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2022年9月11日 (日)

2022年教区カテキスタ認定・任命ミサ

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東京大司教区では2018年から、教区のカテキスタ養成講座を設置し、猪熊神父様のリーダーシップのもと、これまで第一と第二期のカテキスタが任命され派遣されてきました。

最初の認定・任命ミサを行った2019年9月の司教の日記に、その設立の詳しい事情が記してあります

当初から、教区カテキスタの方々の活躍について、教区ニュースでお知らせして来ましたが、その情報量も増加してきたので、2022年5月からは、教区カテキスタの情報を独立させ、「Tangible」と言う名称で別途お届けしています。これはバックナンバーを教区ホームページでご覧いただけます。こちらのリンクです。印刷したものの、教区ニュースと一緒に小教区にお届けしています。「Tangible」は、どこかの団体のニュースではなくて、教区からのお知らせの一部ですので、教区ニュースと共にご一読ください。

その創刊号の猪熊神父様の記事にもありますが、教区カテキスタは生涯にわたる任命ではなくて、3年という期限を切った任命となっています。それぞれの方の生活の事情などもあるために、期限を設けました。3年後に再び継続されたいという方には、更新の講座を受けていただきます。そしてさらに3年の再任命となります。

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このたび、9月10日の土曜日、更新プログラムを終了された方と、昨年が中止となったため、昨年の第3期と今年の第4期の養成講座を終えられた皆さんの認定と任命のミサを、カテドラルで行いました。第1期生の方から19名が更新され、第3期と第4期で9名の方が新たに認定・任命されました。

Tangible」の第4号によれば、2023年4月からは、「新しい拠点教会(清瀬)が増え、7つの小教区で、教区カテキスタたちによる「入門講座」が、随時、開催されることになります(葛西・清瀬・関口・関町・西千葉・松戸・松原 / 50音順)」(記事のリンクはこちら)。

信徒養成のために活躍してくださるカテキスタの方々に、心から感謝申しあげます。どうかカテキスタの方々のために、教区の皆様にあってはお祈りをお願い申しあげます。司祭や修道者と同様カテキスタも召命です。信徒の召命です。主からの招きに答えるためには、聖霊の助力が必要です。そのために皆様のお祈りが不可欠です。どうかお祈りください。

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なお今年9月から始まる第5期には、9名の方が参加すると伺っています。これからご自分もカテキスタとして奉仕されたいとお考えですか?こちらの教区ホームページをご覧ください

以下、2022年教区カテキスタ認定・任命ミサの説教原稿です。

「東京教区カテキスタ養成講座」
2022年9月10日・認定・任命ミサ
菊地功

いまは困難な状況ではありますが、それは同時に、積極的にメッセージを届けるための方法を考える機会をも提供してくれたと思います。大げさに言えば、待ちの姿勢の教会から、積極的に打って出る教会へと変わっていく機会が、このたびの出来事を通じて、わたしたちには与えられていると感じております。わたしたちは今、創造的であることが求められています。インターネットを通じたさまざまな発信が、教会のさまざまな部署で始まっていますが、それが一過性のもに終わらず、これから継続して福音宣教の中心となっていくことを願っていますし、それに若い世代が積極的に関わってくださることを期待しています。

シノドスの準備文書には、ともに歩む教会共同体の姿勢に関して、重要なポイントがいくつか提示されていました。

すでに先ほどの講話で触れたように、それはまず「霊の呼びかけを思い起こす」ことであり、「すべての人の声を聞く、参加型の教会プロセスを生きる」ことであります。さらに「カリスマの多様性を認識する。福音宣教のための参加型の方法を見つける。反福音的な動きを見極める。社会の癒しや和解のために信頼できる教会となる」事が大切だと記されています。

いま宗教の意味が問われています。カトリック教会自身も、自戒の念を込めて振り返る必要がありますが、元首相の暗殺事件以来、宗教団体の社会における存在の意味が大きく問われています。言うまでもなく、どのような宗教であれ、それを信じるかどうかは個人の自由であり、その信仰心の故に特定の宗教団体に所属するかしないかも、個人の内心の自由は尊重されなくてはなりません。

そもそも人は、「良心に反して行動することを強いられたり、共通善の範囲内で、良心に従って行動することを妨げられては」ならないとカトリック教会は教えます(カテキズム要約373)。「共通善」とは、「集団や個々人にそれぞれの完成に達することを可能にするような社会生活の諸条件の全体」のことであり(同407)、わたしたち宗教者は、社会におけるその行動が共通善に資するものでなくてはなりません。

