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2022年11月30日 (水)

分かち合いの声をお聞かせください@シノドスの歩み

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様々な機会に繰り返してきましたが、シノドスの歩みは続いています。教区・国フェーズは終わって現在は大陸フェーズに移りましたが、それぞれの教会単位での取り組みは、終わりがありません。なぜならば、聖霊の導きを識別してともに歩む教会を育てる作業は始まったばかりで、これからも続けられるからです。

ご存じのように東京教区では、そのために、分かち合いの手引きを作成しました。こちらからPDFをダウンロードして、ぜひ活用してください。実際の分かち合いのためのグループ活動は状況によっては難しいかも知れませんが、お一人でも一度、この手引きに目を通されることをお進めします。

もしグループでの分かち合いが可能でしたら、こちらの教区のページから、分かち合いの方法をご参照のうえ、ご活用ください。何か結論を出したり、議論をしたりするのではなく、互いに耳を傾けることの大切さを思い起こしてください。

その上で、分かち合いの成果を教区全体で分かち合っていただければと思います。現在の状況の中で、多くの人に一度に集まっていただくのも難しいですし、オンラインでの集まりにも限界があります。そこで、手引きに従って行うグループの分かち合いの成果を報告していただくためのフォームを用意しました。こちらのリンクです。注意書きにご留意の上、活用ください。教区シノドスチームでまとめて、ホームページなどで公開するようにいたします。(なおこの「分かち合い」の分かち合いは、皆さんのグループでの気づきを書いていただくもので、シノドスへの提言やシノドスと関連のない事柄についての通知や連絡のためではありませんので、そこはご理解ください)

さらに、アジア大陸シノドスへの準備も始まっています。中央協議会のホームページに、そのためのセクションが設けられています。

大陸別シノドスのための文書も公開されていますので、こちらもご一読いただければと思います。

 

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2022年11月26日 (土)

週刊大司教第百三回:待降節第一主日A

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待降節となり、降誕祭に向けての霊的な準備の時期が始まりました。

また日本の教会では、待降節第一主日から、ミサにおける式文の翻訳が新しくなります。

今日のメッセージでも触れましたが、聖書週間中です。今年は11月20日から27日まで。今年のテーマは、「教皇様の回勅『兄弟の皆さん』より「あなたの隣人とはだれか」(ルカ10・25-37)とし、聖書のことばは「行って、あなたも同じようにしなさい」(ルカ10・37参照)」と中央協議会のホームページに掲載されています。聖書週間は聖書に親しみ、聖書をより良く理解するために日本のカトリック教会で設けられました。現在私が副理事長を務めさせていただいている日本聖書協会でも、この聖書週間に合わせて活動への協力を呼びかけています。

以下、本日午後6時配信の、週刊大司教第103回目のメッセージ原稿です。

待降節第一主日A
週刊大司教第103回
2022年11月27日

待降節となりました。今日から、降誕祭に向けての霊的な準備期間が始まります。待降節の前半は主に世の終わりに焦点を当て、後半では救い主の誕生に焦点を当てながら、その全期間を通じて、本日の福音に記されている、「目を覚ましていなさい」、「用意していなさい」という主の言葉を心に留め、それに生きるようにと促しています。

待降節という言葉自体が象徴するように、わたしたちは救い主の再臨を待ち望んでいます。当然ですが、待つことには様々な態度が思い起こされます。いつだろうとそわそわしていることも待つことですが、なにもせずに眠りこけていたとしても、それは待っていることに変わりはありません。しかしイエスの指摘される「待つ」姿勢は、目を覚まして準備すると言う二つの行動を柱とする待つ姿勢です。わたしたちは時のしるしをよく識別できるように、常に目覚めたものでありたいと思います。より良い準備ができるように、主ご自身の模範に倣って、愛といつくしみに積極的に生き行動するものでありたいと思います。助けを必要とする人々のところへ出向いていこうとする、積極的な待つ姿勢の教会でありたいと思います。

教会は11月の第三日曜から第四日曜までを、「聖書週間」と定めています。今年は王であるキリストの主日から待降節第一主日までが、聖書週間です。聖書週間は、すべての人、とくに信徒が、聖書により強い関心をもち、親しみ、神の心に生きるように、様々な啓発活動を行うときとされています。

第二バチカン公会議の啓示憲章には、こう記されています。

「教会は、主の御からだそのものと同じように聖書を常にあがめ敬ってきた。なぜなら、教会は何よりもまず聖なる典礼において、たえずキリストのからだと同時に神のことばの食卓からいのちのパンを受け取り、信者たちに差し出してきたからである。・・・神の霊感を受け一度限り永久に文字に記された聖書は、神ご自身のことばを変わらないものとして伝え、また預言者たちと使徒たちのことばのうちに聖霊の声を響かせているからである。(21)」

あらためて聖書を紐解き、響き渡る聖霊の声に耳を傾けましょう。

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2022年11月25日 (金)

教皇様をお迎えして、はや3年

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教皇様を東京にお迎えして、東京ドームでミサに参加してから、もう3年です。2019年11月25日に、教皇様は朝から東北の被災者の方々と出会い、皇居を訪問され、東京カテドラルで青年たちと出会い、東京ドームでミサを捧げ、最後に首相官邸に出かけられました。

私も東京の大司教として、皇居以外はすべで同行させていただきました。東京ドームに移動する前には、教皇庁大使館で昼食があり、教皇様のすぐ近くで食事を共にする機会もいただきました。人生でも一番の緊張でありました。教皇様が残された様々な言葉は、中央協議会のホームページでご覧いただけます。素晴らしい言葉をたくさん残されました。その直後に始まった感染症の状況のため、その言葉を生かすことができていないのは残念ですが、これからの長きにわたって教会のあるべき姿を指し示す羅針盤のような言葉の数々です。

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東京カテドラルの中央入り口左手の壁面には、上の写真ですが、教皇訪問の記念プレートが掲げられています。(その反対の右側には1981年のヨハネパウロ二世の訪問記念プレートがあります)。そしてドームミサの最後に教皇様から頂いたカリスは、カテドラルの司教ミサの時に使わせていただいています。

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東京ドームのミサの時は、主司式の教皇様を挟んで、前田枢機卿様と私が祭壇に一緒に立ちました。私は奉献分の終わり、主の祈りの前の栄唱「キリストによって」をうたうように言われていました。教皇様は歌われないからです。その部分はラテン語で歌うと指示されていました。

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もろもろ事前には忙しかったのでよく確認していなかったのです。当日の祭壇では、目の前には上の写真の、ミサ典書がおかれていました。歌う番になってみたら、なんと譜面がついていない。ラテン語の式文しか書いていない。一瞬「これはまずい」と思って、教皇様のほうを見ると、すでに教皇様はご聖体の入ったチボリウムをもって、目力で「早く歌え」と促しておられる。あれほど血の気が引いたことはありません。記憶の糸をたどって、ゆっくりとなんとか歌い切りました。実は、教皇様の訪日でいろいろ体験しましたが、あの瞬間が一番鮮明に記憶に残っています。

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先日も東京カテドラルで、カトリックアクション同志会主催のラテン語のミサが捧げられ、司式をさせていただきました。明後日の待降節第一主日から日本語の式文の翻訳が変更になりますが、そのもとになる第三版のラテン語式文です。最初から最後まで、すべてを歌いました。各地様々な方々が聖歌隊を組織して、各部分をよく歌ってくださいました。今回は特に世界の平和のために祈りを捧げ、ウクライナ関係の方々も招待されて参加されていました。

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わたしがそういったミサでラテン語の式文を歌える一番の理由は、事前に良く練習したからではないのです。今回も譜面が用意されていましたが、私の手元に届いたのは数日前で、ほかの所要もあったりしたため、事前に目を通したのは当日の午前中だけです。

歌える一番の理由は、生まれてからずーっとそういう環境にいたからにほかなりません。どこかのお話でも触れましたが、わたしは父親の仕事の関係で、教会に住んでいました。生まれた時から小学校4年生まで、教会の中に住んでいました。その後2年間だけの「外」での生活を経て、中学一年からは修道会の神学校に入ったので、人生のほとんどを教会関係で過ごしてきました。

