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2022年11月22日 (火)

王であるキリストの主日@豊島教会

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王であるキリストの主日、池袋の近く、山手通り沿いにある豊島教会で堅信式ミサを行い、19名の方が堅信の秘跡を受けられました。おめでとうございます。豊島教会は2019年以来、3年ぶりの堅信式でした。

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豊島教会では午前中9時半のミサのあと、昼12時から英語ミサも行われており、こちらにはガーナをはじめアフリカ出身の方も参加されているそうです。そのようなわけで、19名の堅信を受けられた方々のなかにも、様々な文化をルーツにもっている人が含まれていて、教会共同体の普遍性を象徴していました。

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説教でも触れましたが、来週の日曜から、典礼式文の翻訳が変わります。その意味で、今週は、これまで慣れ親しんできた言葉との別れの週でもあります。ラテン語から日本語に変わった小学生の頃のことを思い出しますが、そのときもいろいろと試行錯誤を経て、数年をかけて定まっていったと思います。明確に憶えているわけではありませんが、現在の式文の「信仰の神秘」のあとの応唱は、二つ記されていますが、この二つ目も最初はなかったもので、使い始めてから典礼の先生たちの指摘で後に加えられたものだったと記憶しています。これからも様々な試行を経て、さらにはまだ決定していない部分も含めて、一冊のミサ典書にまとまるまでは、かなりの時間を要するものと思います。

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以下、豊島教会の堅信式ミサでの説教録音から、書き起こして形を整えたものです。

豊島教会堅信式ミサ
王であるキリストの主日
2022年11月20日

イエスの十字架での死を目撃した人たちは、イエスが何も成し遂げることなく十字架の上で虚しく死んでいったとみなしたのかもしれません。それが先ほどの福音の中で、議員たちがイエスを嘲って笑いものにしたと記されている箇所が象徴しています。しかしその十字架がなければ、わたしたちの信仰はそれ自体が成り立ちません。

受難と死と復活を通じて新しいいのちが与えられ、さらには聖霊が弟子たちに降って教会が始まり、その聖霊が常に教会を導いてくださるということは、この十字架の上での受難と死がなければ、成立しない出来事であります。すなわち、わたしたちキリストを信じるものにとって十字架は敗北の象徴ではなくて、勝利の象徴、新しいいのちへの道を切り開いた勝利の象徴であります。

今日の福音の冒頭は、わたしたち人間が、いかに勝手に神を定義づけようとしているかを教えていると思います。わたしたちは、あたかも自分たちが神を生み出したかのように、自分たちの思いを神に投影しようとします。神だからこれくらいのことをしてくれて当然だろう、神だからこれくらいのことができて当然だろうと勝手に思い込んで、そのわたしたちの願い、思い込みが実現しないときには、神にむかって失望します。十字架上のイエスをあざけった議員たちの言葉と態度は、まさしく自分たちの思い描いていた救い主、自分たちが思い描いていた神、そのイメージが、まったく損なわれる存在がイエスであったからこそ、身勝手な失望があざけりの言葉に繋がっていったと思います。

他人事のように、わたしたちはこの福音の箇所をやり過ごしてしまいますけれども、実際の自分の人生の中で、幾たび同じような行いや言葉を発しているかを、反省させられる箇所でもあります。

神様だからこれくらいのことをしてくれて当然だろう、これくらい祈っている、こんなに祈っているのにどうして神様はかなえてくれないんだ。まるでわたしたちが神様をコントロールできるかのように思い違いをして、神に不満をぶつけてみたりするという、身勝手な愚かさをわたしたちは繰り返しています。

キリストにおける王とは、皆に仕えられあがめ奉られて、一番上から君臨して権力を一手に握るようなそうゆう王様ではなくて、イエスご自身の人生が現しているように、一番下にいて仕える者として、弟子たちの足を洗い、貧しい者たちを助け、弱さのうちにある人のもとに出掛け、自らのいのちを犠牲にしてささげてまで、すべての人に新しいいのちを与えようとする王です。自らを犠牲にして皆を生かすために生きるのが、神が考える王、支配者の姿であります。わたしたちも、このイエスの人生を、キリストの人生を、自分のものとしたいと思います。

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ところで、週日のミサに与る人は別ですが、多くの場合は日曜日のミサにしか来ないので、今日のミサでは、多少の感慨を持って与っておられるでしょうか。少なくとも私は、この一週間は特別な思いでミサを捧げます。

というのも、来週の日曜、待降節第一主日からミサ式文の翻訳が新しくなって、例えばこれまで長年、当たり前のように唱えていた、「主は皆さんとともに」のあとに「また司祭とともに」とこたえる箇所が、来週からは、「主は皆さんとともに」の後が「あなたとともに」と応えるように変わります。全体としては大きな変更ではないですけれども、典礼の刷新は教会の姿を象徴していると思います。

