隊を務めていただいており、大変お世話になっています。また感染症拡大初期のミサ非公開時には、関口教会から会衆を入れないミサをネット配信しましたが、そのすべてで聖歌隊を務めていただきました。当初は毎週日曜日、そして後半では土曜日の夕方に、時間を作って奉仕していただき、心から感謝しています。マスクをしたり、距離を開けて広がったりと、聖歌隊の運営には難しい状況ですが、心砕いてくださっていることに感謝いたします。教会の行事やCDを通じて、シスター方の素晴らしい歌声に触れられた方も少なくないと思います。これからのさらなるご活躍に期待しております。
ミサのはじめには、シスター方が派遣されて働く16の国の旗が,イエスのみこころの旗と共に、内陣まで運ばれました。ミサにはシスター方のほか、施設などで一緒に働いてくださっている方々の代表も参加されました。
以下、本日の85周年感謝ミサの説教原稿です。
イエスのカリタス修道女会
創立85周年記念ミサ
2022年8月13日1937年、サレジオ会のアントニオ・カヴォリ神父様がチマッティ神父様の勧めに従って、「身寄りのない老人や子どもたちのための総合福祉施設」である「救護院」で働かれる女性たちの会から、当時の宮崎カリタス修道女会を創立されたと、ホームページに記されていました。
それから85年。神の愛の具体化である活動から始まり、その神の愛を名称として掲げるイエスのカリタス会は、日本のみならず世界へと活動の場を広げ、現代社会のただ中で、神の愛のあかしを続けておられます。
会員の皆さまの献身的なお働きに感謝すると共に、さらなる発展をお祈りいたします。
先ほど朗読されたヨハネの手紙の最後の部分は、教皇ベネディクト16世の最初の回勅となった「神は愛」の冒頭の部分に使われていました。
「神は愛です。愛にとどまる人は、神のうちにとどまり、神もその人のうちにとどまってくださいます」
ベネディクト16世はこの一文が、「キリスト教信仰の核心をこの上なくはっきりと表して」いると指摘されます。「神は愛です」という言葉に神の姿のすべてが込められ、「そこから帰結する、人間とその歩む道の姿」が示されていると教皇は記しています。
その上で教皇ベネディクト16世は、「人をキリスト信者とするのは、倫理的な選択や高邁な思想ではなく、ある出来事との出会い、ある人格との出会いです。この出会いが、人生に新しい展望と決定的な方向付けを与える」と記しています。
愛である神を信じるわたしたちの務めは、わたしたち自身が愛といつくしみそのものである神と出会い、自分がいただいた恵みをさらに深め、それを社会の出会いの中で具体的にあかしをすることで、多くの人を神の愛のうちに生きるようにと導くことであります。
ヨハネは、「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して」、わたしたちを生かしてくださると記しています。わたしたち一人ひとりのいのちは、神の愛からほとばしり出た賜物であります。神の愛といつくしみを告げしらせるわたしたちは、この社会のただ中にあって、愛の恵み出るこのいのちを徹底的に守り抜く必要性を説き明かす使命も与えられています。
第二バチカン公会議の現代世界憲章には、こう記されています。
「全ての人は理性的な霊魂を恵まれ、神の像として作られ、同じ本性と同じ根源を持ち、キリストによってあがなわれ、神から同じ召命と目的を与えられている。従って全ての人が基本的に平等であることは、ますます認められなければならない(29)」
しかしながら今わたしたちの眼前で展開している現実はいったいどうでしょうか。
私たちが生きている現代世界は、その「いのち」をないがしろにし、あまつさえ人間自身が「いのち」をコントロールする権利があるとでも言わんばかりの傲慢さに満ちあふれ、いのちを守るどころかいのちを奪う暴力が支配しているかのようであります。