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小学校の2年くらいまでは、公会議前の典礼でしたから、当然ラテン語です。修道会に来てからも、最初の4年間くらいは、毎週日曜日をはじめ週に2・3度ほどラテン語のミサがあり、週末にはみっちりと一時間グレゴリアンの練習までありました。これが何とか今でも歌える理由です。同じようなことは、今ではちょっと難しいですね。でも教会の宝として、守っていく必要があるとも思います。

あらためて、3年前のあの興奮を思い起こし、教皇様が日本に残された言葉の宝物を、今一度心に刻み、目に見える形にしていきたいと思います。

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2022年11月24日 (木)

シノドスの歩みはまだまだ続きます

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ご存じのように。教会は全世界でいま、シノドスの歩みをともにしています。すでに様々な場面で利用されていますから、シノドスのロゴはご覧になったことがあろうかと思います。上がそのロゴです。これまでしばしば登場してきたロゴと、何か微妙に変わったのにお気づきですか。

ちなみに下が最初の時から使われてきたロゴです。歩いている人の数が変更になったとか、そういう間違い探し的なことではないのです。数字です。

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そう、シノドスの歩みの期間が変更になりました。当初は2021年から2023年までとされていたのが、先般10月に教皇様は、2021年から2024年までに延長することを発表され、ローマで開催される会議は2023年10月4日から29日の第一会期と、2024年10月のだいにかいきになりました。そこでロゴの数字も変更になっています。

10月27日に、これまでの一年間で世界から集められた報告をまとめた文書が公開されました。コロナ禍の影響を受けた国が多く、多くの人を集める会議や、小教区での特別な催しなどが不可能であった国が多くありました。それでも集まった様々な報告や、個人で提出された報告などを、専門家がすべて読み取り、まとめた文書です。暫定日本語訳が、中央協議会のホームページに掲載されています。リンク先のページの一番下のほうに、ダウンロードするためのリンクがあります。PDFファイルです。ぜひ一度ご覧ください。

この文書は、2月から3月にかけて、世界各地で開催される大陸別シノドスの作業文書です。アジアの大陸シノドスは2023年2月23日から27日まで、タイのバンコクで開催されます。

シノドスの歩みは報告書を作成して終わりではなく、教皇様は、ともに歩む神の民という共同体としての教会を、当たり前の姿にされようとしています。そのためシノドスの歩みは、これで誰か他の人たちが担当するものになったのではなく、教区レベルでも、小教区レベルでも、継続されていきます。

東京教区ではそのために、最初の十の設問にあわせた分かち合いの手引きを作成しました。『「ともに旅する教会」をめざして』というタイトルの30ページほどの小冊子です。こちらのリンクからダウンロードして読まれるか、またはご自分で印刷されてください。ぜひ目を通されて、活用してください。

分かち合いの方法についても、今後、ヒントを教区ホームページに掲載します。一人ではなく、小さなグループでの分かち合いを試してみてください。議論して結論を出したり、多数決を取ったりする会議ではなくて、祈りのうちに始まり、互いの分かち合いに耳を傾け、一緒になって聖霊の導きを識別するための分かち合いです。それが当たり前に行われて、道を見いだしていく教会であることを、教皇様は目指しておられます。

また東京教区では、そういった分かち合いの成果を、さらに教区全体にむけて分かち合っていただくために、オンラインなどを利用した発表の方法を現在企画中です。これからも、歩みをともにしていただければ幸いです。

以下、司教協議会会長として、今後のシノドスの歩みについて全国の教会に呼びかけた文書です。上で触れた中央協議会のホームページに掲載されています。

日本のカトリック教会の皆様

シノドスの今後の歩みについて

シノドスの歩みにご協力いただき、ともに歩んでくださる皆様に感謝いたします。

教皇様は10月16日の一般謁見で、世界代表司教会議(シノドス)第16回通常総会の今後の日程を発表されました。それによると、ローマにおける総会は、2023年と2024年の二つの会期にわたって開催されることになり、その第一会期は、2023年10月4日から29日まで、第二会期は2024年の10月となりました。教皇様は、この複数年にわたる歩みを、当初から強調されているように、司教たちだけのものとせず、全教会が歩みをともにしながら祈りと分かち合いのうちに識別を深め、聖霊に導かれて教会のあるべき姿を再認識し、具体化するよう呼びかけています。

各教区からの回答の提出はすでに終わり、また各司教協議会からの回答の提出も終わりました。しかしシノドスの歩みはこれで終了したわけではありません。今後も、最初の準備文書に記された十の設問などを手がかりに、様々な共同体の祈りと分かち合いを通じて、教会の歩むべき道の識別を続けていただければと思います。

なお8月に各司教協議会や個々人から聖座のシノドス事務局に提出された回答は、その後専門家の手によってまとめられ、このたび10月27日に大陸別シノドスのための作業文書として発表されました。「あなたの天幕に場所を広く取りなさい(イザヤ54・2)-大陸ステージのための作業文書-」と表題をつけられた文書は、暫定ですが日本語への翻訳が終わりましたので、中央協議会のホームページで公開します。

アジアの大陸別シノドスは、アジア司教協議会連盟(FABC)が主催し、2023年2月23日から27日までタイのバンコクで開催され、アジアの各司教協議会から会長と、ほか司祭・修道者・信徒の中から2名が参加することが決まっています。司教協議会会長以外の日本からの2名の参加者は、現在調整中です。

またFABC中央委員会は、各司教協議会から1月15日までに作業文書への回答を提出することを求めていますので、現在検討を進めています。なお同作業文書には、最後の項目に三つの設問がされています。同文書を読んだあとに、この三つの設問についてそれぞれの場で分かち合いをすることは、道を識別するための大きな手がかりになり得るものですので、どうぞ教会全体でこの作業文書に目を通されて、それぞれの場での状況に応じて、小グループでの分かち合いなどを継続していただければ幸いです。なお、大陸別シノドスのために、同作業文書について、個別の回答の受付は予定されていませんが、それぞれの分かち合いの成果を各教区のシノドス担当者を通じて各教区司教に伝えることは、識別のための助けになろうかと思います。

2025年の聖年に向けて、教会は進むべき道を求め、またあるべき姿を模索しながら、識別の道をともに歩んで参ります。今後も、シノドスの歩みにご注目くださり、全世界の教会と歩みをともにしてくださるようにお願いいたします。

2022年11月15日
日本カトリック司教協議会 会長
東京大司教
菊地 功

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2022年11月22日 (火)

王であるキリストの主日@豊島教会

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王であるキリストの主日、池袋の近く、山手通り沿いにある豊島教会で堅信式ミサを行い、19名の方が堅信の秘跡を受けられました。おめでとうございます。豊島教会は2019年以来、3年ぶりの堅信式でした。

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豊島教会では午前中9時半のミサのあと、昼12時から英語ミサも行われており、こちらにはガーナをはじめアフリカ出身の方も参加されているそうです。そのようなわけで、19名の堅信を受けられた方々のなかにも、様々な文化をルーツにもっている人が含まれていて、教会共同体の普遍性を象徴していました。

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説教でも触れましたが、来週の日曜から、典礼式文の翻訳が変わります。その意味で、今週は、これまで慣れ親しんできた言葉との別れの週でもあります。ラテン語から日本語に変わった小学生の頃のことを思い出しますが、そのときもいろいろと試行錯誤を経て、数年をかけて定まっていったと思います。明確に憶えているわけではありませんが、現在の式文の「信仰の神秘」のあとの応唱は、二つ記されていますが、この二つ目も最初はなかったもので、使い始めてから典礼の先生たちの指摘で後に加えられたものだったと記憶しています。これからも様々な試行を経て、さらにはまだ決定していない部分も含めて、一冊のミサ典書にまとまるまでは、かなりの時間を要するものと思います。

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以下、豊島教会の堅信式ミサでの説教録音から、書き起こして形を整えたものです。

豊島教会堅信式ミサ
王であるキリストの主日
2022年11月20日

イエスの十字架での死を目撃した人たちは、イエスが何も成し遂げることなく十字架の上で虚しく死んでいったとみなしたのかもしれません。それが先ほどの福音の中で、議員たちがイエスを嘲って笑いものにしたと記されている箇所が象徴しています。しかしその十字架がなければ、わたしたちの信仰はそれ自体が成り立ちません。

