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2022年9月30日 (金)

寺西英夫神父様葬儀ミサ@東京カテドラル

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9月26日朝に93歳で帰天された、東京教区司祭フランシスコ・ザビエル寺西英夫神父様の葬儀・告別式ミサが、本日9月30日午前10時半から、東京カテドラル聖マリア大聖堂で執り行われました。

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寺西神父様の略歴については、こちらの教区ホームページをご覧ください。10年ほど前から現役を退かれて、ペトロの家で隠退生活を送っておられましたが、最後まで力強く、特別な介護を受けることもなく、昼食のビールと夕食のお酒を欠かさず、お過ごしでした。ただこの2年は、コロナ対策のため、信徒の方々の勉強会などもキャンセルになり、8月にはコロナに感染して短い期間でしたが入院もされ、体力が落ちていたところでした。

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小教区主任司祭と神学院院長を経験されていますから、多くの方が影響を強く受けられたことだと思います。本日の葬儀ミサは、親族の方々と司祭団に限定されたミサでした。本来であれば、聖堂は一杯になったことだったろうと思います。盛大にお見送りができなかったこと、それが残念です。

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なお今日のミサには、横浜教区の梅村司教様、そして幸田司教様のお二人も参加してくださいました。

寺西神父様の、永遠の安息を祈ります。

以下、本日の葬儀ミサの説教原稿です。

フランシスコ・ザビエル寺西英夫師葬儀ミサ
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2022年9月30日

御父のもとへと旅立たれた寺西英夫神父様は、東京教区の司祭として多くの教会で司牧にあたり、数多くの方々と信仰における霊的絆を深く結ばれました。また東京カトリック神学院の院長として東京教区のみならず、全国各地で働く司祭の養成に深く関わり、大きな影響を残されました。

小教区での出会いにしても、神学院での出会いにしても、1958年からの64年におよぶ司祭として奉献された人生でありましたから、東京教区の司祭・信徒をはじめとして、全国の多くの方がそれぞれの思い出を持ち、また心に刻まれたかかわりがあったことだと思います。

寺西神父様の永遠の安息を祈るこの葬儀ミサでも、そういった思い出をお持ちのどなたかに説教をお願いしようとも思いましたが、それぞれの思い出が数多くまた深くあることを思い、この数年間の短いかかわりではありましたが、わたしがお話をさせていただくことにしました。

寺西神父様は、1929年4月5日に誕生されていますから、今年の誕生日で93歳となっておられました。この10年近く寺西神父様もお住まいであったペトロの家では、お住まいの神父様方のために、毎年の誕生日の夕食にちょっとしたごちそうを用意して誕生会をしています。寺西神父様には、必ずお気に入りのワインやお酒を持ってこられ、皆に振る舞って回るのが、誕生会の恒例でした。その食事の最後に必ずローソクがともされたケーキが用意されています。わたしもできる限り参加して、ロウソクの火を吹き消される神父様方の写真を撮っているのですが、あらためて寺西神父様が誕生ケーキを前にしている写真を数年分見ましたが、ご存じのようにいつものように厳格な表情をされている写真ばかりでありました。

今年の「祖父母と高齢者のための世界祈願日」メッセージに、教皇様はこう記しています。

「老いて白髪になっても、主はいのちを吹き込み続け、わたしたちが悪に打ち負かされることがないようにしてくださいます。主を信頼するならば、ますます主を賛美する力を得(14—20節参照)、そうしてわたしたちは、年を取ることは、肉体の自然な衰えやどうにもならない時の経過であるだけでなく、長寿というたまものでもあると気づくでしょう」。

その上で、齢を重ねることの意味をこう記します。

「主の存在に気がつけるよう感覚を研ぎ澄ますことで、わたしたちは「神の家にある生い茂るオリーブの木」(詩編52・10参照)のように、そばで生きる人たちにとっての祝福となるのです」。

様々な役職から引退され、ペトロの家で過ごされていた寺西神父様も、その日々の生活を通じて、「生い茂るオリーブの木」のように、周囲に祝福を与えておられたと思います。

教皇様はメッセージの終わりで、特に高齢の方々に向かって、こう呼びかけています。

「今のこの世界においてわたしたちは、優しさ革命の担い手となるよう招かれています。わたしたちが手にしたもっとも尊い道具、わたしたちの年代にもっともふさわしい道具を、もっとたくさん、もっと上手に使うことを覚え、それを果たしていきましょう。その道具とは、祈りです」。

コロナ禍の中で、信徒の方々を集めてのお話などの機会が制限され、外へ出る機会も極端に減り、今年に入ってからは、日課とされていた構内の散歩も少なくなってきたと感じておりました。それでも93歳という年齢にもかかわらず、かくしゃくとされ、杖をつかれてはいましたが、朝のミサに始まり、食事にも出てこられ、昼にはビールを一缶、夕には日本酒を欠かさず、力強く生活を続けておられました。ただ、今年の4月の誕生日の写真を見て気がつきましたが、その頃から、徐々に力を失いつつあるようにお見受けしました。その中で、今年の8月半ばに新型コロナに感染され、短い期間でしたが入院されたことが、一段と神父様の体力を奪ってしまったのかと思います。もっとも最後まで特別な介護などを必要とされることもなく、9月26日の朝食に出てこられないことから、ペトロの家の職員が部屋を訪れると、すでに帰天されておられました。

人生のそれぞれの段階で、与えられたいのちの持つ力を十分に発揮し、与えられた使命を忠実に果たし、最後まで走り抜いた忠実な司祭の人生であったと思います。最後まで祈りの力を見せつけた人生であったと思います。司祭が生涯を通じて与えられた使命に忠実に生きる姿は、勇気を持って神からの呼びかけに応える姿を、模範として示しています。

司祭は叙階の秘跡によって、「最高永遠の祭司であるキリストにかたどられて、新約の真の祭司として、福音を宣教し信者を司牧し神の祭礼を執行するために聖別される」とカテキズムには記されています。すなわち司祭には、三つの重要な役割、すなわち「福音を宣教すること」、「信者を司牧すること」、そし「神の祭礼を執行する」と言う役割があります。

寺西神父様の司祭としての長年の働きも、福音を宣教し、信者を司牧し、神の祭礼を執行することに忠実な歩みであり、主イエスの存在を具体的にあかしする人生であったと思います。隠退生活を送るなかにあっても、生涯にわたってそのときにできる三つの務めすべてに忠実に生きる司祭の姿は、「生い茂るオリーブの木のように」、すべてのキリスト者にとって、特にわたしたち司祭にとっての模範であり、祝福です。

寺西神父様は2011年5月の教区ニュースのインタビューで、司祭生活を振り返って次のように語ったと記録が残されていました。

「戦争の前後の変化、60年安保のエネルギー、第2バチカン公会議による変化など、おもしろい時代を生きてきたな、と思うよ。今の時代は教会だけでなく、社会全体も閉そく感の中にあると思うし、大震災の復興という大きな課題と向かい合って行かなければならないけれど、一つのチャンスと受けとめたらいいね。僕は、今の状況よりもひどい状況を経験しているから、そう言えるよ。そのためには閉そく感に穴を開けるような工夫と気概が必要だし、でも同時にどこか少し離れた所から物事を見つめる余裕も大切にしないとね」

教会と社会の閉塞感は、10年前に比べてなおいっそう激しくなっているようにも思います。教会にあっても、社会にあっても、その閉塞感に穴を開けるような「工夫と気概」を、わたしたちは持ち合わせているでしょうか。同時に『少し離れたところから物事を見つめる余裕」を、心に持ち合わせているでしょうか。

この二年ほどのコロナ禍の中で、連帯は忘れ去られ、自らの命を守ろうとするがあまり、自分中心利己主義が、様々なレベルで深まってしまったように感じます。孤立と孤独も深まりました。閉じ込められてしまった中で、光を求めてもがいているのが現実です。心を落ち着けて、互いに手を繋ぎあい、連帯の中でその暗闇を打ち破る事が必要な時代にわたしたちはいま生きています。

限りない計らいのうちに、神は善なることを計画され、そのために司祭の人生をご自分がよしとされる方法で使われるに違いありません。わたしたちに先立って御父のもとへと旅立たれる先輩の司祭たちの生涯を振り返るとき、神様はその福音が少しでも広まり、ご自分が創造されたすべてのいのちが尊厳を守られ、救いに与るようにと、さまざまな配慮を、その司祭の人生を通じてなされていることに気がつかさせられます。

寺西英夫神父様の永遠の安息を祈ると共に、わたしたちもその模範に倣い、福音をあかしする道を歩んで参りましょう。

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ケルン教区代表団、東京訪問中です。

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ケルン教区の司教総代理であるグィド・アスマン師を団長とした代表団が、この一週間、東京教区を訪問中です。

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代表団は全部で6名。聖職者は団長のアスマン師のみで、他は国際支援を行う普遍教会部門の責任者や青少年担当、教育部門担当などの信徒の方々です。10月5日まで滞在され、これまでケルン教区から支援してきた各所を訪問すると同時に、将来的なケルンと東京教区の関係について、意見交換をすることになっています。

