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2022年10月29日 (土)

週刊大司教第100回:年間第三十一主日

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現在、タイのバンコクで、アジア司教協議会連盟FABCの総会に参加中です。FABCについては、次週月曜以降、帰国してから報告します。

「週刊大司教」は、今回の配信で100回目となりました。これまで毎回、千を越えるアクセスを頂いています。多くの皆様のご視聴に、そして祈りの時をともにしてくださっていることに、心から感謝申しあげます。

新型コロナ感染症の暗闇の中で、ミサの非公開が続いていた期間は、関口教会から会衆を入れない形でのミサの配信を行いました。その後、制限を設けての公開ミサ再開後にあっては、教会まで出かけることが困難な方も大勢おられることから、「週刊大司教」という形で主日のメッセージの配信を行い、同時に霊的聖体拝領の機会としてきました。「週刊大司教」の第一回目は、2020年11月7日土曜日、翌日の年間第三十二主日のメッセージから始まりました。

いつまで続けるかは当初からの課題でしたが、視聴回数が千回を切った場合には中断することにしていましたが、ありがたいことに、これまで一度も千回を切ったことがありません。

徐々に教会活動も、完全ではないですが、以前のような形に戻りつつあります。そこで100回を持って全ての配信を終了することも考えました。しかし、高齢や病気などで教会に出かけられない方々からの要望も多数いただきましたので、今後は次のようにいたします。

まずは現在の形の「週刊大司教」は、今回の100回を持って終了とします。しかしその後、形を変えて、もう少し短い形で、主日の福音とメッセージを続けていくことにいたします。名称もそのまま「週刊大司教」として、101回目からは、全体の構成を変えて配信いたします。わたし自身の準備の負担や都合もありますが、ビデオを作成している教区本部広報職員の負担にも大きいものがありますので、全体として短い内容となりますが、ご理解いただきますようお願いします。101回目以降は、福音朗読とメッセージ、主の祈りと祝福という構成になります。

ただし、現在アジア司教協議会連盟の総会で、10月末までタイのバンコクに滞在中ですので、次の撮影と編集が間に合いません。そこで、次週の11月5日土曜日はお休みにさせていただきます。その後11月12日土曜日午後6時から、少しばかり装いを変えて、「週刊大司教」を継続いたします。

今後も、祈りの時をご一緒いただけたら、幸いです。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第100回、年間第31主日メッセージ原稿です。

年間第31主日C(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第100回
2022年10月30日

ルカ福音はザアカイの話を記しています。先週に引き続き、徴税人が主役です。

教皇様は2016年10月30日のお告げの祈りで、この話を取り上げ、次のように述べておられます。

「人々はザアカイのことを、隣人のお金を使って金持ちになった悪党と見なしていました。もしイエスが『搾取者、裏切者、降りてきなさい。こちらに来て、話をつけよう』と言ったなら、人々は喝采したに違いありません」

しかしイエスの言葉と行いは、罪人を糾弾するものではありませんでした。「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」というイエスの言葉は、罪人との積極的なかかわりを求め、周りの人を驚かせるに充分でした。そもそもザアカイ自身がその言葉に驚き、信じられなかったことだと思います。

教皇様はそのイエスの言葉と行いを、「神は過去の過ちにとらわれるのではなく、未来の善を見据えます。イエスはあきらめて心を閉ざすのではなく、つねに心を開き、新しい生活空間を絶えず切り開いてくださいます。・・・イエスは(ザアカイの)その傷ついた心を見て、そこに行かれます」と指摘されました。

わたしたちは、簡単に他者を裁く存在です。あたかも自分により正義があるかのような勘違いをしながら、幾たび人を裁いてきたことでしょう。とりわけこの二年以上、感染症の暗闇の中で疑心暗鬼に捕らわれたわたしたちは、不安のあまり寛容さを失い、簡単に他者を裁いては自らの心の安定を取り戻そうとしています。他人を裁くときに、わたしたちの口からでる裁きの言葉は、わたしたちの心の反映です。裁く心に、果たして愛は宿っているでしょうか。そのようなとき、わたしたちはイエスがザアカイに取った態度、すなわち断罪という「過去の過ちに捕らわれるのではなく、未来の善を見据え」た行動を自分のものとしたいと思います。なんといっても、「自分の計る量りで計り返される」のだということを、わたしたちは心に留めておかなくてはなりません。

1987年に開催された福音宣教推進全国会議の答申を受けた司教団の回答である「ともに喜びをもって生きよう」には、「社会の中に存在する私たちの教会が、社会とともに歩み、人々と苦しみを分かち合っていく共同体となる」ための一つの道として、「裁く共同体ではなく、特に弱い立場におかれている人々を温かく受け入れる共同体に成長したい」と記されています。あれから35年が経過したいま、教会共同体はどう変化してきたでしょうか。

教皇様は同じ事を呼びかけるために、しばしば「連帯」という言葉を使われます。わたしたちの共同体には、連帯のうちに支え合う心があるでしょうか。それとも自分の立場を主張して、他者を裁き、排除する共同体でしょうか。

昨年2月10日の一般謁見で、祈りについて教えた教皇様は、こう述べています。

「祈りは、相手が過ちや罪を犯しても、その人を愛する助けとなります。どんな場合にも、人の行いより、その人自身の方がはるかに大切です。そしてイエスはこの世を裁くのではなく、救ってくださいました。・・・イエスはわたしたちを救うために来られました。心を開きましょう。人をゆるし、弁護し、理解しましょう。そうすれば、あなたもイエスのように人に近づき、あわれみ深く、優しくなることができます」。

いま、この社会にあっては、イエスのいつくしみのまなざしを具体化することが必要です。

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2022年10月23日 (日)

FABC50周年記念の総会から(その3)

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10月12日から30日までの期間で、バンコク郊外の教区司牧セン「Baan Phu Waan」で開催されているアジア司教協議会連盟の創立50周年記念総会は、第二週目が終わり、最終の一週間に入ります。

ボンベイのオズワルド・グラシアス枢機卿をトップとする企画準備委員会では、第一週目の各国からの報告の期間を「Visiting Asia」と名付けて、まずアジア全体の現実を知ることから始めました。そしてこの10月17日から22日までの第二週目は、「Emerging Realities」と名付けて、各国の報告から知った現実に基づいて、今アジアで何が起きているのかを深める時とすることを目指しました。そのために様々な分野に関係する信徒や修道者の声に耳を傾けるために,オンラインでの分かち合いを月曜から木曜まで行いました。


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それぞれの日はテーマが設けられ,同時にそれに関連する教皇様の文書についての振り返りの時も持ちました。17日の月曜は、特に気候変動に目を向け、「ラウダート・シ」への理解を深める日とされました。

18日の火曜日は青年、女性、移民、移住者、人身取引などに焦点を当て、「フラテリ・トゥッテイ」の学びを深めました。

さらに19日の水曜日は、家庭や結婚の問題に焦点を当て、「アモリス・レティティア」の学びを深めました。

その後20日の木曜日には、アジアで実際に起こっているミャンマーでの状況に思いをはせながら、平和、和解、対話をテーマとして、「福音の喜び」についての学びの日でした。

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21日の金曜日は,ちょうどアジアに来られていた今回のシノドスの責任者でもあるルクセンブルグのオロリッシュ枢機卿様から、シノドスについての話を頂き、教皇様の顧問団の中心人物でもあるグラシアス枢機卿から、教皇庁改革にあたる教皇様の指針である「Predicate Evangelium」についての話を頂き、それを踏まえてFABCの次の50年をいかになる道を通って歩むべきかの考察を始めました。これは次週の大きなテーマです。

そして22日の土曜日は、全体会で、これまでの議論を行ってきた中で取り上げられた様々なポイント以外に、FABCの将来に関わる重要な課題があるかの自由討議を行い、最後に、聖体降福式をもって一週間を締めくくりました。