受難と死と復活を通じて新しいいのちが与えられ、さらには聖霊が弟子たちに降って教会が始まり、その聖霊が常に教会を導いてくださるということは、この十字架の上での受難と死がなければ、成立しない出来事であります。すなわち、わたしたちキリストを信じるものにとって十字架は敗北の象徴ではなくて、勝利の象徴、新しいいのちへの道を切り開いた勝利の象徴であります。

今日の福音の冒頭は、わたしたち人間が、いかに勝手に神を定義づけようとしているかを教えていると思います。わたしたちは、あたかも自分たちが神を生み出したかのように、自分たちの思いを神に投影しようとします。神だからこれくらいのことをしてくれて当然だろう、神だからこれくらいのことができて当然だろうと勝手に思い込んで、そのわたしたちの願い、思い込みが実現しないときには、神にむかって失望します。十字架上のイエスをあざけった議員たちの言葉と態度は、まさしく自分たちの思い描いていた救い主、自分たちが思い描いていた神、そのイメージが、まったく損なわれる存在がイエスであったからこそ、身勝手な失望があざけりの言葉に繋がっていったと思います。

他人事のように、わたしたちはこの福音の箇所をやり過ごしてしまいますけれども、実際の自分の人生の中で、幾たび同じような行いや言葉を発しているかを、反省させられる箇所でもあります。

神様だからこれくらいのことをしてくれて当然だろう、これくらい祈っている、こんなに祈っているのにどうして神様はかなえてくれないんだ。まるでわたしたちが神様をコントロールできるかのように思い違いをして、神に不満をぶつけてみたりするという、身勝手な愚かさをわたしたちは繰り返しています。

キリストにおける王とは、皆に仕えられあがめ奉られて、一番上から君臨して権力を一手に握るようなそうゆう王様ではなくて、イエスご自身の人生が現しているように、一番下にいて仕える者として、弟子たちの足を洗い、貧しい者たちを助け、弱さのうちにある人のもとに出掛け、自らのいのちを犠牲にしてささげてまで、すべての人に新しいいのちを与えようとする王です。自らを犠牲にして皆を生かすために生きるのが、神が考える王、支配者の姿であります。わたしたちも、このイエスの人生を、キリストの人生を、自分のものとしたいと思います。

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ところで、週日のミサに与る人は別ですが、多くの場合は日曜日のミサにしか来ないので、今日のミサでは、多少の感慨を持って与っておられるでしょうか。少なくとも私は、この一週間は特別な思いでミサを捧げます。

というのも、来週の日曜、待降節第一主日からミサ式文の翻訳が新しくなって、例えばこれまで長年、当たり前のように唱えていた、「主は皆さんとともに」のあとに「また司祭とともに」とこたえる箇所が、来週からは、「主は皆さんとともに」の後が「あなたとともに」と応えるように変わります。全体としては大きな変更ではないですけれども、典礼の刷新は教会の姿を象徴していると思います。

先ほど香部屋でミサの準備をしていたとき、香部屋の典礼関係の書籍の書棚に、1969年に発行された文語の日本語のミサの式次第がありました。同じ時に、現在使われている現代語訳と文語訳の両方が出版されていたのですね。懐かしく思い出しました。

わたしが小学生の時にラテン語から日本語にミサが変わって、そのころ教会に来られていた方は覚えておいでだと思いますけれども、最初は文語体で試してみましたよね。それから何年かかけて手直しがされて、最終的にいま使っている現代語訳で確定したのは、私が小学校6年生の時です。

わたしは父親が当時教会で働いていたので、生まれてからずーっと教会に住んでいましたので、ほとんど毎日ミサに与る環境で育ちました。小学校に入るとすぐに、前の典礼のミサで侍者をするために、カタカナで書いたラテン語の祈りを一生懸命暗記したりして侍者の練習をしていた頃に、ミサが日本語になり、何年かかけてそれがいまの形に集約していくのを目の当たりにしていました。その変化は、典礼の外の形が変わったという事実だけではなく、さらに重要なこと、教会の本質をわたしたちに教えてくれていると思います。

教会は、2千年の歴史を持っているけれども、常に古くてかつ常に新しい存在であるということをわたしたちに教えてくれています。

教会は、2千年前の最後の晩餐におけるイエス・キリストの、パンと葡萄酒を自らの御体と御血として制定された、あの瞬間から始まっていまに至るまで、あの出来事をずっと記念し続けています。その伝統に生き続けるという意味で、常に古いのが教会です。しかしその教会は常に新しくされる。常に新しくする原動力はどこにあるのか。それは人間の知恵ではない、人間の思いでもなく、それは聖霊の働きによって、教会は常に新しくされ続けています。ですから常に古いけれども常に新しい。その繰り返しを日々積み重ねて、いまに至っている、それがわたしたちの教会であります。

第二バチカン公会議もそうですが、常に新しくあるための聖霊の導きはそれなりの混乱を引き起こしますが、刷新と混乱を繰り返して常に古いけれども常に新しくある教会は、人の思いを反映しているのではなく、聖霊に導かれて歩みを続けています。

その意味で、教皇様がいま、みんなでシノドスの道を歩もうと、みんなで一緒になって道を歩んでいこうと呼びかけていることは、とても大切なことだと思います。教皇様は決して、みんなで会議を開いて多数決でものを決めてゆきましょうというようなことを言っているわけではないのです。そうではなくて、みんなで一緒になって、聖霊が何を語りかけているかを識別しようと、一緒になって、聖霊がわたしたちをどこへ導こうとしているのかを識別しようと、それを識別するために皆でともに歩んでいかなくてはならないと呼びかけておられます。

なぜならば、聖霊はどこで誰にどのように働きかけるのか、誰も知らないのです。典礼聖歌にあります。「風がどこから吹いてくるのか、人は誰も知らない」。どこから聖霊の風が吹いてくるのか、どこからどこに吹いて、誰にどう語りかけているのかを、誰も知らないのです。ですから、教会を作り上げている一人ひとりが、聖霊の導きを見極めるために、一緒になって分かち合い、支え合って、道を歩んでゆくことが不可欠だということを、教皇様はあたらめて強調し、シノドスの道をともに歩むことを呼びかけておられます。

教会は、常に古くて常に新しい。その教会の進むべき道を、神の民としてともに識別し、支え合って歩みをともにしようとしているのが、教会のいまの姿です。

その教会共同体の中で今日、堅信を受けられる皆さんは、まさしくその聖霊のお恵みを、堅信の秘跡を通じて受けられることになります。聖霊の恵みは、堅信を受けた瞬間に目に見えるように人が変わって、180度異なる新しい人になりましょうみたいな、何かそうゆうことがあったら嬉しいんですけれども、実はそうゆうことではないんですね。聖霊がわたしたちになにをどう語りかけているのか。それは、祈りのうちにしっかりと見極めるしかないんですけれども、一つだけわたしたちは確信をもって言えることがあります。それは、わたしが主イエスに従おうと決意している、人々に仕える王であるイエスに従っていこうと決意している。そのわたしの決意を後ろから支えてくれるのが、聖霊の恵みです。

聖霊はわたしたちが決意したとき、人間の力ではその決意を実際に行動に移す事には様々な困難があるのですけれど、わたしたちは聖霊がその決意を後ろから支えてくださっていること、そして正しい方向に向かって力づけてくださること、それを信じて生きていきたいと思います。

 

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2022年11月19日 (土)

週刊大司教第百二回:王であるキリストの主日

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典礼暦では年間の最後の主日である王であるキリストの主日となりました。次の日曜日からは待降節となります。(写真は田園調布教会)

今年の待降節から、ミサの式文の翻訳が変更となります。これについて少しだけ記しますが、「これまで使われてきたカトリック聖歌集や典礼聖歌集が廃止になるのでは」と言う噂が流れているようです。廃止にはなりません。歌唱する際には、これまで通りカトリック聖歌集や典礼聖歌集を使い続けてください。ミサ曲(キリエなど)に関しても、従来の歌詞のままで使い続けることができます。