昨日、9月29日の夕方5時から、参加者を限定しましたが、歓迎のミサをカテドラルで捧げました。ケルンと東京の姉妹関係、そしてミャンマーへの支援につながった道筋などは、以下の説教で触れています。

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代表団は、支援する上智大学などを訪問し、またドイツ大使館での行事などもありますが、日曜日には中目黒のドイツ語共同体のミサに参加した後、夕方6時からは築地教会でミャンマーのための平和の祈りに参加されます。また月曜日には、東京教区の司祭評議会のメンバーと会談したり、神学院を訪問する予定です。

以下、カテドラルでの歓迎ミサの説教原稿です。

ケルン教区訪問団歓迎ミサ
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2022年9月29日

聖ミカエル、聖ガブリエル、聖ラファエルの祝日に、ケルン教区からの訪問団をカテドラルに迎え、共に感謝の祭儀を献げることは、東京教区にとって大きな喜びです。

2020年初頭から続いているコロナ感染症は、当初の予想とは大きく異なり、3年目に入ったいまでも、完全に治まってはいません。ヨーロッパと日本では事情が異なっているので、ケルンから来られた皆さんには戸惑いもあるやと思います。皆さんを迎えて、この聖堂に多くの人が集まることができないのは残念です。しかし、霊的な絆における兄弟姉妹としての繋がりを思い起こし、ケルン教区を代表する皆さんに、心から東京教区の感謝を伝えたいと思います。

天使たちが、神の愛を具体化する霊的存在として、常にわたしたちと歩みを共にしてくださるように、ケルンからの訪問団の存在は、目に見える形で、ドイツの兄弟姉妹の皆さんが、日本の教会と歩みを共にしてくださっていることの、あかしです。わたしたちは、イエス・キリストにおける兄弟姉妹として、これからもともに歩んでいきたいと思います。

東京教区にとって、ケルン教区との繋がりには歴史的な意味があり、その繋がりは物質的な援助にとどまらず、霊的にも大きな励ましをいただいてきました。東京教区のホームページには、こう記されています。

「まだ第2次世界大戦の傷あとの癒えない1954年、当時ドイツのケルン大司教区の大司教であったヨゼフ・フリングス枢機卿は、ケルン大司教区の精神的な復興と立ち直りを願い、教区内の信徒に大きな犠牲をささげることを求めました。そして その犠牲は、東京教区と友好関係を結び、その宣教活動と復興のための援助をするという形で実現されていきました」

フリングス枢機卿と当時の土井枢機卿との、個人的な出会いも、ケルンと東京の友好関係の始まりであったとも記されています。

もちろんドイツも日本と同様、当時は敗戦国であり、戦後復興のさなかにあって、決して教会に余裕があったわけではないと思います。ケルンの大聖堂の修復にも取り組まなくてはならなかったでしょう。にもかかわらず、なぜ海外の教会を、なぜ日本の教会を援助する必要があるのかと問われたフリングス枢機卿は、「あるからとか、余力があるから差し上げるのでは、福音の精神ではありません」と応えたと記録されています。この自らの身を削ってでも必要としている他者を助けようとする精神は、当時のケルン教区の多くの人の心を動かし、ケルン教区の建て直し自体にも大きく貢献したと伝えられています。

それ以来、東京カテドラル聖マリア大聖堂の建設をはじめ、東京教区はケルン教区から多額の援助を受けて、さまざまな施設を整えることができました。東京教区の感謝の気持ちは、白柳枢機卿の時代、1979年の両教区友好25周年を契機として、来日した当時のヘフナー枢機卿様と話し合い、今度はケルンと東京が力を合わせて、ミャンマーの教会を支援することになりました。ミャンマーへの支援はいまも続けられており、特にクーデター後の混乱が続くミャンマーのために、平和を祈り続ける原動力となっています。

東京では毎年、1月の第四日曜日を「ケルン・デー」と定め、いただいたいつくしみに感謝を捧げ、その愛の心に倣い、今度は率先して愛の奉仕に身をささげることを、心に誓います。またケルン教区のために、特に司祭・修道者の召命のために、祈りをささげてきました。

ケルンと東京の友好50周年当時のマイスナー枢機卿の書簡には、東京教区への支援を通じて、「私たちの目と心が、世界中の欠乏、飢え、病気に向けて開かれることとなりました。東京教区との、信仰と祈りの生きた共同体が存在しなかったならば、ケルン教区においてその5年後に、全ドイツの司教たちに働きかけて、世界中の飢えと病気に対する教会の救済組織「ミゼレオール」を創設しようとする歩みはなされなかったかも知れません」と記されています。

ケルンと東京の両教区が支援するミャンマーでは、2021年2月1日のクーデター以降、軍政下での混乱が続き、平和を求めて声を上げる人々や教会に対する暴力的な弾圧も続き、7月には民主化運動の指導者たちの死刑も執行されました。暴力を持って他者を従わせ支配しようとすることは、いのちの尊厳への挑戦です。

カテキズムには、「権威が正当に行使されるのはそれが共通善を目指し、その達成のために道徳的に正当な手段を用いるときです。従って、政治体制は国民の自由な決断によって定められ、人々の恣意でなく法が支配する「法治国家」の原則を尊重しなければ」ならないと記されています。(要約406)

残念なことに世界では次から次と暴力的な事態が発生し、社会の関心は移り変わっていきます。世界から忘れ去られたあとに、苦悩に晒された人だけが取り残される悲しみが、幾たび繰り返されてきたことでしょう。わたしたちは、「過去を振り返ることは、将来に対する責任を担うことである」という教皇ヨハネパウロ二世の広島での言葉を心に刻み、姉妹教会であるミャンマーの方々のことを忘れることなく、平和の確立を願いながら、祈り続け、行動したいと思います。歩みをともにすることこそ、いま一番大切であり、それはわたしたちがケルン教区と歩みを共にしてきた経験から学ぶことができます。

3年目に入っている感染症の状況の中で教皇フランシスコは、いのちを守り、その危機に立ち向かうには連帯が不可欠だと強調してきました。この危機的状況から、感染症が広がる以前よりももっとよい状態で抜け出すには、「調和のうちに結ばれた多様性と連帯」が不可欠だと呼びかけてきました。互いの違いを受け入れ、支え合い、連帯することが、いのちを守るのだと強調されてきました。

しかしながら、特にロシアがウクライナに侵攻し戦争が始まった今年、そこには調和でも多様性でも連帯でもなく、対立と排除と暴虐が展開しています。互いに助け合い、支え合うことこそが、いのちを生きる希望を生み出すことを、わたしたちは経験から知っています。しかし現実の社会は、全く反対の道を歩み、いのちを奪い続けています。

本来宗教は、賜物として与えられたいのちを危機にさらすものではなく、神の秩序の確立を目指して、いのちの尊厳を守り、共通善の実現のために資するものであるはずです。暴力が世界を支配するかのような状況が続くとき、どうしても暴力を止めるために暴力を使うことを肯定するような気持ちに引きずり込まれ、宗教者の中にさえ、その暴力を肯定するものがいます。しかし暴力の結末は死であり神の否定です。わたしたちはいのちを生かす存在であることを強調したいと思います。

いま世界に必要なのは、互いの違いを受け入れ、支え合い、連帯することであり、余裕があるから助けるのではなくて、苦しいからこそ、積極的に支援の手を差し伸べる姿勢であります。

その目に見えるあかしの一つとして、これからもケルン教区と東京教区の連帯の繋がりを、強めていきたいと思います。

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2022年9月24日 (土)

週刊大司教第九十五回:年間第二十六主日

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9月最後の主日は、世界難民移住移動者の日と定められています。(上の写真は神学院にて)

中央協議会のホームページには、次のように記されています。

「世界難民移住移動者の日は、各小教区とカトリック施設が、国籍を超えた神の国を求めて、真の信仰共同体を築き、全世界の人々と「ともに生きる」決意を新たにする日です。日本の教会でこの分野の活動を受け持つ日本カトリック難民移住移動者委員会は、日本と全世界にある協力グループとともに、活動の推進、連絡、協力、支援、情報の交流等を行っています。そのために祈りと献金がささげられます」

教皇様はこの日にあたりメッセージを発表されています。今年のテーマは、「移民や難民と共に未来を作る」とされています。こちらのリンクです

メッセージの中で、教皇様は次のように呼びかけておられます。

「だれ一人、排除されるべきではありません。神の計画は本質的にすべてを包み込むもので、実存的周縁部の住人を中心に据えるのです。その中には、多くの移民や難民、避難民、人身取引の犠牲者が含まれます。神の国の建設はこの人たちとともに行うものです。この人たちなしでは、神が望むみ国はならないからです。もっとも立場の弱い人たちを含めることは、完全に神の国の市民権を得るための必要条件です」