とりわけこの2年半にわたり、わたしたちは新型コロナ感染症の蔓延という事態に直面するなかで、自らの命を守ることだけに留まらず他者の命を危険にさらさないためにも、様々な対策を講じてきました。それは、主の十戒にある「殺してはならない」という掟が、他者のいのちを危険にさらすことをも禁じているからであり、感染対策は隣人愛の実践に他なりません。
わたし自身が、今年の5月の末に感染してしまう事態となりました。自分自身が感染し、10日間、自室で隔離生活を送ったことで、大げさですが、あらためて人間のいのちは誰かによって生かされていることを実感しました。
元気な時には自分の力で何でもできますから、一人で勝手に生きているような思いが募ってきて、人間は徐々に傲慢になるものです。しかし実際には、わたしたちのいのちは誰かによって支えられ、生かされているのだという当たり前のことを、わたしたちは忘れてしまいがちであります。弱ったときやいのちの困難を抱えて生きているときに、はじめて自分の弱さを認めることができて、他の人に助けられ生かされているのだと肌で感じます。
感染症の事態に直面する中で、教皇フランシスコは世界的な連帯の重要性をたびたび強調されてきました。しかし現実は全く異なる様相を呈しています。
互いに連帯をという呼びかけを無視するかのように、今まさにわたしたちの目の前で大国の侵略による戦争が起きています。戦争は、連帯し互いに助け合うどころか、排斥し排除し、互いに憎しみをぶつけ合い、命を暴力的に奪い、人間の尊厳を傷つける行動です。先の参議院選挙中には元総理大臣が、銃撃を受け亡くなるという暴力的な事件も発生しました。
みなが連帯し、互いに助け合い、支え合い、耳を傾け合い、受け入れ合い、弱さをゆるしあうことが必要なときに、現実には暴力が支配し、いのちの尊厳がないがしろにされ、異質な存在は排除されています。愛とあわれみを欠いた社会に、神の正義はありません。
教皇ベネディクト十六世は、福音に生きる者にとって愛の業に励むことが不可欠であると、回勅「神は愛」で強調されました。わたしたちはこの現実の中で、神の愛といつくしみを、わたしたち自身の言葉と行いであかし続けたいと思います。
同時に教皇は、取り組むべき課題の大きさに私たちが圧倒され、暴力が支配する現実の中であきらめの誘惑に駆られるとき、「正しい道を歩み続けるために、キリストとの生きた関係が決定的に重要」であると教えます。さらに、「キリストから常に新たな力を得るための方法として、具体的に祈ることが、ここで何よりも必要です(36)」と、私たちを祈りへと招いておられます。
教皇フランシスコは「福音の喜び」で、同じようにイエスの愛との人格的な出会いの必要性を語った上で、この祈りについてこう記しています。
「もし、イエスを伝えたいという強い思いを抱いていないなら、イエスに向かって、再びあなたに引き寄せてくださいと、もっと祈る必要があります。・・・冷え切った心を開いてくださるよう、熱意に乏しくうわべだけの生活を送るわたしたちを目覚めさせてくださるよう、イエスの恵みを切に願わなければなりません。(264)」
修道会が歴史を刻み続ける中で、様々な事業に取り組んでこられたことと思います。そしてこれからも取り組まれることでしょう。その一つ一つが、多くの人にとって神の愛といつくしみとの出会いを生み出すものであるように願っています。
教皇ヨハネパウロ二世の使徒的勧告「奉献生活」に、「他の人々がいのちと希望を持つことが出来るために、自分のいのちを費やすことが出来る人々も必要です(104)」と記されていました。
困難に直面し、暴力に支配されている現代社会にあって、キリスト者が神の愛といつくしみに出会い、それを自らのものとし、さらに多くの人へと伝えていくことは容易ではありません。くじけて希望を失うことがしばしばです。そのときに、いのちの希望を生み出す存在が必要です。祈りのうちに、神の愛との出会いを生み出す人が必要です。100周年を目指して、これからも発展を続けられますように。
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