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2022年10月14日 (金)

2022年神田教会堅信式ミサ

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10月9日の主日、神田教会で堅信式ミサを捧げました。20名の方が堅信の秘跡を受けられました。おめでとうございます。

この20名の方の中には、近隣の暁星学園で学ぶ生徒さんもおられ、学校でもしっかりと信徒生徒の信仰養成が行われていることがうかがえます。

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神田教会は、その趣のある佇まいから、結婚式でも有名な教会です。神田教会の歴史は古く、教区のホームページには次のように記されています。

「江戸時代の禁教令と同じく、明治政府もキリスト教を禁じていました。しかし、外国人居留地に進出したパリー外国宣教会の宣教師はやがてこの日本にも再び宣教が行われる日に備え、明治5年に三番町に「ラテン学校」を作り、諸外国語を教えるという名目で、将来の法人司祭育成の苗床を作ったのです。明治6年2月24日、ようやく明治政府もキリスト教禁令の高札をおろし、キリスト教を黙認することとな った。明治7年1月手狭な三番町より神田の地に移り、三つの旗本屋敷を購入し、その70畳敷きの大広間を聖フランシスコ・ザビエルに捧げた聖堂としたことが、現神田教会の礎となりました」

その後、関東大震災で聖堂は焼失し、現在の聖堂は1928年の建造されたものです。戦時中の空襲も免れ、焼失した関口教会に変わり、一時司教座が置かれていたこともありました。東京教区の中でも歴史のある教会の一つです。下の写真、堅信を授けるわたしの後ろに掲げてあるのは、土井枢機卿様の紋章です。

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以下、当日のミサ説教の録音を起こしたものを手直しした原稿です。子どもたちが大勢だったので、できる限りそのように話したままに書き起こしてあります。

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神田教会堅信式@年間第二十八主日
2022年10月9日

堅信の秘蹟を受けられる方々に、こころからお慶びを申し上げます。

堅信の秘蹟については、学校でも教会でも勉強をしてこられたと思いますけれども、聖霊をいただく秘蹟、聖霊によって力付けられて信仰を強めていただく秘蹟です。でも、堅信の秘蹟だけが独立してあるわけではなくて、それは洗礼の秘蹟があって、そしてご聖体をいただく聖体の秘蹟があって、そして堅信の秘蹟があるという、この3つで1つのセットになっているんですよね。

言ってみれば、一人前のキリスト信者になる。一人前のキリストの弟子になるための、一連の、3つの秘蹟です。ですから、洗礼の秘蹟を受け、ご聖体をいただき、堅信の秘蹟を受けることで、「一人前のキリスト者」がここに誕生するということになります。

昔は「キリストの兵士になる」という言い方もしました。いまは、「大人の信仰者になる」、「成熟したキリスト者になる」とか言いますけれども、今日、堅信の秘蹟を受けられる方々は、これで「一人前のキリスト者になる」ってことなのです。それが今日です。

学校であれば、小学校6年間、中学3年、高校3年、大学4年、学校に通って卒業すると、卒業証書をもらって、これで学校を卒業しました、資格を得ましたと、大学院を出れば博士になりましたとか、資格をもらってそれで修了です。卒業式に出て卒業証書をもらって、明日からまた学校に行こうと、普通は思わないですよね。学校との縁は切れるわけではないものの、学校に行くことはなくなって、あとは同窓会とか何か行事があるときに呼ばれて行くとか、そうゆうことだけで、日常生活の中では目に見える形での関わりはなくなる。

でも教会は、洗礼を受けて、ご聖体をいただいて、堅信の秘蹟を受けて、一人前のキリスト者になりました、はい、これで卒業です、ではないんですね。もうこれで教会には来なくていいです、学ぶ期間は終わり資格を得たからこれで卒業します、明日からもう教会に来なくていいです、という卒業式ではないんです。実は今日が、始まり。今日から始まるんです。

一人前のキリスト者になるというのは、勉強が終わって卒業することではなくて、これからしなくてはならないことに挑戦するという義務を、負うことなんです。これを教会では、「使命を与えられる」と言います。使うという字に命と書いて、使命。神様から使命を与えられる。使命というのは命令です。命令を与えられる。これこれこうゆうことをしなさいという命令を与えられる。ミッションです。

映画で「ミッション・インポシブル」というのがありますね。あのミッションが、使命です。何かをしなさいという命令です。
で、この使命を与えられるんです、今日。だから、これで教会と縁が切れて、さよならということではなくて、今日、使命を受けて、これから一緒に歩んで行く人生が始まる。