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この間、いくつかの特筆すべきことがあります。まず17日には、ラウダート・シにちなんで、近頃Youtubeで公開された「The Letter」という映画に実際に出演しているインドの環境活動家Ridhima Pandeyさんが出席され、彼女の話を伺い,さらに夜には参加者一同で、「The Letter」を鑑賞しました。Ridhimaさんは,まだ14歳ですが,しっかりした考えをしっかりと発言される方でした。この映画はこちらで見ることができます。ただし英語の字幕で、90分ほどです。教皇様が気候変動について多くの方の意見を聞くために、バチカンに来るようにと招待状の手紙を送るところから始まり、世界各地から教皇様の元へ呼び集められた中に、Ridhimaさんもおられました。

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次に、18日のオンラインでの分かち合いには,青年のテーマで、高松教区の高山徹(あきら)神父様が参加してくださいました。そして女性や人身取引、移民や難民のテーマでは、東京で活躍するメリノール会のシスターアビーが,ローマからオンラインで参加してくださいました。これはすでに触れた,タリタクムの活動についての分かち合いで,会場にはタリタクムアジアの代表の一人として,メルセス会のシスター弘田も参加されていました。アジアの会議では英語が使われるので、分かち合いなども英語ができる方にお願いせざるを得ないのですが、日本に限らず英語を主に使っていない国からは、参加者を得ることが難しく、どうしても一定の国からの発言に偏ってしまう嫌いがあります。今回参加してくださった高山神父様やシスターアビー、シスター弘田、そして先の日曜日に参加してくださったシスター宇野には感謝申し上げます。

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 また18日の締めくくりには、わたしも事務局長として関わる企画準備委員会での成り行きから、わたしが「フラテリ・トゥッティ」についての分かち合いを行うことになり、30分と言われて原稿を用意していきました。そうしたらこの日は結構スケジュールが押して、一日の最後のわたしが話す順番が近づいてきたら,グラシアス枢機卿から突然、「20分にしてくれ」との指示が。かなり慌てました、その結果はこちらのビデオをご覧ください。最後の肝心な部分をかなりカットして、なんとか全体は19分で収まりました。

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10月23日の日曜日は、世界宣教の日です。この日のミサは毎朝のミサを行う聖堂ではなく会議場で行い、ネット中継されました。グラシアス枢機卿司式で、共同司式に私も参加しました。グラシアス枢機卿の説教にもありますが、共同司式で祭壇に上がったのは,インド、フィリピン、日本、ドイツ、ペルーの面々で、世界宣教の日にふさわしい顔ぶれになりました。また聖体拝領が始まると,なんと聖歌隊から日本語の歌が始まりました。わたし自身も子どもの頃良く歌った「主我を愛す」であります。この日の聖歌隊の日本語ができる少女が、しっかりと歌ってくれました。上の写真、聖歌隊の向かって一番右端の方です。感謝。ミサはこちらからご覧いただけます。「主我を愛す」は1時間09分くらいから始まります。

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そのほか、私にとっては3年ぶりくらいでバンコクにあるカリタスアジアの事務局員との再会となり、会議場近くのレストランで一緒に夕食を鶏ながら,いろいろと話を聞きながら,懐かしい面々と旧交を温める機会も頂きました。

第三週、最終週は、総会文書の全体的枠組みの承認、最終メッセージの採択、FABCの今後の方向性の承認などが控えており、また朝から晩まで、プログラムがしっかりと組まれている毎日となります。

なお以前にもお願いいたしましたが、25日火曜日は、会議に先立って行われる朝の祈りが日本の当番の日です。当番の日には,それぞれの国でFABCのために祈りをお願いすることになっていますので、25日の火曜日、一日のどこかで、アジア司教協議会連盟FABCのためにお祈りをお願いします。

 

 

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2022年10月22日 (土)

週刊大司教第九十九回:年間第三十主日

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ただいまバンコクにてアジア司教協議会連盟FABCの総会に出席中です。明日の日曜は世界宣教の日です。教皇様のメッセージについて,今週の週刊大司教でも触れましたが、メッセージ「あなたがたはわたしの証人となる」の邦訳はこちらのリンクの中央協議会のサイトにあります。

以下本日午後6時配信、週刊大司教第99回、年間第30主日メッセージ原稿です。

年間第30主日C(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第99回
2022年10月23日

ルカ福音は、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と、目を上げることもなく胸を打った徴税人ほうが、自らの正しい行いを誇るファリサイ派の人よりも、神の目には正しい人とされた話を記します。当時の徴税人は様々な不正に手を染めていたとも言われ、多くの人の目には正しい人とは映らなかったことでしょうし、ファリサイ派の人は掟を忠実に守っていることから、多くの目からは正しい人と見なされていたことでしょう。謙遜と傲慢。この二人の根本的な違いは何でしょうか。

ファリサイ派の人の目は自分に向けられています。わたしが何をしたのか。わたしはどういう人間なのか。彼が語るのは、自分のことばかりであり、すなわち彼は自分の世界に閉じこもっている人であります。それに対して徴税人は、その目を神に向けています。自分がどういう人間であるのかと言う判断をすることなく、それをすべて神に委ねています。つまり二人の違いは、自らの存在を神に委ねているのか、委ねていないのかにあります。

パウロはテモテへの手紙に、「わたし自身は、すでにいけにえとして献げられ」と記します。回心後のパウロは、人生の中でどれほど偉大なことを成し遂げたかわかりません。しかしパウロにとっては、自分のためではなく、すべてを神に委ねた結果に過ぎません。

すべてを神に委ねたものの祈りを神は聞き入れると、シラ書も記しています。神にすべてを委ねた人のことを、「御旨に従って主に仕える人」とシラ書は記します。

わたしたちには、単に謙遜になることだけが求められているのではありません。謙遜さは、神にすべてを委ねた結果です。求められているのは、神にすべてを委ねることであり、だからこそ御旨に従って主に従うことであり、自分自身をいけにえとして献げることであります。

自分のためではなく、神が救いたいと望んでおられるすべてのいのちに福音が届けられるように、神に身を委ね、すべてを尽くして福音をあかしするものとなりたいと思います。

教会は本日を世界宣教の日と定めています。

教皇様は、世界宣教の日のメッセージのテーマを、「あなたがたはわたしの証人となる」(使徒言行録1・8)とされ、あらためて「キリストの弟子たちの共同体である教会には、キリストをあかしして世界を福音化する以外の使命はありません。教会のアイデンティティは、福音を説くということなのです」と強調されています。

その上で教皇様は、「宣教は、個別にではなく、教会共同体との交わりをもって、己の発意でではなく共同で行うものです」とも記し、教会全体が福音宣教の使命を担っていることを思い起こさせます。

さらに教皇様は、「キリストの宣教者が遣わされるのは、自分のことを伝えるためでもなければ、己の説得力や管理の腕前を見せつけるためでもありません。そうではなくこの人たちは、最初の使徒たちのように、ことばと行いによってキリストを示し、喜びと率直さをもってその福音をすべての人に告げるという、崇高な栄誉にあずかっているのです」とも記しています。

教会には教皇庁宣教事業(Pontifical Mission Societies)があり、「ミッシオ」(Missio)とも呼ばれています。教皇様の管轄と調整の下で、全世界の宣教の促進に向けられたカトリック教会の世界的ネットワークであり、宣教地における活動を支援し続けています。世界宣教の日に当たり、自らの宣教者としての使命を思い起こし、教会共同体の宣教の業のためにも祈りましょう。

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FABC50周年記念の総会から(その2)

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アジア司教協議会連盟FABCの創立50周年を記念して開催されている総会も、半分が終わりました。あと,来週の一週間です。この一週間については別途明日にでも掲載するとして、総会中にはいろんな方に再会しています。

そんな中でも、東京教区にとって大切な姉妹教会であるミャンマーの司教様たちと時間を共に過ごすことができるのは,感謝です。ミャンマーの現状のいろいろなお話を伺いました。なおいっそう、ミャンマーの安定と平和の確立のために、祈りを続けなければならないという思いが深まりました。一番上の写真は,今朝、10月22日の朝のミサ後に撮影した、総会に参加しているミャンマーの司教様たちです。

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なかでも、神学生の養成などへの支援でも深く関わっているマンダレー教区のマルコ大司教様と再会できたことは大きな喜びでした。2020年2月、コロナ禍で全てが閉鎖される直前に東京教区の代表団が訪れて、ピンウーリン(メイミョー)の神学院を訪れたりして以来の再会でした。クーデターが発生して以降、マンダレーでも暴力的な状況が続き、先頭に立って平和の実現を求めるマルコ大司教様の様子も,ニュースなどで伝わってきています。命の危機を感じながら牧者としてのつとめを果たすことは,本当に大変なことであろうと想像いたします。マルコ大司教様のためにもお祈りください。

