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2022年12月31日 (土)

週刊大司教第107回:神の母聖マリア

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間もなく2022年が終わり、新しい年がはじまろうとしています。その喧噪の中で、教会は未だ馬小屋の前にひざまずき、聖家族の喜びに与りながら、神のことばが受肉し、闇に輝く光が誕生したことを祝っています。

この一年、厳しい状況はなかなか好転せず、教会活動も完全にもとの形に戻すことができていません。この困難な中だからこそ、信仰を堅く守り、教会共同体との霊的な絆を再確認することが必要です。わたしたち一人ひとりの信仰の見直しの機会として、生かしていきたいと思います。

2023年が祝福に満ちた良い年となりますように祈ります。また2023年も皆様のお祈りと支えを、お願い申しあげます。

皆様、どうぞ良い年をお迎えください。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第107回、神の母聖マリアの主日のメッセージです。なお、1月1日は、午前10時から、神の母聖マリアの主日の大司教ミサが、Youtubeの関口教会のチャンネルから配信されます。

神の母聖マリア
週刊大司教第107回
2023年1月1日

新しい年、2023年が始まります。この3年間、わたしたちは感染症という大きな不安のうちに取り残され、まるで暗闇の中を手探りで歩いているかのような状況でした。加えて、東京教区にとっては姉妹教会であるミャンマーにおけるクーデターやその後の混乱、ロシアによるウクライナ侵攻とその後の戦争状態、さらには日本を含め世界各地での暴力的な蛮行の頻発。神が賜物として与えてくださったいのちに対する暴力が止むことはなく、あまつさえ暴力に対抗するためには暴力が必要だという機運まで高まってしまいました。暴力の結末は死であり、いのちの創造主である神への挑戦であることを、一年の初めにあらためて強調したいと思います。

主の御降誕から一週間、御言葉が人となられたその神秘を黙想し、神ご自身がそのあわれみといつくしみに基づいて自ら人となるという積極的な行動を取られたことに感謝を捧げる私たちは、暦において新しい一年の始まりのこの日を、人となられた御言葉の母である聖母に捧げ、神の母聖マリアを記念します。

ルカ福音は、「聞いたものは皆、羊飼いたちの話を不思議に思った」と簡潔に述べることで、驚くべき出来事に遭遇し、その意味を理解できずに翻弄され戸惑う人々の姿を伝えています。暗闇の中に輝く光を目の当たりにし、天使の声に導かれ聖家族のもとに到達したのですから、その驚きと困惑は想像に難くありません。しかし福音は、「マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」とも記します。神のお告げを受けた聖母マリアは、その人生において常に、神の導きに思いを巡らせ、識別に努められた、観想を深めるおとめであります。あふれる情報に振り回されながら現代社会に生きているわたしたちにとって、常に心を落ち着け、周囲に踊らされることなく、神の道を見極めようと祈り黙想する聖母の姿は、倣うべき模範であります。

教皇様は、世界平和の日にあたりメッセージを発表されています。コロナ後の世界の歩むべき道を見据えながら、連帯のうちに支え合って歩み続けることの必要性を説いておられます。わたしたちは、この新しい一年を、あらためて連帯を深め、互いに耳を傾けあい、支えながら、聖霊の導く先を探し求めながら歩むときにしたいと思います。

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2022年12月29日 (木)

一年の締めくくりに

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12月28日の一般謁見で教皇様ご自身が呼びかけられたように、名誉教皇ベネディクト十六世の健康状態が悪化しているようです。名誉教皇様のためにお祈りをいたしましょう。ベネディクト十六世は引退後、バチカン内のバチカン市国政庁近くにある修道院にお住まいでした。(上の写真は2007年のアドリミナで)

バチカンニュースによれば、教皇フランシスコの呼びかけは以下の通りです。

「すべての皆さんに、沈黙のうちに教会を支えている名誉教皇ベネディクト16世のために、特別な祈りをお願いしたいと思います。名誉教皇は重い病状にあります。ベネディクト16世の教会への愛のこの証しにおいて、主が最後まで彼を慰め、支えてくださるよう祈りながら、名誉教皇を思いましょう」

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一年の締めくくりとして、主の降誕の祝日の翌日、12月26日(月)の午前中、東京教区の聖職者の集いが行われました。伝統的に年の終わりには神に感謝をささげながら「テ・デウム」を歌うことから、この集まりも「テ・デウム」と呼ばれています。東京教区で働いてくださっている司祭を中心に、教皇大使もお招きして、聖体賛美式を行い、終わりには教皇大使の「日本語」でのあいさつに続いて、ラテン語で「テ・デウム」が歌われました。

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ラテン語の「テ・デウム」は、そもそも音程が高いので歌いにくいのはさておき、年々、諳んじて歌える神父様も減ってきていると、皆で歌う様子を耳にしながら感じます。

以下、聖職者の集いでの、わたしの説教の原稿です。

2022年東京教区テ・デウム
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2022年12月26日

主ご自身が幼子として誕生された受肉の神秘を祝う降誕祭は、あらためていのちの尊さをわたしたちに教えています。その小さないのちは、しかし、暗闇に輝く希望の光であることを天使たちは輝く栄光の光の中で羊飼いたちに告げています。暗闇が深ければ深いほど、小さな光であっても輝きを放つことができます。

いまわたしたちが生きている時代を見つめるならば、希望と絶望がまるで天秤にかけられて、時に希望が力を持つかと思えば、絶望へと大きくシフトすることを繰り返しています。残念なことに、世界は神からの賜物であるいのちへの尊厳を最優先とすることなく、いのちを生きているわたしたちは、危機に直面しながら、希望と絶望の繰り返しのなかでこの数年間を生きています。