これは現行の典礼聖歌集にあっても、451番に高田三郎先生の「やまとのささげ歌」が収録されている事と同様の考えで、「やまとのささげ歌」は、カトリック聖歌集の51番に第一ミサとして掲載されていたものです。カトリック聖歌集は、1966年に神言会のローテル神父様や当時は南山大学教授であられた山本直忠先生、そしてその後典礼聖歌をリードされた高田三郎先生たちが中心となって公教聖歌集を改訂し、発行したものですが、ちょうどその作業中に第二バチカン公会議の典礼改革があり、それにあわせた曲作りは、その後に典礼聖歌として始まりました。典礼聖歌自体も現在のような一冊になるまでには長い時間を要しましたし、それとても完結しているわけではありません。そもそもいくつかの聖歌の番号が典礼聖歌集で欠番となっているのは、将来への布石のはずでした。せっかく作曲された作品ですから、頻度の問題はさておいて、歌い続けることには問題はありません。

翻訳にしても作曲にしても、時間のかかる作業ですから、その作業の最中に、典礼それ自体が変更になったりすると、対応は大変です。今回の翻訳がそうでした。現行のミサ典書が発行された直後から、それは暫定訳で翻訳されていない箇所が多々あったこともあり、翻訳の見直し作業が進められていました。しかしそれが完成する前に、ローマ典礼の規範版そのものが2000年に第3版として改訂され、翻訳作業はそこからすべて見直しとなりました。新たに始められた現在の翻訳作業は、20年でよくここまで到達したと思います。作業にあたってくださっている典礼委員会の関係者の皆さんに、心から敬意を表して、来週から使わさせていただきます。

なお、王であるキリストの主日は、世界青年の日でもあります。第37回目となる今年の世界青年の日の教皇メッセージ。今年のテーマはルカ福音書から取られ、マリアは出掛けて、急いで……行った」 となっています。その全文はこちらのリンク先の中央協議会HPにあります。

さらに明日は、東京教区にとっては姉妹教会であるミャンマーの方々のために祈り献金をささげる「ミャンマーデー」です。まだ不安定な状況が続いているミャンマーです。様々な理由、特に非常に政治的な理由から身柄を拘束されていた多くの人たちが、数日前に大量に釈放されましたが、全体としての状況は変わらず、軍事政権による圧政が続いています。ミャンマーの平和のためにお祈りください。東京教区のホームページもご覧ください。

以下、本日午後6時配信の、週刊大司教第102回、王であるキリストの主日のメッセージ原稿です。

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週刊大司教第102回
2022年11月20日

「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで,選ばれたものなら、自分を救うがよい」

このイエスをあざける議員たちの言葉こそが、王であるキリストとはいったい何者であるのかを,明確に示しています。

全世界の王である神は、自分自身の誉れのために、自分自身の欲望を満たすために、皆に仕えられる存在ではなく、自らがいのちをあたえた全ての人を救うために、自分を犠牲にする王であることを、議員たちは図らずもあかししてしまっています。

加えて、議員たちは、自らの願望を神に投影して、その願いを満たさないものを神と認めないという本末転倒の過ちを犯してしまいます。神はご自分からその姿を示すものであって、人間の願望を満たすための存在ではありません。

時として私たち自身も同じような思い違いをしてしまいます。自分が願っていることが適わないときに、神の存在を疑ってみたり、さらには神をののしってみたり、自分自身の願望を叶えるために神を利用しようとしたりするのが私たちです。時に自らの願望を神に投影しようとしたりします。いったい神と私たちと,どちらが世界を支配するものなのでしょうか。

思い違いをしている私たちを目の前にしても,神は常にご自分のありのままであり続けられます。口を閉ざしてあざけりに耐え、いのちを賭してまで、仕えるものであろうとされます。世界を支配する王であるキリストは、私たちがその模範に倣い、常に仕えるものであろうとすることを求めています。自分の願望や欲望を満たすためではなく、他者のいのちを生かすために行動することを求めています。

王であるキリストの主日は,世界青年の日と定められています。教皇様は来年リスボンで開催される世界青年大会を視野に、青年たちに教会とともに歩み続けるように呼びかけます。今年のメッセージのテーマはルカ福音書からとられた、「マリアは出かけて、急いで・・・行った」とされています。教皇様はメッセージで、「マリアが急いで出かけたように、神から特別の恵みを受けた人はそれを分かち合うために急いで出かけるのです。それは自分の必要よりも他者の必要を優先することができる人の急ぎです。・・・マリアは出会いと分かち合いと奉仕から生まれる純粋なつながりを見出すために出かけたのです」と述べています。

私たちも、出会いの中で分かち合い助け合ってともに歩み続けるものでありましょう。

 

 

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2022年11月16日 (水)

堅信式ミサ@田園調布教会

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年間第三十三主日の11月13日、午後二時から、田園調布教会で堅信式が行われました。当初30名と伺っていましたが、様々な理由から当日は28名の方が堅信の秘跡を受けられました。おめでとうございます。

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田園調布教会はフランシスコ会が司牧を担当し、また修道院もあるため、神学生が居住しておられます。そこでこの日のミサでも、フランシスコ会の神学生や志願者が、侍者をしてくださいました。

感染症に伴う制限のために、この二年半ほど、小教区の司牧訪問や堅信式の予定の多くが延期となっていました。田園調布教会自体を訪れるのは東京に来て二度目ですが、堅信式は初めてでした。残念ながら皆で聖歌を一緒に歌ったりはできませんでしたが、多くの方と堅信の喜びを分かち合えたことは幸いでした。

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教区の中で堅信の秘跡を授けるのは、基本的にその教区の司教です(教会法882条)。もっとも成人洗礼式や、やむを得ない事情がある場合、司祭は堅信を授けますが、そのためには教区司教からの権限の委任が必要です。勝手に授けることはできません。今回のような感染症の状況のために多人数での堅信式ができなかった場合などは、「やむを得ない事情」となります。東京教区では、成人洗礼時の堅信は一般的に司祭に権限を委任していますし、ここの事情に応じて、司教が長期間訪問できない場合などに司祭に委任しています。

同時に各小教区での堅信式は、司教にとって小教区を訪問するよい機会となりますので、状況が落ち着いてからは、ぜひ、堅信式を計画され、司教をお呼びください。予定が空いている限り、喜んで小教区にお伺いします。

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以下、田園調布教会の堅信式ミサの録音から書き起こして、多少手を加えて説教原稿です。堅信式はどこでも同じようなことをお話ししていますので、聞いたことのあるような話であっても、御寛恕ください

年間第三十三主日堅信式ミサ
田園調布教会
2022年11月13日

2020年の2月頃から始まり、いまに至るまで、日本だけではなく世界中がコロナ感染症の状況に翻弄され、混乱のうちにもう2年が経ちました。いったい、どうしたらこの状況から抜け出すことができるのか、わかりません。言ってみれば、暗闇の中で、光を持たずに彷徨っているような状況が続いています。

とても不安になりますよね。なぜならば、いのちを落としている人たちが、そこには実際おられるからです。さらには、この状況の中で戦争が始まり、ロシアによるウクライナへの侵攻や、東京教区にとっては姉妹教会であるミャンマーでのクーデターが起きて、いまだに落ち着かない状況が続いているなど、心を騒がせ不安にさせるような出来事がずっと続いているからです。

教会など人が集まるところで、いままでは普通にしていたことが難しくなる状況の中で、人と人とのつながりも分断されてしまい、孤独や孤立が深まっている。そうした状況の中でしばらく過ごしていると、先行きが見えない不安のために、ますます不安は不安を呼び、世の終わりでもやって来るのではないだろうかとまで思ってしまいます。

ちょうどいま、典礼の暦は終わりに近づいています。待降節から新しい暦が始まるので、まもなく待降節ですから典礼の暦が終わりに近づき、終わりに近づいてくると必ず、典礼の中での朗読は、世の終わりについて語るようになります。