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マルコ大司教様からは、特に東京教区の皆様へ,お祈りと支援への感謝の言葉を頂きました。また東京で、ミャンマーの方々と共に、平和のために祈り続けていることに対して、力づけられているという感謝の言葉を頂きました。世界では様々な暴力的状況が発生し,その都度、祈りが必要となりますが、同時に解決されることなく時間の経過と共に忘れられてしまう人たちも多くおられます。東京教区としては、これまでの深い関わりもありますから、これからも忘れることなく、ミャンマーのために祈り続けたいと思います。

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2022年10月16日 (日)

FABC50周年記念の総会開催中@バンコク

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アジア司教協議会(FABC)は、1970年に創立され、2年前に50周年を迎えていました。50年の歩みを振り返り、これからの新たな道のりの方向性を定めるために,記念の総会が企画されましたが、コロナ禍のため2年間延期され、現在、10月12日から30日までの日程で、バンコク大司教区の司牧センターであるBaan Phu Waanを会場に,開催されています。

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これまでの振り返りとこれからの方向性を定めるという重要な機会であるため、通常の総会よりも多くの司教が参加しており、日本からも、前田枢機卿、アベイヤ司教、勝谷司教、成井司教、そしてわたしが参加中で、後半では中村大司教もくわわる予定です。また,人身取引問題に取り組んでいるタリタクムのアジアの代表者の一人として、メルセス会のシスター弘田も部分参加されています。タリタクムについてはこちらの難民移住移動者委員会のサイトに詳しく掲載されています

今回の総会はテーマを「FABC50周年:アジアの諸民族としてともに旅する…彼らは別の道を通って…行った(マタイ2・12)」としていますが、このテーマの終わりの部分、すなわち「別の道を通っていった」の意味を、最初の三日間で実感しています。

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現時点で参加者は18の司教協議会から22カ国と地域に及んでいます。韓国司教団の到着が遅れているなどもあり、週明けに実際の参加者はもう少し増える予定ですが、現時点では登録上は18名の枢機卿と114名の司教が参加を予定しており、さらに顧問や各団体代表などで招聘されている人たちやスタッフが70名以上おり、さらには会期中にオンラインでの対話に参加する人たちも入れれば、全体では200人を超える人たちが参加する会議となっています。(写真上は,現時点で参加している枢機卿)

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バンコク教区の司牧センターは以前から存在しており,カリタスアジアなどでも利用したことがありますが、この総会に備えて全体がリニューアルされており、日本の教会とそれほど変わらない規模のタイの教会ですが、準備にかなりの力を入れたことがわかります。(上の写真は会議ホールの前から見た司牧センター本館。この池も敷地内です)

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それが顕著に表れたのが,初日に開会ミサ後に行われた開会式典で、これは一般のテレビを通じて全国にライブ放送されたそうですが、タイ政府を代表して文化大臣も参加し、シャルトルのシスターたちが経営する11の学校の生徒さんによる,素晴らしいミュージカルの披露もあり、ちょうど2019年に教皇様がタイを訪問したときのように、きらびやかで荘厳な式が行われました。準備には大変なものがあったと思います。

最初の三日間は,各国の報告です。朝のセッションは,指定された国が作成した15分ほどの朝の祈りのビデオで始まり、各国の報告も、単に話をするのではなく、ビデオやパワーポイントを用意して20分程度とするように指示されており、これまた教会の底力の違いでしょうが、素晴らしく高度な出来上がりのビデオを短時間で用意してきた国がいくつもありました。日本の報告は、私が作ったパワーポイントでした。

祈りで始まり,祈りの雰囲気の中で会議を続けるというので、各国の報告の後には必ず2分間の沈黙が設けられています。この沈黙の時間は,正直言って,アジアでの会議では珍しいのですが、良い効果を生んでいると思います。

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一日の最後は,これらの報告を聞いた上で、20近いグループに分かれて,分かち合いです。私が参加して小グループは、シンガポール、ラオス、マレーシア、インド、ミャンマーの皆さんと一緒のグループでした。このグループでの分かち合いは,その場でサイトに接続されたPCから内容がそれぞれグループごとに打ち込まれ、三日目の終わりには、そのまとめが出来上がって報告されていました。

多くの国で教会は少数派であり、中には他の宗教との関係で難しい立場にあったり,政治的に難しい立場にあったりする教会も少なくなく、アジア全体を通じた連帯の必要性が強調されました。また多くの国でカリタスの活動が評価され、教会の目に見える愛の活動としてカリタスの重要性が強調されたのはうれしいことでした。さらにコロナ禍にあって孤立や孤独が深まった国も少なくなく、経済の悪化で貧富の格差が広がり,社会の中心から排除される人も多くある中で、教会は国を超えて連帯し協力していかなくてはならないことも強調されました。

同時に、各国の報告で、互いの現実があまりに違うことも理解が深まり、その違いを知らない自分たちの無知にも気がつき、互いの対話を深めることの重要性が強調されました。韓国司教団がビデオでの報告で,日韓の司教団が定期的に集まり対話を深めていることを紹介してくださったので、思いの外多くの他の司教たちが、日韓の取り組みを評価してくださいました。また最終的には,同じ方向を目指して歩んでいこうとするものの、その現実の違いから、歩む道を異なることにも気がつかされ,テーマの最後の言葉の意味が理解されていきました。皆、別の道を通っていくしかないのです。

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四日目(開会式も含めると五日目)の日曜、午前中はシンガポールのゴー枢機卿の司式で主日ミサがあり,その後、アジア各地の方々とオンラインで結んでの「トークショー」となりました。様々な分野に関係する17組の方々が、それぞれの分野から司教たちに語りかけました。日本から、聖心会のシスター宇野が,アジアの修道女の思いを司教たちに語ってくださいました。

明日以降は、さらに多くの方々とオンラインで結んで、様々な角度から,司教たちに語りかけていただくセッションが続きます。

司教たちが聖霊に導かれ、より正しい道を見いだすことができるように,お祈りください。

 

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2022年10月15日 (土)

週刊大司教九十八回:年間第二十九主日

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現在、バンコクで開催されているアジア司教協議会連盟の総会に出席中です。総会に関しては、別途記事を掲載します。

以下、本日午後6時配信の週刊大司教第98回、年間第29主日メッセージ原稿です。

年間第29主日C(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第98回
2022年10月16日

10月はロザリオの月です。教皇レオ13世によって、10月は聖母マリアにささげられた「ロザリオの月」と定められました。そもそも10月7日のロザリオの聖母の記念日は、1571年のレパントの海戦でのオスマン・トルコ軍に対する勝利が、ロザリオの祈りによってもたらされたとされていることに因んで定められています。歴史的背景が変わった現代社会にあっても、ロザリオは信仰を守り深めるための、ある意味、霊的な戦いの道具でもあります。

教皇パウロ六世が1969年に発表された使徒的勧告「レクレンス・メンシス・オクトーベル」は、冒頭で、「諸民族の心と精神の和解によって最後には真の平和が世界に輝くよう、幸いなるおとめマリアの助けを願うために、十月にロザリオを唱えることを強く勧めます」と記しています。

この勧告の中で教皇パウロ六世は、「神はわたしたちの心に、平和への熱い望みを与えてくださいました。神はわたしたちを、平和に向けて働くよう駆り立てます。・・・わたしたちが平和のたまものを求めてささげる祈りは、平和の構築に何物にも代えがたく貢献します。・・・キリストの母であるマリア、福音書が「神から恵みをいただいた」かたであると教えているマリアの比類ない執りなしに愛を込めて頼る以外に、わたしたちに何ができるでしょう」と記して、執りなしの祈りとしてのロザリオの重要性を強調しています

ロザリオの祈りは、聖母マリアとともにキリストを観想する祈りです。ルカ福音には、「マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」と記されています。教皇ヨハネパウロ二世は、「おとめマリアのロザリオ」に、「キリスト者の共同体は、ロザリオを唱えることによって、マリアの思い出と感想のまなざしに心をあわせる」と記します(11)。