先ほど香部屋でミサの準備をしていたとき、香部屋の典礼関係の書籍の書棚に、1969年に発行された文語の日本語のミサの式次第がありました。同じ時に、現在使われている現代語訳と文語訳の両方が出版されていたのですね。懐かしく思い出しました。

わたしが小学生の時にラテン語から日本語にミサが変わって、そのころ教会に来られていた方は覚えておいでだと思いますけれども、最初は文語体で試してみましたよね。それから何年かかけて手直しがされて、最終的にいま使っている現代語訳で確定したのは、私が小学校6年生の時です。

わたしは父親が当時教会で働いていたので、生まれてからずーっと教会に住んでいましたので、ほとんど毎日ミサに与る環境で育ちました。小学校に入るとすぐに、前の典礼のミサで侍者をするために、カタカナで書いたラテン語の祈りを一生懸命暗記したりして侍者の練習をしていた頃に、ミサが日本語になり、何年かかけてそれがいまの形に集約していくのを目の当たりにしていました。その変化は、典礼の外の形が変わったという事実だけではなく、さらに重要なこと、教会の本質をわたしたちに教えてくれていると思います。

教会は、2千年の歴史を持っているけれども、常に古くてかつ常に新しい存在であるということをわたしたちに教えてくれています。

教会は、2千年前の最後の晩餐におけるイエス・キリストの、パンと葡萄酒を自らの御体と御血として制定された、あの瞬間から始まっていまに至るまで、あの出来事をずっと記念し続けています。その伝統に生き続けるという意味で、常に古いのが教会です。しかしその教会は常に新しくされる。常に新しくする原動力はどこにあるのか。それは人間の知恵ではない、人間の思いでもなく、それは聖霊の働きによって、教会は常に新しくされ続けています。ですから常に古いけれども常に新しい。その繰り返しを日々積み重ねて、いまに至っている、それがわたしたちの教会であります。

第二バチカン公会議もそうですが、常に新しくあるための聖霊の導きはそれなりの混乱を引き起こしますが、刷新と混乱を繰り返して常に古いけれども常に新しくある教会は、人の思いを反映しているのではなく、聖霊に導かれて歩みを続けています。

その意味で、教皇様がいま、みんなでシノドスの道を歩もうと、みんなで一緒になって道を歩んでいこうと呼びかけていることは、とても大切なことだと思います。教皇様は決して、みんなで会議を開いて多数決でものを決めてゆきましょうというようなことを言っているわけではないのです。そうではなくて、みんなで一緒になって、聖霊が何を語りかけているかを識別しようと、一緒になって、聖霊がわたしたちをどこへ導こうとしているのかを識別しようと、それを識別するために皆でともに歩んでいかなくてはならないと呼びかけておられます。

なぜならば、聖霊はどこで誰にどのように働きかけるのか、誰も知らないのです。典礼聖歌にあります。「風がどこから吹いてくるのか、人は誰も知らない」。どこから聖霊の風が吹いてくるのか、どこからどこに吹いて、誰にどう語りかけているのかを、誰も知らないのです。ですから、教会を作り上げている一人ひとりが、聖霊の導きを見極めるために、一緒になって分かち合い、支え合って、道を歩んでゆくことが不可欠だということを、教皇様はあたらめて強調し、シノドスの道をともに歩むことを呼びかけておられます。

教会は、常に古くて常に新しい。その教会の進むべき道を、神の民としてともに識別し、支え合って歩みをともにしようとしているのが、教会のいまの姿です。

その教会共同体の中で今日、堅信を受けられる皆さんは、まさしくその聖霊のお恵みを、堅信の秘跡を通じて受けられることになります。聖霊の恵みは、堅信を受けた瞬間に目に見えるように人が変わって、180度異なる新しい人になりましょうみたいな、何かそうゆうことがあったら嬉しいんですけれども、実はそうゆうことではないんですね。聖霊がわたしたちになにをどう語りかけているのか。それは、祈りのうちにしっかりと見極めるしかないんですけれども、一つだけわたしたちは確信をもって言えることがあります。それは、わたしが主イエスに従おうと決意している、人々に仕える王であるイエスに従っていこうと決意している。そのわたしの決意を後ろから支えてくれるのが、聖霊の恵みです。

聖霊はわたしたちが決意したとき、人間の力ではその決意を実際に行動に移す事には様々な困難があるのですけれど、わたしたちは聖霊がその決意を後ろから支えてくださっていること、そして正しい方向に向かって力づけてくださること、それを信じて生きていきたいと思います。

 

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