その上で、教皇様は次のように呼びかけて、祈りと共にメッセージを締めくくっておられます。

「親愛なる兄弟姉妹の皆さん、とくに若者の皆さん。もし天の父と協力して未来を築きたいのであれば、それを、難民や移民の兄弟姉妹とともに行いましょう。今日築きましょう。未来は今日から、そしてわたしたち一人ひとりから始まるからです」

今般のウクライナの情勢を見るにつけ、難民は遠い世界の出来事ではなくて、世界に生きるすべての人の現実です。そして様々な理由から移動し移住する多くの方も、一人ひとりが神から愛されるいのちをいただいた大切な存在です。すべてのいのちが守られるように祈るためにも、現実に起こっていることを、まず知ることから始めましょう。

日本の司教団も、個別の委員会の課題としてではなく、司教全員の総意として、今ひとつの問題について政府にお願いをしています。多くの課題が存在する中で、小さな一つの課題ですが、いのちを守るための大切な課題の一つだと考えています。こちらのリンクです。司教全員のメッセージビデオもありますので、一度ご覧いただければ幸いです。(下の写真はウガンダ北部にあった国内避難民キャンプで。2005年)


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以下、本日午後6時配信の、週刊大司教第95回、年間第26主日メッセージ原稿です。

年間第26主日C(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第95回
2022年9月25日

「現在の世界情勢は、不安定や危機感を与え、それが集団的利己主義の温床となります」

2015年に発表された教皇フランシスコの回勅「ラウダート・シ」205項にそう記されています。そしてまさしくこの数年間、感染症による先の見えない不安感は、世界中を「集団的利己主義」の渦に巻き込みました。

教皇は続けてこう記します。「人は、自己中心的にまた自己完結的になるとき、貪欲さを募らせます。心が空虚であればあるほど、購買と所有と消費の対象を必要とします。・・・こうした地平においては、共通善に対する真正な感覚もなくなります」

ルカ福音が記す金持ちとラザロの話には、まさしく世界が自分を中心にして回っているかのように考え振る舞う金持ちの姿が描かれています。利己主義に捕らえられた心には、助けを求めている人は存在する場所すらありません。死後の苦しみの中で神の裁きに直面するときでさえ、金持ちの心は自分のことしか考えず、それを象徴するように、この期におよんでもラザロを自分の目的のために利用しようとします。

2016年5月18日の一般謁見で、教皇様はこの話を取り上げ、こう述べておられます。

「ラザロは、あらゆる時代の貧しい人々の叫びを表わすと同時に、莫大な富と資源がごく少数の人の手に握られている世界の矛盾をも示す良い例です」。

その上で教皇様は、「神のわたしたちに対するあわれみは、わたしたちの隣人に対するあわれみと結びついています。それが欠けていたり、わたしたちの心の中に無ければ、神はわたしたちの心に入ることはできません。もし、自分の心の扉を貧しい人々に向けて押し開かなければ、扉は閉ざされたままです。神への扉も閉ざされたままです。それは恐ろしいことです」と指摘されます。こころの扉を開いて、出向いていく教会であることが、集団的利己主義から脱却する道であることが示唆されています。

教皇様が指摘されるように、世界における貧富の格差の問題は、「先進諸国や社会の富裕層では、浪費と廃棄の習慣がこれまでにないレベルに達しており、そうした消費レベルの維持は不可能であることをわたしたちは皆知って」いるにもかかわらず、全く解決されていません(27)。扉は閉ざされたままです。

9月の最後の主日は世界難民移住移動者の日です。教皇様は今年のテーマを、「移民や難民とともに未来を作る」とされました。教皇様は今年のメッセージの終わりにイザヤ書を引いて、「新しいエルサレムの住人は、都の門をつねに大きく開いておき、異邦人が贈り物を携えて入ってこられるようにする」と記しています。わたしたちは、扉を開くことを心に留めましょう。

この一ヶ月、10月4日まで、わたしたちは」ラウダート・シ」の精神に倣って「すべてのいのちを守る月間」を過ごしています。「ラウダート・シ」に倣うということは、ともすれば、環境問題などの特定の課題に取り組むための啓発活動と考えられる嫌いがありますが、教皇フランシスコの呼びかけは個別の課題をはるかに超え、わたしたちの存在の有り様全体にに対して、回心を呼びかけています。

わたしたちは扉を閉ざして籠もってしまうのではなく、扉を開いて外へ出向いていき、共通善の実現のために汗を流す教会でありたいと思います。

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2022年9月23日 (金)

2022年9月の司祭叙階式・助祭叙階式

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イエズス会の司祭叙階式が、9月17日の午後2時から、カトリック麹町聖イグナチオ教会で執り行われました。

今年司祭に叙階されたのは、ヨアキム・グェン・ミン・トァン神父様、そしてペトロ・カニジオ 越智 直樹神父様のお二人です。おめでとうございます。感染症対策での入堂制限がまだ続いていることもあり、聖堂がいっぱいというわけにも行きませんでしたし、また聖歌も、聖歌隊だけの歌唱となりましたが、それでもイエズス会員を中心に多くの司祭が集まり、新しい司祭の誕生を祝いましたし、また聖歌も、イエスのカリタス会シスターたちに加え、ベトナム出身の方々の聖歌隊も構成され、ベトナムの美しい歌を聴かせてくださいました。また叙階式には、越智神父様が研修時代を過ごしたサイパンから、ライアン・ヒメネス司教様も来日され、一緒に司式してくださいました。

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トァン神父様、越智神父様、おめでとうございます。

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なお当日の模様は、こちらのリンクから、ビデオをご覧いただけます

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9月23日午後2時から、今度は助祭叙階式を行いました。助祭に叙階されたのは、東京教区の神学生であるアシジのフランシスコ熊坂直樹さん、アシジのフランシスコ冨田聡さん、そしてアウグスチノ修道会会員マキシミリアノ・マリア・コルベ桑原篤史さんの三名です。

助祭叙階式は、東京カトリック神学院の聖堂をお借りして行いました。というのは、通常東京教区の助祭叙階式は、神学生の出身教会で行いますが、今回は冨田さんが北海道なので熊坂さんの出身教会である関町教会で執り行う予定でした。ところが関町教会の聖堂新築工事が始まってしまい、使えなくなってしまったため、関町教会のお隣にある神学院の聖堂をお借りすることにして、準備などはすべて関町教会の皆さんが中心になって行われました。主任司祭の稲川保明神父様をはじめ関町教会の皆さん、ありがとうございます。また神学院の使用を赦してくださった稲川圭三院長様にも感謝します。

熊坂助祭、冨田助祭、桑原助祭。おめでとうございます。

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三人は、順調に養成が進むならば、来春以降、司祭に叙階される予定です。どうかこの三名の助祭のため、また今年は修道会にも他に数名の助祭がおられますので、司祭叙階に備えている助祭たちのためにお祈りください。また叙階式にあたっては、彼らに続く召命が与えられるように、是非ともお祈り下さい。東京教区は、二人が助祭から司祭になると、後に続くのは二人の神学生だけです。さらにその後に続く神学生が誕生するように、召命のためにお祈りください。一人神学生が誕生しても、司祭になるまでは最低でも7年が必要です。

上石神井の東京カトリック神学院は、夏休みの現在、改修と新築の工事が進められています。「召命が少ないと言ってるのに、新築?」と驚かれるやも知れません。実は足りなくなっているんです。特に、聖座の新しい指針に従って設けられた最初の一年、予科のためのスペースがありませんので、そのための建物を木造の平屋ですが、現在の神学院の建物の隣に新築中です。

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2022年9月20日 (火)

高円寺教会新司祭館祝福式と堅信式

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高円寺教会の司祭館は、2019年1月25日に、火事に見舞われ全焼してしまいました。ちょうど朝のミサの時間帯であったので、怪我をされた方などはおられませんでしたが、主任司祭の蔵書をはじめ多くの貴重なものが失われました。その後、当時の主任司祭であった吉池神父様を中心に再建が検討されました。吉池神父様には、関口のペトロの家から、高円寺教会まで通う毎日が続きました。

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残念なことに、再建計画を検討している最中にコロナの状況となり、また既存の建物の課題も指摘されるなど、もろもろのことが発生して、再建計画は当初の予定よりも遅れてしまいました。

この春からは、高木健次神父様が主任司祭となり、工事も進められ、この度、新司祭館の完成と相成りました。9月18日のミサの前に、前任の吉池神父様にも参加していただき、祝福式を行いました。関係された多くの皆さんに感謝申し上げます。多くの方のご尽力をいただいて、素晴らしい司祭館が誕生しました。

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またこの日は、お昼から堅信式ミサを行い、8名の方が堅信を受けられました。おめでとうございます。

以下、当日のミサ説教の録音から書き起こして、手直しをした原稿です。

高円寺教会堅信式ミサ

このミサの始まる前に、新しく建った司祭館の祝福式をいたしました。3年ほど時間がかかりました。火災で前の司祭館が消失してから、ちょうどコロナの状況になってしまい、なかなか話が前に進まず、いろんなことがありましたけれども、多くの方のご尽力によって今日、やっと祝福の日を迎えることができたのは、本当に大きな喜びであると思います。