世の終わりには、どんなことが起こるのでしょう。

世の終わりには、主イエスご自身が再臨するということを、わたしたちは信じていますけれども、それがどのようにして、いつ起こるのかは誰も知らないですよね。でも不安な状況が続いていると、まるでそれが、世の終わりでもやって来るサインではないのかと、思わず心配になる。
そういう出来事にいるとき、イエスは、そんなことに気を取られてはいけないと、おっしゃるんですよね。いろんなことが起こるけれども、それに気を取られて心配しても仕方がない。なぜならば、イエスの再臨、世の終わり、それは人間が決めることではなくて、神が決めることなので、神の領域の話なので、それを人間がいくら心配しても仕方がない。それよりも、その出来事の中で、いったい神は、何を人に語ろうとしているのか、それに耳を傾けなさいと。

それをいまの教会の言葉では、「時のしるしを読む」と言いますよね。「時のしるしを読む」、新しい言葉では決してないです。

1965年に終わった、第二バチカン公会議という大きな会議がありましたけれども、第二バチカン公会議はまさしく、その神が、時代の出来事を通じてわたしたちにいったい何を語りかけているのだろうか、それを読み取ろうとしたのが、あの第二バチカン公会議だったんですね。それ以来、教会はこの現代社会のさまざまな出来事の中で、神はわたしたちに何を語りかけているんだろうか、いったいわたしたちにどうしろと言っておられるのだろうか、それを知ろうと努力を続けてきています。「時のしるしを読み取る」ということは、現代社会に生きている教会にとって、とても大切な務めであるというふうに思います。

それでは2020年2月からのこの3年近いこの状況の中で、いったいわたしたちは神から何を語りかけられてきているんだろうか。

教皇様は、このパンデミックが始まった最初の頃から、「わたしたちは、連帯しなければこの状況から抜け出すことはできない」と何度も、何度も繰り返されました。わたしたち人間は、まるで一つの同じ船に乗っているように、この地球という一つの星の中で一緒に家族のように共同体を作って、兄弟姉妹として生きている。だから、対立したり排除したりするのではなくて、連帯して互いに助け合わなければ、命をつなぐことはできないと、強調してこられました。たぶんそれが、神からの語りかけへの回答のひとつだと思うんですね。

いま起こっている出来事の中で、それでは神様はわたしたちに何を求めておられるだろうかということを考えたときに、それはあらためて、連帯すること、互いに助け合うこと、支え合って生きていくことの大切さ、それを思い起こすように、そう語りかけられているように思います。
その意味で、残念ながら、その連帯を蔑ろにする、または破壊してしまうような暴力が、いま世界を支配しているということは、とても残念なことだと思います。戦争もそうですし、意見の違う人たちを従わせるために暴力を使って、いのちを奪うなどという行為も起きている。

いのちを守ってゆくために、わたしたちは連帯し互いに支え合わなければならないんだということを、あらためて、声を大にして言い続けなければならないし、それに基づいて自分の言葉と行いを、律していかなければならないと考えます。

そのような中で今日、教皇様は、この「王であるキリスト」の主日の前の日曜日、すなわち年間第33の主日を、「貧しい人のための世界祈願日」とされました。これは象徴的です。

世界を支配する王様のお祝いである「王であるキリスト」の前の日曜日を「貧しい人のための世界祈願日」とすることで、世界に数多くおられる困窮し生活の苦しさを抱え、いのちの危機に直面している人たちに思いを馳せること、その大切さを思い起こさせる日曜日を設けたというのは、その王がどのような王であるのかを明確にするために、とても重要なことだと思います。

前の教皇であるベネディクト16世が、教皇になられたとき最初に発表された文書は、「デウス・カリタス・エスト」という文章でした。「神は愛、デウス・カリタス・エスト」。そしてその文書の中で、教会の本質は三つあるんだと記されています。

一つはみ言葉を告げ知らせること。もう一つは礼拝をすること、賛美をすること。そして三つ目が、愛の奉仕をすることだと。

この三つはそれぞれ勝手にあるのではなくて、互いに互いを前提として存在しているのだというふうにおっしゃいました。教会の本質は、み言葉を告げ知らせること、神を礼拝すること、そして愛の奉仕をする事なのだと記されています。

いま、わたしたちに求められているのは、連帯のうちに互いに支え合う、すなわち、愛の奉仕に生きることです。イエスが、貧しい人に、困窮している人に、病気に苦しんでいる人に、思いを寄せたように、わたしたちもイエス・キリストに倣う存在として愛に生きる。その思いを新たにしなければならないと思います。

いまのこの困難な状況の中だからこそ、わたしたちは自分たちに与えられている使命を、あらためて思い起こす必要があると思います。

今日、堅信を受けられる皆さんは、洗礼・聖体・そして堅信という三つの秘跡を受けることによって、キリスト教の入信の過程が完成します。キリスト者として完成するんです。一昔前は、堅信の秘跡を受けることによってキリストの兵士になる、これからキリストのために闘うんだという言い方もしましたけれども、それは言い得て妙だと思います。キリストの弟子として完成したものとなるのです。

完成したからには、成熟した大人の信仰者として、責任を持っていくわけですよね。神からの恵みだけではなくて、受けた恵みに対してわたしたちは責任を持っているので、責任ある行動を取っていかなくてはならない。じゃ、その責任ある行動はいったい何なんだろうか。

その一つは、やはり、愛の奉仕に生きるということだと思います。

イエスのように生きてゆく、イエスがなさったように、わたしたちもこの社会の中で、わたしたち自身の言葉と行いをもって、神の愛を証しする存在となっていくということが、責任を果たす一つの道だと思います。

ただ、それは自分の力だけでは難しいですよね。いまそうしろと言われても、今日から自分の言葉と行いがイエス様のような言葉と行いになるかといったら、なかなかそうはいかない。それはわたしたち自身の弱さです。

だから、聖霊を、堅信の秘跡を通じていただくんです。受けるんです。聖霊は、わたしたちをスーパーマンに変身させてくれるのではないのです。わたしたちがイエスに倣って生きよう、神に従って生きようと決意するときに、その決意を後ろから支えてくれるのが、聖霊の力です。

聖霊は、決して、わたしたちを180度変えて、変身させて、いますぐにすごい人にするものではないです。そうではなくて、わたしたちがイエスに従って生きようと決意する、その決意を後ろから支えてくれるのが、聖霊の恵みです。聖霊の様々な賜物は、わたしたちをスーパーマンにするのではなくて、わたしたちの決意を後ろから支え実現できるように励ましてくれる賜物です。

ですから、今日、堅信の秘跡を受けられる皆さんにも、この堅信の秘跡の恵みを通して、決意を支えて下さる神はいつも背後にいることを忘れないでいただきたい。わたしの後ろから一所懸命支えてくれる神がいるんだと、控えているんだと、聖霊の力が後ろから支えて下さるんだということを信頼し、神から与えられた愛の奉仕に生きるという使命を、十分に果たしていっていただきたいと思います。

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2022年11月13日 (日)

年間第三十三主日ミサ@東京カテドラル聖マリア大聖堂

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年間第三十三主日は貧しいひとのための世界祈願日でしたので、十時の関口教会のミサを司式させていただきました。このミサでは七五三の祝福も行われ、大勢のお子さんたちが、祝福を受けられました。おめでとうございます。これからの人生が神様からの祝福で豊かなものとなりますようにお祈りいたします。

以下、本日の説教原稿です。

年間第33主日C
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2022年11月13日

典礼の暦は終わりに近づき、毎年この時期、福音のメッセージは、世の終わりについて語り始めるようになります。

第一朗読のマラキの預言でも、終わりの日が到来するとき、「高慢なもの、悪を行うもの」は焼き尽くされるであろう事が記され、それを避けるために、神の名を畏れ敬う生き方をするようにとの諭す言葉が記されています。

パウロはテサロニケの教会への手紙で、自ら模範を示してきたように、怠惰な生活を避け懸命に働くことを命じています。それは、主の再臨は間近であって、現世には何の価値も見いだせずに、ただただ世の終わりを待つ人たちが存在していたからだと言われます。パウロはいまを生きるいのちが、その終わりまで、与えられた使命を懸命に生きることの重要性を説いています。