わたしたちはロザリオの祈りを通じて、聖母マリアとともにキリストを思い起こし、聖母マリアからキリストを学び、聖母マリアとともにキリストの姿に似たものとなります。加えてわたしたちは、聖母マリアとともにキリストに願い求め、聖母マリアとともに、福音を告げしらせるものとなります。

わたしたちの願い求める平和は、神の支配が確立され、その秩序が取り戻された状態です。長引くコロナ禍の中でいのちの危機という暗闇に取り残されているわたしたちは、さらに加えて、ウクライナやミャンマーをはじめ世界各地で続いているいのちを危機にさらす暴力の支配に立ち向かわなくてはなりません。そのためにも主イエスにもっとも近い存在である聖母の執りなしを強く求め続けたいと思います。

ルカ福音は、「気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために」、イエスが裁判官相手に正義の行使を求め続ける一人のやもめの話を記しています。その執拗な要求に、裁判官が降参してしまった様を記したあとに、「まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、いつまでも放っておかれることがあろうか」というイエスの言葉が記されています。

そうであるならば、わたしたちは暗闇から抜け出すための光を求めて、執拗に祈り続けましょう。

この困難な状況に立ち向かう今だからこそ、神の母であり、教会の母であり、そしてわたしたちの母である聖母マリアの取り次ぎによって、世界に、そしてわたしたちの心と体に、神の秩序が確立し、平和が取り戻されるよう、共にいてくださる主イエスと歩みをともにしながら、命の与え主である御父に、徹底的に祈り続けましょう。

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2022年10月14日 (金)

2022年神田教会堅信式ミサ

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10月9日の主日、神田教会で堅信式ミサを捧げました。20名の方が堅信の秘跡を受けられました。おめでとうございます。

この20名の方の中には、近隣の暁星学園で学ぶ生徒さんもおられ、学校でもしっかりと信徒生徒の信仰養成が行われていることがうかがえます。

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神田教会は、その趣のある佇まいから、結婚式でも有名な教会です。神田教会の歴史は古く、教区のホームページには次のように記されています。

「江戸時代の禁教令と同じく、明治政府もキリスト教を禁じていました。しかし、外国人居留地に進出したパリー外国宣教会の宣教師はやがてこの日本にも再び宣教が行われる日に備え、明治5年に三番町に「ラテン学校」を作り、諸外国語を教えるという名目で、将来の法人司祭育成の苗床を作ったのです。明治6年2月24日、ようやく明治政府もキリスト教禁令の高札をおろし、キリスト教を黙認することとな った。明治7年1月手狭な三番町より神田の地に移り、三つの旗本屋敷を購入し、その70畳敷きの大広間を聖フランシスコ・ザビエルに捧げた聖堂としたことが、現神田教会の礎となりました」

その後、関東大震災で聖堂は焼失し、現在の聖堂は1928年の建造されたものです。戦時中の空襲も免れ、焼失した関口教会に変わり、一時司教座が置かれていたこともありました。東京教区の中でも歴史のある教会の一つです。下の写真、堅信を授けるわたしの後ろに掲げてあるのは、土井枢機卿様の紋章です。

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以下、当日のミサ説教の録音を起こしたものを手直しした原稿です。子どもたちが大勢だったので、できる限りそのように話したままに書き起こしてあります。

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神田教会堅信式@年間第二十八主日
2022年10月9日

堅信の秘蹟を受けられる方々に、こころからお慶びを申し上げます。

堅信の秘蹟については、学校でも教会でも勉強をしてこられたと思いますけれども、聖霊をいただく秘蹟、聖霊によって力付けられて信仰を強めていただく秘蹟です。でも、堅信の秘蹟だけが独立してあるわけではなくて、それは洗礼の秘蹟があって、そしてご聖体をいただく聖体の秘蹟があって、そして堅信の秘蹟があるという、この3つで1つのセットになっているんですよね。

言ってみれば、一人前のキリスト信者になる。一人前のキリストの弟子になるための、一連の、3つの秘蹟です。ですから、洗礼の秘蹟を受け、ご聖体をいただき、堅信の秘蹟を受けることで、「一人前のキリスト者」がここに誕生するということになります。

昔は「キリストの兵士になる」という言い方もしました。いまは、「大人の信仰者になる」、「成熟したキリスト者になる」とか言いますけれども、今日、堅信の秘蹟を受けられる方々は、これで「一人前のキリスト者になる」ってことなのです。それが今日です。

学校であれば、小学校6年間、中学3年、高校3年、大学4年、学校に通って卒業すると、卒業証書をもらって、これで学校を卒業しました、資格を得ましたと、大学院を出れば博士になりましたとか、資格をもらってそれで修了です。卒業式に出て卒業証書をもらって、明日からまた学校に行こうと、普通は思わないですよね。学校との縁は切れるわけではないものの、学校に行くことはなくなって、あとは同窓会とか何か行事があるときに呼ばれて行くとか、そうゆうことだけで、日常生活の中では目に見える形での関わりはなくなる。

でも教会は、洗礼を受けて、ご聖体をいただいて、堅信の秘蹟を受けて、一人前のキリスト者になりました、はい、これで卒業です、ではないんですね。もうこれで教会には来なくていいです、学ぶ期間は終わり資格を得たからこれで卒業します、明日からもう教会に来なくていいです、という卒業式ではないんです。実は今日が、始まり。今日から始まるんです。

一人前のキリスト者になるというのは、勉強が終わって卒業することではなくて、これからしなくてはならないことに挑戦するという義務を、負うことなんです。これを教会では、「使命を与えられる」と言います。使うという字に命と書いて、使命。神様から使命を与えられる。使命というのは命令です。命令を与えられる。これこれこうゆうことをしなさいという命令を与えられる。ミッションです。

映画で「ミッション・インポシブル」というのがありますね。あのミッションが、使命です。何かをしなさいという命令です。
で、この使命を与えられるんです、今日。だから、これで教会と縁が切れて、さよならということではなくて、今日、使命を受けて、これから一緒に歩んで行く人生が始まる。

じゃ、いったいどうゆう使命が与えられているのか。
それは、イエス様が十字架の上で亡くなってご復活をしたあと、最後に弟子たちに現れ天に上げられて行くとき、その最後に言い残した言葉は、いったい何か。それは、全世界に行って福音を宣べ伝えなさい。わたしが伝えた良い便りを、すべての人に伝えてゆきなさいでした。
これを、福音宣教の使命と言います。福音を宣べ伝えることを、使命としてわたしたち一人ひとりは与えられているのです。

しかし、福音を宣べ伝えるからといって、今日、これで堅信式が終わったら、イエス様についてたくさん喋らなきゃとか、そうゆう、喋ることでは、実はないのです。

福音を宣べ伝えるといるのは、わたしの生き方、毎日の生活の仕方、人との関わり、他の人たちとの交わす言葉を通じてなのです。わたしの行いとことばが、イエス・キリストの教えたことに基づいているのかどうか、というところが一番重要なんです。

つまり、今日、堅信を受けたことによって、これからわたしたちは一人前のキリスト者として、自分の語ること、自分の行いを通じて、イエス様の教えのあかしをしてゆく。イエス様が教えたことを具体的に目に見えるものにしてゆく。

例えば、困っている人がいたら助ける、悲しんでいる人がいたら慰める、喜んでいる人がいたら一緒に喜ぶ、話を聞いてほしい人がいたら話を聞く、さまざまなことが考えられますが、基本は一緒になって歩んで行くということ。

皆さんの毎日の生活の中でのことばと行いを通じて、イエスキリストの教えたことをぜひともあかししていってほしいと思います。

もちろん、たぶん、そうは言っても、そんなことは簡単にできないよと、思いますよね。だから堅信の秘蹟なんです。自分の力ではできないです。人間の力ではそんなことはできない。だからこそ、神様の力が働くように、聖霊が堅信の秘蹟によって与えられるんです。