教会の中で、聖堂であれ、司祭館であれ、信徒会館であれ、新しい建物が建つときには必ず言われることですけれども、建てるまでは大変なので一所懸命になって働くわけですけれども、いったん建ってしまうと安心してそれっきりになってしまうということがあります。新しくなったものには、そこから新しいことを生み出してゆくというこころを、常にもっていただきたい。

新しい葡萄酒は新しい革袋にということばがありますけれども、新しい建物が建った今日、これからこの新しい建物でこの高円寺教会は、いったい何を新しく生み出していくのかということを、一緒に考えていただければと思いますし、それに対して神様の豊かな聖霊の導きを、ともに祈り続けていただきたいと思います。

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堅信の秘跡を受けられる方々が8人おられると伺いましたけれども、第一の朗読は、聖霊降臨の日、五旬祭の出来事を記した使徒たちの宣教からの箇所でした。

ちょうど今日は、台風が近付いてきていて、外は大雨になり、今はたぶん、今日の中で一番雨が激しい時間帯ですが、雷が鳴って、なかなか落ち着かない。外がゴロゴロしていてやかましくて落ち着かない状況ですけれども、本当はこれこそまさしく聖霊降臨の出来事にふさわしい状況であると思います。

先ほどの使徒たちの宣教をもう一度よく読んでみると、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえて、家中に響いたと書いてあります。そして、あまりにも騒々しいので、みんなびっくりして見に来たと。

聖霊降臨の出来事は、静かに進んでいったのではなくて、やかましい出来事だったと記されています。周りの人たちが驚いて、何事だといって見に来るほどの騒々しい出来事であったことが、この使徒たちの宣教に記されています。

聖書のことばを読むときは、どうしても字面だけを追ってゆくので、実際にどうだったんだろうということを思い起こすことはなかなかないのですけれども、この使徒たちの宣教の五旬祭の出来事は、是非とも頭の中でイメージをしてほしいと思います。

弟子たちは静かに、それまでは隠れていたんですよね。みんな怖くて、イエス様が殺されてしまって、いなくなってしまって、取り残された弟子たちは、周りの人たちを恐れて、静かに隠れていたのです。けれども、そこに聖霊が降って来て、どーんと大きな音で、騒々しい出来事が起こって、多くの人たちが見に来て、そこから福音宣教が始まったと。

ひっそりと隠れているところから福音宣教は始まらなかったんです。騒々しくてガタガタしていて、落ち着かないところから、福音宣教は始まった。そしてその福音宣教が始まるためには、聖霊がそこに豊かに働いていたという出来事が、この最初の朗読だったと思います。

その意味で、こうやって外では雨が降って騒々しくて雷が鳴って落ち着かないですが、まさしく、聖霊が働いているという意味で堅信式にふさわしいお天気であると思います。

教会も人間の集りですから、みんなが仲良く、みんなの意見も一緒で、にこやかに静かに、何事もなく集まっていれば、それは居心地がいいですけれども、でも、聖霊が働いているところは実は居心地が悪いんです。ガタガタしているんです。なかなか落ち着かないんです。

聖霊が働くことによって、いろんなことを考える人たちが、同じ事をみな考えているのではなく、それぞれに与えられた役割、それぞれに与えられた恵み、それぞれに与えられた聖霊の導きがそこにはあって、それがぶつかり合うから、落ち着かないんです。

ですから、聖霊が働いているところは落ち着かない。聖霊が豊かに働いているところほど、ガタガタしているというふうに私は思っています。

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今日、お一人おひとりの上に、堅信の秘跡を通じて豊かに聖霊が注がれます。それは、けっして、これこそが完成したクリスチャンですよという雛形があって、それにぴったしと収まるようなクリスチャンができるということではないんですよ。洗礼、ご聖体、そして堅信という3つの秘跡を受けて、入信の過程は完成するんですけれども、完成したときにはこうゆうクリスチャンが、キリスト者がそこに出来ているというふうな雛形はないんです。みんな違う。それぞれが受けた恵みがそれぞれ異なっているはずなので、違う人たちが、みんな同じようなことを言ってみんな同じようなことを考えているような共同体だったら、聖霊は働いていないんです。

ここで8人の人が聖霊を受ければ、8通りの聖霊を受けたキリスト者としての完成した姿がある。お一人おひとりに、神様は聖霊の力を豊かに恵みを注いでくださるので、一人ひとりが、自分に見合った才能、見合ったタレントをより良く活かし、福音を告げ知らせる者として生きてゆくこと、それが成熟したキリスト者が完成するということだと思います。

一昔前は、堅信を受けることによって、みなキリストの兵士になるという言い方もしましたけれども、それくらい、命をかけてイエスキリストの福音を証しする生き方をしていこうという意気込みが表されたことばだったと思っています。

堅信の秘跡を受けることによって、今日これからお一人おひとりの上に聖霊が注がれるといいますが、でも、急に力が出るとかスーパーマンになるとか、そうゆうことはないんです。皆さんおひとりひとりが福音を宣べ伝えよう、自分に与えられた役割を果たしていこうというその熱意を、聖霊は後ろから後押しをしてくれる、後ろから支えてくれます。

あぁダメだなと思うとき、後ろを振り返って下さい。必ず聖霊がわたしたち一人ひとりを支えて、励ましてくれます。これは確実にそうですので、堅信式を受けるにあたって、これから福音を告げ知らせるという役割を、ゆっくりゆっくり、それぞれの場で、それぞれの方法で、果たしていっていただければと思います。

 

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2022年9月17日 (土)

週刊大司教第九十四回:年間第二十五主日

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9月も半ばを過ぎました。(上の写真は、松原教会聖堂)

教皇様は、先日カザフスタンに出かけられ、無事にローマに戻られました。

教皇様は、同国首都ヌルスルタンで、諸宗教のリーダーを招き、9月14日から2日間の日程で開かれた「第7回世界伝統宗教指導者会議」に出席され、バチカンニュースによれば、共同宣言を受けてのスピーチで、『今回の共同宣言にある、「過激主義、原理主義、テロリズム、その他、憎悪・暴力・戦争をあおるすべてのもの・動機・目的は、真の宗教精神と一切の関係がないものであり、断固として退けられるものである」という言葉を繰り返された』と報道されています。真の宗教精神が、いま、問われています。

なおカザフスタンを含む中央アジア諸国の司教団は、つい先日から一つの司教協議会を構成しており、FABCのメンバーとして、アジアの教会の一員です。一言で『アジア』と言ったときの、多様性を物語る地域の一つでもあります。

本日9月17日午後2時から、麹町教会でイエズス会の司祭叙階式が執り行われ、二人の司祭が誕生しました。ヨアキム・グェン・ミン・トァン神父様、ペトロ・カニジオ越智直樹神父様。叙階おめでとうございます。

また、明日9月18日日曜日には、高円寺教会で、新しい信徒会館と司祭館の祝別式、並びに堅信式が行われます。高円寺教会の司祭館は数年前に火事で失われ、その後コロナ禍で再建が遅れていましたが、完成しました。また、明日以降に報告します。

以下、本日午後6時に配信した、週刊大司教第94回、年間第25主日のメッセージ原稿です。

年間第25主日C(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第94回
2022年9月18日

パウロはテモテへの手紙に、「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます」と記し、自ら創造されたすべてのいのちを包み込もうとする、神の愛といつくしみを語ります。

ルカ福音は、「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である」というイエスの言葉を記します。

わたしたちは、神の愛といつくしみから、誰ひとり忘れ去られることなく、また誰ひとり排除されることのない世界を実現することを目指しています。神の愛はすべての人に向けられているにもかかわらず、それを妨害しようとするのは、わたしたちの不忠実さであります。わたしたちは神の愛といつくしみの前に立ちはだかる様々な障壁を取り除くという大きな目的を達成するために、目の前の小さな事への取り組みを忠実に果たしていかなくてはなりません。

教会は、9月1日から10月4日までを「被造物の季節」と定めて、総合的エコロジーの観点から、日々の生活の中で小さな行動を忠実に積み重ねて、わたしたちに神から与えられた共通の家を大切にすると言う目標を達成するための啓発の時としています。日本の教会も、2019年の教皇訪日のメッセージに触発されて、同じ期間を「すべてのいのちを守る月間」と定め、神からの呼びかけに忠実であるようにと啓発活動を行っています。今年の7月の司教総会では、この取り組みを更に強化するために、司教協議会に「ラウダート・シ・デスク」を設置することも決めています。

2020年初め頃から、世界中を巻き込んでいる感染症がもたらすいのちの危機は、目に見えない小さなウイルスによってもたらされました。わたしたちは人間の知恵と知識には限界があることを思い知らされています。しかし往々にしてわたしたちはその限界を忘れ、あたかも人類がこの世界の支配者であるかのように振るまい続けてきました。その結果が、教皇様が指摘されるように、共通の家である地球の破壊です。