ルカ福音は、神の御旨であって、実際にはわたしたちがしるはずのない世の終わりに心を奪われて、社会に生じるであろう混乱を記します。その上で、時のしるしを読み解くことの重要性を説くイエスの言葉を記しています。

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確かに、一体のその終わりはいつ来るのかが気になってしかたがありません。例えば今回の感染症の世界的大流行の中で、二年以上も混乱が続き、いのちの危機に直面すると、それこそが世の終わりのしるしだと考える人が出てきたりするものです。また世紀末のように区切れがよい時期が近づくと、世の終わりが近いと考える人も出現します。歴史はそれを繰り返してきました。心が動揺しているとき、わたしたちは自らの心の不安を反映してなのか、この世界が終わりを迎えるのではないかという不安に捕らえられてしまいます。

しかしイエスは、そういった諸々の不安を醸し出す出来事に振り回されないようにと忠告します。なぜならば時の終わりは神の領域であって、人間の領域の出来事ではないからです。

「時のしるし」を読み取ることの重要性については、マタイ福音書16章に、もっとはっきりとこう記されています。

「あなたたちは、夕方には『夕焼けだから、晴れだ』と言い、朝には『朝焼けで雲が低いから、今日は嵐だ』と言う。このように空模様を見分けることは知っているのに、時代のしるしは見ることができないのか」

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ヨハネ二十三世が、1961年の降誕祭に、「フマーネ・サルティス」を持って第二バチカン公会議の開催を告示したとき、そこには「時のしるし」を読み解こうとした教皇の言葉が、こう記されています。

「一方においては精神的貧困に苦しむ世界、他方には生命力に満ちあふれるキリストの教会がある。私は……教皇に選ばれたとき以来、この二つの事実に直面して、教会が現代人の諸問題の解決のために貢献するよう、すべての信者の力を結集することが私の義務であると考えてきた。」

第二バチカン公会議は、「時のしるし」を読み解き、それに基づいて聖霊の促しに信頼しつつ行動することを柱の一つに据えました。公会議を締めくくる「現代世界憲章」は、「現代の人々の喜びと希望、苦悩と不安、特に貧しい人々とすべて苦しんでいる人々のものは、キリストの弟子たちの喜びと希望、苦悩と不安でもある」と指摘した後に、社会の現実の中で、真理をあかし、世を救い、キリストの業を続けるために、教会は「つねに時のしるしについて吟味し、福音の光のもとにそれを解明する義務を課されている(4)」と記しています。「時のしるし」を福音の光に照らされて読み解くのは、わたしたちの務めです。

教会は年間第33主日を、貧しい人のための世界祈願日と定めています。教皇様の今年のメッセージは、「イエス・キリストはあなたがたのために貧しくなられた」をテーマとしています。

教皇様はこの数ヶ月の世界の情勢を悲しみを持って見つめられながら、「愚かな戦争が、どれほど多くの貧しい人を生み出していることでしょう。どこを見ても、いかに暴力が、無防備な人やいちばん弱い人にとって打撃となるかが分かります。数えられないほどの人が、とりわけ子どもたちが、根ざしている地から引きはがして別のアイデンティティを押しつけるために追いやられています」と、いのちの危機の直面する多くの人への思いを記しておられます。

その上で教皇様は、コリントの教会への手紙を引用しながら、「イエスをしっかりと見つめなさい、イエスは「豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」と呼びかけられます。

すなわち、教会は義務として愛の奉仕に生きるのではなく、イエスに倣って生きる者だから当然として、困窮する人々との連帯のうちに支え合って生きることが重要だと教皇様は強調されています。

そしてメッセージにはこう記されています。

「貧しい人を前にしては、きれいごとを並べ立てるのではなく、腕をまくり上げ、人任せにせず直接のかかわりによって、信仰を実践するのです。ところがときおり、ある種の気の緩みが生じてしまい、貧しい人に対する無関心といった、一貫性のない行動をとることもあります。また、キリスト者の中には、お金に執着するあまり、財産や遺産の誤った使い方を正せずにいる人もいます。これらは、信仰が薄弱で、希望が揺らぎやすく近視眼的である状況を示しています」

教皇様は、常日頃から強調されているように、このメッセージでも連帯の重要性を強調し、こう記しておられます。

「連帯とはまさに、もっているわずかなものを、何ももっていない人と分かち合うことで、苦しむ人がいないようにすることです。生き方としての共同体意識や交わりの意識が高まれば、それだけ連帯は強まります」

社会全体が様々な困難に直面し、暗闇を彷徨い続けているいまだからこそ、教会は希望の光を掲げる存在であり続けなくてはなりません。希望の光は、教会を形作るわたしたち一人ひとりの言葉と行いによって、この世界にもたらされます。光を必要としている人のもとへ、光を届け、歩みをともにする教会でありたいと思います。

あらためて、第二バチカン公会議を招集された教皇ヨハネ23世の言葉を思い起こします。私たち「教会は現代世界の血管に、福音の永遠の力、世界を生かす神の力を送込まねば」なりません。

なお今日のこのミサの中で、七五三のお祝いを受けられるお子さん方がおられます。これまでの成長に感謝し、これからもいのちの与え主である神の祝福を豊かに受けながら、その命をより良く健やかに生きていくことができるように、皆でともに祈りましょう。

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2022年11月12日 (土)

週刊大司教第百一回:年間第三十三主日

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典礼の暦も終わりに近づきました。年間第三十三主日は、貧しい人のための世界祈願日と定められています。(写真は府中墓地で)

本日から装いを新たにした「週刊大司教」の配信を始めました。今日が百一回目となります。基本は主日の福音の朗読と、メッセージ、そして祝福です。メッセージを少し短くしました。

時に大きく増減を繰り返していますが、徐々に感染症の状況も改善し、またこの状況とどのように適応していくのかが分かってきましたので、教会の活動も再開されつつあります。そこで新しい週刊大司教では、霊的聖体拝領の祈りを入れていません。しかし、様々な事情から出掛けることが困難な方は多く折られると思いますので、そのような事情があるときには、この週刊大司教とともに、それぞれご自分で霊的聖体拝領のお祈りを唱えるようにしていただければと思います。もちろんそれがミサの代わりというのではなく、それぞれの霊的成長に資するものですので、困難なご事情のあるかたにあっては、折を見て司祭に相談され、司祭や聖体奉仕者が聖体を持って訪問されるようにされてください。

以下、本日午後六時配信の、週刊大司教第101回目のメッセージ原稿です。

年間第33主日C
週刊大司教第101回
2022年11月13日

典礼の暦は終わりに近づき、毎年この時期の福音は、世の終わりについて語り始めます。

そうなると、一体のその終わりはいつ来るのかが気になってしかたがありません。例えば今回の感染症の世界的大流行の中で、二年ほども混乱が続き、いのちが危機に直面すると、それこそが世の終わりのしるしだと考える人が出てきたり、また世紀末のように区切れがよい時期が近づくと、世の終わりが近いと考える人も出現します。歴史はそれを繰り返してきました。

しかしイエスは、そういった諸々の不安を醸し出す出来事に振り回されないようにと忠告します。なぜならば時の終わりは神の領域であって、人間の領域の出来事ではないからです。

その代わりにイエスは、「しるし」を読み取ることを求めます。マタイ福音書16章には、もっとはっきりとこう記されています。

「あなたたちは、夕方には『夕焼けだから、晴れだ』と言い、朝には『朝焼けで雲が低いから、今日は嵐だ』と言う。このように空模様を見分けることは知っているのに、時代のしるしは見ることができないのか」

ヨハネ二十三世が、1961年の降誕祭に、「フマーネ・サルティス」を持って第二バチカン公会議の開催を告示したとき、そこには「時のしるし」を読み解くことの重要性が記されていました。そこで第二バチカン公会議は、「時のしるし」を読み解き行動することを柱の一つに据えました。公会議を締めくくる「現代世界憲章」は、「現代の人々の喜びと希望、苦悩と不安、特に貧しい人々とすべて苦しんでいる人々のものは、キリストの弟子たちの喜びと希望、苦悩と不安でもある」と指摘した後に、社会の現実の中で、真理をあかし、世を救い、キリストの業を続けるために、教会は「つねに時のしるしについて吟味し、福音の光のもとにそれを解明する義務を課されている(4)」と記しています。