覚えているでしょうか、最初の聖霊降臨の出来事です。五十日祭の日、弟子たちは、イエス様が死んだあと、迫害を恐れてみんな家に隠れていたんですよ。隠れて、みんなに見つからないようにしていたところに聖霊が降って、その瞬間から彼らは、すべての人が理解することばでイエス・キリストについて語りはじめた。ガラッと、180度人生が変わって、それまでは怖くて隠れていた人たちが、自分のことばと行いで、イエス・キリストについて語るようになった。それはどうしてか、聖霊が降ってきたから。

つまり聖霊は、わたしたちが恐れて、そんなことはできない、イエスについて語る、イエスの教えに基づいて生きるなんてことは難しいと思ったとき、でも、そうしたいと思う心もある。それを後ろから支えてくださるのです。私たちの前向きな心を支え、力付けてくださるのが、聖霊の恵みです。

だから、堅信の秘蹟を受けたからといって、今日急にスーパーマンみたいに、堅信の秘蹟が終わったあとに変わって、素晴らしい人になっているということではないんです。そうではなくて、そうなりたいと思う自分の気持ちを、聖霊が後ろからしっかりと支えて、後押しをしてくださる。その後押しは決してなくならない。神様は、イエス様は、常にわたしたちとともにいてくださると約束をされているのです。わたしたちの人生の間、道を踏み外そうが真っ直ぐ歩いていようが、神様は後ろからしっかりと、聖霊の息吹を持って、わたしたちを支え続けてくださるんだということを、ぜひこころに留めておいていただきたいと思います。

今日の福音で、10人の人が皮膚病から癒やされて、9人の人が帰って来なかったけれど、1人だけイエスのところに帰って来たと言う話が記されていました。

それはものすごく大切なことです。神様によって救われるということは、そうした困っていることが解決する、つまり皮膚病が治る、困っていることが解決してよかった。それで終わり、万々歳ではないんです。

イエス様が仰っているのは、それだけじゃないんだと。そのあとに、神とともに一緒にいることが、つまりサマリア人だけが戻ってきたわけですけれども、イエスとともにいるのか、イエスとともに歩もうとしているのかが大切だと。だからわたしたちは、いったい何に軸足を置いて生きて行くのかということを、しっかりと見極めなさい。わたしのことばの上に、わたしの教えたことの上にしっかりと立って、いつも私と歩み続けなさいと教えていると思います。自分の勝手な思いだけで,問題は解決した、万歳、これで楽しい人生になるとどこかに行ってしまうのではなくて、常にイエス様の御許にしっかりと立って、その言葉と行いを自分のものとして、これから生きてゆかれるよう、
堅信を受けられた方々はぜひ心に留めて、これからの長い人生をしっかりと歩んでいただけたらと思います。

 

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2022年10月11日 (火)

カトリック大森教会創立100周年感謝ミサ

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大田区にあるカトリック大森教会が、創立100周年を迎え、感謝ミサが、10月10日に捧げられました。

大森教会の創設の歴史は、東京教区のホームページにこう記されています。

「アルベルト・ブルトン師は、アメリカ合衆国在留日本人の宣教にたずさわっていたが、再び日本国内で宣教を行うため、帰朝した。レイ東京大司教は、品川と横浜間に教会がなかったので、その付近に教会をつくるよう希望した。ブルトン師は大井町に、大阪の事業家の援助で社宅を無料で借り受けた。1921年8月28日、訪問童貞会(後の聖母訪問会)の2名の修道女と共に幼稚園、医院を開設し宣教活動を開始した。小さな聖堂のミサには、近所の信者が集まった。修道会の発展に伴い建物が狭くなったので、省線 (JR)大森駅と京浜電車八幡駅に通じる目抜き通りに面して土地を購入した」

ブルトン神父様は、いまの聖母訪問会の創立者となります。大森教会の歴史全体についてはこちらのリンクをご覧ください

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この写真にあるように、ジャルディニ大司教が大森教会を公式に訪問した1922年7月2日を、創立の日と定めています。

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大森教会の皆様、おめでとうございます。またこの100年間、教会共同体を育み、ともに歩まれた司祭、修道者、信徒の皆様に、心から感謝申しあげます。次の100年を目指して、時のしるしを識別しながら、新たな歩みを、勇気を持って始められるよう期待するとともに、聖霊の導きを祈ります。

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ミサの終わりには、教区内各小教区から送っていただいた小石を配置した十字架の祝福と、鐘の祝福を行い、祝福後に一突きした鐘の音は、聖堂内に低く響き渡り、新たな100年の始まりを告げました。この鐘は教皇ピオ11世から1930年に東京の神学校に贈られたものですが、その後戦時中の紆余曲折を経て、戦後復興のシンボルとして土井枢機卿様が大森教会に贈られたものです。

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説教の終わりでも触れましたが、教皇様の「野戦病院であれ」と言う呼びかけを、具体的な活動に生かしているのも大森教会の皆さんです。特に今般の事態の中で、食料を提供するフードパントリーの活動は、地域社会からも評価されています。これからもこういった活動を、地道に継続して行かれることを、期待しています。なお大森教会のフードパントリーの活動については、こちらに記事があります。(教区ニュース380号の中段あたりです

以下、本日の感謝ミサのために用意した説教原稿です。

大森教会創立100周年感謝ミサ
2022年10月10日

大森教会の創立100周年にあたり、皆様に心からお祝いを申しあげます。

教区の歴史に記された100年前の出来事を読むと、アルベルト・ブルトン師は、当時のレイ東京大司教が、品川と横浜間に教会がなかったので、その付近に教会をつくるよう希望され、その出発点は、小さな聖堂と、幼稚園と医院であったと記されています。100年前の日本における福音宣教のパイオニアの時代には、教会は福音を教育と福祉を通じて広く告げしらせました。大森教会もその流れの中で、初期から幼稚園と医院とともに、歩み始められ、その後の戦争の時代も経て、現代からは考えられない様々な困難に直面しながら、それを乗り越え、福音をあかししてこられました。

教区ホームページに記されている歴史には、こういう記述もありました。

「近くの埋め立て地に捕虜収容所があったが、当時主任司祭であった下山神父は、捕虜たちの救霊のため収容所に通い続けた。終戦後、開放された捕虜たちは本国に帰り、日本の教会復興のため多大の援助をした。大森教会は、戦後復興した東京教区第1番目の教会となった」

現代の教会は、教皇フランシスコの元で、連帯による支え合い事がいのちを守る道であると説きますが、すでにこの戦乱と混乱の時代に、国籍を超えて兄弟姉妹としての連帯をあかしする歩みを、大森教会は歩んでおられました。

いまでも教会とともにある幼稚園や、戦後の混沌とした時代に発展したスカウト活動などとともに、これからも福音をあかしする活動を続けて行かれることを期待しています。

わたしたちは今、歴史に残る困難に直面しております。

新型コロナ感染症の蔓延は、未知の感染症であるが故に、わたしたちを不安の暗闇の中へと引きずり込みました。わたしたちはすでに2年以上にわたって、出口が見えないまま、まるで闇の中を光を求めて彷徨い続けているかのようであります。

教会も、さまざまに対応してきました。なんといっても、当初から、密接・密集・密閉を避けるようにと呼びかけられているのに、教会はその三つの密のオンパレードでありますし、ましてやミサなどになれば一緒になって大きな声で聖歌を歌ったりいたします。換気も容易ではありません。

大げさなようですが教会は、いまアイデンティティの危機に直面しています。なにぶんこれまでは、日曜日にできる限りたくさんの人が教会に集まってくれるようにと働きかけてきたのです。この教会という場所に集まることが、共同体なのだと思っていました。少しでもミサに参加する人が増えることが、宣教の成功だと思っていました。

それが今、教会にはなるべく来ないでくれと呼びかけたり、集まってもなるべく離れ、一緒に聖歌も歌わないでおります。そのような中で、教会共同体というのは、そもそもいったいどういう意味を持つのだろうかと、自らに問いかける日々が続いています。

もちろんわたしたちは、以前から教会というのは単に聖堂という建物のことだけではないと学んできました。第二バチカン公会議は教会憲章において、教会はまず第一に「神の民」であると指摘し、その上で教会は、「神との親密な交わりと全人類一致のしるしであり道具」です(教会憲章一)と教えます。教会は神の民という共同体のことであり、その共同体は、「神との親密な交わりと全人類の一致のしるしであり道具」として、この地域に存在しています。

