堅信式ミサ@田園調布教会
年間第三十三主日の11月13日、午後二時から、田園調布教会で堅信式が行われました。当初30名と伺っていましたが、様々な理由から当日は28名の方が堅信の秘跡を受けられました。おめでとうございます。
田園調布教会はフランシスコ会が司牧を担当し、また修道院もあるため、神学生が居住しておられます。そこでこの日のミサでも、フランシスコ会の神学生や志願者が、侍者をしてくださいました。
感染症に伴う制限のために、この二年半ほど、小教区の司牧訪問や堅信式の予定の多くが延期となっていました。田園調布教会自体を訪れるのは東京に来て二度目ですが、堅信式は初めてでした。残念ながら皆で聖歌を一緒に歌ったりはできませんでしたが、多くの方と堅信の喜びを分かち合えたことは幸いでした。
教区の中で堅信の秘跡を授けるのは、基本的にその教区の司教です(教会法882条)。もっとも成人洗礼式や、やむを得ない事情がある場合、司祭は堅信を授けますが、そのためには教区司教からの権限の委任が必要です。勝手に授けることはできません。今回のような感染症の状況のために多人数での堅信式ができなかった場合などは、「やむを得ない事情」となります。東京教区では、成人洗礼時の堅信は一般的に司祭に権限を委任していますし、ここの事情に応じて、司教が長期間訪問できない場合などに司祭に委任しています。
同時に各小教区での堅信式は、司教にとって小教区を訪問するよい機会となりますので、状況が落ち着いてからは、ぜひ、堅信式を計画され、司教をお呼びください。予定が空いている限り、喜んで小教区にお伺いします。
以下、田園調布教会の堅信式ミサの録音から書き起こして、多少手を加えて説教原稿です。堅信式はどこでも同じようなことをお話ししていますので、聞いたことのあるような話であっても、御寛恕ください
年間第三十三主日堅信式ミサ
田園調布教会
2022年11月13日2020年の2月頃から始まり、いまに至るまで、日本だけではなく世界中がコロナ感染症の状況に翻弄され、混乱のうちにもう2年が経ちました。いったい、どうしたらこの状況から抜け出すことができるのか、わかりません。言ってみれば、暗闇の中で、光を持たずに彷徨っているような状況が続いています。
とても不安になりますよね。なぜならば、いのちを落としている人たちが、そこには実際おられるからです。さらには、この状況の中で戦争が始まり、ロシアによるウクライナへの侵攻や、東京教区にとっては姉妹教会であるミャンマーでのクーデターが起きて、いまだに落ち着かない状況が続いているなど、心を騒がせ不安にさせるような出来事がずっと続いているからです。
教会など人が集まるところで、いままでは普通にしていたことが難しくなる状況の中で、人と人とのつながりも分断されてしまい、孤独や孤立が深まっている。そうした状況の中でしばらく過ごしていると、先行きが見えない不安のために、ますます不安は不安を呼び、世の終わりでもやって来るのではないだろうかとまで思ってしまいます。
ちょうどいま、典礼の暦は終わりに近づいています。待降節から新しい暦が始まるので、まもなく待降節ですから典礼の暦が終わりに近づき、終わりに近づいてくると必ず、典礼の中での朗読は、世の終わりについて語るようになります。
世の終わりには、どんなことが起こるのでしょう。
世の終わりには、主イエスご自身が再臨するということを、わたしたちは信じていますけれども、それがどのようにして、いつ起こるのかは誰も知らないですよね。でも不安な状況が続いていると、まるでそれが、世の終わりでもやって来るサインではないのかと、思わず心配になる。
そういう出来事にいるとき、イエスは、そんなことに気を取られてはいけないと、おっしゃるんですよね。いろんなことが起こるけれども、それに気を取られて心配しても仕方がない。なぜならば、イエスの再臨、世の終わり、それは人間が決めることではなくて、神が決めることなので、神の領域の話なので、それを人間がいくら心配しても仕方がない。それよりも、その出来事の中で、いったい神は、何を人に語ろうとしているのか、それに耳を傾けなさいと。それをいまの教会の言葉では、「時のしるしを読む」と言いますよね。「時のしるしを読む」、新しい言葉では決してないです。
1965年に終わった、第二バチカン公会議という大きな会議がありましたけれども、第二バチカン公会議はまさしく、その神が、時代の出来事を通じてわたしたちにいったい何を語りかけているのだろうか、それを読み取ろうとしたのが、あの第二バチカン公会議だったんですね。それ以来、教会はこの現代社会のさまざまな出来事の中で、神はわたしたちに何を語りかけているんだろうか、いったいわたしたちにどうしろと言っておられるのだろうか、それを知ろうと努力を続けてきています。「時のしるしを読み取る」ということは、現代社会に生きている教会にとって、とても大切な務めであるというふうに思います。
それでは2020年2月からのこの3年近いこの状況の中で、いったいわたしたちは神から何を語りかけられてきているんだろうか。
教皇様は、このパンデミックが始まった最初の頃から、「わたしたちは、連帯しなければこの状況から抜け出すことはできない」と何度も、何度も繰り返されました。わたしたち人間は、まるで一つの同じ船に乗っているように、この地球という一つの星の中で一緒に家族のように共同体を作って、兄弟姉妹として生きている。だから、対立したり排除したりするのではなくて、連帯して互いに助け合わなければ、命をつなぐことはできないと、強調してこられました。たぶんそれが、神からの語りかけへの回答のひとつだと思うんですね。