「時のしるし」を福音の光に照らされて読み解くのは、わたしたちの務めです。

教会は年間第33主日を、貧しい人々のための世界祈願日と定めています。教皇様の今年のメッセージは、「イエス・キリストはあなたがたのために貧しくなられた」をテーマとし、特に感染症や戦争によって貧困が深まっている世界にあって、教会は義務だからではなく、イエスに倣って生きる者だから当然として、困窮する人々との連帯のうちに支え合って生きることの重要性を強調されています。

わたしたちの心の目は、「時のしるし」を、福音の光のもとに読み解こうとしているでしょうか。

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2022年11月11日 (金)

明後日は、貧しい人のための世界祈願日です

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毎年、年間第三十三主日は、教皇フランシスコによって定められた「貧しい人のための世界祈願日」です。今年は、明後日、11月13日です。東京教区の皆様向けに、呼びかけ文を書きましたので、こちらでも公表します。

2022年11月11日

東京大司教区の皆様

2022年「貧しい人のための世界祈願日」にあたって

カトリック東京大司教区 大司教
菊地功

2020年に東京教区の宣教司牧方針を策定するにあたって力を頂いたのは、教皇ベネディクト十六世の回勅「神は愛」に記されたこの言葉でした。

「教会の本質は三つの務めによって表されます。神のことばを告げ知らせること、秘跡を祝うこと、愛の奉仕を行うこと」(回勅『神は愛』 25参照)。

この三つの務めは互いに関係しあいます。神のことばを告げ知らせる宣教の前提には、秘跡を祝う共同体がなければなりません。秘跡を祝う共同体は愛の奉仕へと突き動かされていきます。愛の奉仕は、主イエス・キリストの生き方を実践することなのです。ですから、この三つの務めをわたしたちの教会がないがしろにしてはならないのです。この三つの務めを行うために、宣教司牧方針では、東京区に「宣教する共同体」、「交わりの共同体」、「すべてのいのちを大切にする共同体」を生み出し育んでいくことを呼びかけました。ですから、愛の奉仕活動は、教会が教会であるために必要な重要な柱の一つです。

教皇フランシスコは、2015年から16年にかけて開催された「いつくしみの特別聖年」の終わりに使徒的書簡「あわれみあるかたと、あわれな女」を公布され、年間第33主日を「貧しい人のための世界祈願日」とするよう定められました。今年2022年は11月13日がその祈願日です。同書簡にはこう記されています。

「(この祈願日は)万物の王である主イエス・キリストの祭日への、もっともふさわしい準備となるでしょう。なぜなら、キリストは、ご自分を小さい者や貧しい者と等しい者とみなし、いつくしみのわざについて、わたしたちを裁かれるからです。それは、共同体と洗礼を受けている者それぞれが、どれほど貧しさが福音の中心にあるか、そして、わたしたちの家の戸口にラザロが横たわっているかぎり、わたしたちに正義も社会的平和もありえないことを反省するのを助ける日となるでしょう」

今年の教皇様のメッセージのタイトルは、「イエス・キリストはあなたがたのために貧しくなられた」とされています。全文は中央協議会のホームページをご覧ください

教皇様は、コリントの教会への手紙を引用しながら、「イエスをしっかりと見つめなさい、イエスは豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」と呼びかけられます。教会は義務として愛の奉仕に生きるのではなく、イエスに倣って生きる者だから当然として、困窮する人々との連帯のうちに支え合って生きるのだと教皇様は強調されています。

あらためて、この世界祈願日にあたり、小教区共同体の活動として、またカリタスなどの活動を通じて、さらにはそれぞれの信仰者の行動として、教会の本質の柱の一つである愛の奉仕に生きる決意を新たにいたしましょう。

 

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2022年11月 9日 (水)

東京教区合同追悼ミサ@東京カテドラル

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11月は死者の月です。亡くなられた方々の永遠の安息のために、特に祈りを捧げる月であり、地上の教会と天上の教会の交わりを再確認するときでもあります。

教会のカテキズムには、聖人たちとの交わりについて次のように記されています。

「わたしたちが天の住人の記念を尊敬するのは、単に彼らの模範のためばかりではなく、それ以上に、全教会の一致が兄弟的愛の実践をとおして霊において固められるからです。・・・諸聖人との交わりは、わたしたちをキリストに結び合わせるのであって、全ての恩恵と神の民自身の生命は泉あるいは頭からのようにキリストから流れ出ます(957)」

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また死者への祈りついて、カテキズムはこう記します。

「・・・死者のためのわたしたちの祈りは、死者を助けるだけでなく、死者がわたしたちのために執り成すのを有効にすることが出来るのです(958)」

教会は、地上の教会と天上の教会の交わりのうちに存在しています。

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東京教区では、11月の最初の日曜日に、合同追悼ミサを捧げてきました。ミサはカテドラルと、府中墓地と、五日市霊園で捧げられています。この数年はコロナ禍のため中止せざるを得ませんでしたが,今年は三カ所でミサを捧げることが可能となりました。わたしは東京カテドラルで、11月6日(日)の午後2時から、150名ほどの方々とミサを捧げ、先に亡くなられた兄弟姉妹の永遠の安息のために祈りました。

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以下、当日のミサの説教の原稿です。

東京教区合同追悼ミサ
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2022年11月6日

イエスはキリストです。わたしたちはそう信じています。ですからわたしたちは、神は、「イエスを信じ、その御体を食べ、御血を飲む人々を世の終わりに復活させてくださる」のだと確信し、永遠のいのちに生きる大きな希望を持ちながら、この世界における人生の旅路を歩んでいます。

葬儀や追悼のミサで唱えられる叙唱には、「信じる者にとって、死は滅びではなく、新たないのちへの門であり、地上の生活を終わった後も、天に永遠のすみかが備えられています」と、わたしたちの信仰における希望が記されています。

同時にわたしたちは、「私をお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人をひとりも失わないで、終わりの日に復活させることである」と言われたイエスの言葉を信じています。いつくしみ深い神は、その深い愛をもって、すべての人を永遠のいのちのうちに生きるよう招かれています。

「キリストの苦しみと死は、いかにキリストの人性が、すべての人の救いを望まれる神の愛の自由で完全な道具であるかを示して」いると、カテキズムの要約には記されています(119)。

神がご自分が創造されたすべてのいのちが救われるのを望まれているのは確実であり、ご自分が賜物として与えられたすべてのいのちを愛おしく思われる神は、その救いがすべての人におよぶことを望まれています。

イエスはキリストです。すべての人をその懐における安息と永遠の命に招かれる救い主です。イエスをキリストと信じるわたしたちには、すべての人がその救いに与ることができるように、その愛といつくしみ、あわれみを、ひとりでも多くの人に伝え分け与える使命が与えられています。

この数年、ただでさえ感染症の拡大の中でいのちの危機に直面しているのですが、賜物である人間のいのちを、まるでもて遊んでいるかのような方法で、暴力的に奪い取る理不尽な事件も続発しています。クーデター後の不安定な状況に置かれているミャンマーや、戦争に翻弄されいのちの危機にいまも直面しているウクライナの人々。戦争に駆り出され、いのちの危機に直面するロシアの人々。尊いいのちはなぜこうも、権力者によってもてあそばれるのでしょうか。

理不尽な現実を目の当たりにするとき、「なぜ、このような苦しみがあるのか」と問いかけてしまいますが、わたしたちは、それに対する明確な答えが存在しないことも知っています。同時に、苦しみの暗闇にあって、希望の光を輝かせ、いのちを生きる希望を生み出すことに意味があることも知っています。

この2年半の間、様々ないのちの危機に直面する中で、教皇フランシスコは連帯の重要性をたびたび強調されてきました。感染症が拡大していた初期の段階で、2020年9月2日の一般謁見で、すでにこう話されています。

「このパンデミックは、わたしたちが頼り合っていることを浮き彫りにしました。わたしたちは皆、良くも悪くも、互いに結びついています。この危機から、以前よりよい状態で脱するためには、ともに協力しなければなりません」