特にこの三年におよぶ感染症の状況は、よい方向に向かっているとは言え、わたしたちを取り巻く暗闇を深めています。その暗闇がもたらす不安は、多くの人の心を疑心暗鬼の闇に引きずり込み、他者の叫びに耳を傾けることのない利己的な姿勢を強めさせています。感染症の状況が終わっていない闇の中で、わたしたちの姉妹教会であるミャンマーにおけるクーデター後の不安定な状況や、ウクライナにおけるロシアの侵攻がもたらす戦争状態によって、暗闇はさらに深められています。暗闇は世界から希望を奪っています。暴力が横行する中で、いのちを守るためには互いに助け合うことが必要であるにもかかわらず、深まってしまった利己的姿勢は、自らの命を守るために、暴力には暴力を持って対抗することを良しとする風潮すら生み出しています。しかし暴力の結末は死であり神の否定です。わたしたちはいのちを生かす存在であることを強調し、あくまでも愚直に暴力を否定したいと思います。暴力を肯定することは、いのちの創造主である神への挑戦です。

困難の中で、神父様方にはそれぞれの現場において、困難に直面している多くの方に、それぞれの方法で、手を差し伸べてくださったと思います。皆様のお働きに心から感謝申しあげます。また教区からお願いしたさまざまな感染対策をご理解くださり、協力してくださっていることに、心から感謝申し上げます。多くの人が集まる教会であるからこそ、責任ある隣人愛の行動を選択し続けたいと思います。

ご存じのように、いまわたしたちの国では宗教の意味やその存在が問われています。元首相の暗殺事件以来、宗教団体がその背景にあると指摘され、それが宗教全体の社会における存在の意味を問いかけるきっかけとなりました。

宗教は、いのちを生きる希望を生み出す存在であるはずです。その宗教が、信仰を強制して信教の自由を踏みにじったり、いのちを暴力的に奪ったり、生きる希望を収奪するような原因を生み出してはなりません。家庭を崩壊させたり、犯罪行為を助長したり、いのちを生きる希望を絶望に変えたり、人間の尊厳を傷つけるようなことは、わたしたち宗教者の務めではありません。教会はすべての人の善に資する存在として、この社会の現実のただ中で、いのちを生かす希望の光を掲げるものでなければなりません。

その中で、保守的傾向を強める社会全体の風潮に流されるように、異質な存在を排除することを良しとする傾きが、教会の中にも見受けられるようになりました。一見、教会の教えを忠実に守るかのように見せかけながら、その実、異質な存在への攻撃的な言動をすることが、神の愛とあわれみを証しするとは思えません。教会は一部の選ばれた人たちだけの安全地帯ではなく、神が創造されたすべてのいのちを抱合する共同体です。排除ではなく、ともに歩むことを求めている神の民です。他者を攻撃し、排除する様な価値観を、それも多様性の一つだと主張して承認させようとする考え方には同調することはできません。あらためて強調しますが、教会はどのような形であれ、神の賜物であるいのちに対する攻撃を、ゆるすことはできません。

教会のシノドスの歩みは続いています。新しい年のはじめ、2月から3月にかけて、各大陸別のシノドスが開催され、アジアの大陸シノドスも2月末にタイで開催されます。その後、今年の10月と、来年2024年10月の二会期に渡ってローマでの会議が開かれ、その結果を受けて教会は2025年の聖年を迎えます。聖霊が教会をどこへと導こうとしているのか、共同体の識別の道はこれからも続けられます。東京教区にあっても、今後も小グループによる分かち合いを通じた聖霊の導きへの識別を深め、互いに耳を傾けあい支え合うことが当たり前である教会共同体へと変貌していきたいと思います。これからも、シノドスに関する呼びかけは継続していきたいと思います。

この困難な状況のなかにあって、私たちは、互いに耳を傾け、ともに現実を解釈し、現代の時のしるしを見極め、聖霊の導きに勇気を持って身を委ねる共同体でありたいと思います。

この一年にいただいた神様の祝福と守り導きに感謝しながら、新しい年、2023年に向けて、ともに歩みを進めていくことができるように、聖霊の照らしと導きを祈りましょう。

皆様、この一年間、本当にありがとうございました。皆様のお祈りと、支えに、心から感謝です。新しい年も、神様の祝福に満ちた平和な一年となりますように。

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2022年12月25日 (日)

2022年主の降誕(日中のミサ)

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皆様、主の御降誕、おめでとうございます。

今年はクリスマスが日曜になりましたので、大勢の方がミサに与られる可能性がありました。しかし同時に、感染症の状況が完全に落ち着いていない中、まだまだ多少の入堂制限をせざるを得ず、特に信徒ではない方には、クリスマスの機会にミサに与るという事ができなかった方も大勢おられたかと思います。来年こそは、安心してともに集うことができる状況になることを、心から祈りたいと思います。

以下、本日午前10時、東京カテドラル聖マリア大聖堂での主の降誕日中ミサの説教原稿です。

主の降誕日中のミサ
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2022年12月25日

皆さん、主の降誕おめでとうございます。

誕生した幼子は、暗闇に響き渡る希望の声、神の言葉そのものでありました。ヨハネ福音は、神の言葉にどれほどの力があるのかを、「万物は言によってなった。言のうちに命があった」と記すことで明確に示しています。その上で、その命こそが暗闇に輝く光であることを明示します。

言葉は単なる音の羅列ではありません。どんなに科学技術が進んだとしても、機械が発する合成された音の羅列の「ありがとう」と、何か実際に手助けを受けて感謝の思いを込めて人間が発する「ありがとう」には、決定的な違いがあります。その違いを感じ取る能力を、わたしたちは持っているはずです。この二つの大きな違いは、音の羅列の背後に、心があるのか、ないのかの違いです。機械が生み出す「ありがとう」と言う音は、あくまでも音の羅列であり、その背後には、感謝の気持ちはありません。機械が感情を持っていないからです。しかし人間が心の底から発する「ありがとう」には、その人間の心から湧き上がる感謝が込められています。わたしたちはその違いを感じ取ることができます。