教皇フランシスコは回勅「ラウダート・シ ともに暮らす家を大切に」を発表され、すべての被造物は互いにすべてつながっているがために、互いの調和のうちに生きていく道を探ることの重要性を強調されました。これを教皇様は、総合的エコロジーという言葉で表します。その意味は「さまざまなことが、本質をめぐってそれぞれつながり合い、影響し合っている」ことです。そこから教皇様は「環境問題は孤立した分野ではなく、社会の問題、人間の問題、そして根本的に神との関わりの中にある」と指摘します。

その上で教皇様は、「この世界でわたしたちは何のために生きるのか、わたしたちはなぜここにいるのか、わたしたちの働きとあらゆる取り組みの目標はいかなるものか、わたしたちは地球から何を望まれているのか」といった問いかけに忠実に答えること姿勢を求めます。

教会は今、シノドスの道を歩み続けています。神の民として、ともに歩もうとしています。わたしたちはそれぞれの生きている現実の中で、小さな事に忠実に取り組む姿勢を忘れることなく、神が与えてくださった大地の叫びと、社会から忘れられ排除されている人たちの叫びに耳を傾け、それを神の視点で識別し、具体的な行動を積み重ねていきたいと思います。

教皇フランシスコが東京ドームミサで呼びかけたように、「キリスト者の共同体として、わたしたちは、すべてのいのちを守り、知恵と勇気をもってあかし」する忠実な僕でありたいと思います。

 

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2022年9月15日 (木)

松原教会堅信式ミサ@年間第二十四主日

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9月11日の日曜日、世田谷区にある松原教会で、15名の方の堅信式を行いました。松原教会は、淳心会(スクート会)が司牧を担当し、構内には、聖書と典礼でおなじみのオリエンス宗教研究所があります。

堅信を受けられた皆さん、おめでとうございます。

以下は、当日のミサ説教を録音したものから書き起こし、少し手直しをした原稿です。

松原教会堅信式@年間第二十四主日
2022年9月11日

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今朝ミサの前に、祭服を着て準備をし、外を見ていました。入口のところにマリア様のご像があって、ここに来られる多くの方は、その前で、マリア様にお辞儀をし、お祈りをしておられる。その姿を拝見していて、ああいいなと思いました。

そうしたら今日の第一朗読は、イスラエルの民が雄牛の鋳像を作って、それに祈りを捧げていたという話でしたね。わたしたちが祈りをささげる聖母像と、イスラエルの民が拝んだ金の雄牛の鋳像と、何が違うのか。何が違うかご存じですよね。

それは、別にわたしたちは、マリア様のご像自体が、何かをしてくれる神様そのものだと思って祈っているわけじゃないですよね。ご像それ自体じゃなくて、マリア様を通じて、主イエスに祈りを捧げる。その取次ぎをしてくださる力をもっておられる方が、聖母マリアだということを信じているので、聖母マリアの御像を目の当たりにしながら、実際に存在される聖母のことを心に思い起こし、わたしたちの祈りを、主イエスに向かって、そして神に向かって、捧げる。その一番大切な、取り次いでくださる方がそこにおられる、ということを感じながら、祈りを捧げてゆく。

ところが、出エジプト記にはこう書いてあります。
『イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上った神々だ』と。つまり、鋳造してそこにある若い雄牛の像、それ自体が神様なのだと。

それは神様を象徴しているものだとか、わたしたちに神を想起させるものだとか、わたしたちを祈りへと招くよすがであるとか、そうではなくて、その像そのものが神なのだと言っている。人間が作ったものが神なんだと言っているところに、大きな間違いがあるわけです。

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わたしたちは、聖母像がそこに立っていれば、その像こそがマリア様なのだというわけではないです。それを通じてわたしたちは、霊的な聖母の存在を心に感じながら、祈りを捧げている。その助けとしてご像が、そこにあるということですので、このわたしたちの教会にある御像と、旧約の時代のこのイスラエルの民が作った偶像である神との、大きな違いはそこにあります。 わたしたち人間が勝手に作って、人間の思いをそこに込めた偶像なのか、そうではなく、神様に向かってゆく道の一つなのかというところに、大きな違いがあると思います。

ところが、この2年間のように、なかなか先行きが見通せない、特にいのちの危機やそれに絡んでいる状況の中に取り残されてゆくと、暗闇の中に取り残されたままでは落ち着かなくなってくるので、何とか道を見つけたい、何とか出口を見つけたい、どこかに光を探したい、と一所懸命になってしまいます。2年以上もこの状況が続くと、ちょっと光が見えると、それに飛びついてしまうんですよね。時として心によく響くそういった光は、偽の情報かも知れません。でも、安心を与えてくれるそういった情報に、飛びついてします。今のわたしたちにとって偶像は、情報です。

インターネットなどを通じて、朝昼晩と入ってくる情報です。高度な情報化社会の中で生きているわたしたちは、あっ、これだ!あれこそ救いだ!これこそ救いだ!といって、あまり大した確証もないのに、サッと飛びついてしまう。それがわたしを救ってくれる、これがわたしを救ってくれると、飛びついてしまう。そうゆう状況の中でわたしたちは生きている。それこそが現代の偶像崇拝の蔓延です。その中で、その危険の中で、信仰生活を営んでいるのだということを、常にこころに留めてゆかなければと思います。

そのような中、今日の福音には、99匹の羊を荒れ野に残して、見失った1匹の羊を探しにゆくという、主の姿が記されていました。

そこにこそ、人間が勝手に作った偶像ではなくて、真の神の姿が表されています。

すなわち、人間の普通の常識であれば、危険を冒してまで、いなくなった一匹を探すよりも、残された99匹を守った方が、損得勘定からいったら当然、得なはずです。なので、99匹を守ってそこで利益を確保して、と思うのが普通の常識ですけれども、神にとっては、すべてが大切なのだと、一人ひとりが大切なのだと。これはわたしたちの信仰の根幹です。

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いのちは、神によって与えられたもので、そこに、どれが大切だとかどれが大切ではないのかとか、そうゆうことは一切ないのです。神はすべてのいのちを大切だと思っている。

すべてのいのちを救っていきたい、すべてのいのちに対して愛を注ぎたい、すべてのいのちに対していつくしみを注いでいきたい。すべてのいのちを救いの道へ導きたい。その思いが、イエスご自身が、受肉されて人となられ、十字架の死を通じて、苦しみを通じて、復活して栄光に到るまでの、あの道を歩んできた。その原動力は、すべてこの、すべてのいのちが大切なのだという、神の愛といつくしみの表れなのです。そして、そこにこそ真理がある。

この混乱する社会で、これこそ救いだ、あれこそ救いだ、こちらにこそ真理がある、など、いろんな説が流れている中で、わたしたちはすでに真理を知っているんです。わたしたちは、本当の、大切なことをすでに知っているんです。それは、神はすべてのいのちを愛して、誰一人見捨てない。いつくしみを常に注いでくださっている、というこの事実です。そのことを、常に私たちの心に刻んでおきたいと思います。

その上でわたしたちは、それを、あぁ有難いと受け取るだけではなくて、更にそれを多くの人たちに告げ知らせていきたいと思います。でも今、この数ヶ月の間、特に信仰について語ることが難しくなっています。元首相が暗殺されて以降、いろんな宗教的なことがその背景に語られているので、宗教的なことを社会の中で語ることが、ものすごく難しい状況の中で、いま生きていると感じます。そういった状況に合って、、どうやって福音を告げしらせるのでしょう。

福音を告げ知らせなかったら、キリスト者でいる意味がないですよね。わたしたちにとって信仰を生きるというのは、自分がよければいい、自分さえ神様に救われて天国へ入ればいい、というための信仰ではないんですよ。

わたしたちの信仰は、全世界に行って福音を宣べ伝えなさいと言ったイエスの、最後の宣教命令を実現してゆくこと。具体的に生きてゆくこと。それがわたしたちの信仰の中心にあるはずなので、福音をこんな状況の中でどうやって伝えていくことができるんだろうか、ということは、大きな課題としてわたしたちの眼前にあると思います。

今日堅信を受けられる方々は、洗礼の秘跡を受け、ご聖体の秘跡を受け、堅信の秘跡を受け、入信の三つの秘跡をすべて受けることによって、キリスト者として完成するわけですね。完成した瞬間には成熟した立派な大人の信仰者がここに存在しているはずなんです。ここからだんだん悪くなっていくのですけれど。

そのことを一昔前には、キリストの兵士になるという言い方をしましたし、現代では、成熟したキリスト者、大人のキリスト者になるという言い方もします。成熟し兵士になり大人になってゆくんですから、それにはそれなりの責任が伴ってゆくんですね。
その果たさなければならない責任の一つが、あの宣教命令に従うこと。福音を告げ知らせなさい。

ですから今日堅信を受けられる15名の方々は、このコロナの状況の中で、どうやって福音を伝えていくかということは、それぞれが与えられた責務として、考えていただかねばなりません。