わたしたちは、実際に集まることが難しい中で、互いの信仰における絆を確認するように促されています。それは、実は、大きな変革のチャンスを与えられていることではないかと感じています。これまでは教会共同体の一員となると言えば、何か役職を担って貢献することが重要と考えてしまいがちでしたが、集まることが難しいいま、そのこと自体が成り立ちません。成り立たないからこそ、集まれなくても共同体であるとはどういうことかを見直すチャンスです。

何がわたしたちを結びつけている絆でしょうか。何がわたしたちを、この地域において、「神との親密な交わりと全人類一致のしるしと道具」にしているのでしょうか。すべての中心には、主イエスがおられます。わたしたちの真ん中に現存しておられる主への信仰、一人ひとりの主への思いが、わたしたちを結びつける絆です。

教会に集まることが難しい今だからこそ、その絆に信頼し、わたしたちとともにおられる主に励まされて、わたしたちは自分の生活の場へと「出向いていく教会」として、「神との親密な交わりと一致」をあかしする神の民でありたいと思います。

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教皇フランシスコの語られる「出向いていく教会」は、神の言葉が人となられてわたしたちのうちにおいでになったという救いの業の行動原理に倣う、教会のあるべき姿を表しています。闇雲に出向いていくのではなく、助けを必要としている人のもとへと出向いていく教会であります。孤立しいのちの危機に直面している人のもとへと、出向いていく教会であります。

コロナ禍のもたらす疑心暗鬼の暗闇の中で、対立と分断、差別と排除、孤立と孤独が深まる現代世界にあって、教皇様は、神のいつくしみを優先させ、差別と排除に対して明確に対峙する神の民であるようにと呼びかけておられます。とりわけ教会が、神のいつくしみを具体的に示す場となるようにと呼びかけ、東京ドームのミサでも、「いのちの福音を告げるということは、共同体としてわたしたちを駆り立て、わたしたちに強く求めます。それは、傷のいやしと、和解とゆるしの道を、つねに差し出す準備のある、野戦病院となることです」と力強く呼びかけられました。

疑心暗鬼の暗闇の中で不安に苛まれる心は、寛容さを失っています。助けを必要としているいのちを、特に法的に弱い立場にある人たちを、いのちの危機に追い込むほどの負の力を発揮しています。わたしたちは神からの賜物であるいのちを守る、野戦病院でありたいと思います。

教会共同体は、その体の一部である一人ひとりが、それぞれの生活の場で神のいつくしみをあかしする言葉と行いに忠実であることによって、出向いていく教会となります。わたしたちのあかしするいつくしみの言葉と行いは、個人の業ではなく、共同体の業です。わたしたちは、共同体で受けた神の愛といつくしみを心にいただき、それをそれぞれが生きる場で分かち合うのです。

五つのパンと二匹の魚を目の当たりにした弟子は、主に向かって、「こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう」と断定します。人間の常識に従えば、当たり前の判断です。しかし神はそれをひっくり返されます。

いま教会はともに歩む道・シノドスの道をともにしていますが、2021年9月初めにローマ教区の信徒代表たちとお会いになった教皇様は、その席で、「教会がリーダーたちとその配下の者たちとか、教える者と教わる者とから成り立っているという凝り固まった分断のイメージから離れることには、なかなか手強い抵抗があるが、そういうとき、神は立場を全くひっくり返すのを好まれることを忘れている」と指摘されています。これまでのやり方に固執することなく、勇気を持って新しいあり方を模索することは、教皇フランシスコが教会にしばしば求められる道です。

次の100年のあゆみを始めた大森教会も、聖霊の導きに信頼して、神の呼びかけをしっかりと識別し、過去にとらわれずに、大胆に自らのあり方を見つめ直し、勇気を持って出向いていく教会であり続けますようにお祈りします。

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2022年10月 9日 (日)

2022年受刑者とともに捧げるミサ@麹町教会

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この時期に恒例となりつつある受刑者とともに捧げるミサが、今年も、特定非営利活動法人マザーハウス(理事長:五十嵐弘志さん)の主催で、10月8日午後2時から、カトリック麹町教会でささげられました。

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今年もまだ、感染症の状況が続いているため、聖堂を一杯にはできませんが、それでも多くの方が参加してくださり、聖歌はイエスのカリタス会シスター方が歌ってくださいました。わたしが司式をし、駐日教皇庁臨時大使(教皇大使は現在出張中で不在のため)である参事官のファブリス・リヴェ師、イエズス会の小山神父様、さいたま教区の藤田神父様、大司教秘書のオディロン神父様で、ミサを捧げました。

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昨年も引用しましたが、マザーハウスのホームページには、このミサについて次のように解説が掲載されています。

「教皇フランシスコは「いつくしみの特別聖年」中の2016年11月6日(日)を、「受刑者の聖年」と定め、受刑者やその家族のため、そして刑務官や教誨師を含め、刑務所の内外で受刑者の支援に携わっているすべての人・機関のために祈るよう呼びかけました。理事長の五十嵐は、社会の人々と刑務所にいる受刑者が共に祈ることで孤独と犯罪から解放されると考え、菊地功大司教に受刑者と共に捧げるミサの司式を要請し、2018年10月に菊地功大司教とローマ教皇庁大使館の大使チェノットゥ大司教の共同司式にてミサを開催し、毎年、実施しています」

以下、このミサのために用意した説教の原稿です。

受刑者とともに捧げるミサ
2022年10月8日
聖イグナチオ・麹町教会

今年の受刑者とともに捧げるミサでも、昨年と同じようなことを言わなくてはなりません。昨年の今頃の楽観的な推測は裏切られ、いまだ感染症の状況から抜け出すことができずにいます。2020年2月頃から始まって今に至るまで、暗闇の中で過ごしています。なんとか抜け出したいともがいています。しかしもがけばもがくほど、わたしたち人間の知恵と知識には限界があることを思い知らされます。目に見えない小さな存在であるウイルスに、わたしたちは翻弄されています。これが人間の限界です。わたしたちはこの世界を生み出した神様の偉大な力の前で、自分たちがどれほどちっぽけなものかを思い知らされています。偉そうに、思い上がり、何でも自分の力でできるとばかりに生きてきた、その生き方を振り返り、すべての造り主、つまりこの私たちのいのちを生み出し与えてくださった神の前で、謙遜にこれまでの生き方へのゆるしを願いたいと思います。

簡単には抜け出すことができない困難の中で、わたしたちが選択するべき道はただ一つです。それは、互いに支え合い助け合う「連帯」の道です。

教皇フランシスコは、感染症の困難が始まった最初の頃から、しばしば連帯の必要性を強調されてきました。

例えば最初の頃、2020年9月2日に、教皇様はこう話されています。
「このパンデミックは、わたしたちが頼り合っていることを浮き彫りにしました。わたしたちは皆、良くも悪くも、互いに結びついています。・・・調和のうちに結ばれた多様性と連帯、これこそが、たどるべき道です。」
 しかし残念なことに、「調和・多様性・連帯」の三つを同時に求めることは簡単なことではなく、どうしてもそのうちの一つだけに思いが集中してしまいます。わたしたちの限界です。

調和を求めるがあまりに、みんなが同じ様に考え行動することばかりに目を奪われ、豊かな多様性を否定したりします。共に助け合う連帯を追求するがあまり、異なる考えの人を排除したりして調和を否定してしまいます。様々な人がいて当然だからと多様性を尊重するがあまり、互いに助け合う連帯を否定したりします。

「調和のうちに結ばれた多様性と連帯」は、言葉で言うのは簡単ですが、実際に行動に移すのは容易ではありません。

その証左の最たるものは、いまウクライナで起こっている戦争です。

この半年の間、わたしたちの眼前で展開したのは、調和でも多様性でも連帯でもなく、対立と排除と暴虐でした。暴力が世界を支配するかのような状況が続くとき、どうしても暴力を止めるために暴力を使うことを肯定するような気持ちに引きずり込まれます。しかし暴力の結末は死であり神の否定です。わたしたちはいのちを生かす存在であることを強調し、暴力を否定したいと思います。暴力を肯定することは、いのちの創造主である神への挑戦です。

