2022年受刑者とともに捧げるミサ@麹町教会
この時期に恒例となりつつある受刑者とともに捧げるミサが、今年も、特定非営利活動法人マザーハウス(理事長:五十嵐弘志さん)の主催で、10月8日午後2時から、カトリック麹町教会でささげられました。
今年もまだ、感染症の状況が続いているため、聖堂を一杯にはできませんが、それでも多くの方が参加してくださり、聖歌はイエスのカリタス会シスター方が歌ってくださいました。わたしが司式をし、駐日教皇庁臨時大使(教皇大使は現在出張中で不在のため)である参事官のファブリス・リヴェ師、イエズス会の小山神父様、さいたま教区の藤田神父様、大司教秘書のオディロン神父様で、ミサを捧げました。
昨年も引用しましたが、マザーハウスのホームページには、このミサについて次のように解説が掲載されています。
「教皇フランシスコは「いつくしみの特別聖年」中の2016年11月6日(日)を、「受刑者の聖年」と定め、受刑者やその家族のため、そして刑務官や教誨師を含め、刑務所の内外で受刑者の支援に携わっているすべての人・機関のために祈るよう呼びかけました。理事長の五十嵐は、社会の人々と刑務所にいる受刑者が共に祈ることで孤独と犯罪から解放されると考え、菊地功大司教に受刑者と共に捧げるミサの司式を要請し、2018年10月に菊地功大司教とローマ教皇庁大使館の大使チェノットゥ大司教の共同司式にてミサを開催し、毎年、実施しています」
以下、このミサのために用意した説教の原稿です。
受刑者とともに捧げるミサ
2022年10月8日
聖イグナチオ・麹町教会今年の受刑者とともに捧げるミサでも、昨年と同じようなことを言わなくてはなりません。昨年の今頃の楽観的な推測は裏切られ、いまだ感染症の状況から抜け出すことができずにいます。2020年2月頃から始まって今に至るまで、暗闇の中で過ごしています。なんとか抜け出したいともがいています。しかしもがけばもがくほど、わたしたち人間の知恵と知識には限界があることを思い知らされます。目に見えない小さな存在であるウイルスに、わたしたちは翻弄されています。これが人間の限界です。わたしたちはこの世界を生み出した神様の偉大な力の前で、自分たちがどれほどちっぽけなものかを思い知らされています。偉そうに、思い上がり、何でも自分の力でできるとばかりに生きてきた、その生き方を振り返り、すべての造り主、つまりこの私たちのいのちを生み出し与えてくださった神の前で、謙遜にこれまでの生き方へのゆるしを願いたいと思います。
簡単には抜け出すことができない困難の中で、わたしたちが選択するべき道はただ一つです。それは、互いに支え合い助け合う「連帯」の道です。
教皇フランシスコは、感染症の困難が始まった最初の頃から、しばしば連帯の必要性を強調されてきました。
例えば最初の頃、2020年9月2日に、教皇様はこう話されています。
「このパンデミックは、わたしたちが頼り合っていることを浮き彫りにしました。わたしたちは皆、良くも悪くも、互いに結びついています。・・・調和のうちに結ばれた多様性と連帯、これこそが、たどるべき道です。」
しかし残念なことに、「調和・多様性・連帯」の三つを同時に求めることは簡単なことではなく、どうしてもそのうちの一つだけに思いが集中してしまいます。わたしたちの限界です。調和を求めるがあまりに、みんなが同じ様に考え行動することばかりに目を奪われ、豊かな多様性を否定したりします。共に助け合う連帯を追求するがあまり、異なる考えの人を排除したりして調和を否定してしまいます。様々な人がいて当然だからと多様性を尊重するがあまり、互いに助け合う連帯を否定したりします。
「調和のうちに結ばれた多様性と連帯」は、言葉で言うのは簡単ですが、実際に行動に移すのは容易ではありません。
その証左の最たるものは、いまウクライナで起こっている戦争です。
この半年の間、わたしたちの眼前で展開したのは、調和でも多様性でも連帯でもなく、対立と排除と暴虐でした。暴力が世界を支配するかのような状況が続くとき、どうしても暴力を止めるために暴力を使うことを肯定するような気持ちに引きずり込まれます。しかし暴力の結末は死であり神の否定です。わたしたちはいのちを生かす存在であることを強調し、暴力を否定したいと思います。暴力を肯定することは、いのちの創造主である神への挑戦です。