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いろんなことがあると思いますけれども、やっぱり、原則は基本に忠実にいくしかない。つまりわたしたちは、自分の言葉、自分の行い、日々の生活の中での自分の言葉と自分の行いが、どれだけ福音に基づいているのか、ということを振り返ってゆく。それがまず肝心だと思います。

自分が語っていることは正しいこと、行っていることは正しいこと。でもそれは自分の視点にすぎません。自分のしていることは正しいこと、正しいことをしている。でも問題は、それがどうゆう人間関係を生み出しているのか。そこにも、心を配らなければならないのです。宣教はわたしの価値観の押しつけではないのですから。

わたしは一人で信仰を生きているわけではなくて、この神が与えられたいのち、すべてのいのちとともに、共同体を一つの共同体を作って生きるのですから、その中で、どうゆう人間関係を、わたしの言葉が、わたしの行いが、生み出しているのか。そこに常に心を配っていく必要があると思います。

わたしの語る言葉、わたしの行う行い、そしてそれを通じて育ってくる人間関係、その中でわたしたちは福音を証ししていくのです。わたしが語っていること、わたしがすること、そしてあなたとの関係、その中で福音が実現していくこと、それをわたしたちは目指していきたいと思います。

堅信を受けられる皆さん、堅信を受けたからって、急にスーパーマンになるわけではない。見た目は何も変わらないです。でも、一つだけ変わることがあります。それは、確実に今日堅信の秘跡を受けるので、神様は聖霊でわたしを後押ししてくれているという確信が得られると思います。

それは、秘跡によって必ず与えられます。神は聖霊の力をもって、あなたの善なる意志を、後ろからぐっと押して下さっている。それは確信として今日、この堅信の秘跡を受ける時に、心に留めていただければと思います。後ろから押されていることに抵抗しないで、素直に押されて、前に進んで、福音を証しするつとめを果たす、それを常に心掛けたいと思います。

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2022年9月11日 (日)

2022年教区カテキスタ認定・任命ミサ

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東京大司教区では2018年から、教区のカテキスタ養成講座を設置し、猪熊神父様のリーダーシップのもと、これまで第一と第二期のカテキスタが任命され派遣されてきました。

最初の認定・任命ミサを行った2019年9月の司教の日記に、その設立の詳しい事情が記してあります

当初から、教区カテキスタの方々の活躍について、教区ニュースでお知らせして来ましたが、その情報量も増加してきたので、2022年5月からは、教区カテキスタの情報を独立させ、「Tangible」と言う名称で別途お届けしています。これはバックナンバーを教区ホームページでご覧いただけます。こちらのリンクです。印刷したものの、教区ニュースと一緒に小教区にお届けしています。「Tangible」は、どこかの団体のニュースではなくて、教区からのお知らせの一部ですので、教区ニュースと共にご一読ください。

その創刊号の猪熊神父様の記事にもありますが、教区カテキスタは生涯にわたる任命ではなくて、3年という期限を切った任命となっています。それぞれの方の生活の事情などもあるために、期限を設けました。3年後に再び継続されたいという方には、更新の講座を受けていただきます。そしてさらに3年の再任命となります。

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このたび、9月10日の土曜日、更新プログラムを終了された方と、昨年が中止となったため、昨年の第3期と今年の第4期の養成講座を終えられた皆さんの認定と任命のミサを、カテドラルで行いました。第1期生の方から19名が更新され、第3期と第4期で9名の方が新たに認定・任命されました。

Tangible」の第4号によれば、2023年4月からは、「新しい拠点教会(清瀬)が増え、7つの小教区で、教区カテキスタたちによる「入門講座」が、随時、開催されることになります(葛西・清瀬・関口・関町・西千葉・松戸・松原 / 50音順)」(記事のリンクはこちら)。

信徒養成のために活躍してくださるカテキスタの方々に、心から感謝申しあげます。どうかカテキスタの方々のために、教区の皆様にあってはお祈りをお願い申しあげます。司祭や修道者と同様カテキスタも召命です。信徒の召命です。主からの招きに答えるためには、聖霊の助力が必要です。そのために皆様のお祈りが不可欠です。どうかお祈りください。

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なお今年9月から始まる第5期には、9名の方が参加すると伺っています。これからご自分もカテキスタとして奉仕されたいとお考えですか?こちらの教区ホームページをご覧ください

以下、2022年教区カテキスタ認定・任命ミサの説教原稿です。

「東京教区カテキスタ養成講座」
2022年9月10日・認定・任命ミサ
菊地功

いまは困難な状況ではありますが、それは同時に、積極的にメッセージを届けるための方法を考える機会をも提供してくれたと思います。大げさに言えば、待ちの姿勢の教会から、積極的に打って出る教会へと変わっていく機会が、このたびの出来事を通じて、わたしたちには与えられていると感じております。わたしたちは今、創造的であることが求められています。インターネットを通じたさまざまな発信が、教会のさまざまな部署で始まっていますが、それが一過性のもに終わらず、これから継続して福音宣教の中心となっていくことを願っていますし、それに若い世代が積極的に関わってくださることを期待しています。

シノドスの準備文書には、ともに歩む教会共同体の姿勢に関して、重要なポイントがいくつか提示されていました。

すでに先ほどの講話で触れたように、それはまず「霊の呼びかけを思い起こす」ことであり、「すべての人の声を聞く、参加型の教会プロセスを生きる」ことであります。さらに「カリスマの多様性を認識する。福音宣教のための参加型の方法を見つける。反福音的な動きを見極める。社会の癒しや和解のために信頼できる教会となる」事が大切だと記されています。

いま宗教の意味が問われています。カトリック教会自身も、自戒の念を込めて振り返る必要がありますが、元首相の暗殺事件以来、宗教団体の社会における存在の意味が大きく問われています。言うまでもなく、どのような宗教であれ、それを信じるかどうかは個人の自由であり、その信仰心の故に特定の宗教団体に所属するかしないかも、個人の内心の自由は尊重されなくてはなりません。

そもそも人は、「良心に反して行動することを強いられたり、共通善の範囲内で、良心に従って行動することを妨げられては」ならないとカトリック教会は教えます(カテキズム要約373)。「共通善」とは、「集団や個々人にそれぞれの完成に達することを可能にするような社会生活の諸条件の全体」のことであり(同407)、わたしたち宗教者は、社会におけるその行動が共通善に資するものでなくてはなりません。

いまは様々に意味合いが異なる問題が一緒に混ぜ和されて議論されているので、問題の本質が見えずらくなっています。いま一番の問題は、社会の中でその宗教を実践する団体とはどういう意味を持つ存在であるのかと言う点です。

そもそも宗教は、いのちを生かす存在でなくてはなりません。希望を生み出す存在でなくてはなりません。従ってその宗教を生きる宗教団体が、いのちを奪ったり、生きる希望を収奪するような存在であってはなりません。人間関係を崩壊させたり、犯罪行為に走ったり、いのちの希望を奪ったりすることは、宗教の本来のあり方ではありません。

わたしたちはどうでしょう。キリストはいのちを生かす希望の光であり、わたしたちはそもそもこのいのちを、互いに助け合うものとなるようにと与えられています。わたしたちはすべての人の善に資するために、いのちを生かす希望の光を掲げる存在であり続けたいと思います。
在であってはなりません。

さて、日本の教会が十六教区から提出されたシノドスへの報告書に基づいてまとめた、バチカンへ提出した報告書をご覧になったでしょうか。いくつかの点を取り上げておきたいと思います。

教会の現状認識を示す事柄として、「困難さ」に関して指摘されている三つの点に注目したいと思います。
1: 「しかし信者たちは、実際「ともに歩む」ことにさまざまな困難さを感じている。たとえば、小教区の仲間内の「サロン化」、新しい人に対する排他的な傾向、信者同士の関係が希薄になることへの懸念、教会内の人間関係のトラブル、悪口、差別意識、対立や争い、裁く姿勢などである。また個人的には精神的、経済的に余裕がなく、自分の生活で手一杯と感じ、周囲の人に積極的にかかわれないといった声もあった。コロナ禍にあってこうした障害が加速し、人々の交わりがさらに困難になっている」

2:声を聴くことへの困難さについては、個々人の姿勢(自己中心、傲慢、思い込み、不寛容、無関心、教会の特権意識、攻撃性、聴く側の疲れ、傷つくことへの恐れ、閉鎖性、消極性、心の余裕のなさなど)が指摘された。さらに、不安定な人間関係、時間がない、自分の方が聴いてほしいという欲求などの理由が挙げられた。これらを克服するには、「語る」教会から「聴く」教会への文化的な変容が求められる。
 そしてもう一つ、「宣教に向かうことの困難さ」にこうあります。