いま世界に必要なのは、互いの違いを受け入れ、支え合い、連帯することであり、神の愛を身に受けて、自分のことではなく他者のためにその愛を分かちあう生き方です。

いのちの尊厳をないがしろにする人間の暴力的な言葉と行いにひるむことなく立ち向かい、神が望まれる世界の実現の道を模索することは、いのちを賜物として与えられた、わたしたちの使命です。

ご存じのように、いま宗教の意味が問われています。カトリック教会自身も、自戒の念を込めて振り返る必要がありますが、元首相の暗殺事件以来、宗教団体の社会における存在の意味が大きく問われています。言うまでもなく、どのような宗教であれ、それを信じるかどうかは個人の自由であり、その信仰心の故に特定の宗教団体に所属するかしないかも、どう判断し決断するのかという個人の内心の自由は尊重されなくてはなりません。

そもそも人は、「良心に反して行動することを強いられたり、共通善の範囲内で、良心に従って行動することを妨げられては」ならないとカトリック教会は教えます(カテキズム要約373)。「共通善」というのは、一人ひとりが与えられたいのちを十全に生きる事のできる社会を実現するための、皆に共通な社会生活の条件であり、わたしたち宗教者は、社会におけるその行動が共通善に資するものでなくてはなりません。

宗教は、いのちを生かす存在でなくてはなりません。希望を生み出す存在でなくてはなりません。従ってその宗教を生きる宗教団体が、いのちを奪ったり、生きる希望を収奪するような存在であってはなりません。人間関係を崩壊させたり、犯罪行為に走ったり、いのちの希望を奪ったりすることは、宗教の本来のあり方ではありません。

わたしたちはどうでしょう。キリストはいのちを生かす希望の光であり、わたしたちはそもそもこのいのちを、互いに助け合うものとなるようにと与えられています。わたしたちはすべての人の善に資するために、いのちを生かす希望の光を掲げる存在であり続けたいと思います。

先ほど朗読されたマタイによる福音には、イエスご自身の厳しいけれども励ます言葉が記されています。

「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない」で始まる一連の言葉は、「魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」と続いていきます。

わたしたちの人生が、すべてを創造し支配しておられる神の掌の中にあるのだということを明確にするこの言葉は、同時に、「あなた方の髪の毛一本残らず数えられている」と述べることで、創造されたいのちは、一つたりとも神から忘れられていないことを明確にします。つまりわたしたちは神の裁きを恐れて生きるのではなく、神の愛による配慮の中で生かされているのだから、こそこそと暗闇になくれることなく、堂々と光の中で、希望を掲げて生きなくてはならないことを教えています。

不安の暗闇の中に生きているわたしたちは、ともすれば神が沈黙しているのではないかと恐れに駆られますが、イエスの言葉は、わたしたちが神の愛の中で生かされていることをはっきりと告げています。神はわたしたちと常に共におられます。わたしたちがその光を闇の中で高く掲げることを待っておられます。

今日このミサを捧げながら、過去を顧み許しを求めている人に善なる道が示されるように、祈りたいと思います。

同時に犯罪の被害に遭われた方々の、心と体のいやしのために、祈ります。

さらには、加害者のご家族、また被害者のご家族の方々の、いやしと生きる希望のために、祈りたいと思います。

そして、すべての人が神の望まれる道を歩むことができるように、受刑者の方々に、また犯罪の被害者の方々に支援の手を差し伸べるすべての人のために、心から祈りたいと思います。キリストに従うわたしたち一人ひとりが、神が望まれるより良い道を、互いに支え合って、歩み続けることが出来ますように。

なお、NPO法人マザーハウスのYoutubeチャンネルから、ミサの録画をご覧いただけます。こちらのリンクです。

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2022年10月 8日 (土)

週刊大司教第九十七回:年間第二十八主日


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10月12日から30日まで、タイのバンコクで、アジア司教協議会連盟(FABC)の総会が開催されます。2年前に創立50年を迎えている連盟ですが、記念の総会がコロナ禍で延期されており、やっと開催になりました。

通常の総会では、それぞれの司教協議会から会長ともう一人程度の参加ですが、今回は50年の節目と言うこともあり、過去を振り返って将来への歩みを定めるために、多くの司教が参加します。日本からも6名の参加が予定されています。

なお、FABCについて、カトリック新聞に書いた記事が、中央協のホームページにも転載されていますので、こちらのリンクからどうぞ。また英語ですが、FABCのホームページはこちらのリンクです。さらに今回の50周年総会のためのホームページはこちらです。

総会の成功のために、参加する司教たちのために、お祈りいただけましたら幸いです。

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ケルン教区からの訪問団は、すべての日程をこなして、10月5日に帰国されました。2024年にケルン教区と東京教区のパートナーシップ関係が70年となることから、これからの2年間ほどで、将来に向けたパートナーシップのあり方についての方向性を定め、それについてのメッセージを作成しようという話になりました。単に、援助金がドイツから日本に来たと言うだけではない、もう少し幅の広い交流、特に青年たちの交流などと、これまで以上に一緒になってのミャンマー支援などの強化を、ケルンの方々は考えておられるようです。今後、互いにチームを定めて、検討を深めたいと考えています。(上の写真は、調布カルメル会修道院を訪れたケルンの訪問団)

以下、本日午後6時配信の、週刊大司教第97回、年間第28主日のメッセージ原稿です。

年間第28主日C(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第97回
2022年10月9日

ルカ福音は、重い皮膚病を患っていた十人の人が、イエスによって癒やされた話を記しています。十人はイエスの勧めに従って祭司のところへ行く途中で癒やされますが、その中の一人だけがイエスのもとに戻ってきます。イエスに感謝するために戻ってきたのは、ユダヤ人から見れば神への信仰に忠実ではないと見なされていたサマリア人だけでありました。

それに対してルカ福音が記すイエスの言葉は、「神を賛美するために戻ってきたものはいないのか」であって、受けた恵みに対して、神のもとに立ち返り、神を賛美するというその行為にこそ救いがあることを、「あなたの信仰があなたを救った」という言葉が示唆します。

すなわち、人間が抱える様々な困難が解決され幸せが確立することに救いがあるのではなく、受けた恵みを自覚しながら感謝のうちに神と共にあることにこそ救いがあるのだとイエスの言葉は教えています。神に感謝をささげ、神と共にいることによって良しと見なされたのは、正統な信仰を守っていると自負するユダヤ人ではなかったという話は、信仰を守るとはどういうことなのかを考えさせます。それは、信仰者の立ち位置が、自分自身のところにあるのか、神のところにあるのかの違いです。自分の幸せを優先する利己的な心を強く持つとき、わたしたちは神のもとには立っていません。そこに救いはあるでしょうか。

パウロはテモテへの手紙に、「キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きるようになる。耐え忍ぶなら、キリストと共に支配するようになる。」と記しています。ここでも救いとは、自分自身の人間的な困難の解決にあるのではなく、キリストと共にいることにあるとパウロは指摘します。その上でパウロは、自分自身の苦しみは、他の人々が、「キリスト・イエスによる救いを永遠の栄光と共に得るため」に耐え忍んでいるのだと強調します。パウロの立ち位置は自分ではなく神のもとにあり、だからこそパウロはイエスに倣って、他者の救いのために命を燃やし続けるのです。

アジア各地の司教協議会の連盟組織であるFABC(アジア司教協議会連盟)の創立50年を記念して開催される総会が、10月12日から30日まで、バンコクで開催されます。日本を含めアジア各国から司教の代表が集まります。どうか会議の成功のために、お祈りください。

FABCは、1970年に教皇パウロ六世がマニラを訪問された際に集まったアジアの司教たちの合意に基づいて誕生しました。第二バチカン公会議の教会憲章で示された司教の団体性や協働性と翻訳される「コレジアリタス」を具体化し、アジアにおける教会の存在を更に福音に沿って具体化するための組織として誕生しました。

FABCはこの50年間、アジア全域において、三位一体の神をあかしし、イエスの福音を告げしらせるために、牧者である司教たちの交わりを通じて、福音宣教への共通理解を深めてきました。中でも、FABCは三つの対話、すなわち、「人々(特に貧しい人々)との対話、諸宗教との対話、多様な文化との対話」が、アジアでの宣教において共通する重要課題であると指摘を続けてきました。今回の総会のテーマも、「アジアの民として、ともに歩み続けよう」とされ、対話と連帯のうちに福音を具体的に生きる道を模索しようとしています。