教皇ベネディクト16世は。使徒的勧告「主のことば」に、こう記しています。

「キリスト教は『神のことばの宗教』ですが、この神のことばは『書かれた、ものをいわないことばではなく、受肉した生きたみことば』です(7)」。

その上で教皇は、「教会とは、神のことばを聞き、のべ伝える共同体なのです。教会は、自分だけで生きることはできません。教会は福音によって生きています。また、教会は、自らが歩んでいく方向を、福音のうちに、つねに、そして新たに見出します(51)」と記しています。

わたしたちは、文字の羅列や音の羅列としての神のことばではなく、いま生きている、いまわたしたちと共にいる、神の思いが込められたことばと出会うことによって生かされます。そのことばを受け継いで、主の思いを込めて、そのことばを伝えていきます。むなしい音の羅列ではなく、神の思いを込めたことばを語るものでありたいと思います。

しかしながら現代社会は、特にインターネットが当たり前の存在となる中で、重さの全く伴わない、軽いことばが飛び交う時代となりました。時に匿名性の背後に隠れて、他者の真摯な思いを揶揄してみたり、批判してみたりする中で、炎上などと言うことが普通に言われるようになりました。

心のこもらない軽いことばは、しかし、時としてその字面だけで思いの外、強烈な負の力を発揮します。ネット上のやりとりから絶望に追いやられ、自ら、または他者のいのちへの暴力と発展することも珍しくなくなりました。

受肉されわたしたちと共に生きておられる神のことばは、神の愛といつくしみを具体化したことばです。自らが創造されたいのちを、区別することなく、無条件に愛しぬかれる神の愛のことばです。賜物であるいのちを生かすことばです。この現代社会にあって、この神のことばを受け、それを証ししようとするわたしたちは、自分が発することばに責任を持ちたいと思います。神の愛といつくしみを体現するものとして語りたいと思います。排除することばでなく受け入れることばを、いのちを生かすことばを、心の傷を癒やすことばを、絶望を希望に変えることばを、語るものでありたいと思います。

この3年間の新型コロナ感染症の状況が始まる以前から、世界はすでに非寛容さを深めていました。自らの存在を守るため、異質なものを排除しようとする傾向が強まっていました。教皇フランシスコが選出された後に、早い段階で訪れたのは、地中海に浮かぶイタリア領の島ランペデゥーザであったのはご記憶かと思います。そこで教皇は、アフリカから逃れたきた難民の方々と出会い、ミサを捧げられました。

あらためてそのときの教皇の説教のことばに耳を傾けたいと思います。

「居心地の良さを求める文化は、私たちを自分のことばかり考えるようにして、他の人々の叫びに対して鈍感になり、見栄えは良いが空しいシャボン玉の中で生きるようにしてしまった。これが私たちに、はかなく空しい夢を与え、そのため私たちは他者へ関心を抱かなくなった。まさしく、これが私たちを無関心のグローバル化へと導いている。このグローバル化した世界で、私たちは無関心のグローバル化に落ち込んでしまった」

教皇フランシスコは、自分の安心や繁栄ばかりを考える人間は、突けば消えてしまうシャボン玉の中で、むなしい繁栄におぼれているだけであり、その他者に対する無関心が、多くのいのちを奪っていると指摘し続けてきました。

パンデミックの中で、教皇は「調和のうちに結ばれた多様性と連帯」こそが、この閉塞した状況を打ち破る唯一の道であると強調されてきました。

しかし残念なことに、「調和のうちに結ばれた多様性と連帯」は実現していません。「調和・多様性・連帯」の三つを同時に求めることは簡単なことではなく、どうしてもそのうちの一つだけに思いが集中してしまいます。わたしたち人間の限界です。調和を求めるがあまりに、みんなが同じ様に考え行動することばかりに目を奪われ、豊かな多様性を否定したりします。共に助け合う連帯を追求するがあまり、異なる考えの人を排除したりして調和を否定してしまいます。様々な人がいて当然だからと多様性を尊重するがあまり、互いに助け合う連帯を否定したりします。

暴力が支配する世界で、いま、わたしたちの眼前で展開しているのは、調和でも多様性でも連帯でもなく、対立と排除と暴虐であります。教会は、いのちに対する暴力を否定します。教会は、いのちを排除するような行動を否定します。

受肉されわたしたちのうちに来られた神は、すべての人を照らす光です。すべての人の希望の光です。その救いの福音は、すべての人に告げしらされなくてはなりません。

神のこのすべてを包み込む愛といつくしみ、そのあわれみ深いまなざしを、一部の選ばれた人だけが独占することはゆるされません。

「調和のうちに結ばれた多様性と連帯」の道をたどる教会は、すべてのいのちが等しく大切にされ、尊重され、生かされ、生きる希望と喜びを得ることができるように努めなくてはなりません。そのためにこそ、神は自ら人となり、わたしたちの間にあって、いまもその力ある言葉を響き渡らせているのです。わたしたちがその言葉の響きを押しとどめてはなりません。

「山々を行き巡り、良い知らせを伝えるもの」となりましょう。

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2022年12月24日 (土)

2022年主の降誕(夜半のミサ)

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主の御降誕、おめでとうございます。

今年は、雪の中でのクリスマスを迎えておられる地域も多いのではないでしょうか。東京は晴れていますが、風がとても冷たいクリスマスとなりました。

東京カテドラル聖マリア大聖堂では、主の降誕夜半のミサとして夕方5時、7時、9時の三回のミサが捧げられ、私は夜9時のミサを司式させていただきました。例年ですと、大勢の方で聖堂は一杯になります。今年はなんとか定員近い人が入れるように、感染対策を緩和しましたが、それでもまだまだ以前とは異なります。それでも大勢の方に参加していただいて、感謝いたします。

明日25日は日中のミサ、東京カテドラル聖マリア大聖堂は午前8時と10時で、わたしは10時のミサを司式いたします。今夜のミサと明日のミサとも、関口教会のYoutubeチャンネルでご覧いただくことができます。