3: 各人の無関心、怠慢、安楽を求める気持ち、勉強不足、信仰の弱さ、負担感、といったところから宣教活動を躊躇する人も多い。司祭・修道者に依存する意識から、宣教に消極的な信徒も多い。信徒の場合、教会活動とは別に、地域社会や職場で、信者であることを周りの人たちに公表しながら、自分の生活を通して宣教することの大切さも自覚しているが、現実はそううまくいっていない。聖職者が信徒の参加を妨げることもある。司祭、修道者、信徒の支え合いが弱いと教会が外に向かわない。信徒の高齢化、減少により、教会の働き手が不足し、信仰教育や社会奉仕活動はかなり後退している地域も多い。

さて皆さん、こういった困難さを目前にして、教会にとって信徒の使徒職であるカテキスタの存在は、これから更に重要性を増していきます。カテキスタとは単に入門講座の先生に留まりません。激しく少子高齢化が進む社会にあって、これまで教会が築き上げてきたシステムは、徐々に機能しなくなってきています。教会そのもののあり方を見直し、その歩みを共に支えてくださる人が不可欠です。

ましてや司祭の召命が劇的に増えることは難しいと思います。なにせ、今日志願者が出てきても、その人が順調にいって司祭になるのは7年以上も先の話です。教会のリーダーシップにあって、信徒の役割には重要なものがあり、なかでも、しっかりと養成を受けているカテキスタの存在は、教会共同体の中での霊的リーダーの一角を担うものとして、これからさらに重要性を増していきます。

教会共同体を育て上げるために、司祭と共に働くカテキスタの存在は、不可欠です。シノドスの歩みを続けるために、神の民におけるカテキスタの存在は不可欠です。宗教の存在の意味が問われているこの精神的に荒廃した社会で、教会を背負って立つことを聖職者だけに任せておく時代は終わりました。皆さんのこれからの活躍に期待しています。一緒になって、歩んでいきましょう。共に力を合わせ、困難の壁を乗り越えましょう。

 

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2022年9月10日 (土)

週刊大司教第九十三回:年間第24主日


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教区カテキスタの養成講座の、今年度のコースが終わりを迎え、本日午後、最終回の講話(わたしが担当)、修了式と任命・派遣のミサがカテドラルで行われました。これについては、別途また別の記事でお知らせします。新しくカテキスタとして任命された方々には、今後の活躍を期待します。ともに歩む教会共同体を、一緒に育てて参りましょう。(写真はアシジ)

毎年9月14日と15日には、秋田の聖体奉仕会修道院で、聖母マリアと共に祈る秋田の聖母の日が、2014年から行われてきました。残念ながら、コロナ禍のために中止となってきました。今年こそは再開できるかと期待して、いつもの信徒による旅行社パラダイスさんと巡礼を組もうと企画していましたが、今年も中止となってしまいました。もう一年だけの辛抱であることを祈ります。来年こそは。祈りの雰囲気に満ちあふれた秋田の地で、聖母を通じて主イエスへと導かれるために、共にロザリオの祈りを捧げることができる日の再開を,祈り続けます。聖体奉仕会では、今年の秋田の聖母の日のために、20分程度のメッセージビデオを用意しているようです。14日には公開の予定と聞いていますので、またお知らせします。

本日9月10日は、日本205福者殉教者の記念日です。そしてこの日は、「元和の大殉教」の日でもあります。今年でちょうど400年となり、長崎教区では祈念の祈りがささげられています。長崎教区のお知らせには、次のように記されています。

「毎年9月10日は日本205福者殉教者の記念日です。1622(元和8)年9月10日に長崎西坂の丘にて55名(うち52名は福者)が火刑・斬首され、「元和の大殉教」と呼ばれています。今年で400年目を迎えます。長崎の地は日本二十六聖人の殉教をはじめ、多くのキリシタンが殉教した土地です。彼らはその信仰をなによりの宝とし、死を前に恨み言ではなく、神への賛美と感謝のうちに、命の限り神の愛を人々にあかししました」

あらためて、日本の殉教者の信仰における勇気に倣い、わたしたちも現代社会にあって福音をあかしする信仰を持つことができるよう、その取り次ぎを祈りましょう。

以下、本日午後時配信、週刊大司教第93回、年間第24主日メッセージ原稿です。

年間第24主日C(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第93回
2022年9月11日

出エジプト記は、モーセが不在の間、不信に陥ったイスラエルの民が、金の雄牛の鋳像を造り、それにひれ伏しいけにえをささげた様を記しています。民のこの行動は神の怒りを招きますが、モーセはなんとか神の怒りをなだめようと努めます。出エジプトの出来事を体験したイスラエルの民でさえ、先行きの不安に駆られ不信感が増大したときに、自分の心を落ち着けてくれる存在に頼ってしまう。人間の心の弱さを象徴している話です。

わたしたちは、基本的に変革よりも安定を望みます。自分の心を落ち着けてくれる道を求めようとします。その思いが募るとき、結果として手に入れるのは、自分の願いを満たしてくれる答えであり、往々にしてその答えは、真理とはほど遠い道であることが、この物語から示唆されます。

真理の道は神が用意された道であるにもかかわらず、不安や不信、または利己的な思いは、真理の道からわたしたちの目をそらせ、自分が思い描いた欺瞞の道へと誘います。そこに神のいのちはありません。

教皇フランシスコは、「福音の喜び」の中で、「出向いていく」教会であることを求めながら、教会共同体が福音宣教のために「司牧的な回心が要請する構造改革」に取り組むように求めています(27)。その上で、「宣教を中心とした司牧では、『いつもこうしてきた』という安易な司牧基準を捨てなければなりません(33)」と記し、自分たちが経験に基づいて思い描いている理想に固執することなく、常に聖霊の働きに心を開き真理の道を識別し続けるようにと求めています。

ルカ福音は、99匹の羊を野原に残してでさえも見失った一匹を探しに出かける「善い牧者」の姿を記しています。

このたとえ話の導入では、やはり過去のしがらみや倫理的基準に捕らわれたファリサイ派や律法学者が、罪人と食事をともにするイエスを批判する姿が記されています。自分たちの安全地帯に留まろうとする選択は、真理からはほど遠いことが示唆されています。

そしてイエスは、1対99の比較という選択肢を持ち出し、1をあきらめても99を確保するであろう常識的判断ではなく、神の判断は、一人も失われることなくすべてのいのちを徹底的に愛し守り救うのだという、神の真理の道を明確に示します。常識と、神の真理。わたしたちの立ち位置は、どちら側にあるのでしょうか。

2016年5月4日の一般謁見で、教皇様は、「わたしたちは皆、見失った小羊を肩に担いだよい羊飼いの姿をよく知っています。その姿は、罪人に対するイエスの心配りと、だれかが居なくなっても決してあきらめずに探してくださる神のいつくしみをつねに表わしています」と述べています。

その上で、「だれも何も救いのみ旨から神を引き離すことはできません。神は現代の使い捨て文化とは無関係です。まったく関係ありません。神はだれも見捨てません。神は皆を一人ひとり愛し、探しておられます。神は「人を見捨てる」ということばを知りません。なぜなら、神は完全な愛であり、完全ないつくしみだからです」と指摘されています。

更に教皇様は、「自分が「正しい」と思いこみ、自分自身の中に、自分の小さな共同体の中に、そして小教区の中に閉じこもってはなりません。それは、他者との出会いへとわたしたちを導く宣教への熱意が欠けているときに起こります」とも指摘されます。

常識と神の真理。わたしたちの立ち位置は、どちら側にあるのでしょうか。

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2022年9月 9日 (金)

清泉インターナショナルスクール60周年感謝ミサ

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用賀にある清泉インターナショナルスクールが、創立60年を迎え、本日、学校において感謝ミサを捧げました。インターナショナルスクールですから、新学年が始まったところです。

五反田にある清泉女子大学などと同じく、聖心侍女修道会によって創立された清泉インターナショナルスクールは、幼稚園は共学ですが、それ以上は女子校です。当初は戦後に駐留していた米軍の関係者の子どもたちのための幼稚園として始まり、その後小学校が開設され、現在のインターナショナルスクールとして始まったのが1962年です。その後1972年に、用賀にある聖公会の神学院の隣接地に現在のキャンパスが設置されました。ですから今年は、学校創立60年であると共に、用賀で始まって50年と言うことになります。

詳しくは、英語ですが、インターナショナルスクールのホームページがこちらのリンクにあります。

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今日のミサは、マスクや換気などの感染対策を施しながら、体育館で行いました。通常の宗教行事で関わっているエミリオ神父様とレオ神父様、そして大司教秘書のオディロン神父様との共同司式で、ミサのはじめにインドの文化に敬意を表して、修道会、職員、保護者、生徒の代表による明かりをともす式(もっとも本物の火は使えないので、LEDキャンドルで)からはじまり、随所に様々な国の文化を象徴する祈りなどが配置されたミサでした。生徒さんたちは、50を超える国や地域にルーツを持っておられると伺いました。

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またミサの中で、この学校の4代目の校長でもあるシスター・アスンシオンの101歳の誕生日もお祝いしました。シスターは、車椅子生活ですが、しっかりとされていて、まだまだお元気です。