いま世界に必要なのは、互いの違いを受け入れ、支え合い、連帯することであり、神の愛を身に受けて、自分のことではなく他者のためにその愛を分かちあう生き方です。
いのちの尊厳をないがしろにする人間の暴力的な言葉と行いにひるむことなく立ち向かい、神が望まれる世界の実現の道を模索することは、いのちを賜物として与えられた、わたしたちの使命です。
ご存じのように、いま宗教の意味が問われています。カトリック教会自身も、自戒の念を込めて振り返る必要がありますが、元首相の暗殺事件以来、宗教団体の社会における存在の意味が大きく問われています。言うまでもなく、どのような宗教であれ、それを信じるかどうかは個人の自由であり、その信仰心の故に特定の宗教団体に所属するかしないかも、どう判断し決断するのかという個人の内心の自由は尊重されなくてはなりません。
そもそも人は、「良心に反して行動することを強いられたり、共通善の範囲内で、良心に従って行動することを妨げられては」ならないとカトリック教会は教えます(カテキズム要約373)。「共通善」というのは、一人ひとりが与えられたいのちを十全に生きる事のできる社会を実現するための、皆に共通な社会生活の条件であり、わたしたち宗教者は、社会におけるその行動が共通善に資するものでなくてはなりません。
宗教は、いのちを生かす存在でなくてはなりません。希望を生み出す存在でなくてはなりません。従ってその宗教を生きる宗教団体が、いのちを奪ったり、生きる希望を収奪するような存在であってはなりません。人間関係を崩壊させたり、犯罪行為に走ったり、いのちの希望を奪ったりすることは、宗教の本来のあり方ではありません。
わたしたちはどうでしょう。キリストはいのちを生かす希望の光であり、わたしたちはそもそもこのいのちを、互いに助け合うものとなるようにと与えられています。わたしたちはすべての人の善に資するために、いのちを生かす希望の光を掲げる存在であり続けたいと思います。
先ほど朗読されたマタイによる福音には、イエスご自身の厳しいけれども励ます言葉が記されています。
「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない」で始まる一連の言葉は、「魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」と続いていきます。
わたしたちの人生が、すべてを創造し支配しておられる神の掌の中にあるのだということを明確にするこの言葉は、同時に、「あなた方の髪の毛一本残らず数えられている」と述べることで、創造されたいのちは、一つたりとも神から忘れられていないことを明確にします。つまりわたしたちは神の裁きを恐れて生きるのではなく、神の愛による配慮の中で生かされているのだから、こそこそと暗闇になくれることなく、堂々と光の中で、希望を掲げて生きなくてはならないことを教えています。
不安の暗闇の中に生きているわたしたちは、ともすれば神が沈黙しているのではないかと恐れに駆られますが、イエスの言葉は、わたしたちが神の愛の中で生かされていることをはっきりと告げています。神はわたしたちと常に共におられます。わたしたちがその光を闇の中で高く掲げることを待っておられます。
今日このミサを捧げながら、過去を顧み許しを求めている人に善なる道が示されるように、祈りたいと思います。
同時に犯罪の被害に遭われた方々の、心と体のいやしのために、祈ります。
さらには、加害者のご家族、また被害者のご家族の方々の、いやしと生きる希望のために、祈りたいと思います。
そして、すべての人が神の望まれる道を歩むことができるように、受刑者の方々に、また犯罪の被害者の方々に支援の手を差し伸べるすべての人のために、心から祈りたいと思います。キリストに従うわたしたち一人ひとりが、神が望まれるより良い道を、互いに支え合って、歩み続けることが出来ますように。
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