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以下、24日午後9時の主の降誕夜半のミサの説教の原稿です。

主の降誕(夜半ミサ)
2022年12月24日午後9時
東京カテドラル聖マリア大聖堂

皆様、主の降誕、おめでとうございます。

栄光の輝きの中で誕生した小さないのちは、暗闇を打ち破り、喜びと希望を生み出す源である、神ご自身でした。栄光に輝く神は、ご自分が賜物として人類にあたえたいのちが、どれほど尊いものであるのかをあかしするために、自らがそのいのちを生きるものとなられました。神が望まれる平和の支配は、いのちを守ることによってのみ成し遂げられることを、神の受肉の神秘は私たちに示しています。私たちの間に来られ、私たちと共にいてくださる神は、「平和の君」であります。

今年の11月の第6回「貧しい人のための世界祈願日」に発表された教皇フランシスコのメッセージには、「愚かな戦争が、どれほど多くの貧しい人を生み出していることでしょう。どこを見ても、いかに暴力が、無防備な人やいちばん弱い人にとって打撃となるかが分かります。数えられないほどの人が、とりわけ子どもたちが、根ざしている地から引きはがして別のアイデンティティを押しつけるために追いやられています」と、今の世界の有り様を悲しむ言葉が記されています。

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この3年間、私たちは感染症と対峙する中で、生命の危機の暗闇を生き抜いてきました。まだ多少の不安は残されているものの、2020年の初め頃に比べれば、どのように行動するべきなのか経験を積み重ね、専門家の知見も深まっています。いわゆるパンデミックによる暗闇は、徐々に明けつつあります。しかしその間に、今度は暴力を直接行使するいのちの危機が始まってしまいました。すでに2021年2月には、ミャンマーでクーデターが起こり、自由を求める多くの人への暴力的圧迫が今でも続いています。世界に様々な暴力的な出来事がある中で、しばしばミャンマーに触れるのは、東京のカトリック教会とミャンマーのカトリック教会が、長年の姉妹関係にあるからに他なりません。わたしたちは、いのちの危機に直面する兄弟姉妹を目前にして、沈黙しているわけにはいきません。

すでにそういう状況であったのに、今度は2022年2月に、ロシアという大国によるウクライナ侵攻が始まり、今でも戦争状態が続いています。平和的解決を求める声が国際社会に響き渡っているものの、今の時点でそれが実現する見込みはなく、それどころか欧州における戦火の拡大すら懸念されています。

先日、ウクライナの平和を願いながら祈りを捧げた教皇様は、祈っても呼びかけても平和が実現せず、多くの人が生命の危機に直面している現実を目の当たりにしながら、涙されました。

2000年前、自ら人となり私たちと共におられることを具体的にあかしされた神ご自身も、まさしく同じ思いであったのだと思います。

旧約の歴史を通じて、預言者や様々な人の言葉と行いを通じて、神はご自分の平和を確立するために働きかけてこられた。にもかかわらず、人類はその呼びかけに耳を傾けず、私利私欲を追求し、暴力に明け暮れ、いのちを奪い合い、対立しあっている。その愚かさに業を煮やされた神は、ご自分が直接行動し、歴史に介入する道をお選びになりました。

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教皇様は,先ほどの「貧しい人のための世界祈願日」のメッセージの中で、互いに助け合うことの重要さを説いた後で、こう述べておられます。

「使徒パウロはキリスト者に愛のわざを強いているわけではないことです。・・・むしろ、彼らの貧しい人への配慮と気遣いに、その愛の「純粋さを確かめ」ようとしています。パウロが求めることの根底にあるのは、もちろん具体的な援助の要請ですが、しかしながら使徒の意図はそれ以上のものです。・・・貧しい人に寛大であることへの最大の動機づけは、ご自分を貧しくなさろうとした神の御子の選びにあるのです(6)」。

目の前で展開するあまりにも愚かな人類の行動が、尊い賜物であるいのちを危機に陥れ、平和の確立を遠い夢物語にしている。その現実を目の当たりにしながら、神は、全てをあきらめてしまうのではなく、自ら行動して人類と共にいるという選択をされました。私たちが語る連帯の根本は、この神ご自身の選択にあります。わたしたちは、いのちをあたえてくださった神ご自身がそう選択され行動されたのだからこそ、それに倣って連帯のうちに支え合うのです。

業を煮やして私たちのもとに来られた神ご自身が、両親の助けがなければ生き抜くことができないであろう幼子のいのちのうちに宿られたからこそ、いのちの尊さを繰り返し強調するのです。

この3年間、大げさに聞こえるのかもしれませんが、私たちはいのちの危機の暗闇で生きてきました。暗闇に生きるものは,先行きが見えない不安から、なんとしてでも光を手にしようともがきます。不安の継続する時間が長くなればなるほど、少しでも光のようなものが目に入れば、中身を良く吟味することなく飛びついてしまう誘惑に駆られます。加えて、この暗闇の中で、今度は暴力的な戦争や事件が続いて起こり、その状態はさらに深まる様相を呈しています。ますます持って、わたしたちはいのちを守ろうとして、心は消極的になっていきます。

そのような心理状態の中で、いつしか,暴力に対抗するためには暴力が必要だといざなう光を手にしたとしても,その光の存在に疑問を抱かなくなってしまいます。暴力を押さえ込むためには多少の暴力はかまわない。いのちを守るためには多少の犠牲はかまわない。

歴史の中で,わたしたちは同じような選択を繰り返してきたのでしょう。そのたびごとに、愚かな選択を重ねる私たち人類を目前にして、いのちを賜物として与えられた神ご自身も涙されたやもしれません。歴史はわたしたちに教えています。暴力の行き着く先は死です。暴力はいのちのあたえ主である神への挑戦です。