教皇ヨハネパウロ二世は、使徒的勧告「アジアの教会」に、「(アジアの様々な)宗教的価値は、イエス・キリストにおいて成就されることを待っているのです」(6)と記しています。わたしたちは、神のもとにしっかりと立ち位置を定め、すべての人の救いのために努力を続けたいと思います。

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2022年10月 7日 (金)

2022年ロザリオの聖母の記念日

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本日10月7日は、ロザリオの聖母の記念日です。

「諸民族の心と精神の和解によって最後には真の平和が世界に輝くよう、幸いなるおとめマリアの助けを願うために、十月にロザリオを唱えることを強く勧めます」

教皇パウロ六世が1969年に発表された使徒的勧告「レクレンス・メンシス・オクトーベル」は、そう始まっています。

10月はロザリオの月です。10月7日はロザリオの聖母の祝日です。また教会は伝統的に10月にロザリオを祈ることを勧めてきたこともあり、教皇レオ十三世によって10月が「ロザリオの月」と定められました。ロザリオの起源には諸説ありますが、十二世紀後半の聖人である聖ドミニコが、当時の異端と闘うときに、聖母からの啓示を受けて始まったと伝えられています。

本日10月7日のロザリオの聖母の記念日も、1571年のレパントの海戦でのオスマン・トルコ軍に対する勝利が、ロザリオの祈りによってもたらされたとされていることに因んで定められています。

ある意味、ロザリオは信仰における戦いのための道具とも言えるのかも知れませんから、歴史的背景が変わった現代社会にあっても、信仰を守り深めるために重要な存在です。

この困難な状況に立ち向かう今だからこそ、神の母であり、教会の母であり、そしてわたしたちの母である聖母マリアの取り次ぎによって、世界に、そしてわたしたちの心と体に、神の平和が取り戻されるよう、共にいてくださる主イエスと歩みをともにしながら、命の与え主である御父に祈り続けましょう。

ロザリオの祈りは、教会の中では忘れられることなく、重要な祈りの手段としての地位を占め続けていますが、しかし普段、しばしばロザリオを祈られている方も大勢おられるかと思えば、滅多に祈らない方もおられることでしょう。ご自分のロザリオがどこにあるのか、忘れてしまわれた方もおられかも知れません。

今日はせっかくのロザリオの聖母の記念日です。10月はせっかくのロザリオの月です。この機会に、一連でも構いません。祈ってみましょう。今日、一回だけでも、祈ってみましょう。ロザリオを思い出して祈る方が今日おられるとしたら、一人の祈りの力は小さくても、それが結集して、大きな祈りの力になります。

特にこの状況の中で、平和のために、どうか、今日、一連だけで構いませんから、ロザリオを祈りましょう。祈りの力を結集しましょう。

以下のビデオは、東京教区広報で昨年の10月と今年の5月に作成した、ロザリオの祈りのビデオです。

昨年2021年10月のビデオ

今年2022年5月のビデオ

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2022年10月 1日 (土)

週刊大司教第九十六回:年間第二十七主日

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早いもので、今年もすでに終盤です。10月となりました。

10月はロザリオの月です。教皇レオ13世によって、10月は聖母マリアにささげられた「ロザリオの月」と定められました。10月7日のロザリオの聖母の記念日は、1571年のレパントの海戦でのオスマン・トルコ軍に対する勝利が、ロザリオの祈りによってもたらされたとされていることに因んで定められています。歴史的背景が変わった現代社会にあっても、ロザリオは信仰を守り深めるための、ある意味、霊的な戦いの道具でもあります。現代社会にあっては、特に神の秩序の実現である平和の確立をねがうわたしたちの思いを、ロザリオの祈りを通じて御父に届けたいと思います。一人でも、いつでも、またグループでも、10月にはロザリオの祈りを通じて聖母に取り次ぎを願うことを、心に留めましょう。

ケルン教区の代表団が東京教区に滞在中です。長年にわたる両教区の「パートナーシップ」ですが、今回の訪問で、「パートナーシップ」という名称のふさわしいだけの関係が構築されているか、見直しをしたいとの提案が、代表団の担当者から表明されています。もちろんケルン教区という巨大な教区と、東京教区とでは、資金力は言うにおよばず人的可能性でも大きな差がありますので、同じようなことはできませんが、単に資金提供を受けてきたという関係以上の絆を、どのように築き上げることができるのか、考えてみたいと思います。もちろん、両者で協力してきたミャンマーへの支援は、特にいまのような状況下にあって、しっかりと継続していきたいと思います。

以下、本日午後6時配信の、週刊大司教第96回、年間第27主日メッセージ原稿です。

年間第27主日C(ビデオ配信メッセージ)
週刊大司教第96回
2022年10月2日

9月の初めからこの一ヶ月、わたしたちは教皇フランシスコの回勅「ラウダート・シ」の精神に倣って、「すべてのいのちを守る月間」を過ごしています。間もなく10月4日をもって、今年の月間は終了します。「ラウダート・シ」に倣うということは、ともすれば、環境問題などの特定の課題に取り組むための啓発活動と考えられる嫌いがありますが、それ以上に、教皇フランシスコが呼びかけるように、これは回心への招きであり、「自然界を通して神の存在を感受するエコロジカルな霊性」の実践への招きです(今年の被造物を大切にする世界祈願日メッセージ)。

教皇様は今年のメッセージにこう記しています。

「わたしたちの過剰な消費主義の支配に、大地はうめき声を上げ、虐待と破壊に終止符を打つようわたしたちに懇願しています。ですから、叫びを上げているのはすべての被造物です。創造のわざにおいて、キリスト中心の対局にある「専制君主的な人間中心主義」に翻弄されることで、無数の種は死に絶え、それらによる神をたたえる賛歌は永遠に失われてしまうのです」

ルカ福音は、務めに対して忠実で謙遜な僕について語るイエスの言葉を記しています。するべき務めをすべて果たした時に、「私どもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです」と言うことこそが、忠実な僕のあるべき姿だと語るイエスは、これを通じて、わたしたちがそれぞれの与えられた召し出しに忠実に生きることが、信仰生活において重要であることを示唆します。

「ラウダート・シ」において教皇フランシスコは、「神とのかかわり、隣人とのかかわり、大地とのかかわりによって、人間の生が成り立っている」と記しています(66)。その上で、「わたしたちはずうずうしくも神に取って代わり、造られたものとしての限界を認めることを拒むことで、創造主と人類と全被造界の間の調和が乱されました」と指摘されました。わたしたちは与えられたそれぞれの召し出しに忠実に生きる謙遜な僕であるでしょうか。

教皇様はさらに、「わたしたちが神にかたどって創造され大地への支配権を与えられたことが他の被造物への専横な抑圧的支配を正当化するとの見解は、断固退けなければなりません」と記します。わたしたちには被造界を破壊する横暴な支配者ではなく、それを「世話し、保護し、見守り、保存する」善き管理者として、与えられた務めを忠実に、かつ謙遜に果たすことが求められています。

わたしたちは、「話せず、語れず、声が届かない」被造物や、特に貧しい人々の叫びに耳を傾けるよう招かれています。教皇は今年のメッセージに、「気候危機にさらされることで貧しい人々は、ますます激化し頻発している干ばつ、洪水、ハリケーン、熱波のもっとも深刻な影響を受けています。さらに、先住民族の兄弟姉妹が叫びを上げています。収奪的な経済的利益追求の結果、彼らの祖先の土地は四方八方から侵略され荒廃し、「天へと向かう嘆きの叫び」を上げています」と記し、社会の中心部から忘れ去られた人たちの声に耳を傾けることの重要性を強調されています。

わたしたちの周囲にはどのような声が響いているでしょうか。社会や多数の人々の圧力によって、押し潰されてしまっている声はないでしょうか。「より豊かに、より容易に自己完成を達成できる」よう、共通善の実現を目指して、生き方を見つめ直す回心が必要です(現代世界憲章26)。

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