教皇様は、誰ひとり排除されない社会を実現し、すべてのいのちがその尊厳を守られるようにと働きかけてきましたが、特にこの感染症の困難に襲われてからは、地球的規模での連帯の必要性を強調されてきました。

2019年11月。教皇様はここ東京で、東北被災者に向かってこう言われました。

「一人で「復興」できる人はどこにもいません。だれも一人では再出発できません。町の復興を助ける人だけでなく、展望と希望を回復させてくれる友人や兄弟姉妹との出会いが不可欠です」

暗闇に輝く希望の光は、出会いから生まれ、連帯を通じて強められます。互いに支え合い助けるものとなることの必要性を、教皇様は強調されてきました。しかし残念ながら、連帯は実現せず、かえって孤立と孤独が激しくすすみ、この歴史に残る困難の中で、暴力がいのちを危機にさらしています。今わたしたちの社会は、不安の暗闇の中に置き去りにされている恐怖から、他者に対する配慮をする余裕を心から奪い、不寛容な心は利己的になり、自分を守ることにばかり集中して、助けを必要として叫びを上げている人の存在を見えないものにしています。

わたしたちは、信仰宣言で「聖徒の交わり」を信じると宣言します。そもそも教会共同体は「聖徒の交わり」であります。教会共同体は孤立のうちに閉じこもる排他的集団ではなく、いのちを生かすために互いに支えあう連帯の共同体です。

私たちは地上の教会において、御聖体を通じて一致し、一つの体を形作っており、互いに与えられた賜物を生きることによって、主ご自身の体である教会共同体全体を生かす分かち合いにおける交わりに生きています。同時に教会は、地上で信仰を生きている私たちの教会が、天上の教会と結ばれていることも信じています。カテキズムには「地上で旅する者、自分の清めを受けている死者、また天国の至福に与っている者たちが、皆ともに一つの教会を構成している」と記しています。

ですから私たちは互いのために祈るように、亡くなった人たちのために祈り、また聖人たちの取り次ぎを求めて祈るのです。そのすべての祈りは、一つの教会を形作っている兄弟姉妹のための、生きた祈りであります。死んでいなくなってしまった人たちを嘆き悲しむ祈りではなく、今一緒になって一つの教会を作り上げているすべての人たちとともに捧げる、いま生きている祈りであります。

わたしたちの人生には時間という限りがあり、長寿になったと言ってもそれは長くて100年程度のことであり、人類の歴史、全世界の歴史に比べれば、ほんの一瞬に過ぎない時間です。

人生には順調に進むときもあれば、困難のうちに苦しむときもあります。よろこびの時もあれば、悲しみの時もあります。人生において与えられた時間が終わる前に、自らの努力の結果を味わうことができないこともあります。仮に私たちのいのちが、人類の歴史の中における一瞬ですべてが終わってしまうとしたら、それほどむなしいことはありません。

しかし私たちは、歴史におけるその一瞬の時間が、実は永遠のいのち一部に過ぎないことを知っています。ですから私たちは、「人生が一瞬に過ぎないのであれば、その中で様々な努力をしたり善行をすることはむなしい」、などとあきらめてしまうことはありません。永遠のいのちの流れを見据えながら、わたしたちは常により良く生きるように努力を生み重ね、この命を懸命に生きたその報いが、永遠のいのちに必ずやつながっていくことを信じています。

互いに支え合いましょう。連帯のうちにともに歩んで参りましょう。愛といつくしみのうちに、すべての人を永遠の命へと招いてくださる主のあわれみに信頼し、支え合って歩み続けましょう。すべての人との連帯のうちに、希望の光を輝かせましょう。

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2022年11月 2日 (水)

FABC総会から(その4)

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アジア司教協議会連盟FABCの創立50年を記念した総会は、10月30日の日曜日、バンコクのカテドラルでの閉会ミサで無事に閉幕しました。この間、特に10月25日には日本の皆様にもFABCのためにお祈りいただいたこと、心から感謝いたします。皆様のお祈りに支えられて、聖霊がどのようにアジアの司教たちを導いたのかは、今後発表される文書などに示されていくことになると思います。

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最終週は、日本からは成井司教様に変わり長崎の中村大司教様が加わり、前田枢機卿、勝谷司教、アベイヤ司教、中村大司教、そして私の5名で参加。これまでに2週間でそれぞれの国の状況を振り返り、教皇様の諸文書の振り返りに基づいて様々なテーマへの取り組みへの学びを深め、それらに基づいて、これからどうしていくかの検討が三週目です。

最初の二日間は司教たちを4名ずつのグループに分けて、傾聴のワークショップ。これがなかなか大変です。それに基づいてFABCの優先すべき課題は何なのかを絞り込みました。そして最終週の水曜日は、総会の最終声明の討議、後日発表される最終文書の内容の検討、そして私が担当しているFABCの再構築についての検討が始まりました。

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10月25日の朝の祈りは、日本の当番でした。各国が順番に20分程度のビデオを事前に作成するように依頼され、日本のビデオは秋田の聖体奉仕会にお願いしました。以前から海外とのビデオ中継などの経験があるからです。聖体奉仕会の皆さんと、協力してくださった皆さんに感謝です。

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木曜日はバンコクの西隣にあるラチャブリ教区へ全員でバス巡礼。歴史ある最初の神学校の跡を訪ねたりしながら、ラチャブリ教区のカテドラルで感謝ミサ。司式はバンコクのフランシスコ・ザビエル枢機卿様。

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ミサの終わりにラチャブリ教区のジョン・ボスコ司教様からFABCに聖母子像を寄贈いただき、会長のボ枢機卿様が不在だったこともあり、事務局長として代理で受け取らせていただきました。バンコクの事務局に安置される予定です。

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この巡礼に使われた三台の貸し切りバスが、すごい装飾でした。外も内側もスピーカーだらけ。さすがに音は出してませんでしたが、二階建てのバスの一回にある運転席からは、スピーカの隙間からしか外が見えない。

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そして最後の二日間、金曜と土曜は、すべての時間を使って、最終メッセージと最終文書についての討議です。最も、金曜の午後には教皇代理でタグレ枢機卿様が到着され、そのお話もあり、また土曜日の午後には司教たちとの話し合いも行われました。

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最終日の10月30日は、バンコク市内、チャオプラヤー川沿いにあるカテドラルで、タグレ枢機卿司式の閉会ミサでした。カテドラルの立派なこと。教皇様が来られた時にも、ここでミサが捧げられました。この辺りはFABC2020のYoutubeチャンネルがありますから、一度ご覧ください。また最終メッセージは原文の英語がこちらに掲載されています。今後翻訳して、中央協議会のホームページにも掲載されることになろうかと思います。

私は、事務局長としてFABCの再構築の委員会の責任者でしたので、連日夜は会議でした。メンバーはインドの枢機卿、フィリピンの大司教、神学者の司祭、信徒の女性神学者二名。結局最終日の昼間に最終的に集まって、提言を作成し、あとは3月に開催される中央委員会に判断を任せるところまでこぎつけました。

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50年前にFABCが始まったころは、第二バチカン公会議直後で、まだ発足したばかりの各国の司教協議会は、連盟からの支援を必要としていました。そのために連帯して歩もうと様々な事務局が設けられました。しかし50年を経て、しっかりと組織を確立した司教協議会も多くある中で、FABCの果たすべき役割も変化していって当然だと考えました。次の50年のために、今後も組織のありようを見直し続けることになります。

 

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それにしてもこの総会は、2014年ころから、当時の会長であったボンベイのグラシアス枢機卿が中心となり、その補佐司教であるアルヴィン司教と一緒に計画を練ってきたものです。企画運営委員会は、この2年ほどは毎週月曜にオンラインで会議を開いてきました。私も事務局長になって以降、ほとんど毎週月曜の夜7時半から、オンライン会議に参加してきましたが、話が二転三転、あちらこちらに飛びながら、それでも最後には何とかまとまるという、奇跡的な運営を目の当たりにしてきました。今回の総会中も、その日にならないとプログラムの詳細がわからない日も多く、はらはらさせられましたし、手元に詳細なプログラムが残ってません。なかなかの不思議な体験でもありました。(すぐ上の写真は、ヤンゴンのボ枢機卿様と)

 

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