教会が今歩んでいるシノドスの道は、私たちに教会が現代社会のただ中にあってどのような存在であるべきなのかを,あらためて見つめ直すように,私たちを招いています。

その中心になるのは連帯することです。連帯するためには、互いの声に耳を傾け合う姿勢が必要であり、互いの存在への思いやりの心が不可欠であり、それは全て、お互いのうちに宿っている神からの賜物であるいのちへの尊敬に基礎づけられています。

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わたしたちはこの暗闇の中で、繰り返し響き渡る悲嘆の声に耳を傾け、互いのいのちへの尊重の内に思いやり、心を遣い、互いに助け合いながら、共にいてくださる主御自身があたえてくださるいのちの希望の光を、高く掲げるものでありましょう。わたしたちの努めは、幼子として誕生した主イエスがもたらしてくださった神の栄光の光を受け継いで、それを一人でも多くの人の前で輝かせることであり、互いに連帯し助け合い支え合いながら、いのちを守り抜くことであります。

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2022年12月17日 (土)

週刊大司教第一〇六回:待降節第四主日

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待降節も第四週となりました。今年は暦の関係で、降誕祭が日曜日となりますから、待降節第四週も7日間あります。例年ですと第四週は付け加えのように数日と言うこともありますが、今年は、降誕祭への霊的な準備の時間は7日間も残されています。この時間を有効に活用して、霊的準備を深めましょう。

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2017年12月16日に、東京大司教として着座し、故岡田武夫大司教様から引き継いで、5年が経ちました。あまりたいしたことを成し遂げることのできない5年間でした。多くの方に祈りを持って支えていただいていることに、心から感謝申しあげます。特に、日々のミサを始め様々な機会にお祈りいただいている東京教区の皆様には、心から感謝申しあげるとともに、今後とも私が司教職をふさわしく果たすことができるように、お祈りをお願いいたします。またいまでも続けてお祈りくださっている新潟教区の多くの方にも、感謝いたします。

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降誕祭に先立つ9日間は、伝統的にノベナの祈り(9日間の祈り)がささげられてきました。その期間は、例えばミサのアレルヤ唱でも壮大な内容が語られますが、同じ内容は晩の祈りの聖母讃歌にも使われます。またフィリピンでは、ノベナのミサが早朝にささげられる伝統があり、シンバン・ガビ・ミサと呼ばれています。東京教区内の各地でもこのミサが捧げられていますが、諸事情から早朝ではなく、その前の晩にささげられることが多いかと思います。公式な統計でも東京教区内だけで4万人近いフィリピン出身の方がおられます。目黒教会で行われる晩のシンバン・ガビ・ミサを、東京に来た当初から、その一日を担当させていただいています。今年も、12月15日夜7時から、目黒教会での英語ミサを司式しました。コロナ禍での制限がまだあるため、聖堂は一杯とは行きませんが、大勢が参加されていました。また着任されたばかりだと言う新しい駐日フィリピン大使もミサに参加されました。フィリピンと日本ではキリスト教の文化への浸透の度合いは異なりますが、こういった信心の業には目を向けて、どういった霊的準備ができるのか、この国での可能性を考え深めることができればと思います。

以下、本日午後6時配信、週刊大司教第106回、待降節第四主日のメッセージ原稿です。

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週刊大司教第106回
2022年12月18日

「天よ、露をしたたらせ、雲よ、義人を降らせよ。地よ開いて救い主を生み出せ」

イザヤ書45章のこの言葉を入祭唱とする待降節第四主日は、わたしたちがもっとも待ち望んでいること、すなわち救い主の誕生についてやっと直接に触れています。主の降誕を待ち望んでいるわたしたちは、雲が露をこの地上にしたたらせるように、神の恵みがわたしたちを包み込み、そのわたしたちの間から救い主が誕生するのだと言うことを明確にします。すなわち、「神はわれわれとともにおられる」のです。

マタイ福音は、イエス・キリストの誕生の次第を記しています。救い主の母となることを天使に告げられた聖母マリアが、その事実を冷静に受け止め、謙遜のうちにしかし力強く他者を助ける行動をとり続けたように、夫であるヨセフも、天使によって告げられた神の思いを受け止め、それに信頼し、謙遜のうちに行動します。この二人の謙遜さ、勇気、そして神への信頼における行動があったからこそ、救い主の誕生が実現します。天から露のように降り注ぐ神の恵みは、それを受けた人の謙遜さ、勇気、信頼を通じた行動によって、実を結びます。わたしたちは、神が降り注がれている恵みを無駄にしてはいないでしょうか。

この3年近くにおよぶ感染症の暗闇の中で、わたしたちに歩み続ける勇気を与えてくださったのは、神がともにおられるという確信でした。神はご自分が創造されたいのちを見捨てることがない。常にわたしたちとともに歩んでくださる。旅する神の民の真ん中に、御聖体とみ言葉を通じて、主は現存される。なぜならば、神は「インマヌエル」だからです。ともにおられる神だからです。

間もなく降誕祭を迎えます。主がわたしたちと共にいてくださる事実を、降誕祭の喜びのうちに再認識を、主への信頼のうちに、その希望の光を暗闇の中でともに掲げて歩み続けましょう。

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2022年12月14日 (水)

日本聖書協会クリスマス礼拝@銀座教会

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一般財団法人日本聖書協会(JBS)は、聖書協会世界連盟(UBS)に所属している140を超える聖書普及のための団体の一つで、「聖書翻訳、出版、頒布、支援を主な活動として全世界の聖書普及に努めて」ている組織で(ホームページから)、基本的にはプロテスタント諸教派が中心になって運営されています。もちろん聖書の普及は福音宣教に欠かせない重要な役割であり、カトリック教会の体力がある国では、カトリック教会としても聖書の翻訳や普及活動に携わっていますが、日本を含めた宣教地では、カトリック教会も聖書協会の活動に協力しながら、一緒になって聖書の普及に努めてきました。