じゃ、いったいどうゆう使命が与えられているのか。
それは、イエス様が十字架の上で亡くなってご復活をしたあと、最後に弟子たちに現れ天に上げられて行くとき、その最後に言い残した言葉は、いったい何か。それは、全世界に行って福音を宣べ伝えなさい。わたしが伝えた良い便りを、すべての人に伝えてゆきなさいでした。
これを、福音宣教の使命と言います。福音を宣べ伝えることを、使命としてわたしたち一人ひとりは与えられているのです。

しかし、福音を宣べ伝えるからといって、今日、これで堅信式が終わったら、イエス様についてたくさん喋らなきゃとか、そうゆう、喋ることでは、実はないのです。

福音を宣べ伝えるといるのは、わたしの生き方、毎日の生活の仕方、人との関わり、他の人たちとの交わす言葉を通じてなのです。わたしの行いとことばが、イエス・キリストの教えたことに基づいているのかどうか、というところが一番重要なんです。

つまり、今日、堅信を受けたことによって、これからわたしたちは一人前のキリスト者として、自分の語ること、自分の行いを通じて、イエス様の教えのあかしをしてゆく。イエス様が教えたことを具体的に目に見えるものにしてゆく。

例えば、困っている人がいたら助ける、悲しんでいる人がいたら慰める、喜んでいる人がいたら一緒に喜ぶ、話を聞いてほしい人がいたら話を聞く、さまざまなことが考えられますが、基本は一緒になって歩んで行くということ。

皆さんの毎日の生活の中でのことばと行いを通じて、イエスキリストの教えたことをぜひともあかししていってほしいと思います。

もちろん、たぶん、そうは言っても、そんなことは簡単にできないよと、思いますよね。だから堅信の秘蹟なんです。自分の力ではできないです。人間の力ではそんなことはできない。だからこそ、神様の力が働くように、聖霊が堅信の秘蹟によって与えられるんです。

覚えているでしょうか、最初の聖霊降臨の出来事です。五十日祭の日、弟子たちは、イエス様が死んだあと、迫害を恐れてみんな家に隠れていたんですよ。隠れて、みんなに見つからないようにしていたところに聖霊が降って、その瞬間から彼らは、すべての人が理解することばでイエス・キリストについて語りはじめた。ガラッと、180度人生が変わって、それまでは怖くて隠れていた人たちが、自分のことばと行いで、イエス・キリストについて語るようになった。それはどうしてか、聖霊が降ってきたから。

つまり聖霊は、わたしたちが恐れて、そんなことはできない、イエスについて語る、イエスの教えに基づいて生きるなんてことは難しいと思ったとき、でも、そうしたいと思う心もある。それを後ろから支えてくださるのです。私たちの前向きな心を支え、力付けてくださるのが、聖霊の恵みです。

だから、堅信の秘蹟を受けたからといって、今日急にスーパーマンみたいに、堅信の秘蹟が終わったあとに変わって、素晴らしい人になっているということではないんです。そうではなくて、そうなりたいと思う自分の気持ちを、聖霊が後ろからしっかりと支えて、後押しをしてくださる。その後押しは決してなくならない。神様は、イエス様は、常にわたしたちとともにいてくださると約束をされているのです。わたしたちの人生の間、道を踏み外そうが真っ直ぐ歩いていようが、神様は後ろからしっかりと、聖霊の息吹を持って、わたしたちを支え続けてくださるんだということを、ぜひこころに留めておいていただきたいと思います。

今日の福音で、10人の人が皮膚病から癒やされて、9人の人が帰って来なかったけれど、1人だけイエスのところに帰って来たと言う話が記されていました。

それはものすごく大切なことです。神様によって救われるということは、そうした困っていることが解決する、つまり皮膚病が治る、困っていることが解決してよかった。それで終わり、万々歳ではないんです。

イエス様が仰っているのは、それだけじゃないんだと。そのあとに、神とともに一緒にいることが、つまりサマリア人だけが戻ってきたわけですけれども、イエスとともにいるのか、イエスとともに歩もうとしているのかが大切だと。だからわたしたちは、いったい何に軸足を置いて生きて行くのかということを、しっかりと見極めなさい。わたしのことばの上に、わたしの教えたことの上にしっかりと立って、いつも私と歩み続けなさいと教えていると思います。自分の勝手な思いだけで,問題は解決した、万歳、これで楽しい人生になるとどこかに行ってしまうのではなくて、常にイエス様の御許にしっかりと立って、その言葉と行いを自分のものとして、これから生きてゆかれるよう、
堅信を受けられた方々はぜひ心に留めて、これからの長い人生をしっかりと歩んでいただけたらと思います。

 

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