いま起こっている出来事の中で、それでは神様はわたしたちに何を求めておられるだろうかということを考えたときに、それはあらためて、連帯すること、互いに助け合うこと、支え合って生きていくことの大切さ、それを思い起こすように、そう語りかけられているように思います。
その意味で、残念ながら、その連帯を蔑ろにする、または破壊してしまうような暴力が、いま世界を支配しているということは、とても残念なことだと思います。戦争もそうですし、意見の違う人たちを従わせるために暴力を使って、いのちを奪うなどという行為も起きている。いのちを守ってゆくために、わたしたちは連帯し互いに支え合わなければならないんだということを、あらためて、声を大にして言い続けなければならないし、それに基づいて自分の言葉と行いを、律していかなければならないと考えます。
そのような中で今日、教皇様は、この「王であるキリスト」の主日の前の日曜日、すなわち年間第33の主日を、「貧しい人のための世界祈願日」とされました。これは象徴的です。
世界を支配する王様のお祝いである「王であるキリスト」の前の日曜日を「貧しい人のための世界祈願日」とすることで、世界に数多くおられる困窮し生活の苦しさを抱え、いのちの危機に直面している人たちに思いを馳せること、その大切さを思い起こさせる日曜日を設けたというのは、その王がどのような王であるのかを明確にするために、とても重要なことだと思います。
前の教皇であるベネディクト16世が、教皇になられたとき最初に発表された文書は、「デウス・カリタス・エスト」という文章でした。「神は愛、デウス・カリタス・エスト」。そしてその文書の中で、教会の本質は三つあるんだと記されています。
一つはみ言葉を告げ知らせること。もう一つは礼拝をすること、賛美をすること。そして三つ目が、愛の奉仕をすることだと。
この三つはそれぞれ勝手にあるのではなくて、互いに互いを前提として存在しているのだというふうにおっしゃいました。教会の本質は、み言葉を告げ知らせること、神を礼拝すること、そして愛の奉仕をする事なのだと記されています。
いま、わたしたちに求められているのは、連帯のうちに互いに支え合う、すなわち、愛の奉仕に生きることです。イエスが、貧しい人に、困窮している人に、病気に苦しんでいる人に、思いを寄せたように、わたしたちもイエス・キリストに倣う存在として愛に生きる。その思いを新たにしなければならないと思います。
いまのこの困難な状況の中だからこそ、わたしたちは自分たちに与えられている使命を、あらためて思い起こす必要があると思います。
今日、堅信を受けられる皆さんは、洗礼・聖体・そして堅信という三つの秘跡を受けることによって、キリスト教の入信の過程が完成します。キリスト者として完成するんです。一昔前は、堅信の秘跡を受けることによってキリストの兵士になる、これからキリストのために闘うんだという言い方もしましたけれども、それは言い得て妙だと思います。キリストの弟子として完成したものとなるのです。
完成したからには、成熟した大人の信仰者として、責任を持っていくわけですよね。神からの恵みだけではなくて、受けた恵みに対してわたしたちは責任を持っているので、責任ある行動を取っていかなくてはならない。じゃ、その責任ある行動はいったい何なんだろうか。
その一つは、やはり、愛の奉仕に生きるということだと思います。
イエスのように生きてゆく、イエスがなさったように、わたしたちもこの社会の中で、わたしたち自身の言葉と行いをもって、神の愛を証しする存在となっていくということが、責任を果たす一つの道だと思います。
ただ、それは自分の力だけでは難しいですよね。いまそうしろと言われても、今日から自分の言葉と行いがイエス様のような言葉と行いになるかといったら、なかなかそうはいかない。それはわたしたち自身の弱さです。
だから、聖霊を、堅信の秘跡を通じていただくんです。受けるんです。聖霊は、わたしたちをスーパーマンに変身させてくれるのではないのです。わたしたちがイエスに倣って生きよう、神に従って生きようと決意するときに、その決意を後ろから支えてくれるのが、聖霊の力です。
聖霊は、決して、わたしたちを180度変えて、変身させて、いますぐにすごい人にするものではないです。そうではなくて、わたしたちがイエスに従って生きようと決意する、その決意を後ろから支えてくれるのが、聖霊の恵みです。聖霊の様々な賜物は、わたしたちをスーパーマンにするのではなくて、わたしたちの決意を後ろから支え実現できるように励ましてくれる賜物です。
ですから、今日、堅信の秘跡を受けられる皆さんにも、この堅信の秘跡の恵みを通して、決意を支えて下さる神はいつも背後にいることを忘れないでいただきたい。わたしの後ろから一所懸命支えてくれる神がいるんだと、控えているんだと、聖霊の力が後ろから支えて下さるんだということを信頼し、神から与えられた愛の奉仕に生きるという使命を、十分に果たしていっていただきたいと思います。
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