特に、現在カトリックの典礼などを活用させていただいている新共同訳の事業を通じて、現在の聖書協会共同訳に至るまで、そのかかわりは深くなっています。

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昔、わたし自身もガーナで働いていたときに、首都アクラにあるガーナ聖書協会に、しばしば聖書の買い付けに出掛けたことを懐かしく思い出します。私が働いていた部族の言葉そのものの翻訳はありませんでしたが、それと同じ系統の言葉での翻訳が新約聖書にあり、それを大量に買っては、訪れる村で信徒の方に配布していました。(なお旧約は、英語の聖書から、その場でカテキスタが翻訳してました)

そういった協力関係もあり、日本聖書協会の理事会には、司教団から代表が一人理事として加わっていますが、ありがたいことに司教団の代表の理事は、聖書協会の副理事長を任ぜられています。現在は私が、司教団を代表して理事として加わり、副理事長を拝命しています。

そのような関係から、先日、12月8日の午後、聖書協会の主催になるクリスマス礼拝で、はじめて説教をさせていただきました。礼拝は数寄屋橋の近くにある日本基督教団銀座教会。ここは有楽町の駅の近くの表通りに面したビルの中にあり、正面に立派なパイプオルガンがある教会です。

感染対策のため、入場制限がありましたが、多くの方が集まってくださり、その中にはカトリックの方も多くお見えでした。

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以下、当日の説教の原稿です。

日本聖書協会クリスマス礼拝
銀座教会
2022年12月8日15時
「光は暗闇に輝いているのか」 ルカ福音2章8節から12節

世界はあたかも暴力に支配されているかのようであります。この数年、わたしたちはただでさえ感染症の拡大の中でいのちの危機に直面し続けています。この状況から抜け出すためにありとあらゆる努力が必要なときに、あろうことか、神からの賜物である人間のいのちに暴力的に襲いかかる理不尽な事件が続発しています。

例えば2021年2月に発生したクーデター後、ミャンマーでは政治的に不安定な状況が継続し、思想信条の自由を求める人たちへの圧迫が横行し、義のために声を上げる宗教者への暴力も頻発しています。2022年2月末には、大国であるロシアによるウクライナ侵攻が発生し、いまに至るまで平和的解決は実現せず、戦争に翻弄されいのちの危機に多くの人が直面しています。 この状況の中で、戦いに巻き込まれたり、兵士として戦場に駆り出されたりして、いのちの危機に直面する多くの人たち。独裁的な権力のもとで、心の自由を奪われている多くの人たち。様々な理由から安住の地を追われ、いのちを守るために、家族を守るために、世界を彷徨い続ける人たち。乱高下する経済に翻弄され、日毎の糧を得る事すら難しい状況に置かれ、困窮している多くの人たち。世界中の様々な現実の中で、いま危機に直面している多くのいのちに思いを馳せたいと思います。尊いいのちはなぜこうも、力ある者たちによってもてあそばれるのでしょうか。

理不尽な現実を目の当たりにするとき、「なぜ、このような苦しみがあるのか」と問いかけてしまいますが、それに対する明確な答えを見出すことができずにいます。同時に、苦しみの暗闇のただ中に取り残され彷徨っているからこそ、希望の光を必要としています。その光は闇が深ければ深いほど、小さな光であったとしても、希望の光として輝きを放ちます。2000年前に、深い暗闇の中に輝いた神のいのちの希望の光は、誕生したばかりの幼子という、小さな光でありました。いかに小さくとも、暗闇が深いほど、その小さないのちは希望の光となります。誕生した幼子は、闇に生きる民の希望の光です。

この2年半の間、様々ないのちの危機に直面する中で、カトリック教会のリーダーである教皇フランシスコは、互いに連帯することの重要性をたびたび強調されてきました。感染症が拡大していた初期の段階で、2020年9月2日、感染症対策のため一時中断していたバチカンにおける一般謁見を再開した日には、集まった人たちにこう話されています。

「このパンデミックは、わたしたちが頼り合っていることを浮き彫りにしました。わたしたちは皆、良くも悪くも、互いに結びついています。この危機から、以前よりよい状態で脱するためには、ともに協力しなければなりません。・・・一緒に協力するか、さもなければ、何もできないかです。わたしたち全員が、連帯のうちに一緒に行動しなければなりません。・・・調和のうちに結ばれた多様性と連帯、これこそが、たどるべき道です。」

しかし残念なことに、「調和のうちに結ばれた多様性と連帯」は実現していません。「調和・多様性・連帯」の三つを同時に求めることは簡単なことではなく、どうしてもそのうちの一つだけに思いが集中してしまいます。わたしたち人間の限界です。調和を求めるがあまりに、みんなが同じ様に考え行動することばかりに目を奪われ、豊かな多様性を否定したりします。共に助け合う連帯を追求するがあまり、異なる考えの人を排除したりして調和を否定してしまいます。様々な人がいて当然だからと多様性を尊重するがあまり、互いに助け合う連帯を否定したりします。

暴力が支配する世界で、いま、わたしたちの眼前で展開しているのは、調和でも多様性でも連帯でもなく、対立と排除と暴虐であります。暴力が世界を支配するかのような現実を目の当たりにし、多くの命が直面する悲劇を耳にするとき、暴力を止めるためには暴力を使うことを肯定してしまうような気持ちへと引きずり込まれます。しかし暴力の結末は死であり神の否定です。わたしたちはいのちを生かす存在であることを強調し、暴力を否定したいと思います。暴力を肯定することは、いのちの創造主である神への挑戦です。

ローマ教皇就任直後の2013年7月に、地中海に浮かぶイタリア領のランペドゥーザ島を訪れ、アフリカから流れ着いた難民たちとともにミサを捧げたとき、教皇は次のように説教で語りました。