いまは様々に意味合いが異なる問題が一緒に混ぜ和されて議論されているので、問題の本質が見えずらくなっています。いま一番の問題は、社会の中でその宗教を実践する団体とはどういう意味を持つ存在であるのかと言う点です。

そもそも宗教は、いのちを生かす存在でなくてはなりません。希望を生み出す存在でなくてはなりません。従ってその宗教を生きる宗教団体が、いのちを奪ったり、生きる希望を収奪するような存在であってはなりません。人間関係を崩壊させたり、犯罪行為に走ったり、いのちの希望を奪ったりすることは、宗教の本来のあり方ではありません。

わたしたちはどうでしょう。キリストはいのちを生かす希望の光であり、わたしたちはそもそもこのいのちを、互いに助け合うものとなるようにと与えられています。わたしたちはすべての人の善に資するために、いのちを生かす希望の光を掲げる存在であり続けたいと思います。
在であってはなりません。

さて、日本の教会が十六教区から提出されたシノドスへの報告書に基づいてまとめた、バチカンへ提出した報告書をご覧になったでしょうか。いくつかの点を取り上げておきたいと思います。

教会の現状認識を示す事柄として、「困難さ」に関して指摘されている三つの点に注目したいと思います。
1: 「しかし信者たちは、実際「ともに歩む」ことにさまざまな困難さを感じている。たとえば、小教区の仲間内の「サロン化」、新しい人に対する排他的な傾向、信者同士の関係が希薄になることへの懸念、教会内の人間関係のトラブル、悪口、差別意識、対立や争い、裁く姿勢などである。また個人的には精神的、経済的に余裕がなく、自分の生活で手一杯と感じ、周囲の人に積極的にかかわれないといった声もあった。コロナ禍にあってこうした障害が加速し、人々の交わりがさらに困難になっている」

2:声を聴くことへの困難さについては、個々人の姿勢(自己中心、傲慢、思い込み、不寛容、無関心、教会の特権意識、攻撃性、聴く側の疲れ、傷つくことへの恐れ、閉鎖性、消極性、心の余裕のなさなど)が指摘された。さらに、不安定な人間関係、時間がない、自分の方が聴いてほしいという欲求などの理由が挙げられた。これらを克服するには、「語る」教会から「聴く」教会への文化的な変容が求められる。
 そしてもう一つ、「宣教に向かうことの困難さ」にこうあります。

3: 各人の無関心、怠慢、安楽を求める気持ち、勉強不足、信仰の弱さ、負担感、といったところから宣教活動を躊躇する人も多い。司祭・修道者に依存する意識から、宣教に消極的な信徒も多い。信徒の場合、教会活動とは別に、地域社会や職場で、信者であることを周りの人たちに公表しながら、自分の生活を通して宣教することの大切さも自覚しているが、現実はそううまくいっていない。聖職者が信徒の参加を妨げることもある。司祭、修道者、信徒の支え合いが弱いと教会が外に向かわない。信徒の高齢化、減少により、教会の働き手が不足し、信仰教育や社会奉仕活動はかなり後退している地域も多い。

さて皆さん、こういった困難さを目前にして、教会にとって信徒の使徒職であるカテキスタの存在は、これから更に重要性を増していきます。カテキスタとは単に入門講座の先生に留まりません。激しく少子高齢化が進む社会にあって、これまで教会が築き上げてきたシステムは、徐々に機能しなくなってきています。教会そのもののあり方を見直し、その歩みを共に支えてくださる人が不可欠です。

ましてや司祭の召命が劇的に増えることは難しいと思います。なにせ、今日志願者が出てきても、その人が順調にいって司祭になるのは7年以上も先の話です。教会のリーダーシップにあって、信徒の役割には重要なものがあり、なかでも、しっかりと養成を受けているカテキスタの存在は、教会共同体の中での霊的リーダーの一角を担うものとして、これからさらに重要性を増していきます。

教会共同体を育て上げるために、司祭と共に働くカテキスタの存在は、不可欠です。シノドスの歩みを続けるために、神の民におけるカテキスタの存在は不可欠です。宗教の存在の意味が問われているこの精神的に荒廃した社会で、教会を背負って立つことを聖職者だけに任せておく時代は終わりました。皆さんのこれからの活躍に期待しています。一緒になって、歩んでいきましょう。共に力を合わせ、困難の壁を乗り越えましょう。

 

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