清泉インターナショナルスクールの皆さん、おめでとうございます。

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2022年9月 3日 (土)

週刊大司教第九十二回:年間第二十三主日

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9月の最初の主日は、被造物を大切にする世界祈願日です。

9月1日から、アシジの聖フランシスコの祝日である10月4日までは、「被造物の季節」と定められており、カトリック教会だけでなくキリスト教諸教派と共に、わたしたちが「ともに暮らす家」のために祈り、またそれを守るための啓発と行動を呼びかけています。このエキュメニカルな活動に参加するよう教皇庁総合人間開発省が毎年呼びかけを行っていますが、日本の教会は、2019年の教皇訪日に触発されて、この期間を「すべてのいのちを守るための月間」と命名し、さまざまな取り組みを行ってきました。

今年も教皇様のメッセージが発表されています。こちらのリンクです。今年の「被造物の季節」のテーマは「被造物の声に耳を傾ける」で、詩編19編2節~5節から取られています。 

東京教区のホームページでも特設コーナーを開設しました。こちらのリンクです

またカリタスジャパンでも、特設コーナーを設けています。こちらのリンクです。特にカリタスジャパンのコーナーでは、この期間、毎日の黙想と行動の指針のための言葉が準備されていますから、是非とも毎日の異なる呼びかけに耳を傾けていただければと思います。

この期間のために準備されている「すべてのいのちを守るためのキリスト者の祈り」は、こちらのリンクからPDFでカード印刷ができるようになっていますが、全文を以下に引用します。

宇宙万物の造り主である神よ、
あなたはお造りになったすべてのものを
ご自分の優しさで包んでくださいます。

わたしたちが傷つけてしまった地球と、
この世界で見捨てられ、忘れ去られた人々の叫びに
気づくことができるよう、
一人ひとりの心を照らしてください。

無関心を遠ざけ、
貧しい人や弱い人を支え、
ともに暮らす家である地球を大切にできるよう、
わたしたちの役割を示してください。

すべてのいのちを守るため、
よりよい未来をひらくために、
聖霊の力と光でわたしたちをとらえ、
あなたの愛の道具として遣わしてください。

すべての被造物とともに
あなたを賛美することができますように。

わたしたちの主イエス・キリストによって。
アーメン。
(2020年5月8日 日本カトリック司教協議会認可)

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第92回、年間第二十三主日のメッセージ原稿です。

年間第23主日C(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第92回
2022年9月4日

ルカ福音は、イエスの弟子となる条件として、「自分の十字架を背負ってついてくる者」であれと記します。同時に、「父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎む」ことを不可欠であるとも記します。一体これは何を意味しているのでしょうか。

一つのヒントは、パウロのフィレモンへの手紙に記されています。この短い書簡で、パウロはコロサイの裕福な信徒であるフィレモンに、彼の元から逃げてきて、その後洗礼を受けた奴隷であったオネシモを、一人のキリスト者としての兄弟として送り返すことを記しています。当時の常識の枠組みの中で、自分の奴隷であった人物を兄弟として受け入れるフィレモンの行動は、他の人たちにとってこの世の常識をはるかに超える大きな意味を持つ愛のあかしの行動となったことでしょう。

パウロは第一コリントの1章17節で十字架の意味を、神ご自身によるすべてを賭した愛のあかしの目に見える行いそのものであると記します。この世の知恵に頼って愛をあかしするのではなく、全身全霊を賭して神の愛をあかししたイエス。それこそが十字架の持つ意味であることをパウロは強調します。

したがって、このルカ福音における十字架も、単に苦行をしろといっているのではありません。この世で生きていくために大切だと思っていること、すなわち人間の知恵が作り上げた常識に捕らわれるのではなく、そこから離れ、自らの全身全霊を賭して、神の愛をあかしするための行動にでるようにと、イエスは弟子に求めておられます。

その一つの道として、神がわたしたち人類に管理を任されているすべての被造物を守る行動が、過去の強欲な搾取に別れを告げて、神の愛に生きる具体的なあかしになるとして、教皇様は9月1日を被造物を大切にする世界祈願日と定められました。日本の教会では、9月の最初の主日に祝います。教皇フランシスコは、回勅「ラウダート・シ」を発表され、教会がエコロジーの課題に真摯に取り組むことの大切さを強調されました。

教皇様が強調されるエコロジーへの配慮とは、単に気候変動に対処しようとか温暖化を食い止めようとかいう単独の課題にとどまってはいません。「ラウダート・シ」の副題として示されているように、課題は「ともに暮らす家を大切に」することであり、究極的には、「この世界でわたしたちは何のために生きるのか、わたしたちはなぜここにいるのか、わたしたちの働きとあらゆる取り組みの目標はいかなるものか、わたしたちは地球から何を望まれているのか、といった問い」(160)に真摯に向き合い、社会全体の進む道を見つめ直す回心が求められています。

教会は、アシジのフランシスコの祝日である10月4日までを「被造物の季節」としており、日本の教会もこの期間に様々な啓発活動を行います。教皇様が定めた今年のテーマは、詩篇19編から取られた「被造物の声に耳を傾ける」とされ、メッセージが発表されています。

その中で教皇様は、「被造物が上げる苦い叫びは、母なる大地の叫びであり、生態系から消えゆく多くの生物の叫び、また、気候危機の影響を最も強く受けている貧しい人々の叫び、先祖からの土地を経済的利益のために搾取される先住民たちの叫び、そして地球のエコシステムの崩壊を食い止めるために可能な限りの努力を望む若者たちの叫びでもある」と記し、そのためには個人的な回心にとどまらず、共同体の回心が必要だと指摘されています。

神の愛をあかしするために、いまどのような十字架を背負って歩もうとしているでしょうか。

 

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2022年9月 2日 (金)

主任司祭の着任式@六本木

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8月28日の日曜日、午前11時から、六本木にあるフランシスカン・チャペルセンターで、新しい主任司祭の着任式ミサを捧げました。

フランシスカン・チャペルセンターは、英語を使う共同体の小教区で、その名の通り、フランシスコ会が司牧を委託されています。これまで主任を務めたラッセル・ベッカー神父様に代わり、クリフォード・アウグスティン神父様が主任司祭として着任されました。クリフォード神父様は、シンガポールからの派遣です。

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主任司祭の着任式を司教や地区長の司祭が司式して行ったりするのは、欧米ではしばしばありますが、日本ではあまり行うことはありません。多くの場合、人事異動が復活祭後に集中するので、司教や司教総代理などの教区役職者の数では間に合わないのが理由でしょうが、これを行うこと自体には大きな意味があると思います。それはただ、小教区を管理する神父が送られてきたということではなくて、まさしく、小教区共同体と「ともに歩む」牧者が新たに誕生したのですから、司祭も小教区共同体も、互いに、共同体の方々を知り、牧者を受け入れ、ともに歩む決意を新たにし、聖霊の導きを共に祈ることには大きな意味があると思います。

この日は米国での儀式書に倣い、新主任司祭は司教から委任された務めに励むことを誓い、共同体の責任者を紹介され、迎え入れられ、その上で、新主任司祭が聖体祭儀を司式しました。

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この日、私からクリフォード神父様には象徴的に手渡しをしましたが、司祭が教区内で司牧の務めにあたるには、権限を教区司教から委任される必要があります。司祭が、例えば黙想会に呼ばれたり、行事に呼ばれたり、旅行中に立ち寄ったりして、一時的に司祭の務めを果たすには、その場の主任司祭や修道会などの上長の一時的な許可があれば充分ですが、定期的に司牧の務めを果たすためには、その地の司教(裁治権者)からの権限委任がなければなりません。これは主任司祭や助任司祭などに任ぜられる司祭だけでなく、教区内で聖職者が適法に使徒職を果たすために不可欠な権限委任です。

この司教からの権限の委任を公式に記しているのが、「権限委任書(Pagella Facultatum)」と呼ばれる文書です。ラテン語が正文で日本語の訳がついています(ラテン語部分だけでも4ページあります)。わたし自身もこれまで8年間働いたガーナや、半年間だけお世話になったオーストラリアのメルボルンなどで、それぞれ居住する教区の司教様からそれぞれの権限委任書をいただきました。権限委任書に記されている通り、「司祭が本教区を決定的に離れるとき」には消滅しますので、それ以降定住するか、または定期的な使徒職を遂行する教区の司教様から、あらためて権限委任書をいただかなくてはなりません。教会は、司祭叙階だけで、あとはどこでも勝手に司祭としての使徒職を遂行することはできない仕組みになっているのです。それは、教会が個人プレーヤーの集まりではなくて、ペトロの後継者である教皇様と共にある共同体であり、その中心におられる主ご自身と一致して「ともに歩む」神の民であるからに他なりません。

クリフォード神父様の新しい任地である六本木のフランシスカン・チャペルセンターにおける今後の活躍に期待し、これまで同様に、素晴らしい共同体を育て、ともに歩み、また牧者として導いてくださいますように。

クリフォード・アウグスティン神父様、東京へようこそ。

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