「居心地の良さを求める文化は、私たちを自分のことばかり考えるようにして、他の人々の叫びに対して鈍感になり、見栄えは良いが空しいシャボン玉の中で生きるようにしてしまった。これが私たちに、はかなく空しい夢を与え、そのため私たちは他者へ関心を抱かなくなった。まさしく、これが私たちを無関心のグローバル化へと導いている。このグローバル化した世界で、私たちは無関心のグローバル化に落ち込んでしまった」

教皇フランシスコは、自分の安心や反映ばかりを考える人間は、突けば消えてしまうシャボン玉の中で、むなしい繁栄におぼれているだけであり、その他者に対する無関心が、多くのいのちを奪っていると指摘し続けてきました。

2019年11月に日本を訪れたときには、東京で東北の大震災の被災者と出会い、「一人で「復興」できる人はどこにもいません。だれも一人では再出発できません。町の復興を助ける人だけでなく、展望と希望を回復させてくれる友人や兄弟姉妹との出会いが不可欠です」と述べて、連帯こそが希望と展望を生み出すのだと強調されました。

わたしは、1995年に初めてルワンダ難民キャンプに出掛けて以来、昨年まで、カトリック教会の海外援助人道支援団体であるカリタスに、様々な立場で関わってきました。その中で、一つの出会いを忘れることができません。

2009年に、カリタスジャパンが支援をしていたバングラデシュに出掛けました。土地を持たない先住民族の子どもたちへの教育支援を行っていました。その支援先の一つであるラシャヒと言う町で、息子さんが教育支援を受けて高校に通っている家族を訪ねました。不安定な先住民族の立場でありとあらゆる困難に直面しながらも、その家族のお父さんは、私が見たこともないような笑顔で、息子さんの将来への明るい希望を語ってくれました。その飛び抜けて明るい笑顔に接しながら、95年にルワンダ難民キャンプで、「自分たちは世界から忘れ去られた」と訴えてきた難民のリーダーの悲しい表情を思い出していました。

人が生きる希望は、自分に心をかけてくれる人がいるという確信から、支えてくれる人がいるという確信から湧き上がってくるのだと言うことをその出会いから学びました。

「いのち」の危機に直面する人たちに関心を寄せ、寄り添い、歩みをともにするとき、そこに初めて希望が生まれます。衣食住が整うことは不可欠ですが、それに加えて、生きる希望が生み出されることが不可欠です。衣食住は第三者が外から提供できるものですが、希望は他の人が外から提供できるものではありません。希望は、それを必要とする人の心から生み出されるものであり、そのためには人と人との交わりが不可欠です。

まさしくこの数年間、感染症による先の見えない暗闇がもたらす不安感は、世界中を「集団的利己主義」の渦に巻き込みました。この現実の中では、「調和、多様性、連帯」は意味を失い、いのちが危機にさらされ続けています。

この世界に必要なのは、互いの違いを受け入れ、支え合い、励まし合い、連帯してともに歩むことです。そのために、神の愛を身に受けているわたしたちは、他者のために自らの利益を後回しにしてでさえ、受けた神の愛を、多くの人たちと分かちあう生き方が必要です。人と人との交わりを通じて、支え合いを通じて、初めていのちを生きる希望が心に生み出され、その希望が未来に向けての展望につながります。

暗闇の中に誕生した幼子こそは、神の言葉の受肉であり、神の愛といつくしみそのものであります。そのあふれんばかりの愛を、自らの言葉と行いで、すべての人のために分かち合おうとする神ご自身です。わたしたちはその神ご自身の出向いていく愛の行動力に倣いたいと思います。

いのちの尊厳をないがしろにする人間の暴力的な言葉と行いにひるむことなく立ち向かい、神が望まれる世界の実現の道を模索することは、いのちを賜物として与えられた、わたしたちの使命です。

いまこの国で宗教の存在が問われています。自戒の念を込めて自らの有り様を振り返る必要がありますが、元首相の暗殺事件以来、宗教団体の社会における存在の意味が大きく問われています。言うまでもなく、どのような宗教であれ、それを信じるかどうかは個人の自由であり、その信仰心の故に特定の宗教団体に所属するかしないかも、どう判断し決断するのかという個人の内心の自由は尊重されなくてはなりません。

そもそも人は、良心に反して行動することを強いられてはなりませんし、共通善の範囲内において、良心に従って行動することを妨げられてはなりません。(カテキズム要約373参照)。

宗教は、いのちを生きる希望を生み出す存在であるはずです。その宗教を生きる者が、いのちを奪ったり、生きる希望を収奪するような存在であってはなりません。人間関係を崩壊させたり、犯罪行為に走ったり、いのちの希望を奪ったりすることは、宗教の本来のあり方ではありません。

わたしたちはどうでしょう。キリストはいのちを生かす希望の光であり、わたしたちはそもそもこのいのちを、互いに助け合うものとなるようにと与えられています。わたしたちはすべての人の善に資するために、この社会の現実のただ中で、いのちを生かす希望の光を掲げる存在であり続けたいと思います。

神の言葉である御子イエスが誕生したとき、暗闇に光が輝きました。イエスご自身が暗闇に輝く希望の光であります。天使は、あまりの出来事に恐れをなす羊飼いたちに、この輝く光こそが、暗闇から抜け出すための希望の光であると告げています。わたしたち、イエスをキリストと信じるものは、その希望の光を受け継いで、暗闇に輝かし続けるものでありたいと思います。不安に恐れおののく心を絶望の闇の淵に引きずり込むものではなく、いのちを生きる希望を生み出し、未来に向けての展望を切り開くものでありたいと思います。輝く光であることを、自らの言葉と行いをもってあかしするものでありたいと思います。

祈ります。いのちの与え主である天の父よ。暗闇の中で小さな希望の光を輝かせたイエスの誕生に思いを馳せなが、わたしたちが暗闇を歩む現代世界にあって、互いに支え合い、連帯し、歩みをともにすることで、あなたが与えてくださった賜物であるいのちを、喜びと希望を持って生きることができますように。わたしたちに希望の光を掲げる勇気を与えてください。

ビデオは日本聖書協会のYoutube チャンネルに掲載されています。こちらのリンクです

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2022年12月10日 (土)

週刊大司教第一〇五回:待降節第三主日A

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待降節の第三主日は、喜びの主日です。

12月8日、無原罪の聖母の祝日に、イエスのカリタス会で3名のシスターの初誓願と3名のシスターの終生誓願宣立式が行われ、サレジオ会の浜口管区長様と共に司式させていただきました。関係する20名近い司祭も参加し、まあ誓願者の6名のうち5名がベトナム出身ということもあり、ベトナムからの家族に加え、ちょうど訪日中であったベトナムのステファン・ティエン司教様も参加してお祝いしてくださいました。おめでとうございます。

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以下、本日午後6時配信の週刊大司教第105回、待降節第三主日のメッセージ原稿です。

待降節第三主日A
週刊大司教第105回
2022年12月11日

待降節は後半に入り、主の降誕を待ち望む喜びに焦点が当てられます。特に第三主日は喜びの主日とも呼ばれ、ミサの入祭唱には、フィリピ書4章から、「主にあっていつも喜べ。重ねて言う、喜べ。主は近づいておられる」と記されています。典礼ではバラ色の祭服が使われることもあります。降誕祭を間近に控えて、主とともに歩む喜びを心に刻む主日です。

先週に続いて、マタイ福音は洗礼者ヨハネについての話を記しています。先週はヨハネが、来られるであろう救い主について、また自分と救い主との関係について語っていましたが、今日の福音では、イエスがご自分が示される栄光と救いの業におけるヨハネの役割について語っています。

ヨハネが預言者として人々に伝えたことは、イエスご自身の業によってあかしされました。イエスはそのことを、「見聞きしていることをヨハネに伝えなさい」とヨハネの弟子に指示することで、洗礼者ヨハネが果たした役割の偉大さをあらためて確認します。

教会は洗礼者ヨハネに倣い、現代世界の中で預言者としての役割を果たし続けています。教会が語るこの預言の言葉は、具体的に教会共同体の業を通じてあかしされます。教会は社会の現実のなかにあって、イエスの福音の喜びをあかしする存在でありたいと思います。様々な困難に直面する人たちとともに歩む教会でありたいと思います。神が与えられたこの尊いいのちが、例外なく大切にされ、その尊厳が守られる社会を生み出す原動力でありたいと思います。

わたしたちは、主イエスの福音を具体的に生きるとき、喜びに満たされます。イエスとの個人的出会いが心に喜びをもたらすこと、そしてその喜びを多くの人、特に様々な困難を抱えている人と分かち合うことがさらなる喜びをもたらすこと。教皇フランシスコは「福音の喜び」においてそのことを繰り返し指摘されました。

悲しみや怒りではなく、喜びのうちに福音を告げしらせるものであり続けましょう。

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2022年12月 3日 (土)

週刊大司教第百四回:待降節第二主日A

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待降節第二主日です。12月の最初の主日は、「宣教地召命促進の日」と定められています。

中央協議会のホームページには、こう記されています。

この日、わたしたちは、世界中の宣教地における召命促進のために祈り、犠牲をささげます。当日の献金はローマ教皇庁に集められ、全世界の宣教地の司祭養成のための援助金としておくられます。

またこういった活動を管轄する司教協議会の部署「教皇庁宣教事業」が、ホームページを開設していますので、ご覧ください。日本の「教皇庁宣教事業」の担当責任者は東京教区の門間直輝神父様です。このホームページに、教皇庁宣教事業の活動の詳細な解説が掲載されていますので、ご一読ください。

なお東京教区では宣教地召命促進の日にあわせて、聖体礼拝をライブ配信します。これはライブだけで、後刻ご覧いただくことはできません。12月4日(日)の19時(午後7時)から二〇分間です。こちらのリンクから、東京教区のホームページをご覧ください。

以下、本日午後6時配信の週刊大司教第一〇四回、待降節第二主日のメッセージ原稿です。

待降節第二主日A
週刊大司教第104回
2022年12月4日

マタイによる福音は、主の来臨を告げる洗礼者ヨハネについて記しています。

「荒れ野で叫ぶ声」は、ただむなしく響き渡る夢物語ではなく、人々の心に突き刺さる力ある声でありました。その厳しさの故に、後に洗礼者ヨハネは捕らえられ殉教の死を遂げることになります。洗礼者ヨハネが告げる言葉には神の力が宿っており、それを受け入れることのできないものは、いのちに対する攻撃という負の力を持って、神の言葉を否定しようとしました。

教会は、その誕生の時から聖霊によって導かれ、聖霊によって力づけられながら、その時代における預言者としての務めを果たそうとしてきました。

教会憲章(12)には、「神の聖なる民は、キリストが果たした預言職にも参加する。それは、とくに信仰と愛の生活を通してキリストについて生きたあかしを広め、賛美の供え物、すなわち神の名をたたえる唇の果実を神にささげることによって行われる」と記されています。

わたしたちは現代社会を旅する神の民として、常に恐れることなく神の言葉をあかしする預言者でありたいと思います。

待降節第二主日は、宣教地召命促進の日とされています。

宣教地において、すべての信徒が福音をあかしする使命を果たせるよう、また宣教に従事する司祭・修道者がよりいっそう増えるよう祈ることは、とても大切なことです。この日、わたしたちは、世界中の宣教地における召命促進のために祈り、犠牲をささげます。当日の献金はローマ教皇庁に集められ、全世界の宣教地の司祭養成のための援助金としておくられます。日本も宣教地の一つですから、この日には日本における召命促進のためにもお祈りください。

教会が神の民としてふさわしく預言者としての使命を果たしていくことができるように、豊かな召命が与えられるよう祈り続けましょう。

 

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